2016年11月29日火曜日

失敗はあってはならないものなのか?

 数々の確定した冤罪事件の裁判について見聞きしている時、何時も不思議に思うことがある。有罪とするにはかなり明確な矛盾点や、無罪を示唆する物証が色々あっても、検察は躍起になって有罪を勝ち取ろうとすることである。また、一度有罪となった事件の再審請求を、再審の場で有罪を主張するのであればまだしも、再審自体を封じようとすることである。冤罪被害者への同情や正義に反することへの怒りもあるのだが、ここではそういうことを論じようと考えているわけではない。僕が不思議に思っているのは、無罪を示唆する状況が少なからずあるにもかかわらず、なぜ検察が組織をあげて有罪判決を求めようとするのか、ということである。
 何か社会正義に反することが行われた時、その職に就く人全体を根っから悪人のように主張したがる人が結構いる。例えば、保険料の水増し請求で逮捕される医師が何人かいれば、医者なんてみんなズルをしているんだと言われがちである。しかし、自分が医師として接してきた医師達は(まあ、自分は置いておくとして)、圧倒的多数が真剣に仕事に取り組んでいる。何の雑念もなく、とまでは言わないが、かなりのことを犠牲にして患者のための活動を最優先にしている医師はむしろ多数派だと考えている。この認識から、多くの業界で、個人レベルで見れば真面目に理想を掲げながら職務に励む人は多いのではないかと、僕は考えている。悪口を言われる代表格に見える政治家や企業経営者も、実態は真面目に理想を追いかけている人は多いに違いない。当然、検察にも正義と法の精神を守ることを使命と考えて働いている検察官が多いのではないかと想像する。そうであれば、冤罪を作ることを何よりも恐れるのではないか。有罪率が下がるよりも、一人でも冤罪を作ることこそを何とか避けようと考えるのではないだろうか。それなのに、無罪を示唆する客観的状況がかなりあるときでさえ、裁判で有罪を勝ち取り、再審の道を塞ごうと組織をあげて頑張るのはなぜだろう。僕にはそれがどうも分からない。
 分からないなりに、このことに深く関わっているのではないかと感じているものが一つある。それは日本社会、とりわけ役所で色濃く見られるものであるが、無謬主義である。一度立てた方針は正しい、決して間違い無いという前提にこだわるという、お馴染みの考え方である。すべて方針が正しいという前提から論理が始まるので、役所が一旦動き始めると滅多なことでは方向修正ができない。東北の大震災で福島の原子力発電所が事故を起こしたとき、原発事故処理に使えるロボットが存在しなかった。日本はロボット技術のレベルが高いにもかかわらずだ。その理由が、原発は安全だからロボットを開発する必要がないという論理だったという冗談みたいな話を聞いたことがある。これが本当かどうかは知らないが、似たような話はあちらこちらに存在しているに違いない。「方針が正しい以上結果も良いはず」の延長で、我々の社会は結果の客観的な評価、特に数値による評価を避ける傾向が顕著である。最近多少改善の機運は見られるが、数値による評価を嫌悪する発言は随所で聞かれるし、物事を物語として理解しようとする人が山ほどいる。そこここで(役所だけではなく、ちっぽけな私企業でさえ)横行する秘密主義も、無謬主義とその帰結としての結果を評価することを忌避する思考の産物ではないかと思う。
 失敗を認めれば良いじゃないかと思う。規模が大きくなればなるほど、失敗したことは隠しおおせない。むしろ、失敗した可能性があれば正直に言及し、それを衆人環視のもとに客観的に検証すれば良いではないか。その方が、失敗に基づく損失を最小限にできる。最初に述べた司法の話題に戻れば、失敗を認めることで冤罪の可能性を下げることができる。検証の結果、もとの方針が良かったということもあるだろう。それならめでたいことだ。殆どの人が「人間なのだから失敗することもある。」というくせに、公的に失敗することを許さないこの息苦しい社会がもっと柔軟にならないのかと僕は考えるのだが、同意してくれる人はあまりいないのだろうか。
 愛想のない文章なので、一つ落ちを付けておこう。てっきり無謬は「むびょう」と読むのだと、今日の今日まで信じていました。ごめんなさい。

