2019年12月15日日曜日

意識できない感情

 今年は慌ただしかった。8月に父親が亡くなり、11月に母親が亡くなった。それぞれ享年が96歳と93歳なので、まあ大往生と言えば良いだろう。わずか3ヶ月後に一見父を追うように母が亡くなったので仲の良い夫婦ですねと言ってくれる人もいるのだが、実態はそうでもない。同じ老人ホームに暮らしながら、最後の1、2年間母はほとんど父に関心がなく、会おうともしなかった。
 息子である僕は僕で、それほど親と親密な関係ではなかった。ひどい仲違いをしているわけではないが、少なくとも高校生か大学生の頃からは親を鬱陶しく感じていた。学生時代に一人暮らしを始めてからは滅多に親元に寄り付かなかったし、たまに里帰りしてもそそくさと普段生活する家に戻ってしまうことが通常であった。歳を取るにつれ、若い頃は強面だった父親が柔和になってきたのだが、その反対に母親は些細なことで人を責める傾向が強まった。そのため僕は実家に帰り母と顔を合わせるたびに喧嘩をした。
 10年くらい前からであろうか、父親が次第に金銭管理や身辺管理が怪しくなり始めた。母は父に比べればしっかりしていたが、3、4年くらい前から生活の至る所できちんと暮らせているかどうか怪しくなってきた。誠心誠意面倒を見るつもりは毛頭なかったが、それでも親に自立して暮らす力がなくなるにつれ放っても置けず、僕が、妻の協力も得ながら、様々な生活のための手配を代行するようになった。やがて父親が、そして母親も、ほんの5分前のことも覚えていない状態になっていった。
 8月に父が死んだ時、少し寂しいなとは思うものの、ほとんど感慨はなかった。初めて自分の責任で行う葬儀や様々な後始末をそつなく片付けていくことに気を取られる数ヶ月間であった。
 父の死はかなり急で呆気なかったのだが、母は3ヶ月間の入院の末に死んだ。最後の1、2週間は刺激すれば辛うじて目を開け、こちらを見る程度の状態が続いた。本人の様子を見、検査データなども説明され、間も無く死ぬということは明確に認識していた。最後の瞬間には立ち会っていたのだが、心電図モニターを眺めながら「あ、止まったな」と冷静に考えていた。ここ20年ほど生き死にに関わることはなくなっていたが、僕も一応医者の端くれである。一般の人よりは死に向かっている状況を理解する力はあると思う。
 病院で患者が亡くなると、必ず行われる儀式がある。主治医(またはその代行)が脈と呼吸が止まり瞳孔の対光反射がないことを確認した上で、死亡したことと死亡時刻を宣告するのである。この死亡時刻というものは、厳密な意味での死亡した時刻ではない。死亡を「確認した」時刻である。母親が死んだ時は当直医が立ち会っていたが、間も無く主治医が来るので待ちましょうということになり、その当直医が死亡宣告をすることはなかった。しばらくしてから出勤したばかりの主治医が慌てて部屋にやってきた。そして、おもむろに聴診器を当て、手を取って脈を確かめ、目を覗き込んで対光反射を確認するやや儀式めいた様子を、僕は少し面白がりながら見ていた。主治医が「7時51分、ご臨終です」と述べた時に思いがけないことが起こった。強く涙が込み上げてきたのである。本当に涙を流すことはなかったのだが、主治医に礼の言葉をまともに述べられなくなっていた。僕は「何が起こったんだろう?」と人ごとのように驚いていた。実際、1分も経たないうちに収まり、その後自分の心の中を覗き込んでも取り立てて感情らしきものは見当たらなかったのである。
 告別式はほとんど家族のみで小ぢんまりと行なったのだが、母が暮らしていた老人ホームの職員が2人参列してくれた。式が終わり、その2人にお礼を述べようとしたら、またもや涙がこみ上げまともに言葉を発することができない状態になった。おそらく相手は悲しみに暮れる遺族という受け止め方をされただろうと思うのだが、当人の心の中には「おやおや、一体どうしたんだい」と半ば驚き半ば呆れた様な面持ちの僕自身がいるだけだった。この時も1分後には落ち着いており、悲しみや寂しさという感情は感じることが出来なかった。
 霊柩車に同乗し、父の時と同じ道を辿って斎場に向かった。この日も、3ヶ月前に父を見送った日と同じく晴れていた。ただ、父の時は濃い青空から強い夏の日差しが降り注ぎ、周囲の光景もコントラストが明確で鮮やかな色調だった。母の時は晴れてはいるものの雲の多い冬空で、周囲の光景もどこか曇った色調で街並みはくすんで見えた。僕は、ぼやけた街並みを眺めながら、先程の不思議な体験についてぼんやり考えた。
 その日、僕は涙が込み上げ言葉を発しにくくなるという明確な体験を2回経験した。してみると、僕には母親の死を悲しむという人並みの感情があったのだろうか。しかし、早朝に病院へ呼び出されてから日が暮れるまでの間、明確な悲しみを自覚することは全くなかった。涙がこみ上げるという強く明確な「情動反応」はベースとなる「情動」があるからだというのであれば、その時僕は悲しんでいたことになる。その「情動」は一体どこに隠れていたのだろうか。自閉症を伴う人たちは自分の気持ちを自覚することが難しいことが多いとよく言われるが、それと似たような状態なのだろうか。あるいは、「情動反応は」明確な「情動」がなくても、何らかの社会的な意味を伴った記号としての体験に対して反射的に引き起こされるものなのだろうか。目の前に突然虫が飛んできたときに、反射的に目を閉じたり手で振り払おうとしたりするのと同じようなレベルで「情動反応」が生じることもあるのだろうか。考えても解けないこの謎は、半月以上経った今でもなんとなく頭に引っかかっている。

