2014年10月30日木曜日

井出草平 著「アスペルガー症候群の難題」

これは2つの意味において挑戦的な書籍である。第1に、アスペルガー症候群患者の犯罪をテーマとしており、しかもアスペルガー症候群では一般の人に比べて犯罪のリスクが上がるという文脈で書かれていること。第2に、徹底的に客観的な証拠にこだわっていること。論点となるデータはすべて専門家の手による学術論文か、ジャーナリストによる長期取材の記録である。特に多数例を対象とした数量的研究が存在するときは、できるだけそのデータを示している。一般の人を対象とした新書版ということを考えると、この2つの特徴を持っていることはかなりの冒険だったのではないかと思う。
 まず、上記の第2点目についてコメントしておく。科学的に確かな主張をする上で重要なことは根拠を明確にするということである。何かを主張するための論拠として、批判に耐えうる様々な観点からの客観的なデータが必要である。可能な限り、多数例から統計的に明確に主張できることを論拠にするべきである。また、論拠として引用したデータの限界も指摘しておくべきである。そうすることによって、その主張がどの程度「確からしいか」を推定することができる。科学的な研究に慣れている人であれば、そういうことに配慮した主張はすっきりして腑に落ちる。しかし、どうも一般の人はそうではない。七面倒臭い議論になじめない人が圧倒的に多いのではないかと思う。白か黒か、結論を明確に述べることを公的な議論でも求める人が多い。記憶に新しいところでは、福島の原子力発電所の事故でも、専門家の丁寧な説明よりも、危険か危険ではないかの二者択一の主張の方が人口に膾炙した。世の人々は面倒臭い議論が嫌いなのである。単純化した、明確な結論だけを提示することを好む一般の人向けの新書に、徹底的にデータを重視した記述をするということはかなり珍しい書籍ではないかと思う。以下の記述にも関係が深いことを再度強調しておくと、客観的データを重視するということは、不確かなことをどの程度不確かかということも添えて記述するということである。不確かなことだからと単純に否定するとか強固に肯定することは科学的な態度ではない。
 さて、第1点目のことに関して幾つか僕が考えたことを記しておく。その前に断っておくが、本書では「アスペルガー症候群」という言葉を、知的障害を伴わない自閉症スペクトラム障害の意味で用いている。したがって、ICD-10やDSM-IV、あるいはその他の研究者が定義したアスペルガー症候群とは微妙にニュアンスが異なっている。本書ではまず、アスペルガー症候群あるいは自閉症スペクトラムとはどのようなものであるかを説明し、アスペルガー症候群の患者が引き起こしたと考えられている幾つかの最近の事件を簡単に紹介している。次いで、アスペルガー症候群では平均的な人に比べて犯罪が多いのかどうかを検討している。
 アスペルガー症候群で犯罪のリスクが高いかどうかを明確にするためには、アスペルガー症候群患者を子供の頃から前方指摘に長期間追跡し、犯罪を犯すものがどの程度の割合で認められるか、つまり犯罪率を検討する必要がある。しかし、現状ではそのようなデータはない。そこで筆者は「犯罪親和性」として家庭裁判所に送致された人の中でアスペルガー症候群と診断される割合と、一般有病率との比を検討している。その結果、アスペルガー症候群は一般有病率に比べて家庭裁判所に送致されたものでの診断率が5〜30倍ほど高い。このことから、平均的な人々に比べてアスペルガー症候群患者では犯罪を犯す人の割合が高い可能性が考えられる。著者は非常に慎重に、この「犯罪親和性」のデータで確実なことが証明できたわけではなく、犯罪リスクが高い「かもしれない」ことを示しているにすぎないことをページを割いて説明している。また、仮にそうであってもアスペルガー症候群のうち犯罪を犯すものは数%から1割程度にしか過ぎず、アスペルガー症候群の一般人口における割合は0.5%程度であることを考慮すると社会的な影響が著しく高いわけではないことも説明している。
