2016年11月29日火曜日

失敗はあってはならないものなのか?

 数々の確定した冤罪事件の裁判について見聞きしている時、何時も不思議に思うことがある。有罪とするにはかなり明確な矛盾点や、無罪を示唆する物証が色々あっても、検察は躍起になって有罪を勝ち取ろうとすることである。また、一度有罪となった事件の再審請求を、再審の場で有罪を主張するのであればまだしも、再審自体を封じようとすることである。冤罪被害者への同情や正義に反することへの怒りもあるのだが、ここではそういうことを論じようと考えているわけではない。僕が不思議に思っているのは、無罪を示唆する状況が少なからずあるにもかかわらず、なぜ検察が組織をあげて有罪判決を求めようとするのか、ということである。
 何か社会正義に反することが行われた時、その職に就く人全体を根っから悪人のように主張したがる人が結構いる。例えば、保険料の水増し請求で逮捕される医師が何人かいれば、医者なんてみんなズルをしているんだと言われがちである。しかし、自分が医師として接してきた医師達は(まあ、自分は置いておくとして)、圧倒的多数が真剣に仕事に取り組んでいる。何の雑念もなく、とまでは言わないが、かなりのことを犠牲にして患者のための活動を最優先にしている医師はむしろ多数派だと考えている。この認識から、多くの業界で、個人レベルで見れば真面目に理想を掲げながら職務に励む人は多いのではないかと、僕は考えている。悪口を言われる代表格に見える政治家や企業経営者も、実態は真面目に理想を追いかけている人は多いに違いない。当然、検察にも正義と法の精神を守ることを使命と考えて働いている検察官が多いのではないかと想像する。そうであれば、冤罪を作ることを何よりも恐れるのではないか。有罪率が下がるよりも、一人でも冤罪を作ることこそを何とか避けようと考えるのではないだろうか。それなのに、無罪を示唆する客観的状況がかなりあるときでさえ、裁判で有罪を勝ち取り、再審の道を塞ごうと組織をあげて頑張るのはなぜだろう。僕にはそれがどうも分からない。
 分からないなりに、このことに深く関わっているのではないかと感じているものが一つある。それは日本社会、とりわけ役所で色濃く見られるものであるが、無謬主義である。一度立てた方針は正しい、決して間違い無いという前提にこだわるという、お馴染みの考え方である。すべて方針が正しいという前提から論理が始まるので、役所が一旦動き始めると滅多なことでは方向修正ができない。東北の大震災で福島の原子力発電所が事故を起こしたとき、原発事故処理に使えるロボットが存在しなかった。日本はロボット技術のレベルが高いにもかかわらずだ。その理由が、原発は安全だからロボットを開発する必要がないという論理だったという冗談みたいな話を聞いたことがある。これが本当かどうかは知らないが、似たような話はあちらこちらに存在しているに違いない。「方針が正しい以上結果も良いはず」の延長で、我々の社会は結果の客観的な評価、特に数値による評価を避ける傾向が顕著である。最近多少改善の機運は見られるが、数値による評価を嫌悪する発言は随所で聞かれるし、物事を物語として理解しようとする人が山ほどいる。そこここで(役所だけではなく、ちっぽけな私企業でさえ)横行する秘密主義も、無謬主義とその帰結としての結果を評価することを忌避する思考の産物ではないかと思う。
 失敗を認めれば良いじゃないかと思う。規模が大きくなればなるほど、失敗したことは隠しおおせない。むしろ、失敗した可能性があれば正直に言及し、それを衆人環視のもとに客観的に検証すれば良いではないか。その方が、失敗に基づく損失を最小限にできる。最初に述べた司法の話題に戻れば、失敗を認めることで冤罪の可能性を下げることができる。検証の結果、もとの方針が良かったということもあるだろう。それならめでたいことだ。殆どの人が「人間なのだから失敗することもある。」というくせに、公的に失敗することを許さないこの息苦しい社会がもっと柔軟にならないのかと僕は考えるのだが、同意してくれる人はあまりいないのだろうか。
 愛想のない文章なので、一つ落ちを付けておこう。てっきり無謬は「むびょう」と読むのだと、今日の今日まで信じていました。ごめんなさい。

2016年11月24日木曜日

ゲンガクテキ

 衒学的という言葉がある。英語でpedantic。辞書には、学問のあることをひけらかすさま、と説明されている。ともすれば、さして深くは理解していない小難しげな言葉遣いをする人のことである。衒学的という言葉はめったに日常会話で使われることはない。しかし、自閉症に関連した書籍を読むとこの言葉は結構出て来る。知能の障害されていない自閉症児では、衒学的な話し方をする子供が結構多い。自閉症児の話し方の一つの特徴といっても良い。文語調の言い回しを多用したり、あまり一般的には使われていない古語や専門用語をしきりに口にしたりする。十分に理解しないままに難しい言い回しを好んで使う子供も多い。
 僕が衒学的という言葉を知ったとき、これは自分のためにある言葉ではないかと思った。というのも、僕は好んで小難しげな言葉を使う傾向が強いからである。言葉の背景まで十分に理解した上で使うならまだしも、つい先ほど仕入れたばかりの言葉を付け焼き刃で用いることもしばしばである。こういう性癖を自覚しているので、衒学的という言葉が自分にピッタリ当てはまったように感じたのである。ただ、そういう傾向を強く持ちながらも、現実にはそれほど実害はない。というのも、僕は記憶力が悪い。衒学的であり続けるための必要条件は、記憶力の良さである。たとえ深い理解を欠いていたとしても、言葉自体を覚えているからこそ衒学的な物言いができるのである。何か新しい言葉に触れて、「お、これは良いな。どこかで使ってやろう。」と思ったとしても、その言葉を不正確にしか覚えられなければ恥をかくだけだ。僕は何回聞いても次々と記憶が怪しくなり、正確に思い出せなくなる。いやそれどころか、良いなあと思った言葉を聞いた経験自体を忘れてしまうことが多い。そういう事情で、幸か不幸かのべつまくなしに難しげな言葉を使うことから逃れられている。
 何年か前に、衒学的な僕が飛びついた言葉がある。マックス・ウェーバーが言った「価値合理性」と「目的合理性」である。もう、「マックス・ウェーバーが」というだけで格好良いではないか。ここはよりドイツ語っぽく「ヴェーバー」の方がもっと格好良いかな、などと浮かれたくなる。とは言え、僕が注目した理由は「ヴェーバーがね、価値合理性と目的合理性という概念を述べていてね、」とか言ってみたい、ということだけではない。日々の生活の中で予てから疑問に思っていた現象を記述しているように思えたからだ。
 どのような疑問を持っていたのかを具体的に説明する。僕は、人は何か行動を起こすとき、その行動自体が単なる楽しみである場合を除き、何らかの目的があり、そしてその目的を達成するために最善と思われる行動を取ろうとすることが普通だと思っていた。もともとそういう発想をする下地があったとは思うが、医師になってより明確にそう考えるようになった気がする。しかし、世の中を見ていると必ずしもそうではない。目的を達成するためにはどう見ても効果的ではない行動を進んで選ぶ人が多いのである。いわゆる「血迷って」感情的に振舞っているなら理解できるが、極めて冷静に効果を期待できない行動を取りがちな人々を稀ならず目撃した。こういう人の中には、「今までこうしてきた」からという理由だけで行動を決めている人がいる。要するに何も考えず、新しいことに手をつけようとせず、同じ振る舞いを営々と繰り返す人達だ。このタイプよりもさらに不思議な人達は、冷静に考えた上で効果の乏しい、時には逆効果とも思える行動に打って出る人々である。観察しているうちになんとなく分かってきたことなのだが、こういった人たちが行動を選択する際はどうも「良いこと」だからということが根拠となっているように見える。何が良いのかというと、もちろん目的が良いことという前提もある。しかしそれ以上に、行動自体すなわち方法が良いということが非常に大きな根拠となる。そして、その行動が目的を達成することにどの位役に立つのかということがほとんど問われない。それどころか、なんのためにするのかという目的が明瞭でなくてもその行動自体が良いことだから実行しようということになる。たとえ目的を考慮していても、大変抽象的で、後から成果を検証できないような目的を掲げていることが大変多い。例えば、勤労に汗を流すことは「良いこと」だから働くという考え方である。そして、あえて目的を問えば将来の幸せのためとか社会貢献につながるとか、非常に曖昧な答しか出てこない。その結果として具体的成果があろうがなかろうが、一生懸命働くことは良いことだから働くべきという発想である。自分が豊かになるわけでないし社会が豊かになるわけでもなく、誰一人救われないような仕事をするくらいなら、仕事を放り出して遊んだほうがマシだと、僕なら考える。しかし、この考えが通用しないのである。
 「今までこうしてきた」や「良いこと」を根拠にして行動を決定する人達はかなり手強い。何かをする以上は目的を明確にするべきであることを訴え、目的達成のために合理的な行動を選択すべきということを懇々と説いても、1mmも考えを変えない人々が大勢いる。どこの世界にも変わり者はいる。大勢の人が集まれば、了解不能な主張をする人が必ずいる。だからたまたま自分に理解できない主張にしがみつく人がいたくらいでは僕は動揺しない。しかし、「今までこうしてきた」や「良いこと」を根拠にする人達は驚くほど多い。むしろ目的を達成する可能性の高さを吟味して行動を選択する人よりもよほど多いかもしれないということに次第に気づき、僕の頭の中は混乱するばかりなのであった。そのような状況の中で上記のマックス・ヴェーバーの言葉に出会ったのである。
 ヴェーバーは「社会学の根本概念」という書籍の中で、社会的行為は四つの種類に区別できると説く。
(一)目的合理的行為。これは、外界の事物の行動および他の人間の行動について或る予想を持ち、この予想を、結果として合理的に追求され考慮される自分の目的のために条件や手段として利用するような行為である。
(二)価値合理的行為。これは、或る行動の独自の絶対的価値 ー 倫理的、美的、宗教的、その他の ー そのものへの、結果を度外視した、意識的な信仰による行為である。
(三)感情的、特にエモーショナルな行為。これは直接の感情や気分による行為である。
(四)伝統的行為。身についた習慣による行為である。
(清水幾太郎 訳)
まさに、僕が常々考えていた人の振る舞い方の類型に名前が付いているではないか。特に、目的合理的行為は基本的に僕が意識している振る舞い方であり、価値合理的行為は僕が謎に感じ、理解に苦しんできた他者の行動パターンである。ヴェーバーは、価値合理的行為の意味は行為の結果ではなく行為そのものであり、そういう意味では感情的行為と共通しているとも述べている。つまり、善を為すという究極的な目的はあるが、その行為によって直接もたらされることを期待する具体的目的に欠けているのである。このことは、「良いこと」を根拠に行動する人達の目的意識の乏しさに該当する。
 なるほど、古今東西を問わず「今までこうしてきた」や「良いこと」を根拠にして行動する人々は存在したんだ。そして、これらの行為の類型にはきちんと名前が付けられていたんだ。僕は、ヴェーバーの記述を見つけてすっかり安心した。気持ちがずいぶん落ち着いた。と書くと訝る人がいるかもしれない。「ヴェーバーが記述していたからって、何故そういう行為の類型が生じるのかは分からないではないか。あるいは現実に周囲の人々の振る舞い方が自分のそれとは相違している時にどう対処すれば良いかは不明のままではないか。」と。良いのである。自分が一体全体どういうことだろうと思っていたことに名前が付いていれば、それで十分なのである。ましてや命名者がひどく有名で高尚らしい人物であればもう言うことないのである。真に理解していなくても名前を知れば満足というところが、衒学的な人間の衒学的たる所以である。
 最近、学生と話をしている時に目的合理性と価値合理性という言葉をひけらかしたくなった。「あのね、君。ヴェーバーって人が人間の振る舞い方には4つの類型が在るって言ってるんだよ。知ってる?知らないの。じゃあ教えてあげるよ。まずね、ん?えと、理念だっけ?理想だっけ?何かそんな種類の合理性と、う、う、う、手段だっけ?方法合理性?まあなんだ、目的を達成するのに上手いやり方を選択するって場合とだな、、、」僕は底の浅い衒学的人間にさえなれない。