2019年12月1日日曜日

意味には意味があり、価値には価値があるのか?

「学習すればロボットが感情を持つ時代が来るのかなあ?」
とユリさんが言った。ユリさんとは僕の妻である。その時、僕たちはロボットの話題を取り上げたNHKニュースを見ていたのだ。僕はしかめ面をしながら、しかしおそらくどこか得意げに、「AIも所詮コンピューターだからね、全ての制御や学習は数式で表されるものなんだよ。数式で意味や価値を表すことはできないからね。意味や価値がないところに感情もないと思うよ。本当の意味でロボットが感情を持つことは考えられないね。」と述べた。ユリさんはどこか納得していない感じを漂わせながら、「そうかなあ」と返事した。
 率直に言えば、僕の説明は受け売りである。新井紀子さんの『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』には、現状のAI技術は統計を基盤としており論理に基づく処理はあまりできないし、数学が基盤である以上意味は理解できない、というようなことが書いてある。これを読んだ時、すごく明快な説明だなと感じた。確かに相関であろうが重回帰式であろうが、もっと複雑な多変量解析の結果であっても、数式は複数の変数の関係性を示すだけなんだから、価値や意味を判断することはない。
 ユリさんに返事をした後、気になってきた。ではなぜ人間は意味を読み取り価値判断をするのであろうか。進化の過程で物事の意味を想定したり価値判断をしたりすることが適応的だったのだろう。それはそうなんだろう。しかし、意味や価値を認識するのは脳である。「違うよ、脳ではなくて心だよ。」と優しく諭してくれる人もいるかもしれない。そう言われても、僕は肉体以外のふわふわした概念を受け入れる気にはなれない。意味や価値を判断するのは脳であるという前提に立つ時、どの様な仕組みで脳は意味や価値を判断できるのであろうか。
 脳を形作る主要な要素は神経細胞だ。一つ一つの神経細胞から長く伸びた神経繊維が別の神経細胞につながり、回路を形成している。脳の機能は神経回路の働きそのものである。膨大な数の神経細胞からなる極めて複雑な回路が形成されているのであるが、神経細胞という部品を結線することで出来上がったと考えれば、脳はコンピューターの演算装置と似たようなものである。個々の神経細胞は半導体よりは複雑そうな気はするが、基本的な働きは興奮するか収まるかであり、単純なものである。興奮した時はその興奮が神経繊維を介して別の神経細胞(達)を興奮させる。一つの神経細胞から伸びた神経繊維が別の神経細胞に結合する部位をシナプスという。このシナプスの結合度は比較的単純な原理によって強くなったり(つまり興奮というシグナルが次の細胞に伝わりやすくなる)弱くなったりする。この仕組みによってどの細胞間でシグナルが伝達されるのか、回路の結線が変化するのである。要するに、脳全体の機能は個々の神経細胞が一定条件のもとに興奮しそのシグナルを外に発するということと、神経回路の結線が変化することに支えられている。
 このように考えると、一体どこに意味や価値が生じる余地があるのだろうか。神経細胞は一人の人間に比べるとはるかに単純なものであり、精神が宿るような代物ではない。シンプルな「素子」と回路の結合具合によって脳の動きが決まってくるのだと考えると、コンピューターとさして変わらないではないか。与えられたプログラムに沿って情報を処理しているのに過ぎないのではなかろうか。種々の科学的、物理的条件によって生じる偶然の揺らぎが意味や価値の成立に関与している可能性があるかもしれない。しかし、偶然の揺らぎによって一貫した価値観が成立するのかと考えれば疑わしい。もともと何らかの意味や価値を規定するようにプログラムされているとしか思えない。例えば特定の入力パターンに強く反応するような重み付けが与えられているといった仕組みがあるのではないだろうか。そして、様々な方向に情報処理の重み付けをされた脳がある中で、進化論的、適応的に淘汰される中で、比較的似通った意味や価値の判断をする人間が世の多数を占めるようになったのではなかろうか。
 一定パターンの情報の組み合わせに重みをつけるプログラムがもともとあることが意味や価値を判断することの本質であるなら、AIでも意味や価値という概念を持つことができそうである。これが正しいのなら、人間が意味や価値の判断をする時、それはあらかじめ規定されたプログラムをベースに学習された反応傾向に過ぎないと言えそうだ。本当に意味には意味があり、価値には価値があるのだろうか。これ以上考えを進めるだけの知識のない僕としては、薄ら寒い気持ち(これもプログラムに基づく反応かもしれない)をただ耐える以外にできることがない。