 続いて、アスペルガーの犯罪の特徴を整理している。犯罪種別としては傷害・性犯罪・放火・窃盗・ストーカーが起こりやすい。圧倒的に多いのは対人関心接近型と称されるもので、自分のとった行動が現実社会にどういう影響をもたらすのかを認識しないままに、アスペルガーに特異的な人との関わり方や距離の取り方の奇妙さの延長線上に生じる犯罪である。また、純粋な興味とこだわりに基づいて犯行にいたる実験型も比較的多い。アスペルガー症候群患者が犯罪を犯した場合、再犯率が高い可能性がある。小規模の調査であるが再犯率は75%にのぼるという指摘もあり、医療機関による再犯の防止は現状では期待できない。
 アスペルガー症候群では何が犯罪の危険因子や予測因子になるのだろう。一つのキーワードとして、暴力的な噴出を繰り返す児童に対して杉山登志郎さんが名付けた「暴力アスペ」についても度々言及している。杉山さんによれば「一人いれば学級崩壊になってしまうほど」の子供達であり、高機能児の5%程度とされている。ただ、この「暴力アスペ」が実際に犯罪に結びつく主体なのかどうかは明らかではない。虐待経験は重要な意味がありそうである。触法行為の発生は、ネグレクト経験があると6.34倍、身体的虐待があると3.73倍に増加することが示されている。ただ、虐待経験だけで全ての触法行為を説明できるわけではない。
 さて、以上のような話がかなりのページ数を割いて述べられているのである。これを読んだ人がどういう感想を持つのかということが心配になる。日常、自閉症やアスペルガー症候群と縁のない人であれば、アスペルガー症候群とは実に恐ろしい「病気」である、位のことを考えるかもしれない。一方、家族や自身がアスペルガー症候群の場合、この本がアスペルガー症候群と犯罪の強固な関係を主張しているように感じ、差別を助長するものだと怒りを覚えるかもしれない。実際、早速怒りをぶつけるブログも公開されている。この点は作者も十分に意識しており、データの持つ意味や解釈の限界を繰り返し説明しているし、アスペルガー症候群患者全体の中で実際に犯罪を犯すものは少数であることや、犯罪全体の中でのインパクトは決して大きくないことを繰り返し述べている。書籍のタイトルに「犯罪」という言葉を使わず、「難題」としたのも、興味本位の取られ方をしないための配慮ではないかと思う。それでも、物事を程度問題として理解することや反証も含めて複数の側面から検討することを苦手とする人々がこの本を中途半端に読んだとき、誤解に満ちた解釈をし、それを広める人たちがいるのではないかと僕も心配になる。これが本書が新書として出版されたことに対して「挑戦的」と感じた大きな理由である。
 ただ、著者の考えは大変納得できる。犯罪は大きな問題である。被害者はもちろん、加害者となった人にとっても不幸なことである。アスペルガー症候群が犯罪のリスクになる「可能性がある」のなら、それをより正確に検証すべきである。そして犯罪リスクが確認されたのであれば、合理的な対策を講じねばならない。検証することや対策には資金、人材、制度など様々な社会資源を投じねばならず、社会のコンセンサスを得る必要がある。しかし、明確ではないからといってベールに覆ったままにしておくとこの問題に関する社会的認知を得られない。結果的に、いつまでも大した対策がなされることもなく、将来の犠牲者(被害者だけではなく、犯罪に走る本人も)を救うことができない。情緒的で根拠のない言説を繰り返すのではなく、現時点で明確になっていることを最大限、明らかにしていくべきである。著者が新書版でこの問題を取り上げたのは、おおよそこういった考えがあってのことのようだ。ともすれば情緒に流されやすく、問題を単純化しやすい一般社会に対して、このような根拠に基づく客観的な情報提供がなされるようになったことは、進歩なのかもしれない。