2016年10月26日水曜日

発達障害児を育てる保護者の支援

 最近、ある自治体の保育士の研修会で、発達障害をテーマに話をする機会があった。主たる内容は、発達障害を総論的に理解しようというものだ。ただ、保護者支援についても話して欲しいと主催者に言われたので、発達障害児の親に接するときに大事ではないかと思えることを追加した。その内容をここにまとめておく。保育者が保護者支援に従事する際に念頭においてほしいことである。正直に言えば、僕自身の数多くの失敗経験に対する反省がベースになっている。加えて、患者を診療する経験を通じて保育士(あるいは教師)に期待するようになったことを述べることになる。つまり、保育者が「こう振舞うべき」ということを述べるのではなく、保育者にこう振舞ってほしいなあという僕の希望をまとめたものである。


1)対等な立場で接する

世の中には人から「先生」と呼ばれる職業がある。政治家、医師、教師、保育士などである。もちろんどの職業でも、個人個人でずいぶん性格やものの考え方は違っており、皆が同じ言動をとるわけではない。しかし、「先生」と呼ばれる人々に比較的共通した振る舞い方の傾向がある。それは、他者を教えよう、指導しようとする傾向である。
 一般的に、発達障害のある子供を育てている保護者は、しかも支援が必要と言える保護者は、不安を抱き、自信を失いかけている人が多い。教え諭そうとする態度は、相手の緊張を高めがちだし、言われた通りのことができないとますます自信を失わせることになりやすい。特に、倫理的判断に基づいて保護者の言動を非難し、改善させようとすると、保護者の不安が増強し自信を失うだけでなく、支援者に対する反発を募らせることになる。また、非難するわけではないにしても、保護者の考えと明らかに異なる価値観を押し付けると、保護者は反発し、支援者との距離を置こうとしかねない。保護者を支援するときに最も重要なことの一つは、根気よく長く付き合い続けることである。短期間で袂を別つ関係では、有益な支援などできない。
 緊張を強いず、反発を招かない支援を続ける上で念頭に置いておくと良いことがある。あまり役に立とうとしない、ということである。困っている人を助けてあげたいと考えれば、誰しも役に立つことをまず第一に考えるだろう。何らかの専門職の立場にあれば、なおのこと役に立たねばならないというプレッシャーは強くなりがちである。しかし、発達障害を有する子供を育てる親が何かに困っていたり悩んでいるときに、そのような状態に至る要因は複数あり、それらが互いに複雑に影響し合っていることが普通である。つまり、そう簡単に解決できるものではないことが圧倒的に多い。複雑な問題を前にしたとき、とにかく解決しようと焦るほど、実効性のない行動に出て事態を悪化させる可能性が高くなるし、事態が改善しない責任を保護者にかぶせ、責めることになりやすい。根拠のない解決策を連発するよりも、確実な対処法を提案できるまでは事態を把握することに徹した方が良い。

2)話すよりも聞く

「支援」という言葉には能動的な意味合いが強いので、つい何かをしなければと思いがちである。しかし、保護者支援で最も基本的な活動は話を聞くことではないかと思う。当たり前のことだが、保護者が何を不安に思い、何に困っているのかを把握せずに適切な支援はできない。発達障害を有する子供の暮らしている家庭に泊まり込んで直接状況を確認することなど無理である。通常は、問題を把握するためには話を聞くこと以外に方法がない。
 保護者の話をよく聞くことには、現状把握以外に様々な利点がある。まず、保護者が自分の頭を整理できる。自分は何に不安を感じ何に困っているのか、初めからきちんと把握し言葉にできる人はあまりいない。聞き手が適切なタイミングで話を促したり、質問したり、保護者の話をまとめたりできるかどうかによって程度は異なるだろうが、話をしている中で問題点を改めて客観的に把握できるようになることが多い。また、不思議なもので、十分に悩みを吐露することだけで人間はかなり不安が軽減されるらしい。下手な助言をしたり、ましてや余計なお世話の説教をするよりも、ひたすら話を聞くことの方が相手の気持ちを安定させる上で効果がある。しっかり話を聞くことによって、保護者の支援者に対する信頼感が高まることも見逃せない。頻回に長時間話を聞くことは難しくても、たまに十分に時間をとって話を聞くと、その後保護者と話がしやすくなるし、こちらの意見を受け入れてくれる可能性が高まる。
 保護者から話を聞いている時に留意すべきことがある。まず、不安や心配を軽んじてはいけない。たとえ根拠の薄い不安を訴えたりありえないことを心配したりしていても、しょっぱなから「そんなことはありえない。」とか「それは心配のしすぎですよ。」と言ってはいけない。親切心から安心してもらいたくて「それは心配のしすぎですよ。」という人も多いのだが、この様に雑な対応で安心できることは滅多にない。不安で心配な気持ちを抱いていることをまず受け止めるべきである。その上で、実際心配している状態になる可能性はどの程度あるのかを一緒にゆっくり考えたり、万が一心配していることが生じた時にはどういう手立てがあるかを考えたりするのが良い。不安や心配だけではなく、保護者の考えも即座に否定しない様に注意したほうが良い。相当歪んでいる、あるいは明らかに間違った考えを主張する人はしばしばいる。それが信念に近いほど、即座に否定された時に一層強固にその考えにしがみつきやすい。別に賛成する必要もないが、真剣に時間をかけて考えている姿を見せた方が良い。
 もう一点、保護者の話を聞いている時に留意すべきこととして、「出来ていることを聞き出す」努力・工夫が必要である。子供が様々な問題を起こしていても、その合間には出来ていることも数多くある。また、保護者自身の子供への接し方の中にも、上手な、あるいは好ましい接し方を数多く実行できていることが多い。子供が引き起こす問題や、保護者の子育ての拙さばかりに注目しても解決策に繋げることは難しい。むしろ、子供の持っている力や保護者の持っている力に注目させ、それを生かしていける様に援助すべきである。

3)助言や説明

聞くことの方が重要といっても、有意義な助言ができればそれに越したことはない。助言は具体性が高いほど良い。役に立たない助言の筆頭格とも言える例を挙げると、「たっぷりと愛情をかけてあげてください。」というものがある。これは具体的にはどうしたら良いのかまったく不明な言い方である。特に自罰的な考えを持ちやすい保護者の場合は、日常の問題が残っている限り自分の愛情が足りないと悩むことになりやすく、役に立たないどころか有害でさえある。「しっかり言葉がけしてあげましょう。」なども大変抽象的で分かりにくい。ところが、「朝起きてきたら必ずおはようと声をかけてあげましょう。」とか「あなたが指示したことを子供がし始めたら、ありがとうと言いましょう。」という具体的な話ならまったく迷いどころがなく、実行しやすい。 
 発達障害児を育てている中で生じる問題に対処するとき、目から鱗の斬新な解決策があることは少ない。それどころか、分かっちゃいるけど実行できないということが多い。したがって、保護者がどう振る舞えば良いかばかりを助言し続けると、上手くできない現実に押しつぶされそうになる親や、やけになって反発する親も多くなる。今現在できていないことをするようにという助言ばかりだとなかなか事態が良い方向に動かない。ではどうすれば良いのかというと、僕は希望の持てる話を増やしていくことが必要だと考えている。希望の持てる話として特に重要なポイントは、子供の強みを説明すること、保護者の強みを説明すること、そして保育園での前向きな計画である。
 どのような障害特性を持っていたとしても、何もできない子供は存在しない。少なくとも保育園に通ってきているくらいの子供であれば、出来ないことよりも出来ることの方がはるかに多い。それを当たり前のこととして見過ごしているだけである。また、上手くいかないことであっても、細かく見ていけば評価すべき点が色々あるものだ。途中までは上手く出来たとか、部分的にはすべきことをしているとか。例えば、食事中きちんと座っていられない子供であっても数分間くらいは席について食事に専念している時が繰り返し見られたりする。既にできていることはその子供の強みであり、将来の可能性をも示している。日常的な暮らしにくさの原因とみなされる発達障害特性でさえ、場合によっては強みに転じさせることもできる。例えば、すぐに気が散るADHD児は、その旺盛な好奇心を利用して建設的な活動に打ち込ませることができる場合もある。人と交わろうとせず、細かいことにこだわる自閉症児は、一人でものを楽しむことができることが強みになるし、一度身につけた作業を正確にこなすようになることも多い。
 子供のことが問題になっているので保護者との話は子供に関することに終始しがちである。しかし、親の強みを探し、それを本人に伝えることも重要である。どんなに頼りなさそうに見える親でも、ネグレクト状態のような特殊な状況でなければ、何かしら子供に良い接し方をしている点が色々ある。特に、上記の子供が持つ強みはその親が育ててきたものである。子供が様々な力を身につける過程で、親が自覚していなくても数々の理にかなった育て方をしているはずである。色々と暮らしにくさを持つ発達障害児の保護者は、自信を失っていることが多い。自信がないままに、ただただ反省をし、そして問題を全て解決しようという高いハードルを自ら課していることがよくある。そういう押しつぶされそうな状況にいる保護者に、自分が今まで成し遂げてきたものを自覚してもらい、少しでも自信を回復するための援助が重要である。
 保育士が、発達障害児の保護者と話す時、家庭での問題の相談に乗ることもあると思うが、保育園での問題について話すことが多いのではないかと思う。保育園で上手くいかないことは本人の暮らし辛さにつながるのだが、とりあえずは保育士が困る事態として表面化しやすい。そうなると、人情としては保護者への単なる事実報告にとどまらず、愚痴になりやすい。生じた事実を伝えることは大事だが、愚痴にならないように気をつける必要がある。特に、保育園で生じる問題の解決を親に委ねるべきではない。「おうちでもよく言って聞かせてくださいね。」などと保護者に伝える事例が現実には結構ある。しかし、家で言って聞かせるだけで問題が解決することはまずない。むしろ子供にとっては保育園でも家庭でも同じことで叱られることになって心が安らがないし、親も子供を叱るという不愉快な作業が増えた割には効果につながらず、罪悪感や焦りを増す一方となりやすい。保護者に保育園での問題を伝える時には、併せて保育園での前向きな対処の計画を説明すると良い。別にささやかなもので良いし、100%有効でなければいけないというものでもない。何か困った状態にある時でも、前向きな対策が控えていることを知るだけで気持ちが軽くなる。やって見て上手くいかなければ次の工夫を親に伝えれば良いだけである。保育士の側が常に前向きになり、将来に希望を持った態度を示し続けるのである。愚痴ったり悲観的なことばかりを伝えて親を萎縮させても、保育士にとっても親にとっても、何より子供にとっても碌なことはない。
 保育士は、一人で解決しない、一人で背負い込まないということを常に意識しておくべきである。これは、発達障害を有する子供に限らず、何らかの障害に苦しむ人々をサポートする時に重要なことである。障害児(者)の抱える問題は様々な要素が複雑に絡み合っていることが普通であり、何らかの専門性を持っている一人の人間が解決できることは少ない。もちろん、同僚や上司など同じ職場のメンバーで協力し合うことも必要だが、同時に利用できる地域資源を少しでも多く把握しておく必要がある。児童発達支援センター/事業、病院、教育相談、児童相談所、福祉制度など、様々な施設や人々が大きな力になることが少なくない。子供が抱えた問題に応じて相談先を選べるように、地域にどのような資源があるかできるだけ把握しておく必要がある。自治体が中心となって地域資源をまとめたハンドブックを出していることもあるが、それだけで全て把握できるわけではない。常日頃、様々な施設や人との繋がりを持つように意識しておくと良いかもしれない。
 発達障害に関連した問題が生じた時、まず相談先として浮かんでくるのは医療機関である。確かに、発達障害が疑われる場合に医療機関を受診することには大きな意味がある。医療機関を受診することで得られるものは多く、少なくとも一度は医療機関で評価を受けた方が良い。ただ、病院受診をあまり焦らない方が良い。あまり気が進まない保護者に、病院受診を強硬に迫るようなことをすべきではないし、そこまでして受診する意義は乏しい。まず第一に、病院で下される診断は絶対的なものではない。しかも、診断名がつくと対処法が自動的に決まるわけではない。その上、すべての問題を解決する薬物治療など存在しないし、対処において医師が果たせる役割は極めて限られている。結局のところ、発達障害児に関連した保育現場で生じる問題への対処では、中心的役割を保育士が担うことになる。その際に非常に大切なことは保護者との良好な関係を保つことである。意に沿わぬ保護者を説き伏せてでも病院受診を強要することのメリットはない。診断に関する問題については項を改めて、さらに具体的に説明する。


