2016年2月28日日曜日

落ち着きのない子供

 これは第一線で診療する、子供のプライマリケア医に向けて用意した解説である。ひょっとしたら、福祉や教育の現場で働く人たちにも参考になるかもしれない。しかしかなり長文なので、暇を持て余しているか、相当強い興味がある人向けである。

1. 「落ち着きのない」が意味するもの 
 「落ち着きのない」という訴えは、子供の行動や発達に関連した相談の中では結構多いものである。「落ち着きのない」という言葉は本来どういう意味があるのだろう。「落ち着きのない」といえば、僕はちょこまか動きが多い状態をまず思い浮かべる。実は、広辞苑にも大辞林にも「落ち着きのない」あるいは「落ち着きがない」という見出し語はない。「落ち着く」あるいは「落ち着き」は掲載されており、移動のない状態、穏やかで安定した状態、軽率ではないこと、調和していることなど多様な意味がある。つまり、必ずしも動きに関連した表現ではない。実際、「落ち着きのない」が意味するところは人により、場合により、様々である。子供ごとに「落ち着きのない」が具体的に何を意味するのかを考える必要がある。

1.1. 動きが多い
 とはいえ、主訴が「落ち着きのない子供」の場合、多動を指していることは多い。通常、ややこしく考える必要はなく、一見して動きが多い。椅子の上で体を揺すったり、目に付いたものを触ろうとしたり、足をぶらぶら振る程度のこともあれば、椅子によじ登り、椅子からずり落ち、勝手に歩き回り、時には狭い部屋で走り回ったりベッドによじ登って飛び降りたりする。典型的な子供では一目見れば気がつく。しかし、慣れぬ場所や緊張している時にはじっとしている子供もよくいるので、短時間での判断は難しい場合もある。幼児や小学校低学年の子供は一般的に動きが多いので、年齢を考慮した上で判断する必要がある。
 動きが多い子供では、しゃべりすぎる子供が多く含まれる。親がちょっと黙ってくれと言うまで話し続ける子供もいるし、人が別のことを話しているところに割り込んできて、自分の話したいことをしゃべり出す子も多い。そのくせ、人の言うことはまるで聞いていないことがよくある。そのため話が一方的で噛み合いにくく感じることもよくある。ただ、自閉症的な傾向がなければ、落ち着いて話せば会話はよく噛み合う。
 動きの多い特殊な状況としてはチック症がある。上記の行動特徴としての多動ではその時その時の状況に反応して多彩な動きを示すが、チック症では1種類、または数種類の単純な動きを繰り返す。多くのチック症では瞬きをしたり、顔をちょっとしかめたり、首を少しかしげるなど小さな動きが中心なので、気にするのは家族だけのことが多い。しかし、頻度としてはそれほど大きくないが首を大きく振ったり、上肢を振り回したりと、かなり大きな動きを頻回に繰り返すこともある。また、咳払いや、「ウッウッ」と声を出す音声チックを伴うこともある。こういった場合はかなり目立ち、「落ち着きがない子供」という印象を与えることもしばしばある。なお、チック症を有する子供では、行動特徴としての多動を伴うことが非常に多い。

1.2. 動きが多いように見える(予想外の動き)
 親は「ちょこまか動いてじっとしていない」と、はっきり動きが多いことを訴えて受診するのだが、診察室で見ていても言うほど多動ではない子供がいる。平均的な子供と比較すれば多少は動きが多いことは多いのだが、親が困ったり憤慨したりするほど動き回るようにも見えない。こういう場合、具体的な状況をよく確認してみると多動そのものが問題ではないことがある。つまり、物理的な動きはそれほど多くはないのだが、親の期待に添わない動きや予想外の動きがとても多いのである。基本的にはその場その場に相応しい振る舞い方を把握できていないのである。こういう状態になる背景には複数のものが考えられる。
 意外に多いのは、どう振る舞うべきかをきちんと教えられていない場合である。大人は「このくらいは言わなくてもわかる。」と勝手に思い込んでいることが多いので、いちいち細かいことを説明しない。そのため、どう振る舞うべきか知らないという状況に陥る。
 本人の理解力に問題がある場合も、場面場面でどう振る舞うべきか知らないということにつながる。知的障害があれば、指示や説明の言葉が複雑すぎた時に理解できず、当てずっぽうで行動することがあるかもしれない。
 理解力の問題の一部と言っても良いかもしれないが、文脈や状況理解が悪い子供は場面ごとに必要な振る舞いを把握できていないことが多い。世の中にはある状況で許されることが別の状況では許されなかったり、ある状況では必要のないことが別の状況では必要になることは珍しくない。こういうことがピンとこない子供だと、日々場にそぐわない頓珍漢な言動をとることが増えてくる。文脈や状況理解が悪い子供と重なりやすいのだが、人が自分に何を期待しているかが分からない子供たちも、保護者の予想を超えた動きをしやすい。文脈理解や人の気持ちの理解の不十分さは、自閉スペクトラム症の子供たちで典型的に観察できる。