 詳しく述べないが、この本ではアスペルガー症候群の犯罪リスクだけを指摘して終わっているわけではない。この難題に対して薬物療法をはじめとした現在すでになされている対応や、進展しているADHDと犯罪リスクの研究から考えられる将来へ向けての提案も記述している。また、対策だけではなく、医療観察法などの司法での取り扱い、厳罰化傾向への批判、特別支援教育の制度上の問題点、薬物療法にまつわる倫理的問題など、様々な観点からこの問題を論じており、著者の学識の広さを窺わせる。
 著者の井出草平さんのことは、1年以上前にたまたまSYNODOSの記事を読んで知った。その記事ではDSM-IVからDSM5への自閉症診断基準の変化とアスペルガー症候群の位置付けについて非常に精緻な解説をしておられた。専門が社会学とのことで、こういった分野が社会学者の主なテーマになるのか、井出さんが特殊な興味を持たれたのか、僕にはわからない。以後、twitterでも井出さんの発言を読むようにしているが、根拠や論理を明確にしたしっかりとした発言をされる方という印象を持っている。
 本論とは関係ないが、最後に個人的に引っかかったことを一つ述べておく。診断に関する考え方についてである。井出さんはかなり診断をカテゴリーとして厳密に捉え、アスペルガー症候群ないし自閉症スペクトラムと定型発達者は連続的につながっているという考え方に否定的である。診断が家族や本人に及ぼす心理的、社会的影響を考えると、過剰診断につながりかねない定型発達者まで含めた連続性を強調することに疑念を抱くことは理解できる。
 しかし、現実の臨床においてはこれはかなり難しい問題である。自閉的特性をなにがしか有する子供がいた時、とりあえず「障害」か否かを判断することはできたとしても、その判断は結構不安定である。自閉症スペクトラムではないと判断しても、いずれ生活の困難が明確になることはままある。一度「違う」と宣言してしまうと、本当に困った時の対応が後手に回りやすい。そのため、迷った時は自閉的な特性があることを家族に説明し、慎重に経過を見ていくことになる。どうしても診断するかどうかの線引きを曖昧にせざるを得ないのである。臨床家の多くはこのことで悩ましい思いをしているのだと思う。杉山登志郎さんは、適応障害に至っている状態が障害であり、特性はあるもののうまく適応できている状態は「発達凸凹」と名付けて経過を見ることを提唱しているが、これも自閉症スペクトラムと定型発達者の境界の曖昧さを凌ぐための工夫だろう。ただ、「発達凸凹」という概念を作ると、結局は定型発達と凸凹、凸凹と自閉症スペクトラムという2つの境界を判断する必要が出るし、発達凸凹と判断してもその意義を説明する際には自閉症スペクトラムであるリスクを説明せざるを得ない。
 カテゴリーにこだわることのもう一つの問題は、教育や保育の現場で働く人が診断の有無にこだわってしまうことである。自閉的特性のある子供を支援するときに、病院での診断名にこだわってもほとんど益はない。むしろ、個々の子供の中に自閉的特性を連続的なものとして確認できる方が合理的な援助が可能となると思う。こういった理由から、僕自身は自閉症スペクトラムという状態を定型発達者に繋がる連続的な概念として理解した方が良いと考えている。

