2015年10月8日木曜日

発達障害の診断と料理

 妙に落ち着きがない、ぼんやりしている、他の人とうまく付き合えない、言動が乱暴など、親や学校の先生が子供の日常的な振る舞いに不安を感じた時、近頃では大概の人がもしかしてこの子は発達障害ではないだろうかと考える。そうなると紆余曲折を経た上で多くの場合は病院を受診しようという話になる。「紆余曲折」の部分も色々大変な問題があったりするのだが、今回はそのことには触れない。
 積極的に、あるいはしぶしぶ病院を受診しようと親が決意してから、診断がつくまでが結構大変な工程になる。まず、発達障害を専門に診療を行っている病院はどこも受け入れキャパシティを超えた患者が受診するため、予約を入れてから実際に受診するまでひどく時間がかかる。1、2ヶ月待たされることはザラで、病院によっては半年待ちになる。だが、ここでは予約待ちの話をするつもりもない。取り上げたいのはそこから先である。
 実際に病院を受診して、診断ないし何らかの結論がでるまでに結構な手間がかかる。僕が関わっている病院の場合を例にとれば、最初の受診でおおよその受診理由の聴取と診察により大体の問題の方向性を決め、検査(知能検査や他の認知機能検査、必要に応じて脳波検査などの医学的検査も)をし、改めて疑わしい障害の診断基準に沿った病歴聴取を行う。その間、家族や学校の担任に種々の質問紙の記入を求めることも多い。何やかんやで3回前後、全部で3時間余りを費やした上で診断を出すことになる。当然、とりあえず診断を出せばそれを本人や家族に説明するのでその時間も必要である。全過程の中で、検査に要する時間も長いが、会話をしている時間が最も長い。日常全般にわたり困っていることや、困っていなくても振る舞い方・考え方の特徴など、根掘り葉掘り聞き出さないと信頼性の高い診断に辿り着けない。
 複数回にわたり長時間受診しないといけないとなると、結構患者や家族の負担になる。しかも、「正しい診断をし、適切な対処を計画していく以上は必要なことなので仕方がない。」と言い切れないところがあり、問題は複雑である。率直に言って、発達障害の評価診断に関してこれだけのことをやれば必要十分というものはない。3時間どころか10時間かけても一分の隙もない完璧な診断ができる訳ではない。逆に、何に困って受診したのか5分か10分程聞けば、精度は落ちるものの診断して多少の助言をすることも可能である。いやそれどころか、こういった問題は受診しなければ絶対駄目とも言えないのである。実際、20年くらい前にはこの程度の問題で病院に行くなどとは考えもしない人が圧倒的に多かっただろうし、今現在でも発達障害的特性を持った子供を育てながら病院に行かない人は大勢いる。それでもその子供たちは暮らしている。
 こういった問題で病院を受診するということを一体どのように理解すれば良いのだろうとぼんやり考えている時にふと閃いた。それは「発達障害の評価と診断は、料亭の料理に似ている」説である。まあ、無理やり感満載だが書き残すことにした。

・手間暇を掛けた料理は、雑に作った料理と必ずしも大きく変わらない
 一般的に料亭の料理は家庭料理に比べて手間暇をかけていると思われるが、かけたからといってそのことが食べる側に理解できるとは限らない。実際にその手間がほとんど何も結果に影響しない場合もあるし、違いがあったとしてもそこに気付けるかどうかは食べる側の味覚や知識にも影響される。発達障害の診療も、手間暇かけたからといって必ずしも結論が大きく変わってくるわけではないし、何らかの違いが結果に反映されたとしてもそれが患者・家族にとって大きな意味を持たないこともある。

・手間暇を掛けたからといって美味しくなるとは限らない
 これは前項と同じ。

・手間暇をかける料亭ほど事前の予約が必要だったり、料理が出るまでに暇がかかったりする
 当然手間暇をかけるほど料理人一人当たりが用意できるお膳は減少するし、一品一品が出来上がるまでに時間もかかるだろう。かけた手間暇が真っ当な形で結果(味)につながり、客にも評価されている場合(つまり人気がある場合)、飛び込みで席が空いている確率は低くなり、随分前から予約しておく必要がある。診療も同じで、丁寧に時間をかけて診療するほど医師一人当たりが診療できる患者数は減少し、結果診察を受けるまで待たされることになるし、1回当たりの診療時間も長くなる。

・料亭なんか行かなくても生きていける
 確かにそうなのである。単に生きていくためには料亭もレストランも必要ない。同じ様に、繰り返しになるが、実生活での行動に何らかの問題があっても、病院を受診しなくても多くの子供は破綻せずに生きていける。

・適切な手間暇を多く掛けた料理は、それだけ深みがある
 ここまでネガティブなことばかり並べた。とはいえ、適切な材料に適切な手間をかけた料理は価値がある。平均的な人が自分で作った料理や、ファーストフードとは大きく異なる。人に日常とは異なる新しい経験をもたらす。もちろん、その違いを楽しめない人にとっては意味がないかもしれないが、経験することで新たに目を開かされることは多いと思う。自らがかなりの料理の腕を持っている人であれば、新しいスキルや発想に接することで日々の料理体験をより豊かにすることができるかもしれない。発達障害の診断も、丁寧な手間暇をかけるほど、より子供のリアルな日常の具体に基づいた結論を出すことができるし、その後の様々な生活場面における支援の計画にもつなげていくことができる。もともと子供についての理解が深く、適切な対応ができている親であっても、体系的な評価をもとに子供の特性について説明されることでより客観的な理解を得ることができるかもしれない。

・使える材料が多いほど、多くのニーズに対応できる
 もちろん使いこなせるアイデアと技術があれば、という話だが、多くの食材を必要に応じて手に入れることができれば、それだけ多様なメニューを準備できる。様々な顧客のニーズに応えることが可能となる。発達障害児の診断においても、臨床医が素養として身につけている領域(小児科学、小児神経学、精神医学、心理学など)の数、スタッフの人数や専門性の種類、利用可能な診療設備などが多い程、より幅広い患者のニーズに応えることが可能となる。ただし、ニーズの多さと利用可能な資源との現実的なバランスが必要だが。また、医療では料亭以上に必要のないことをしないようにする配慮が必要となる。

・手間暇を掛け多くの素材を使い分けられる料理人は簡単な料理を作ることも出来るが、その逆はない
 強迫的な思い込みで手間をかけている人は別にして、適切な材料に適切な手間を十分にかけられる料理人であれば、入手可能な材料と使える時間に応じて簡略化した料理を用意することは可能だろう。その逆に、簡単で大雑把な料理しかしたことがない人が突然珍しい材料を取り入れ複雑な工程を必要とする料理を作るように言われても難しいに違いない。同様に、発達障害の診断をできるだけ丁寧に時間をかけて行っている医師は、使える時間も利用できる検査も少ない状況であってもそれなりに効率の良い情報収集に基づいてできるだけ今後の対応に役に立つ結論を出すことができるだろう。それだけではなく、そういう制約の多い状況においてたどり着いた結論にはどういう限界があるかも明瞭に意識した上で診断できる。

 さて、どうだろう。料亭の料理と診断が類似しているとして、それに何の意味がある?程度の話だ。発達障害の診断のために受診することは全てを犠牲にしてまで優先するほどのものではないけれど、でもそれなりに価値はあるよという話。