2016年11月24日木曜日

ゲンガクテキ

 衒学的という言葉がある。英語でpedantic。辞書には、学問のあることをひけらかすさま、と説明されている。ともすれば、さして深くは理解していない小難しげな言葉遣いをする人のことである。衒学的という言葉はめったに日常会話で使われることはない。しかし、自閉症に関連した書籍を読むとこの言葉は結構出て来る。知能の障害されていない自閉症児では、衒学的な話し方をする子供が結構多い。自閉症児の話し方の一つの特徴といっても良い。文語調の言い回しを多用したり、あまり一般的には使われていない古語や専門用語をしきりに口にしたりする。十分に理解しないままに難しい言い回しを好んで使う子供も多い。
 僕が衒学的という言葉を知ったとき、これは自分のためにある言葉ではないかと思った。というのも、僕は好んで小難しげな言葉を使う傾向が強いからである。言葉の背景まで十分に理解した上で使うならまだしも、つい先ほど仕入れたばかりの言葉を付け焼き刃で用いることもしばしばである。こういう性癖を自覚しているので、衒学的という言葉が自分にピッタリ当てはまったように感じたのである。ただ、そういう傾向を強く持ちながらも、現実にはそれほど実害はない。というのも、僕は記憶力が悪い。衒学的であり続けるための必要条件は、記憶力の良さである。たとえ深い理解を欠いていたとしても、言葉自体を覚えているからこそ衒学的な物言いができるのである。何か新しい言葉に触れて、「お、これは良いな。どこかで使ってやろう。」と思ったとしても、その言葉を不正確にしか覚えられなければ恥をかくだけだ。僕は何回聞いても次々と記憶が怪しくなり、正確に思い出せなくなる。いやそれどころか、良いなあと思った言葉を聞いた経験自体を忘れてしまうことが多い。そういう事情で、幸か不幸かのべつまくなしに難しげな言葉を使うことから逃れられている。
 何年か前に、衒学的な僕が飛びついた言葉がある。マックス・ウェーバーが言った「価値合理性」と「目的合理性」である。もう、「マックス・ウェーバーが」というだけで格好良いではないか。ここはよりドイツ語っぽく「ヴェーバー」の方がもっと格好良いかな、などと浮かれたくなる。とは言え、僕が注目した理由は「ヴェーバーがね、価値合理性と目的合理性という概念を述べていてね、」とか言ってみたい、ということだけではない。日々の生活の中で予てから疑問に思っていた現象を記述しているように思えたからだ。
 どのような疑問を持っていたのかを具体的に説明する。僕は、人は何か行動を起こすとき、その行動自体が単なる楽しみである場合を除き、何らかの目的があり、そしてその目的を達成するために最善と思われる行動を取ろうとすることが普通だと思っていた。もともとそういう発想をする下地があったとは思うが、医師になってより明確にそう考えるようになった気がする。しかし、世の中を見ていると必ずしもそうではない。目的を達成するためにはどう見ても効果的ではない行動を進んで選ぶ人が多いのである。いわゆる「血迷って」感情的に振舞っているなら理解できるが、極めて冷静に効果を期待できない行動を取りがちな人々を稀ならず目撃した。こういう人の中には、「今までこうしてきた」からという理由だけで行動を決めている人がいる。要するに何も考えず、新しいことに手をつけようとせず、同じ振る舞いを営々と繰り返す人達だ。このタイプよりもさらに不思議な人達は、冷静に考えた上で効果の乏しい、時には逆効果とも思える行動に打って出る人々である。観察しているうちになんとなく分かってきたことなのだが、こういった人たちが行動を選択する際はどうも「良いこと」だからということが根拠となっているように見える。何が良いのかというと、もちろん目的が良いことという前提もある。しかしそれ以上に、行動自体すなわち方法が良いということが非常に大きな根拠となる。そして、その行動が目的を達成することにどの位役に立つのかということがほとんど問われない。それどころか、なんのためにするのかという目的が明瞭でなくてもその行動自体が良いことだから実行しようということになる。たとえ目的を考慮していても、大変抽象的で、後から成果を検証できないような目的を掲げていることが大変多い。例えば、勤労に汗を流すことは「良いこと」だから働くという考え方である。そして、あえて目的を問えば将来の幸せのためとか社会貢献につながるとか、非常に曖昧な答しか出てこない。その結果として具体的成果があろうがなかろうが、一生懸命働くことは良いことだから働くべきという発想である。自分が豊かになるわけでないし社会が豊かになるわけでもなく、誰一人救われないような仕事をするくらいなら、仕事を放り出して遊んだほうがマシだと、僕なら考える。しかし、この考えが通用しないのである。