2019年4月26日金曜日

既に世界標準があります

 最近、パソコンのキーボードに関して、自分の生来の特徴か加齢のなせる技かは分からないのだが、実に間抜けな失敗を繰り返している。まず、自分のMacbook airを最近新しい機種に買い換えた。デスクトップでは英語版キーボードを使うことが多かったので英語キーボードのMacbook airを購入した。購入して1ヶ月以上経ってから自分が購入したMacbook airは日本語キーボードであることに気づいた。ノートPCではあるが英語版外部キーボードを接続していたので、間違った製品を注文していたことに長らくピンとこなかったのだ。なんとも間の抜けた話である。
 別の案件だが、職場で使っている電子カルテに付属するキーボードが非常にちゃちなもので、かねがね気になっていた。最近の僕の仕事なんてしゃべっているか診察結果を説明する文章を書いているかしかない。やはり仕事の道具は奮発すべきだと考え、27,000円もするリアルフォースの英語版キーボードを購入した。ところが、電子カルテに使われているパソコンでは英語版キーボードを認識できず、日本語キーボードとして認識することが判明したのである。いくつかのキーではトップに表示されているものとは違う文字が画面に現れるので、使いにくいったらありゃしない。しかし、27,000円である。意地でも使い続けてやると表示がデタラメなキーボードに慣れるべく頑張っている最中である。
 前置きが長くなったが、こういう状況に陥るくらいに僕は長年日本語キーボードと英語キーボードを取り混ぜて使用している。しかも、DOS/WindowsパソコンとMACいずれでも日本語と英語キーボードを使ってきた。その経験から自信を持って言えるが、英語キーボードを使っても何も困ることはない。日本語キーボードでできることは英語キーボードでも可能である。そうなると、なんで日本語キーボードという変なものをわざわざ作ったのだろうかという疑問が湧いてくる。どちらでも用が足りるなら英語キーボードの方がキーが少なくてシンプルだし、世界中のあらゆる製品を使えて良いではないか。
 日本は独自規格を作りたがる傾向が強いと思う。医療の世界でも、病気の診断基準を日本独自に作成することが昔からよくあった。もちろん、信頼性の高い診断基準がない疾患において日本の研究水準が高く、その結果として日本発の診断基準ができるのであればなんの文句もない。しかし、世界中でかなり広く使われている診断基準が存在する時に、わざわざ日本独自の基準を作る必要性はどこにあるのだろうか。
 少なくとも技術的な世界では普遍性が高い方が便利で生産的である。独自な企画を作ることには明確な理由が必要だと思う。疾患の診断基準であれば、世界標準の基準を使っている時にそれでは問題が生じることを確認できればそれを補えるような修正案を出せば良い。明確な根拠もなく独自基準を使ってもデータの比較が難しくなるだけである。キーボードも基本は世界標準仕様にしておき、それでどうしても問題がある時に修正すれば良い。なぜ初っ端から大した根拠もないだろうに日本独自キーボードを設定したのか不思議な気がする。
 話が飛躍するような気はするが、今の日本の停滞は「日本はオンリーワンなんだぜ!」「日本は他の国とはちょっと違う」と言いたがる心性が基盤にあるのではないかと睨んでいる。普遍的な価値観を精査する中から独自の気づきを得る努力をせずに、客観的な根拠もなく日本の独自性ばかりを追いたがる傾向が様々な場面でブレーキをかけているのではないかという気がしている。

