2020年2月21日金曜日

発達障害を伴う⼦供を⽀援するために

 保育士や教師が発達障害支援に取り組む時に参考になればと思いながら書いた文章です。以下のURLからダウンロードできます。ここには前文のみを載せておきます。

https://drive.google.com/file/d/12O2PnRKzTsP4iDQvMfCIUM-PK_VSHwvn/view?usp=sharing

「発達障害を伴う子供を支援するために
—保育者や教師が最初に知っておくと良いこと—」
20230313版

はじめに

 この文章は、保育者や教師として子供の健全な発達を支えるために日々奮闘されている方を念頭に書きました。私は子供の神経疾患の診療を専門とする医師ですが、20年くらい前からは特に発達障害を伴う子供達のための専門外来で診療してきました。その経験の中でつくづく感じることがあります。それは、発達障害を伴う子供達に対する支援の中で医療や医師にできることの少なさです。明らかに発達障害を伴い日常多くの困難さを抱えている子供が次第に暮らしやすくなっていくとき、多くの場合は家族、保育者、教師の関わり方の良さが、物事が改善する上での大きな力になっています。もちろん児童発達支援事業などの療育施設の職員が大きく貢献する場合も少なくないですし、中には薬物療法など医療抜きには実現できない対応が必要となることもあります。しかし、療育や医療の関わりが大きい事例であっても、家庭と学校園での対応が適切でなければなかなか事態は良くなりません。もちろん家族、多くは親の存在は非常に大きいです。しかし、発達障害を伴う子供達を職業的に支えるもっとも中心的な存在は、学校園で働く保育者や教師の方々だと考えています。

 2000年頃以降10年くらいかけて、日本国内の発達障害を含む何らかの障害のある子供への教育についての考え方が、それまでの特殊教育から特別支援教育へと大きく変わりました。その後さらに10年くらいが過ぎた今、全ての学校園で障害を伴う子供達の個別のニーズに対する合理的配慮をしなければいけないという意識が保育・教育現場で浸透してきたと思います。発達障害を伴う子供達への支援についても多くの教師・保育者の先生方は前向きに努力されていると感じています。しかし一方で、どのような配慮をしたら良いのか悩まれる方々も多いのが現状ではないでしょうか。医学、心理学、障害児保育・教育など関連する様々な分野をしっかり勉強しようと頑張っていらっしゃる方も多いと思います。しかし、今現在、支援を必要とする子供達が先生方の目の前にいる状況です。しっかり勉強してから支援しましょうなどとのんびり考えていられない現状があります。そのような状況で苦しんでいる先生方が、とりあえずまず知っておくと良いのではないかと思えることをこの文章では解説しています。

 発達障害に関して解説する本であれば、まず様々な病型についての説明から始まることが多いと思います。しかし、この文章では最初に具体的な接し方の配慮から始まります。難しい理論を理解せねばできないことや特殊な技術が必要なことは説明していません。ここで説明することは、どんな子供であっても配慮しておいて損はないことです。次に、発達障害を伴う子供の支援において医療をどの様に位置付ければ良いかを解説しています。さらに、今後発達障害について詳しい知識を身につけていくにあたり、発達障害全体に共通する考え方を説明します。最後に、国際機能分類(ICF)と合理的配慮について拙い解説をつけておきます。

 長い文章を読むことが苦手な方は、とりあえず第1章だけ読んでいただけるだけでもありがたいです。この文章では発達障害の各病型についての医学的な詳細は解説していませんし、関連する心理学や福祉領域のことも説明していません。この文章さえ読めば全てが解決するというものでは全くありません。また、学術的文章でもありませんので、記述する一つ一つのことの出典は書いていません。中には私の勘違いや不正確なことも書かれている可能性があります。お気づきのことがあれば、連絡していただけると幸いです。この文章はあくまで出発点です。これを取っ掛かりにして、さらに細かい専門的な事柄を勉強していただけると幸いです。

 なお、この文章では保育者と教師の両方を意味する言葉として「先生」と表記することが多いです。第1章第3節でも触れているのですが、「先生」という言葉には色々思うところがあり、保育者と教師を指す名称として用いることに若干の抵抗があります。しかし毎回「保育者と教師」と書いていると少しくどい感じがするため、あまりややこしく考えずに「先生」を多用しています。

 この文章は以下のURLからダウンロードすることができます。時間はかかると思いますが、気がついたことを改訂していく予定です。したがって、他の方に紹介していただく際はpdfを渡すのではなくURLを伝えてください。

https://drive.google.com/file/d/12O2PnRKzTsP4iDQvMfCIUM-PK_VSHwvn/view?usp=sharing

閲覧、ダウンロード等は自由にしていただけます。商業的な利用を除き、自由に利用していただいて結構です。お読みになって間違いなどに気づかれた方は、ご連絡いただけると幸いです。
2020年12月
福山市こども発達支援センター
荻野竜也(oginotatsuya@gmail.com)

履歴

Ver. 1:2020年2月20日
Ver. 2:2020年3月21日
・節ごとのまとめを作った
・その他細かい加筆、修正、削除
Ver. 3:2020年3月31日
・挿絵を付けた
Ver. 4:2020年6月15日
・第1章第2節のかんしゃくへの対応の解説に佐久間 徹(2013)による反応強度分化手続きを参考にした記述を追加した。合わせて佐久間 徹の著書を第4章で紹介した。
Ver. 5:2020年12月13日
・国際生活機能分類と合理的配慮の解説を加えた。 

