2015年12月27日日曜日

聞き取れないことに関するあれこれ

 僕は幾分耳が悪い。以前にも書いたことがあるが、語音を正確に聞き取りにくいのである。小さい音でも聞こえるのだが、/ba/と/da/とか/bu/と/fu/が聞き分けられなかったりする。特に口の中にものを入れて喋ったり、周りがザワザワしている時に喋ったりされると何を言っているのか分からないことが多い。聞き取れないままだと困るので、聞きなおす。以前は「ハアッ!?」、「エェ!?」とか、強い調子で聞き直していたのだが、最近は出来るだけ「聞き取れなかったので、もう一度言って」「今、なんとおっしゃいましたか」などと丁寧に言うようにしている。で、つくづく思うのだが、聞こえの悪い人に対して世間の態度は必ずしも親切ではない。「もういい」と言い放ってそっぽを向く人はさすがに多くないが、黙り込む人は結構いる。言い直してくれてもより明瞭に話そうと(声を大きくしたり、口を大きく開けて明瞭な発音にしたり)務めてくれる人は少ない。モゴモゴッと言い、聞きなおすともう一度モゴモゴッと言って終わり。はっきり話すということは、そんなに面倒なことなのだろうか。
 不明瞭な話し方といえば、人は自分の名前を名乗る時にとりわけ不明瞭な物言いになるような気がする。学会会場で演者に質問する人は最初に名乗ることが礼儀なのだが、所属や名前を聞き取れることがほとんどない。音響設備が粗末なことが一因となっていることもあるのだが、その後の質問内容は聞き取れるので、同じように喋ってくれれば聞き取れるはずである。自分の耳が悪いせいかと思い、同僚に「最初名乗る部分がほとんど分からないんだけど」と言うと、その同僚も「僕にも分からん」と言っていたので、やはり人は自己紹介をする時に不明瞭になりがちなのかもしれない。
 僕は自分の発音がモゴモゴと不明瞭であることを自覚しているし、学生からの希望もあって、講義の時にマイクを使う。当然、学生に意見や質問を述べてもらう時にもマイクを渡す。面白い現象に気がついたのだが、学生は自分がマイクを使うことを好まない。こちらが注意しないと意図的かどうかは知らないがマイクを持った手を下げて、マイクなしに話そうとする人が多い。特に顕著な現象として、自分の名前を名乗る時にマイクを使わない人が圧倒的に多い。
 どうも世間の人ははっきりと名乗り、はっきりと自分の声を届けることに積極的ではないようだ。不思議な気がする。せっかく話すのであれば、自分が誰かを正確に認識して欲しいし、自分が話す内容をきちんと理解して欲しいのではないかと思うのだが。少なくとも、僕はそうだ。しかし、そう思わない人が少なからず存在するようである。
 明瞭な話し方をしないということに関連して、別のことも書いておく。話の内容についてだ。世間には話す内容が明確でない人がかなり多い。結論をはっきり述べなかったり、いわゆるこそあど言葉つまり指示代名詞を多用したり、「〜みたいな」「〜な感じ」という表現を使ったり、結局何を主張しようとしているのか明確ではない物言いをする人がとても多い。発声が明瞭でないことと何か関係があるのだろうか。僕は外国の状況をあまり知らないが、少なくとも日本の社会では不明瞭であることが良しとされているような気がして、思考が単純な僕は毎日モヤモヤとしている。

2015年12月5日土曜日

肥大した診断学

昔話をする。35、6年前、僕は医学部の学生だった。その頃は、1960年代から70年台にかけて吹き荒れた学生運動もすっかりエネルギーを失っていた。ただ、名残はまだ残っており、誰も聞いていないのにヘルメットをかぶって演説をしている学生がいたり、講義室の机の上にゴミ箱の肥やしとなるだけのビラが配られたりしていた。ある日、講義室に入り机の上にあるビラを何気なく見ると、「肥大した診断学を粉砕せよ!人民のための医療を!」といった意味合いのことが書いてあった(昔のことなので正確ではない)。僕は学生運動には全く興味がない三無主義(なんと懐かしい響き!)の典型みたいな学生だったのだが、なんとなくその「肥大した診断学」というフレーズが印象に残った。
 当時はまだ様々な病気について本格的に学び出す前であった。「内科診断学」という講義があったのだが、患者を診察し所見をとる方法を解説するものだ。かなり地味で細かい知識を詰め込まないといけない講義で、まだ具体的な病気のことをほとんど知らない身としてはかなりうんざりさせられるものであった。また、社会的に「検査漬け」という言葉が医療を批判する定番のフレーズとして口にされることが多かったと思う。肥大した診断学云々の意味はおそらく、延々と診断のために手間と時間を費やし患者の負担を増やすことよりも、早く患者の苦しみや痛みを軽減することを重視せよ、と意識改革を迫ったものだったのだろう。そして、内科診断学に辟易し、検査漬け批判の声を耳にしていた僕の心に引っかかるものがあったのだと思う。
 医師になってしばらくしてから、ごく単純なことが分かった。多少なりとも真面目に診療に取り組んだ医師の多くは同意してくれるのではないかと思うのだが、「診断は重要だ」ということである。診断するということは、単に症状や検査所見の集積に名前を付けるということではない。診断は見かけ上の症状に加えて様々な情報を内包する。例えば、なぜこの様な問題が生じているのかという原因や発生機序に関する情報をなにがしか教えてくれる。さらに、その状態が持続すると患者本人が今後どういう問題に直面し、どういうことに苦痛を感じるようになるかということを示していることもある。また、多くの先人が築いた有効な治療法のリストが示されるかもしれないし、残念ながら現時点では治療法がないことが示されるかもしれない。だからこそ、熱には解熱剤、痛みには鎮痛剤というような単純な対応よりもはるかにきめ細かく合理的な治療的対応が可能となるのである。つまり、より精密な診断はより適切な治療的対応に結びつくのだ。時には診断にかける手間暇に比してその後可能な治療的対応が乏しすぎることもある。一見無駄に診断作業ばかりにかまけているように見えるかもしれない。それでも診断を精緻化することにより治療的対応が向上する可能性が高まるのだ。
 診断を精緻化することは、患者への対応を改善することにつながる。医学的診断は患者にとって役に立つからなされるものなのである。診断を研ぎ澄ますことは、個人レベルにおいてはその患者の治療的対応を向上させる可能性を増すし、診断技術の進歩と診断概念の整理を軸にして医療全体も発展してきたのではないかと思う。そう考えると、「肥大した診断学」なる発想は、かなり視野の狭いものの見方を反映していると思う。診断学は決して不必要なまでに肥大しているわけではないのである。
 さて、以上を前提に考えるとき、発達障害を伴う子供達のサポートにおいて重大な問題がある。それは、発達障害では診断する人と治療・支援する人が別々という状態にあるということだ。完全に別個というわけではないが、かなりの部分が重なっていない。具体的に述べると、評価・診断は通常医療機関である。しかし、発達障害を伴う子供達の支援に占める医療機関の役割は圧倒的に小さいのである。就学前であれば医療機関内にある療育施設の関与もあるが、就学後に医療機関ができることは時折本人または家族に助言することと、限られた問題に対してのみ投薬することに限られる。そして、子供達の支援の役割を職業的に担うことになる人達のうち圧倒的多数を占めるのが保育者や教師である。
 この問題については以前にも書いたことがあるが、診断する人と治療・支援する人が別々だと支援者は診断によって得られた情報を十二分に活用できない。実際、僕が見聞きしている範囲では、診断名というラベルだけが活用されているのに近い印象を受けることが少なくない。これでは診断の一人歩きである。こういう状態では、まさしく「診断学の肥大化」になりそうである。ところが現実にはそうでもない。十二分に活用される当てがない状態では、診断も内容の乏しいものになりがちで、肥大化どころかやせ細っていくような気がする。評価者と支援者をできるだけ一致させること、あるいは評価者と支援者の連携を密にし双方向性のコミュニケーションが厚くなることが、発達障害を伴う人々への支援において重要な課題の一つではないかと思う。

2015年11月21日土曜日

教育に成果主義はそぐわない、で良いのか?ーー「学力の経済学」を読んで

 小児医療に携わると、特に発達障害を専門に診療していると、教員と知り合ったり、教員の仕事の様子を聞いたりすることが多い。そして率直に思うのだが、教員とは大変な仕事である。現実的な労働量も多いし、心理的な負担も多い。それにもかかわらず多くの教員は真面目に頑張っている。多くの教員が日々身をすり減らして努力しているのだから、その成果が最大限に発揮されるように教育政策を推進して欲しい。しかし現実を見ると、ありとあらゆる人が思い思いに教育を語り、それを受けて単なる思いつきかしらと疑うような教育政策の方向性が決められてきた。これに関連したことは、以前「教師の専門性」という文章にも書いたことがある。
 最近、教育経済学者の中室牧子さんが著した「学力の経済学」という本を読んだ。まさに日本では誰もが教育に関して一家言あり「一億総評論家状態」とも言える状況であるという話から始まるこの書籍は、非常にすっきりと筋の通った、しかし分かりやすく読める本であった。日本の教育政策に欠けているものに気づかせるだけではなく、日本社会全体に根深く存在する非合理的な考え方への批判にもなっている。読み捨てるにはもったいないので、本の要点や考えたことを書きとめることにした。
 まず、内容を簡単にまとめておく。本書は第1章から第5章、および補論からなっている。第1章で、この本全体を貫いている教育経済学での考え方を簡明に解説している。続く第2章から第5章まではそれぞれ、誰でもが答えを知りたい質問を主たるテーマに掲げ、今まで世界の教育研究ではどのようなことが明らかになってきたのかを解説している。

【第1章 他人の”成功体験”は我が子にも活かせるのか?】
 2001年にアメリカで成立した「落ちこぼれ防止法」には「科学的な根拠に基づく」というフレーズが111回用いられているそうだ。「科学的根拠」すなわちエビデンスは数字で示されるものである。科学的に因果関係を明らかにするためには、一人か二人の成功体験や「専門家」の主観的意見を参考にするのではなく、多数例について統計的に検証する必要がある。なぜそうなのかということを分かりやすく説明している。この本の第2章以降に記述される内容のほとんどは、実験や実験に近い状況で集めたデータをもとに、統計学的に確認されたエビデンスである。

【第2章 子どもを”ご褒美”で釣ってはいけないのか?】
 ご褒美を使うことを嫌う人が多いが、実はご褒美は効果的なのである。本を読む、宿題をする、学校に出席する、など勉強する個々の活動に対してご褒美を与えると学力が向上する。ただし、テストで良い点を取ればご褒美をあげる、というように勉強の結果にご褒美を用意しても学力は改善しない。ご褒美にお金を用いることにはさらに抵抗感を抱く人は多いと思う。しかし、ご褒美としてお金を与えられた子供はそうでない子供より堅実なお金の使い方をしていたことを示した研究も紹介されている。
 「褒めて育てろ」とは日本でもよく口にされるが、褒めることの効果はどうなのだろう。ご褒美とは反対に褒めることは良いことだと考える人は結構多いと思う。実は、「君はやればできる」という様な自尊心を高めるメッセージや「あなたは頭が良いのね」と、子供らの元々の能力を賞賛するメッセージを子供に与えるとむしろ成績が悪くなることが示されている。しかも、能力を褒められた子供は良い点が取れなかったときに成績について嘘をつく傾向が高く、「自分は才能がないからだ」と考える傾向が高い。ただし、褒めることはすべて悪いわけではない。「あなたはよく頑張ったわね」と努力を賞賛すると成績は上がりやすい。ご褒美にしろ褒め方にしろ、勉強する一つ一つの具体的過程を促していくことが重要ということなのだろう。応用行動分析を用いた指導法にも通じる話である。
 クラスメートからの影響についても述べられている。クラスの学力は個人の学力に影響する。クラスの平均点が上がればその影響で個人の学力も上がるのである。しかし、成績優秀者を多数編入すれば効果的かというと、そうではない。成績優秀者の影響はもともと成績の良い生徒に限られる。中間層や成績の悪い層には影響しない。それどころか成績の悪い層に悪影響を及ぼすこともある。つまり、同じ程度の学力の子供達がお互いに影響を及ぼす時は正の影響になりやすい。このことは習熟度別学級の効果をみた研究で確認された。習熟度別学級は全ての学力層の子供達において学力を向上させることが示されている。しかも、特にもともと学力の低い子供達において大きな学力の向上がみられる。ただし、学齢が低い段階で習熟度別学級を導入すると学力の格差が広がりやすいという指摘もある。
 一定額の教育投資をした時、子供の将来の収入がどれくらい高くなるかについても説明されている。教育の収益率である。年齢別にみた時に収益率が最も高いのは就学前であり、その後急速に低下する。就学前教育の効果の例としてして取り上げられている「ペリー幼稚園プログラム」について、少し詳しく記述しておこう。
 このプログラムでは、低所得のアフリカ系米国人の3~4歳の子供たちに質の高い就学前教育を提供し、その効果を40年間にわたり調査した。質の高い就学前教育のポイントは以下の通りである。
・幼稚園の先生は、修士号以上の学位を持つ児童心理学等の専門家に限定
・子供6人を先生一人が担当
・午前中に約2.5時間の読み書きや歌のレッスンを週に5日、2年間受講
・1週間につき1.5時間の家庭訪問
子供達に対して非常に濃厚な指導を行うだけではなく、家庭訪問によってどのように子供と遊ぶかなどのモデルを親に示し、家庭資源の乏しさにも対処していることが特徴である。このプログラムへの参加者を非参加者と比較した結果、6歳時点でのIQは高く、19歳時点での高校卒業率が高く、27歳時点での持ち家率が高く、40歳時点での所得が高く、40歳時点での逮捕率が低い。さらに、このプログラムをもとに推計された社会収益率は7~10%にのぼる。これは4歳の時に投資した100円が、65歳の時に6000円から3万円ほどになって社会に還元されることを示しているそうである。

