2020年8月31日月曜日

許される死の理由

 10年か20年くらい前から気にかかっていたことが、この度のコロナ騒ぎで一層気になり出した。それは、許される死の理由が次第に狭まっているのではないかということである。本来死ぬ理由に許されるも許されないもない。死んでしまえばもう文句のつけようもない。そして、人は必ず死ぬのである。たまたまどういう死因で死ぬかは運次第、目くじら立てても仕方がないはずだ。もちろん、多くの人は死にたくないだろうし、多くの場合は死者の家族、親戚、友人などが悲しむだろう。それはそうとしても、死というものは本来的に人間がどうにかできるものではないものだと思う。強いて許されない理不尽な死があるとすれば、犯罪の犠牲になる、戦争の犠牲になる、自殺する、という極めて不自然な死だけではなかろうか。これとても、単なる感情論であり、どうしようもない経緯でたまたま死ぬに過ぎない。何を言いたいかというと、常に一定数の人間は死んでいるわけで有り、大概のことは「仕方がない」と思わなければいけないのではないか、ということである。

 ところが、最近はあってはいけない死がどんどん広がっている。たとえ論理的に証明できなくても誰かの落ち度が疑われるような理由で人が死ぬことは許されない。それが、前代未聞の天災であってもあってはならない死という扱いがどんどん増え、「これは天災ではなく人災だ」と主張されたりもする。癌も今や撲滅すべき対象になっている。「少しでも助かる人を増やしましょう」ではない。「撲滅」である。新型コロナ感染症なんてそこそこの病気である。国の公衆衛生の観点からはそれなりの対策を立てるべき事案だということには異論はないが、一つの自治体で一桁の患者が出ることさえ防ぐべきだという目標を立てるような感染症ではない。仮に大流行してもほとんどの患者は、特に若年者はめったなことでは死にはしない。ここまで恐れ慄き、一人でも患者が発生すると大騒ぎすべき疾患なのか疑問を感じる。

 万事この調子で「人はいつかは死ぬよなあ」で済まなくなってくると、いったいどういう理由で死ねば良いのかと悩ましい。最低でも80歳以上まで生きた上で、家族に囲まれながら老衰で静かに死ぬしか選択できなくなるのではないだろうか。コロナで死のうものなら世間様に顔向けできないし、子や孫にも申し訳ないと戦々恐々せねばならない。肺癌で死ねばタバコを吸ったから悪いとか酒の飲み過ぎだとか非難されるのかもしれない。孤独死(このネーミングがなんとも嫌らしい)なんてしようものなら本人はもちろん一族郎党の名誉を地に落としそうではないか。

 多くの日本人は十分長く生きていると思う。むしろ、自分自身の意思と体力で主体的に生きることが難しくなってからも長く死ねない状況に陥る人がどんどん増えている。もう良いのではないかと思ってしまう。生の選別をするべきだと主張しているわけではない。ただ、「世の中運悪く死ぬ理由は色々あるよね。特に病気で死ぬなんて仕方ないよね。それは寿命だったと思うことにしよう」というような感覚を残して欲しいものだと個人的には願っている。自分が生まれてしまったこと、自分が選んでしまった道、そして自分が死んでしまうことを「仕方ないなあ」で済ませたい今日この頃なのである。少なくとも、癌の撲滅を目指すくらいなら、まずはHPVワクチンをきちんと打つ様にしようと言いたい。コロナ感染で大騒ぎするくらいなら、これ程豊かな社会においてなお存在する貧しさの直接的間接的結果としての死を減らしたいものだ。