4)病院での診断についての補足

発達障害から「診断」という言葉が切り離せないため、どうしても病院受診が必須と考えられやすい。私見だが、保育士や教師の中にも病院受診に強くこだわる人が多い気がする。これは全く間違いという訳ではない。病院には他の施設には期待できない様々な機能を期待できる。ただ、多くの人がこの領域における病院の役割に過剰に期待しすぎているし、誤解していることも多いと思う。
 まず、当たり前のことを指摘しておく。発達障害の特性を持った子供が病院を受診すれば診断されるし、受診しなければ診断されない。病院で診断を受けたから発達障害なのではなく、診断の有無に関わらず発達障害児は発達障害児なのである。こう改めて書くとひどく当たり前のことのように見える。しかし、なぜか診断を受けているか受けていないかにこだわる保育士や教師はとても多い。診断の有無で実際の保育現場で生じる問題が異なるわけではないし、支援の必要性や具体的な支援方法が変わるわけでもない。病院の診断が大きな意味を持つのは、加配をつける時や、受給者証の発行あるいは就学に際して特別支援学級選ぶといった、公的な制度を利用するときだけである。診断があろうがなかろうが、保育現場で困難を抱えている子供に対しては合理的な支援をせねばならない。
 病院での診断は基本的にはカテゴリー診断だということも認識しておく必要がある。カテゴリー診断とは、ある診断名に当てはまるか否かを結論とすることである。つまり、結論は黒か白かのいずれかである。ところが、これは発達障害という概念の実態にあまりそぐわない。例えば多動という症状一つを取っても、まったく問題のないレベルから極端に逸脱したレベルまでの間に、様々な程度の多動状態が存在し得る。どこから異常でどこまでは正常などと単純に線引きできない。ほとんど程度の変わらない多動状態の子供の一方が例えばADHDと診断され、他方が明確な診断を受けなかったとしても、診断を受けた子供だけが問題であり援助が必要といえるだろうか。また、同じ子供であっても属している社会環境の状況によって、多動が暮らしづらさに繋がることもあれば、何の問題も引き起こさないということもある。かように、診断を受けた子供が問題だらけで、診断されなかった子供には何の問題もない、ということはまったく言えないのである。
 発達障害の診断精度は、情報源に依存していることも重要である。同一人物に関する評価でも、多くの問題を感じる人もいればほとんど問題を感じていない人もいる。保育士はとても困っているのに保護者は問題を感じていないとか、その逆とかは現実には数多く遭遇する事態である。一般的に、問題を強く感じている立場の人が情報源となる時の方が、問題をあまり感じていない人が情報源となる時よりも、発達障害の診断に結びつきやすい。問題の有無が微妙な事例では、最終的な判断が医師の主観によって左右されることもある。もちろん、医師のスキルや評価に費やせる時間によっても診断は左右される。そのため、同じ子供のことであっても、複数の病院でまったく異なる結論となることが珍しくない。
 最後に、医師の診断は最も問題となる一つか二つの診断名で結論づけられることが普通である。したがって、いかに正確で妥当な診断を受けていたとしても、診断名はその子供の特徴の一部を表しているに過ぎない。結局、現場での支援は保育士の、子供の特性を正確に見抜く観察力にかかっているのである。
 なお、支援者の立場から発達障害の診断をどう理解すれば良いかについて、もっと詳しく解説した文章を書いたことがある。よかったら参考にしてほしい。

2016年9月18日日曜日

みんな頑張ってることを知ってるかい?

 歳をとった実の母も、同じく高齢の義理の母も、会うたびに忙しいという。忙しくて、大変で、疲れたという。それは気の毒に、いったい何がそんなに忙しいかと聞いてみると、実際にしなければいけなかったこと、実行したことは驚くほど少ない。そんなの忙しくもなんともないではないかと苦笑しながら口に出して指摘したくなる。いや、正直に言えば多少は口に出すことも多い。しかし、これは間違っている。断言できるが、間違っている。何故なら、母達の主観の中では本当に忙しく、なんとか課題をこなすべく頑張り、疲れているのである。このことは僕自身がリアルに実感できるようになってきた。若い頃に比べて単位時間あたりに実行できる仕事量が減っているし、一回に仕事に集中できる時間も随分短くなったし、同じ仕事をすると以前よりずっと疲れるようになっている。こうなると、以前は暇に感じていたくらいのスケジュールでも忙しいと感じてしまう。忙しいは主観的な概念である。本人が忙しいと感じたら、忙しいのである。
 「頑張る」という言葉もどのように使われているのか、よく考えてみる必要がある。本来、頑張っているかどうかは本人の気持ちの中の問題である。しかし、人は他者がどのくらい頑張ったかを、客観的に観察できるもので評価する。作業に従事している時間、作業に集中しているように見える度合、気が散っている様子の少なさ、成し遂げられた具体的成果の量、真剣なあるいは苦痛にゆがんだ表情、などである。小学生であれば、どのくらい確実に先生の話を聞いているか、課題にきちんと取り組めているか、授業と関係ないことに注意を向けることが少ないか、そういうことが授業中に頑張っているかどうかの指標になる。成果主義に反感を持ち、日々頑張っていることを評価したい教師は多いが、子供の心の中までは分からないので、こういう見て確認できる姿を評価する。
 だが、これは間違っている。断じて間違っている。頑張ることも本来は主観的な概念だ。誰もが目を見張るほどの成果を上げている人でも、本人は「かる〜く」こなしているかもしれない。来る日も来る日もコツコツと参考書を読んでいる人も、参考書を読むことがほとんど意識せずにできる生活習慣になっていることだってあり得る。こういう人達は、主観的には大して頑張っていない。逆に苦手意識があり嫌いでたまらない漢字の書き取り練習を、ほんの数文字だけ仕上げた子供は、死ぬのではないかと感じるほど頑張ったのかもしれない。
 忙しさとか頑張りは、極めて主観的な概念である。本人が持っている様々な能力のレベル、本人の心理的な健康状態、あるいは対象となる活動が本人にとって好きか嫌いかなど、様々な要因によって形作られるものである。本人が忙しいと感じれば忙しいし、頑張ったと感じれば頑張っているのだ。そして、現実に達成できた作業量の多寡に関係なく、忙しすぎたり頑張りすぎたりすると人は疲弊する。場合によっては不合理な振る舞いに繋がったり、肉体的な不調につながったりもする。
 人々は頑張る人が大好きで、それ以上に頑張っていない人が大嫌いである。かくいう僕自身も頑張っている人に感心し、頑張ろうとしない人に怒りの念を抱くことがしばしばある。しかし、そういう感情を抱くときには十分に自覚しないといけない。頑張っている「ように見える」人を好み、頑張っていない「ように見える」人を嫌っているに過ぎないということをである。
 人が他者を頑張っているかどうかで評価しようとすることには、少なくとも2つの危険性がある。まず、自覚的には間違いなく頑張った人に「頑張りが足りない」と言いがかりとしか言えない評価を下すことになりかねない。結果として、本人の意欲をスポイルすることにつながる。また、もっと頑張れと言われても実際に何をどうすれば良いかは闇の中であり、より良い状態を実現するための具体的方策につながらない。様々な能力や文化的背景を持つ人々を指導する職業の人、典型的には教師など、はこのことを十分念頭におくべきだと、僕は考えている。指導者は、自分の思い込みにしか過ぎない頑張っている程度で人を評価するリスクをとるべきでないと思う。全ての人はそれぞれに「頑張っている」ことを前提にしておく方が安全だと思う。その上で、頑張れなどという抽象的な言葉ではなく、何をどのようにすれば良いのか、具体的な行動を助言するように心がけたほうが良い。 

2016年7月23日土曜日

小児一般外来での発達障害を伴う子供の診療

この文章は、随分前にほぼ書き上げていた。しかし、公開するかどうかをかなり迷い、引き伸ばしていた。この文章には問題がある。そして、我ながら能天気な文章だと思う。まず、第1の問題は、小児の一般外来で診療する上での1番のネックは時間をかけられないことだと言いながら、ここに書いてある通りに診療しようとすると結局長い時間を要することになりそうである。第2の問題は、医師に発達障害に関するかなりの知識があることを前提にしている。べき論が好きな人は、診療する以上は医師に深い知識があって当然と言うだろう。しかし、膨大な領域をカバーする医学教育で発達障害に関する教育はほんの一部にしか過ぎない。しかも、診断だけするのであればともかく、何らかの助言や援助をしていこうとすれば、行動分析などの心理学、教育、福祉など、通常医学部では教えられない知識が必要になってくる。そうでなくても医師不足で激務にさらされている小児科医が、他の疾患と並行して発達障害について勉強しようとしても限界がある。結局、発達障害児支援を医療中心に組み立てることには無理があるのだと思う。「診断」がつきまとうため、どうしても医療が前面に出がちだが、実際には医療が必須になるケースなどさして多くない。医療が不可欠なのは、特殊な基礎疾患や合併疾患があるか、2次障害に悩まされている場合くらいである。現在発達障害に関連して問題が生じている多くのケースは、「ちょっと変わった子供」を教育や保育が上手く受容できる様になれば解決するものが圧倒的に多いのではないだろうか。発達障害児を診療する医療機関を増やすよりも、教員や保育士のスキルを向上させるとともに、親を追い詰めず支える仕組みを考える方が有用性が高いのではないだろうか。

 ここでは、小児科の一般外来で発達障害に関する相談を受けた際、どの程度のことをすれば良いのかということについて書きたい。エビデンスに基づいたものではなく、全くの私見である。こういう風に診療してくれたらいいなあ、という僕の個人的希望と言っても良い。
 発達障害専門外来ではなく、小児一般外来で発達障害関連の相談を受けた時、最も問題になるのは時間である。以前にも書いたことがあるが(「発達障害診療」「発達障害の診断と料理」)、診断がつくまでのプロセスだけに限定しても、発達障害診療では本人や家族(場合によっては教師・保育士とも)と長時間話をする必要がある。何となれば、発達障害の診断は日常行動を詳細に把握することに基づいてなされるからである。知能検査をはじめとする様々な検査も重要だが、限局性学習症(特異的学習障害)を除き、検査が診断の中心的な根拠になることはない。診断にとって最も重要なことは話を聞くことである。時間は発達障害診療にとっての最大の武器と言って良い。ところが一般的に小児科医は忙しい。一人の患者に1時間はおろか30分を割くことさえ難しいことが多い。
 小児科の一般外来で発達障害の診療をする際には、ごく短時間で発達障害児やその家族に貢献するためには何をするかということが肝となる。そのポイントは以下の通りである。

