2016年9月18日日曜日

みんな頑張ってることを知ってるかい?

 歳をとった実の母も、同じく高齢の義理の母も、会うたびに忙しいという。忙しくて、大変で、疲れたという。それは気の毒に、いったい何がそんなに忙しいかと聞いてみると、実際にしなければいけなかったこと、実行したことは驚くほど少ない。そんなの忙しくもなんともないではないかと苦笑しながら口に出して指摘したくなる。いや、正直に言えば多少は口に出すことも多い。しかし、これは間違っている。断言できるが、間違っている。何故なら、母達の主観の中では本当に忙しく、なんとか課題をこなすべく頑張り、疲れているのである。このことは僕自身がリアルに実感できるようになってきた。若い頃に比べて単位時間あたりに実行できる仕事量が減っているし、一回に仕事に集中できる時間も随分短くなったし、同じ仕事をすると以前よりずっと疲れるようになっている。こうなると、以前は暇に感じていたくらいのスケジュールでも忙しいと感じてしまう。忙しいは主観的な概念である。本人が忙しいと感じたら、忙しいのである。
 「頑張る」という言葉もどのように使われているのか、よく考えてみる必要がある。本来、頑張っているかどうかは本人の気持ちの中の問題である。しかし、人は他者がどのくらい頑張ったかを、客観的に観察できるもので評価する。作業に従事している時間、作業に集中しているように見える度合、気が散っている様子の少なさ、成し遂げられた具体的成果の量、真剣なあるいは苦痛にゆがんだ表情、などである。小学生であれば、どのくらい確実に先生の話を聞いているか、課題にきちんと取り組めているか、授業と関係ないことに注意を向けることが少ないか、そういうことが授業中に頑張っているかどうかの指標になる。成果主義に反感を持ち、日々頑張っていることを評価したい教師は多いが、子供の心の中までは分からないので、こういう見て確認できる姿を評価する。
 だが、これは間違っている。断じて間違っている。頑張ることも本来は主観的な概念だ。誰もが目を見張るほどの成果を上げている人でも、本人は「かる〜く」こなしているかもしれない。来る日も来る日もコツコツと参考書を読んでいる人も、参考書を読むことがほとんど意識せずにできる生活習慣になっていることだってあり得る。こういう人達は、主観的には大して頑張っていない。逆に苦手意識があり嫌いでたまらない漢字の書き取り練習を、ほんの数文字だけ仕上げた子供は、死ぬのではないかと感じるほど頑張ったのかもしれない。
 忙しさとか頑張りは、極めて主観的な概念である。本人が持っている様々な能力のレベル、本人の心理的な健康状態、あるいは対象となる活動が本人にとって好きか嫌いかなど、様々な要因によって形作られるものである。本人が忙しいと感じれば忙しいし、頑張ったと感じれば頑張っているのだ。そして、現実に達成できた作業量の多寡に関係なく、忙しすぎたり頑張りすぎたりすると人は疲弊する。場合によっては不合理な振る舞いに繋がったり、肉体的な不調につながったりもする。
 人々は頑張る人が大好きで、それ以上に頑張っていない人が大嫌いである。かくいう僕自身も頑張っている人に感心し、頑張ろうとしない人に怒りの念を抱くことがしばしばある。しかし、そういう感情を抱くときには十分に自覚しないといけない。頑張っている「ように見える」人を好み、頑張っていない「ように見える」人を嫌っているに過ぎないということをである。
 人が他者を頑張っているかどうかで評価しようとすることには、少なくとも2つの危険性がある。まず、自覚的には間違いなく頑張った人に「頑張りが足りない」と言いがかりとしか言えない評価を下すことになりかねない。結果として、本人の意欲をスポイルすることにつながる。また、もっと頑張れと言われても実際に何をどうすれば良いかは闇の中であり、より良い状態を実現するための具体的方策につながらない。様々な能力や文化的背景を持つ人々を指導する職業の人、典型的には教師など、はこのことを十分念頭におくべきだと、僕は考えている。指導者は、自分の思い込みにしか過ぎない頑張っている程度で人を評価するリスクをとるべきでないと思う。全ての人はそれぞれに「頑張っている」ことを前提にしておく方が安全だと思う。その上で、頑張れなどという抽象的な言葉ではなく、何をどのようにすれば良いのか、具体的な行動を助言するように心がけたほうが良い。