2019年3月1日金曜日

親に伝えたい総論

 発達障害を伴う子供を対象にした診療をしていると、育てている親への助言が日々の活動の中で重要な位置を占める。通常こういった助言は生活の中の問題を具体的に取り上げ、具体的な対応を考える各論的助言の積み重ねが中心となる。総論を伝えたからといって具体的な問題が解決するわけではない。とはいえ、子供への接し方を工夫するときに一貫して念頭におくべき総論的な考え方もある。ここでは親に助言するときに伝えたい総論をまとめてみた。

1. 親の心構え

 まず、総論中の総論である。

1)親子で楽に暮らせることを目指す

 どういう未来を目指すのかというイメージを持つことは大切である。「良いこと」や「あるべき状態」を目指すと精神的に追い詰められやすい。少なくとも短期、中期的には親子で疲れず楽しく暮らせることを目指せば良いと思う。具体的にはしっかり眠れる、疲れたら休める、生活を楽しめることを目指すのである。

2)無駄な努力をしない、損得勘定で作戦を考える、情緒よりは技術

 子育てで煮詰まっている状態のかなりの部分は、何も成果がないにも関わらず同じ方向で頑張り続けていることが原因になっているのではないかと思う。成果が出れば多少の苦労も報われるが、何ら得るものがないままに頑張り続けてもエネルギーを消耗するだけである。世間には「無駄な苦労はない」などと無責任に言いたがる人が大勢いるが、耳を貸してはいけない。成果をあげるということは、言い換えれば損得勘定で作戦を練ることである。上記の「親子で楽に暮らせる」ことに少しでも近づければ「得」だし、遠のくなら「損」である。そして、得が損を上回るようにするために必要なものは合理的な技術である。決して子供への愛情と熱意などという情緒的なものではない。エンジニアになったつもりになって欲しい。

3)最初の仕事は諦めること

 さあ、子供にまつわる様々な問題を解決しよう!と動き始める時、最初の仕事は諦めることである。「この子はこういう子なんだ」、「この子にはまだ無理なんだ」と諦めることである。子供が計画的に親を追い詰めようとすることなどまずない。親の期待通りの状態にならないことには何か理由がある。その理由を何とかできなければ、親も子供自身も現状を変えることはできないのである。諦めることができるとまず、親が楽になる。「しゃあないなあ」と思えるだけで随分楽になる。さらに、何が「理由」なんだろうと落ち着いて子供や子供の周囲の状況を観察する余裕ができる。

