2023年9月30日土曜日

指示は率直に

 僕は発達障害の子どもたちを対象に診療しているので、わりと保育者・教師と接する機会が多い。僕が個人的に知っている限りでは、保育者や教師は子供に「自分で考えさせる」ことを重視している。そして、そのことが顕著に現れるのは何かを指示する時である。してほしい行動を端的に指示するのではなく、今何をすべきかと質問するのである。おそらく、保育者や教師の養成過程でそういう教育をみっちりしているはずだ。

 なぜそう考えるかといえば、経験的な根拠がある。僕は平成最後の12年間、私立大学の保育士・教師養成課程で教員をしていた。似つかわしくもないのだが、教育者になりすましていたのである。その頃、講義でADHDへの対応を説明する際に、L.J. フィフナーさんの「こうすればうまくいくADHDをもつ子の学校生活(中央法規出版)」を下敷きにした内容を話していた。その中に、指示の出し方として「平叙文を用い、疑問文は用いない」という項目があったのだが、毎年必ず学生からなぜ疑問文を用いてはいけないのか、子供に考えさせないといけないのではないか、と怪訝そうに質問を受けたのである。それはもう見事なくらい判で押したように同じ質問をする。だから、これはかなり力を入れて指導されているポイントなのだなと分かった。

 時代はすでに令和になっているが、相変わらず僕は子供に何かを指示する時に質問の形にすることが良いことだとは思っていない。「そんなことをして良いと思っているの?」などと分かりきったことを質問の形にして強い非難の意味を持たせている場合など論外だが、そういう感情的な意味を持たせない場合でも指示をする時に質問の形にすることは良いことだとは思えない。

 まず、質問には必然的に「答えなさい」という指示が含まれる。目的の行動を促すだけではなく別の指示が重複するのである。もっと問題なのは、何かを指示する時に質問の形を取ることは単に必要な行動を促すのではなく「私が何をしてほしいと思っているのかを当てなさい」と命令していることになる。これは、単純に次の行動を指示することよりもはるかに負荷の高い作業であり子供を緊張させる。質問に対して考えたことを率直に伝えれば済む話ではない。質問する側はすでに答えを持っているのである。子供はそれを当てなければならない。これは要領の悪い子や、人の気持ちや文脈を察することが苦手な子供たちにはかなりハードルが高い。四苦八苦して考えたことを相手に伝えても、相手の考える正解にならなければ直ちに否定される。こんなことを繰り返して考える力がつくとは思えない。多くの人が期待する「正解」のコレクションをより多く身につけようとするだけだ。

 考えることを強制された時に考えつくことはそれ程多くない。本当に物事を考える癖をつけたいのであれば、自発的に考えたくなる状況を如何に増やすかということが重要なのではないだろうか。その筆頭は、好きなことや面白いと思うことに没頭する時間を増やすことだろう。好きなことや面白いことは、人から強制されなくても詳しく知りたくなるし、そのことにもっと精通し熟達するためにはどうすれば良いのだろうかと考えを巡らすはずだ。分からないことがあれば何故だろうと自然に考える。勉強は辛くてもするべきものである、と主張したい大人は多い。しかし、おそらく勉強に真剣に取り組む子供の多くは勉強を面白いと思えた経験があるのではなかろうか。勉強は義務だからと勉強に張り切る子はいたとしても少数ではないだろうか。

 もう一つ重要そうなことは、考えたことを躊躇いなく表出できるようにすることだろう。思考は頭の中だけで深まることはない。何らかの形で表現し、それに対する外部からの反応を得てこそ精緻化できる。考えるということは表現するということとほとんど同等なのではないかという気さえする。子供に臆することなく考えを表明してもらいたければ最も重要なことは子供が何を口にしても即座に否定しないということだ。たとえ倫理的に不適切な意見を口にしても、まずはそういうふうに考えるんだな、よく説明してくれたと感謝しながら耳を傾ける態度が必要だと思う。

 人から「考えなさい」と言われて考えられる程度のことは浅い。本当にに自分で考える子供を育てたいのなら、子供に接するあらゆる瞬間に何かに興味を持たせ、面白がらせ、意見を口にさせる様に促す指導者のスキルが問われるのではないだろうか。