 「今までこうしてきた」や「良いこと」を根拠にして行動を決定する人達はかなり手強い。何かをする以上は目的を明確にするべきであることを訴え、目的達成のために合理的な行動を選択すべきということを懇々と説いても、1mmも考えを変えない人々が大勢いる。どこの世界にも変わり者はいる。大勢の人が集まれば、了解不能な主張をする人が必ずいる。だからたまたま自分に理解できない主張にしがみつく人がいたくらいでは僕は動揺しない。しかし、「今までこうしてきた」や「良いこと」を根拠にする人達は驚くほど多い。むしろ目的を達成する可能性の高さを吟味して行動を選択する人よりもよほど多いかもしれないということに次第に気づき、僕の頭の中は混乱するばかりなのであった。そのような状況の中で上記のマックス・ヴェーバーの言葉に出会ったのである。
 ヴェーバーは「社会学の根本概念」という書籍の中で、社会的行為は四つの種類に区別できると説く。
(一)目的合理的行為。これは、外界の事物の行動および他の人間の行動について或る予想を持ち、この予想を、結果として合理的に追求され考慮される自分の目的のために条件や手段として利用するような行為である。
(二)価値合理的行為。これは、或る行動の独自の絶対的価値 ー 倫理的、美的、宗教的、その他の ー そのものへの、結果を度外視した、意識的な信仰による行為である。
(三)感情的、特にエモーショナルな行為。これは直接の感情や気分による行為である。
(四)伝統的行為。身についた習慣による行為である。
(清水幾太郎 訳)
まさに、僕が常々考えていた人の振る舞い方の類型に名前が付いているではないか。特に、目的合理的行為は基本的に僕が意識している振る舞い方であり、価値合理的行為は僕が謎に感じ、理解に苦しんできた他者の行動パターンである。ヴェーバーは、価値合理的行為の意味は行為の結果ではなく行為そのものであり、そういう意味では感情的行為と共通しているとも述べている。つまり、善を為すという究極的な目的はあるが、その行為によって直接もたらされることを期待する具体的目的に欠けているのである。このことは、「良いこと」を根拠に行動する人達の目的意識の乏しさに該当する。
 なるほど、古今東西を問わず「今までこうしてきた」や「良いこと」を根拠にして行動する人々は存在したんだ。そして、これらの行為の類型にはきちんと名前が付けられていたんだ。僕は、ヴェーバーの記述を見つけてすっかり安心した。気持ちがずいぶん落ち着いた。と書くと訝る人がいるかもしれない。「ヴェーバーが記述していたからって、何故そういう行為の類型が生じるのかは分からないではないか。あるいは現実に周囲の人々の振る舞い方が自分のそれとは相違している時にどう対処すれば良いかは不明のままではないか。」と。良いのである。自分が一体全体どういうことだろうと思っていたことに名前が付いていれば、それで十分なのである。ましてや命名者がひどく有名で高尚らしい人物であればもう言うことないのである。真に理解していなくても名前を知れば満足というところが、衒学的な人間の衒学的たる所以である。
 最近、学生と話をしている時に目的合理性と価値合理性という言葉をひけらかしたくなった。「あのね、君。ヴェーバーって人が人間の振る舞い方には4つの類型が在るって言ってるんだよ。知ってる?知らないの。じゃあ教えてあげるよ。まずね、ん?えと、理念だっけ?理想だっけ?何かそんな種類の合理性と、う、う、う、手段だっけ?方法合理性?まあなんだ、目的を達成するのに上手いやり方を選択するって場合とだな、、、」僕は底の浅い衒学的人間にさえなれない。