【第3章 勉強は本当にそんなに大切なのか?】
 上記のペリー幼稚園プログラムでは、意外な事実も判明した。このプログラムの成果は必ずしも学力向上の結果ではないのだ。確かに小学校入学後のIQや学力テストの成績は上昇した。しかし、学力やIQへの効果は短期的であり、8歳頃には効果は明確ではなくなっている。ではなぜ学歴・年収・雇用が長期にわたり改善したのだろうか。ペリー幼稚園プログラムによって改善したのは「忍耐力がある」とか、「社会性がある」とか、「意欲的である」といった、人間の気質や性格的な特徴、すなわち非認知スキルと呼ばれるものであったことが判明している。大学生が大学をきちんと卒業できるかどうかについて調べた研究でも、入学時の学力自体よりも様々な非認知スキルが影響していることが示唆されている。
 著者は、過去の実験研究の結果を元に特に重要な非認知スキルとして自制心とやり抜く力をあげている。そして、日本でも中・高校生の時に培われた勤勉性、協調性、リーダーシップなどの非認知能力が学歴、雇用、年収に影響することが明らかにされている。

【第4章 ”少人数学級”には効果があるのか?】
 この章ではとりわけ著者の経済学者としての視野の広さが光る。まず、米国で1985年から89年にかけて行われた有名なスタープロジェクトの話から始まる。この実験では幼稚園・小学校の生徒約6500人を1学級当たり生徒数が13~17人の少人数学級と22~25人の学級に振り分け比較している。その結果、幼稚園から中学校2年性まで少人数学級の生徒のほうが学力が高く、その効果は貧困世帯の子供で特に大きかった。
 今の日本でも1学級の人数について財務省と文部科学省が角突き合わせているが、このスタープロジェクトの話を聞けば、「ほーら、やはり少人数学級がいいに決まっている。」と言いたくなる人は多いと思う。かくいう僕もそうである。しかし、著者は少人数学級の導入には慎重であるべきと主張する。なぜなら費用対効果が小さいからである。実は日本でも学級規模の学力への影響を客観的に検討した研究がある。その研究では、小学校の国語は学級規模が1人小さくなると偏差値が0.1上昇する効果が確認されたが、国語以外の教科や中学生には効果が認められなかった。スタープロジェクトのような大掛かりな研究ではないので、調査し直せば結果は変わるかもしれない。しかし、仮に少人数学級にいくばくかの効果があるとしても、非常にささやかなものである可能性が高い。わずかな効果を求めるために教員を大幅に増やすということを、財政赤字の日本で進めると非常に危険だというわけである。それよりも、はるかに効果が高い習熟度別学級を取り入れれば、人件費をさほど増やさずに明確な効果を上げることができる。

【第5章 ”いい先生”とはどんな先生なのか?】
 教員の質をどう評価するかといえば日本では抽象的な議論が展開されそうだが、諸外国の研究ではやはり子供たちの学力の変化が注目される。教員の質を評価する指標として信頼性の高いものに、「付加価値」というものがある。1年間で標準テスト得点が何点上昇したか(あるいは下降したか)を調べ、この学力の変化を付加価値と呼ぶ。付加価値の高い教員は、ただ単に子供の学力を上昇させているということにとどまらず、10代で望まない妊娠をする確率を下げ、大学進学率を高め、将来の収入も高めていることが分かっている。
 こういった研究成果をもとに、著者は、少人数学級によって教員の数を増加させることよりも、教員の質を高める政策の方が、教育効果や経済効果が高いのではないかと述べている。では、どうすれば教員の質を高められるのか。誰でも考えつきそうなのは、生徒の成績が上がれば給与やボーナスを上げるという方法である。実は、こういう優秀な教師への報酬を増やす方法で教育が改善されるという証拠はあまりないらしい。また、教員研修も考えつきやすい方法だが、研修の効果に対しては否定的なデータが既に示されている。文部科学省も各自治体の教育委員会も、教員の質を上げるには研修という発想が強いが、研修の効果を客観的に検証してほしいものである。
 ここで著者は、経済学者にとっては常識的であるが、我々一般人(とりわけ教員)には衝撃的な考えを紹介している。より優秀な人が教員を目指せるように参入障壁を取り除くのである。つまりどういうことかといえば、教員免許を廃止するのである。おそらくこんな話を聞けば文部科学省の役人と教員は憤慨するだろう。しかし、このことについてもアメリカでは客観的な研究がなされている。
 ティーチ・フォー・アメリカという非営利団体があり、一流大学の卒業生を卒業後2年間低学力に悩む公立学校に教員として派遣する活動を行っている。ティーチ・フォー・アメリカから派遣される教員の多くは教員免許を持っていない。このことを利用して教員免許保有の有無の影響が検証されている。結果、免許を保有しないティーチ・フォー・アメリカが派遣した教員に教えられた生徒は免許を保有する教員に教えられた生徒よりも成績が良いか変わらないという結果であった。このことは複数の研究で示されている。ハーバード大学ケイン教授は「教員免許を持っているかどうかが子供の学力に与える影響は小さいのにもかかわらず、教員免許を持っている教員同士の質の差はかなり大きい。」と述べており、考えさせられる。

 この本の最後は【補論:なぜ教育に実験が必要なのか】で締めくくられる。ここでは、ランダム化比較試験を中心に実験研究とは具体的にどういうことをし、どういう意義があるかを解説している。
 教育研究が提出した様々なエビデンスを紹介する合間に、日本の行政の動き方や考え方に対する鋭い批判が書かれている。まず、学問的に妥当な客観的なデータ収集や分析がほとんどなされていない。全国学力・学習状況調査のようにデータはあっても公開していないものも多い。日本の行政はデータを外部に公開することを避け、自分達だけで分析しようとしていることが多いらしい。自分の推進した政策の結果を誰にも見せず自分で分析していれば、失敗や問題点を認めないままに終わる可能性が高い。だから著者は、政策評価は第三者機関が中立性を担保しつつ行うのが望ましいと考えている。ちなみに、南アフリカは労働力調査や家計調査などの政府統計の個票データをインターネット上で世界中すべての人に公開しているそうだ。こうすることによって世界中の優秀なエコノミストがこぞって分析してくれる。そのおかげで、ほとんどコストをかけずに新たな政策を計画しやすくなっているという。実に合理的である。
 客観的根拠のない政策を推進する危険性とともに著者が指摘する日本の政策の問題は手段が目的化することである。例えば、こういうことが記述されている。
 海外の政策評価においては、まず『学力の上昇』のように、教育政策の目的を明確にし、それを実現するためにどういった政策手段の費用対効果が高いのか、という検証を行います。一方、日本では、『2020年までにすべての小中学校の生徒1人に1台のタブレット端末を配布する』という政策目標が掲げられていることからも明らかなように、本来、政策目的ではなく『手段』であるはずのものが政策目的化してしまっています。
 確かに国の政策を見ても、個人的に教育関係者と話していても、「何のために」という本来の目的が意識されていないことがとても多い。いや、正確には少し違う。遠大で抽象的な目的は意識されていることは多い。「すべての子供が生き生きと暮らせるように」とか「グローバル人材を育てる」といったものである。短・中期的に具体的な目標を設定することができないのだろうと思う。また、予算が足りない時の節約の仕方にも目的意識がかけやすい。そのため一律に予算を削減しようとする傾向がある。
 著者の批判は日本の教育の平等主義にも向かう。新たに何らかの教育政策を講じる時、その効果を客観的に評価しようと思えば、その政策を適用した一群と適用しなかった一群に分けて比較検討する必要がある。しかし、そういうことをすると新しい方法を適用された子供達と適用されなかった子供達ができ不公平であるという強い批判が生じる。一見もっともだが、比較検討ができなければ教育政策の真の有効性は分からないままである。もし本当は効果がなかったりむしろ悪影響があればどうなるか。その時の教育政策の舵取りが間違っていた場合、被害が世代全体に及んでしまう。つまり、世代内では平等であっても世代間では不平等という事態が生じる。
 調査段階の話だけではなく、すでに有効であることが分かっている政策を推進する際にも、平等主義が有効性を低下させたりコストパフォーマンスを悪化させたりする。例えば、上述のように少人数学級の効果は特に貧困世帯の子どもで大きかった。そうであれば、就学援助利用率の高い学校に重点的に少人数学級を導入すれば政策の有効性やコストパフォーマンスが高まると中室さんは指摘する。
 平等主義に関連して紹介されている神戸大学の伊藤准教授らの研究が面白い。この研究が明らかにしたところでは、学校で平等を重視した教育、例えば手をつないでゴールしましょうという方針の運動会など、の影響を受けた人は他人を思いやり、親切にし合おうという気持ちに欠ける大人になるというのである。何故そうなるかということについて、次のように説明されている。平等主義的な教育は人間が生まれながらに持つ能力には差がないという考え方が基礎となっているため、努力次第で全員が良い成績を取れるという考えが強くなる。その結果、成功しないのは努力をせずに怠けているからだと考えがちになる。つまり、世の中には個人の努力ではどうにもならない能力や環境の差が存在するということに目が向かなくなるというのである。
 実に面白い本であった。おそらく中室さんにこの本を書かせた原動力は怒りではないかと僕は想像している。多くの人が教育に一家言を持ち様々な主張がなされているにもかかわらず、客観的な根拠に基づく論理的な議論が存在しない日本の現状に対する怒りである。そして、それ以前に根拠を形成するためのデータがほとんどない現状に対する怒りである。しかし、そういう怒りがあからさまに語られるわけではない。著者は極めてクールに、根拠に基づいた教育政策を推進するためには何が必要かということを説いていく。それも分かりやすい文章で。
 実はこの本は売れないだろうと思っていた。教育の成果を客観的に評価するとか、データ重視とかの考え方は日本に暮らす多くの人には抵抗があるのではないかと思ったからだ。僕は教員や教育行政に関わる人など、教育関係者と接することが多い。その多くは教育に成果主義は適さないと言う。社会一般にもそういう意見は多い気がする。しかしエビデンスを元に教育政策を立てるということは、成果を問うということである。この本に書かれているように、教育や教員の良し悪しを子供の学力や将来の収入で評価することに抵抗感を抱く人は多いのではないだろうか。しかし、一見身も蓋もない学力や収入を指標に検討する中で、非認知スキルの重要性が確認され、その評価法も開発されている。日本で多くの人が実態がはっきりしないままに「生きる力」や「人間力」のような抽象的な言葉を振り回している間に、エビデンスに基づいた研究を推進している国ではより具体的に目指すべきものの定義が進んでいるのである。可能なかぎり学力が保障され、学校からドロップアウトすることがなく、収入が安定し、犯罪に手を染めずに暮らしていることがそれだけで幸せの証明にはならないが、多くの人にとっての幸せの前提条件になることは確かであろう。成果主義が悪いのではない。適切な成果の指標を設定し、適切な評価法を用い、適切な比較をするるということをしないことが問題を生んでいるのだと思う。単純に全国学力・学習状況調査の平均点を比較するといった粗末で荒っぽいことをすれば、適切な教育の評価ができないのは当たり前のことだ。
 改めて奥付を見ると、2015年6月18日に出版されたばかりなのに2015年8月1日には第6刷になっている。僕の予想はまるで外れていた。なかなかよく売れているのである。こういう書籍が執筆され、そして売れているということは、結構日本も良い方向に変化しているのかなと、少し明るい気分になる。

2015年10月8日木曜日

発達障害の診断と料理

 妙に落ち着きがない、ぼんやりしている、他の人とうまく付き合えない、言動が乱暴など、親や学校の先生が子供の日常的な振る舞いに不安を感じた時、近頃では大概の人がもしかしてこの子は発達障害ではないだろうかと考える。そうなると紆余曲折を経た上で多くの場合は病院を受診しようという話になる。「紆余曲折」の部分も色々大変な問題があったりするのだが、今回はそのことには触れない。
 積極的に、あるいはしぶしぶ病院を受診しようと親が決意してから、診断がつくまでが結構大変な工程になる。まず、発達障害を専門に診療を行っている病院はどこも受け入れキャパシティを超えた患者が受診するため、予約を入れてから実際に受診するまでひどく時間がかかる。1、2ヶ月待たされることはザラで、病院によっては半年待ちになる。だが、ここでは予約待ちの話をするつもりもない。取り上げたいのはそこから先である。
 実際に病院を受診して、診断ないし何らかの結論がでるまでに結構な手間がかかる。僕が関わっている病院の場合を例にとれば、最初の受診でおおよその受診理由の聴取と診察により大体の問題の方向性を決め、検査(知能検査や他の認知機能検査、必要に応じて脳波検査などの医学的検査も)をし、改めて疑わしい障害の診断基準に沿った病歴聴取を行う。その間、家族や学校の担任に種々の質問紙の記入を求めることも多い。何やかんやで3回前後、全部で3時間余りを費やした上で診断を出すことになる。当然、とりあえず診断を出せばそれを本人や家族に説明するのでその時間も必要である。全過程の中で、検査に要する時間も長いが、会話をしている時間が最も長い。日常全般にわたり困っていることや、困っていなくても振る舞い方・考え方の特徴など、根掘り葉掘り聞き出さないと信頼性の高い診断に辿り着けない。
 複数回にわたり長時間受診しないといけないとなると、結構患者や家族の負担になる。しかも、「正しい診断をし、適切な対処を計画していく以上は必要なことなので仕方がない。」と言い切れないところがあり、問題は複雑である。率直に言って、発達障害の評価診断に関してこれだけのことをやれば必要十分というものはない。3時間どころか10時間かけても一分の隙もない完璧な診断ができる訳ではない。逆に、何に困って受診したのか5分か10分程聞けば、精度は落ちるものの診断して多少の助言をすることも可能である。いやそれどころか、こういった問題は受診しなければ絶対駄目とも言えないのである。実際、20年くらい前にはこの程度の問題で病院に行くなどとは考えもしない人が圧倒的に多かっただろうし、今現在でも発達障害的特性を持った子供を育てながら病院に行かない人は大勢いる。それでもその子供たちは暮らしている。
 こういった問題で病院を受診するということを一体どのように理解すれば良いのだろうとぼんやり考えている時にふと閃いた。それは「発達障害の評価と診断は、料亭の料理に似ている」説である。まあ、無理やり感満載だが書き残すことにした。