2023年1月2日月曜日

自閉症をどう理解するか

 随分久しぶりに丁寧に論文を読んだ。論文を読むこと自体が久し振りとも言えるのだが。

Pellicano E & den Houting J. Annual Research Review: Shifting from ‘normal science’ to neurodiversity in autism science. J Child Psychol Psychiatry. 2022 Apr;63(4):381-396.  doi: 10.1111/jcpp.13534.

https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC9298391/

 自閉症という概念の捉え方の変化を解説したもので、具体的には神経多様性パラダイム(neurodiversity paradigm)の解説である。伝統的な医学的自閉症観では自閉症を障害と捉える。自閉症者に見られる特徴をすべて障害や欠陥として扱う。そして、自閉症者への援助の根底には障害である「自閉症」を消すことを目指すという暗黙の了解がある。医学的自閉症觀で最も重視されることは、自閉症の遺伝学的・生物学的原因を明らかにすることである。そして、遺伝学的・生物学的原因を明らかにすることは自閉症者を「正常」に近づけるべく治療をすることに連なる。

 神経多様性パラダイムは医学的な自閉症観に異議を唱え、自閉症者を、平均的な人と比べての強みも弱みも含めて、ありのままに受け止め、尊重し、敬意を払おうという考え方である。その上で、自閉症者達自身のニーズや主張を聞いた上で自閉症研究や支援方法の開発を目指す必要があるという主張も含まれる。

 僕にとって神経多様性という考え方は、5年くらい前にSilberman Sによる”Neuro Tribes”を読んで以来関心を持ってきた概念である。僕自身は神経多様性に共感を抱いているのだが、さて、具体的に社会に実装すると考えるとハードルの高さに眩暈がしそうでもある。ただ、Pellicanoとden Houtingによれば、劇的ではないものの自閉症研究の世界では明確な変化が見られだしているとのことで、喜ばしい。

 この論文の中に気になった点が一つある。自閉症者に対する不適切な治療的取り組みの代表として応用行動分析(ABA)を取り上げている。この文章の中ではABAを、電気ショックという嫌悪刺激を用いたごく特殊な取り組みや、(ごく特殊とまでは言えないが)自閉症者の行動を「普通の人」の行動に近づけるために行われる取り組みのことを指している。詳しくない人が何気なく読むと、応用行動分析は非常に悪しき治療法という印象を持ちそうだ。しかし、本来応用行動分析とは単なる心理学の1領域にしか過ぎない。特定の方法(e.g. 電気ショック)や特定の目的(e.g. 自閉症者の行動を「普通の人」の行動に近づける)を示すものではない。理論や学問という普遍性のある名称を、個別事例の名称として用いられると困るなあと思う。

 

2022年3月13日日曜日

知能の高い子ども

  この文章は、公開している下記の文章の加筆した1項目である。

「発達障害を伴う子供を支援するために

—保育者や教師が最初に知っておくと良いこと—」

https://drive.google.com/file/d/12O2PnRKzTsP4iDQvMfCIUM-PK_VSHwvn/view?usp=sharing