1)何に困っているのかを具体的に明確化する
2)本人の認知・行動特徴を推測し、環境との不整合を検討する
3)ささやかな助言をする
4)養育者の強みを探す
5)地域の資源を知る努力をする

1)何に困っているのかを具体的に明確化する
 一般的に子供の日常に何か問題を感じたため親が病院受診を考えたとき、あるいは教師が受診を勧めるとき、何らかの診断が下りることを期待する場合が多い。ところが、発達障害の診療では必ずしも診断の優先順位は高くない。診断は重要なのだが、診断以上に重要なことがある。本人が日常生活で何に困っているのかを具体的に認識することである。実は、日常的に何に困っているかを明らかにする作業の延長線上に診断が存在する。逆に、困っていることの具体を認識できないままに無理に診断しても、日常的に何に困るかを充分に予測できないし、支援につなげられない。

2)本人の認知・行動特徴を推測し、環境との不整合を検討する
 「日常的に何に困っているかを明らかにする作業の延長線上」とは、結果(現実に生じている現象)を具体的に把握し、それが生じる機序を推測するプロセスを意味する。発達障害とは、それが注意欠如・多動症であれ、自閉スペクトラム症であれ、何らかの認知特性や行動特性が大多数の人たちより少々ずれている状態である。そして、そのずれ具合を許容できない環境に暮らしていることから日常的に様々な困難に遭遇しているのである。その、一つ一つの困っている状況を分析することにより、本人の行動特性や認知特性の特徴が浮かび上がってくるし、それを許容できない環境の特徴が整理できるようになる。
 こう考えると、何に困っているかを明確化することと、環境との不整合を生じさせる認知・行動特徴を推測することは密接な関係にあり、分離することはできないことがわかる。もちろん何から話を始めるかといえば、何に困っているのかという事実の検証からである。その際、より具体的な状況を把握できるほど、行動と認知の特徴や、それらと環境との関係性を推測する良い手がかりとなる。生じた問題そのものだけではなく、その前後の状況の推移を含めて、ドラマに再構成できるような具体性を持った聞き取り方ができるとよい。その上で、起きた現象を、注意集中力の弱さ、反射的な反応や思考の抑制能力の問題、人の気持ちを直感的に推測する能力の低さ、複数の情報を並行して処理することの苦手さ、文脈を考慮した推論の弱さ、感情の不安定さや不安、など色々な認知的問題や行動特徴でうまく説明ができるかどうか考えていくことで、本人の特性を推測していくわけである。
 こうなると、日常生活上の1エピソードについて聞き出すだけで結構時間がかかりそうである。生活のすべての状況においてつぶさに聞き取ろうとすれば、膨大な時間を必要とすることは間違いない。だが、一気に漏れなく聞き取らなくても良いのである。その子供の状況にもよるが、通常こういう問題では一回の診療で全ての話を聞く必要はない。繰り返し受診してもらい、そのたびに一つか二つのエピソードを聞き取り、なにがしかの対処法を提案するということを何回か繰り返し、状態把握と経過観察を兼ねれば良い。「なにがしかの対処法」については後述する。もちろん、受診した子供によっては切迫した事情があるかもしれない。そういう時はさっさと専門病院に紹介すれば良い。発達障害に関連した問題で医療機関を受診する多くのケースでは、保護者は病院受診に対してなにがしかためらいを持っている。本当に病院を受診するほどのことなのだろうかと。こういう場合、結論を急ぐことよりも、現在存在する問題点をゆっくりと整理する方がむしろ良いのである。
 改めて強調するが、発達障害が疑われる例では診断することをむやみに急がない方が良いことが多い。親が問題を十分に整理できていない状況で、十分な説明抜きに診断名だけを告げられると、かなり強く動揺し、前向きに問題に向き合えない危険性がある。逆に、不十分な情報をもとに「何も問題なし」という結論を出してしまうと、多くの親はその言葉に強くすがり、現実に生じている種々の問題を否定し続けることになり、結局は子供自身の辛い状況が長引きかねない。1回の診療で結論を出さず、時間をかけながら問題の整理をしていくという作業は、間怠っこしいように見えて意外に問題解決への最短距離になることが多いのではないかと思う。

3)ささやかな助言をする
 事実関係の整理を進めるだけで、大きな成果である。なぜなら、親が客観的かつ具体的に問題状況を把握できるようになることで、改めて問題を問題と認識でき、自ら解決策を模索できるようになる可能性が上がるからだ。また、具体的な問題を整理する過程で、子供の認知・行動特性への理解が進むことも解決策につながっていく。さらに、専門家のいる病院を受診することになった時に、状況を具体的に把握していることでより効率的で有意義な診療ができる確率が高まるからである。とはいえ、受診する側としては何らかの解決策を期待するし、医師の側も聞き出すことだけに終始して何のアドバイスもせずに帰すのでは目覚めが悪いだろう。そう考えると、聴き取れたエピソードごとにちょっとした助言ができることが望ましい。
 一つか二つのエピソードを聴き取るだけでも、ある程度その子供がどういう認知・行動特性を持っているか仮説を立てることが出来るし、その仮説をもとに環境のどういう要素がその子供に合っていないのかを推測できる。何か対応策を保護者に提案するとき、具体的にはケースバイケースであるが、以下の点に留意すると良いだろう。

a)諦める
b)出来ていることを見つける
c)実行可能性が高い具体的な提案

 のっけから「諦める」では身も蓋もないと思われるかもしれないが、これは大事なことである。問題解決を焦るあまり、合理性のない対処法を闇雲に追い求めることで親は疲弊するし、下手すれば子供の問題がますます複雑化する。意味のない、あるいはむしろ事態を悪化させる対応を続けるよりは、一旦諦めて現状を認めてしまった方が、親はエネルギーを温存できるし問題が拡大することを防ぐことにもつながる。永遠にではなく、合理的対処を計画できるまで諦めてもらうのである。
 発達障害児が直面する様々な日常的問題に対処するとき、親や教師は上手く行っていないことに注目する。そして、どうやって問題を減らしていくかに頭を悩ませる。しかし、すでに出来ていることをさらに増やしたり改良することの方が実現性が高いことが多い。問題(出来ないこと)の周辺にもすでに出来ていることが多くある。授業中おしゃべりが多い子供でも数分間静かにしていることは多いし、食事中立ち歩く子供にも座って食べている数分間は必ずある。すぐに他の子供を叩く子でも平和に遊んでいることは多い。そういう出来ていることをさらに伸ばしていくと、全体としては問題が減少することになる。具体的なアクションにまで言及できなくても、子供の出来ていることに保護者が気付けるように手助けするだけでも大きな意義があると思う。
 「こうしたら良いのではないか」などと何か対策を提案をするときは、子共自身にとっても、親にとっても、実行し成功する可能性の高い、言い換えればハードルの低い提案をすべきである。病院で相談する事態に至っているときは、親子で自信を失っていることが普通である。こういう時は、ささやかでも成功することを積み重ねることで、さらに前へ進むことへの自信を取り戻すことになる。えてして親自身は高い目標設定やノルマを計画しがちである。主治医はブレーキ役を引き受ける方が良い。

4)養育者の強みを探す
 保護者の話を聞きながら、特に上記の子供の出来ていることを見つける作業をする過程で、保護者自身の上手に接している点を見つける努力が必要である。仮に主訴が親の指示に従わないことであり、教えたことを身につけないことであり、叱っても叱っても他者に暴力を振るうことであったとする。しかし、24時間問題を発生し続ける子供はいない。よく確認すれば、しばしば親の指示通りに動いているし、1年前や2年前と比較すれば多くのことを習得できているし、他の子供と平和なやり取りをしていることも多いのである。こういった多くの力を子供が身につけることができているのは親の手柄である。親が子供に何らかの有効な接し方をしていることの証拠である。自身が理想とするレベルに達していないにしても、ほとんどの親は子育てにおいて決して無力ではない。
 親は自分のやり方の何が悪いのかということに注目して反省しがちなのだが、これは非建設的である。むしろ、自分の力は何か、強みは何かを自覚し、それを少しでも活かせるような工夫を積み重ねた方が効率が良い。従って、主治医は子育てにおける親の強みや、上手くやっている具体を繰り返し指摘する方が良い。

5)地域の資源を知る努力をする

 発達障害児のサポートを病院だけで完結することはできない。これは一般小児科だけではなく、発達障害を専門に診療している病院にも言えることである。地域の行政・制度、福祉、教育などの領域の中に用意されている支援制度やキーパーソンを把握し、必要に応じて繋いでいくことができると、発達障害児自身も保護者も随分救われることが多い。すべての領域に通じる一元的窓口が地域にあれば理想的だが、現実はなかなかそういう仕組みになっていない。したがって、医師個人が地域の現状を多く把握しているほど、有効な助言をしやすくなる。

 以上、思うところをくだくだと書いてみた。まあ、本気で考えていることを率直に書いたのではあるが、読み返してみるとこりゃ大変だという気もする。

2016年6月22日水曜日

テーブルに悪態をつく子供はいない

 何かと言えば口を荒らし、反抗し、文句をつけ、思い通りにならなければ泣き喚く子供が少なからずいる。反抗挑戦性障害の診断がつくほどではなくとも、こういう子供の行動に頭を悩ましている親は世の中に大勢いる。明確に親に非のあることに従わないならともかく、親の妥当な指摘や指示には従ってもらわなくては困る。子どもの将来のことを考えれば、少々のことでは引き下がれないと考える親も多いだろう。斯くして親も子どもに対抗して声を荒げていくのであるが、なかなか成果を得られない。
 ところで、繰り返される人間の行動には、繰り返される理由が必ず存在する。その行動をとることで、何らかのメリットがあるのだ。何のメリットもない行動は持続しない。そして、このことを必ずしも本人は自覚していない。というよりも、自覚していないことのほうが多い。口を荒らし、反抗し、泣きわめくこともメリットがあるから繰り返されるのだ。一体何がメリットをもたらすのかといえば、口を荒らし、反抗し、泣きわめく先の相手、つまり親が何らかのメリットを子供に提供しているのである。分かりやすく言えば、子供の行動への親の反応が、そのけしからん行動を繰り返させているのである。もっと具体的に言えば、注意したり叱ったりという親の行動が子供の困った行動を繰り返させているのだ。考えてみて欲しい、テーブルに繰り返し悪態をつく子供はいない。電信柱に対して泣きわめく子供もいない。机も電信柱も何の反応も返さないからである。どんなに悪ガキでも、反応のない相手に問題行動を繰り返すことはない。
 幼児期から小学校低学年くらいの子供が親に繰り返し反抗する場合、そのメカニズムは単純なことが多い。何かしたいことができるとか、欲しいものが手に入ることか、嫌なことから逃れられるといったことである。そしてこれらのどれも手に入らなかったとしても、他に重要なメリットが存在する。それは、親の注目を独占できるということであり、自分の言動によって親の行動が操作されているということである。叱られたからといって、本人は自覚的に喜んでいるわけではない。大概の場合、叱られれば意識の上では不愉快なだけである。しかし、自覚はなくても親に注目されることや自分の言動で親の行動を操作できることは子供にとって絶大な魅力がある。気の利いた方法で親の注目をひきつけられない子供が手っ取り早く確実に親に相手をしてもらえる方法は、親を怒らせることである。ちょっと口を荒らせば効果てきめんに親は自分をかまってくれる。
 このメカニズムを理解すれば、賢明な対応は自ずから明らかである。相手にしなければ良いのだ。口を荒らそうが、反抗しようが、泣き喚こうが、相手にしなければ良いのだ。相手にしなければこういった行動をとることによるメリットはなくなる。このことは昔から、理屈抜きに理解されている。子供が理不尽な行動をとるとき、「相手にして欲しいだけよ」と言いながら無視するという作戦をほとんどの大人は採用している。これは理にかなっているのである。しかし、万人がこの対応を知っているのにもかかわらず、失敗することが多い。やめて欲しい行動を無視するというのは極めて理にかなっているのであるが、この対応を成功させるためには配慮しておくべきことがある。
 まず理解しておかないといけないことは、相手にしないようにするとしばらくは問題行動が一層激しくなることである。「相手にしない」という発想はかなり多くの親が思いつくものであるが、実際に実行しても、しばらくは思惑とは逆に問題行動が増加する。そのままくじけずに相手にしない対応を続行すれば、やがて問題行動は減少する可能性が高いのだが、多くの親は一層激しくなる攻撃にほとほと疲れてしまい、つい譲歩してしまう。相手にしない作戦をとったとき、一過性に事態が悪化することをあらかじめ知っておくことは大事である。
 もう一点、もっと重要なことがある。口を荒らす行動が親の注目を集めるためだからといってもそれを遮断すれば簡単に解決するわけではない。子どもは、本人は意識していなくても親の注目が必要だから困った行動を取っているのである。口を荒らしても必要なものが手に入らなくなったとして、他に手に入れる手段がなければかなり頑固に頑張って同様の行動を繰り返し続ける。親の注目は子供にとって必須のものなのだ。できるだけ速やかに問題行動を減らすためには、問題行動をすることによって手に入れていたものを、他の手段で手に入れられるようにすることが必要になる。一般的に大人は倫理的判断を重視し、「それはすべきではないから、してはいけない」という発想に陥りがちである。しかし、子供の問題行動に対処するときには、その子が必要としているものを満たしてあげる必要があるのだ。つまり、子供が親にとって許容できる振る舞いをしている限りは、親の注目を十分に提供する必要がある。
 ちょっと例え話をしよう。飢えた子供が店先の食物を繰り返し盗むときに何が有効な対策になるだろうか。厳しく罰することだろうか。それだけではなかなか盗みを止めることはない。なぜなら飢えているのだから。食物がなければ生きていけないのだから。対策は簡単で、飢えた子供に十分な食事をさせれば良いのである。満腹の子供はそれ以上食べ物を盗もうとは思わないだろう。繰り返し生じる子供の問題行動への対応も同じことで、その行動を起こすことで手に入れられるものを問題行動を起こしていないときに十分提供しておけば、問題行動を起こす必要性は激減し、減らしやすくなるのである。結論を言えば、繰り返し口を荒らし反抗する子供達には罰するのではなく、必要なものを満たしてあげないといけないのである。