・手間暇を掛けた料理は、雑に作った料理と必ずしも大きく変わらない
 一般的に料亭の料理は家庭料理に比べて手間暇をかけていると思われるが、かけたからといってそのことが食べる側に理解できるとは限らない。実際にその手間がほとんど何も結果に影響しない場合もあるし、違いがあったとしてもそこに気付けるかどうかは食べる側の味覚や知識にも影響される。発達障害の診療も、手間暇かけたからといって必ずしも結論が大きく変わってくるわけではないし、何らかの違いが結果に反映されたとしてもそれが患者・家族にとって大きな意味を持たないこともある。

・手間暇を掛けたからといって美味しくなるとは限らない
 これは前項と同じ。

・手間暇をかける料亭ほど事前の予約が必要だったり、料理が出るまでに暇がかかったりする
 当然手間暇をかけるほど料理人一人当たりが用意できるお膳は減少するし、一品一品が出来上がるまでに時間もかかるだろう。かけた手間暇が真っ当な形で結果(味)につながり、客にも評価されている場合(つまり人気がある場合)、飛び込みで席が空いている確率は低くなり、随分前から予約しておく必要がある。診療も同じで、丁寧に時間をかけて診療するほど医師一人当たりが診療できる患者数は減少し、結果診察を受けるまで待たされることになるし、1回当たりの診療時間も長くなる。

・料亭なんか行かなくても生きていける
 確かにそうなのである。単に生きていくためには料亭もレストランも必要ない。同じ様に、繰り返しになるが、実生活での行動に何らかの問題があっても、病院を受診しなくても多くの子供は破綻せずに生きていける。

・適切な手間暇を多く掛けた料理は、それだけ深みがある
 ここまでネガティブなことばかり並べた。とはいえ、適切な材料に適切な手間をかけた料理は価値がある。平均的な人が自分で作った料理や、ファーストフードとは大きく異なる。人に日常とは異なる新しい経験をもたらす。もちろん、その違いを楽しめない人にとっては意味がないかもしれないが、経験することで新たに目を開かされることは多いと思う。自らがかなりの料理の腕を持っている人であれば、新しいスキルや発想に接することで日々の料理体験をより豊かにすることができるかもしれない。発達障害の診断も、丁寧な手間暇をかけるほど、より子供のリアルな日常の具体に基づいた結論を出すことができるし、その後の様々な生活場面における支援の計画にもつなげていくことができる。もともと子供についての理解が深く、適切な対応ができている親であっても、体系的な評価をもとに子供の特性について説明されることでより客観的な理解を得ることができるかもしれない。

・使える材料が多いほど、多くのニーズに対応できる
 もちろん使いこなせるアイデアと技術があれば、という話だが、多くの食材を必要に応じて手に入れることができれば、それだけ多様なメニューを準備できる。様々な顧客のニーズに応えることが可能となる。発達障害児の診断においても、臨床医が素養として身につけている領域(小児科学、小児神経学、精神医学、心理学など)の数、スタッフの人数や専門性の種類、利用可能な診療設備などが多い程、より幅広い患者のニーズに応えることが可能となる。ただし、ニーズの多さと利用可能な資源との現実的なバランスが必要だが。また、医療では料亭以上に必要のないことをしないようにする配慮が必要となる。

・手間暇を掛け多くの素材を使い分けられる料理人は簡単な料理を作ることも出来るが、その逆はない
 強迫的な思い込みで手間をかけている人は別にして、適切な材料に適切な手間を十分にかけられる料理人であれば、入手可能な材料と使える時間に応じて簡略化した料理を用意することは可能だろう。その逆に、簡単で大雑把な料理しかしたことがない人が突然珍しい材料を取り入れ複雑な工程を必要とする料理を作るように言われても難しいに違いない。同様に、発達障害の診断をできるだけ丁寧に時間をかけて行っている医師は、使える時間も利用できる検査も少ない状況であってもそれなりに効率の良い情報収集に基づいてできるだけ今後の対応に役に立つ結論を出すことができるだろう。それだけではなく、そういう制約の多い状況においてたどり着いた結論にはどういう限界があるかも明瞭に意識した上で診断できる。

 さて、どうだろう。料亭の料理と診断が類似しているとして、それに何の意味がある?程度の話だ。発達障害の診断のために受診することは全てを犠牲にしてまで優先するほどのものではないけれど、でもそれなりに価値はあるよという話。

2015年9月2日水曜日

ハノイの喧騒

最近、小さな学会に参加するためにベトナムのハノイに行った。短いながらもなかなか面白い旅であったが、特に印象に残ったのは市街地の道路上で繰り広げられる喧騒である。空港に到着し、ミニバン型タクシーに乗ることになった。我々は6人で、タクシーの座席は7人乗りである。運転手を計算に入れるとちょうど良い。と、思いきや、そのままではスーツケースが載せられないことが判明し、座席を一つ潰すことになった。それでは一人乗れないではないかと心配すると、運転手は「大丈夫」と言い切り、2列目の3人席に4人詰め込んで出発した。この時点で嫌な予感がしたのであるが、ハノイの市街地に入ると道路の混沌とした状態に驚愕した。
 殆どの大通りは大量の車とバイクで溢れている。何と言えば良いのだろう、自分の進行方向に少しでも隙間があれば、皆グイグイと入っていくのだ。車同士の車間距離は日本の常識では考えられないくらいに狭いし、その隙間に横からバイクが入ってくる。ハノイ市内の大通りには信号機が非常に少ないのだが、信号機があって、しかも赤になっていても、進行方向に進む余地があれば強引に入り込んでくる。バイクの多くには複数の人が乗っている。二人乗りとは限らない。3人乗り、4人乗りが少なからず走っている。そして、車もバイクも進行方向を妨げるものがあれば、遠慮会釈なくクラクションを鳴らす。だから交通量の多い通りではひっきりなしにクラクションが鳴り響いている。まるで洪水の濁流のように車とバイクがけたたましくクラクションを鳴らしながら走っているのだ。滞在中、タクシーに乗っている時には僕は常に緊張で全身を強張らせていた。
 さらに驚くべきことには、この自動車とバイクが入り乱れて走っている道路を歩行者が横断するのである。若くて特別機敏な人だけが横断しているわけではない。老若男女関係なく、どんどん横断しているのだ。なぜこの濁流を渡りきることができるのか?まるで魔術か奇跡をそこかしこで目撃してしまうような気分になった。単なる歩行者だけではない。天秤棒を担いだ人や自転車に乗った人達も道路に沿って進み、あるいは横断している。さらにさらに驚くべきことに(と、僕には思えたのだが)、これだけ混沌とした道路状況にもかかわらず、事故が起こらないのである。わずかな滞在期間で自分の目で見た範囲のことを言っているので、実際どの程度交通事故が発生しているのか把握していない。しかし、これ程でたらめな(に見える)交通状況なら至る所で事故が発生しても不思議ではない気がしたのであるが、少なくとも僕が見た範囲では事故が起こっている様子は全くなかった。
 数日間滞在しているうちに、気がついた。ハノイの道路、悪くないなと。まず、けたたましいクラクションで最初は気づかなかったが、意外にどの人の運転も荒くない。グイグイと隙間に入ってくるのだから荒くないという表現で良いのかどうかわからないが、殆どの車やバイクの挙動は穏やかで、猛烈なスピードで走る車や急発進・急停止をする車は見当たらない。前方に自分が入る隙間がない時には穏やかに停車する。だから、歩行者がスタスタと歩いていれば(よけきれなければ)ちゃんと停止する。歩行者側も車が止まることに対して完全に信頼している様子で、悠然と横断する。むしろ、隙を見て走り出すような唐突な行動をとる方が車側から予測が難しくて危険なのではないかと思う。クラクションの鳴らし方も、大概実務的な目的があるように見える。俺は後ろにいるぞーとか、そこに入りたいので開けてくれとか、何か伝えたいことがあるようなタイミングで鳴らしている。怒りに任せた鳴らし方には殆ど遭遇しなかったと思う。そう、これほど混沌とした道路の上で、怒りの感情を目撃することが殆どないのである。
 ひょっとしたら、ハノイの人達は自分はこうしたいという要求を率直に表明しあっているのかもしれない。その上で、それぞれがギリギリのラインで譲り合っているのではないかと思う。現地で直接交流した人達から受けた印象も、この推測と矛盾しない。直接接することのできたハノイの人達の殆どは穏やかで親切であった。しかし、遠慮深いとか控えめということは全くなく、自説を堂々と主張するし、相手への要望をしたたかに表明する。そして人々はお互いに相手の主張や要望を根気よく聞こうとする。恐らく互いに考えを率直に主張し、粘り強く交渉するという文化ではないかなと想像する。5日間しかいなかったので本当のところは分からないが。
 さて、日本に帰ってくるとなんと道路の穏やかなことか。車は車間距離を空けて整然と走るし、バイクが入り乱れていることもない。信号機は至る所で見事に機能している。ハノイと日本の道路事情の違いから、日本人のマナーの良さを主張したくなる人もいるかもしれない。
 日本の社会は自分の意見や要求を率直に表明することをあまり良しとしない。相手が口を開く前に相手の気持ちを忖度し、それに沿って振舞うことが求められがちである。そして人を不愉快にさせない振る舞い方の細かい規則が増殖し、マナーとして広まっていく。見えない規則でガチガチに縛られている社会に暮らしているせいか、少し逸脱した人に対しては一斉に非難の矛先が向かってしまう。もしもハノイが、僕の想像した通りに自分の主張や要求を率直に表明し、他者の主張や要求をきちんと聴き、その上で交渉し譲り合う文化だとしたら、その方が住みやすいのかなあとも思う。ただし、ハノイに住んだとしても自分で車を運転する自信はない。

2015年8月29日土曜日

アクティブで感動的、そして空虚

最近ある大学でアクティブラーニングの実践例という講義を見学する機会があった。参加者の緊張を取る軽いゲーム(アイスブレーク)で始まり、グループ討議、グループごとのプレゼンテーションと進行する、今流行りの形式を踏襲していた。15コマの講義の最終日にあたるらしく、教師も学生も前期の総決算という意気込みで取り組んでいた。全グループのプレゼンテーションが終了したらその講義も終わりだ。最後に一言ずつ学生がコメントしていたが、人前で話すのが苦手だったが自分の意見を言えるようになったと感動しながら述べる学生が何人かいた。参観者からも学生の能動性を引き出したことに感心したという賞賛のコメントが多く寄せられていた。それらの発言を聞きながら、僕は困り果てていた。僕には大学の講義として考える限り、賞賛に値するとは思えなかったからである。
 確かに学生達のプレゼンテーションは要領よくまとまっていた。しかし、どの発表を聞いても「学」が全くないのだ。どのグループがまとめた内容も、そのアイデアや主張には根拠となる理論的枠組みや方法論がなく、ほぼ100%自分達の頭の中で考えた思いつきだけで成立していた。5、6グループの中で唯一自説の裏付けとなる他者が著したデータをプレゼンテーションに含めていたグループがあったが、これも明らかに怪しいデータを引用しており(なおかつ情報源を明示していない)、情報源の確かさを検証することや引用元を明記することが教えられていないようであった。15コマを費やした講義の成果と呼ぶにはあまりにも空虚な発表ばかりである。
 昨今大学教育においてアクティブラーニングが話題になることが多い。アクティブラーニングは「学修者の能動的な学修への参加を取り入れた教授・学習法の総称」である。教える内容があってこその教授・学習法である。 アクティブラーニングそのものに意味がある訳ではない。高等教育機関であれば、それに相応しい学問を学修する手段としなければ価値がない。単なる思いつきをまとめれば良いのなら、小学生でもできる。人前で自分の意見を表明できるようになったことにだけ意味を見出すなど、怪しげな自己啓発セミナーと変わらない。
 方法論は学問の重要な要素である。自由な発想といえば素晴らしいことの様に言う人が多いが、人間は本当に自由にされた時には碌な思考力を発揮できない。方法論という不自由な枠組みを構築することによって、人は様々な領域へ思索を深めることが可能となったと思う。きっちりと学問を修得させること、それを基盤として自らの考えを構築させること、こういったことにアクティブラーニングを用いてこその高等教育ではないかと思う。枠に嵌めるということに関して、国際日本文化研究センター助教授の渡辺雅子さんが興味深いことを述べている

「子どもたちが授業で実際に書いた作文を日米で比較してみると、興味深いことが分かります。日本の教師は、意識する、しないにかかわらず、結果的に『綴り方』の伝統に則って、『自由に、思ったままを書けばいいんだよ』と励まして子どもに作文を書かせます。しかし、でき上がった作文は、どれも驚くほど似通っています。その一方で、一見自由な印象を受けるアメリカの小学校では、実は厳しい文章の『型』の訓練と、技術的指導や添削が行われます。その結果として生み出されるのは、各自が書く目的に応じて様式を選び、そこに個別の意見が主張され、ときにはさまざまな様式を組み合わせる多様な作文です。」

 これは高等教育において学問を教えるということに通じる話ではないかと思う。

2015年7月22日水曜日

自閉症スペクトラム障害にまつわる連続性

 昨年DSM-5の日本語版が出版され、今まで広汎性発達障害という名称で認識されていた概念が、自閉症スペクトラム障害という名前に変わった。とはいえ、広汎性発達障害と自閉症スペクトラム障害はその意味するところは全く同じではない。特に大きな違いは、それまでの広汎性発達障害のくくりの中では複数の下位カテゴリーとして区別されていたものが、自閉症スペクトラム障害ではひとまとまりの連続的な概念に変わったことである。
 僕は、自閉症に関連する様々な状態を理解する上で「連続性」は重要なキーワードになると考えている。自閉症スペクトラム障害内の連続性だけではなく、自閉症スペクトラム障害という概念の外へ向けた様々な連続性を考えることができる。このあたりの事情を解説した論文を書いたので、公開する。
 なお、この原稿の公開にあたり、「岡山ソーシャルワーカー協会」会長である中山哲哉様の承諾を得ている。

荻野竜也 (2015). 自閉症スペクトラム障害にまつわる連続性について. 福祉おかやま 32号:2-11.

