2019年4月26日金曜日

既に世界標準があります

 最近、パソコンのキーボードに関して、自分の生来の特徴か加齢のなせる技かは分からないのだが、実に間抜けな失敗を繰り返している。まず、自分のMacbook airを最近新しい機種に買い換えた。デスクトップでは英語版キーボードを使うことが多かったので英語キーボードのMacbook airを購入した。購入して1ヶ月以上経ってから自分が購入したMacbook airは日本語キーボードであることに気づいた。ノートPCではあるが英語版外部キーボードを接続していたので、間違った製品を注文していたことに長らくピンとこなかったのだ。なんとも間の抜けた話である。
 別の案件だが、職場で使っている電子カルテに付属するキーボードが非常にちゃちなもので、かねがね気になっていた。最近の僕の仕事なんてしゃべっているか診察結果を説明する文章を書いているかしかない。やはり仕事の道具は奮発すべきだと考え、27,000円もするリアルフォースの英語版キーボードを購入した。ところが、電子カルテに使われているパソコンでは英語版キーボードを認識できず、日本語キーボードとして認識することが判明したのである。いくつかのキーではトップに表示されているものとは違う文字が画面に現れるので、使いにくいったらありゃしない。しかし、27,000円である。意地でも使い続けてやると表示がデタラメなキーボードに慣れるべく頑張っている最中である。
 前置きが長くなったが、こういう状況に陥るくらいに僕は長年日本語キーボードと英語キーボードを取り混ぜて使用している。しかも、DOS/WindowsパソコンとMACいずれでも日本語と英語キーボードを使ってきた。その経験から自信を持って言えるが、英語キーボードを使っても何も困ることはない。日本語キーボードでできることは英語キーボードでも可能である。そうなると、なんで日本語キーボードという変なものをわざわざ作ったのだろうかという疑問が湧いてくる。どちらでも用が足りるなら英語キーボードの方がキーが少なくてシンプルだし、世界中のあらゆる製品を使えて良いではないか。
 日本は独自規格を作りたがる傾向が強いと思う。医療の世界でも、病気の診断基準を日本独自に作成することが昔からよくあった。もちろん、信頼性の高い診断基準がない疾患において日本の研究水準が高く、その結果として日本発の診断基準ができるのであればなんの文句もない。しかし、世界中でかなり広く使われている診断基準が存在する時に、わざわざ日本独自の基準を作る必要性はどこにあるのだろうか。
 少なくとも技術的な世界では普遍性が高い方が便利で生産的である。独自な企画を作ることには明確な理由が必要だと思う。疾患の診断基準であれば、世界標準の基準を使っている時にそれでは問題が生じることを確認できればそれを補えるような修正案を出せば良い。明確な根拠もなく独自基準を使ってもデータの比較が難しくなるだけである。キーボードも基本は世界標準仕様にしておき、それでどうしても問題がある時に修正すれば良い。なぜ初っ端から大した根拠もないだろうに日本独自キーボードを設定したのか不思議な気がする。
 話が飛躍するような気はするが、今の日本の停滞は「日本はオンリーワンなんだぜ!」「日本は他の国とはちょっと違う」と言いたがる心性が基盤にあるのではないかと睨んでいる。普遍的な価値観を精査する中から独自の気づきを得る努力をせずに、客観的な根拠もなく日本の独自性ばかりを追いたがる傾向が様々な場面でブレーキをかけているのではないかという気がしている。