1.3. 動きが雑で唐突
 行動全体に動きの量がそれほど多くない場合でも、動作の開始が唐突であったり、雑な動きが多かったりすると落ち着きがない印象を与えることがある。こういうタイプでまず考えることは、手先の不器用さや身体の使い方の拙劣さがある子供だ。発達性協調運動症の子供が典型的である。
 注意散漫であったり一つのことに注意が集中してしまいやすい子供も、細かいことや周囲の状況に気をくばることが苦手で、作業が雑になりやすく、不適切なタイミングで行動しやすい(例:車が近づいてきている時に道路を横断しだすなど)。

1.4. よく考えずに行動する
 これは衝動性が強い状態である。思いついたことをすぐに実行する、あるいは口にするため、様々な状況で不適切な言動になりやすい。こういう行動特徴を有する子供は多動も合併していることが多いが、たとえ多動がなくても落ち着きのない印象を与えやすい。

1.5. 気が散りやすい、人の話を聞いていない
 これは主として注意能力の問題である。必要なことに注意を向けられないので、親が何か指示しても聞いていなかったりする。必要なことに注意を持続できないので、今している活動とは関係のないことに気が散りやすいし、課題を最後までやり遂げられないことが多い。目移りしやすく飽きっぽいので、何をやらせても(遊びでさえ)短時間でやめてしまい、別の活動に手をつけることが多い。

1.6. 癇癪、攻撃性(情動制御の問題)
 些細なことで興奮しやすく、怒ったり人を攻撃したりすることが多いと、落ち着きのない印象を与えることがある。この場合は、日常の冷静な時に見れば落ち着いた行動ができている。もっとも、癇癪や攻撃性が問題になる子供では、日常的な多動−衝動性や不注意を伴っている子が少なからず存在するので、そういう特徴がないか確認する必要があるだろう。

1.7. 親や教師の指示に従わない
 これは、「言っても言っても、素直に従わないのです。」とか、「私の言うことに逆らってばかりいるのです。」というような訴えがある場合である。親や教師の主観では「従わない」ということになるのであるが、ここにも複数の要因がある。
 よくあるのは注意能力の問題だ。一つのことに集中できない、あるいは気が散りやすいため、親の指示をきちんと聞き取れていなかったり、とりあえず指示されたことに取り組みかけても、途中で別のことを始めてしまい、結局指示されたことをやり遂げられなかったりする。
 同じく稀ならず認められる問題として、必要な情報を必要なタイミングで意識できないことがある。親や教師が「何度叱ってもすぐ忘れるんです。」という表現をすることが多い。これは予定記憶の弱さである。注意・指示されたことやルールなど大切なポイントを本当に忘れたわけではなく、肝心のタイミングで意識できないのである。落ち着いているときに尋ねると、必要な情報を述べることができたりする。
 文字通り「従わない」、すなわち親や教師に反抗している場合もあるだろう。指示された内容が嫌だといった明確な理由があるわけではなく、日常生活のさまざまな場面で反抗的な言動を、特に親など大人に対して取りやすい状態としては反抗挑発症(反抗挑戦性障害)の可能性を考える必要がある。その場合、多動や注意の問題も併存していることが多いので、具体的なエピソードそれぞれがどういう機序で生じているのか慎重に判断する必要がある。