4)人を頼る、人に助けを求める、人に迷惑をかける

 おそらく日本の社会の大きな特徴の一つではないかと睨んでいるのだが、自分の力で何事も解決すべきという呪いが蔓延している。しかし、冷静に考えればすぐに分かることであるが、人は誰も自分一人の力では生きていけない。「俺は自分の力で生きてきた」とほざくおっさんは多いが、その人達全てが日々多くの人に助けられながら生きているのである。お互いに、いかに上手く人に頼れるか、上手く人に助けられるか、ということが人間社会の土台の主要成分になっていると言っても良い。
 ところが困ったことに、日々の問題が大きくて疲労困憊している時ほど人に助けを求めにくくなる。平均的な子供を育てるだけでも結構大変なのだが、発達障害を伴う子供を育てる苦労は並大抵ではない。これを切り抜けるためには、一人でも多くの人から効果的な援助を受けることが必要だ。勇気を持って人を頼り、人に助けを求めないといけない。人に迷惑をかけることを心配している暇なんて親には無いのだ。なーに、心配はいらない。世の中の人は結構親切で優しい。意地悪く非難する人達の声は大きいので、世の中敵だらけに見えてしまうかもしれない。しかし、そういう人はむしろ少数派だ。声が大きいし、心を傷つけられがちなので非難の声だらけに思えるかもしれないけれど、結構世の中捨てたもんじゃないということを理解しておこう。ただし、人を頼るといっても以下に挙げたような特徴の強い人は避けておく方が良い。

・やたらとお説教をし、人の道を説きだす
・じっくりと話を聞いてくれない、自分ばかり喋ろうとする
・根拠もなく「大丈夫よ」とか「心配のしすぎ」とか言う
・暗いことばかり言う、すぐにイライラして脅し口調になる
・助言が抽象的なことばかりで、具体的にどう動けば良いのか分からない


5)「親の務め」ってなに?それ、食べられるの?

 僕が出会った例を振り返る限り、世の中の親は、特に自らが主体的に子育てに向き合っている場合、真面目な人が圧倒的に多い。こういう人達は「親なら〜すべき」と親の務めや義務を生真面目に果たそうとしている。この姿勢が100%悪いとも言わないが、問題を生じやすい。それは、実現不可能な目標を立ててしまいがちなことである。上に書いたこととも関連するが、何らかの理由があって上手くいかないことや問題は生じている。その多くはすぐには解決できないことなのである。1歳未満の乳児に、上手に箸でご飯を食べさせようとしても出来るわけがない。これと同じようなことを大真面目に目標にしてしまうと、親子揃ってひどく苦しむことになる。「べき論」とは距離を置く方が良い。なお、上に「特に自らが主体的に子育てに向き合っている場合」との但し書きを書いたのは、子育てをパートナーに全面的に任せてしまっている親もいるからである。そういう親は生真面目に頑張るというよりも、批評家的にパートナーにケチをつける人が多い気がする。

2. 子供に接する上での基本戦略

1)まず目指すことは、本人を変えることではなく環境を変えること

 自閉スペクトラム症であれ、注意欠如・多動症であれ、発達障害と呼ばれる状態の特徴は物の認識の仕方や振る舞い方の特徴である。暮らし辛さにつながっていくので症状と捉え診断に繋がるが、取り立てて暮らし辛さに繋がらなければ「性格」と称しても良い、その子供個人の基本的な特徴の一部である。自分の性格を変えたいと考える人はよくいるが、短期間で変えることなど不可能である。つまり、発達障害としての特徴を無くそうとすることは別の人間に変えようとしていることに等しい。無理なのである。したがって、発達障害を伴う子供を支援する上でまず考えないといけないことは環境を変えることである。発達障害の特徴を持ったそのままの状態を受け入れ、そのような特徴を持っていても困ることが減り出来ることが増えるように環境を変えることなのである。本人以外のものは全て環境であるが、とりわけ重要な環境は親や学校園の指導者など、子供に対して指導的立場にいる大人たちである。家や土地、風土を急に変えることは困難であるが、大人なら自ら子供への接し方を変えることは可能である。

