2015年11月21日土曜日

教育に成果主義はそぐわない、で良いのか?ーー「学力の経済学」を読んで

 小児医療に携わると、特に発達障害を専門に診療していると、教員と知り合ったり、教員の仕事の様子を聞いたりすることが多い。そして率直に思うのだが、教員とは大変な仕事である。現実的な労働量も多いし、心理的な負担も多い。それにもかかわらず多くの教員は真面目に頑張っている。多くの教員が日々身をすり減らして努力しているのだから、その成果が最大限に発揮されるように教育政策を推進して欲しい。しかし現実を見ると、ありとあらゆる人が思い思いに教育を語り、それを受けて単なる思いつきかしらと疑うような教育政策の方向性が決められてきた。これに関連したことは、以前「教師の専門性」という文章にも書いたことがある。
 最近、教育経済学者の中室牧子さんが著した「学力の経済学」という本を読んだ。まさに日本では誰もが教育に関して一家言あり「一億総評論家状態」とも言える状況であるという話から始まるこの書籍は、非常にすっきりと筋の通った、しかし分かりやすく読める本であった。日本の教育政策に欠けているものに気づかせるだけではなく、日本社会全体に根深く存在する非合理的な考え方への批判にもなっている。読み捨てるにはもったいないので、本の要点や考えたことを書きとめることにした。
 まず、内容を簡単にまとめておく。本書は第1章から第5章、および補論からなっている。第1章で、この本全体を貫いている教育経済学での考え方を簡明に解説している。続く第2章から第5章まではそれぞれ、誰でもが答えを知りたい質問を主たるテーマに掲げ、今まで世界の教育研究ではどのようなことが明らかになってきたのかを解説している。

【第1章 他人の”成功体験”は我が子にも活かせるのか?】
 2001年にアメリカで成立した「落ちこぼれ防止法」には「科学的な根拠に基づく」というフレーズが111回用いられているそうだ。「科学的根拠」すなわちエビデンスは数字で示されるものである。科学的に因果関係を明らかにするためには、一人か二人の成功体験や「専門家」の主観的意見を参考にするのではなく、多数例について統計的に検証する必要がある。なぜそうなのかということを分かりやすく説明している。この本の第2章以降に記述される内容のほとんどは、実験や実験に近い状況で集めたデータをもとに、統計学的に確認されたエビデンスである。

【第2章 子どもを”ご褒美”で釣ってはいけないのか?】
 ご褒美を使うことを嫌う人が多いが、実はご褒美は効果的なのである。本を読む、宿題をする、学校に出席する、など勉強する個々の活動に対してご褒美を与えると学力が向上する。ただし、テストで良い点を取ればご褒美をあげる、というように勉強の結果にご褒美を用意しても学力は改善しない。ご褒美にお金を用いることにはさらに抵抗感を抱く人は多いと思う。しかし、ご褒美としてお金を与えられた子供はそうでない子供より堅実なお金の使い方をしていたことを示した研究も紹介されている。
 「褒めて育てろ」とは日本でもよく口にされるが、褒めることの効果はどうなのだろう。ご褒美とは反対に褒めることは良いことだと考える人は結構多いと思う。実は、「君はやればできる」という様な自尊心を高めるメッセージや「あなたは頭が良いのね」と、子供らの元々の能力を賞賛するメッセージを子供に与えるとむしろ成績が悪くなることが示されている。しかも、能力を褒められた子供は良い点が取れなかったときに成績について嘘をつく傾向が高く、「自分は才能がないからだ」と考える傾向が高い。ただし、褒めることはすべて悪いわけではない。「あなたはよく頑張ったわね」と努力を賞賛すると成績は上がりやすい。ご褒美にしろ褒め方にしろ、勉強する一つ一つの具体的過程を促していくことが重要ということなのだろう。応用行動分析を用いた指導法にも通じる話である。
 クラスメートからの影響についても述べられている。クラスの学力は個人の学力に影響する。クラスの平均点が上がればその影響で個人の学力も上がるのである。しかし、成績優秀者を多数編入すれば効果的かというと、そうではない。成績優秀者の影響はもともと成績の良い生徒に限られる。中間層や成績の悪い層には影響しない。それどころか成績の悪い層に悪影響を及ぼすこともある。つまり、同じ程度の学力の子供達がお互いに影響を及ぼす時は正の影響になりやすい。このことは習熟度別学級の効果をみた研究で確認された。習熟度別学級は全ての学力層の子供達において学力を向上させることが示されている。しかも、特にもともと学力の低い子供達において大きな学力の向上がみられる。ただし、学齢が低い段階で習熟度別学級を導入すると学力の格差が広がりやすいという指摘もある。
 一定額の教育投資をした時、子供の将来の収入がどれくらい高くなるかについても説明されている。教育の収益率である。年齢別にみた時に収益率が最も高いのは就学前であり、その後急速に低下する。就学前教育の効果の例としてして取り上げられている「ペリー幼稚園プログラム」について、少し詳しく記述しておこう。
 このプログラムでは、低所得のアフリカ系米国人の3~4歳の子供たちに質の高い就学前教育を提供し、その効果を40年間にわたり調査した。質の高い就学前教育のポイントは以下の通りである。
・幼稚園の先生は、修士号以上の学位を持つ児童心理学等の専門家に限定
・子供6人を先生一人が担当
・午前中に約2.5時間の読み書きや歌のレッスンを週に5日、2年間受講
・1週間につき1.5時間の家庭訪問
子供達に対して非常に濃厚な指導を行うだけではなく、家庭訪問によってどのように子供と遊ぶかなどのモデルを親に示し、家庭資源の乏しさにも対処していることが特徴である。このプログラムへの参加者を非参加者と比較した結果、6歳時点でのIQは高く、19歳時点での高校卒業率が高く、27歳時点での持ち家率が高く、40歳時点での所得が高く、40歳時点での逮捕率が低い。さらに、このプログラムをもとに推計された社会収益率は7~10%にのぼる。これは4歳の時に投資した100円が、65歳の時に6000円から3万円ほどになって社会に還元されることを示しているそうである。

