2014年12月20日土曜日

せめてそっとしてあげて

深刻な病気や障害を抱えて何か大きなことを成し遂げた人がたまにいる。世間はそういう困難を克服して物事を成し遂げた人が大好きだ。もちろん、僕だってそういう人を尊敬するに吝かでは無い。ただ、世間は困難を努力で克服した人を讃えるだけでは飽き足らず、人はそのように在るべきだという価値観を押し付けたがるように見え、そこに僕は引っかかる。
 本人の努力で困難を克服すべきという価値観を誰に押し付けるのか。当然、ほとんど困難のない、幸せな日常を生きている人に「困難を克服せよ」と言うのはナンセンスだ。勢い、価値観を押し付ける先は困難を抱えている人たちになる。難病に罹患していたり、障害があったり、貧困の真っ只中に暮らしている人たちである。世間はこういう人たちに、「頑張れ」と言う。「努力せよ」とも言う。自分もかつては辛酸を舐めながら困難を克服したんだなどと、聞かれてもいないのに自分語りをし出す人さえいる。
 ちょっと待てよと言いたい。言われなくても頑張ってんだよ。難病を抱えている人も、障害のある人も、貧困を抱えている人も、苦しみの中でもがきながら、弥が上に頑張らざるを得ない状況に置かれているのだ。それ以上に、なぜ苦しませないといけないのだろう。本人の意思で頑張るならともかく、他人が苦労や努力を押し付けるような話ではなかろう。苦しんでいる人に必要なのはまず休息だ。そして、実行可能で成果に直結した具体的な援助や助言である。
 医者をしていると、患者に努力や我慢を求めざるを得ないことがよくある。慢性疾患で忘れずに毎日薬を飲むように指導したり、体重が増えすぎるとまずい場合に食事制限を求めたり、といったことだ。手術が必要な事例など、典型的だろう。努力や我慢を求めざるを得ないことがあることは確かなのだが、僕は患者に努力や我慢を求めることが嫌いである。そうせざるを得ないときにはとても辛くなる。何となれば、病院を受診するという時点ですでに何らかの苦しみを抱えているわけだ。それが風邪などの一過性のものであればまだしも、慢性疾患に罹患していたり障害を有していたりということになれば、たとえ口には出さなくとも色々な多くの苦しみを抱えていることは自明のことである。世の中の平均的な人がのほほんと生きている中で、すでに苦しみを味わっている人たちにさらに苦労を求めることは、本当に辛い。だから、せめて無駄な努力や我慢だけは求めたくない。
 苦しむ人達に必要なことは、その苦しみを軽減するための具体的な援助や助言だけである。本人の努力を求めることが許されるのは、その努力が高い確率で問題解決に資する場合だけだと思う。何も役に立たないことで頑張らせてはいけない。もしあなたが、困難を抱えた人たちに有効性の高い具体的な援助や手助けを提供できないのなら、せめてそっとしてあげて欲しい。

2014年12月10日水曜日

正しさが人を潰す時

年老いた母親はすっかり食べられる量が減っている。しかし、事前に適当な量の判断が難しいらしく、外食の時などおよそ食べられないだろうというメニューを、「多いよ」と忠告してもなお注文したりする。結局、途中で食べられなくなると、一緒に食べている僕に「食べなさい」と言う。断ると、遠慮しなくて良いという。助けて欲しいと訴えるならまだしも、相手のことを思っての善意の振る舞いにしてしまうことにこちらもイライラし、強い口調で断ると「お前はなんでそんなに冷たい物言いをするのだ」とぶちぶち文句を言いだす。
 このように説明すれば多少僕に同情してくれる人もいるかもしれない。しかし、年上の人間が若い者(といっても、四捨五入で60だが)に食事を分けようとすることは一般的には悪いことではない、と言うよりもむしろ称えられることかもしれない。また、食べ物を残さないようにするということはほとんどの人は正しい行いと考えるだろう。つまり、上記のような状況で母親が料理を提供しようとするのを断るとき、こちらとしてはどこか後ろめたさが伴うのである。なぜなら、一見したところ人の好意を無下に断っている状態にも見えるし、食べ物を粗末にする状況とみなされる気もするからである。この様に、表面的には善意に包まれた言動によってこちらが苦しい思いをする状態は、実に面白くない。
 なぜこのような話題を書いているのかというと、最近小中学校でクラス全員や学校全体で給食を残さずに食べることを目指す動きがあるということを知り、そこから連想したのである。具体例としてはここここなどで報道されている。このような動きがあるとは想像もしていなかった。クラス全体で完食を目指そうなどと言いだしたら、その陰で苦しむ子供が大勢いるのは火を見るよりも明らかである。好き嫌いの多い子供、小食な子供、肥満があるために食事制限を勧められている子供など、様々な個人的事情は倫理的には一見正しい「残さず食べる」という旗のもとに高まる同調圧力に踏みにじられることは想像に難くない。
 偏食を目の敵にする人は現在でも多い。しかし、大人であっても嫌いなものは一切ないという人はどの程度いるのだろうか。コリアンダーが食べられないとかブルーチーズには手をつけられないとか言う人は珍しくもないだろう。食糧事情の良好な現代社会で、多少の偏食があったところで健康を害する心配などない。少しでも楽しめる食物が増えればそれに越したことはないが、有無を言わせず強制的に食べざるを得ない状況に追い込まれた子供が、前向きに好き嫌いをなくし食事をより一層楽しめるようになるとはとても思えない。深刻な例としては、自閉症児の偏食ではかなりの苦痛を伴う場合があり、一般の人が生のミミズや電球を割ったガラスを食えと言われることに近い場合が多い。
 小食な子供が不必要な食事量を強いられることも当人にとっては苦痛以外の何物でもないし、ゆっくりとしか食べられない子供が限られた時間では食べきれない量に挑まされるのも苦痛だろう。食事というのは本来健康を支えるためのものであるし、文明社会においては大いなる楽しみでもある。なぜ食事するたびに苦痛を味合わさねばならないのか。しかも、それが一見善意や「正しい」理由に基づき、集団からの圧力としてもたらされるのだから、苦しむ子供がいることはきっと見逃されることが多いはずである。
 個人的な印象にしか過ぎないが、今の社会は何か「正しいこと」とされる旗印ができると、非常に声高に叫ぶ集団によって世の中がほぼ一色に塗られてしまうような気持ち悪さを感じることが多い。多様性を認める姿勢とは真反対である。給食の完食運動はこういった社会の趨勢が反映されているようで不気味である。