 時に,極めて知能の高い子どもがいます。厳密な定義があるわけではありませんが,知能検査でIQが130~140を超えるような子供です。知能が高いと聞けば良いことのように感じるかもしれませんが,意外にそうではありません。平均的な子ども集団の中で暮らしていくことにかなりストレスを感じることが多いのです。知能が高い子供が自閉スペクトラム症や注意欠如・多動症の特徴を有することもしばしばあり,このような時はひときわ暮らし難さが増しやすく,特別な配慮が必要です。この項ではそのような子供たちへの日常の配慮の要点を整理します。ただし、客観的な根拠がある話ではありません。あくまで経験の中でまとまってきた、少なくともこの程度に考えても良いのではないかという私個人の考えを記述しています。知能が著しく高い子供への支援については客観的な知見の蓄積はまだ不十分なようです。まとまった記述のある成書も乏しいです。私自身が把握しているものをご紹介しますと、翻訳物ではJ. T. ウェブら(注1)、日本人では松村 暢隆(注2)による書籍があるくらいです。以下の記述を読んでいただければ理解していただけると思いますが,指導者は大人としての器を問われているつもりで接し方を考えることが必要です。
 まず,何事もきちんと説明する必要があります。情緒的に説明するのではなく理屈の通った論理的な説明をし,その中で本人の納得を引き出すということが重要です。強引に力でねじ伏せるような指導方法は論外といえます。一見不適切あるいは理不尽な言動でも本人なりの理屈がある場合が多いと考えましょう。こういう時に一方的に押さえつけるような指導をすると,長期的な成果が期待できないばかりか,かえって問題行動が増加する可能性があります。本人の頭にある理屈を丁寧に聞き出し,その中のもっともな部分の正しさを認めるとともに修正すべきことはなぜ修正すべきなのかを理を尽くして説明する必要があります。
 日々の活動に退屈させない工夫が必要です。集団での活動をすべてその子供に合わせて組む必要はありませんが,他児と全く同じ課題を与え続けると本人にとっては無為な時間を過ごすことになりやすいです。活動に関連付けながらでも本人が興味を持ち,取り組む意義を感じる課題を随時用意する必要があります。時には先生の助手をしてもらったり、課題の理解が難しい子供のサポートをお願いしたりすると良いこともあります。ただ、当然のように特定の子供の世話を押し付けることがないようにすべきです。
 習っていない知識を披露したり習っていない解法で問題を解いたりしたときにそれを非難することは避けなければいけません。むしろ,その知的好奇心を讃えるべきです。授業の流れの都合があれば常にその場で時間をかけて付き合う必要はありませんが,可能な限り別の時間をとり本人の意見や考えを聞き取り吟味し,正しい考えについては正当に評価するべきです。指導者はお子様の考えや意見の正誤を学問的に認められる根拠に基づいて判断し説明すべきであり,学問的には間違っていないことを指導の方便の都合で間違いと告げるようなことは決してすべきではありません。
 高い能力と,それとは不釣り合いに幼い面が共存していることを十分に意識する必要があります。本人の知的レベルとは整合性の欠けた幼い考え方や振る舞い方しかできない面を非難すべきではありませんし,高い能力に対してはそれに見合った敬意を表する必要があります。特に、社会性に関して未熟なことがよくあります。ずけずけと指導者の間違いを指摘することも多いかもしれません。その場合の最適解は、指導者が素直に誤りを認めることです。運動や手先の使い方が未熟なことも珍しくはないと思います。
 まだまだ人生経験が乏しいわけですから、視野が狭く、考え方に多様性がないことが多いと思います。人の考え方,感じ方,境遇,生活,物事がうまくいくかどうかや予定どおりに物事がすすむかどうかなど,様々な面で世界は多様であることに少しずつ気づかせる必要があります。そのためには,興味を持てるものからでよいので本を読む習慣を促し,読書体験を広げていくことが役に立つかもしれません。
 子ども同士で一体となることを強制しないように注意しましょう。他者に対して礼儀正しく接することは求めるべきですが,他者と仲良くする必要は必ずしもありません。その子供によって感じ方は多様ですが、知能が高い子供は往往にして同年代の子供の活動に退屈しがちです。同年齢の子供たちの遊びに無理に合わせるよりも、自分の知的好奇心に基づいた活動をしたいと考えることを自然なことと認める必要があります。また,興味の有る活動や分野を軸に世代を超えた人間関係を構築できる場があると望ましいと考えます。子供だからといって子供だけの閉じた世界にとどまらせる必要はありません。

注1:J. T. ウェブ、他「ギフティッド その誤診と重複診断: 心理・医療・教育の現場から」北大路書房、2019年.
注2:松村 暢隆「2E教育の理解と実践: 発達障害児の才能を活かす」金子書房、2018年.

注3:この項を書き終えてから下記の本の存在を知りました。家族や教師にとっては上の2冊よりも有用かもしれません。
片桐正敏、他「ギフテッドの個性を知り伸ばす方法」小学館、2021年.


2021年11月15日月曜日

発達障害病歴聴取の手引き

https://drive.google.com/file/d/1xGDFiQDWk5664D7g-yOM01rSoXiCp-_m/view?usp=sharing

 「発達障害病歴聴取の手引き」と称しているが、発達障害という言葉よりフォーカスは狭い。DSM-5の自閉スペクトラム症と注意欠如・多動症の診断基準に沿った聞き取りをするときにどのようなことを意識すればよいかをまとめた文章である。