追記)誤植を1つ見つけた。p41に「オーストラリア生まれのハンス・アスペルガー」と記載されているが、アスペルガーが生まれたのはオーストリアである。

2014年10月27日月曜日

匙加減

医師に批判的な人は多いが(その中には頷ける意見も少なくないが)、当然のことながら真面目に熱意を持って仕事に取り組む医師も多い。僕が直接交流のある医師に限れば、むしろ真剣に診療に取り組む人の方が圧倒的に多いと思っている。まあ、どんな職業領域でも外部の人間が考えるよりは当事者達は真面目に頑張っていることが多いのかもしれない。とはいえ、明らかに問題な医師が存在することも確かである。ろくに勉強しないとか、変な思い込みで判断するとか、色々な医師がいる。一般の人にとっては、私利私欲に走る医師と、患者の気持ちを蔑ろにし偉そうな医師が、問題のある医師として最も思い浮かべやすいイメージではなかろうか。
 僕が医師になって5年目に赴任した病院の先輩から「肺炎医者」という言葉を教えてもらった。全国的に通用するのか、その先輩が勝手に作った言葉なのか不明だが、意味は次の通りである。咳と発熱で受診した比較的元気な患者の胸部X線を撮り、何も所見がなくても「うーむ、これは肺炎ですね。入院しましょう。」と説明して入院費を稼ぐ医師のことである。実際、これに類することを日常的にしでかす医師は実在する。これなどは典型的な私利私欲に走る医師だろう。
 世界医師会(WMA)が作成した医の国際倫理綱領では「医師は、医療の提供に際して、患者の最善の利益のために行動すべきである。」と規定している。当然、上記の「肺炎医者」はとんでもない話である。しかし、患者の最善の利益を目指せば、物事は極めてシンプルであり、迷う余地などないかといえば、必ずしもそうではない。様々な医療的判断を下す時に、白か黒か決めがたいことが多い。患者の容態を改善すると確信を持って投与した薬の副作用で、却って状態を悪くすることがある。大概の治療法には僅かな確率であっても事態を悪化させる可能性を秘めている。確率的に判断できるような情報がある場合はまだましで、五里霧中の状態で判断を迫られる事態も多い。また、患者の希望に添って医学的には明らかに患者にとって不利な状況を選択することもある。エホバの証人の信者に対して輸血治療を控えることがその例である。
 これらのことはまあ仕方がないと、多くの人は納得できるのではないかと思う。しかし、倫理的にもっとグレーな問題がある。検査をすべきかどうか一概には結論を出せないとき、治療するかどうかどちらを選んでもそれなりに理由があるとき、医師は診療費が上がる方を選ぶ傾向がある、と思う。勿論様々な理由で例外は生じる。例えば、経済的に貧しい患者が相手であればとにかくお金がかからないことを第一の原則とすることがある。しかし、一般的な診療においては病院経営に有利になるような判断に傾きやすい。医師が営業努力をすると聞けば、眉をひそめる人は多いと思う。とにかく世の中金勘定を表に出すことを嫌う人が多い。私財を投げ打って患者に尽くす医師が名医のイメージである。しかし、これは本当だろうか。
 多くの人にとって医師や病院との付き合いは一時的なものである。しかし、医師側から見れば次々と新たな患者の診療をせねばならない。一人の患者の診療が終了しても、そこで医師の活動が終わるわけではない。次から次へと新たな患者の診療を続けなければいけない。もちろん患者個人にとっても慢性的な病気になれば長く医師と付き合う必要が生じる。つまり、医師や病院にとって「継続性」は極めて重要なキーワードとなる。責務と言って良い。継続性を確かなものとするためには、患者のことだけを考えていてはいけない。医師自身が、あるいは病院が組織として、継続可能な状態にあらねばならない。例えば、一人の医師は自身の心身の健康を維持し続けないといけない。一時の熱情に駆られて寝る間も惜しんで診療を続けると、早晩その医師は潰れるだろう。それでは医師の責任は果たせない。病院はといえば、大儲けをしなくても良いが職員の給料を払い、施設のメンテナンスをし、医療技術の進歩に見合った設備投資をし続けないといけない。潰れてはいけないのである。ここに医師が様々な判断をする際に経営を意識せざるを得ない状況が生まれてくる。患者のことだけを考えていれば経営が成り立つシステムが必要と主張したい人もいるかもしれないが、それは医師や病院の責任ではない。政治、行政、そして有権者の責任である。医師や病院は現状のシステムの中で、診療を継続し続けねばならないのである。明らかに患者に不利な判断はしない。しかし病院を潰してもいけない。非常にグレーな状況の中でバランスをとることになる。とりあえず現状の中で医療を継続させていくために、医師は処方以外にも匙加減に気を配り続けねばいけないのである。