2015年7月15日水曜日

悪人がいたって?それが世の中だろう

僕は研究費不正使用はいかんと思っているが、その理由は、その研究費で実ったかもしれない研究の可能性を潰すからだ。不正使用が増えると結局は国全体としての実質的予算が減少し、研究のパフォーマンスが低下するからだ。しかし、不正ゆえに不正が許せない人が多い。研究者を締め上げて成果が減少しても不正を防止すべきだと主張する。
 そのためか、何か不正が発覚すると関係施設や省庁の責任者はこのような不祥事が二度と生じないように対策を取ることを誓う。不正を完全にブロックすることは現実には不可能にもかかわらずそう言ってしまうものだから何らかの対策を立てざるを得ず、研究費の扱いには細かい制限が増えるし、不正防止のための研修受講が義務付けられたりする。研究者の労力はそういった事務処理に消費されることになり、研究自体の効率が減少する。だからといって不正防止に関して絶大な効果が発揮されたという話も聞かない。
 似たような話はいたるところにあり、生活保護もその一例である。貧しい人にも最低限の文化的な生活を保証するために生活保護制度が存在する。必要ない人が予算を使うことで救えない人が出てはいけないから生活保護費の不正受給は罪になるはずと僕は考える。しかし、不正が許せない人たちは貧しい人をさらに追い詰めてでも、不正受給を防げと主張する。生活保護費に関しては行政の経費削減圧力も加わる。結果、どんどん生活保護のハードルが高くなり、本来救われるべき人たちが放置される。
 不正防止が第一目的になる世界って、何なのだろう。なんだか味気なさしか感じられない。僕は脳みそが緩んでいるせいか、不正を防止することよりも建設的な成果を上げることを強く願う。優れた研究が増えて欲しいし、貧困に打ちひしがれる人や貧困の世代連鎖が減って欲しい。世の中から不正をなくすことは不可能だ。ならいっそ、全体としてのパフォーマンスを最大限にできる程度に不正防止を図り、それ以上の不正防止に無駄に資源を投入しなくても良いのではないかと思う。
 そのためには、不正防止策を立てる際には現実的な有効性を厳しく吟味するとともに、制度が本来目指していることの妨害にならぬことにもよく目を配って欲しい。また、注ぎ込まれた予算の総体と目標の達成度とのバランスを定期的に評価することも必要だと思う。まあ、国全体で研究の成果が上がっているかどうか評価することは、実際には難しいことだとは思うが。
 何より重要なことは、不正は無くせないということを認めるとともに、不正が判明した時には不正を為した本人に対して厳正に対処することだと思う。不正を為した本人が所属する施設やその責任者を、不正が発覚したということにおいて批判し叩いても得るところは少ない。不正隠しに奔走するように促すだけだと思う。不正はどんな組織でも生じ得るということを前提に、いかに判明した不正の全容を解明し、不正を為したものに厳正な処罰をするかということこそが重要だと思う。研究費不正受給の例ではないが、STAP細胞事件の際の理研や早稲田大学大学院のように、まずは問題をうやむやに押さえ込もうとする動きの方が、不正そのものよりも余程罪が大きい。
 余談だが、「不正を為した本人が所属する施設やその責任者を、不正が発覚したということにおいて批判し叩いても得るところは少ない。不正隠しに奔走するように促すだけだと思う。不正はどんな組織でも生じ得るということを前提に、」という文章は色々なものに当てはまるなあ。学校のいじめとか、食品への異物混入とか。共通して騒ぎが生じた時に関係者が「こういった事態が2度と生じないように最善を尽くします。」などと言っちゃうんだなあ。

2015年6月24日水曜日

最近の○○は

入学試験で高校生が書いた小論文を読んでいると、面白いことに「最近の○○は」という表現に非常によくお目にかかる。「最近の親の子育て力は低下し」とか「最近の子供はゲームで遊ぶことが多いため体力が低下し」といった調子である。大概はとりたてて根拠を示して書いているわけではなく、当然のコンセンサスのような書きっぷりである。おいおい、ちょっと待て。いつと較べて「最近」なんだい?せいぜい18歳の高校生たちが10年前や20年前と比較して物を言っているとは思い難いし、かといって親の子育て力の変化や子供のライフスタイルの変化を1、2年前と比較してもあまり意味がない。いったい君達は何を根拠にそんなことを言うのだい?と質問したくなる。
 とはいえ、「最近の○○は」に根拠がないのは高校生に限った話ではない。僕も含めて大人が言っている「最近の○○は」にもほとんど根拠がない。その良い例が、犯罪に対する認識である。「最近世の中が物騒になった。」という発言を、多くの人が口にしがちだ。しかし、現実にはこの平成の社会は第二次世界大戦後最も平和な社会である。発生数を正確に把握しやすい殺人事件の統計を見れば昭和30年前後が最も多く、現在はその頃の7分の1程度である(データはここを参照)。強姦犯だと昭和30年頃の40分の1程度だ(データはここ)。
 自分の直感的な印象が実際とは違うことがあっても良い。神ではない身であれば、すべての物事に正しい認識を持つことは不可能である。また、事実を確認できるだけの客観的なデータがない場合でも何らかの判断を迫られることはある。そういう場合には印象に頼らざるを得ないこともあるだろう。問題は、多くの人の多くの場合に自分の印象が事実と異なっている可能性があるという認識が欠けていることである。あくまで印象に過ぎないので誤っている可能性は多分にある、と意識していれば修正できる可能性がある。
 しかし、人は(僕自身も含めて)自分が抱く印象に根拠なく過剰な確信を抱きがちである。少々反論されたくらいではたじろがない。時にはぐうの音も出ないだろうと思えるくらいの客観的な資料を見せられても、あくまで自説にこだわる姿が見られる。狂信的にワクチンを否定する人たちや、ごく微量の放射線の危険性にこだわる人たちなどこの例になる。
 個人が一人で間違った確信を持っていても、別に大した問題にはならない。ただ、こういった確信はしばしば世論の動向を決めることになる。事実に反する印象を根拠に世の中の動きや政策が決まってくると、限られた労働資源や経済資源が意味のないものや、時には有害なものに注ぎ込まれることになり、大きな社会の損失につながりかねない。
 社会を構成する人々が、客観的な根拠に基づいて物事を判断したり考えを変更したりできるようにするためには何が必要なのだろうか。小中学校のうちから事実を観察し、その結果に基づいてものを考える訓練をするように教育内容を変えていけば良いのだろうか。それとも、そもそもそういう期待を持つだけ無駄なのだろうか。

2015年5月31日日曜日

発達障害のある子供に対する支援における診断の意味

発達障害には様々な病型が含まれる。支援者は個々の診断についての詳しい知識を取得し、理解することが望ましい。ただ、個別の診断について学ぶのも良いが、発達障害の診断というものが共通して持つ意味を総論的に理解しておく方が良い。というようなことを書いた文章を「NPO法人全国ことばをはぐくむ会」の会誌「ことば」に寄稿した。ここに置いておく。
 なお、この原稿の公開にあたり、「NPO法人全国ことばを育む会」理事長である加藤碩様の承諾を得ている。

荻野竜也 (2015). 発達障害のある子供に対する支援における診断の意味. ことば 278号, 2-5.

2015年5月19日火曜日

朝の支度が遅い

 朝の支度に時間がかかり、遅刻しそうになる子供がよくいる。母親が「起きなさいよー」と言ってもなかなか起きない、「着替えなさいよー」と言ってもなかなか着替えない、「ご飯よ」と言っても別のことをしているという調子だ。共働き家庭であれば、両親ともに朝は忙しい。何としても職場に間に合うように家を出ないといけない。毎朝毎朝子供がぐずぐずとして遅刻しそうになれば、とても穏やかでいられない。
 例えば、すぐに着替えられない子供は何故そうなのかを考察してみる。色々な場合が有りそうだ。着替えるという作業がひどく膨大で手間がかかる作業に思えて面倒に感じ、手をつける覚悟がなかなかできない子供がいるかもしれない。何をしたら良いのか、手順を把握できていない子供もいるだろう。今何をすべきか、今何をしている最中なのか、ということを意識し続けられないのかもしれない。何かに気を取られ、一旦気が散るとそちらに集中して着替えることに意識を戻せない可能性もある。どの要因が主体なのかは子供によって違うだろうし、1人の子供の中で複数の要因が関わっていることも多いだろう。しかし、不登校の初期など心理的な問題が生じている例を除けば、ほとんどがここに書いたことのいずれかまたは複数が原因になっているのではないかと思う。
 そう考えると、取り敢えずスムーズにことを運びたければ有効な対策はある。手伝えば良いのだ。指示を出して大分時間が経ってから「まだ着替えてないの?早く着替えなさい。何をしていたの?」と怒るくらいなら、最初から「はい、パンツ」、「はいシャツ」、「あ、着るの速いねー」、「直ぐ着てくれて、ありがとう」などと声をかけながら手伝えばよほど物事がスムーズに進み、親のストレスは少ないと思う。ポイントは、着替えという全ての工程を一括して考えずに1ステップごと細かく指示を出すことと、一つ一つの作業を行う毎に褒めたりお礼を言うことである。当然、親は本人の目の前にいないといけない。さらに、本人が自発的に行動しかけている時は指示を出さずに待つことも留意すべきである。そして、着替え終わったら手柄を全て本人に献上して「君は毎日さっさと着替えるから助かるなあ。」などと褒めておけば良い。本人に付きっ切りなんて忙しくてできないと思うかもしれないが、いつまでも準備ができずギリギリになって怒り心頭に達するよりも余程楽だと思う。
 朝の支度に手間取ると悩んでいる親にこういうことを言うと、何もかも手伝うと自立できないと心配する人がとても多い。自分でさせないと自立できないという考え方はとても根強い。しかし、何故子供の朝の支度で悩んでいるのだろうか。それは、いつまでたってもうまくいかないからに他ならない。2、3回の指示で自発的にできるようになったのであれば、今現在悩んでいるはずがない。何度も何度も同じように子供に指示したり叱ったりを繰り返しているから、そして成果が上がらないから悩んでいるのである。現状では、何らかの理由で現在の指示の出し方では上手くいかない、本人の立場から言えば「できない」のである。できないことを成し遂げようと、親子で足掻いているのである。
 この状態はさらに、積極的に問題を拡大している可能性がある。どういうことかと言えば、繰り返し指示が出されているのになかなか指示通り動かず、最後には強く叱られるというパターンを繰り返す時、子供は何を学習しているかということを考えないといけない。指示される、上手くできない、叱られる、変わらぬ日常が繰り返される、というサイクルを繰り返すうちに、親の指示に従わなくても現実は何も変わらないということを学習してしまうのである。このサイクルを繰り返すほど、ますます親の言葉の重みは低下する。しかも、指示に従わなくても良いと学習しながらも、本人の心は平和ではない。上手くできない自分という経験を持続的に繰り返すことで、自己評価は低下するのである。「どうせ俺なんて、」という発想につながっていくのである。
 僕は、物事を上手くこなせないでいる子供がいれば、どんどん手伝えば良いと思っている。成功しないまま、叱られることが日々続く状態で、子供が得るものはほとんどない。できないことが放置されたまま自立が進むとはとても思えない。日々叱られて自信を失った状態では成長するチャンスは目減りするばかりだと思う。人の力を借りながらでも、すべきことを日々きちんとしたという実績を積み上げる方が自負心を育むと思う。重要なことは自分でさせることではない。本人ができるようになったことをきちんと見極め、手助けが不必要になった部分は順次手を引いていくことだと思う。一押しすれば次の段階に進めそうな子は放置しても良い。しかし、本当に行き詰まっている子供には手助けを躊躇すべきではない。

2015年4月27日月曜日

何でもかんでも障害

ここ5年から10年ほど、広汎性発達障害という診断を受ける子供が多い印象がある。保育園や小学校で何らかの問題を指摘された子供の多くは、担任の教師・保育士から病院受診を熱心に勧められ、受診した子供は判で押したように広汎性発達障害の診断がついてくる。斯くして、保育・教育界は高々5年10年の間に発達障害(広汎性発達障害と混同されている)が激増していると大騒ぎである。世界的にも広汎性発達障害(今は自閉症スペクトラム障害と呼ぶようになっている)の有病率は高くなる傾向があるが、それでもせいぜい1%どまりである。ところが、日本の学会などの発表では子供の数%以上が該当すると主張するものも多い。基本的な原因が生物学的な要因であると推測されている広汎性発達障害が、1世代も経ない間に激増するというのも素直に信じがたい。
 こういう状況を見るにつけ、当然診断に対する批判も増えてくる。僕自身も、どこかの病院で広汎性発達障害と診断された子供と出会う際に、本当に厳密に評価し診断基準に該当するかどうかを誠実に検討しているのだろうか?という疑問を抱くことが少なからずある。ただ、これは自閉症や、さらには発達障害を専門に診療している立場の考え方である。一般の人はもう少し別の観点からも疑問を呈する人が多いのではないだろうか。それは、何でもかんでも障害にしてしまって良いのかという疑問である。こんなに調子づいて自閉症なり広汎性発達障害なりの診断をしていては、世の中障害者だらけではないか。そんなに多くの人を障害者と認定するのはナンセンスではないか。無理やり障害の診断をすることに妥当性はあるのか。といったところだ。
 人口の多数が「障害」という特殊な扱いを受けることはおかしいという発想は、かなり理解しやすく自然であるように思える。実際、医療においても「正常」と「異常」の境目を「世の中で極めて珍しい」という観点で線引きしていることは多い。もっと具体的に述べると、検査データが異常かどうかの判断を、平均値を2標準偏差以上下回る(あるいは上回る)ときという基準に頼ることが多い。これは分かりやすく言うと、そういう値になるのは全人口の2.3%未満しか存在せず、かなり珍しい現象だということを示している。典型的な具体例は低身長で、各年齢での平均身長を2標準偏差を超えて下回ったときに低身長と診断する。しかし、珍しいからということで人口の一定の割合を「異常」と定義することには問題もある。常に一定の割合の人が「異常」と考えるのも変な話である。そもそも「異常」とは何かということはとても難しい問題である。
 現在、障害は国際生活機能分類で定義されている。簡単に述べれば、ある健康状態において自分が属する環境の中で自分一人の力では食べたり、話したり、物を操作したり、移動したりという活動が十分にできないことや、仕事や学習、余暇活動など社会的活動への参加が十分にできないことを示している。つまり、自らの健康状態では、属する環境の中で暮らし辛い状態なのである。ある社会集団の中で珍しいほど少数かどうかではなく、暮らし辛いかどうかが障害があるかどうかの判断根拠となる。
 例えば、何らかの理由である地域のかなり多くの人が暮らし辛いとき、珍しくないから「障害には当たらない」と主張しても良いだろうか。非常に貧しい国で、子供の半数くらいが栄養失調に基づく生活の困難さがあるとき、あるいは長い内戦状態のある国で多くの人々が四肢の運動障害を伴っているとき、多くの人が同じ境遇にあって珍しくもないので一々障害とみなす必要がないと主張しても良いのだろうか。そんなことはない。自分一人の力で十分な活動や参加ができない人には障害があり、援助が必要なのである。
 「何でもかんでも障害にしてしまって良いのか」という問題に戻るが、正しい回答は「ダメ」である。何故ダメかという理由については、2つの次元がある。まず、障害と認定する以上は独力では活動や参加に困難さがあるという条件を満たす必要がある。「困っている」ことを正しく認定できているかどうかということである。さらに、どういう種類の困難さがあるかという評価も妥当でなければいけない。困難さの生じる状況によって必要な援助も異なるからである。
 上に述べたように、受診する子が全て「広汎性発達障害」という診断であれば、丁寧に評価したのだろうかという疑問が湧いてくる。しかし、「何でもかんでも障害にしてしまって良いのか」の意味が何らかの障害と診断される人の数が多すぎる、という意味なら、必ずしも多いから不適切とは僕は思わない。障害の境界が少々広がり障害と目される人の数が増えても、その困難さに対する援助が用意される環境を構築すれば、その人たちの困難さは解消されるか軽減する。より自立して生活できる人が増えていけばそれで良いのではないかと思う。日々の困難さに苦しんでいる人たちに対して、援助に値する障害かどうかを認定するような態度をとる必要なんてさらさらないと考えている。

