2018年12月31日月曜日

発達障害の境目

 発達障害の診療をする外来には、「障害なのかどうかはっきりさせるために」と担任に言われ、あるいは親がそう考えて、受診する子供たちが大勢いる。障害かどうか、という問いには意味があるのだろうか。あるとも言えるし、無いとも言える。ただ、意味があるとしてもその実態は受診を勧めた担任や親が想定していることとはかなり異なる。発達障害の中には様々なものが含まれる。中でも核となる病型は自閉スペクトラム症(ASD)、注意欠如・多動症(ADHD)および学習障害である。発達障害には、少なくとも核となる3病型には共通した特徴がある。それは程度問題だということである。


 ASDにしてもADHDにしても、あるいは学習障害でも、個々の人がそれぞれの特性をどの程度持っているかを測定する評価尺度がある。例えば、どの程度ASD的な特徴を持っているのかを評価するツールは複数ある。どの病型の評価尺度でも、普通に暮らす人々を対象に評価し得点分布をプロットすると図1の様になる。横軸は評価尺度の得点を表し、高いほど(つまり右に行くほど)その病型の特性が強い。縦軸は人数である。発達障害の診断を受けていない人々が対象なので、当然大多数の人は得点の低い方に集中する。ただ、図に示した様に、かなり高得点の領域まで長い裾を引くことが普通である。


 図1に、診断された人を対象とした得点分布を重ねたものが図2である。赤い線で示したプロットが診断された人々での得点分布だ。診断を受けた人達を対象にすると一般の人と比較して山が高得点の方に寄る。何らかの発達障害病型の診断を受けた人にその特性が強いことは当たり前である。ただ、ここで注目すべきことは左の低得点領域までかなり裾が伸びていることである。つまり、診断されていない「普通の人」として暮らしている人々と診断された人達には少なからぬ重なりがある。特性が比較的弱くても診断される人もいるし、かなり強くても診断が必要ない人もいる。「普通の人」と発達障害を伴う人の境目は一体どこにあるのだろうか。
 こう考えれば分かりやすい。発達障害特性というものは「普通の人」には認められない特殊な特徴ではなく、人間のバリエーションの範囲内の特徴なのである。分かりやすいのでADHDを例にとって説明する。ADHDは日常的な言葉で言えばうっかり屋さんでぼんやり屋さんで落ち着きのない人である。世の中の人はうっかりしていない人とうっかりしている人に綺麗に別れるわけではない。かなりうっかりの少ない人から相当うっかりの強い人まで様々な人が存在する。その中で生活に支障が出る人、周囲の人の配慮や援助がなければ暮らし辛い人がADHDと診断されることになる。冒頭に書いた「障害かどうか」という問いへの答えであるが、暮らし辛く困っていれば障害なのである。環境に不適応を生じた状態だ。うっかりの程度がどの程度であっても、日常生活において暮らし辛さに繋がらなければ性格とか個性と言えば良い。うっかりすることによって今現在何らかの問題が生じ暮らし辛い時、それが障害による問題なのかそうでないのかを議論することはナンセンスである。問題が生じ暮らし辛いというその状態を障害と呼ぶのだから。そして、この困るかどうか、苦しむかどうかの境目は本人が生まれた時から持っている特性の程度のみによって決まるのではない。暮らしている環境がどの程度その特性を許容できるかどうかとの兼ね合いで決まるのである。


 ここまで書いたことを図示したものが図3である。なんらかの発達障害特性は人間のバリエーションとして非常に弱い人から非常に強い人までが存在するが、多くの人は比較的弱い領域に集中する。その特性が強くなるほど環境への不適応を起こしやすく、発達障害として診断される割合が高まる。図3の赤い斜線で示した部分が診断された人を表す。同じ程度に特性を持っていても、環境の条件が良ければ適応できるし、条件が悪ければ不適応を生じて診断されることになる。
 さて、教育界では2000年前後から10年ほどかけて特殊教育から特別支援教育への変換がなされた。それとあい前後して社会全体にも発達障害が認識される様になってきた。この流れの中で、誰にも気付かれず密かに苦しんでいた人達が見出され、合理的な配慮をすることの重要性に気付かれたことは意義があったと思う。しかし、発達障害の可能性がある子供を見つけ、片っ端から医療機関を受診させることに夢中になっている現状はそろそろ見直すべき時に来ているのではないだろうか。少しでも平均からずれた子供を抽出して医療に委ねるのではなく、多少何らかの特性を強く持っている子供も特に意識することなく暮らせる場を作ることを目指すべきである。