2. まず明らかにすべきこと
2.1. 具体的に何に困っているのか?
 子供の日常行動の問題を扱う診療においては、何に困っているかを具体的に把握することが最大の仕事であると言っても良い。また、何に困っているかを具体的に把握し整理する過程は、上記の「落ち着きのない」が意味するものを明らかにする過程と表裏の関係にある。何に困っているかを具体的に明らかにする過程で、「落ち着きのない」が意味するものが明確になってくるし、「落ち着きのない」が意味するものを想定することで何に困っているのかがより深く理解できるようになる。
 何に困っているかを明確にするためには、いかに具体的レベルで状況を把握できるかが鍵になる。大人はとかく抽象的に物事を把握し、表現しがちである。「落ち着きのない」などはその典型である。しかし、一つ一つのエピソードを具体的に採取することで、分析が可能となる。
 話の進め方は色々あるが、まず誰が困っているのかを明らかにすることから始めるのは一つの方法だ。もちろん本人が困っていることは多いのだが、実際には家族、周囲の子供達、教師や保育士など、本人以外が困っているという話が多い。表面的に困っている人がどのように困るか、あるいは何を心配しているのかを具体的に聴取していく。具体的にというのは、何時、何処で、何をしている時に、周囲の状況は、きっかけは、その後どう推移したのか、といったことを明らかにしていくということである。そのためには、具体的なエピソードの一つ一つを聞き出すのが良い。そして、ある程度代表的なエピソードを聞き取れば、それぞれがどのくらい日常生活に影響を及ぼすかの程度や、同様のことが生じる頻度も確認しておく必要がある。

2.2. 困っていなければ問題ないという訳ではない
 問題の具体を聞き取る際に、話を進めにくい事態が生じることがある。受診した本人も家族も何も困っていない場合である。子供本人が何も問題を感じていないことは珍しくないが、家族も問題を感じていないという事態はなぜ生じるのだろうか。こういった状況は、家族は何も問題があるとは思っていないのだが、保育園、幼稚園、あるいは小学校で問題が持続するため、先生が家族を拝み倒して、あるいは半ば脅しをかけて受診させる時に生じる。このような場合、親は何も問題がないことを強調するし、家庭外のことはあまり具体的に把握していないので、何も問題がないという結論になりがちである。
 しかし、あまり簡単に問題なしという結論を出すべきではない。なぜなら、受診しているからである。病院というものは一般の人にとってかなり敷居が高いものである。ささやかな心配事を理由に受診する人はめったにいない。家族ではなくても、誰かが受診が必要と考えた以上は、何らかの問題が存在する可能性を簡単に捨てないほうが良い。
 僕自身は、親が自分の子供には問題がないと主張する状況には、大まかに考えて2種類あるのではないかと考えている。一つは、これが結構多いのだが、親が非常に上手く子供を育てている場合である。甘やかす訳ではなく、本人の特性に合わせて指示したり物事を教えたりできているので、本当に家庭の中は穏やかで、何も問題が生じないのである。もう一つの場合は、親は何らかの問題を認識しているのだが、それを認めたくない状態である。後者の場合は、子供に問題があるかどうかではなく、親が子供を育てる中で何かしんどい思いや苦労をしていないか聞いてみると良い。親のしんどさに共感し、それでもよく頑張っていることを指摘していくと、色々話してくれることが多い。
 何れにしても、改めて学校園での具体的な様子を探る努力をしたほうが良い。少なくとも、何か理由をつけてしばらく受診を繰り返してもらい、病院とのつながりが切れないようにしたほうが良い。この点で、かかりつけ医は非常に有利なポジションにいる。

