2015年8月29日土曜日

アクティブで感動的、そして空虚

最近ある大学でアクティブラーニングの実践例という講義を見学する機会があった。参加者の緊張を取る軽いゲーム(アイスブレーク)で始まり、グループ討議、グループごとのプレゼンテーションと進行する、今流行りの形式を踏襲していた。15コマの講義の最終日にあたるらしく、教師も学生も前期の総決算という意気込みで取り組んでいた。全グループのプレゼンテーションが終了したらその講義も終わりだ。最後に一言ずつ学生がコメントしていたが、人前で話すのが苦手だったが自分の意見を言えるようになったと感動しながら述べる学生が何人かいた。参観者からも学生の能動性を引き出したことに感心したという賞賛のコメントが多く寄せられていた。それらの発言を聞きながら、僕は困り果てていた。僕には大学の講義として考える限り、賞賛に値するとは思えなかったからである。
 確かに学生達のプレゼンテーションは要領よくまとまっていた。しかし、どの発表を聞いても「学」が全くないのだ。どのグループがまとめた内容も、そのアイデアや主張には根拠となる理論的枠組みや方法論がなく、ほぼ100%自分達の頭の中で考えた思いつきだけで成立していた。5、6グループの中で唯一自説の裏付けとなる他者が著したデータをプレゼンテーションに含めていたグループがあったが、これも明らかに怪しいデータを引用しており(なおかつ情報源を明示していない)、情報源の確かさを検証することや引用元を明記することが教えられていないようであった。15コマを費やした講義の成果と呼ぶにはあまりにも空虚な発表ばかりである。
 昨今大学教育においてアクティブラーニングが話題になることが多い。アクティブラーニングは「学修者の能動的な学修への参加を取り入れた教授・学習法の総称」である。教える内容があってこその教授・学習法である。 アクティブラーニングそのものに意味がある訳ではない。高等教育機関であれば、それに相応しい学問を学修する手段としなければ価値がない。単なる思いつきをまとめれば良いのなら、小学生でもできる。人前で自分の意見を表明できるようになったことにだけ意味を見出すなど、怪しげな自己啓発セミナーと変わらない。
 方法論は学問の重要な要素である。自由な発想といえば素晴らしいことの様に言う人が多いが、人間は本当に自由にされた時には碌な思考力を発揮できない。方法論という不自由な枠組みを構築することによって、人は様々な領域へ思索を深めることが可能となったと思う。きっちりと学問を修得させること、それを基盤として自らの考えを構築させること、こういったことにアクティブラーニングを用いてこその高等教育ではないかと思う。枠に嵌めるということに関して、国際日本文化研究センター助教授の渡辺雅子さんが興味深いことを述べている

「子どもたちが授業で実際に書いた作文を日米で比較してみると、興味深いことが分かります。日本の教師は、意識する、しないにかかわらず、結果的に『綴り方』の伝統に則って、『自由に、思ったままを書けばいいんだよ』と励まして子どもに作文を書かせます。しかし、でき上がった作文は、どれも驚くほど似通っています。その一方で、一見自由な印象を受けるアメリカの小学校では、実は厳しい文章の『型』の訓練と、技術的指導や添削が行われます。その結果として生み出されるのは、各自が書く目的に応じて様式を選び、そこに個別の意見が主張され、ときにはさまざまな様式を組み合わせる多様な作文です。」

 これは高等教育において学問を教えるということに通じる話ではないかと思う。