 上で述べた様に、同じ程度の特性を持っている人であっても環境との兼ね合いによって暮らしづらさは変わるし、診断されるかどうかも違ってくる。もしも社会全体が余裕に乏しく少しでも平均から外れた人を受け入れられない状態なら赤い斜線部は左に寄る(図4)。こういう社会では、かなり平均に近い人でも場合によっては暮らしづらくなり障害と診断される。逆に、社会全体が人間のバリエーションを広い範囲で許容できれば斜線部は右に寄る(図5)。より多くの「変わり者」を包摂できる社会である。大勢の人が暮らしやすいのは言うまでもなく図5の社会である。社会全体が一気に図5の様な社会に変わることは難しいだろう。まずは明日の社会を支える子供たちの暮らす場から変えていく必要があるのではないだろうか。そのためには平均からずれた子供たちを掘り起こして片っ端から医療機関に送ることではなく、その様な子供たちが暮らしやすい学校園に変える努力が求められる。

2018年12月16日日曜日

学校園の皆様へ

 発達障害を専門に診療している医療機関を受診する時、保護者が保育園、幼稚園、小学校の先生に受診を勧められたからというケースがかなり多い。それ自体は悪くない。しかし、学校園の担任が受診を勧める過程によってはそれ以降の子供の支援に悪影響を及ぼすこともあり得る。とりわけ、保護者が受診に不本意であり、「させられた」という意識が強い時、問題を残しやすい。ここでは学校園の担任が保護者に受診を勧める際に留意してほしいことを解説する。まず、受診をする最低条件を説明する。次いで、最低条件の説明を念頭においた追加の提案を述べる。
 病院を受診する前に最低限クリアすべき3つの条件がある。それは、1)問題になっている具体的な状況を保護者が十分把握している、2)問題であることを保護者が認めている、3)保護者が受診を希望している、の3つである。以下にそれぞれについて詳しく説明する。

1)問題になっている具体的な状況を保護者が十分把握している

 誤解している人が多い気がするが、発達障害に属する病型の診断は診察や検査によって確定できるものではない。診察のみで診断基準を満たす患者はかなり例外的である。また、発達検査とか知能検査は本人の能力を把握するために重要であるが、ほとんど発達障害の診断根拠にはならない。では何が必要かと言えば、日常生活における行動についての具体な情報である。とりわけ、問題が生じている状況についての詳細な情報が必要となる。通常子供本人がその様な状況を語ることは難しいので、発達障害の診断は保護者からの情報に依存している。保護者が具体的な状況を何も把握していなければ、何らかの診断をすることは困難になる。「大きな問題はないですね」で済んでしまう可能性だってある。そうなると、多くの親は問題がないということにすがってしまい、結果的に必要な援助がなされるまで却って時間がかかることにもなりかねない。
 学校園の担任が熱心な場合、詳細な状況を書類にして提供してもらえる時がある。これは子供を評価する上で非常に役に立つ。ただ、具体的な状況を的確かつ簡潔に文章にまとめることは誰にでもできることではない。多くの場合は必要な情報が十分記載されていない。本当は医師が直接担任に質問し話を聞き出せれば良いのだが、多くの教師・保育者は忙しくてその様な時間は取れない。結局、状況を把握していない保護者から聞き取ったことと学校園からの不十分な情報しかなければ正確な評価をし、結論を出すことは難しいのである。
 話が横道にそれるが、学校園からの情報について補足しておく。学校園の状況を書類で病院に伝える時、それを保護者に見せたがらない教師・保育者が結構多い。しかし、保護者に秘密にした上で医師に情報提供をすることは原理的に難しい。診療の過程で受け取った書類は基本的にはカルテの中にファイルされていく。仮にカルテとは別にして保存するとしても、少なくとも学校園からの情報を診断の根拠の一部とする際には、その情報を学校園から得ていることをカルテに記載する。そして、カルテは患者のものである。患者の求めに応じて見せなければならないし、医師がそれを拒んでも開示請求されたら患者に提供しないといけない。つまり、診療にまつわる情報である限りは、保護者に内緒で医師に提供できると考えない方が良い。このことからも、学校園で観察された具体的状況を初めから保護者と共有するようにしておく方が良い。保護者に内緒で病院に伝えることは、虐待の疑いがあるなど直接受診理由とはならないが配慮しておいた方が良い情報に留めておく方が良い。