3. 診察室で
3.1. 待合から診察終了まで
 話を聞いたり診察したりすることから得られる情報以外に、待合室から診察終了までに様々な情報を取得できる。まず、多動や不注意に関してはかなり明確に確認できることが多い。無意味な手の動きの多さ、姿勢の安定性、不必要な移動の有無などは一目で確認できることが多い。喋りすぎないか、話はかみ合うか、人の指示や質問を最後まで聞くことができるか、人が喋っている時に割り込もうとしないかといったことにも注目するとよい。多動や衝動性は慣れない場所や慣れない人がいるときには目立たないことも多い。可能であれば、待合室の様子を覗き見ると参考になる。
 移動中やおもちゃで遊んでいる様子を見て、動きのスムーズさや手先の器用さに関する情報が得られることも多い。目は合うか、表情は自然か、周囲の人に興味を持つか、初対面の人への緊張や不安を持っているか、不安や困った時に親に頼ろうとするかなどの社会性に関連する所見が得られることもある。不安や緊張が強すぎないか、逆に弱すぎないかということにも注目しておくと良い。

3.2. 保護者からの病歴聴取
 診察室で確認できない日常の行動特性や、何に困っているかを知るためには病歴聴取が重要であることは言うまでもない。ただ、保護者の話を聞くにあたって留意しておくことが色々ある。まず、保護者と話をすることの子供本人への影響を意識しておいたほうが良い。「落ち着きのない」ことが主訴になっている場合、親の話の内容は本人にとって面白くないものが多くなる。そのことにより子供が過度に緊張を募らしたりイライラするようなら、親子関係に不協和音が生じているのかもしれない。逆に、自分の日常の問題が話題になっていることに全く無関心であれば、それは本人の社会性や状況判断の特性を知る一つの手がかりになるかもしれない。
 保護者の話に対する子供の反応が一つの情報になるとはいえ、なるべく悪い話は本人のいないところでしたほうが良い。また、どうしてもその場で話を聞かざるを得ない場合は、本人の診察の邪魔にならないように、保護者との会話と本人の診察の順番をよく考えた方が良い。一般的には最初は本人にとって悪くない話から始めておくべきだろう。
 保護者から話を聞く際には、まず受診に至る経過を簡単に聞き、積極的に受診したのか、学校園などから要請されて渋々受診したのかについて認識しておくと良い。また、話し始めは時間の許す限り保護者に何に困っているのか、何を心配しているのかを、自発的に思う存分に語ってもらうのが良い。そのためには強引に話の腰を折るようなポイントを絞った質問をすることは後回しにし、できるだけ傾聴する姿勢を示す必要がある。
 一般の人は事実を具体的に描写することが苦手なことが多い。ともすれば、物事を抽象的な言葉で言い表そうとする。しかし、すでに書いたように事実をできるだけ具体的に聴取することが重要になる。そのためには問題の具体例となる特定のエピソードを話してもらえるように促す必要がある。また、曖昧な表現に対してはこちらから「それは〇〇という意味ですか、それとも△△ということですか」というふうに選択肢を提供することが役に立つこともあるだろう。
 親の話を聞くにあたり、問題の分析に役立つ情報を聴取するように努力することが重要であるが、加えて心がけておくべきことがある。それは、親の褒めどころを探しながら話を聞くということである。親自身が意識していなくても適切な子供の接し方をしていたり、合理的な選択をしていることは多い。また、こういった問題を相談に来る親は何かしら努力し、「頑張って」いる。不安や心配に共感することも悪くはないが、親が親として上手くやっていることを指摘していくことは、親の不安を軽減することに役に立つ。