2)出来ていることに注目、出来ていないことは無視

 発達障害と診断される子供は皆、何もできない子供では決してない。それどころか、出来ることの方が圧倒的に多い。夜寝て日中は起きているだろうし、毎日ご飯は食べているだろう。着替えも出来るようになっているかもしれないし、保育園には通っているかもしれない。このレベルから改めて生活を見直せば、出来ないことより出来ていることの方が圧倒的に多いことに気づくはずである。気が散りやすく課題に集中できないとしても断続的に取り組めていれば、その断続的に取り組んでいる状態が出来ていることだ。出来ていることを意識しこまめに褒めると、出来ていることはより一層増えるし完成度も高まる。その一方で、上手くいかないこと、失敗していることは余程の実害がなければ気づかぬふりで無視することが原則である。これを徹底すると、次第にできていることが一層増え、その一方で問題は減っていく。

3)本人の納得は大切

 大人が子供に何かをさせよう、あるいは何らかの行動を止めさせようとするとき、それが当然のことだからという意識を持っていることが多い。しかし子供の立場で考えると、突然に気が進まない行動を強制されたとか、不当に自分の活動を妨害されたという風に感じることになる。いくら世間一般から見て正しいことであっても、突然何かの振る舞いを強制されたり禁止されたりしたら大人でも俄かには納得できない。1回か2回なら黙って従うかもしれないが、こういう「無理強い」が繰り返されたら素直に従えなくなるだろうし、相手に敵意を持つことにもなるだろう。これは子供でも大人でも同じことである。余程の事情がない限り、子供が納得できることを尊重した接し方が必要である。

4)変わり者を認める

 発達障害を伴う子供達は平均的な人に比べると振る舞い方や物の考え方がちょっとずれている。つまり、「変わり者」なのである。隅から隅まで周りの子供達と同じように振舞わねばならないと考えると親も子供も苦しみが増える一方である。ちょっと変わったところがあっても実害がない限りは、変わり者で良いではないかと受け入れてしまうとだいぶ楽に過ごせるようになる。

2019年2月9日土曜日

ボツになった手紙

 詳細は省くが、落ち着きのなさを主訴に受診した子供が通う保育園に対してカチンときたことがあった。ムラムラと芽生えた悪意から、その保育園に思いっきり皮肉を言ってやりたくなり手紙を書いた。10分後には悪意が透けるような文章が完成したのであるが、賢明なスタッフによって保育園にその文章を送るという計画は阻止された。ボツになった文章をここにさらしておく。もしもこの文章を読んでくださる保育者や教師がいて、たかだか診察室でしか子供に接していない医者の勘違いや考えの足りなさを指摘し、批判していただけると本望である。

 物事の認識や行動の仕方で平均的な子供たちとずれのある子供を指導するときには指導者側に思考が必要です。型通りのマニュアル的対応ではなかなか上手く行きません。最低限、以下の点について考えながら試行錯誤していくことが必要ではないかと考えます。保育・教育の素養がない医師が考えたことですから、不十分かもしれません。ぜひ、保育・教育の専門家としてより良い対応を工夫していただきたいと思います。

1)子供の強みと弱み
 日常生活において出来ることと出来ないこと(難しいこと)をきちんと整理する必要があります。弱みを知ることよりも強みを把握することの方がはるかに重要です。「集中できない」などと曖昧な捉え方をするのではなく、「仮定法を含む短めの文章が2つ程度の指示なら聞いて理解できるが、それ以上たくさんのことを言っても理解できない」という風に、出来ることと難しいことを具体的に把握する必要があります。「食事に集中できる」か否かとか「読み聞かせを聞いて楽しめる」か否かという大雑把な捉え方ではなく、「数分間なら椅子に座って食べることが出来る」とか「登場人物が3人以内で5分以内に終わる絵本なら聞いて楽しめる」という風に一つの活動の中をさらに細かく分析する必要があります。そうすることで、「出来ない」と考えていた活動の中でさえ「出来ている」ことがたくさんあることに気付くことができます。