 僕はてんかん診療を中心として小児神経学の臨床については結構ブランドものと言ってもよさそうな環境でトレーニングを受けた。しかし、発達障害の臨床に関して系統的なトレーニングを受けた経験が全くない。いろいろな経緯があって発達障害専門外来を引き受けることになったのだが、半泣きの状態で書籍と論文だけを師匠としながら細々と外来を続けてきた。そのような五里霧中でジタバタしながら作ってきた病歴聴取法をまとめたものがこの「発達障害病歴聴取の手引き」である。端的に言えば僕の自己流の塊である。

 このようなものをなぜ公表するかといえば、この世には一流の臨床家によるトレーニングを受ける機会もないままに発達障害の診療をせざるを得ない状況に至った小児科医が大勢いるのではないかと考えたからである。診断基準なるものがあることは分かっているものの、その文面をどの程度に解釈すればよいのだろうかと悩んでいる小児科医にとって、絶対的な基準にはなり得なくても診療のヒントぐらいにはなるのではないだろうか。あくまで導入編である。実際に発達障害の診療を始め、結構面白いと感じた人はもっと専門的な書籍や論文に手を伸ばしてほしい。

 児童精神医学の本格的な研修を受けている人が読んで得られるものはない。ただ、そのような人がひょっと気まぐれで読み、感想や批判を送ってくださると大変ありがたい。

2021年10月25日月曜日

就学の悩み

  発達障害を伴う幼児の診療をしていると、毎年夏を過ぎる頃から子供の就学に際して通常級を選ぶか特別支援級を選ぶかで悩む親が増える。仮に特別支援学級を選ぶことに決めた後でも知的障害者対象学級を選ぶのか自閉症・情緒障害者対象学級を選ぶのかと迷う人は多い。ここでは、僕の狭い経験の範囲内で気づいた就学時のクラスの選択にまつわる問題を取り上げようと思う。

 簡単に説明しておくと、通常学級と特別支援学級の明確な違いはその生徒数である。通常学級の標準人数は35人であるのに対して特別支援学級は8人である。そのため個々の子供のニーズに合わせたきめ細やかな指導をしやすくなる。特別支援学級はさまざまな障害に対応するためにいろいろな種類があるのだが、多くの学校に設置されている主なものは知的障害者対象の特別支援学級と自閉症・情緒障害者対象の特別支援学級の2種類である。両者の大きな違いは教科指導にある。知的障害者対象学級では各教科の目標や内容を下の学年のものや特別支援学校のものに替えることが原則である。言い換えれば、子供の理解力に合わせた独自のカリキュラムを組むことができる。これに対して自閉症・情緒障害者対象学級では原則としてその学年の通常級と同じ教科の指導をすることになる。つまり、教科指導に関する自由度が少ない。ただし、必要に応じて各教科の目標や内容を下の学年のものに替えることも一応認められている。

 個々の子供をどのクラスに入学させるかは自治体の教育委員会に設置されている教育支援委員会(自治体によって名称が違うかもしれない)での審議によって決定される。審議の前提として本人・保護者の希望、幼稚園・保育所などの意見、学校の意見、必要に応じて医療や療育施設からの意見などが収集され、それに基づいて個々の子供の教育的ニーズを満たすために最も有効なクラスの選択がなされることになっている。

 率直に考えると、どのような受け入れ体制が子供に合っているのか最も的確な判断ができるのは校内の状況を一番把握している入学先の学校ではないかと思う。入学予定校の校長・教頭や特別支援コーディネーターなどが子供の幼稚園、保育園、療育施設での日々の様子、担当指導者の意見、保護者の気持ち、もしあれば病院での評価結果などを集め、その情報に基づいて主体的に教育計画を立てることが最も良いのではないかと思う。しかし、僕の観測範囲内という条件がつくが、実際には入学予定校が第一責任者となって教育計画を立てる一環として学級選択を進めている自治体は見たことがない。多いのは教育委員会が中心となり話を進めていく形態である。もちろん保護者の希望、入学予定校の意見、在籍幼稚園・保育所の意見を集め参考にした上で取りまとめていく。自治体によっては入学予定校の意見を取り上げないところもある。教育委員会、保育所・幼稚園、保護者の3者の意見をもとに審議するのである。中には保護者の希望と幼保の意見のみに基づいて審議をする自治体もある。小学校での活動実態をよく知らない幼保の意見が学級選択に大きな影響を及ぼすのだから幼稚園、保育園の先生も大変だなあと思ってしまう。現状に即して教育計画を立てるのなら入学予定校のスタッフが中心になって話を進めるのが最も合理的だと思うが、なんで現状は違っているのかと首を捻る。病院で例えれば、小児科の患者の治療方針を他科が寄ってたかって決めているようなものである。小児科の患者の治療方針は小児科スタッフが中心になって計画する方がうまくいく。