3.3. 本人と
 本人と会話し診察することで、多くの情報を得ることができる。ただ、日常の行動面が問題になっているときには診察室で把握できる情報は限られていることも認識しておくべきである。ただ何となく診察した印象で語るのではなく、何を確認しようとしているのか、そのためにはどういう働き掛けをするのかあるいはしないのか、意識しておくことが大切である。
 通常はすぐに診察するのではなく、雑談を含めて会話することから始める。ただ、不安が強い子供や言葉で表現することを苦手に感じている子供では、身体の診察をすることから始めた方がスムーズに進む場合もある。
 子供と話をする中で、一度は受診理由を聞いておく必要がある。多くの子供は、特に小学校低学年以下では受診理由を認識しておらず、きょとんとしていることが多い。時にはその場で思いついたように身体のどこかの痛みなど身体的訴えを口にすることもある。小学校高学年から思春期では、少ないながらも親とほぼ一致した受診理由を口にすることが増えてくる。問題意識を本人、家族及び医師の間で共有できていると、その後の様々な対処において本人と相談しながら方針を決定することがスムーズになる。受診理由や心配なことを述べてくれる場合は、それについて掘り下げて聞いておくと良い。
 雑談の中で、家庭や学校・園での好きなことや嫌いなことをある程度聞き出せるかもしれない。嫌なことだけではなく、楽しみにしていることを知っておくことは後々役に立つことがある。運が良ければ、本人が日常困っていることや心配していることを聞き出せることもある。受診理由を明確に述べられない子供でも、雑談の中で普段困っていることを聞き出せることがある。
 子供と言葉を交わしながら、会話は噛み合うか、奇妙さはないか、言葉を確実に理解できているか、といった言語性コミュニケーションや理解力の問題がないかを検討する。また、指示されたことに従えるか、指示や説明を最後まで聞いていられるか、などを確認する。鑑別と関係するが、幻覚妄想を思わせる発言がないか、離人症がないかといったことにも留意できると良い。
 一般的な身体診察と神経学的診察をすることには種々の意義がある。何よりも、基礎疾患や合併疾患の可能性を検討することは重要である。「落ち着きのない」ことが最初に述べたどういう状態を意味していたとしても、様々な脳障害や精神疾患、あるいは社会心理学的なストレスによって引き起こされる可能性がある。
 身体所見や神経学的所見を得る以外にも診察の意義がある。年少児や重度の知的障害を伴う子供以外の多くは、意外に身体の問題に焦点を絞ると警戒感を解きやすい。何か身体の不調がないか尋ねながら診察すると、素直に診察されるに任せる子供が多い。また、診察という働き掛けに対する反応を見ることが行動観察の一環にもなる。例えば、集中力がない子供は指示を正確に最後まで聞いていないことが多いし、眼球運動を見る時に視標を追いかけ続けられず、ともすれば関係のないものに視線を移してしまう。目を合わせるかとかこちらが期待していることを全て説明しなくても察知できるかなど、対人的相互作用が乏しいかどうかも、ある程度情報が得られる。

4. 鑑別
4.1. 器質性疾患、いわゆる心因性疾患、精神障害
 病歴聴取や診察が一通り終了すると(正確には並行して)、鑑別診断を行うことになる。主訴が「落ち着きのない」であれば、まず頭に浮かぶのは種々の発達障害である。しかし、ここでは詳しく述べないが、様々な器質性疾患、いわゆる心因性疾患あるいはその他の精神障害との鑑別が必要である。鑑別に際して病歴で重要な情報として、生育歴、家庭内・外環境の確認、最近身の回りで生じたイベントなどの背景要因を聞き出しておくべきである。受診理由となった症状や行動特徴については、出現様式や持続時間、その症状がどこで(どういう状況で)認められるかなどもできるだけ明確にしておく必要がある。「落ち着きのなさ」以外の症状の有無も聞き取っておかないといけない。
 鑑別に際して留意しておくべきことを一つ付け加えておく。器質性疾患や心因性の問題が存在しても必ずしも発達障害が否定されるわけではないということである。偶然の合併もあるし、両者の相互作用が考えられることもある。

4.2. 発達障害
 冒頭に説明した「落ち着きのない」が意味するものを念頭に、可能性がある発達障害病型を考える。主なところをあげれば、注意欠如・多動症、自閉スペクトラム症、反抗挑発症、素行症、発達性協調運動症、チック症、知的能力障害といったものがある。一人の子供が純粋に1病型に当てはまることはむしろ例外的で、幾つかの病型に当てはまることが多い。

5. 短時間で何処まで詰めるか
 プライマリケアの現場では、一人の子供に対して無制限に時間をかけることは難しい。行動の問題で困っている子供やその家族に十分な対応をしようとすれば、膨大な時間がかかる。あえて短時間の診療で成果を上げようとするならば、目指すものを絞る必要がある。その概略をここで解説する。なお、可能であれば少数でも良いので、十分な時間をかけて評価し対策を練る診療枠を定期的に確保しておいたほうが良い。詳細な評価をする経験がある方が大事なポイントを把握できているので、短い時間でどのように診療するかを計画しやすい。また、1回の診療でどこまで明らかにするかと張り切るよりは、1回1回はささやかで良いので、継続的にコンタクトを取れるようにすることの方が重要である。