2)問題であることを保護者が認めている

 学校園での状況を具体的に把握できたら、次は保護者がその状況を問題として認識できることが必要である。「問題」と表現したが、これはその子供が正常か異常かという観点の話ではない。倫理的な善悪も考慮の外である。ここでいう問題とは、本人が意識できているかどうかに関係なく子供が現在困っている、あるいは近い将来困りそうな状態を意味している。従ってその暮らし辛さを軽減するあるいは予防する必要性がある状態である。言い換えれば、子供が生き生きと建設的に暮らせるようにするためには援助が必要な状況であることを保護者が認識できることが必要である。

3)保護者が受診を希望している

 上に説明した手順を丁寧に踏めば、保護者自身が受診を希望しやすくなる。しかし、ここでは敢えて保護者(ある程度年齢が上がれば子供自身も)が受診を希望することの重要性を強調しておく。以前、ある自治体の教育委員会の職員と話をしていてお互いに気が付いたことがある。教師は良いこととされていることはするのが当たり前と考えがちだ。社会一般の価値観として考えがちなのである。ところが、医療では必ずしもそうではない。医療は基本的に患者との個人契約の上に成り立っている。仮に患者が自ら損をする判断をした場合でも、そのリスクを説明はするが結局は患者の意思を重視する。例えば、特定の宗教の信者が輸血拒否をすれば、たとえ命を救うために輸血が必要であっても医師が無理やり輸血することはない。医師は「教え、指導する」ことが仕事ではない。苦しみを逃れたいという患者の要望を可能な範囲で実現することが仕事なのである。患者自身、あるいは保護者が受診を希望することは、救急医療などの特殊な状況を除き最大限尊重されるべきことである。

 この文章で主として伝えたいことは以上である。ここまで述べたことを元に学校園で子供達を育てている方々へ、幾つかの提案をしておく。まず、保護者が納得していないのに受診を強要することはやめていただきたい。保護者に子供が困っている状況を丁寧に説明し、共に子供を支えるチームの一員として方策を考えていく中で、一つの策として受診を提案することが望ましい。ここまでは学校園の担当者の職務の範囲内である。病院を、問題の存在を親に納得させるための手段には決してしないでいただきたい。本来病院は苦しみから救われたいときに頼ることのできる選択肢の一つである。ところが、不本意な結論を飲まされた場所になると、下手をすれば病院を頼ることができなくなる。
 次に、診断だけが目的の受診は無駄なので、やめることをお勧めしたい。発達障害の診断は対処に直結しない。発達障害を伴う子供達への支援は日常の具体的な問題に対して工夫していくことが基本だからである。注意欠如・多動症で薬物療法を行うなど、一部例外はある。しかし、学校園での支援策が診断によって決まることはない。逆に、診断をしなくても支援はできる。診断名を聞いて適切に子供を指導できるようになったと主張する担任もいるかもしれない。しかし、その様な人は診断名を聞かなくても適切な指導ができるはずである。なぜなら、発達障害を伴う子供に適切な支援ができるということは、診断名が示す子供の行動特徴をよく理解するだけではなく、診断を超えた子供の行動特徴も把握できているはずだからである。そのようなことができる指導者なら、必要があれば病院に頼らなくても自分で診断できると思う。
 最後に、「育て方」や「指導の仕方」について医療者は素人であることを改めて意識していただきたい。教師や保育者が医師に指導の仕方を教えてもらおうとすることは、医師が教師や保育者に診察法や薬の使い方を教えてもらおうとすることと同じ様なもので、極めて的外れな状況である。教師や保育者の皆さんには是非、「育て方」や「指導の仕方」の専門家としての自負を大切にしていただきたい。
 今の発達障害を伴う子供への対応は医療中心になりすぎていると思う。診断が問題になりがちであるためどうしても医療が前面に立ちやすい。しかし、医療が果たせる役割はそう大きくない。一部の薬物療法や、原因疾患あるいは合併障害・二次障害への対応に限られる。もっと教育や保育のシステムの中で、個々の教師・保育者が適切に子供達を指導できる様に支援する仕組みを構築する必要があるのではないだろうか。