2016年3月31日木曜日

ハ行の不思議

 しなければいけないことが多い時、人はするべきことと関係ないことに没頭しがちだ。「お前だけだ」という人もいるかもしれないが、そんなはずはない。少なくともそういう経験がわずかでもある人が大半である、と僕は確信している。という訳で、僕は今、ハ行の理不尽さに心を悩ませている。
 語音の「が(/ga/)」と「か(/ka/)」は両者とも破裂音である。破裂音とは、発声する時に一旦空気の流れを完全に止めた後、気流を解放することで表現する音だ。「が」と「か」はどこで空気を止めるかも共通していて、舌の上面を軟口蓋に当てて気流を止める。何が異なっているかといえば、「が」は破裂する前から声帯が振動し音を出し始める有声音なのだが、「か」は破裂してから声帯が振動して音を出す無声音だという点である。「だ(/da/)」と「た(/ta/)」も同様の関係があり、前者は有声破裂音、後者は無声破裂音である。「が」「か」と異なり、「だ」「た」は舌の先と上歯茎で空気の流れを遮断し、破裂させる。
 いずれも平仮名表記には同じ法則性があり、同じ文字に濁点を付ければ有声音、付けなければ無声音である。「ぎ(/gi/)」と「き(/ki/)」や「ど(/do/)」と「と(/to/)」も同じことである。
 では、「が」に対する「か」と同じ関係になる「ば(/ba/)」に対する語音は何かといえば、「は(/ha/)」ではなく「ぱ(/pa/)」なのである。「ば」は有声破裂音である。どこで空気の流れを止めるかといえば、自分で発音すればすぐにわかるが上下の唇を閉じることで気流を止める。ところが、「は」は全く子音の種類が違っている。「は」には破裂の要素は全くなく、声門を空気が流れる時に発する摩擦音が子音になっている。これに対して「ぱ」が「ば」と同じく上下の唇を合わせて息を止める破裂音であることは、発音すれば容易に確認できる。
 これがどうも解せない。なぜハ行の表記に濁音をつけるかどうかが有声音か無声音かの対立ではなく、全く異なる種類の子音を表すことになったのか。しかもバ行の無声音である相棒を表記するために半濁音などというものをこさえている。そういえば、半濁音はハ行にしかない表記である。うーん、分からない。
 以前、昔の日本人はハ行を「ぱぴぷぺぽ」と発音していたと聞いたことがあるような気がする。記憶が不確かなのだが、もしこれが本当だとすればハ行の表記に濁点をつけるかどうかは有声音と無声音の対立だけを表す合理的表記だったのだろうか。となると、その頃は半濁音はなかったのだろうか。
 ああ、悩ましい。誰か教えてくれませんか。でないと、仕事に手がつかない。

2016年3月10日木曜日

合理的配慮

 最近、勤務先の大学での卒業研究発表会で、発表者の学生が聴衆から特別支援教育の実践にあたり何が重要ですかと質問された。その学生が「障害児を特別扱いしないことが何より大事だと思います。」と答えるのを聞いて、がっくりした。毎年いるんだ。「特別扱いをしない」と嬉しそうに言う奴が。現在の日本の教育現場では、一人ひとりの教育的ニーズに基づいて合理的配慮が求められることを知らないのだろうか。そもそも「特別支援」において特別扱いをしないなんて、字面だけ見ても矛盾しているじゃないか。
 などと偉そうに憤慨してみたものの、特別支援教育とは何か、合理的配慮って何のことか、僕自身の頭の中でスッキリとまとまっていないなあと気付き、二重にがっくりした。これを機会に、特別支援教育や合理的配慮という考えが法令としてどういう流れで定められてきたのか整理しようと思い立ち、この文章を書くことにした。もう、先に言っておくが、極めて付け焼き刃のメモである。それでも読んでやろうという親切な方は、読後に間違いや誤解を指摘していただくと共に、追加して説明すべきことをご教示願えれば幸いである。
 学校に、それが通常学級であっても特別支援学級であっても、障害のある子供が在籍しているときに何が必要になるのだろうか。2006年12月に教育基本法が改正され、以下の条項が付け加えられた。
国及び地方公共団体は、障害のある者が、その障害の状態に応じ、十分な教育を受けられるよう、教育上必要な支援を講じなければならない。 (第4条第2項)
つまり、少なくとも公立の学校園は障害のある子供が十分な教育を受けられるように支援を講じなければいけないのである。
 何だか漠然としているのだが、この部分の考え方の詳細は法律で規定されているわけではない。どこで知ることができるかといえば、2003年3月に発表された特別支援教育の在り方に関する調査研究協力者会議「今後の特別支援教育の在り方について(最終報告)」や2005年12月の中央教育審議会答申「特別支援教育を推進するための制度の在り方について」に示されている。僕は法律について詳しくないのだが、単に法律の条文だけではなく、審議会の報告、規則、通達など、法律以外の記述が法律の解釈や運営に実質的な力を持つらしい。で、2005年の中央教育審議会答申には以下の記述がある。
「特別支援教育」とは、障害のある幼児児童生徒の自立や社会参加に向けた主体的な取組を支援するという視点に立ち、幼児児童生徒一人一人の教育的ニーズを把握し、その持てる力を高め、生活や学習上の困難を改善又は克服するため、適切な指導及び必要な支援を行うものである。
ここでポイントとなるのは、「一人一人の教育的ニーズ」に対して適切に指導するように求めていることである。これらの報告書や答申は、もう一つ重要な提言をしている。それは、通常学級に在籍する子供に対しても、個々の教育的ニーズに沿った支援をすることが求められているということである。つまり、特別な教室や特別な学校に在籍する場合だけ配慮が求められるのではなく、教育現場のあらゆる場面で障害のある子供に適切に対応することが求められているのだ。
 さて、以上のように全ての学校現場では障害のある子供に対して必要な支援、あるいは適切な指導をしないといけないことになるのだが、一体どういう考え方でどの程度のことをせねばならないのだろうか。それを考える上でのキーワードになるものとして「合理的配慮」がある。
 実は、以上のような教育関係の法令整備は、2011年8月に改正された障害者基本法に沿ったものにするためである。そして、教育関連法令のみでなく全ての法令が障害者基本法に沿うように整えられてきたらしい。さらに、このような障害者に関連して法令・制度の大掛かりな整備が行われてきた背景として、2006年12月に国連総会で採択され、2008年に発効した障害者の権利に関する条約の存在がある。日本はこの条約を2007年9月に署名し、2014年1月20日に締結している。この条約に矛盾することがない様に、何年もかけて法令の整備が進められてきたのである。
 障害者の権利に関する条約では、障害に基づくいかなる差別もなしに、全ての障害者のあらゆる人権及び基本的自由を完全に実現することを確保し、及び促進することを締約国に義務付けている。そして重要な考え方として障害を有する人が地域社会に完全に包容(inclusion)され、自立して生活できるようにする処置を締約国に求めている。教育に関しても障害のある人を包容する教育制度(インクルーシブ教育システム)の構築を義務付けている。
 障害のある人が人権および基本的自由を享有し行使する上で必要となるものは合理的配慮である。条約では合理的配慮について以下のように説明している。
「合理的配慮」とは、障害者が他の者との平等を基礎として全ての人権及び基本的自由を享有し、又は行使することを確保するための必要かつ適当な変更及び調整であって、特定の場合において必要とされるものであり、かつ、均衡を失した又は過度の負担を課さないものをいう。
日本の学校教育における合理的配慮に関連して触れておかないといけない公的文章がある。2012年7月に中央教育審議会初等中等教育分科会が作成した「共生社会の形成に向けたインクルーシブ教育システム構築のための特別支援教育の推進(報告)」である。この報告では共生社会の形成に向けて重要な理念としてインクルーシブ教育システムを位置づけている。そして、特別支援教育はインクルーシブ教育システム構築のために必要不可欠なものと位置付けている。特別支援教育の基本的考え方は既に書いたが、子ども一人一人の教育的ニーズを把握し、適切な指導及び必要な支援を行うというものであり、この「適切な指導及び必要な支援を行う」ことを言い換えれば(報告には明記していないが)合理的配慮ということになると思う。この報告では、条約での定義をもとに合理的配慮を以下のように説明している。
本特別委員会における「合理的配慮」とは、「障害のある子どもが、他の子どもと平等に『教育を受ける権利』を享有・行使することを確保するために、学校の設置者及び学校が必要かつ適当な変更・調整を行うことであり、障害のある子どもに対し、その状況に応じて、学校教育を受ける場合に個別に必要とされるもの」であり、「学校の設置者及び学校に対して、体制面、財政面において、均衡を失した又は過度の負担を課さないもの」、と定義した。
具体的な合理的配慮は一人一人の障害の状態や教育的ニーズに応じて学校の設置者や学校が個別の子供に対して行うことになる。そして、それを支えるために国や自治体が基礎的な環境整備を行う。個別に合理的配慮を提供するにあたって具体的に何が必要かといえば、個々の障害の状態や教育的ニーズに基づいて決定するため、予め全てを網羅して明文化することはできない。ただ、合理的配慮を決定する際には、1 教育内容・方法、2 支援体制、3 施設・設備について、の3つの観点を踏まえることが必要とされている。有効な合理的配慮が提供できるかどうかについて、1については教師個人のスキルや創意工夫が負うところが大きいと思われる。2については学校園の経営者の力や学校園の制度・文化が大きく関与し、3については行政の役割が大きそうである。ただ、それぞれの観点に様々な要素が関与するだろうし、3つの観点が上手くかみ合う必要があり、関係者が互いに協力することが必要になる。一人の子供に対する合理的配慮であっても特定の誰かが単独で背負い込む様なものではない。
 合理的配慮の決定においてはICF(国際生活機能分類)を活用することが推奨されている。また、設置者及び学校が保護者や本人と可能な限り合意形成を図った上で決定・提供されることが望ましいとされている。ICFを活用するということは、障害を有する子供達が日常のどういう活動においてどの様に、あるいはどの程度困難な状況になるかは、本人固有の特徴と環境との相互作用の中で決まる流動的なものであるということを意味する。つまり、同じ子供であってもその時々の状況で必要とされる合理的配慮は変化する可能性がある。また、合意形成を重視するということは、合理的配慮というものが一方的に与えられるものではなく、本人や保護者の希望を反映したものにすべきだということである。
 合理的配慮について、見落としてはならないポイントがある。条約の定義でも中央教育審議会報告の定義でも、「均衡を失した又は過度の負担を課さない」と記述されているが、これは各学校の設置者及び学校が体制面、財政面を勘案して個別に判断することとされている。ここまで説明してきた様に、インクルーシブ教育システムを推進するために合理的配慮を提供することが教育に求められている。しかし、無制限の配慮を求めているわけではないことが分かる。現実的に無理なことまで提供することは求められていないのである。様々な状況を勘案し、それこそ「合理的」に合理的配慮をすることが必要なのだろう。
 この、「均衡を失した又は過度の負担を課さない」という文言が適切な配慮をしないことの言い訳になるのではないかと心配する人もいる。しかし僕は必ずしもそうではないと思う。時間的、人的あるいは予算的制約を超えた支援を学校園及び教師に求められないのは当然のことである。ただ、ここまで説明してきたことから明らかだが、学校園及び教師は一切の配慮をしないとは口が裂けても言えない。なぜなら、一切の配慮をしないことは差別であり、日本の法律では認められないことだからである。学校園及び教師は常に合理的に配慮しなければならない義務を負っている。
 そう考えると、学校側に「これ以上の配慮は無理」と言われた場合でも、現在行っている配慮や支援において検討すべきことが少なくとも2つある。まず、物理的、人的あるいは予算的制約を本当に超えた「過度の負担」になっているかどうかを検証することである。ただ、これについては学校側がもう限界だと主張する以上は否定することはなかなか難しいだろう。もう一つは、現在行っている支援や配慮を、制約の範囲内で変更できないかを検討することである。支援の具体をより有効にするべく微修正したり、成果が挙がっていない無駄な支援を一度中止した上で新たな取り組みを工夫したりということは、無限にできるはずである(個人的には無駄な支援を中止することを強調したい)。これこそが「合理的」な配慮である。可能な合理的配慮が残っている限り、「これ以上、何もできない」とは言えないのである。
 特別支援教育における合理的配慮は、一人ひとりの教育的ニーズに合わせるものである。「〇〇には△△」「□□には××」というふうに予め用意された対策を機械的に当てはめていく様なマニュアル的対応では上手くいかない。現実を客観的に観察することによって集めたデータをもとに、柔軟に戦略を練り、一定期間後にその成果を評価し、戦略の修正をするというサイクルを持続させることが合理的配慮の最も重要なポイントではないかと思う。そう考えると、たとえ制約が大きくても「できることは全てやりました」と言える状況はありえない。何かしら工夫をする余地は常に残されているはずなのである。となれば、学校側は「これ以上何もできない」と言うことができないし、言えば差別である。もちろん、「障害児を特別扱いしない、他の子供と区別はしない」などという考えは許されないのである。