5.1. まず押さえておくべきこと
 具体的に何に困っているのかを整理することが最重要課題である。家族が(年長児であれば本人も)問題を具体的レベルで整理し直し把握できれば、それだけで診療目的の八割がたは達成していると言っても良いと思う。そして、すでに述べたように何に困っているかを整理することと「落ち着きのない」が何を指しているのかを明らかにすることは表裏の関係にある。困っていることを具体化することでその子供が上手くいかないことの根底にある特性が明確になるし、それがまた何に困っているかをより具体的に理解する手がかりとなる。
 病院で相談しようかという事例では、日常生活における問題が一つで済むことは滅多にない。いろいろな問題が錯綜していることが普通である。しかし、1回の診察時間では一つか二つのことを具体化するだけでも良いと思う。通常この種の問題では、問題解決の主人公は本人と家族(付け加えれば学校・園の先生)である。問題の全てではなくとも一つか二つのことを具体的に把握することで、どのように事態を把握すれば良いのかという視点を得ることができる。その経験をもとに、他の問題にも自らアプローチしていくこともできる可能性がある。

5.2. 併せて押さえておくべきこと
 やはり小児科医としては体の問題の見逃しは避けたいところである。心理社会的ストレスから生じる問題や精神疾患についてはおいおい専門医に助けを求めるにしても、身体的所見や神経学的所見を通じて基礎疾患の検討は十分にしておきたい。

5.3. 可能なら検討したいこと
 日常生じるいくつかの問題を具体的に分析する過程で、本人の認知や行動の特性がある程度見えてくる。そうなれば、発達障害のどの病型を念頭におくべきかがある程度絞れてくるだろうし、それが暫定的な診断名としても使えることになる。
 もちろん、本格的に診断基準に沿って評価し直し、さらには知能検査などの心理検査も施行して、本格的に診断できればいうまでもない。だが、実際には時間的余裕がなかったり、心理士がいなかったりという事情で難しいことが多いだろう。

5.4. 診断をつけることが何より大事ということはない
 最後に発達障害の診断についての僕の考えを追加しておく。できるだけ精度の高い診断をつけることは将来生じる問題を予測したり、日常的な対処法を計画する上で役に立つことは間違いない。しかし、発達障害として診断することで全てが解決するかといえば、全くそういうことはない。また、診断しないと何もできないというわけでもない。むしろ、発達障害児の日々の援助は診断名よりも何に困っているのかを分析し、具体的に把握することに基づいてなされるものが非常に多い。診断することを無理に急がなくても、困っていることの具体や本人の認知・行動特性を一つ、二つと明確にするに従い、援助の方法も工夫することが可能になっていく。現実の十分な分析ができないままに診断を焦っても、援助に繋がらないばかりか家族に心理的負担をかける可能性が高いことを念頭に置いておく必要がある。

2016年2月10日水曜日

Help!