2014年10月21日火曜日

現場至上主義

政治家で現場を自分の目で見ることを重視する(と、強調する)人が多い。現場を見ることでの気付きを重視しているのだろう。現場を自分の目で見、現場の声を自分の耳で聞くことによって、それまでは自分に欠けていた情報を知り、思い込み、誤解、偏見、考えの足りない点を改善できるということであろう。確かに、現場の状況に興味を持つことは悪くない。まるで現場の状況に興味を持たない人が政策を考えるよりも良いと思う。しかし、僕は現場を見ることをやたらと強調したがる人に不安を感じる。それは、そういう人は自分の体験を絶対視しそうな気がするからである。
 人間の経験は限られている。長年ある現場で働いてきた人でさえ、個人の意見は必ずしも全容を表現していないし、誤解に基づく誤ったものになっているかもしれない。ましてや短時間現場に赴き、限られた場面を見て、限られた人の話を聞いた経験がどれほどその領域に対する知見を深めるかと考えると、甚だ怪しい。情報のサンプリング数があまりにも少なすぎる。たまたま自分が見聞きした情報が極めて偏っている可能性があり、わずかな経験に基づく推論の精度は極めて低い。サンプリング数以前の問題もある。観察・評価手法の適切さといえば良いだろうか、適切な対象から適切な方法で情報を得ようとしているかということである。例えば、ある会社の労働実態を知ろうとした時、その会社の広報部門の社員の話を上司が監督している公開の席で聴いたとする。その場合、その会社にとって都合の良い話しか出てこないことは考えなくてもわかる。自分が知りたい情報を得るためには一言で現場を見るといっても、いつ、どういう対象を選択するかは重要な条件になる。
 繰り返しになるが、現場の実態を自分の目で見ることは良いことである。というよりも現場の実態から得られる情報を重視することは当たり前であり、物事を考える上での前提条件である。霞が関の役人が頭で考えた調査項目を全国にばらまき、それによって収集した情報のみを根拠に政策立案をするということがあるのなら、実態にそぐわない政策になる可能性が高い。その場合、現場の状況を直接見たり、現場の声を直接聞くことは重要な計画修正につながる可能性がある。しかし、現場で見聞きした体験から得られた気付きだけに依存して計画を進めると、それはそれで誤った判断をする可能性がある。現場で見聞きしたことによる気付きから何をどう進めていくのかを考える時、もっと深く実態を検討した書籍や報告書を探すべきだし、足りなければもっと包括的な、あるいはもっと深く掘り下げるための調査を実行する必要がある。しかし、世の中は「現場」という言葉を重視しすぎているように思う。時には神格化さえしているように思う。現場重視をやたら強調する人を見るとき、果たして現場で得られた気付きを超える客観的な考察を広げる気があるのだろうかと不安になるのである。
 今、僕は保育・教育系の大学に勤務している。この業界も現場信仰が強い。下手をすると現場経験年数が客観的データを遥かに上回る論拠になりやすい。しかし、広くデータを集める努力(つまり勉強)を欠いたままに経験年数だけが長くなると、無意味なばかりか誤った信念を増強して有害でさえあると思うのだが。