 クラスの選択を進める過程で僕が最も問題と感じていることは保護者の扱いである。僕は保護者に対して丁寧な説明をする自治体を見たことがない。どの自治体でも保護者に対して「どの学級を希望しますか?」とざっくりとした質問を投げかけるだけである。そのため多くの保護者は自分たちで責任を持って結論を出さないといけないと考え、冒頭に述べたように迷いに迷うことになる。しかし、学校で実際の教育指導に携わったこともない多くの保護者にとっては判断に必要な情報があまりにも不足している。

 相談に来た保護者が子供の就学に際してどの学級を選べば良いのか悩んでいるときに、各学級の制度的な特徴を説明をした上で僕にはどの親にも伝えていることがある。それは、就学前に親が学級選択で迷うことや責任を背負い込むことは損だからやめた方が良いということである。何故なら、実際に入学した後に上手くいくかどうかを就学前に予測することは不可能だからである。生徒数の多寡や学習指導要領に沿った教育をするかどうかという要因は重要なことではある。しかし、それだけで入学後に建設的な学校生活が待っているかどうかは決まらない。担任のスキルの良し悪しや同じクラスの子供達との相性など、様々な偶然の要因で子供にとって良好な学校生活が実現するかどうかが違ってくる。選択したクラスが子供に合っているのかどうかは結局入学してみないと分からない。おそらく教育者にさえ確信を持った予測はできない。ましてや教師でも無い一般家庭の親にどのクラスが自分の子供に適しているのか判断できるはずがない。予測不可能な状況で決断させても保護者には酷である。

 保護者がかなり確信を持って言えることは、子供に楽しく学校に通ってほしい、学べることを学んでほしい、自分に対する自信を深めてほしいという漠然とした願いだけではないだろうか。どのように子供を教育・指導するかと言う具体的方法を考えることは教師や学校などの教育側の仕事である。僕は保護者にこう勧めている。「学級選択で悩むことはやめにして、そのエネルギーを使って教育委員会や学校に質問すれば良いのですよ。それぞれのクラスを選択するとき予測できるあなたのお子さんにとってのメリットとデメリットは何ですか、結論として教育委員会や学校としてのおすすめは何ですかと、納得いくまで質問しまくれば良いのですよ」と。そして、拙い例え話を付け加えることが多い。「病気をして病院を受診したときに、医者が大した説明もせずにAの薬とBの薬と手術のどれがいいですか?と無邪気に聞いてきたら腹が立つでしょう。それぞれの治療法の利点欠点を説明し、医者としてはどれを進めるのかまで聞かないと決めようがないですよね。クラスの選択は教育の方法論なのだから、まず教育側が主体的に計画を立て、それを保護者が納得できるように説明するべきです。きちんと説明されて初めて保護者は納得して受け入れるかどうかを判断できますよね。」

 2015年の学校教育法施行令の一部改正について文部科学省は就学先の決定に際しては市町村教育委員会が「本人・保護者に対し十分情報提供をしつつ、本人・保護者の意見を最大限尊重し」決定することが必要であると解説している。すなわち、単に保護者の意見を尊重すれば良いわけではない。保護者が自らの意見を持てるようにするための十分な情報提供が必要なのである。