2016年2月28日日曜日

落ち着きのない子供

 これは第一線で診療する、子供のプライマリケア医に向けて用意した解説である。ひょっとしたら、福祉や教育の現場で働く人たちにも参考になるかもしれない。しかしかなり長文なので、暇を持て余しているか、相当強い興味がある人向けである。

1. 「落ち着きのない」が意味するもの 
 「落ち着きのない」という訴えは、子供の行動や発達に関連した相談の中では結構多いものである。「落ち着きのない」という言葉は本来どういう意味があるのだろう。「落ち着きのない」といえば、僕はちょこまか動きが多い状態をまず思い浮かべる。実は、広辞苑にも大辞林にも「落ち着きのない」あるいは「落ち着きがない」という見出し語はない。「落ち着く」あるいは「落ち着き」は掲載されており、移動のない状態、穏やかで安定した状態、軽率ではないこと、調和していることなど多様な意味がある。つまり、必ずしも動きに関連した表現ではない。実際、「落ち着きのない」が意味するところは人により、場合により、様々である。子供ごとに「落ち着きのない」が具体的に何を意味するのかを考える必要がある。

1.1. 動きが多い
 とはいえ、主訴が「落ち着きのない子供」の場合、多動を指していることは多い。通常、ややこしく考える必要はなく、一見して動きが多い。椅子の上で体を揺すったり、目に付いたものを触ろうとしたり、足をぶらぶら振る程度のこともあれば、椅子によじ登り、椅子からずり落ち、勝手に歩き回り、時には狭い部屋で走り回ったりベッドによじ登って飛び降りたりする。典型的な子供では一目見れば気がつく。しかし、慣れぬ場所や緊張している時にはじっとしている子供もよくいるので、短時間での判断は難しい場合もある。幼児や小学校低学年の子供は一般的に動きが多いので、年齢を考慮した上で判断する必要がある。
 動きが多い子供では、しゃべりすぎる子供が多く含まれる。親がちょっと黙ってくれと言うまで話し続ける子供もいるし、人が別のことを話しているところに割り込んできて、自分の話したいことをしゃべり出す子も多い。そのくせ、人の言うことはまるで聞いていないことがよくある。そのため話が一方的で噛み合いにくく感じることもよくある。ただ、自閉症的な傾向がなければ、落ち着いて話せば会話はよく噛み合う。
 動きの多い特殊な状況としてはチック症がある。上記の行動特徴としての多動ではその時その時の状況に反応して多彩な動きを示すが、チック症では1種類、または数種類の単純な動きを繰り返す。多くのチック症では瞬きをしたり、顔をちょっとしかめたり、首を少しかしげるなど小さな動きが中心なので、気にするのは家族だけのことが多い。しかし、頻度としてはそれほど大きくないが首を大きく振ったり、上肢を振り回したりと、かなり大きな動きを頻回に繰り返すこともある。また、咳払いや、「ウッウッ」と声を出す音声チックを伴うこともある。こういった場合はかなり目立ち、「落ち着きがない子供」という印象を与えることもしばしばある。なお、チック症を有する子供では、行動特徴としての多動を伴うことが非常に多い。

1.2. 動きが多いように見える(予想外の動き)
 親は「ちょこまか動いてじっとしていない」と、はっきり動きが多いことを訴えて受診するのだが、診察室で見ていても言うほど多動ではない子供がいる。平均的な子供と比較すれば多少は動きが多いことは多いのだが、親が困ったり憤慨したりするほど動き回るようにも見えない。こういう場合、具体的な状況をよく確認してみると多動そのものが問題ではないことがある。つまり、物理的な動きはそれほど多くはないのだが、親の期待に添わない動きや予想外の動きがとても多いのである。基本的にはその場その場に相応しい振る舞い方を把握できていないのである。こういう状態になる背景には複数のものが考えられる。
 意外に多いのは、どう振る舞うべきかをきちんと教えられていない場合である。大人は「このくらいは言わなくてもわかる。」と勝手に思い込んでいることが多いので、いちいち細かいことを説明しない。そのため、どう振る舞うべきか知らないという状況に陥る。
 本人の理解力に問題がある場合も、場面場面でどう振る舞うべきか知らないということにつながる。知的障害があれば、指示や説明の言葉が複雑すぎた時に理解できず、当てずっぽうで行動することがあるかもしれない。
 理解力の問題の一部と言っても良いかもしれないが、文脈や状況理解が悪い子供は場面ごとに必要な振る舞いを把握できていないことが多い。世の中にはある状況で許されることが別の状況では許されなかったり、ある状況では必要のないことが別の状況では必要になることは珍しくない。こういうことがピンとこない子供だと、日々場にそぐわない頓珍漢な言動をとることが増えてくる。文脈や状況理解が悪い子供と重なりやすいのだが、人が自分に何を期待しているかが分からない子供たちも、保護者の予想を超えた動きをしやすい。文脈理解や人の気持ちの理解の不十分さは、自閉スペクトラム症の子供たちで典型的に観察できる。

1.3. 動きが雑で唐突
 行動全体に動きの量がそれほど多くない場合でも、動作の開始が唐突であったり、雑な動きが多かったりすると落ち着きがない印象を与えることがある。こういうタイプでまず考えることは、手先の不器用さや身体の使い方の拙劣さがある子供だ。発達性協調運動症の子供が典型的である。
 注意散漫であったり一つのことに注意が集中してしまいやすい子供も、細かいことや周囲の状況に気をくばることが苦手で、作業が雑になりやすく、不適切なタイミングで行動しやすい(例:車が近づいてきている時に道路を横断しだすなど)。

1.4. よく考えずに行動する
 これは衝動性が強い状態である。思いついたことをすぐに実行する、あるいは口にするため、様々な状況で不適切な言動になりやすい。こういう行動特徴を有する子供は多動も合併していることが多いが、たとえ多動がなくても落ち着きのない印象を与えやすい。

1.5. 気が散りやすい、人の話を聞いていない
 これは主として注意能力の問題である。必要なことに注意を向けられないので、親が何か指示しても聞いていなかったりする。必要なことに注意を持続できないので、今している活動とは関係のないことに気が散りやすいし、課題を最後までやり遂げられないことが多い。目移りしやすく飽きっぽいので、何をやらせても(遊びでさえ)短時間でやめてしまい、別の活動に手をつけることが多い。

1.6. 癇癪、攻撃性(情動制御の問題)
 些細なことで興奮しやすく、怒ったり人を攻撃したりすることが多いと、落ち着きのない印象を与えることがある。この場合は、日常の冷静な時に見れば落ち着いた行動ができている。もっとも、癇癪や攻撃性が問題になる子供では、日常的な多動−衝動性や不注意を伴っている子が少なからず存在するので、そういう特徴がないか確認する必要があるだろう。

1.7. 親や教師の指示に従わない
 これは、「言っても言っても、素直に従わないのです。」とか、「私の言うことに逆らってばかりいるのです。」というような訴えがある場合である。親や教師の主観では「従わない」ということになるのであるが、ここにも複数の要因がある。
 よくあるのは注意能力の問題だ。一つのことに集中できない、あるいは気が散りやすいため、親の指示をきちんと聞き取れていなかったり、とりあえず指示されたことに取り組みかけても、途中で別のことを始めてしまい、結局指示されたことをやり遂げられなかったりする。
 同じく稀ならず認められる問題として、必要な情報を必要なタイミングで意識できないことがある。親や教師が「何度叱ってもすぐ忘れるんです。」という表現をすることが多い。これは予定記憶の弱さである。注意・指示されたことやルールなど大切なポイントを本当に忘れたわけではなく、肝心のタイミングで意識できないのである。落ち着いているときに尋ねると、必要な情報を述べることができたりする。
 文字通り「従わない」、すなわち親や教師に反抗している場合もあるだろう。指示された内容が嫌だといった明確な理由があるわけではなく、日常生活のさまざまな場面で反抗的な言動を、特に親など大人に対して取りやすい状態としては反抗挑発症(反抗挑戦性障害)の可能性を考える必要がある。その場合、多動や注意の問題も併存していることが多いので、具体的なエピソードそれぞれがどういう機序で生じているのか慎重に判断する必要がある。