2014年10月9日木曜日

反抗挑戦性障害

反抗挑戦性障害と診断される子供達がいる。こういう子供は些細なことで腹を立てやすく、人に(特に大人に)突っ掛かりやすく言葉尻を捉えては議論しようとする。そして、意地悪で執念深いことがよくある。一言で言えば、可愛げのない小憎らしい子供達である。
 こういう状態になる原因や機序は自閉症程には分かっていない。といっても、自閉症自体が謎に満ちているので、反抗挑戦性障害は謎だらけである。元々の脳機能や気質と関連する可能性も指摘されるし、ネグレクトや懲罰的しつけなどの養育環境との関連も指摘されている。遺伝的要因も否定できないのだが明確な証拠もない。要するに原因は分からないのである。「反抗挑戦性障害」という均質な集団がいるかどうかも分からない。最近では、幾つかのサブタイプが含まれているのではないかと主張されている。例えばBoyla(2014)は反抗挑戦性障害を刺激依存型、認知的過負荷型および不安型の3型に分類することを提唱している。ただ、現時点ではそういった分類の妥当性は明確ではない。まあ、つまるところ何かといえば口を荒らし、いらいらし、反抗的な言動をとり、ともすれば喧嘩を売る子供達である。
 単なる小憎らしい悪ガキに診断名を冠して特別に配慮することには意味がある。反抗挑戦性障害の子供達は思春期前後に暴力や盗みなど非行に走る子供が一定割合存在する。誤解されないように説明しておくと、反抗挑戦性障害と診断された子供の大半は非行に走らない。ただ、平均的な子供に比較すると深刻な問題を起こす頻度が高いのである。また、不安障害やうつ病になる頻度も平均的な子供に比較すると高い。成長過程で、こういう将来建設的に暮らすことの障害となる現象を何とか回避できるかどうかが大きな問題となってくる。どうすれば良いのかと言えば、なかなか簡単に答えられることではないのだが、こういった子供達が社会を信頼出来ることに加え、自分の評価を落とさないように支えるサポートが必要なのではないかと思う。
 反抗挑戦性障害の子供に関して、僕個人の中に確信めいた認識がある。客観的に証明されていることではない。単に経験上形成された個人的な考えである。それは、彼らは「懐いてくれる」ということだ。上に説明したように取っ付きの悪い連中である。とにかく口を開けば人の気に障る発言のオンパレードだから。ただ、そういう憎たらしげな物言いに引っかからずに、その子の言動を良いように良いように解釈した発言を繰り返すと、いつの間にか気を許し、素直に受け答えをする様になる。まるで、それまで必死に自分の周りに築いて来た防御壁を、自らあっさり壊してしまったような。「警戒体制解除!」である。そうなると、おいおいそこまで不用心で良いのかい?と尋ねたいくらいになることもある。
 恐らく僕が初めて経験した反抗挑戦性障害の子と出会ったのは20年近く前である。おおよそ彼が小学校にいる期間を付き合った後、僕は当時の勤務先をやめ別の病院に移ることになった。最後の診察時に、その「悪ガキ」は無愛想な口調で僕が辞めることが如何に残念かをぼそぼそと語り、半泣きで見送ってくれた。それ以降、似たような経験を時々する。正直にいうと、行動の問題で幼児期ないし就学頃から経過を見始める子供の場合、繰り返し受診するのは親中心のことが多く、短い期間で繰り返し本人と面接できる機会は割と少ない。そのため、僕の抱いている「確信」は広く一般的に通用するものであると断言はできない。しかし、繰り返し本人に好意的な言葉をかけ続けた時に、一気に懐いてくれて、素直に話が出来るようになる反抗挑戦性障害の子供達は、全員とはいえなくとも、少なくないのではないかと考えている。そういう子供達は責められている時には頑に鎧をかぶっているが、好意的な態度にはめっぽう防備が手薄なのである。そこに彼らを少しでも暗い将来から遠ざけるための鍵があると思う。だから、子供達が口を荒らしたり反抗的な悪態をつく度に逐一叱責する指導者や親を見ると悲しくなる。「もっと忍耐強く待てませんか?あなた自身、我慢が大切と主張しているじゃないですか。」と言いたくなる。

