2015年7月22日水曜日

自閉症スペクトラム障害にまつわる連続性

 昨年DSM-5の日本語版が出版され、今まで広汎性発達障害という名称で認識されていた概念が、自閉症スペクトラム障害という名前に変わった。とはいえ、広汎性発達障害と自閉症スペクトラム障害はその意味するところは全く同じではない。特に大きな違いは、それまでの広汎性発達障害のくくりの中では複数の下位カテゴリーとして区別されていたものが、自閉症スペクトラム障害ではひとまとまりの連続的な概念に変わったことである。
 僕は、自閉症に関連する様々な状態を理解する上で「連続性」は重要なキーワードになると考えている。自閉症スペクトラム障害内の連続性だけではなく、自閉症スペクトラム障害という概念の外へ向けた様々な連続性を考えることができる。このあたりの事情を解説した論文を書いたので、公開する。
 なお、この原稿の公開にあたり、「岡山ソーシャルワーカー協会」会長である中山哲哉様の承諾を得ている。

荻野竜也 (2015). 自閉症スペクトラム障害にまつわる連続性について. 福祉おかやま 32号:2-11.

2015年7月15日水曜日

悪人がいたって?それが世の中だろう

僕は研究費不正使用はいかんと思っているが、その理由は、その研究費で実ったかもしれない研究の可能性を潰すからだ。不正使用が増えると結局は国全体としての実質的予算が減少し、研究のパフォーマンスが低下するからだ。しかし、不正ゆえに不正が許せない人が多い。研究者を締め上げて成果が減少しても不正を防止すべきだと主張する。
 そのためか、何か不正が発覚すると関係施設や省庁の責任者はこのような不祥事が二度と生じないように対策を取ることを誓う。不正を完全にブロックすることは現実には不可能にもかかわらずそう言ってしまうものだから何らかの対策を立てざるを得ず、研究費の扱いには細かい制限が増えるし、不正防止のための研修受講が義務付けられたりする。研究者の労力はそういった事務処理に消費されることになり、研究自体の効率が減少する。だからといって不正防止に関して絶大な効果が発揮されたという話も聞かない。
 似たような話はいたるところにあり、生活保護もその一例である。貧しい人にも最低限の文化的な生活を保証するために生活保護制度が存在する。必要ない人が予算を使うことで救えない人が出てはいけないから生活保護費の不正受給は罪になるはずと僕は考える。しかし、不正が許せない人たちは貧しい人をさらに追い詰めてでも、不正受給を防げと主張する。生活保護費に関しては行政の経費削減圧力も加わる。結果、どんどん生活保護のハードルが高くなり、本来救われるべき人たちが放置される。
 不正防止が第一目的になる世界って、何なのだろう。なんだか味気なさしか感じられない。僕は脳みそが緩んでいるせいか、不正を防止することよりも建設的な成果を上げることを強く願う。優れた研究が増えて欲しいし、貧困に打ちひしがれる人や貧困の世代連鎖が減って欲しい。世の中から不正をなくすことは不可能だ。ならいっそ、全体としてのパフォーマンスを最大限にできる程度に不正防止を図り、それ以上の不正防止に無駄に資源を投入しなくても良いのではないかと思う。
 そのためには、不正防止策を立てる際には現実的な有効性を厳しく吟味するとともに、制度が本来目指していることの妨害にならぬことにもよく目を配って欲しい。また、注ぎ込まれた予算の総体と目標の達成度とのバランスを定期的に評価することも必要だと思う。まあ、国全体で研究の成果が上がっているかどうか評価することは、実際には難しいことだとは思うが。
 何より重要なことは、不正は無くせないということを認めるとともに、不正が判明した時には不正を為した本人に対して厳正に対処することだと思う。不正を為した本人が所属する施設やその責任者を、不正が発覚したということにおいて批判し叩いても得るところは少ない。不正隠しに奔走するように促すだけだと思う。不正はどんな組織でも生じ得るということを前提に、いかに判明した不正の全容を解明し、不正を為したものに厳正な処罰をするかということこそが重要だと思う。研究費不正受給の例ではないが、STAP細胞事件の際の理研や早稲田大学大学院のように、まずは問題をうやむやに押さえ込もうとする動きの方が、不正そのものよりも余程罪が大きい。
 余談だが、「不正を為した本人が所属する施設やその責任者を、不正が発覚したということにおいて批判し叩いても得るところは少ない。不正隠しに奔走するように促すだけだと思う。不正はどんな組織でも生じ得るということを前提に、」という文章は色々なものに当てはまるなあ。学校のいじめとか、食品への異物混入とか。共通して騒ぎが生じた時に関係者が「こういった事態が2度と生じないように最善を尽くします。」などと言っちゃうんだなあ。