2017年1月6日金曜日

教育現場における発達障害児支援の専門家

 発達障害のある子供を対象にした診療をしていると、教師からの相談を受ける機会が結構ある。わざわざ病院に出向く教師は熱心な人が多く、親を通じてでは十分に把握できない学校園での子供の様子を知ることができる機会にもなるので、医師としては大歓迎である。であるのだが、どうもすっきりしない思いを抱くことにもなる。以前にも似たようなことを書いたことがあるが、学校園の先生からの質問はまず間違いなく子供にどう指導すれば良いかということである。聞かれたことには答えようとするのが臨床医の性であり、なんとか妥当性の高い回答を捻り出そうと、頭をフル回転させることになる。しかし、考えついたことを訥々と説明しながらも、脳裏には決まって一つの疑問が浮かんでくる。「俺は医者だぞ。医者が子供の指導法を、よりにもよって教師に助言しているのはおかしくないか?」
 脳機能の特徴や合併症、あるいは薬物療法や遺伝学的な知見について質問されるのであれば理解できる。しかし、教育や保育のトレーニングを受けたこともない医師が指導法について聞かれても、大したアイデアが出るとは思えない。TEACCHの創始者であるショプラーさんは治療者はジェネラリストとしての専門家たれと述べている。したがって、医師であっても教育や療育に踏み込んでいくべきだし、教師であっても医学的な知識を広げていくべきである。とはいえ、限界もある。教師が完全に医師の役割を担うことは難しいし、その逆も簡単にできることではない。教師が医師に指導法について助言を求めるという、専門性の完全な逆転にはかなり無理があるのではないだろうか。
 僕自身の経験を振り返る限り、相談を受けた事例では、教師がかなり困り悩んでいることは確かである。有効性の高い助言ができる専門家が必要なことは間違い無いだろう。発達障害のある子供の学校での指導を援助するためには、どのような専門家が必要なのだろう。少なくとも医師がその適任だとは思えない。やはり教育現場での問題を解決する以上、基盤となるべきは教育であり、教師の中に専門性を持った人を育てるべきであろう。教育現場に能力の高い専門家が育つことで、一義的には今現在困っている教師を助け、ひいては困難に直面している子供達を減らすことができるだろう。また、長期的には発達障害にまつわる問題を教育現場内で解決できる割合が増加することで、社会的支出を抑えることにも繋がるだろう。
 どのような専門家を育てる必要があるのだろうか。もちろん、最も重要なことは教育・指導のスキルである。行動面や感情制御、知能や識字能力などに何らかのハンディがある子供を前提にした教科内容の組み立て方や、教科指導の方法論は最も基本的なこととして抑えておくべきだろう。もしも十分な方法論が構築されていないのが現状であれば、そこを整備することは喫緊の課題である。しかし、まさしく僕の専門外の事柄になるので、ここでは立ち入らない。こういった教育内容や教育方法論と並行して専門家が習得すべきことや与えられるべき属性について、医師の立場から考え付くことを書いてみようと思う。
 まず、発達障害や関連する障害病型に関する診断基準、よく観察される症状や行動特徴、可能性のある二次障害などの理解は必須だろう。できれば認知科学・神経心理学的な基盤も抑えて欲しい。別に自分が医者だから、自分が関心を持っていることが重要といっているのではない。これらの事柄は、子供達が日常において経験する困難さに直結するものだからである。困難さの直接的原因と言い換えても良い。支援方法を考える時に、どういうメカニズムで困難が生じているかを理解できなければ、合理的な対策も難しいだろう。上に述べた教育内容や教育方法論も、対象となる子供の特性に沿ったものを構築すべきだろう。
 心理学的素養も重要な要素だと思う。上に、認知科学・神経心理学に言及したが、発達障害のある子供を支援する上で必須の心理学的領域は、行動分析学の分野ではないかと思う。行動分析学あるいは応用行動分析を習得すべきだと考える理由は大きく2つある。第一に、発達障害のある子供への対応の大半は、行動を対象とするものだからである。抑うつや強迫性障害などの二次障害への対応は別として、本人の行動レパートリーに即した生活環境を構築することや、生活環境に上手く適応することに役立つように行動レパートリーを広げ、逆に適応を阻害するような行動レパートリーを問題の少ない形へと変容させるというアプローチが必須である。ここでは応用行動分析学の考え方が直接的に役に立つ。第二に、行動分析学では介入と結果の関係を数量的に確認するということが非常に重視されているからである。介入対象を具体的に定義し、介入手続きを明確に規定し、具体的目標を立てた上で結果を数量的に評価するという考え方を繰り返し学ぶことで、説明変数と従属変数を常に意識した考え方のトレーニングになるのではないだろうか。もちろん、認知科学でもこういう考え方は基本であるし、その他多くの自然科学に共通した考え方でもある。しかし、「指導の効果」という教師としては最も興味を持ちやすい題材を使ってトレーニングできる点が、他の学問分野よりも有利な点ではないかと思う。
 最後になるが、発達障害のある子供への指導に関して教師や学校園に助言する専門家には、本人の学識やスキルだけではなく、立場に伴う権威も必要だと思う。例えば医師が何らかの診断書を作成したら公的な拘束力を持つ(ただし万能ではない)。これと同じ意味で、法律や制度に守られた権威がある程度必要ではないかと思う。学校の人事をさえ左右できるほど、とまでは言わないが、その専門家が提案したことや助言したことを聞き流すには教師や学校園側に相当な覚悟を要する程度の権威があることが望ましい。まあ、この考え方には反論したくなる人もいるだろう。僕は、教師には理屈が通じにくいという印象を持っている。もちろん例外は多いし、個人的に話しているぶんにはきちんと話が通じる人が多い。しかし、学校組織の一員としての教師は、理屈よりも兼ねてから培ってきた価値観を重視することが多い。しかも、教師としての経験年数が様々な主張の根拠になりやすいく、一層話はややこしい。いかに理論に裏打ちされていたとしても、自らの価値観に沿わない助言を受け入れにくいし、教師の経験年数が長いほど考えを変えにくいのではないかと思う。にもかかわらず、理屈に裏打ちされた合理的な助言を受け入れさせるには、ある程度権威の力を借りないといけないのではないかと思うのである。それは教師に対する偏見だと腹を立てる人が多いかもしれない。そう、単なる僕の偏見である可能性は否定できないし、僕自身この考えが間違いであることを願っている。
 以上、思いついたことをくどくどと並べて見た。果たしてこのような専門家が養成されることはあるのだろうか。現実的な方向性としては、特別支援学校教諭養成課程にテコ入れし、特別支援学校だけではなく全ての学校園で活動できるような特別な資格を与える課程に変えていくのが良いのではないかと思う。しかし、そういう特殊な専門的職種を教育界は受け入れられるだろうか。まあ、形はどうであれ、少しでも多くの発達障害を持つ子供たちが学校生活を楽しみ、能力に見合った学習をできるようになってくれるのであれば、僕としては特にいうことはないのだけれど。