2. まず明らかにすべきこと
2.1. 具体的に何に困っているのか?
 子供の日常行動の問題を扱う診療においては、何に困っているかを具体的に把握することが最大の仕事であると言っても良い。また、何に困っているかを具体的に把握し整理する過程は、上記の「落ち着きのない」が意味するものを明らかにする過程と表裏の関係にある。何に困っているかを具体的に明らかにする過程で、「落ち着きのない」が意味するものが明確になってくるし、「落ち着きのない」が意味するものを想定することで何に困っているのかがより深く理解できるようになる。
 何に困っているかを明確にするためには、いかに具体的レベルで状況を把握できるかが鍵になる。大人はとかく抽象的に物事を把握し、表現しがちである。「落ち着きのない」などはその典型である。しかし、一つ一つのエピソードを具体的に採取することで、分析が可能となる。
 話の進め方は色々あるが、まず誰が困っているのかを明らかにすることから始めるのは一つの方法だ。もちろん本人が困っていることは多いのだが、実際には家族、周囲の子供達、教師や保育士など、本人以外が困っているという話が多い。表面的に困っている人がどのように困るか、あるいは何を心配しているのかを具体的に聴取していく。具体的にというのは、何時、何処で、何をしている時に、周囲の状況は、きっかけは、その後どう推移したのか、といったことを明らかにしていくということである。そのためには、具体的なエピソードの一つ一つを聞き出すのが良い。そして、ある程度代表的なエピソードを聞き取れば、それぞれがどのくらい日常生活に影響を及ぼすかの程度や、同様のことが生じる頻度も確認しておく必要がある。

2.2. 困っていなければ問題ないという訳ではない
 問題の具体を聞き取る際に、話を進めにくい事態が生じることがある。受診した本人も家族も何も困っていない場合である。子供本人が何も問題を感じていないことは珍しくないが、家族も問題を感じていないという事態はなぜ生じるのだろうか。こういった状況は、家族は何も問題があるとは思っていないのだが、保育園、幼稚園、あるいは小学校で問題が持続するため、先生が家族を拝み倒して、あるいは半ば脅しをかけて受診させる時に生じる。このような場合、親は何も問題がないことを強調するし、家庭外のことはあまり具体的に把握していないので、何も問題がないという結論になりがちである。
 しかし、あまり簡単に問題なしという結論を出すべきではない。なぜなら、受診しているからである。病院というものは一般の人にとってかなり敷居が高いものである。ささやかな心配事を理由に受診する人はめったにいない。家族ではなくても、誰かが受診が必要と考えた以上は、何らかの問題が存在する可能性を簡単に捨てないほうが良い。
 僕自身は、親が自分の子供には問題がないと主張する状況には、大まかに考えて2種類あるのではないかと考えている。一つは、これが結構多いのだが、親が非常に上手く子供を育てている場合である。甘やかす訳ではなく、本人の特性に合わせて指示したり物事を教えたりできているので、本当に家庭の中は穏やかで、何も問題が生じないのである。もう一つの場合は、親は何らかの問題を認識しているのだが、それを認めたくない状態である。後者の場合は、子供に問題があるかどうかではなく、親が子供を育てる中で何かしんどい思いや苦労をしていないか聞いてみると良い。親のしんどさに共感し、それでもよく頑張っていることを指摘していくと、色々話してくれることが多い。
 何れにしても、改めて学校園での具体的な様子を探る努力をしたほうが良い。少なくとも、何か理由をつけてしばらく受診を繰り返してもらい、病院とのつながりが切れないようにしたほうが良い。この点で、かかりつけ医は非常に有利なポジションにいる。

3. 診察室で
3.1. 待合から診察終了まで
 話を聞いたり診察したりすることから得られる情報以外に、待合室から診察終了までに様々な情報を取得できる。まず、多動や不注意に関してはかなり明確に確認できることが多い。無意味な手の動きの多さ、姿勢の安定性、不必要な移動の有無などは一目で確認できることが多い。喋りすぎないか、話はかみ合うか、人の指示や質問を最後まで聞くことができるか、人が喋っている時に割り込もうとしないかといったことにも注目するとよい。多動や衝動性は慣れない場所や慣れない人がいるときには目立たないことも多い。可能であれば、待合室の様子を覗き見ると参考になる。
 移動中やおもちゃで遊んでいる様子を見て、動きのスムーズさや手先の器用さに関する情報が得られることも多い。目は合うか、表情は自然か、周囲の人に興味を持つか、初対面の人への緊張や不安を持っているか、不安や困った時に親に頼ろうとするかなどの社会性に関連する所見が得られることもある。不安や緊張が強すぎないか、逆に弱すぎないかということにも注目しておくと良い。

3.2. 保護者からの病歴聴取
 診察室で確認できない日常の行動特性や、何に困っているかを知るためには病歴聴取が重要であることは言うまでもない。ただ、保護者の話を聞くにあたって留意しておくことが色々ある。まず、保護者と話をすることの子供本人への影響を意識しておいたほうが良い。「落ち着きのない」ことが主訴になっている場合、親の話の内容は本人にとって面白くないものが多くなる。そのことにより子供が過度に緊張を募らしたりイライラするようなら、親子関係に不協和音が生じているのかもしれない。逆に、自分の日常の問題が話題になっていることに全く無関心であれば、それは本人の社会性や状況判断の特性を知る一つの手がかりになるかもしれない。
 保護者の話に対する子供の反応が一つの情報になるとはいえ、なるべく悪い話は本人のいないところでしたほうが良い。また、どうしてもその場で話を聞かざるを得ない場合は、本人の診察の邪魔にならないように、保護者との会話と本人の診察の順番をよく考えた方が良い。一般的には最初は本人にとって悪くない話から始めておくべきだろう。
 保護者から話を聞く際には、まず受診に至る経過を簡単に聞き、積極的に受診したのか、学校園などから要請されて渋々受診したのかについて認識しておくと良い。また、話し始めは時間の許す限り保護者に何に困っているのか、何を心配しているのかを、自発的に思う存分に語ってもらうのが良い。そのためには強引に話の腰を折るようなポイントを絞った質問をすることは後回しにし、できるだけ傾聴する姿勢を示す必要がある。
 一般の人は事実を具体的に描写することが苦手なことが多い。ともすれば、物事を抽象的な言葉で言い表そうとする。しかし、すでに書いたように事実をできるだけ具体的に聴取することが重要になる。そのためには問題の具体例となる特定のエピソードを話してもらえるように促す必要がある。また、曖昧な表現に対してはこちらから「それは〇〇という意味ですか、それとも△△ということですか」というふうに選択肢を提供することが役に立つこともあるだろう。
 親の話を聞くにあたり、問題の分析に役立つ情報を聴取するように努力することが重要であるが、加えて心がけておくべきことがある。それは、親の褒めどころを探しながら話を聞くということである。親自身が意識していなくても適切な子供の接し方をしていたり、合理的な選択をしていることは多い。また、こういった問題を相談に来る親は何かしら努力し、「頑張って」いる。不安や心配に共感することも悪くはないが、親が親として上手くやっていることを指摘していくことは、親の不安を軽減することに役に立つ。

3.3. 本人と
 本人と会話し診察することで、多くの情報を得ることができる。ただ、日常の行動面が問題になっているときには診察室で把握できる情報は限られていることも認識しておくべきである。ただ何となく診察した印象で語るのではなく、何を確認しようとしているのか、そのためにはどういう働き掛けをするのかあるいはしないのか、意識しておくことが大切である。
 通常はすぐに診察するのではなく、雑談を含めて会話することから始める。ただ、不安が強い子供や言葉で表現することを苦手に感じている子供では、身体の診察をすることから始めた方がスムーズに進む場合もある。
 子供と話をする中で、一度は受診理由を聞いておく必要がある。多くの子供は、特に小学校低学年以下では受診理由を認識しておらず、きょとんとしていることが多い。時にはその場で思いついたように身体のどこかの痛みなど身体的訴えを口にすることもある。小学校高学年から思春期では、少ないながらも親とほぼ一致した受診理由を口にすることが増えてくる。問題意識を本人、家族及び医師の間で共有できていると、その後の様々な対処において本人と相談しながら方針を決定することがスムーズになる。受診理由や心配なことを述べてくれる場合は、それについて掘り下げて聞いておくと良い。
 雑談の中で、家庭や学校・園での好きなことや嫌いなことをある程度聞き出せるかもしれない。嫌なことだけではなく、楽しみにしていることを知っておくことは後々役に立つことがある。運が良ければ、本人が日常困っていることや心配していることを聞き出せることもある。受診理由を明確に述べられない子供でも、雑談の中で普段困っていることを聞き出せることがある。
 子供と言葉を交わしながら、会話は噛み合うか、奇妙さはないか、言葉を確実に理解できているか、といった言語性コミュニケーションや理解力の問題がないかを検討する。また、指示されたことに従えるか、指示や説明を最後まで聞いていられるか、などを確認する。鑑別と関係するが、幻覚妄想を思わせる発言がないか、離人症がないかといったことにも留意できると良い。
 一般的な身体診察と神経学的診察をすることには種々の意義がある。何よりも、基礎疾患や合併疾患の可能性を検討することは重要である。「落ち着きのない」ことが最初に述べたどういう状態を意味していたとしても、様々な脳障害や精神疾患、あるいは社会心理学的なストレスによって引き起こされる可能性がある。
 身体所見や神経学的所見を得る以外にも診察の意義がある。年少児や重度の知的障害を伴う子供以外の多くは、意外に身体の問題に焦点を絞ると警戒感を解きやすい。何か身体の不調がないか尋ねながら診察すると、素直に診察されるに任せる子供が多い。また、診察という働き掛けに対する反応を見ることが行動観察の一環にもなる。例えば、集中力がない子供は指示を正確に最後まで聞いていないことが多いし、眼球運動を見る時に視標を追いかけ続けられず、ともすれば関係のないものに視線を移してしまう。目を合わせるかとかこちらが期待していることを全て説明しなくても察知できるかなど、対人的相互作用が乏しいかどうかも、ある程度情報が得られる。

4. 鑑別
4.1. 器質性疾患、いわゆる心因性疾患、精神障害
 病歴聴取や診察が一通り終了すると(正確には並行して)、鑑別診断を行うことになる。主訴が「落ち着きのない」であれば、まず頭に浮かぶのは種々の発達障害である。しかし、ここでは詳しく述べないが、様々な器質性疾患、いわゆる心因性疾患あるいはその他の精神障害との鑑別が必要である。鑑別に際して病歴で重要な情報として、生育歴、家庭内・外環境の確認、最近身の回りで生じたイベントなどの背景要因を聞き出しておくべきである。受診理由となった症状や行動特徴については、出現様式や持続時間、その症状がどこで(どういう状況で)認められるかなどもできるだけ明確にしておく必要がある。「落ち着きのなさ」以外の症状の有無も聞き取っておかないといけない。
 鑑別に際して留意しておくべきことを一つ付け加えておく。器質性疾患や心因性の問題が存在しても必ずしも発達障害が否定されるわけではないということである。偶然の合併もあるし、両者の相互作用が考えられることもある。

4.2. 発達障害
 冒頭に説明した「落ち着きのない」が意味するものを念頭に、可能性がある発達障害病型を考える。主なところをあげれば、注意欠如・多動症、自閉スペクトラム症、反抗挑発症、素行症、発達性協調運動症、チック症、知的能力障害といったものがある。一人の子供が純粋に1病型に当てはまることはむしろ例外的で、幾つかの病型に当てはまることが多い。