2015年4月20日月曜日

内田樹 編「日本の反知性主義」

小さいとはいえ、一応大学と名の付く職場で働いている。大学といえば知の探求がその本来の使命だろう、と思いたいのだが、とても知的とは言い難い言説に接することが多く、忸怩たる思いを抱く。何しろうちの大学なんぞ、学生に求める重点目標が「さわやかな挨拶とマナーの向上」である。いや、さわやかな挨拶もマナーの向上も悪いわけではない。しかし、大学を名乗るならもっと知的な目標があっても良いではないか。僕が働く大学だけの傾向ではないのだろう。色々出てくる政府の大学改革についての提案を見ていると、あまり知性を重視しないのは日本全体の方向性なのだろうか、という気もする。
 最近、内田樹さん編集の「日本の反知性主義」なる書籍が出版された。今の大学には、知の探求とは反対の流れがあるように感じて日々不満を感じながらも、自分の頭ではそれを明確に整理できていなかったことから、これはタイムリーとばかりにamazonさんに届けてちょうだいとお願いしてしまった。まったく、酔っ払ってインターネットを見ていると、細々と散財してしまう。
 さて、読んでみるとなかなか興味深いことが色々書いてある。感心するような論考も多いし、単純に面白いと感じる文章もある。様々な人がそれぞれの観点から執筆した文章が集まっているので、漠然とした統一テーマはあるものの、書籍全体に書かれていることは変化に富んでいる。最近とみに集中力が低下した僕でも、比較的スイスイと読めてしまった。しかし、その読後感には複雑なものがある。こういうことで良いのだろうかという疑念が残る。
 疑念については後で述べるとして、まず、「知性」や「反知性主義」をこの本ではどう定義しているかについて述べる。内田樹さんは自説に固執することなく他人の言うことをとりあえず黙って聴き、「得心がいったか」「腑に落ちたか」「気持ちが片付いたか」どうかを自分の内側を見つめて判断し、それを以ってさしあたり理非の判断に変えることができる人を「知性的な人」とみなしている。つまり、内田さんは「知性とは知の自己刷新のことを言うのだろうと」考えているのである。さらに、知性とは集団的な現象であると主張する。すなわち、人間は人間集団として情報を取り入れ、その重要度を衡量し、その意味するところについて仮説を立て、それにどう対処すべきかについての合意形成を行うというのだ。その上で、こういった力動的プロセス全体を活気づけ、駆動させる力の全体を内田さんは知性と呼ぶのである。つまり、知性は「社会的あるいは公共的」なかたちでしか構築されないし、機能もしないのである。
 内田さんはさらに重要な指摘をする。「社会的あるいは公共的」であるためには、時間を味方にしなければならないと言うのである。知性とは、死者達も、未だ生まれていない人達をもフルメンバーに含む、時空を超えた共同体としての営みだと言うのである。このことに関連して、内田さんは「科学者は先行する世代の科学者達の肩の上に立って仕事をする」というポパーの言葉を引用している。
 以上の論考を踏まえて、内田さんは反知性主義の際立った特徴はその狭さと無時間性にあると指摘する。反知性主義者達は今の自分のいるこの視点から「一望俯瞰すること」に固執し、自分の視点そのものを「ここではない場所」や「いまではない時間」に導くために何をすべきかを問わないからである。
 鷲田清一さんの知性に関する考え方も興味深い。鷲田さんはまず、複数文化がいかにして共存するかという問題について、エリオットの「(一つの社会の中に階層や地域などの相違が)多ければ多いほど、あらゆる人間が何等かの点において他のあらゆる人間の同盟者となり、他の何等かの点においては敵対者となり、かくしてはじめてたんに一種の闘争、嫉視、恐怖のみが他の全てを支配するという危険から脱却することが可能となるのであります。」という言葉を引用し、社会の平和を保つためには、多様な摩擦が存在することが必要であると述べている。そして、知性を身につけるほど世界を理解するときの補助線や参照軸が増殖し、世界はより複雑なものとなり、理解することが煩雑になる。世界を理解するためには煩雑さに耐えることが必要であることを知り、複雑さの増大に耐える耐性を身につけていることが知性的ということなのだと鷲田さんは主張する。うーん、深い。
 白井聡さんは反知性主義の定義を明確にすることから話を進めている。白井さんはホーフスタッターの言葉を引き、反知性主義とは「知的な生き方およびそれを代表するとされる人びとに対する憤りと疑惑」であり、「そのような生き方の価値をつねに極小化しようとする傾向」と定義している。その上で、反知性主義は積極的に攻撃的な原理であることや、大衆民主主義社会では反知性主義の危険性が高まることを指摘している。そして、現代の反知性主義が活気づけられる2つの文脈として、資本主義のネオリベラリズム化と学問における啓蒙主義の公然たる放棄があると主張している。
 著者によって考え方は異なるが、いやだからこそ、知性とは何かということについて多面的な考え方を知ることができて面白い。反知性主義という言葉についても、ホーフスタッター以来の歴史や、単なる無知や非知性とは異なる概念であることを知ることができた(無知とは僕のことである)。それぞれに成る程と頷いてしまう。上に記した以外にも、反知性主義を効率と予定調和を目指す「台本至上主義」によって説明する相田和弘さんや、科学に内在する知性の退行について論じた中野徹さんの論考も非常に興味深いものであった。
 さて、内田樹さんはその原稿の最後で、現在の政治状況を猛烈に批判する。曰く、日本は全ての制度の株式会社化のプロセスを進んでおり、金儲けに最適化したシステムだけが生き残ろうとしている。国政の政策の適否は50年後、100年後の日本という国の状態によってのみ検証される。しかるに、今の為政者たちは自分たちの政策が歴史的にどう検証されるかということには何の興味も持っていない。極めて断定的な筆致なのである。ここでは、何故「日本は全ての制度の株式会社化のプロセスを進んでおり、金儲けに最適化したシステムだけが生き残ろうとしている」と言えるのか、何故「今の為政者たちは自分たちの政策が歴史的にどう検証されるかということには何の興味も持っていない」と言えるのか、ということの根拠は示されない。「国政の政策の適否は50年後、100年後の日本という国の状態によってのみ検証される」ことに異存はないが、さて、今の国政ではその検証に耐えないと言えるだけの根拠も述べられていない。
 内田さんは、知性というものを考えるにあたって自説に固執することなく他人の言うことをとりあえず黙って聴き、吟味することを重視しているのである。そして、知性とは社会的あるいは公共的なものであることを強調している。それが何故、丁寧に根拠を積み上げることなく、現在の国政のあり方を全否定するような乱暴な主張をするのであろうか。
 白井聡さんは学問における啓蒙主義の放棄について説明する文脈で、突如現在の精神医学や臨床心理学の批判を始める。精神分析学の衰退と、脳生理学、薬物療法、認知行動療法の発展している現状を、「人間とは何か」を問う学問の代わりに「人間の死」を事実上の前提とした学問が知の制度の中心を占めるようになっていることを表しているというのである。何故だか白井さんは、臨床家は精神分析学か、投薬及び認知行動療法かを二者択一で選んでいるように考えているようなのだが、おそらくそのようなことはない。臨床家は目の前の患者をより良く理解し、苦しみを軽減することに役立つものを重視しているだけだと思う。僕は精神分析学についての教養には欠けているので、色々知ったようには言えない。しかし、フロイトも精神科医である。臨床経験を重ねる内に、患者の病態を理解するモデルとして精神分析学に至ったのではなかろうか。別に思想家を喜ばせようとして理論を深めていった訳ではないのではと想像する。精神分析学の勢いが衰えたことと、現代社会において反知性主義が優勢になったことを直結させることには無理があるのではないかと思う。
 どうもこの本の執筆者には何かを予め是として、論を進めている部分が多いように思える。もともと内田さんの編纂の意図として、「特定秘密保護法、集団的自衛権行使容認、学校教育法の改定などの安倍政権の動きへの市民レベルからの批判が何故起こらないか、という疑問が起点となっている。」ということが出発点となっているので、特定の政治的立場が前面に出やすいのは分かる。しかし、自分が問題と感じているものを批判するからこそ、根拠を十分に用意し、丁寧に論を進めていくべきではないかと思うのだが、ネオリベラリズム、安倍政権、あるいは原発に関しては「ダメなもの」という大前提で話を進めているように感じることが多かった。上記の白井さんのように個人的な思想に合わない状況を突如断罪するという態度にも危うさを感じる。名越康文さんと内田さんの対談に至っては、何か命題を出すたびに「そうなんですよね」「そうそう」とお互いに頷きあっているような文章が続き、気持ちが悪い。印象や直感的に受け止めたことは一切述べるべきではないと主張しているのではない。直感的な印象を主張するならするで、その論拠を丁寧に積み上げるべきで、断定的に主張することは「知性的」とは思いにくい。
 もちろん著者が高橋源一郎さんや小田嶋隆さんのように作家やコラムニストの場合、自分の内なる声や直感に端を発する考察をすることは、それはそれで価値のあることだとは思う。しかし、編者の内田さんはこの本を「共同研究」と称している。同好の士が集って、「そうだよね、そうだよね、うんうん」と納得し合うようなものが研究とは思えないし、ましてや「反知性主義」に一矢報いることにはならないのではないだろうか。どの著者も深い知性と広い教養を持っているのだろうなということは、それぞれの稿を読めば推測できる。今ひとつ教養にかける僕が批判しても、すっきりと説得力のある文章にはならないだろうとは思いながらも、このなんとも言えない嫌な読後感を書き留めておきたいと考えた次第だ。

2015年3月27日金曜日

記憶力

 学校や幼稚園・保育園で働く先生対象の研修会で、障害を持つ子供についての講演を依頼されるとき、事例を中心に話してくださいと言われることが非常に多い。教師や保育士は判で押したように事例が好きである(というふうに僕には見えている)。そういう時、僕は必ず「事例は苦手です。」と言うことにしている。これに深い理由はない。単に、記憶力が悪いからである。
 記憶という言葉は色々な意味を含むが、ここでは過去の情報を時間が経ってから意識に上らせる能力と考える。記憶にはエピソード記憶と意味記憶がある。エピソード記憶は「いつ」「どこで」「誰が」「何をした」ということと密接に結びついた記憶である。一方、意味記憶とは言葉の意味、物の名前や概念、法則や規則といった情報の記憶である。僕はどちらの記憶能力も非常に悪い。人の名前や漢字を典型例として、意味記憶が大層貧弱である。しかし、意味的に関連付けたものや理屈で説明できるものはある程度覚えることができる。意味記憶以上に、僕のエピソード記憶はボロボロなのである。10年前はおろか、1週間前のある1日の出来事や食事を正確に思い出せることがほとんどない。漠然とした匂いや雰囲気、あるいはクオリアとでもいうようなものの記憶は少し残っているのだが、具体的な記憶が残らない。大げさにいえば、僕は思い出のない人間である。
 エピソード記憶が弱いと、特定の事例をなかなか思い出せない。頭の中では色々な事例の断片的な記憶が、カオスのように入り乱れている。といって、病院の記録を検索して、これはという事例のカルテを出してくるのは面倒である。そういう事情で、僕は講演の中に事例を混ぜることはほとんどない。勢い、理屈が中心の話になる。精一杯、抽象的で理論的な話を目論む。ところで、大概講演の後で会の主催者側の人が挨拶をし、講演内容を褒めてくれる。褒めてくれること自体は外交辞令だから、さして思うことはない。ただ、どの様に褒めるかといえば、「先生のお話は、とても具体的でわかりやすく...」と言われることが多く、首をかしげる。
 後付けの理屈なのだが、障害を持つ子供の支援を考えるときに、瑣末な具体を羅列するよりも理論的枠組みとか考え方を重視する方が良いと思っている。「○○には△△」「××には~~」といったマニュアル的対応では、無限にバリエーションがある日々の問題に柔軟に対応できないと思うからである。だから、僕の話の中では、理屈で考えよーね、共感なんかに頼っちゃためだよー、具体的な評価と具体的な戦略が大切ですよー、僕は情緒的な話は嫌いですよー、と繰り返し強調するようにしているつもりである。ある学校の研修会で、やはり終了時に挨拶された方が「先生には子供たちに寄り添うことが大事ということを教えていただいたと思います。」と仰しゃり、頚椎を脱臼するくらい強く首をかしげたことがある。
 この話には、落ちも結論もない。