2020年5月16日土曜日

スタックラー&バス『経済政策で人は死ぬか?』

 遅ればせながらスタックラー&バス「経済政策で人は死ぬか?」(草思社)を読んだ。1930年の暗黒の火曜日、ソ連崩壊、アジア通貨危機、リーマンショックなどの大規模な経済危機における政策の違いが人々の健康にどのような影響を与えるかを客観的データに基づいて分析した結果をわかりやすく解説した本である。現在、新型コロナ感染症の影響で深刻な経済危機になりそうだが、今後の方向性を考える上で重要な本ではないかと思う。健康状態の評価としては、死亡率、自殺率、うつ病の罹患率、HIVなどの感染症罹患率などの指標を検討している。いずれの経済危機においても財政刺激策を採用した地域では人々の健康は保たれ、財政緊縮策を採用した地域では健康状態が悪化することが明確に示されている。しかも、健康だけではなく、財政刺激策を採用した地域の方がその後の景気の改善も良好なのである。

 景気改善につながるメカニズムを考える上で参考にすべき情報の一つに政府支出乗数というものがある。政府支出を1ドル増やした時に国民所得が何ドル増えるかを示した指標である。長年政府支出乗数は0.5とされてきたという。これが正しければ政府が支出を増やすほど国民の所得は下がるということだ。しかし、この0.5という数字には実は根拠がなかった。そこで著者らが欧米や日本の過去10年間のデータから改めて算出すると1.7であったという。特に、保険医療と教育分野では乗数が3を超えていた。逆に、防衛や銀行救済処置では1を大幅に下回る。つまり、酷い不況の時にこそ保険医療や教育分野への税金の投入を躊躇うべきではないということになる。

 この本には、医療の世界では市場原理がうまく働かないことにも触れられている。民間の保険会社が主体になると、保険会社は支出(支払い)を節約するために医療を必要とする可能性が低い人のみを選んで加入させるようになる。その結果、医療を必要としている人ほど医療を受けにくく、医療を必要としていない人ほど医療を受けやすくなる状況(さかさま医療ケアの法則)が生じるようになる。しかも皮肉なことに医療に市場原理を持ち込むとトータルの医療費は増加するという。それは予防などの「ヘルスケア」よりも金のかかる「病気のケア」への投資が優勢になるからである。全体としての医療費を下げるためにも医療福祉に対する公的資金の投入を控えるべきではないということになる。この他、再就職を促す積極的労働市場政策(ALMP)や住む場所を保証する住宅支援策の意義についてもページを割かれており、興味深かった。

 あまりにもシンプルで明確な結果が客観的に示されているにもかかわらず、なぜ現実の社会では財政緊縮策を唱える人々が主流なのか不思議な気がする。日本ではずいぶん長い間公務員を減らし医療者を制限し大学の研究費を削減してきた結果、所得格差、研究能力の低下、災害時の対応の不十分さなど問題が増えてきているように見える。そして、このたびのコロナ禍で今までなんとか持ち堪えてきた領域が一気に綻びつつある。もちろん、専門家から見ればこの書籍に対する反論も色々できるのかもしれない。しかし、与野党を問わず反緊縮論が政治の一大勢力になっても不思議ではないのに、そうはなっていない現状がなぜ生じるのだろうか。現在のような未曾有の危機に際して、反緊縮の声を上げていく必要があると思う。

2020年3月29日日曜日

料理が先か材料が先か

 特定の料理を作る、例えばペンネアラビアータでも良いし、ナスの煮浸でもよい。ある料理を作るとなると、それに必要な材料や調味料を揃えることになる。その料理を作るための一定以上の水準の食材が必要となる。材料が少し痛んでいるとか、調味料が足りない、という事態があるかもしれない。その時は何か工夫して、目標の料理に近い味にする。それはそれで悪くはないが、あくまで「次善」の料理である。そして、どうしても条件を満たさない材料があれば排除される。
 NHKに「きじまりゅうたの小腹すいてませんか」という番組がある。料理研究家のきじまりゅうたさんが街行く人に声をかけ、その人の家に上がり込んでその場にある食材を見てちょっとした料理を作る。ここでは料理ではなく食材が主人公である。目の前にある食材に備わった特徴を生かすにはどう調理すれば良いか、という思考の結果として何らかの料理が完成する。
 現在の幼稚園、保育園、小中学校は、どのような料理を作るかが先に決まっている中で調理する場所に見える。生徒の多様性を認めるとか障害を伴う子供には合理的配慮をするとか言っても、どのような料理を作るか、つまり目指す目標が一律に決まっている。だから、何らかの意味で平均からずれたところがあるほど、子供達はずいぶん無理をして枠の中に押し込まれることになる。本当は、食材を見て料理を決める、すなわち子供の強みや弱みを見て目標を柔軟に変える学校であってほしいんだけどな。