【蛇足】
 2000年前後から、中央教育審議会の「特別支援教育を推進するための制度の在り方について(2005)」、2006年の教育基本法の改正、2007年の学校教育法の改正などを経て、特殊教育から特別支援教育へと教育制度が大きく変化した。この流れの中で、それまで日が当たりにくかった発達障害を伴う子供達についての認識が高まったことは大きな成果であったと思う。ただ、特別支援教育への転換が始まってから20年近くが経つ今となっては、そろそろ発達障害を伴う子供達の支援について考え方を修正する時期に来ていると思う。当初は、それまで気づかなかった自閉スペクトラム症や注意欠如・多動症などの発達障害という概念に気付き、その可能性がある子供達を掘り起こしていくことには意味があったと思う。しかし、そろそろ発達障害の可能性があれば兎にも角にも病院を受診させることはやめるべきである。つまり、たとえ発達障害を伴っていても基本的には学校園の中で援助し、育てられる様にしていくべきである。文部科学省も特別支援教育とは「障害のある幼児児童生徒の自立や社会参加に向けた主体的な取組を支援するという視点に立ち、幼児児童生徒一人一人の教育的ニーズを把握し、その持てる力を高め、生活や学習上の困難を改善又は克服するため、適切な指導及び必要な支援を行うものです。 」と述べている。多少平均的な子供たちから振る舞い方や考え方がずれた子供でも、一般の子供のバリエーションの範囲内として包摂できる様に教育の枠組みや指導方法を変えていくべきである。その中で、困難さの度合いが特別高く医療的アプローチの必要性がありそうな子供に限って病院を受診させれば良いと思う。

2018年8月31日金曜日

親と学校園のすれ違い

 発達障害診療をしていると、学校園側と親の認識の差に悩まされることがしばしばある。子供に問題があるという認識が学校園側に強く親に弱いというパターンと、親が強く気にしているが学校園側はなんとも思っていないパターンがある。特に困るのが前者である。親が受診の必要性をほとんど感じていないにも関わらず、学校園側が拝むようにして、時には脅すような言動までとって受診を勧めた結果、親が渋々、あるいは半信半疑で子供を病院に連れてくるという状況になる。
 このような状態で受診されても子供にはほとんどメリットがない。仮に医師が親から聞き取った話だけを根拠に判断すれば、ほとんど問題ありませんという結論になる。親はその結論に飛びつくので、その結果子供は適切な支援を受けるチャンスが遠のくことになる。
 逆に、診察時の観察と学校園側からの乏しい情報を精一杯拡大解釈をして自閉スペクトラム症なり注意欠如・多動症なりの診断を下したらどうだろうか。問題の存在を無理やり押し付けられた親は建設的に子供に接することができるのだろうか。そして親の心中にお構いなく療育だ、特別支援教育だと公的制度に機械的に当てはめられていくことが果たして良い結果につながるのだろうか。長期にわたり誰よりも子供を支えていくのは親である。当然、親こそが最も子供の置かれた状況を正しく理解し主体的に子育てに取り組んで欲しいのに、親置き去りで物事が進んでいくことによって子供にとって適切な生活を保証できるのだろうか。
 親が十分に受け入れられないままに発達障害の診断を急いでも得るものはあまりない。子供が困っている、あるいは困りそうな状況について親と十分に共通認識を形成できるまでは原則として受診させるべきではない。問題点の共通認識を形成することは学校園の教師・保育者が責任をもってなすべき仕事である。何故これが上手くできない担当者が多いのだろうか。
 学校園と親のディスコミュニケーションが生じる要因は色々あると思うが、中でも重要なポイントは親に問題を伝える際に事実と解釈の分離をきちんとできているかどうかではないかと思う。親には解釈を伝えるのではなく日々起こっている事実を淡々と伝えてほしい。単なる事実の伝達なら、担当者が嘘つきと思われていない限りは親も受け入れやすいと思う。正常か異常かという観点や何らかの診断に該当するという前提が前面に出ると、日常問題を感じていなかった親ほど素直に受け止められなくなる。たとえ明確に結論を述べていなくても話の持って行き方によっては担任が子供を異常と考えている、あるいは何らかの障害と見做しているということは分かるものである。いきなり病院受診を勧めればいかなる言い訳をしようが御宅の子供さんは異常ですよ、何らかの診断がつきますよと言い放っているも同然である。焦って病院受診を迫らなくても良いように、あまり大きな問題が生じていない段階から気になる振る舞いがあればこまめに客観的な態度で伝えていくべきである。
 とはいえ、問題となる事実ばかりを繰り返し聞かされると親は凹むものである。何かが上手くできるようになったとか、何かに頑張ったとか、良いニュースも織り交ぜながら伝えるべきだろう。その他にも事実を伝える際に配慮すべきことがいくつかある。まず、徹頭徹尾子供の立場に立って、子供が困らないようにサポートしたいという姿勢を前面に出す必要がある。また、親に解決を迫っていると受け取られないように細心の注意を払うべきである。間違っても、教師・保育者が迷惑を受けて困っていると主張しているように受け取られないようにする必要がある。そのためには、ささやかで良いので自らが次の一手を考えていることを伝えるべきである。伝えてはみても成果が上がらずに終わるということを恐れる必要はない。たとえすぐに成果を出せなくても、子供のためにあれこれと工夫しようとしてくれている先生を親は信頼するはずである。
 このように、教師・保育者自身がなんとか解決の枠組みを構築する中で、その一要素として病院受診を提案すれば良い。困り果てた時に病院に放り投げたらなんとかなると期待したくなるかもしれないが、発達障害を伴う子供たちの支援において病院や医師が果たせる役割は極めて小さいということを認識しておくべきである。もともと病院が関与するかどうかに関係なく、学校園での問題を解決できるかどうかは教師や保育士が自らの責任において対策を工夫し、それを実行していくかどうかにかかっている。