2015年3月15日日曜日

発達障害理解の入り口:最初に理解しておくべきこと

 教師が発達障害について学ぶときにまず最初に押さえておくべきと、僕が考える項目を具体的に説明する。

1.大前提

1)発達障害は行動・認知特性と環境のミスマッチであり、その種類は一つではない

病型に関わらず発達障害児の困難さを規定する要因は2つある。本人の物事の受け止め方(認知)や振る舞い方(行動)が平均的な子供のそれとはずれているということと、生活している環境がその行動・認知のずれ方と上手く合わないということである。例えば注意を向ける範囲が平均的な子供に比べて狭すぎたり(あるいは広すぎたり)、他人と接する際に直感的に相手の気持ちや考えを読み取り計算に入れる能力が弱かったり、といったことである。
 こういった特性それ自体は善でも悪でもない。本人の生活を阻害するかどうかは暮らす環境との組み合わせによって決まる。例えば、注意や興味が狭い範囲に集中する程度が強い場合、人の話を聞き逃したり重要な状況の変化に気づけなかったりすることにつながるかもしれないが、特定の活動に集中せねばならない環境であればむしろ有利に働く。人の気持ちを敏感に読み取れる方が一見良さそうに思えるが、世の中には常に人の顔色ばかり伺っていては成功しない領域もある。人の行動・認知の特性と環境との組み合わせがうまくいっていない時に暮らし辛さが発生する。つまり、障害とは本人に固有の特徴ではなく、本人の行動・認知特性と環境のミスマッチによって生じた状態像である(このことに関連して、国際生活機能分類 - ICFによる障害の考え方を理解しておくべきである)。
 自閉症スペクトラムでも注意欠如・多動症でも学習障害でも、平均的な子供からずれている特性は一つではない。発達障害に関連する多くの病型を通じて考えれば、非常に多くの種類の「ずれ」が存在することになる。それぞれのずれと特性と環境のミスマッチの結果、あるいは複数のミスマッチの複合体として現実の困難さが生じることになる。
 なお、行動・認知の「ずれ」ということからもう一つ分かることがある。上述のように、どの様な行動・認知の特性のずれかは個人個人で様々であるが、さらにはそれぞれの特性のずれ方の程度も様々だということである。本人の特性のずれ具合も様々であれば、取り巻く環境の許容力も様々である。つまり、発達障害は程度問題なのである。自閉症か否か、注意欠如・多動症か否か、などと白黒を明確にすることに拘っていると、ピントがずれた理解になる。

2)問題を認める
 
発達障害児に限らず子供が日々の生活の中で何かがうまく行っていない時、周囲の大人達(親、教師など)は「できない」という現実を否定することから始めることがよくある。「出来るのにしない」、「私の注意を聞こうとしない」、「こんなことをしでかすなんて信じられない!」といった具合である。しかし、子供がわざわざ意図的に失敗するはずがない。誰が好き好んで恥をさらしたり叱られたりするものか。失敗するときには、なんらかの理由があってうまくいっていないのである。出来ないのである。そして、本人に自覚があるかどうかにかかわらず、困っているのである。何かが出来ない、そして困っているということを認めることから支援は始まる。
 教師と話していると、「自閉症だから支援が必要」、「ADHDだから援助が必要」という発想を持つ人が多い。それは考える方向が逆である。「出来ないから、困っているから支援が必要」なのであり、平均的な環境で支援が必要な状態があれば、その基盤となる問題は何かと検討を進める中で、行動・認知特性と環境とのミスマッチが存在すれば、主たる問題は発達障害として理解できるという話になる。自閉症とかADHDという診断は、生活の中で困るかもしれないという予測因子になるのであり、支援の根拠ではない。支援の根拠は困っていることや近い将来に高確率で困りそうだという状況であり、発達障害かどうかに関係なく全ての困っている子供に、問題に応じた適切な援助を用意するという発想が必要である。ただし、当然のことだが子供のすべての問題を発達障害と結びつけてはいけない。

3)本人の性格に原因を求めたり、倫理的問題にしない

繰り返し述べてきたように、問題が生じるのは本人要因と環境要因の相互作用の結果と考える。「努力が足りない」「我儘」「依存心が強い」「意欲がない」「自己中心的だから」「人に対する思いやりがない」といった台詞(もちろん考え方も)は禁止である。もしも本人の性格や人間性が根本的におかしいことが問題の原因なら、問題を解決するためには本人の人間性を変えないといけない。別の人間に変えて見せようという話になる。これは不可能だ。本人の行動・認知特性をそのままで認めた上で、うまく社会に適応させるにはどういう工夫をすればよいかを考えれば建設的である。

2.対策よりも評価・分析

何か問題が生じているとき、対策として何をすれば良いかと次の一手を知ることばかりに捉われる人が多い。しかし、意識して対策を練ろうという状況は、通常そう単純な話ではない。本人の種々の特性と、環境の複数の要因が複雑に絡まって問題が生じていることがほとんどである。直感的な対応やマニュアル的な対応で何とかなるのなら、問題解決を意識せざるを得ない状況にはなっていないだろう。対策を考えるよりも現状を評価・分析し、どういう要因が今の問題を形成しているのかを考えることが必要である。教師は極めて高い知性を要求される職種である。

1)状況を具体的に認識する

各論的に個々の問題への対処を考えるときに、具体的にどういう状況において、具体的にどういうことに取り組んでいるときに、具体的にどういう問題が生じるのかということを把握することが基本である。
 学習面で問題が生じているのであれば、まずどの教科のどの段階まで習得でき、どこで躓いているのかを出来るだけ明らかにするべきである。特に算数などの積み重ねがものをいう教科では、学年を下って検証し、躓いた段階を明らかにする必要がある。出来ることと出来ないことの差がないかについても検討が必要である。読字、書字能力は全ての学習の基本となるので、特に慎重に評価すべきである。一見読み書きできているように見えても、スムーズさに欠ける場合や、読み誤りが多い場合は注目する必要がある。
 問題行動については、誰にでも状況が目に浮かぶように具体的に把握する必要がある。例えば、「落ち着きがない」という認識よりも「1時間の授業中に3、4回は勝手に立ち上がったり歩き出したりするし、席に座っている間も鉛筆や消しゴムを意味なくいじっているときの方が多い」という認識の方が具体的で良い。
 問題行動が生じる前後の状態をできるだけ詳細に把握することは、その行動がなぜ生じるかというメカニズムを考える上で重要である。特に、ほかの子供との喧嘩になったり暴力を振るったときは、その行動自体にばかり注目されがちなので、注意が必要である。必ず前後の状況を可能な限り検証しなくてはいけない。人の行動は、その行動が生じた状況でかなり説明ができる。学校で生じたことを家庭の問題として説明しようとする人をよく見かけるが、ある行動を生じさせる直接的なメカニズムは、学校で生じたものであれば学校に、家庭で生じたものであれば家庭に存在する。
 問題となっている行動の前後の状況で何が特に重要なのかは、1回のエピソードでは判然としないことも多いだろう。しかし、同じ問題行動が繰り返し生じている場合には推測が可能となることが多い。これをより確実にするためには、記録を取ることが重要である。個々のエピソードの際には何が重要かはっきりしなくても行動自体とその前後の状況を可能なかぎり具体的に記録しておく。こうすることによって、後日記録を読み返しているときにキーとなる要素に気づける可能性が高くなる。

2)日常全般から本人要因を推定する

目を引く問題が生じた時だけに注目していても、本人要因を推定しにくい。発達障害児の行動・認知面の特徴(平均的な子供とのずれ)は、普段の生活の中で認められることが普通である。何も難しく考える必要はない。普段から周りの子供と見比べた時に「おや?」と感じることがあれば無視せずに記憶に留めるようにすれば良い。
 例えば、何か他の子供に比べて理解が悪いように感じたら、そこに注目する。我々は一度言葉にするとそれ以上掘り下げない傾向があるが、何に対してどのように理解が悪いのかも分析する。言語面だろうか。教科書やプリントに書かれた文章が正確に理解できないのだろうか。会話で目立つ特徴だろうか。単純に単語の意味や構文の理解が悪いのだろうか。それとも、言外に語られたことの理解が悪いのだろうか。言語面以外の理解はどうなのか。ものの扱い方や操作の仕方が分かっていないのだろうか。物理的な現象が理解できないのだろうか。ゲームのルールが飲み込めないのだろうか。対人的な振る舞い方とその結果として何が起こるかを理解できないのだろうか。あらゆることが同程度に理解できないのだろうか、それとも特定の領域のみが理解できないのだろうか。
 注意能力に疑問を感じた時には、それは注意を持続することが難しいのか、必要なことに注意を向けることが困難なのか、注意の向く範囲が広すぎるのか狭すぎるのか、などと色々な観点から考えてみると良い。記憶力に疑問を感じれば、それはどういう時にそう感じるのか、実際に覚えていないことは何なのか、高い記憶能力を示すことは全くないのかなどと考えを進める。記憶力の問題と思っていても、本当は記憶力以外の問題であることもしばしばある
 日常生活における振る舞い方や、物事の捉え方あるいは認識の仕方で、どこか周囲の子供とは違う、あるいは浮いていると感じた時、その印象を大事にし、そのずれている領域や程度を具体化していくと良い。その過程で判明するかもしれない能力の偏りは、知能、言語能力、長期記憶能力、短期記憶能力、注意能力、抑制能力、計画性、社会性、コミュニケーション能力、思考の柔軟性、などなど認知心理学的観点で整理できることが多い。しかし、無理にこういった専門用語らしきものにまとめる必要はない。むしろ日常用語で具体的に「○○を○○することが弱い」、「○○を○○と受け止める傾向が強い」と表現する方が良い。
 こういったことを日常的に観察し、考察を進める際に重要なポイントがある。教師自身の目や耳で確認できる事実を根拠とし、できるだけ主観的な解釈を交えないようにすることである。例えば、注意の集中や持続が悪いということは、「計算問題を続けて3問以上解けない」とか「3フレーズ以上の説明は最後まで聞いていることがめったにない」という事実を上げることで確度の高い推測が可能となる。

3)本人要因を前提に環境との不整合を考える

上に述べてきたように、本人の振る舞い方や物事の受け止め方などの特徴(平均からのずれ)を把握すると、出来ないことや問題となることが生じるメカニズムが推測できる可能性が出てくる。ここで重要なことは、平均からずれた本人の特徴を「欠点」と考えないことである。そう考えると必然的に「欠点をどう直すか」という話に流れていく。こういう発想は、子供と教師自身の首を絞めることになる。「1.大前提」で述べたように、本人の特性自体は善でも悪でもない。問題が生じる時には本人の特性を許容できない環境があると考え、環境のどの部分を変えれば暮らしやすくなり、楽しみ、学べるようになるのかを考えていく必要がある。
 本人の特性のどこが、環境とどのように不整合を起こしているのか、という仮説を立てることによって、介入方法を計画できることがあるし、その介入がある程度の成果を収めれば仮説の妥当性が確認できる。また、仮説が妥当性を欠いていれば、それに基づく介入計画は成果を上げないだろう。その場合は、さらに新たな仮説を組み立てていくことになり、それも成果である。教育や指導といえば何か絶対的に正しいことがあり、それを適用して完全に問題を解決すべきであると考える人々が、この社会には一定数いる。そして、偏見かもしれないが教育現場にはそういう発想をする人が多い印象を持っている。しかし、発達障害児を理解するためにはよく観察し、仮説を立て、検証するというサイクルを繰り返すことにより、少しずつ事態を改善していくことが早道だと思う。そのためには、科学者、あるいは技術者の目と発想を持つことが有用である。

3.その他

1)病院は重要だが、受診を焦らない

病院は、それなりにトレーニングを受けた医師が評価し、必要に応じて検査もし、発達障害児の特性を綺麗に整理してくれる可能性が高い。また、日常的に困っている状態に対してどう対処すれば良いか助言をくれる可能性があるし、注意欠如・多動症の症状や一部の行動障害、あるいは不安などの精神症状に対する薬物治療ができる場合もある。診断書を発行し、種々の福祉制度へ繋ぐこともサポートしてくれる。病院とはなかなかのポテンシャルを持っており、価値のあるものと言える。したがって、何らかの発達障害が疑われる子供は、一度は専門医のいる病院を受診した方が良い。
 しかし、病院を受診するにあたって満たしておくべき重要な条件がある。それは、保護者が(出来れば本人も)納得して受診するということである。保護者との共同歩調は極めて重要である。問題の解決を焦るあまり、ほとんど泣くように懇願したり、あるいは脅迫じみた強硬さで受診するように指示し、保護者が納得しないままに病院を受診することがよくある。このようなことをすると、教師は多くのものを失う可能性がある。何よりも大きいのは、保護者との(場合によっては子供とも)信頼関係が破壊されることである。学校で講じる対処法を保護者が理解し、納得しておく必要があるが、これが難しくなる。また、学校だけで行えることには限界があり、様々な家庭の協力が必要になることも多いが、保護者との信頼関係が崩れるとこういったことが難しくなる。
 保護者が納得していないままに病院を受診すると、診断の精度が落ちるという問題も知っておかないといけない。発達障害の診断は何か検査をすれば客観的に確定できると誤解している人が世の中には多い。しかし、診断する上で最も重要なものは日常生活で観察できる行動に関する詳細な情報である。多くの子供は保護者と共に受診するので、保護者からの聞き取りが最も重要な情報源になる。保護者が問題の存在を理解できていなかったり納得していない場合、正確かつ詳しい情報が医師に伝わらない。その結果、正確な診断が難しいこともあるし、何も問題はないと説明されて帰ることも有り得る。焦って受診させたばかりに、却って問題の把握や対処が遅れることになりかねない。
 実は、教師が自分の指導戦略を練る上で、病院での診断の価値は極めて限られている。通常、なんらかの発達障害の診断を受ける子供たちは、複数の行動・認知上の特徴や、二次的に生じた様々な精神的問題を抱えていることが普通である。ところが、医師の下す診断は代表的な一つか二つの病型を指摘するだけのことが多い。一つか二つの診断名を知らされても、その子供に認められる様々な特徴や問題の一部が明確になるだけである。しかも、「発達障害理解の入り口:障害病型別に学ぶことは適切か」で述べたように、診断名に対して自動的に対処法が定まるわけではない。教師が病院の診断を自分の指導戦略に有効に生かしていくためには、病院で下される診断一つ一つの一般的意味を理解していないといけない。しかも、通常それだけでは非常に情報不足なので、結局は教師自身が子供の行動・認知特性をかなり把握しておく必要が有る。
 多くのものを失いながら無理に病院を受診させても、診断が不正確になる可能性が有る上に、診断を子供の指導に活かすことが難しい。生じている問題が大きいほど、まずは保護者と良好な関係を作り、子供を支えるチームの一員となってもらうべきである。そして子供のより良い生活を一緒に模索する中で、一つの有効かもしれない道具として病院受診を提案するのが良い。