2020年2月21日金曜日

発達障害を伴う⼦供を⽀援するために

 保育士や教師が発達障害支援に取り組む時に参考になればと思いながら書いた文章です。以下のURLからダウンロードできます。ここには前文のみを載せておきます。

https://drive.google.com/file/d/12O2PnRKzTsP4iDQvMfCIUM-PK_VSHwvn/view?usp=sharing

「発達障害を伴う子供を支援するために
—保育者や教師が最初に知っておくと良いこと—」
20230313版

はじめに

 この文章は、保育者や教師として子供の健全な発達を支えるために日々奮闘されている方を念頭に書きました。私は子供の神経疾患の診療を専門とする医師ですが、20年くらい前からは特に発達障害を伴う子供達のための専門外来で診療してきました。その経験の中でつくづく感じることがあります。それは、発達障害を伴う子供達に対する支援の中で医療や医師にできることの少なさです。明らかに発達障害を伴い日常多くの困難さを抱えている子供が次第に暮らしやすくなっていくとき、多くの場合は家族、保育者、教師の関わり方の良さが、物事が改善する上での大きな力になっています。もちろん児童発達支援事業などの療育施設の職員が大きく貢献する場合も少なくないですし、中には薬物療法など医療抜きには実現できない対応が必要となることもあります。しかし、療育や医療の関わりが大きい事例であっても、家庭と学校園での対応が適切でなければなかなか事態は良くなりません。もちろん家族、多くは親の存在は非常に大きいです。しかし、発達障害を伴う子供達を職業的に支えるもっとも中心的な存在は、学校園で働く保育者や教師の方々だと考えています。

 2000年頃以降10年くらいかけて、日本国内の発達障害を含む何らかの障害のある子供への教育についての考え方が、それまでの特殊教育から特別支援教育へと大きく変わりました。その後さらに10年くらいが過ぎた今、全ての学校園で障害を伴う子供達の個別のニーズに対する合理的配慮をしなければいけないという意識が保育・教育現場で浸透してきたと思います。発達障害を伴う子供達への支援についても多くの教師・保育者の先生方は前向きに努力されていると感じています。しかし一方で、どのような配慮をしたら良いのか悩まれる方々も多いのが現状ではないでしょうか。医学、心理学、障害児保育・教育など関連する様々な分野をしっかり勉強しようと頑張っていらっしゃる方も多いと思います。しかし、今現在、支援を必要とする子供達が先生方の目の前にいる状況です。しっかり勉強してから支援しましょうなどとのんびり考えていられない現状があります。そのような状況で苦しんでいる先生方が、とりあえずまず知っておくと良いのではないかと思えることをこの文章では解説しています。

 発達障害に関して解説する本であれば、まず様々な病型についての説明から始まることが多いと思います。しかし、この文章では最初に具体的な接し方の配慮から始まります。難しい理論を理解せねばできないことや特殊な技術が必要なことは説明していません。ここで説明することは、どんな子供であっても配慮しておいて損はないことです。次に、発達障害を伴う子供の支援において医療をどの様に位置付ければ良いかを解説しています。さらに、今後発達障害について詳しい知識を身につけていくにあたり、発達障害全体に共通する考え方を説明します。最後に、国際機能分類(ICF)と合理的配慮について拙い解説をつけておきます。

