2021年7月22日木曜日

面白いが一番やで

  発達障害を伴う子供には一番病とでも呼べば良さそうな特徴が見られることが多い。一番になることや勝つことにこだわり、一番でないと嫌だ、勝てなければ意味がない、失敗すれば全てがおじゃん、と考えがちな傾向だ。
 なぜこのような現象が生じるのか分からない。僕の勝手な想像だが、多少なりとも人目や社会的評価を気にし出した子供たちが日頃身の回りで人々が口にしやすい評価だけで表面的な価値観を形成してしまったのではないかと思う。これを和らげるためには一番になれないこと、負けること、失敗することの中にある価値を伝えることが重要なのではないかと思っている。負けることや失敗することで次の良い結果を積み増すことができるし、負けた人や失敗した人が必ずしも人から見下されないこと、それどころか振る舞い方によっては尊敬さえされることを説明する必要があるのではないかと思う。
 ただ、我々の社会が忘れかけているもっと重要な価値があるのではないかという気がする。それは面白いと思うことにのめり込むことの尊さだ。人は面白いことには結果を気にすることなくのめり込むことができるのである。本来、発達障害、特に自閉症を伴う子供たちは勝ち負けや一番かどうかに全く関係のないことに没頭する達人が多い。世間が「好きなことを思いっきりできる人は格好良いよ」というサインをもっとしっかり出していれば一番病なんかにならなかったかもしれないなあと思ったりもする。まあ、好きなことばかりして生きていけるもんか。必要なことはきっちり身に付けさせないといけないと主張する人も多いだろう。
 少し話が変わる。自閉症幼児の療育についての先端的な研究者の考え方はこの2、30年で大きく変わってきた印象がある。僕は療育に関してはあまり詳しくないので頓珍漢なことを言うかもしれないけれど、最近の早期療育でとても重視されることは動機付けである。本人が興味を持つ、したいと思う、好きになるということをとても重視しているのである。身に付けて欲しいことを嫌でも身に付けさせるにはどうするかではなく、まずは身に付けて欲しいことや取り組んで欲しいことに興味を持たせ本人がしたいと思わせることが先決だと考える様になっているのだ。
 考えてみればこういうことは別に自閉症に限った話ではなく昔から多くの人が大事だと経験的に認識してきたことだ。「好きこそ物の上手なれ」というではないか。一周回って戻ってきた様な感じもする。身につけるべきことは身につけるべきである。取り組むべきことは取り組むべきである。世間ではこういう考え方の何と強いことか。本当は、何かを身に付けさせたい取り組ませたいと考える指導者はまずどうすれば本人がそのことに興味を持ちそれをしたくなるのかを考えないといけないのである。
 歯を食いしばって頑張れ!などというよりも面白いことに打ち込めば良いんだよというメッセージが社会に満ち溢れると良いなと思う。スポーツ選手には「人々に勇気を与える」とか「子供たちに笑顔を届けたい」てなことではなく、「僕はこれが面白くて楽しくて好きやねん。だからやってきたんや」てなことを言って欲しい。

2021年7月18日日曜日

便利な概念

 色々な人が色々な場面で発達障害という言葉を口にすることがやたらと増えて気になる。発達障害は具体的な特徴としての定義が不明確な曖昧な言葉だ。だから発達障害という言葉で人の具体的な特徴を表現できるわけではないし発達障害と説明されて具体的な理解を得ることもできない。
 人々が発達障害という言葉を使いたくなる気持ちは分からなくはない。発達障害に含まれる診断概念は多数含まれるのだが、それぞれが分かりにくい。しかも同じ人が複数の診断に該当することが多い。発達障害と言ってしまえば何でも説明できそうで便利だ。
 発達障害とHSPは似ているなあ。非常に様々な意味を内包し、平均的な社会では暮らしにくさや生きづらさを感じる人々を一つのカテゴリーにまとめることができる。厳密な定義はないので、何か一つ二つ当てはまる特徴があればどんな人でも全て一語で括ることができる。
 名前が付くと人は安心できる。目前の現象を説明できそうな名前があれば、それに飛びつきたくなる気持ちは分からなくもない。しかし、厳密さを欠く名前で分類することでどんなメリットがあるのだろう。せいぜいその人は困っているというサインになるだけではないかな。
 自閉スペクトラム症やADHDという具体的診断名でさえ結構漠然とした概念で支援に直結しない。支援に慣れない人は診断というモデルをその人の困っていることや苦しんでいることを理解するための拠り所にしていると思うが、おそらく支援の達人は診断名には頼っていない。
 その人の行動の具体的特徴や困っている具体的な状況を観察し、それをもとに有効な支援方法を計画しているのではないかな。医療が必要な状況でも、精神や行動の問題に関してスキルの高い医師はそれほど診断名にとらわれていないのではないかと思う。
 人をカテゴリーに分類するよりも、人それぞれの特徴や困っていることを率直に受け入れ認められるような社会が理想なんだろうけど、理解や気づきを助ける働きがカテゴリーにはあるからなあ。カテゴリーを利用しつつもカテゴリーに囚われない人間理解の構築。難しいところだ。