2)教師が(自分が)成し得てきたことを確認する

どんなに困り果てた状況が生じていても、子供に対して有効な指導が一切できていない教師はほとんどいない。他の教師や保護者にも協力してもらいながら日常の指導場面を検証すれば、どんなに手強い生徒に対しても、多少なりとも成果をあげる指導をしている場面をいくつも確認できるはずである。これこそがその教師の能力であり、強みである。子供を指導するときには子供が出来ていないことよりも出来ていることに注目する方が上手くいく。0から何かを生み出すよりも、すでにあるものをより良く伸ばしていく方が可能性が高いからである。このことは教師自身にも当てはまる。自分が成し得てきたことを自覚し、それをテコに作戦を考えていく方が、何の当てもなくただ足掻くよりも成功率が高いはずである。

※最後に

 ここに書いたことはタイトルにあるように、発達障害理解の入り口である。職務として発達障害児を援助せねばならない人達は、この先際限なく勉強すべきだろう。診断概念ごとに特徴を解説した医学領域の文献はもちろん、応用行動分析や認知心理学、福祉制度やソーシャルワークの方法論、生徒指導や学級経営などの教育学で扱う題材など、役に立つ領域の文献は無数にあるだろう。ぜひ頑張って勉強していただきたい。その際、目の前の子供への援助にどう組み込めるかという、問題解決志向で勉強していただきたい。

2015年3月12日木曜日

発達障害理解の入り口:障害病型別に学ぶことは適切か

 最近、教師が発達障害を理解するためにはどういう勉強をすべきなのだろうとよく考える。「教師」と書いたが、保育士やソーシャルワーカーなど、職業的に発達障害児の日常的な支援に携わる人たちを広く含む。
 発達障害のことを勉強するためにはまず、自閉症スペクトラム障害(広汎性発達障害)、注意欠如・多動症、限局性学習症(学習障害)を始めとして、関連する障害の一つ一つを教科書的に勉強するのが正攻法であろう。しかし、こういう正攻法で現実的な対応に生かせるレベルまで勉強することは結構な時間と努力を要する。発達障害児の親であれば自分の子供に関連のあるものに絞って勉強すれば良い。しかし、教師や保育士など職業的に発達障害児支援の中心となる人達は、様々なタイプの子どもたちに対応することが求められる。だからといって、膨大な領域に渡る事柄を理解し習得することは極めて難しいことではないかと思う。
 別に教師は発達障害の特別な勉強をする必要はないと言うつもりはない。大いに勉強すべきである。それどころか僕は、教師は発達障害に属する各病型の診断ができる力を身につけた方が良いとさえ考えている(ここに書いた)。発達障害の診断過程は子供の行動の評価尺度として利用できると考えているからである。診断できる様になって欲しいというからには当然、相当勉強しても罰は当たらないと思っている。だが、理想的にはそうあって欲しいと考えているが、現実を見たときには諦めの境地に至ることが多い。おそらく教師は忙しすぎる。日々の業務に追い回され、発達障害について十分に勉強する余裕などなさそうである。
 もちろん教師は真面目な人が多く、少なからぬ人たちが努力して様々な本を読んだり講演を聞いたり研修を受けたりしている。しかし、中途半端に個々の障害病型について勉強するため、断片的な知識の寄せ集めになりがちではないかと感じている。今、目の前にいる子供についての理解を深めるということに繋がりにくいようなのである。あくまで印象論にしか過ぎないのだが、なまじ自閉症やADHDといった個別のカテゴリーの存在を意識することが、却って実践的な発達障害の理解を妨げているのではないかと、最近は考えることが多い。多くの人は、子供が特定の障害病型に当てはまるのか否か、黒か白か、ということにこだわりすぎるのである。しかも、診断名が明らかになると対処法が明確になると強く期待しすぎているように思う。
 特定の診断カテゴリーに当てはまるかどうかの線引きは結構曖昧である。世の中は、ごくごく平均的な子供集団と典型的な発達障害に綺麗に別れるわけではない。発達障害は程度の問題なのである。極めて特徴的な典型例では判断に悩むことは少ないが、程度が軽くなってくると診断すべきかどうか決めることは難しい。比較的似たような特徴を持った子供の一方がADHDなり自閉症なりに診断され、一方が特定の診断はできないと判断されることはざらである。受診した医師が違っていれば結論は異なりやすい。医師が同じであっても、日常に問題があると考えている人が情報を伝えるか、問題がないと考えている人が伝えるかによって最終判断は違ってくる。そういうときには病院で診断されたかどうかで現実に生じている問題や有効な対処・指導方法が変わってくるわけではない。
 さらにややこしいことに、診断名と対処・指導方法が1対1で自動的に決まるわけではない。発達障害の各病型の診断名は、本人の物事の捉え方や行動の仕方の特徴を示しているだけである。そういう特徴を持った子供が日常の生活環境の様々な条件と上手くマッチしない時に問題が発生する。しかも、一人の子供が診断名には反映されないプラスアルファの特徴や問題を複数伴っていることが多い。そういう複雑な要因と生活環境との相互作用の中で暮らし辛さが発生する。現実的な対応は一つ一つの具体的状況に応じて戦略を練る必要がある。つまり診断名は、個々の具体的状況ごとに対応の方向性を決める際の、重要ではあるが一つの情報にしか過ぎない。
 発達障害は、病型が何であれ本人の認知・行動特性と環境との相互作用で具体的問題が生じる。このことを認識しておけば、必ずしも個々の病型についての詳細な知識がなくてもなんらかの支援を開始することが可能だと思う。必要に迫られて発達障害の勉強を始めた人が、個々の病型の詳細な特徴を学ぶことから始めていたら、時間がいくらあっても足りない。すぐにでも何らかの支援を実行できるようにするためには、個々の病型について学ぶよりも先に抑えておくべきことがあるのではないかと思う。それは、「知識を得ること」ではなく、「考え方を学ぶ」ことである。発達障害理解の入り口として個々の障害病型を勉強するよりも先に理解しておくべきと僕が考えることは以下の通りである。長くなるので、詳細は稿を改めて説明する。一つ大きな特徴を指摘すると、具体的支援方法には言及していない。支援方法を知ることよりも、子供を理解できるようになることの方が優先順位が高いと考えているからである。

1.大前提
1)発達障害は認知・行動特性と環境のミスマッチであり、その種類は一つではない
2)問題を認める
3)本人の性格に原因を求めたり、倫理的問題にしない

2.対策よりも評価・分析
1)状況を具体的に認識する
2)日常全般から本人要因を推定する
3)本人要因を前提に環境との不整合を考える

3.その他
1)病院は重要だが、受診を焦らない
2)教師が(自分が)成し得てきたことを確認する

2015年3月6日金曜日

即戦力

最近、大学教育改革に絡んで即戦力という言葉をよく聞く。これに関して思うところがあり、文章としてまとめようと思った。しかし、3年前に既につぶやいており、その後たいして進歩していないので、その時のツイをまとめておく。

2012年02月06日(月)

1)最近「即戦力」という言葉に不快感を感じる。妙に「即戦力」を求める企業が目につく。そう都合よく即戦力は手に入らんだろう。しかし、企業はまあ良い。大学や短期大学が自分たちの売りとして「即戦力を育てる」などとたわけたことをぬかしているのを見ることがしばしばあり、腹が立つ。

2)僕が病院で診療をしていたときのことを考えると、本人のもともと持っていた能力が高く、きっちりとしたトレーニングを受け、臨床での実戦経験も豊富な医師が同僚として赴任して来たら、「即戦力」と表現して喜んだろう。つまり、「即戦力」は「有能な医師」とほぼ同義である。

3)当然、「有能な医師」は短期間では養成できない。6年間の大学教育だけでは到底足りない。「有能な人」を育てるためには時間がかかるのは医師だけなのか?そんなはずは無い。多くの職域で優れた人となるためには本人の努力はもちろん、適切な育成環境と、長い時間が必要なはずだ。

4)「即戦力」を求める企業はどういうつもりだろう。長いトレーニングを受けたベテランしか採用しないよ、という意味だろうか。もし、大学卒業したての人間に即戦力たるを求めているのであれば、その程度のレベルの低い仕事しかしてないんだよ、と喧伝しているのだろうか。

5)非常に高度な能力を要する職場が「即戦力」として大学新卒を雇用しているのであれば、短期間使い回して早々に捨て去ることができる要員を求めているとしか思えない。しかし、企業が「即戦力」を求めるのは良い。それぞれが、それぞれの経営方針により採用計画を立てれば良い。

6)しかし、大学や短大自ら即戦力となる人材の育成を標榜しているのを見ると悲しくなる。「うちは単純作業ならすぐに取り組めるし、単純作業しかできない、使い捨て用の人材を育成してますよ。」と公言しているようなものだ。高等教育機関なら長期的に成長していく人物を育てるべきではないか。

2013年01月03日(木)

何故教師や保育士を大学で養成するのか。手遊びを覚えるだけなら専門学校で良い。手遊びが子供を惹きつける機構や発達段階との関係を探求することで、手遊びが有効でない時にどう解決するのかを考え出せるかもしれない。高等教育は問題を設定し解決する力を育てることだと思う。即戦力養成ではない。

2015年2月18日水曜日

やせ我慢

MMRワクチンが一時自閉症の原因ではないかと騒がれた。1998年にLancetに掲載された、MMRワクチン後に自閉症になった子供について報告したWakefieldの論文がきっかけである。その後、MMRワクチンと自閉症の関係を否定する多くの研究が発表され、MMRワクチンは自閉症の原因ではないとする意見が大勢になってきた。そして、そもそものWakefieldの論文が捏造であったことが判明し、Lancetは2010年に彼の論文を抹消した(詳しくはここここを参考に)。インチキ論文が完全に否定されるまでに10年余りが経過したわけである。この間、MMRワクチンの接種率が低下し、多くの子供が風疹や麻疹感染症の犠牲になった。一人の人が引き起こしたデマ騒ぎを収束させるのには、随分時間と犠牲者が必要だったことになる。
 WakefieldはLancetに論文を投稿したので、それなりに手間暇はかけている。しかし、世の中を見渡せば、ワクチンや放射線に関する根拠のない言説や、ホメオパシー、EM菌などの怪しげな代替医療を勧める発言が日々量産されている。間違った主張であればさっさと否定すれば良いではないかと考える人もいるかもしれないが、たった一つの何らかの非科学的な主張の誤りを否定することは膨大な労力を要する。それは、非科学的な主張に対して多くの人が納得できる反論を展開するためには科学的であらねばならないからである。サイモン・シンとエツァート・エルンストによる「代替医療解剖」という有名な本がある。ホメオパシーなどの代替医療を科学的に検証した本である。この本で取り上げられた代替医療について、ほとんどは効果がないと彼らは結論付けている。ただ、たったそれだけの結論に至るまでには、一つ一つの代替医療について膨大な科学的検証研究の報告にあたり、その内容を吟味している。物事に、科学的に誠実な批判を加えようとすると、うんざりするくらいの手間暇がかかるのである。
 話は変わるが、ここ数年くらい日本でもヘイトスピーチに関する議論をよく耳にする。幸いなことに僕が暮らしている環境においてはひどいヘイトスピーチを直接耳にすることはないのだが、伝え聞く東京や大阪の事例は気分が悪くなるような代物である。自分たちが感情的に反感を持つ相手に対して、「日本から出て行け」では飽き足らず、「死ね」とまで言っている。しかも、朝鮮学校に向けてこういったスピーチを行い、可哀想な子供たちを怯えさせたりもしている。何とも胸がざわつく話である。ざわつくなんてものではない。不快極まりないし強い怒りを覚える。このような無法が許されるべきではない。ヘイトスピーチを行う者には厳罰を与えるべきである。即刻逮捕すべく法律を作るべきである。こういうことをする奴らは日本の恥であるからして、国外へ追放しても良いのではないか。いっそ、殺してしまえば世の中が平和になるに違いない!
 と、話を進める訳にはいかないのである。当然のことである。何故なら、これではヘイトスピーチを行っている人たちと全く同じメンタリティに陥っているからである。感情的に憎悪し、問答無用で否定し、罵り、相手の存在さえ否定しようとしている。自分が否定したかったヘイトスピーチと同じ構造である。ヘイトスピーチを間違いだと糾弾するためには、ヘイトスピーチを悪と言えるだけの情緒に偏らない倫理観や価値観を持たねばならない。ヘイトスピーチに対抗するためには、ヘイトスピーチをする人々と同じ間違いを犯すわけにはいかない。多くの人を納得させるだけの理屈が必要である。こちらが差別的になってはいけないし、向こうと同列に不確かな根拠や歪曲した理屈をもとに言い募ってはいけないし、言論の自由とのバランスをどう取るのかも考えなければいけない。そもそも何を持ってヘイトスピーチとみなすのか、ということも根本的な問題である。なかなか面倒な作業である。薄弱な根拠や思い込みで好き放題に振舞っている相手に伍していくのは並大抵のことではない。
 非科学的な言説を科学的に批判することも、非倫理的な主張を倫理的に批判することも、そのコストは膨大なものになる。人間が長い歴史の中で積み上げてきたものは、自然に任せて堆積した訳ではなかろう。大して得にもならないのに、コツコツと労力を捧げてきた多くの人達によって守られたからこその結果ではないかと思う。記憶に新しいところでは、STAP細胞事件でも、誰に命ぜられたわけでもない多くの研究者が、STAP細胞の嘘を暴き、理研の問題を明らかにしてきた。結局、文化や文明は多くの人々のやせ我慢で守られてきたのだと思う。
 こういったことをつらつらと考えているうちに、忘れてはいけない非常に大事なことがあることに気づいた。人間はやせ我慢だけでは生きていけないということである。現実世界で生きていくために必要な諸々がある。程度は様々であっても、余裕がない人にはやせ我慢はできない。やせ我慢をしてコツコツと理念、倫理、論理、価値観といったものを守るために努力する人ができるだけ多く存在するためには、少しでも多くの人が余裕のある生活ができる社会であることが非常に大事である。多くの人が切羽詰まるような状態では犠牲を払ってでも文化を守ろうとする人は著しく減少するだろう。戦争はその典型だが、戦争にならぬまでも貧しい人が増える社会も危険だと思う。そう考えると、「お金以外に大事なものがある」とむやみに経済を軽視する発言をしたがる人には不信感を持ってしまう。