2)何故出来ないのか
 基本的に子供が悪意で振舞うことはほとんどありません。上記1)の分析の結果整理できた弱み、あるいは出来ないことには何らかの理由が必ずあります。まず考えることは子供本人に備わる要因です。例えば、注意を集中できる時間が平均より短い、反射的な行動を抑制する力が平均より弱い、直感的に人の気持ちを理解する力が弱い、知的な理解力が低い、一度に聞き取れる言葉の量が少ない、というようなことです。そして、これらの本人に備わった要因と環境とのミスマッチにより上手く出来ていない状態になったのだと考えます。つまり、現在の環境が本人の特性を許容できていないことに問題があると考えます。本人の行動の仕方をよく観察し、どの様な本人要因があるのか、そして環境の中で子供にあっていないものは何か、ということについて仮説を立てる必要があります。その仮説に基づいて、子供の苦手さを援助する具体的な作戦を考え実行しましょう。上手くいかなければ、仮説を修正したり、新しい仮説を立てて作戦を練り直したりしましょう。

3)指導の目的は何か
 それぞれの活動において何を目的として指導するのかをよく考える必要があります。指導者の計画どおりに子供が振舞うことを目的にしてはいけません。集団での指導に問題なくついてくる子供達であれば個別に目的を設定する必要はないと思います。しかし、指導者の想定についてこられない子供の場合は、それでもその子が何か得るものがあるような目的を個別に設定しなおす必要があります。たとえ集団生活の中で基本的には同じ活動に参加させるのであっても、子供によっては狙いを変え、それに応じて参加の仕方を修正していく必要があります。

4)まず考えることは環境を変えること
 上記2)で説明しましたように、生活の中で上手くいかないことは本人の特性と環境とのミスマッチによって生じます。本人を変えることは別人に変えることに近いので、そうそう出来ることではありません。まず考えるべきことは本人の苦手さを補えるように環境を変えることです。例えば、集中力が弱く長時間人の説明を聞くことが難しい子供に対しては、一度に多くの指示をせず、短く具体的な言葉を選ぶことや、目で見て分かるような補助手段を併用することなどを考える必要があります。
 苦手な部分を補うことと並行して大切なことは強みを伸ばすことです。上記1)の分析をすれば、ほとんどの子供は出来ることがたくさんあることに気が付きます。むしろ、大問題に見えていた出来ないことは子供の生活の中のほんの一部であり、できることが圧倒的に多いことに気づけます。指導者は出来ていることの一つ一つに注目し、それらの成し遂げていることを繰り返し本人に伝える必要があります。そうすることで、すでに出来ていることが一層増え、子供は自信を持てます。(※)
(※)実はこの段落は後付けである。公開前に見直しているときに、とても重要なことを説明し忘れていることに気付いて書き足したのである
5)繰り返す問題行動には、その行動を起こすことによって得る物がある
 注意しても注意しても繰り返す問題行動があるときは、その行動をとることで子供自身が得られる物があります。欲しい物が手に入るとかしたいことが出来るようになる程度のことなら分かりやすいと思います。分かりにくいことが多いのは、嫌なことから逃げられる場合や、人(特に担任など大事な人)からの注目を得られる場合があります。逃げたい嫌な活動とは無関係な騒ぎを起こして逃げ出すことに成功するときは、何から逃げようとしているのかが分かりにくくなります。また、担任から繰り返し叱られている場合、担任からの注目が得る物となっていることがしばしばあります。その場合は、叱れば叱るほど問題行動を繰り返させることにも繋がります。
 以上のように考えると、問題行動への対処はその行動を起こしても得る物がないようにすることだということは考え付きやすいと思います。しかし、それだけではなかなか解決できないことがよくあります。何かを得る必要があるため問題行動を繰り返しているわけですから、合理的な対処で最も重要なことは問題行動を起こさなくても必要なものをその子供が手に入れられる状況を作ることです。例えば、担任の注目を得るために問題行動を繰り返す子供の場合は、問題行動を起こしても担任が注目しないようにすることに加えて、普段そこそこ適切に振舞っているときに繰り返し良い注目を与えることが必要となります。

6)善悪の観点で物を考えない
 保育や教育の場で上手く適応できない子供達の振る舞いは、指導者の目から見ると「よくないこと」になることが多いものです。いけないことや悪いことをした子供として繰り返し注意したり叱ったりすると、解決のチャンスが遠ざかります。倫理的問題と考えず、上で説明したように本人の特性と環境とのミスマッチと考え、環境をどの様に変化させようかと技術的問題として考えることが重要だと思います。