2018年3月28日水曜日

続くことと切れること

 12年前、僕は年男だった。そしてその年に僕は私立大学文系学部の教員になった。我ながら柄にもないと思うのだが、「教育者」になった訳だ。厳密に言えばそれ以前も名目上は大学教員だったのだが、実態は大学付属病院の勤務医だったので教員という意識はほとんどなかった。そして12年経った今年、年男である僕は自分に不似合いな大学教員を辞し、医療職に戻ることになった。ここでは転職に伴って抱いた極めて私的な感情について述べようと思う。それは、転職に伴う罪悪感についてである。
 大学病院勤務を実質的に教職ではないとみなせば、僕が教職を辞するのは今回が初めてである。しかし、医療職として勤務していた施設を辞めることは今までに何度もあった。この度も職を変わるに伴い非常勤医として通っていた病院をいくつか辞めることになった。病院を辞する時、僕はいつも少なからぬ罪悪感を感じる。これは非常勤の病院であっても同じである。何に対する罪悪感かと言えば、長く受診してくれる患者を継続して診られなくなることに対する罪悪感だ。大した力もない僕を、それでも頼ってくれていた患者との付き合いを続けられなくなることに、胸中痛みを感じるのである。
 今年大学を去るにあたり、医療職を辞める時とは違うことに気づいた。あまり罪悪感を感じないのである。もちろん、碌な仕事をしていなかった僕でも辞めるとなれば、僕が担当していた講義の担当者を探すことを始めとする諸々の後始末を他の職員がすることになる。申し訳ないといえば申し訳ない。しかし、これは職務の範囲内である。僕の様な義理人情に薄い人間にとってはもともと大した話ではない。僕がおやっと思ったのは、学生に対しての罪悪感の乏しさである。医師にとっての患者は教員にとっての学生であるからして、辞めるとなれば学生に対する申し訳なさで胸が痛むかと言えばそうでもない。病院を辞めるときに患者に申し訳ないという気持ちが湧いてくるのに、学生に申し訳ないという気持ちは湧かないのである。ただ、唯一の例外がある。それは2年間の付き合いをする予定であったのにたった1年で放り出してしまうことになったゼミ生達である。彼らに対してだけは申し訳ないという思いが強く残った。まさにここがポイントである。本来なら今後も付き合い責任を負うはずであるという継続性があるかないかが罪悪感を覚えるかどうかの境界線なのだ。原則として、教員の仕事は連続性が乏しい。あるいは節目が明確であると言っても良い。基本的に年度ごとに一区切りになる。大学の教員であれば半期の講義ごとに一仕事が済んでしまう。もともと「切りがついた」という感覚を持ちやすいのではないだろうか。一方、臨床医は様々な患者を並行して診ているので、切れ目を感じにくい。特に僕は専門が子供の障害であるため、それぞれの患者との付き合いが何年にも渡ることは普通である。
 ところで、以前から気になっていたのだが小中学校の教師は申し送りをしない。発達障害を伴うなど特別な支援が必要な子供に対して、多くの教師は熱心に対応する。その過程で、その子供についての沢山の気付きがあるだろうし、自ら支援の手立てを工夫することも多いだろう。せっかく積み重ねた貴重な経験を次の担任に伝えれば、子供本人にも次の担任にも大きな助けになるに違いない。しかし、僕の経験する限りでは、旧担任から新担任への引き継ぎが丁寧に行われていることは滅多にない。もちろん例外はあるが。今まで僕は、教師間の引き継ぎが充分にされないのは医師がカルテを書くことに匹敵する生徒個人個人の記録を残す習慣が無いことや、個々の子供ではなく子供集団として考えやすいことが関係しているのだろうかと想像していた。これらに加えて、この度の退職にまつわる個人的感慨から、ひょっとしたら教師は年度単位で考える習慣が身に付き継続性を考慮しにくいのかもしれないなあと気付いたのだ。もちろん僕の勝手な想像であり、不確実な話である。
 さて、来週から新しい職場の生活が始まる。感傷に浸って根拠なく愚にもつかない想像を巡らすのはここまでにしておこう。