【第3章 勉強は本当にそんなに大切なのか?】
 上記のペリー幼稚園プログラムでは、意外な事実も判明した。このプログラムの成果は必ずしも学力向上の結果ではないのだ。確かに小学校入学後のIQや学力テストの成績は上昇した。しかし、学力やIQへの効果は短期的であり、8歳頃には効果は明確ではなくなっている。ではなぜ学歴・年収・雇用が長期にわたり改善したのだろうか。ペリー幼稚園プログラムによって改善したのは「忍耐力がある」とか、「社会性がある」とか、「意欲的である」といった、人間の気質や性格的な特徴、すなわち非認知スキルと呼ばれるものであったことが判明している。大学生が大学をきちんと卒業できるかどうかについて調べた研究でも、入学時の学力自体よりも様々な非認知スキルが影響していることが示唆されている。
 著者は、過去の実験研究の結果を元に特に重要な非認知スキルとして自制心とやり抜く力をあげている。そして、日本でも中・高校生の時に培われた勤勉性、協調性、リーダーシップなどの非認知能力が学歴、雇用、年収に影響することが明らかにされている。

【第4章 ”少人数学級”には効果があるのか?】
 この章ではとりわけ著者の経済学者としての視野の広さが光る。まず、米国で1985年から89年にかけて行われた有名なスタープロジェクトの話から始まる。この実験では幼稚園・小学校の生徒約6500人を1学級当たり生徒数が13~17人の少人数学級と22~25人の学級に振り分け比較している。その結果、幼稚園から中学校2年性まで少人数学級の生徒のほうが学力が高く、その効果は貧困世帯の子供で特に大きかった。
 今の日本でも1学級の人数について財務省と文部科学省が角突き合わせているが、このスタープロジェクトの話を聞けば、「ほーら、やはり少人数学級がいいに決まっている。」と言いたくなる人は多いと思う。かくいう僕もそうである。しかし、著者は少人数学級の導入には慎重であるべきと主張する。なぜなら費用対効果が小さいからである。実は日本でも学級規模の学力への影響を客観的に検討した研究がある。その研究では、小学校の国語は学級規模が1人小さくなると偏差値が0.1上昇する効果が確認されたが、国語以外の教科や中学生には効果が認められなかった。スタープロジェクトのような大掛かりな研究ではないので、調査し直せば結果は変わるかもしれない。しかし、仮に少人数学級にいくばくかの効果があるとしても、非常にささやかなものである可能性が高い。わずかな効果を求めるために教員を大幅に増やすということを、財政赤字の日本で進めると非常に危険だというわけである。それよりも、はるかに効果が高い習熟度別学級を取り入れれば、人件費をさほど増やさずに明確な効果を上げることができる。

