2016年3月31日木曜日

ハ行の不思議

 しなければいけないことが多い時、人はするべきことと関係ないことに没頭しがちだ。「お前だけだ」という人もいるかもしれないが、そんなはずはない。少なくともそういう経験がわずかでもある人が大半である、と僕は確信している。という訳で、僕は今、ハ行の理不尽さに心を悩ませている。
 語音の「が(/ga/)」と「か(/ka/)」は両者とも破裂音である。破裂音とは、発声する時に一旦空気の流れを完全に止めた後、気流を解放することで表現する音だ。「が」と「か」はどこで空気を止めるかも共通していて、舌の上面を軟口蓋に当てて気流を止める。何が異なっているかといえば、「が」は破裂する前から声帯が振動し音を出し始める有声音なのだが、「か」は破裂してから声帯が振動して音を出す無声音だという点である。「だ(/da/)」と「た(/ta/)」も同様の関係があり、前者は有声破裂音、後者は無声破裂音である。「が」「か」と異なり、「だ」「た」は舌の先と上歯茎で空気の流れを遮断し、破裂させる。
 いずれも平仮名表記には同じ法則性があり、同じ文字に濁点を付ければ有声音、付けなければ無声音である。「ぎ(/gi/)」と「き(/ki/)」や「ど(/do/)」と「と(/to/)」も同じことである。
 では、「が」に対する「か」と同じ関係になる「ば(/ba/)」に対する語音は何かといえば、「は(/ha/)」ではなく「ぱ(/pa/)」なのである。「ば」は有声破裂音である。どこで空気の流れを止めるかといえば、自分で発音すればすぐにわかるが上下の唇を閉じることで気流を止める。ところが、「は」は全く子音の種類が違っている。「は」には破裂の要素は全くなく、声門を空気が流れる時に発する摩擦音が子音になっている。これに対して「ぱ」が「ば」と同じく上下の唇を合わせて息を止める破裂音であることは、発音すれば容易に確認できる。
 これがどうも解せない。なぜハ行の表記に濁音をつけるかどうかが有声音か無声音かの対立ではなく、全く異なる種類の子音を表すことになったのか。しかもバ行の無声音である相棒を表記するために半濁音などというものをこさえている。そういえば、半濁音はハ行にしかない表記である。うーん、分からない。
 以前、昔の日本人はハ行を「ぱぴぷぺぽ」と発音していたと聞いたことがあるような気がする。記憶が不確かなのだが、もしこれが本当だとすればハ行の表記に濁点をつけるかどうかは有声音と無声音の対立だけを表す合理的表記だったのだろうか。となると、その頃は半濁音はなかったのだろうか。
 ああ、悩ましい。誰か教えてくれませんか。でないと、仕事に手がつかない。