2018年2月14日水曜日

教育改革の火付け役(になればいいなあ)

 久しぶりのブログ更新だが、前回に引き続いてリーディングスキルテスト(RST)に関連した話題である。つい先日、RSTを開発した新井紀子さんの「AI vs. 教科書が読めない子どもたち」(東洋経済新報社、2018/2/2)が出版された。内容の骨子は新井さんが既に様々な媒体で主張されていることであり、興味を持って新井さんの発言を追いかけてきた僕としては、本書の大まかな主張は既に知っていた。それは、おおよそ以下のようなことである:
・現状のAI技術は統計を基盤としており論理に基づく処理はあまりできないし意味は理解できない。
・AI技術は数学で記述できることしか処理できないため現状では完全に人の知性と同等のことができる様にはならない。したがってシンギュラリティはこない。
・AIに大学入試センターや模試を受験させる東ロボくんプロジェクトの結果、AIは東大に合格できないものの多くの高校生よりは成績が良い。
・東ロボくんプロジェクトを基盤として開発したRSTを使った調査では中学生の2、3割は係り受けや照応などの表面的な文章理解ができない。表面的な文章理解ができる生徒でも同義文判定や推論など、より深い文章理解ができない生徒が多い。つまり、教科書を理解できない中学生が驚くほど多い。
読む前からある程度内容を把握していたとはいえ、一冊の書籍としてまとめてあると、インターネット上にある短い記事をランダムに読んでいたのでは認識できなかったことが理解できる様になる。例えば、コンピューターの限界は数学で規定されることは分かっていたが、その数学でできることは論理と確率・統計だけしかないということは意識して考えたことはなかった。また、ディープラーニングが流行り言葉として飛びかうようになったが、ビッグデータを放り込んでおけばAIが勝手に色々勉強してくれるのかと言えばさにあらず、どのような教師データを用意するかということでAIが認識できるものは全く異なるということも目から鱗であった。そのため、AIに何を認識させるかという枠組みを明確にした上で、目的に沿った良質な教師データを作成する作業に膨大な人手や資金が必要になる。言われてみればそりゃそうだろうなあという話なんだけど、きちんと説明されないと凡人の思考は広がらないものである。
 僕にとって最も収穫であったのは、RSTに関する具体的でまとまった説明を読めたことだ。RSTは「係り受け」、「照応」、「同義文判定」、「推論」、「イメージ同定」、「具体例同定(辞書)」、「具体例同定(数学)」という6つの分野の問題群から成り立っている。この中で「係り受け」と「照応」の問題はAIが比較的対応できるが、それ以外はAIにとって難しい。各分野ごとの学年別の成績が細かく解説されているが、中学卒業までには「係り受け」と「照応」の問題はかなりできるようになる。しかし、AIが苦手である領域は子供達の成績も悪く、特に「同義文判定」と「具体例同定」は高等学校2年生でも半数以上がほとんど理解できていないという結果である。
 その他、RSTを応用して新たな指導方法を探り出し成果を挙げつつある自治体の話や、RSTの成績と家庭の経済状況には負の相関があること、新井さんの考える将来像など、興味深い話が色々書いてあり、面白かった。