5. 短時間で何処まで詰めるか
 プライマリケアの現場では、一人の子供に対して無制限に時間をかけることは難しい。行動の問題で困っている子供やその家族に十分な対応をしようとすれば、膨大な時間がかかる。あえて短時間の診療で成果を上げようとするならば、目指すものを絞る必要がある。その概略をここで解説する。なお、可能であれば少数でも良いので、十分な時間をかけて評価し対策を練る診療枠を定期的に確保しておいたほうが良い。詳細な評価をする経験がある方が大事なポイントを把握できているので、短い時間でどのように診療するかを計画しやすい。また、1回の診療でどこまで明らかにするかと張り切るよりは、1回1回はささやかで良いので、継続的にコンタクトを取れるようにすることの方が重要である。

5.1. まず押さえておくべきこと
 具体的に何に困っているのかを整理することが最重要課題である。家族が(年長児であれば本人も)問題を具体的レベルで整理し直し把握できれば、それだけで診療目的の八割がたは達成していると言っても良いと思う。そして、すでに述べたように何に困っているかを整理することと「落ち着きのない」が何を指しているのかを明らかにすることは表裏の関係にある。困っていることを具体化することでその子供が上手くいかないことの根底にある特性が明確になるし、それがまた何に困っているかをより具体的に理解する手がかりとなる。
 病院で相談しようかという事例では、日常生活における問題が一つで済むことは滅多にない。いろいろな問題が錯綜していることが普通である。しかし、1回の診察時間では一つか二つのことを具体化するだけでも良いと思う。通常この種の問題では、問題解決の主人公は本人と家族(付け加えれば学校・園の先生)である。問題の全てではなくとも一つか二つのことを具体的に把握することで、どのように事態を把握すれば良いのかという視点を得ることができる。その経験をもとに、他の問題にも自らアプローチしていくこともできる可能性がある。

5.2. 併せて押さえておくべきこと
 やはり小児科医としては体の問題の見逃しは避けたいところである。心理社会的ストレスから生じる問題や精神疾患についてはおいおい専門医に助けを求めるにしても、身体的所見や神経学的所見を通じて基礎疾患の検討は十分にしておきたい。

5.3. 可能なら検討したいこと
 日常生じるいくつかの問題を具体的に分析する過程で、本人の認知や行動の特性がある程度見えてくる。そうなれば、発達障害のどの病型を念頭におくべきかがある程度絞れてくるだろうし、それが暫定的な診断名としても使えることになる。
 もちろん、本格的に診断基準に沿って評価し直し、さらには知能検査などの心理検査も施行して、本格的に診断できればいうまでもない。だが、実際には時間的余裕がなかったり、心理士がいなかったりという事情で難しいことが多いだろう。

5.4. 診断をつけることが何より大事ということはない
 最後に発達障害の診断についての僕の考えを追加しておく。できるだけ精度の高い診断をつけることは将来生じる問題を予測したり、日常的な対処法を計画する上で役に立つことは間違いない。しかし、発達障害として診断することで全てが解決するかといえば、全くそういうことはない。また、診断しないと何もできないというわけでもない。むしろ、発達障害児の日々の援助は診断名よりも何に困っているのかを分析し、具体的に把握することに基づいてなされるものが非常に多い。診断することを無理に急がなくても、困っていることの具体や本人の認知・行動特性を一つ、二つと明確にするに従い、援助の方法も工夫することが可能になっていく。現実の十分な分析ができないままに診断を焦っても、援助に繋がらないばかりか家族に心理的負担をかける可能性が高いことを念頭に置いておく必要がある。

2016年2月10日水曜日

Help!

 友人の小児科医は若い頃に岩国の大病院に勤務していたことがある。その友人がよく話してくれたことがある。彼が夜間の救急外来を担当しているときの話だ。友人は小児科医なので、子供の病気や怪我の治療をする。子供とはいえ、小学生くらいになるとかなり痛い処置でもぐっと我慢していることが多い。さて、岩国には米軍基地がある。そのため救急外来では米軍兵が治療を受けていることが多かったそうだ。友人が言うには、米軍兵は軒並み痛みを率直に表現するらしい。怪我の痛み、あるいは処置の痛みに対して、大きなジェスチャーとともに大声で叫ぶ人が圧倒的に多かったそうである。か細い日本人の子供が痛みに耐えている横で屈強の米軍兵士が大きな声を出して痛がっている姿を想像すると、申し訳ないが笑ってしまう。
 しかしここで、日本人は子供の頃から忍耐心を持っている素晴らしい国民だという話をしたいわけではない。最近、この逸話のことを考えることが多いのだ。どうも解せないのである。屈強の米軍兵でさえ大声で痛みを訴えるのに、なぜ子供が我慢しているのだろう。岩国のことは知らないが、確かに自分の身の回りを見ても、子供達は結構我慢していることが多い気がする。幼い身で我慢することで、何か素晴らしいことが待っているのだろうか。なぜこの国の子供は我慢することを徹底的に刷り込まれているのだろうか。
 2、30年前であれば、「我慢強い日本人の子供」という話に僕自身が喜んでいたと思う。このことに疑問を感じ出したのは、自閉症の子供たちの診療を通じてである。自閉症の子供たちは、激しい感情爆発や他者への攻撃性が問題になることが多いのだが、意外に知られていないことで深刻な問題が他にある。それは、自分の気持ちを表明することが苦手であることがとても多いということである。心理的、身体的な苦痛があっても、それを言葉で表現しにくい傾向が、どの患者でも大なり小なり認められる。「嫌です。」「辛いです。」「困っています。」「助けてください。」といった言語表現を適切なタイミングで発することが、ほとんどの自閉症児は下手である。自分自身で客観的に認識できていないことさえ多そうである。苦しいことを発信できず、助けを求めることもできないまま、ある限界を超えると破綻をきたして感情的な爆発につながったり、引きこもったりしてしまう。したがって、如何に辛さを表現できるようにするか、困っていると表明できるように促せるか、助けを求めることができるように導けるか、ということが自閉症支援の重要なポイントの一つとなる。
 自分の気持ちや考えを表現することが苦手な人に、遠慮せずにどんどん気持ちを述べればいいのだよと説得してもあまり効果はない。積極的に表現させるためには、気持ちや願いを口にすることで何か良いことが起こることを繰り返し経験する必要がある。話した結果、願いが叶ったり苦しみから救われたりということを繰り返し経験することで、人は自分の気持ちや考えを口にしても良いことを確信し、積極的に話そうとする。少なくとも、願いが叶うかどうかは別にして、自分の気持ちや考えを表明したということ自体は温かく受け入れてもらう必要がある。もし、何かを言うたびに否定される経験を繰り返すと、自閉症児に限らず何も表現できなくなる。一種の学習性無力と言えるかもしれない。もともと表現することに難しさのある自閉症児は、簡単に躓いてしまう可能性が高い。
 ところが、多くの自閉症児の日常を見ていると、上手くいかないことが多い。色々な理由があると思うのだが、個人的に大きいと感じていることをここでは述べておく。それは、多くの場面で(家庭、幼稚園、保育園、小学校、etc.)発言内容に倫理的正しさが求められるということである。いわゆる「我儘な」主張や、誰かの悪口、不平、不満、愚痴、欲望、あるいは「死にたい」といった縁起でもないことなど、倫理的に正しくない発言をすると直ちに非難され否定されるのである。目の前にいる人を傷つけるような発言ならまだしも、とりあえず誰も傷つかない状況での表現であっても直ちに否定されてしまう。これでは率直に気持ちを表明する力が伸びることはない。何もその意見に賛成しろとは言わない。だが、とりあえず「ああ、君はそう思うんだね」と受け止め、内容はともかく話してくれたことについては評価して欲しいのである。その上で、実現できないことやすべきではないことは、そのように説明すれば良い。しかし、我が国の世間は人の発言に対して厳しい。子供であっても「正しくない」発言は否定される。常に世間に受け入れられる発言のみをするように、耐え忍ぶことが美徳とみなされているようだ。
 こういった傾向が影響を与えるのは自閉症児だけではないと、僕は考えている。冒頭に記した痛みを素直に表現できない子供達も、発言において我慢することばかりを要求され続けた結果ではないだろうか。別の例を挙げる。現在、僕は大学で教鞭をとっている。今の学生達は僕が大学生だった頃の学生達よりも穏やかで明るく礼儀正しい。しかし、何についても自分の考えを率直に口にできる人は少ない。何かを質問された時にはいつも「正解」が存在するという前提を持ち、その「正解」を探しているように見えることが多い。相手から反論されることをなんとか避ける様子が見て取れる。こういった大学生の様子も、救急室でひたすら痛みを我慢する子供も、必要な助けを求めることがなかなか上手くならない自閉症児達も、問題の根っこは共通しているのではないかという気がする。

2016年1月17日日曜日

大人の矜持

 海街diary第7巻が出た。最初の4巻か5巻は大人買いしたので、一気に楽しめた。そこまで読むと当然次が読みたくなる。しかし、第1巻が2007年に刊行されて以来、1年か2年に1冊しか出てこない。なんと待ち遠しいことか。第6巻から1年半を置いてめでたく第7巻が出たわけである。今回も一気に読んで、ああ面白かったと終わるところなのだが、妙に印象に残った場面がある。それは、大船の大叔母さんが遠い地にある高校に進学することを決めたすずに、「...困ったことがあった時はちゃんと誰か大人に話すこと...(略)...遠慮することはないわ 大人は子供を守るものなの...」と話す場面である。僕がこの場面に注目したのには伏線がある。第1巻には、すずの父親の葬式の場面がある。頼りない義母が喪主の挨拶を中学生のすずにさせようとした時、初めて出会った異母姉である幸がそれを止める。「これは大人の仕事です!」「大人のするべきことを子供に肩がわりさせてはいけないと思います」と幸は言うのである。第1巻のこの場面が強く印象に残っていたため、大船の大叔母さんの言葉にも注目したのだと思う。
 子供が大人になる過程で親や教師から散々聞かされる2種類の言葉ある。「まだ子供なのだから...」と「もう子供じゃないのだから...」。一体どっちなんだと悪態をつきながら、それぞれの子供はそれぞれのやり方で大人の介入に対応させられる羽目になる。まあ、子供を大人と対等に扱える訳がないし、といって成長を促す必要もあるので、子供に対して色々言を弄することにもそれなりに理由があるかもしれない。
 大人の子供に対する姿勢は大雑把に分けると2つの軸で理解できるのではないか、という気がする。一つはどう行動するかの判断を子供に任せる度合いが強いか弱いかである。もう一つは子供の行動の結果について責任を取ろうとするかどうかである。もちろん、いずれの軸も二者択一ではなく、個人個人で様々な程度に該当するのだろう。
 僕自身が良いと思うのは(実行できているという意味ではない)、子供自身に判断を委ねる割合が大きく、子供の行動の結果については自ら責任を取る大人である。僕自身を含めて、大人はともすれば先回りして細かく口を出し、子供が失敗しないように、問題を起こさないようにと誘導しがちである。しかしそういう対応を続けていると、子供達が何か有意義なことをすることよりも失敗をしないことを第一の目標としてしまいそうである。できるだけ子供に責任ある役割を任せ、何か上手くいかないことがあったときだけ大人が援助する。あらかじめどのような問題が起こり得るか予測し、ひどい失敗をしないようにだけお膳立てをしておく。残念ながら大きな問題が生じれば、そこは黙って大人が尻拭いする。そのようにやせ我慢するのが大人の矜持ってものではないかと思うのである。
 冒頭に挙げた海街daiaryだが、大人と子供の役割を明確に区別している。といって、登場する大人たちがすずの行動に細かく口を出している訳ではない。それどころか、日々の生活の中ではほとんどのことを本人に任せている。しかし、滅多にはないもののここぞという状況で、責任をとるのは大人だと明確に宣言するのである。そこに僕は格好良さを感じたらしい。