2016年3月10日木曜日

合理的配慮

 最近、勤務先の大学での卒業研究発表会で、発表者の学生が聴衆から特別支援教育の実践にあたり何が重要ですかと質問された。その学生が「障害児を特別扱いしないことが何より大事だと思います。」と答えるのを聞いて、がっくりした。毎年いるんだ。「特別扱いをしない」と嬉しそうに言う奴が。現在の日本の教育現場では、一人ひとりの教育的ニーズに基づいて合理的配慮が求められることを知らないのだろうか。そもそも「特別支援」において特別扱いをしないなんて、字面だけ見ても矛盾しているじゃないか。
 などと偉そうに憤慨してみたものの、特別支援教育とは何か、合理的配慮って何のことか、僕自身の頭の中でスッキリとまとまっていないなあと気付き、二重にがっくりした。これを機会に、特別支援教育や合理的配慮という考えが法令としてどういう流れで定められてきたのか整理しようと思い立ち、この文章を書くことにした。もう、先に言っておくが、極めて付け焼き刃のメモである。それでも読んでやろうという親切な方は、読後に間違いや誤解を指摘していただくと共に、追加して説明すべきことをご教示願えれば幸いである。
 学校に、それが通常学級であっても特別支援学級であっても、障害のある子供が在籍しているときに何が必要になるのだろうか。2006年12月に教育基本法が改正され、以下の条項が付け加えられた。
国及び地方公共団体は、障害のある者が、その障害の状態に応じ、十分な教育を受けられるよう、教育上必要な支援を講じなければならない。 (第4条第2項)
つまり、少なくとも公立の学校園は障害のある子供が十分な教育を受けられるように支援を講じなければいけないのである。
 何だか漠然としているのだが、この部分の考え方の詳細は法律で規定されているわけではない。どこで知ることができるかといえば、2003年3月に発表された特別支援教育の在り方に関する調査研究協力者会議「今後の特別支援教育の在り方について(最終報告)」や2005年12月の中央教育審議会答申「特別支援教育を推進するための制度の在り方について」に示されている。僕は法律について詳しくないのだが、単に法律の条文だけではなく、審議会の報告、規則、通達など、法律以外の記述が法律の解釈や運営に実質的な力を持つらしい。で、2005年の中央教育審議会答申には以下の記述がある。
「特別支援教育」とは、障害のある幼児児童生徒の自立や社会参加に向けた主体的な取組を支援するという視点に立ち、幼児児童生徒一人一人の教育的ニーズを把握し、その持てる力を高め、生活や学習上の困難を改善又は克服するため、適切な指導及び必要な支援を行うものである。
ここでポイントとなるのは、「一人一人の教育的ニーズ」に対して適切に指導するように求めていることである。これらの報告書や答申は、もう一つ重要な提言をしている。それは、通常学級に在籍する子供に対しても、個々の教育的ニーズに沿った支援をすることが求められているということである。つまり、特別な教室や特別な学校に在籍する場合だけ配慮が求められるのではなく、教育現場のあらゆる場面で障害のある子供に適切に対応することが求められているのだ。
 さて、以上のように全ての学校現場では障害のある子供に対して必要な支援、あるいは適切な指導をしないといけないことになるのだが、一体どういう考え方でどの程度のことをせねばならないのだろうか。それを考える上でのキーワードになるものとして「合理的配慮」がある。
 実は、以上のような教育関係の法令整備は、2011年8月に改正された障害者基本法に沿ったものにするためである。そして、教育関連法令のみでなく全ての法令が障害者基本法に沿うように整えられてきたらしい。さらに、このような障害者に関連して法令・制度の大掛かりな整備が行われてきた背景として、2006年12月に国連総会で採択され、2008年に発効した障害者の権利に関する条約の存在がある。日本はこの条約を2007年9月に署名し、2014年1月20日に締結している。この条約に矛盾することがない様に、何年もかけて法令の整備が進められてきたのである。
 障害者の権利に関する条約では、障害に基づくいかなる差別もなしに、全ての障害者のあらゆる人権及び基本的自由を完全に実現することを確保し、及び促進することを締約国に義務付けている。そして重要な考え方として障害を有する人が地域社会に完全に包容(inclusion)され、自立して生活できるようにする処置を締約国に求めている。教育に関しても障害のある人を包容する教育制度(インクルーシブ教育システム)の構築を義務付けている。
 障害のある人が人権および基本的自由を享有し行使する上で必要となるものは合理的配慮である。条約では合理的配慮について以下のように説明している。
「合理的配慮」とは、障害者が他の者との平等を基礎として全ての人権及び基本的自由を享有し、又は行使することを確保するための必要かつ適当な変更及び調整であって、特定の場合において必要とされるものであり、かつ、均衡を失した又は過度の負担を課さないものをいう。
日本の学校教育における合理的配慮に関連して触れておかないといけない公的文章がある。2012年7月に中央教育審議会初等中等教育分科会が作成した「共生社会の形成に向けたインクルーシブ教育システム構築のための特別支援教育の推進(報告)」である。この報告では共生社会の形成に向けて重要な理念としてインクルーシブ教育システムを位置づけている。そして、特別支援教育はインクルーシブ教育システム構築のために必要不可欠なものと位置付けている。特別支援教育の基本的考え方は既に書いたが、子ども一人一人の教育的ニーズを把握し、適切な指導及び必要な支援を行うというものであり、この「適切な指導及び必要な支援を行う」ことを言い換えれば(報告には明記していないが)合理的配慮ということになると思う。この報告では、条約での定義をもとに合理的配慮を以下のように説明している。
