2015年12月27日日曜日

聞き取れないことに関するあれこれ

 僕は幾分耳が悪い。以前にも書いたことがあるが、語音を正確に聞き取りにくいのである。小さい音でも聞こえるのだが、/ba/と/da/とか/bu/と/fu/が聞き分けられなかったりする。特に口の中にものを入れて喋ったり、周りがザワザワしている時に喋ったりされると何を言っているのか分からないことが多い。聞き取れないままだと困るので、聞きなおす。以前は「ハアッ!?」、「エェ!?」とか、強い調子で聞き直していたのだが、最近は出来るだけ「聞き取れなかったので、もう一度言って」「今、なんとおっしゃいましたか」などと丁寧に言うようにしている。で、つくづく思うのだが、聞こえの悪い人に対して世間の態度は必ずしも親切ではない。「もういい」と言い放ってそっぽを向く人はさすがに多くないが、黙り込む人は結構いる。言い直してくれてもより明瞭に話そうと(声を大きくしたり、口を大きく開けて明瞭な発音にしたり)務めてくれる人は少ない。モゴモゴッと言い、聞きなおすともう一度モゴモゴッと言って終わり。はっきり話すということは、そんなに面倒なことなのだろうか。
 不明瞭な話し方といえば、人は自分の名前を名乗る時にとりわけ不明瞭な物言いになるような気がする。学会会場で演者に質問する人は最初に名乗ることが礼儀なのだが、所属や名前を聞き取れることがほとんどない。音響設備が粗末なことが一因となっていることもあるのだが、その後の質問内容は聞き取れるので、同じように喋ってくれれば聞き取れるはずである。自分の耳が悪いせいかと思い、同僚に「最初名乗る部分がほとんど分からないんだけど」と言うと、その同僚も「僕にも分からん」と言っていたので、やはり人は自己紹介をする時に不明瞭になりがちなのかもしれない。
 僕は自分の発音がモゴモゴと不明瞭であることを自覚しているし、学生からの希望もあって、講義の時にマイクを使う。当然、学生に意見や質問を述べてもらう時にもマイクを渡す。面白い現象に気がついたのだが、学生は自分がマイクを使うことを好まない。こちらが注意しないと意図的かどうかは知らないがマイクを持った手を下げて、マイクなしに話そうとする人が多い。特に顕著な現象として、自分の名前を名乗る時にマイクを使わない人が圧倒的に多い。
 どうも世間の人ははっきりと名乗り、はっきりと自分の声を届けることに積極的ではないようだ。不思議な気がする。せっかく話すのであれば、自分が誰かを正確に認識して欲しいし、自分が話す内容をきちんと理解して欲しいのではないかと思うのだが。少なくとも、僕はそうだ。しかし、そう思わない人が少なからず存在するようである。
 明瞭な話し方をしないということに関連して、別のことも書いておく。話の内容についてだ。世間には話す内容が明確でない人がかなり多い。結論をはっきり述べなかったり、いわゆるこそあど言葉つまり指示代名詞を多用したり、「〜みたいな」「〜な感じ」という表現を使ったり、結局何を主張しようとしているのか明確ではない物言いをする人がとても多い。発声が明瞭でないことと何か関係があるのだろうか。僕は外国の状況をあまり知らないが、少なくとも日本の社会では不明瞭であることが良しとされているような気がして、思考が単純な僕は毎日モヤモヤとしている。