 長い文章を読むことが苦手な方は、とりあえず第1章だけ読んでいただけるだけでもありがたいです。この文章では発達障害の各病型についての医学的な詳細は解説していませんし、関連する心理学や福祉領域のことも説明していません。この文章さえ読めば全てが解決するというものでは全くありません。また、学術的文章でもありませんので、記述する一つ一つのことの出典は書いていません。中には私の勘違いや不正確なことも書かれている可能性があります。お気づきのことがあれば、連絡していただけると幸いです。この文章はあくまで出発点です。これを取っ掛かりにして、さらに細かい専門的な事柄を勉強していただけると幸いです。

 なお、この文章では保育者と教師の両方を意味する言葉として「先生」と表記することが多いです。第1章第3節でも触れているのですが、「先生」という言葉には色々思うところがあり、保育者と教師を指す名称として用いることに若干の抵抗があります。しかし毎回「保育者と教師」と書いていると少しくどい感じがするため、あまりややこしく考えずに「先生」を多用しています。

 この文章は以下のURLからダウンロードすることができます。時間はかかると思いますが、気がついたことを改訂していく予定です。したがって、他の方に紹介していただく際はpdfを渡すのではなくURLを伝えてください。

https://drive.google.com/file/d/12O2PnRKzTsP4iDQvMfCIUM-PK_VSHwvn/view?usp=sharing

閲覧、ダウンロード等は自由にしていただけます。商業的な利用を除き、自由に利用していただいて結構です。お読みになって間違いなどに気づかれた方は、ご連絡いただけると幸いです。
2020年12月
福山市こども発達支援センター
荻野竜也(oginotatsuya@gmail.com)

履歴

Ver. 1:2020年2月20日
Ver. 2:2020年3月21日
・節ごとのまとめを作った
・その他細かい加筆、修正、削除
Ver. 3:2020年3月31日
・挿絵を付けた
Ver. 4:2020年6月15日
・第1章第2節のかんしゃくへの対応の解説に佐久間 徹(2013)による反応強度分化手続きを参考にした記述を追加した。合わせて佐久間 徹の著書を第4章で紹介した。
Ver. 5:2020年12月13日
・国際生活機能分類と合理的配慮の解説を加えた。 

Ver. 6202116

pdfを保存するURL表記の誤り、誤字の修正。

Ver. 72022313

・第1章第2節に知能の高い子供への対応を追加した。 

Ver. 8202265

・第1章第2節に文献情報を追加した。

Ver. 9202288

・本文章のpdfを保存するURLの短縮版を作成。

Ver. 102023313

・第1章第2節第8項「指示の出し方」を下記書籍の記載を参考に書き直した。

加茂登志子「15分で親子関係が変わる!育児が楽になる!PCITから学ぶ子育て」小学館(2020/6/2

 




2020年2月2日日曜日

人を無駄に追い詰めないために

 「困った人」への対応に悩んでいる人は、自分自身の中に潜む傲慢さや醜悪さに気づく必要があるという話。
 何らかの発達障害を伴う人々は、周囲の人を困らせることがよくある。困った周囲の人(主に家族、教師など)がどう対応したら良いのかと悩みを訴えるときに、大体僕が説明することは以下の通りである。

 この人には苦手なところがある。注意を集中させることであったり、人の気持ちを直感的に理解することであったり。そのような弱みをカバーできるような環境がないため、問題が発生してしまう。現状のままでは本人の力で自発的に問題を解決することは難しいので、支援が必要だ。

 そして、次のような趣旨のことを付け加える。

 まずは諦めて、現状を認めることが肝要である。適切に振る舞うことがこの人には無理なんだと諦めなさい。この人に上手く振る舞えと要求することは、乳児に自分で着替えることを求めることや、あなたや私の様に普通の人にオリンピックで金メダルを取ることを求めることと同じようなものである。とりあえず諦めた上で、今より少し事態が改善する無理のない工夫を考えていけば良い。

