2017年12月7日木曜日

リーディング・スキル・テスト

 先日、同僚の国語教育学者と雑談した折に、新井紀子さんが開発したリーディング・スキル・テスト[1]のことを話題にした。新井さんは、AIである東ロボくんに東大の受験問題を解かせるプロジェクトを進める中でAIの学習能力には限界があるという結論を得た。AIは「『意味は考えていなくて、正しさは保証しないけど、結構正しい』判断をする」のだが「過去に学習していない問題やパターンに突き当たると、解答できないのだ[2]」。しかし、東大に合格こそできないものの、東ロボくんの偏差値よりも成績の悪い高校生は多い。限界のあるAIにも叶わない高校生も多くいるということに疑問を感じた新井さんは、現実の子供達の学力に興味を持ちリーディング・スキル・テストを開発し、日本の子供達の読解力の現状を解析したのである。このテストでは、初めて見た文章の意味を素早く理解する力を調べることが目的[3]であり、主語や目的語を判別できるか、指示語を正しく理解できるかなどの短文レベルでの文章理解力の評価を行なっている(具体的な問題例は[4]を、リーディング・スキル・テストが測定する読解力に関しては[5]を参照のこと)。
 最近、基礎学力の低い大学生の存在が問題になり、本来高等学校までに習得するはずの教科内容を学生に解説する努力をしている大学も多い。しかし、基本的な読解力がなければ基礎学力云々以前の問題になる。僕は、件の国語教育学者に新井さんのリーディング・スキル・テストの話をし、大学生の基礎学力を問題視する前にリーディング・スキル・テストで評価した方が良いのではなかろうかと持ちかけたのである。ところが彼はどこか冷めた雰囲気で「読解力といっても、難しいところがあるんですよ。まず教育学者の間でも学力観をどう捉えるかということが結構違っていて、」という返答が返ってきた。いやいや、学力観って言われても僕もよく知らないが、かなり抽象的レベルの概念だということは分かる。学力を読み書き計算技能をひたすら身に付けることと考えるか、問題解決能力を身につけることとするか、関心・意欲・態度を重視するのか、生きる力とみなすのか、人によって主張するところは違うのだろうし、そのあたりの議論に関心はない。しかし、学力をどう定義しようが、現代社会において身につけるべき学力に識字能力が不必要なはずはない。短文レベルの読解ができなくては話にならないだろうし、学力観以前の問題だと思うのだが、どうも噛み合わない。
 いったい彼と僕の齟齬はどこから来たのか。思い当たることは、彼と僕の出自である。僕は技術屋さんとして育っている。もちろん営業面(臨床)での経験もいくらかは積んでいるが、物事の考え方、分析の仕方はあくまで技術屋のそれである。技術屋的な発想と真っ当な教育学の徒の発想の差があるのかもしれない。技術屋さんは見て聞いて触って確認した現に存在する具体的問題を取り上げ解決しようとする。もちろん遠い将来に達成しようとする目標を立てることはあるが、出発点は常に現実にそこにある問題の解決である。一方、教育業界の人はともすれば理念が先行するように見える(個人の感想です)。目指すものが抽象的な言葉になりやすい(個人の思い込みです)。だから学習の基本のキである短い文章の意味を正確に読み取れないという足下に迫った問題を語っている時に、「学力観」という抽象的な問題に話が広がってしまうのかしら。いや、あくまで個人の感想ですけどね。

[1] 湯浅誠「AI研究者が問う ロボットは文章を読めない では子どもたちは「読めて」いるのか?」https://news.yahoo.co.jp/byline/yuasamakoto/20161114-00064079/
[2] ReseMom「【NEE2017】シンギュラリティは来ない…東ロボくんの母・NIIセンター長 新井紀子教授」https://resemom.jp/article/2017/06/02/38461.html
[3] 毎日新聞「読解力:「子供は読めているのか」診断テストを開発」https://mainichi.jp/articles/20170923/k00/00m/040/106000c
[4]国立情報学研究所「リーディングスキルテストの実例と結果(平成27年度実施予備調査)」http://www.nii.ac.jp/userimg/press_20160726-2.pdf
[5]新井紀子「リーディングスキルテストで測る読解力とは」http://www.nii.ac.jp/userimg/press_20160726-1.pdf