2021年7月22日木曜日

面白いが一番やで

  発達障害を伴う子供には一番病とでも呼べば良さそうな特徴が見られることが多い。一番になることや勝つことにこだわり、一番でないと嫌だ、勝てなければ意味がない、失敗すれば全てがおじゃん、と考えがちな傾向だ。
 なぜこのような現象が生じるのか分からない。僕の勝手な想像だが、多少なりとも人目や社会的評価を気にし出した子供たちが日頃身の回りで人々が口にしやすい評価だけで表面的な価値観を形成してしまったのではないかと思う。これを和らげるためには一番になれないこと、負けること、失敗することの中にある価値を伝えることが重要なのではないかと思っている。負けることや失敗することで次の良い結果を積み増すことができるし、負けた人や失敗した人が必ずしも人から見下されないこと、それどころか振る舞い方によっては尊敬さえされることを説明する必要があるのではないかと思う。
 ただ、我々の社会が忘れかけているもっと重要な価値があるのではないかという気がする。それは面白いと思うことにのめり込むことの尊さだ。人は面白いことには結果を気にすることなくのめり込むことができるのである。本来、発達障害、特に自閉症を伴う子供たちは勝ち負けや一番かどうかに全く関係のないことに没頭する達人が多い。世間が「好きなことを思いっきりできる人は格好良いよ」というサインをもっとしっかり出していれば一番病なんかにならなかったかもしれないなあと思ったりもする。まあ、好きなことばかりして生きていけるもんか。必要なことはきっちり身に付けさせないといけないと主張する人も多いだろう。
 少し話が変わる。自閉症幼児の療育についての先端的な研究者の考え方はこの2、30年で大きく変わってきた印象がある。僕は療育に関してはあまり詳しくないので頓珍漢なことを言うかもしれないけれど、最近の早期療育でとても重視されることは動機付けである。本人が興味を持つ、したいと思う、好きになるということをとても重視しているのである。身に付けて欲しいことを嫌でも身に付けさせるにはどうするかではなく、まずは身に付けて欲しいことや取り組んで欲しいことに興味を持たせ本人がしたいと思わせることが先決だと考える様になっているのだ。
 考えてみればこういうことは別に自閉症に限った話ではなく昔から多くの人が大事だと経験的に認識してきたことだ。「好きこそ物の上手なれ」というではないか。一周回って戻ってきた様な感じもする。身につけるべきことは身につけるべきである。取り組むべきことは取り組むべきである。世間ではこういう考え方の何と強いことか。本当は、何かを身に付けさせたい取り組ませたいと考える指導者はまずどうすれば本人がそのことに興味を持ちそれをしたくなるのかを考えないといけないのである。
 歯を食いしばって頑張れ!などというよりも面白いことに打ち込めば良いんだよというメッセージが社会に満ち溢れると良いなと思う。スポーツ選手には「人々に勇気を与える」とか「子供たちに笑顔を届けたい」てなことではなく、「僕はこれが面白くて楽しくて好きやねん。だからやってきたんや」てなことを言って欲しい。

2021年7月18日日曜日

便利な概念

 色々な人が色々な場面で発達障害という言葉を口にすることがやたらと増えて気になる。発達障害は具体的な特徴としての定義が不明確な曖昧な言葉だ。だから発達障害という言葉で人の具体的な特徴を表現できるわけではないし発達障害と説明されて具体的な理解を得ることもできない。
 人々が発達障害という言葉を使いたくなる気持ちは分からなくはない。発達障害に含まれる診断概念は多数含まれるのだが、それぞれが分かりにくい。しかも同じ人が複数の診断に該当することが多い。発達障害と言ってしまえば何でも説明できそうで便利だ。
 発達障害とHSPは似ているなあ。非常に様々な意味を内包し、平均的な社会では暮らしにくさや生きづらさを感じる人々を一つのカテゴリーにまとめることができる。厳密な定義はないので、何か一つ二つ当てはまる特徴があればどんな人でも全て一語で括ることができる。
 名前が付くと人は安心できる。目前の現象を説明できそうな名前があれば、それに飛びつきたくなる気持ちは分からなくもない。しかし、厳密さを欠く名前で分類することでどんなメリットがあるのだろう。せいぜいその人は困っているというサインになるだけではないかな。
 自閉スペクトラム症やADHDという具体的診断名でさえ結構漠然とした概念で支援に直結しない。支援に慣れない人は診断というモデルをその人の困っていることや苦しんでいることを理解するための拠り所にしていると思うが、おそらく支援の達人は診断名には頼っていない。
 その人の行動の具体的特徴や困っている具体的な状況を観察し、それをもとに有効な支援方法を計画しているのではないかな。医療が必要な状況でも、精神や行動の問題に関してスキルの高い医師はそれほど診断名にとらわれていないのではないかと思う。
 人をカテゴリーに分類するよりも、人それぞれの特徴や困っていることを率直に受け入れ認められるような社会が理想なんだろうけど、理解や気づきを助ける働きがカテゴリーにはあるからなあ。カテゴリーを利用しつつもカテゴリーに囚われない人間理解の構築。難しいところだ。