【第5章 ”いい先生”とはどんな先生なのか?】
 教員の質をどう評価するかといえば日本では抽象的な議論が展開されそうだが、諸外国の研究ではやはり子供たちの学力の変化が注目される。教員の質を評価する指標として信頼性の高いものに、「付加価値」というものがある。1年間で標準テスト得点が何点上昇したか(あるいは下降したか)を調べ、この学力の変化を付加価値と呼ぶ。付加価値の高い教員は、ただ単に子供の学力を上昇させているということにとどまらず、10代で望まない妊娠をする確率を下げ、大学進学率を高め、将来の収入も高めていることが分かっている。
 こういった研究成果をもとに、著者は、少人数学級によって教員の数を増加させることよりも、教員の質を高める政策の方が、教育効果や経済効果が高いのではないかと述べている。では、どうすれば教員の質を高められるのか。誰でも考えつきそうなのは、生徒の成績が上がれば給与やボーナスを上げるという方法である。実は、こういう優秀な教師への報酬を増やす方法で教育が改善されるという証拠はあまりないらしい。また、教員研修も考えつきやすい方法だが、研修の効果に対しては否定的なデータが既に示されている。文部科学省も各自治体の教育委員会も、教員の質を上げるには研修という発想が強いが、研修の効果を客観的に検証してほしいものである。
 ここで著者は、経済学者にとっては常識的であるが、我々一般人(とりわけ教員)には衝撃的な考えを紹介している。より優秀な人が教員を目指せるように参入障壁を取り除くのである。つまりどういうことかといえば、教員免許を廃止するのである。おそらくこんな話を聞けば文部科学省の役人と教員は憤慨するだろう。しかし、このことについてもアメリカでは客観的な研究がなされている。
 ティーチ・フォー・アメリカという非営利団体があり、一流大学の卒業生を卒業後2年間低学力に悩む公立学校に教員として派遣する活動を行っている。ティーチ・フォー・アメリカから派遣される教員の多くは教員免許を持っていない。このことを利用して教員免許保有の有無の影響が検証されている。結果、免許を保有しないティーチ・フォー・アメリカが派遣した教員に教えられた生徒は免許を保有する教員に教えられた生徒よりも成績が良いか変わらないという結果であった。このことは複数の研究で示されている。ハーバード大学ケイン教授は「教員免許を持っているかどうかが子供の学力に与える影響は小さいのにもかかわらず、教員免許を持っている教員同士の質の差はかなり大きい。」と述べており、考えさせられる。