2014年10月3日金曜日

決断する

発達障害の診療をし、その辺りのことを学生にも講義していると、自分自身の能力のアンバランスさに色々気付いてしまう。発達障害や神経心理学に首を突っ込むよりも遥か前から自分のことをバランスの悪い人間だなあと気がついていたが、最近それが非常に具体性を持って認識でき出した。発達性読字障害に該当するのではないかということについては既に書いたが( http://amnesictatsu.blogspot.com/2014/08/1.html )、他にも注意散漫さ、衝動性、機械的暗記やエピソード記憶の拙さ、運動能力やリズム感覚の粗末さなど、一つひとつ確認していくと次第に目の前が暗くなり、うなだれてしまう。そうそう、子どもの頃から十二分に自覚していたことがあった。それはかんしゃく持ちということである。ほんの些細なきっかけで、自分でも不思議な程の怒りが吹き出すことがよくあり、間欠性爆発性障害と診断しても良い。
 などなど自分の弱いところを並べ立てると身の置き所がなくなってくる。子供達の指導の基本は出来ないことよりも出来ていることや、弱みよりも強みに注目することである。自分に対しても同じ配慮をした方が良いだろう。では、僕の強みは何かと考えてみるが、なかなか自分では何に強いのか分からない。ただ、ひょっとするとこれは自分の強みなのかもしれないなと最近思うことが一つある。それは、物事を決めることが割と速いということだ。特に、選択肢が明確な事案ではあまり時間をかけずに決断する。もちろん、熟慮することなく決めていくことは必ずしも良い結果に結びつかないので、決断が速いことを単純に「優れている」とは言えない。実際、僕も「あー、もっとよく考えればよかった」と後悔することが多い。ただ、物事を決めるという過程は一つの能力かもしれないなあと最近よく思う。
 何故そう考えるようになったかと言えば、なかなか決められない人物をよく目にするからである。仕事をしていてもしょっちゅう遭遇するのであるが、このことを意識し出したきっかけは次男である。既に成人した今ではさほど目に付かないが、子供の頃はケーキ屋で食べたいケーキを選ぶだけで随分時間をかけていた。日常、楽器やスポーツなど何かの活動に興味を持っても、それを始めるかどうか考えているうちに月日が経ち、チャンスを逃すことが多かった。次男以外では、最近の極めつけは年老いた母親である。昔はそうでもなかったように思うのだが、今はうどん屋で何を注文するのかさえ人に任せようとする。僕にしてみれば何をそんなに悩む必要があるのかよく分からないのだが、「決める」ということはかなりエネルギーを必要とすることらしいのだ。年を取るとともに決める力は低下するようである。
 ある案を採用するか否か、あるいは複数の案のいずれを採用するか、といったことを決定しないといけない時、概ね次のような作業をすると思う。まず、何時までに結論を出す必要があるのかを考える。次に、特定の案を採用することおよびしないことそれぞれの利点と欠点のうち、現在明確に分かっていること、ある程度推測できること、現時点でほとんど情報がないことをリストアップする。そして、悪い結果として何が予想でき、その深刻度や対処法の有無を考慮に加える。これらの思考を経て物事を決めている。後先になるが、これらの作業の前にその問題が公的なものか私的なものかとか、重要度が高いか低いかといった重み付けもしており、これも考慮して結論を出す。
 自分で分析する限りでは、僕が物事を決めるのが速い主な理由は、曖昧な情報にあまり捕われないことのようだ。不確かな情報をもとにあれこれ考えても何か進展がある訳がないと考え、そこに時間をかけないのだと思う。不確かな情報をもとに考えることが可能なことは、せいぜいある幅を持って起こり得る可能性をリストアップするまでである。ましてや情報がないことについては考えるだけ時間の無駄である。従って、情報を得る手段がないと判断した時は、その要因について考えることは直ちに放棄してしまう。どうも無駄なことが嫌いらしい。面倒くさがりなのだろう。成果のないことにとろとろと時間やエネルギーを費やすことが嫌いで面倒くさくてたまらないのだ。また、考えても得ることのない問題については運を天に任せると割り切ってしまうらしく、さほど不安も感じない。まあ、能天気な人間なのだろう。
 決断できない人々は曖昧なことや情報の無いことで悩んでしまうのだろうか。「万が一~が起こったら」という発想から逃れられないのだろうか。考えた所で結論を出せる訳でもない時に悩むのは無駄だし、根拠も無い不安に基づく「万が一のことを避けたい」にこだわることで、決められないことのリスクが増大するのだが、多くの人はそこで身動きできなくなるのだろうか。本当の所は分からない。しかし、同じ状況におかれても決断にかかる時間は人それぞれであり、結論を出せるか否かでさえ人それぞれであることはどうも確かである。そう考えると、「決断する」ということ自体が人の一つの能力なのではないかと思えてくるのである。
 前述の様に、決断が早ければいつも良い結果を残す訳ではない。「もっと時間をかけて十分に考えれば良かった。」と歯嚙みすることは結構多い。ただ、決めることが早い性格に生まれついて最も損だなと思うことは、自分が熟慮しなかったために失敗したという経験ではない。なかなか物事を決められない人と付き合うことが至って苦手であることだ。選択肢も明確だし、決断の期限も明確だし、取り立てて準備するものは無くただ決断すれば良いと思われることを、それでもなかなか決められない人と個人的に、あるいは会議の席で接するたびに、イライラとしていたたまれなくなるのだ。思わず「代わりに僕が決めましょうか?」と言ってしまいそうになりストレスは弥が上にも高まってしまうのである。全く持って僕はバランスの悪いかんしゃく持ちである。