2015年12月5日土曜日

肥大した診断学

昔話をする。35、6年前、僕は医学部の学生だった。その頃は、1960年代から70年台にかけて吹き荒れた学生運動もすっかりエネルギーを失っていた。ただ、名残はまだ残っており、誰も聞いていないのにヘルメットをかぶって演説をしている学生がいたり、講義室の机の上にゴミ箱の肥やしとなるだけのビラが配られたりしていた。ある日、講義室に入り机の上にあるビラを何気なく見ると、「肥大した診断学を粉砕せよ!人民のための医療を!」といった意味合いのことが書いてあった(昔のことなので正確ではない)。僕は学生運動には全く興味がない三無主義(なんと懐かしい響き!)の典型みたいな学生だったのだが、なんとなくその「肥大した診断学」というフレーズが印象に残った。
 当時はまだ様々な病気について本格的に学び出す前であった。「内科診断学」という講義があったのだが、患者を診察し所見をとる方法を解説するものだ。かなり地味で細かい知識を詰め込まないといけない講義で、まだ具体的な病気のことをほとんど知らない身としてはかなりうんざりさせられるものであった。また、社会的に「検査漬け」という言葉が医療を批判する定番のフレーズとして口にされることが多かったと思う。肥大した診断学云々の意味はおそらく、延々と診断のために手間と時間を費やし患者の負担を増やすことよりも、早く患者の苦しみや痛みを軽減することを重視せよ、と意識改革を迫ったものだったのだろう。そして、内科診断学に辟易し、検査漬け批判の声を耳にしていた僕の心に引っかかるものがあったのだと思う。
 医師になってしばらくしてから、ごく単純なことが分かった。多少なりとも真面目に診療に取り組んだ医師の多くは同意してくれるのではないかと思うのだが、「診断は重要だ」ということである。診断するということは、単に症状や検査所見の集積に名前を付けるということではない。診断は見かけ上の症状に加えて様々な情報を内包する。例えば、なぜこの様な問題が生じているのかという原因や発生機序に関する情報をなにがしか教えてくれる。さらに、その状態が持続すると患者本人が今後どういう問題に直面し、どういうことに苦痛を感じるようになるかということを示していることもある。また、多くの先人が築いた有効な治療法のリストが示されるかもしれないし、残念ながら現時点では治療法がないことが示されるかもしれない。だからこそ、熱には解熱剤、痛みには鎮痛剤というような単純な対応よりもはるかにきめ細かく合理的な治療的対応が可能となるのである。つまり、より精密な診断はより適切な治療的対応に結びつくのだ。時には診断にかける手間暇に比してその後可能な治療的対応が乏しすぎることもある。一見無駄に診断作業ばかりにかまけているように見えるかもしれない。それでも診断を精緻化することにより治療的対応が向上する可能性が高まるのだ。
 診断を精緻化することは、患者への対応を改善することにつながる。医学的診断は患者にとって役に立つからなされるものなのである。診断を研ぎ澄ますことは、個人レベルにおいてはその患者の治療的対応を向上させる可能性を増すし、診断技術の進歩と診断概念の整理を軸にして医療全体も発展してきたのではないかと思う。そう考えると、「肥大した診断学」なる発想は、かなり視野の狭いものの見方を反映していると思う。診断学は決して不必要なまでに肥大しているわけではないのである。
 さて、以上を前提に考えるとき、発達障害を伴う子供達のサポートにおいて重大な問題がある。それは、発達障害では診断する人と治療・支援する人が別々という状態にあるということだ。完全に別個というわけではないが、かなりの部分が重なっていない。具体的に述べると、評価・診断は通常医療機関である。しかし、発達障害を伴う子供達の支援に占める医療機関の役割は圧倒的に小さいのである。就学前であれば医療機関内にある療育施設の関与もあるが、就学後に医療機関ができることは時折本人または家族に助言することと、限られた問題に対してのみ投薬することに限られる。そして、子供達の支援の役割を職業的に担うことになる人達のうち圧倒的多数を占めるのが保育者や教師である。
 この問題については以前にも書いたことがあるが、診断する人と治療・支援する人が別々だと支援者は診断によって得られた情報を十二分に活用できない。実際、僕が見聞きしている範囲では、診断名というラベルだけが活用されているのに近い印象を受けることが少なくない。これでは診断の一人歩きである。こういう状態では、まさしく「診断学の肥大化」になりそうである。ところが現実にはそうでもない。十二分に活用される当てがない状態では、診断も内容の乏しいものになりがちで、肥大化どころかやせ細っていくような気がする。評価者と支援者をできるだけ一致させること、あるいは評価者と支援者の連携を密にし双方向性のコミュニケーションが厚くなることが、発達障害を伴う人々への支援において重要な課題の一つではないかと思う。