 この本の最後は【補論:なぜ教育に実験が必要なのか】で締めくくられる。ここでは、ランダム化比較試験を中心に実験研究とは具体的にどういうことをし、どういう意義があるかを解説している。
 教育研究が提出した様々なエビデンスを紹介する合間に、日本の行政の動き方や考え方に対する鋭い批判が書かれている。まず、学問的に妥当な客観的なデータ収集や分析がほとんどなされていない。全国学力・学習状況調査のようにデータはあっても公開していないものも多い。日本の行政はデータを外部に公開することを避け、自分達だけで分析しようとしていることが多いらしい。自分の推進した政策の結果を誰にも見せず自分で分析していれば、失敗や問題点を認めないままに終わる可能性が高い。だから著者は、政策評価は第三者機関が中立性を担保しつつ行うのが望ましいと考えている。ちなみに、南アフリカは労働力調査や家計調査などの政府統計の個票データをインターネット上で世界中すべての人に公開しているそうだ。こうすることによって世界中の優秀なエコノミストがこぞって分析してくれる。そのおかげで、ほとんどコストをかけずに新たな政策を計画しやすくなっているという。実に合理的である。
 客観的根拠のない政策を推進する危険性とともに著者が指摘する日本の政策の問題は手段が目的化することである。例えば、こういうことが記述されている。
 海外の政策評価においては、まず『学力の上昇』のように、教育政策の目的を明確にし、それを実現するためにどういった政策手段の費用対効果が高いのか、という検証を行います。一方、日本では、『2020年までにすべての小中学校の生徒1人に1台のタブレット端末を配布する』という政策目標が掲げられていることからも明らかなように、本来、政策目的ではなく『手段』であるはずのものが政策目的化してしまっています。
 確かに国の政策を見ても、個人的に教育関係者と話していても、「何のために」という本来の目的が意識されていないことがとても多い。いや、正確には少し違う。遠大で抽象的な目的は意識されていることは多い。「すべての子供が生き生きと暮らせるように」とか「グローバル人材を育てる」といったものである。短・中期的に具体的な目標を設定することができないのだろうと思う。また、予算が足りない時の節約の仕方にも目的意識がかけやすい。そのため一律に予算を削減しようとする傾向がある。
 著者の批判は日本の教育の平等主義にも向かう。新たに何らかの教育政策を講じる時、その効果を客観的に評価しようと思えば、その政策を適用した一群と適用しなかった一群に分けて比較検討する必要がある。しかし、そういうことをすると新しい方法を適用された子供達と適用されなかった子供達ができ不公平であるという強い批判が生じる。一見もっともだが、比較検討ができなければ教育政策の真の有効性は分からないままである。もし本当は効果がなかったりむしろ悪影響があればどうなるか。その時の教育政策の舵取りが間違っていた場合、被害が世代全体に及んでしまう。つまり、世代内では平等であっても世代間では不平等という事態が生じる。
 調査段階の話だけではなく、すでに有効であることが分かっている政策を推進する際にも、平等主義が有効性を低下させたりコストパフォーマンスを悪化させたりする。例えば、上述のように少人数学級の効果は特に貧困世帯の子どもで大きかった。そうであれば、就学援助利用率の高い学校に重点的に少人数学級を導入すれば政策の有効性やコストパフォーマンスが高まると中室さんは指摘する。
 平等主義に関連して紹介されている神戸大学の伊藤准教授らの研究が面白い。この研究が明らかにしたところでは、学校で平等を重視した教育、例えば手をつないでゴールしましょうという方針の運動会など、の影響を受けた人は他人を思いやり、親切にし合おうという気持ちに欠ける大人になるというのである。何故そうなるかということについて、次のように説明されている。平等主義的な教育は人間が生まれながらに持つ能力には差がないという考え方が基礎となっているため、努力次第で全員が良い成績を取れるという考えが強くなる。その結果、成功しないのは努力をせずに怠けているからだと考えがちになる。つまり、世の中には個人の努力ではどうにもならない能力や環境の差が存在するということに目が向かなくなるというのである。
 実に面白い本であった。おそらく中室さんにこの本を書かせた原動力は怒りではないかと僕は想像している。多くの人が教育に一家言を持ち様々な主張がなされているにもかかわらず、客観的な根拠に基づく論理的な議論が存在しない日本の現状に対する怒りである。そして、それ以前に根拠を形成するためのデータがほとんどない現状に対する怒りである。しかし、そういう怒りがあからさまに語られるわけではない。著者は極めてクールに、根拠に基づいた教育政策を推進するためには何が必要かということを説いていく。それも分かりやすい文章で。
 実はこの本は売れないだろうと思っていた。教育の成果を客観的に評価するとか、データ重視とかの考え方は日本に暮らす多くの人には抵抗があるのではないかと思ったからだ。僕は教員や教育行政に関わる人など、教育関係者と接することが多い。その多くは教育に成果主義は適さないと言う。社会一般にもそういう意見は多い気がする。しかしエビデンスを元に教育政策を立てるということは、成果を問うということである。この本に書かれているように、教育や教員の良し悪しを子供の学力や将来の収入で評価することに抵抗感を抱く人は多いのではないだろうか。しかし、一見身も蓋もない学力や収入を指標に検討する中で、非認知スキルの重要性が確認され、その評価法も開発されている。日本で多くの人が実態がはっきりしないままに「生きる力」や「人間力」のような抽象的な言葉を振り回している間に、エビデンスに基づいた研究を推進している国ではより具体的に目指すべきものの定義が進んでいるのである。可能なかぎり学力が保障され、学校からドロップアウトすることがなく、収入が安定し、犯罪に手を染めずに暮らしていることがそれだけで幸せの証明にはならないが、多くの人にとっての幸せの前提条件になることは確かであろう。成果主義が悪いのではない。適切な成果の指標を設定し、適切な評価法を用い、適切な比較をするるということをしないことが問題を生んでいるのだと思う。単純に全国学力・学習状況調査の平均点を比較するといった粗末で荒っぽいことをすれば、適切な教育の評価ができないのは当たり前のことだ。
 改めて奥付を見ると、2015年6月18日に出版されたばかりなのに2015年8月1日には第6刷になっている。僕の予想はまるで外れていた。なかなかよく売れているのである。こういう書籍が執筆され、そして売れているということは、結構日本も良い方向に変化しているのかなと、少し明るい気分になる。