2015年2月5日木曜日

「さっさと結論を言え!」、あるいは三森ゆりかさんの著書のこと

学生「ちょっといいですか?」
僕「どうぞ。」
学生「前回の障害児保育の授業ですが、」
僕「はい」
学生「前日から熱が出て、」
僕「はい。」
学生「その日の朝になっても熱が下がらなかったんです。」
僕「そうですか。」
学生「それで病院を受診して、講義に出ることができませんでした。」
僕「なるほど。」
学生「それで、出られなかった日の講義時間にプリントが配布されたと聞いたのですが、、、」
僕「配ったかもしれませんね。」
学生「えっと、僕は出席できなかったので、そのプリントをもらえなかったのです。」
僕「要するに、前回の講義で配布したプリントを下さいと言いに来たの?」
学生「はい。」
僕「最初から言えば、一言で済むじゃない。」
学生「・・・・・」

製薬会社の人「この薬の水薬について、お伺いしたいのですが。」
僕「はい。」
製薬「水薬は大分使っていただけましたか?」
僕「いいえ、一人か二人です。」
製薬「水薬を使われての印象は何かありますか?」
僕「印象と言われても、一人か二人にしか使ってませんから。」
製薬「カプセルと水薬で、効果の違いについての印象が何かありますか?」
僕「え、水薬とカプセルで効果が違うのですか?」
製薬「お使いいただいている先生方に色々伺うと、」
僕「効果が違うという客観的データがあるのですね」
製薬「いえ、客観的データはありません。」
僕「では、水薬とカプセルの効果の比較云々と言ってもしょうがないですね。」
製薬「水薬の方が体重に合わせて微調整が可能だということでして。」
僕「それはそうでしょうね。で、微調整をすることで有効率が上昇するのですか?」
製薬「いえ、有効率が上がるというデータはありません。」
僕「結局、何を仰りたいのですか?」
製薬「・・・・」

 日常的によく遭遇するエピソードのサンプルを書き出してみた。両者を通じて一番目につくのは僕の傲慢さや性格の意地悪さだが、それは横へ置いておく。いずれも相手が何を僕に伝えたいのかなかなか分からないのである。前者は一言で済む結論を先延ばしにして、前置きばかり述べるため、相手の意図を了解するのにえらく手間暇がかかる例である。後者に至っては、結局何を伝えたいのかよく分からなかった。ひょっとすると、水薬の方が有効性が高いという現場の医師の印象論を伝えたかったのかもしれないが、それならそれで「客観的データで証明されたわけではないが」と断った上で、そういう意見をここかしこで聞いていると述べればよい。
 「主張したい結論を明確に述べてくれ」ということだ。人に何かを語るとき、特にそれが事務的な要件であったり学術的・技術的な内容であったりする場合は、自分が何を伝えようとしているのかを予め明確にしないといけない。また、それをどうやったら相手に分かりやすく伝えられるかを考えなければいけない。そうでなければ相手の貴重な時間を無駄に潰すことになる。
 最近、相手によく伝わる表現を考えるときに大変参考になる本を見つけた。三森ゆりかさんの「大学生・社会人のための言語技術トレーニング」(大修館書店)である。「言語技術」と銘打っており、会話表現に限った話だけが書かれているわけではない。しかし、具体的なスキルの解説は「対話」から始まる。三森さんは、対話は下記のように一定の形式に則った主張や説明をする必要があると述べる。
   1)意見の主張
   2)根拠(意見の背景にある理由・そこに至った原因など)
   3)意見の再主張
つまり、結論を最初に述べるということである。自分が述べようとする意見の核心をまず述べた上で、その理由や背景、あるいは具体例などを述べるのである。最後に、改めて論旨を短くまとめる。
 最初に結論を述べなければいけないということについて、僕は全くもってその通りだと思う。特に、実務的な、あるいは技術的な議論をするときには必須である。と書けば、まるで僕がこのやり方を、ずっと昔から一貫して実践しているように読めるかもしれないが、そうではない。それどころか、本来はくどくどと前置きを並べることが僕の話し方の特徴といってもよかった。ところが、僕が医師になったときのボスは「結論をまず述べなさい。」ということに非常にこだわる人であった。僕がくどくどと回りくどい話し方を始めると、直ちにきつい指導が入るのであった。
 今でも油断すると前置きから話し始めることも多いが、それでも昔に比べると随分改善したのではないかと思う。口頭での説明だけではなく、文章の書き方についても件のボスや、多くの先輩に繰り返し書き直しをさせられることによって、多少はましになった。この経験から、物事の表現法は練習によって改善するという確信を持つようになった。逆に言えば、世の中に説明が下手な人が溢れているのは、小学校、中学校、あるいは高等学校でそういうトレーニングがなされていないのではないかと疑っている。実際、僕自身を振り返っても、学校で対話のトレーニングを受けた記憶はない。大人になってからであってもトレーニングされる機会に巡り会えたことは運が良かった。
 他にも三森さんは対話における留意点をあげている。曰く、主語を明確にする、5W1Hを明確に提示する、単語で話さない(きちんと文章にする)、「わからない・別に・ビミョー・なんとなく」といった用語は使わない。どれもこれも非常に重要である。さらには、対話から発展して、物語の構造、説明の仕方、報告や記録の書き方、クリカルリーディング、作文技術などについて順次丁寧かつ具体的に解説をしてくれている。そのカバーする範囲は決して技術的な分野だけではなく、文学や美術を目指す人にとっても参考になると思う。タイトルには「大学生・社会人のための」と書かれているが、この本の内容を小・中・高等学校でみっちり教えるようになれば、日本の言論環境も変わっていくのではないかなと思う。

2015年1月18日日曜日

診断を求める教師、求めない教師

自閉症スペクトラム障害や注意欠如・多動症など発達障害のある子供達の診療をしていると、直接的、間接的に子供達を指導している教師の考え方を知る機会が多い。ここでは教師が発達障害の診断を必要と考えるか否かについて、僕が日頃考えていることを述べてみる。
 単純に考えれば、この観点で教師を2つに分けることができる。「診断が必要と考える教師」と「診断は必要ではないと考える教師」である。後者であっても、特別支援学級に籍を移すなど行政的処置をする際には診断書が必要になるので、細かく言えば状況によって話が違う面もあるが、まあ、基本的スタンスとして、という話である。
 教師を別の観点で分けることも考えてみよう。それは「優秀な教師」と「出来の悪い教師」である。何を持って教師として優秀で、どのような教師であれば出来が悪いとするか、は結構難しい問題のはずである。ましてや、一介の医師が特定の教師を捕まえて優秀かどうかの判断をするというのも出過ぎた真似だろう。逆の立場で、教師に医師として優秀か否かなどという評価をされることを考えると、僕自身面白くない。しかし、ここは敢えて分けてしまう。発達障害児を診療する医師の立場で分かる情報を元に考えるのである。非常に大雑把な判断であるが、子供が張り切って登校し、学校で楽しめ、勉強にも取り組めているとき、その担任は出来が良いと考える。さらに、親が教師とうまくコミュニケーションを取れており、子供の学校での状況をよく把握していることも、教師の出来の良さの条件と考える。
 以上2つの要因で分類すると、理論的には4種類の教師が存在することになる。それは、「診断が必要と考える優秀な教師」、「診断が必要と考える出来の悪い教師」、「診断が必要ないと考える優秀な教師」、「診断が必要ないと考える出来の悪い教師」の4種類である。そういった教師が存在するのか、順番に考えてみよう。客観的根拠などはない。あくまで僕の主観である。
 まず、「診断が必要と考える優秀な教師」は明らかに存在する。積極的に診断結果を親に尋ねたり、医療機関から情報を取得し、直ちに学校での対応に何らかの工夫を凝らしていくような人である。こういう人は、普段からこの問題について積極的に勉強している人が多いように感じられる。
 次に、「診断が必要と考える出来の悪い教師」であるが、これも明らかに存在するし、結構多いと思う。典型的な例を記すと、学校で何度か問題が生じて困ると、生徒の親に拝み倒してでも、あるいは脅しに近い要求で、病院を受診させる。とにかく診断してもらってくれと強く主張するのである。あっけにとられながらも親は子供を連れて病院を受診する。そこでなんらかの診断が下りたら問題解決かといえば、事態は一向に変わらず、問題は起こり続ける。教師が取った対策があるとすればせいぜい加配を要求するなどのなんらかの制度利用どまりであったりする。ちなみにこういう教師は、診断にこだわる割に「発達障害」、「広汎性発達障害」、「自閉症」、「ADHD」、「学習障害」といった用語を明確に区別していないように見える。
 「診断が必要ないと考える出来の悪い教師」も確かに存在するし、最も質が悪い。こういう人は高らかに宣言する。「私は子供にレッテルを張るようなことをしない。子供によって対応の仕方を変えたりはしない。」結果的に、子供が困っている事実や苦しんでいる現状を直視せず、どんどん追い詰めていくタイプである。
 問題は、「診断が必要ないと考える優秀な教師」である。果たしてこのような教師は存在するのか。僕は存在すると考えている。こういうケースが僕のような診療をする医師の眼に触れる機会は少ないはずだ。なぜなら、子供が学校生活を楽しめており、保護者も満足感を持っており、なおかつ教師が受診を勧めないのだから、わざわざ病院には来ない可能性が高い。ただ、僕の診察室を訪れる子供の中には、前の学年では非常に暮らし辛い状況に陥っていたのだが、担任が変わった途端に実に良好に学校生活に適応し出すということがしばしばある。そういう事例の中で、上手に指導してくれている(つまり優秀な)教師が診断には全く頓着していないということが稀にあるのだ。
 してみると、「診断が必要と考える優秀な教師」も「診断が必要と考える出来の悪い教師」も「診断が必要ないと考える優秀な教師」も「診断が必要ないと考える出来の悪い教師」も、全て存在するということになる。診断が必要と考えるか否かという要因と教師の優秀さという要因の間にはあまり相関がないという結論になりそうである。結局、教育にとって発達障害の診断などというものは意味がないのだろうか。
 結論を急ぐ前に、もう一度「診断が必要ないと考える優秀な教師」について考えてみたい。こういう教師はなぜ、発達障害児の指導に成功しているのだろうか。相手を選ばない万能の教育指導法を会得しているからだろうか。どんな能力、どんな学力、どんな行動特性あるいはどんな認知特性を持っている子供に対しても通用する万能指導法を駆使しているのだろうか。その様なことは俄かには信じがたい。集中力が極端に悪い子供に、人の意図を読むことが極端に劣る子供に、文脈や状況を考慮することが極めて不十分な子供に、文字の読み書きが著しく下手な子供に、ごくごく平均的な子供たちと同じ指導をして上手くいくはずがない。定型発達児と比較して色々極端にずれたところのある子供を上手く指導するためには、その子供の特徴を十分認識し、それを元に合理的に対応することが必須のはずである。恐らくこういう教師は診断を必要とは考えていなくても、個々の子供の特徴を評価するということが(意識的か否かはさておき)きちんとできているのではないだろうか。そして、それに基づいて個々の子供に合わせた指導の工夫が(意識的か否かはさておき)できているのではないか。
 「診断が必要と考える優秀な教師」についても考え直す必要がある。かれらは病院で下された診断名のみを頼りに発達障害児の指導に成功しているのだろうか。恐らくそうではないと思う。なぜなら、病院で下される診断はその子供の限られた側面を表しているに過ぎないからだ。同じ自閉症スペクトラム障害と診断された子供でも、子供ごとに行動特性、認知特性、あるいは知能など多岐に渡る。一つか二つのラベル的な診断名を知っただけでは子供を十分に理解することは不可能である。恐らくこういう教師も、病院に受診する前から個々の子供の特性を多面的に評価できているのではないかと思う。こういう教師は、自ら子供を評価分析する中で、診断名も評価の精度を上げるための一情報として取得しているのではないだろうか。
 このように考えると、「診断が必要ないと考える優秀な教師」は子供を評価するということにあまり自覚的ではなく、センスの良さに頼って指導をするタイプかもしれない。それに対して、「診断が必要と考える優秀な教師」は子供に関する情報を意識的に収集するタイプのように思える。教師としての力量は一概にどちらが上とも言えず、個人個人の差ということになるだろう。しかし、教師としてのスキルを同僚や後輩に伝達することができるのは、後者ではないかと思う。
 僕は発達障害の診断は、子どもの行動の評価尺度として役に立つと考えている。診断を行動の評価尺度として扱うということは、自閉症なのか違うのか、ADHDに該当するか否か、ということとは別の次元の考え方である。それぞれの病型の構成概念ごとに(ADHDであれば不注意の要素と多動性ー衝動性の要素)、どの程度対象となる子どもの行動の中に見られるか、ということを評価するのである。発達障害の診断概念をこのように利用することで、子供の行動を整理しやすくなる。だから、教師には診断を十分に利用して欲しいし、そのためには教師自身が診断できるようになることが良いと考えている(このことは既に書いた)。そういう意味で、教育において発達障害の診断は有用だと考えている。その一方で、病院で下される診断名にひどくこだわることに如何程の意義があるのか、少々懐疑的でもある。