 友人の小児科医は若い頃に岩国の大病院に勤務していたことがある。その友人がよく話してくれたことがある。彼が夜間の救急外来を担当しているときの話だ。友人は小児科医なので、子供の病気や怪我の治療をする。子供とはいえ、小学生くらいになるとかなり痛い処置でもぐっと我慢していることが多い。さて、岩国には米軍基地がある。そのため救急外来では米軍兵が治療を受けていることが多かったそうだ。友人が言うには、米軍兵は軒並み痛みを率直に表現するらしい。怪我の痛み、あるいは処置の痛みに対して、大きなジェスチャーとともに大声で叫ぶ人が圧倒的に多かったそうである。か細い日本人の子供が痛みに耐えている横で屈強の米軍兵士が大きな声を出して痛がっている姿を想像すると、申し訳ないが笑ってしまう。
 しかしここで、日本人は子供の頃から忍耐心を持っている素晴らしい国民だという話をしたいわけではない。最近、この逸話のことを考えることが多いのだ。どうも解せないのである。屈強の米軍兵でさえ大声で痛みを訴えるのに、なぜ子供が我慢しているのだろう。岩国のことは知らないが、確かに自分の身の回りを見ても、子供達は結構我慢していることが多い気がする。幼い身で我慢することで、何か素晴らしいことが待っているのだろうか。なぜこの国の子供は我慢することを徹底的に刷り込まれているのだろうか。
 2、30年前であれば、「我慢強い日本人の子供」という話に僕自身が喜んでいたと思う。このことに疑問を感じ出したのは、自閉症の子供たちの診療を通じてである。自閉症の子供たちは、激しい感情爆発や他者への攻撃性が問題になることが多いのだが、意外に知られていないことで深刻な問題が他にある。それは、自分の気持ちを表明することが苦手であることがとても多いということである。心理的、身体的な苦痛があっても、それを言葉で表現しにくい傾向が、どの患者でも大なり小なり認められる。「嫌です。」「辛いです。」「困っています。」「助けてください。」といった言語表現を適切なタイミングで発することが、ほとんどの自閉症児は下手である。自分自身で客観的に認識できていないことさえ多そうである。苦しいことを発信できず、助けを求めることもできないまま、ある限界を超えると破綻をきたして感情的な爆発につながったり、引きこもったりしてしまう。したがって、如何に辛さを表現できるようにするか、困っていると表明できるように促せるか、助けを求めることができるように導けるか、ということが自閉症支援の重要なポイントの一つとなる。
 自分の気持ちや考えを表現することが苦手な人に、遠慮せずにどんどん気持ちを述べればいいのだよと説得してもあまり効果はない。積極的に表現させるためには、気持ちや願いを口にすることで何か良いことが起こることを繰り返し経験する必要がある。話した結果、願いが叶ったり苦しみから救われたりということを繰り返し経験することで、人は自分の気持ちや考えを口にしても良いことを確信し、積極的に話そうとする。少なくとも、願いが叶うかどうかは別にして、自分の気持ちや考えを表明したということ自体は温かく受け入れてもらう必要がある。もし、何かを言うたびに否定される経験を繰り返すと、自閉症児に限らず何も表現できなくなる。一種の学習性無力と言えるかもしれない。もともと表現することに難しさのある自閉症児は、簡単に躓いてしまう可能性が高い。
 ところが、多くの自閉症児の日常を見ていると、上手くいかないことが多い。色々な理由があると思うのだが、個人的に大きいと感じていることをここでは述べておく。それは、多くの場面で(家庭、幼稚園、保育園、小学校、etc.)発言内容に倫理的正しさが求められるということである。いわゆる「我儘な」主張や、誰かの悪口、不平、不満、愚痴、欲望、あるいは「死にたい」といった縁起でもないことなど、倫理的に正しくない発言をすると直ちに非難され否定されるのである。目の前にいる人を傷つけるような発言ならまだしも、とりあえず誰も傷つかない状況での表現であっても直ちに否定されてしまう。これでは率直に気持ちを表明する力が伸びることはない。何もその意見に賛成しろとは言わない。だが、とりあえず「ああ、君はそう思うんだね」と受け止め、内容はともかく話してくれたことについては評価して欲しいのである。その上で、実現できないことやすべきではないことは、そのように説明すれば良い。しかし、我が国の世間は人の発言に対して厳しい。子供であっても「正しくない」発言は否定される。常に世間に受け入れられる発言のみをするように、耐え忍ぶことが美徳とみなされているようだ。
 こういった傾向が影響を与えるのは自閉症児だけではないと、僕は考えている。冒頭に記した痛みを素直に表現できない子供達も、発言において我慢することばかりを要求され続けた結果ではないだろうか。別の例を挙げる。現在、僕は大学で教鞭をとっている。今の学生達は僕が大学生だった頃の学生達よりも穏やかで明るく礼儀正しい。しかし、何についても自分の考えを率直に口にできる人は少ない。何かを質問された時にはいつも「正解」が存在するという前提を持ち、その「正解」を探しているように見えることが多い。相手から反論されることをなんとか避ける様子が見て取れる。こういった大学生の様子も、救急室でひたすら痛みを我慢する子供も、必要な助けを求めることがなかなか上手くならない自閉症児達も、問題の根っこは共通しているのではないかという気がする。