 こういう話を聞いてある程度納得する人は多いし、中には見事に本人への接し方を変えることができる人もいる。その一方で、呆れるほど頑固に態度を変えない人もいる。問題となっている人(子供、学生、部下)に対して、頑なまでにその人には難しいことをさせようと要求し続け、上手くできないことを非難し続けるのである。そして、自分自身も疲労困憊してしまう。概ねこういう人が口にする態度を変えない理由は2つある。一つはベキ論であり、もう一つは「困った人」の将来を心配してという主張である。前者は、「〇〇すること」が倫理的に正しいのだから〇〇すべきであるという主張だ。いくら倫理的に正しくても無理なものは無理である。後者は、「このままでは将来困るから」今の状態を認めるべきではないという理屈である。その人のことを心配しているという、相手を思いやった行動のように見える。しかし、日々非難され自信を失い続ける先に素晴らしい未来が切り開かれる可能性は少なかろう。
 こういう人達は、なぜ自分自身がしんどい思いをしながらも接し方を変えることができないのだろう。おそらく頭が固く、自分の持つ信念を切り替えることに困難があるのだろう。などと考えてみるのだが、どうもそれだけではない気がする。もちろん世の中には自分の考えや価値観をなかなか変えられない柔軟性に欠けた人はいる。それほどではない人でもなかなか物事が上手くいかないことによる焦燥感や怒りの中で視野が狭くなり、柔軟性が低下することもあるだろう。しかし、柔軟性の欠如以外の要因があるように思う。僕自身の過去の経験を振り返っても、上手に振る舞えない人を非難し続け無駄に追い詰めるという行動には柔軟性の欠如に加えて別の要因がある気がする。そう、長々書いてきてやっと白状するが、僕も人を非難し、追い詰めるタイプの人間なのである。指示したことを言われた通りにできない後輩をとことん追い詰めてしまうことがよくあった。自分で思うには最近ずいぶん減ったと思うのだが、油断すると片鱗が出てしまう。人から見れば、いまだにかなり危ないのかもしれない。
 我が身を省みて、相手に無理なことを強いて追い詰める要因の一つは、自分ができることは皆できるはずという発想を持ちやすいことだ。誰でもできるはずのことを出来ない人を見たら、この人には難しいのだなと素直に考えれば良い。ところが人は得てして「できない」のではなく「出来るのにしない」のだと感じてしまう。つまり、相手が指示された通りに行動しないことは悪意から来ているという解釈をしてしまい、それに対抗するために意地になってしまうのである。
 このことに加えて、さらに重要な観点があると思う。それは、本人にとっての無理難題を与え続け、出来ないことを責め続ける人と、出来ないことを要求され、出来ないことを責められる人との力の差である。誰にでも想像がつくと思うが、難題を与え責める側は強く、難題を与えられ責められる側は弱い。多くは社会的な立場としてその力の差が最初から規定されている関係である。親と子、教師と生徒、上司と部下、先輩と後輩といった関係である。一見、社会的な立場が逆転しているように見える場合もある。不正が発覚した上司とそれを非難する部下たち、気が弱く自信のない教師と一斉に反抗し始めた生徒達というような場合は、本来の立場としての力の強さから見れば逆転した状況である。そうであっても、実際には何らかの理由によって責める側が責められる側よりも明らかに強い立場に立っている。
 いつまでも成果が上がらないのに諦めることなく失敗を責め、出来ないことをせよと言い続ける状況の根底には、立場の強い人間の立場の弱い人に対する支配欲があるのだと思う。自分よりも弱く従属する立場のはずの相手が、自分の指示に従わず、取り様によっては自分に逆らっているように見える状況が許せないという心性が実り少ない行動へのこだわりにつながっているのではないか。これは種々のハラスメントやDVと同じ構造である。ともすれば「正しさ」を振り回したり、「相手の将来を考えて」という言い訳を口にしたりする様子もハラスメントやDVと共通している。
 発達障害を伴う人達に適切に接するためにもっとも重要なことは、大きな心を持ち相手を許すことではないのかもしれない。もっとも重要なことは、自分の心の中に他者に対する傲慢さや支配欲があることを認めた上で、相手を自分と同じ一人の人であると認識し、対等な立場に立てるように努めることではないかと思う。それができれば、人生の苦しみが少し減るのだろう。