本特別委員会における「合理的配慮」とは、「障害のある子どもが、他の子どもと平等に『教育を受ける権利』を享有・行使することを確保するために、学校の設置者及び学校が必要かつ適当な変更・調整を行うことであり、障害のある子どもに対し、その状況に応じて、学校教育を受ける場合に個別に必要とされるもの」であり、「学校の設置者及び学校に対して、体制面、財政面において、均衡を失した又は過度の負担を課さないもの」、と定義した。
具体的な合理的配慮は一人一人の障害の状態や教育的ニーズに応じて学校の設置者や学校が個別の子供に対して行うことになる。そして、それを支えるために国や自治体が基礎的な環境整備を行う。個別に合理的配慮を提供するにあたって具体的に何が必要かといえば、個々の障害の状態や教育的ニーズに基づいて決定するため、予め全てを網羅して明文化することはできない。ただ、合理的配慮を決定する際には、1 教育内容・方法、2 支援体制、3 施設・設備について、の3つの観点を踏まえることが必要とされている。有効な合理的配慮が提供できるかどうかについて、1については教師個人のスキルや創意工夫が負うところが大きいと思われる。2については学校園の経営者の力や学校園の制度・文化が大きく関与し、3については行政の役割が大きそうである。ただ、それぞれの観点に様々な要素が関与するだろうし、3つの観点が上手くかみ合う必要があり、関係者が互いに協力することが必要になる。一人の子供に対する合理的配慮であっても特定の誰かが単独で背負い込む様なものではない。
 合理的配慮の決定においてはICF(国際生活機能分類)を活用することが推奨されている。また、設置者及び学校が保護者や本人と可能な限り合意形成を図った上で決定・提供されることが望ましいとされている。ICFを活用するということは、障害を有する子供達が日常のどういう活動においてどの様に、あるいはどの程度困難な状況になるかは、本人固有の特徴と環境との相互作用の中で決まる流動的なものであるということを意味する。つまり、同じ子供であってもその時々の状況で必要とされる合理的配慮は変化する可能性がある。また、合意形成を重視するということは、合理的配慮というものが一方的に与えられるものではなく、本人や保護者の希望を反映したものにすべきだということである。
 合理的配慮について、見落としてはならないポイントがある。条約の定義でも中央教育審議会報告の定義でも、「均衡を失した又は過度の負担を課さない」と記述されているが、これは各学校の設置者及び学校が体制面、財政面を勘案して個別に判断することとされている。ここまで説明してきた様に、インクルーシブ教育システムを推進するために合理的配慮を提供することが教育に求められている。しかし、無制限の配慮を求めているわけではないことが分かる。現実的に無理なことまで提供することは求められていないのである。様々な状況を勘案し、それこそ「合理的」に合理的配慮をすることが必要なのだろう。
 この、「均衡を失した又は過度の負担を課さない」という文言が適切な配慮をしないことの言い訳になるのではないかと心配する人もいる。しかし僕は必ずしもそうではないと思う。時間的、人的あるいは予算的制約を超えた支援を学校園及び教師に求められないのは当然のことである。ただ、ここまで説明してきたことから明らかだが、学校園及び教師は一切の配慮をしないとは口が裂けても言えない。なぜなら、一切の配慮をしないことは差別であり、日本の法律では認められないことだからである。学校園及び教師は常に合理的に配慮しなければならない義務を負っている。
 そう考えると、学校側に「これ以上の配慮は無理」と言われた場合でも、現在行っている配慮や支援において検討すべきことが少なくとも2つある。まず、物理的、人的あるいは予算的制約を本当に超えた「過度の負担」になっているかどうかを検証することである。ただ、これについては学校側がもう限界だと主張する以上は否定することはなかなか難しいだろう。もう一つは、現在行っている支援や配慮を、制約の範囲内で変更できないかを検討することである。支援の具体をより有効にするべく微修正したり、成果が挙がっていない無駄な支援を一度中止した上で新たな取り組みを工夫したりということは、無限にできるはずである(個人的には無駄な支援を中止することを強調したい)。これこそが「合理的」な配慮である。可能な合理的配慮が残っている限り、「これ以上、何もできない」とは言えないのである。
 特別支援教育における合理的配慮は、一人ひとりの教育的ニーズに合わせるものである。「〇〇には△△」「□□には××」というふうに予め用意された対策を機械的に当てはめていく様なマニュアル的対応では上手くいかない。現実を客観的に観察することによって集めたデータをもとに、柔軟に戦略を練り、一定期間後にその成果を評価し、戦略の修正をするというサイクルを持続させることが合理的配慮の最も重要なポイントではないかと思う。そう考えると、たとえ制約が大きくても「できることは全てやりました」と言える状況はありえない。何かしら工夫をする余地は常に残されているはずなのである。となれば、学校側は「これ以上何もできない」と言うことができないし、言えば差別である。もちろん、「障害児を特別扱いしない、他の子供と区別はしない」などという考えは許されないのである。