Ver. 6202116

pdfを保存するURL表記の誤り、誤字の修正。

Ver. 72022313

・第1章第2節に知能の高い子供への対応を追加した。 

Ver. 8202265

・第1章第2節に文献情報を追加した。

Ver. 9202288

・本文章のpdfを保存するURLの短縮版を作成。

Ver. 102023313

・第1章第2節第8項「指示の出し方」を下記書籍の記載を参考に書き直した。

加茂登志子「15分で親子関係が変わる!育児が楽になる!PCITから学ぶ子育て」小学館(2020/6/2

 




2020年2月2日日曜日

人を無駄に追い詰めないために

 「困った人」への対応に悩んでいる人は、自分自身の中に潜む傲慢さや醜悪さに気づく必要があるという話。
 何らかの発達障害を伴う人々は、周囲の人を困らせることがよくある。困った周囲の人(主に家族、教師など)がどう対応したら良いのかと悩みを訴えるときに、大体僕が説明することは以下の通りである。

 この人には苦手なところがある。注意を集中させることであったり、人の気持ちを直感的に理解することであったり。そのような弱みをカバーできるような環境がないため、問題が発生してしまう。現状のままでは本人の力で自発的に問題を解決することは難しいので、支援が必要だ。

 そして、次のような趣旨のことを付け加える。

 まずは諦めて、現状を認めることが肝要である。適切に振る舞うことがこの人には無理なんだと諦めなさい。この人に上手く振る舞えと要求することは、乳児に自分で着替えることを求めることや、あなたや私の様に普通の人にオリンピックで金メダルを取ることを求めることと同じようなものである。とりあえず諦めた上で、今より少し事態が改善する無理のない工夫を考えていけば良い。

 こういう話を聞いてある程度納得する人は多いし、中には見事に本人への接し方を変えることができる人もいる。その一方で、呆れるほど頑固に態度を変えない人もいる。問題となっている人(子供、学生、部下)に対して、頑なまでにその人には難しいことをさせようと要求し続け、上手くできないことを非難し続けるのである。そして、自分自身も疲労困憊してしまう。概ねこういう人が口にする態度を変えない理由は2つある。一つはベキ論であり、もう一つは「困った人」の将来を心配してという主張である。前者は、「〇〇すること」が倫理的に正しいのだから〇〇すべきであるという主張だ。いくら倫理的に正しくても無理なものは無理である。後者は、「このままでは将来困るから」今の状態を認めるべきではないという理屈である。その人のことを心配しているという、相手を思いやった行動のように見える。しかし、日々非難され自信を失い続ける先に素晴らしい未来が切り開かれる可能性は少なかろう。
 こういう人達は、なぜ自分自身がしんどい思いをしながらも接し方を変えることができないのだろう。おそらく頭が固く、自分の持つ信念を切り替えることに困難があるのだろう。などと考えてみるのだが、どうもそれだけではない気がする。もちろん世の中には自分の考えや価値観をなかなか変えられない柔軟性に欠けた人はいる。それほどではない人でもなかなか物事が上手くいかないことによる焦燥感や怒りの中で視野が狭くなり、柔軟性が低下することもあるだろう。しかし、柔軟性の欠如以外の要因があるように思う。僕自身の過去の経験を振り返っても、上手に振る舞えない人を非難し続け無駄に追い詰めるという行動には柔軟性の欠如に加えて別の要因がある気がする。そう、長々書いてきてやっと白状するが、僕も人を非難し、追い詰めるタイプの人間なのである。指示したことを言われた通りにできない後輩をとことん追い詰めてしまうことがよくあった。自分で思うには最近ずいぶん減ったと思うのだが、油断すると片鱗が出てしまう。人から見れば、いまだにかなり危ないのかもしれない。
 我が身を省みて、相手に無理なことを強いて追い詰める要因の一つは、自分ができることは皆できるはずという発想を持ちやすいことだ。誰でもできるはずのことを出来ない人を見たら、この人には難しいのだなと素直に考えれば良い。ところが人は得てして「できない」のではなく「出来るのにしない」のだと感じてしまう。つまり、相手が指示された通りに行動しないことは悪意から来ているという解釈をしてしまい、それに対抗するために意地になってしまうのである。
 このことに加えて、さらに重要な観点があると思う。それは、本人にとっての無理難題を与え続け、出来ないことを責め続ける人と、出来ないことを要求され、出来ないことを責められる人との力の差である。誰にでも想像がつくと思うが、難題を与え責める側は強く、難題を与えられ責められる側は弱い。多くは社会的な立場としてその力の差が最初から規定されている関係である。親と子、教師と生徒、上司と部下、先輩と後輩といった関係である。一見、社会的な立場が逆転しているように見える場合もある。不正が発覚した上司とそれを非難する部下たち、気が弱く自信のない教師と一斉に反抗し始めた生徒達というような場合は、本来の立場としての力の強さから見れば逆転した状況である。そうであっても、実際には何らかの理由によって責める側が責められる側よりも明らかに強い立場に立っている。
 いつまでも成果が上がらないのに諦めることなく失敗を責め、出来ないことをせよと言い続ける状況の根底には、立場の強い人間の立場の弱い人に対する支配欲があるのだと思う。自分よりも弱く従属する立場のはずの相手が、自分の指示に従わず、取り様によっては自分に逆らっているように見える状況が許せないという心性が実り少ない行動へのこだわりにつながっているのではないか。これは種々のハラスメントやDVと同じ構造である。ともすれば「正しさ」を振り回したり、「相手の将来を考えて」という言い訳を口にしたりする様子もハラスメントやDVと共通している。
 発達障害を伴う人達に適切に接するためにもっとも重要なことは、大きな心を持ち相手を許すことではないのかもしれない。もっとも重要なことは、自分の心の中に他者に対する傲慢さや支配欲があることを認めた上で、相手を自分と同じ一人の人であると認識し、対等な立場に立てるように努めることではないかと思う。それができれば、人生の苦しみが少し減るのだろう。