 ただ単に面白かっただけではなく、この本を読んでいると色々妄想が膨らんだ。その一つは、東ロボくんから発展したRSTとその調査結果は様々な領域の研究者を刺激するのではなかろうかということである。もともと東ロボくんプロジェクトは、数学者である新井さんをはじめ、言語学者やコンピューターサイエンスの研究者たちが関わっている極めて学際的な活動である。そして、RSTには様々な年齢の、しかも膨大な数の現実に生きている子供達のデータが既にあり、今現在さらに増えつつある。人間の言語活動を研究する、少なくとも科学的な手法で研究する人々には大変魅力的な材料に見えると思う。人間はどのように言語を理解するのか、書字言語と音声言語との関係、言語活動の基盤となる脳の活動とはどのようなものか、といった研究をしている人の多くはRSTに関心を持つのではないだろうか。社会学や福祉領域の人たちも結構興味を持つかもしれない。
 僕の関係する領域に絞れば、小児期早期の文字習得レベルや発達性読み書き障害の有無と中高校のRST成績の関連は、現実的な意味を持つ検討課題である。典型的な発達性読み書き障害は文字の音声化に拙劣さがある。発達性読み書き障害のある人は読字の流暢性に劣るため、読字に過剰な認知資源が投入され、当然読解力も低下すると考えられている。本書でも「係り受け」や「照応」の問題で躓く生徒には読み障害が含まれている可能性があると述べられている。新井さんは中学1年生でのRST受験が読み障害の早期診断と早期支援ににつながらないかと述べているが、中学1年生では早期とは言えない。小学校低学年までに発達性読み書き障害の診断はほぼ可能なのである。実際に発達性読み書き障害の子供が中学生になった時のRST成績の特徴はどのようなものか、早期の読字訓練が将来のRST結果を改善するか、読字訓練以外にRST結果が改善する要因はあるのか、といったテーマでの縦断的な研究は極めて有意義ではないだろうか。
 読字能力以外にRSTに影響を与える医学的な要因として、注意障害の関与も気になるところである。本書に記載された実際のRSTの問題と誤答の例を見ていると、「理解できない」ことによる誤答に加えて「きちんと読んでいない」誤答が多いのではないかという気がする。注意障害のある子供では読み飛ばしが非常に多い。さらに、こういった子供たちは考えること自体を面倒臭がることが多い。注意障害によって読解力が落ちている可能性が高い子供たちに対しては薬物療法による改善も期待できる。注意障害とRST成績との関連も僕にとっては非常に興味深い課題である。
 この本を読んで浮かんだ妄想をもう一つ付け加える。幸いなことに、新井さんたちの努力の結果であるが、RSTは非常に世間の注目を浴びている。メディアの取材記事も多いし、この書籍も出版されて1カ月も立っていないのにかなり売れているようだ。正確には3日で重版出来とのことである。RSTのことや中高校生の読解力の問題に人々が注目するようになれば、日本の教育行政が科学的な根拠に基づいたものに変わって行く可能性があるのではないだろうか。日本の教育はあまりにも情緒的な思い込みや、客観的な根拠のない主張に基づき過ぎているのではないかと僕は疑っている。ICTや早期の英語教育の導入あるいは限られた予算しかない中での幼児教育無償化など、有効性を示す客観的根拠や施策の重要性に基づく優先順位への考慮に欠けた政策が次々と打ち出される。また、せっかくゆとり教育という壮大な実験をしたのに、科学的な検証を十分にしないままに路線変更をしている。こういった現状にRSTが楔を打ち込み、より客観的な根拠に基づき問題解決志向の強い教育行政に変化していかないだろうかと、かすかに、ほんのかすかに、期待しているのである。