2014年12月20日土曜日

せめてそっとしてあげて

深刻な病気や障害を抱えて何か大きなことを成し遂げた人がたまにいる。世間はそういう困難を克服して物事を成し遂げた人が大好きだ。もちろん、僕だってそういう人を尊敬するに吝かでは無い。ただ、世間は困難を努力で克服した人を讃えるだけでは飽き足らず、人はそのように在るべきだという価値観を押し付けたがるように見え、そこに僕は引っかかる。
 本人の努力で困難を克服すべきという価値観を誰に押し付けるのか。当然、ほとんど困難のない、幸せな日常を生きている人に「困難を克服せよ」と言うのはナンセンスだ。勢い、価値観を押し付ける先は困難を抱えている人たちになる。難病に罹患していたり、障害があったり、貧困の真っ只中に暮らしている人たちである。世間はこういう人たちに、「頑張れ」と言う。「努力せよ」とも言う。自分もかつては辛酸を舐めながら困難を克服したんだなどと、聞かれてもいないのに自分語りをし出す人さえいる。
 ちょっと待てよと言いたい。言われなくても頑張ってんだよ。難病を抱えている人も、障害のある人も、貧困を抱えている人も、苦しみの中でもがきながら、弥が上に頑張らざるを得ない状況に置かれているのだ。それ以上に、なぜ苦しませないといけないのだろう。本人の意思で頑張るならともかく、他人が苦労や努力を押し付けるような話ではなかろう。苦しんでいる人に必要なのはまず休息だ。そして、実行可能で成果に直結した具体的な援助や助言である。
 医者をしていると、患者に努力や我慢を求めざるを得ないことがよくある。慢性疾患で忘れずに毎日薬を飲むように指導したり、体重が増えすぎるとまずい場合に食事制限を求めたり、といったことだ。手術が必要な事例など、典型的だろう。努力や我慢を求めざるを得ないことがあることは確かなのだが、僕は患者に努力や我慢を求めることが嫌いである。そうせざるを得ないときにはとても辛くなる。何となれば、病院を受診するという時点ですでに何らかの苦しみを抱えているわけだ。それが風邪などの一過性のものであればまだしも、慢性疾患に罹患していたり障害を有していたりということになれば、たとえ口には出さなくとも色々な多くの苦しみを抱えていることは自明のことである。世の中の平均的な人がのほほんと生きている中で、すでに苦しみを味わっている人たちにさらに苦労を求めることは、本当に辛い。だから、せめて無駄な努力や我慢だけは求めたくない。
 苦しむ人達に必要なことは、その苦しみを軽減するための具体的な援助や助言だけである。本人の努力を求めることが許されるのは、その努力が高い確率で問題解決に資する場合だけだと思う。何も役に立たないことで頑張らせてはいけない。もしあなたが、困難を抱えた人たちに有効性の高い具体的な援助や手助けを提供できないのなら、せめてそっとしてあげて欲しい。

2014年12月10日水曜日

正しさが人を潰す時

年老いた母親はすっかり食べられる量が減っている。しかし、事前に適当な量の判断が難しいらしく、外食の時などおよそ食べられないだろうというメニューを、「多いよ」と忠告してもなお注文したりする。結局、途中で食べられなくなると、一緒に食べている僕に「食べなさい」と言う。断ると、遠慮しなくて良いという。助けて欲しいと訴えるならまだしも、相手のことを思っての善意の振る舞いにしてしまうことにこちらもイライラし、強い口調で断ると「お前はなんでそんなに冷たい物言いをするのだ」とぶちぶち文句を言いだす。
 このように説明すれば多少僕に同情してくれる人もいるかもしれない。しかし、年上の人間が若い者(といっても、四捨五入で60だが)に食事を分けようとすることは一般的には悪いことではない、と言うよりもむしろ称えられることかもしれない。また、食べ物を残さないようにするということはほとんどの人は正しい行いと考えるだろう。つまり、上記のような状況で母親が料理を提供しようとするのを断るとき、こちらとしてはどこか後ろめたさが伴うのである。なぜなら、一見したところ人の好意を無下に断っている状態にも見えるし、食べ物を粗末にする状況とみなされる気もするからである。この様に、表面的には善意に包まれた言動によってこちらが苦しい思いをする状態は、実に面白くない。
 なぜこのような話題を書いているのかというと、最近小中学校でクラス全員や学校全体で給食を残さずに食べることを目指す動きがあるということを知り、そこから連想したのである。具体例としてはここここなどで報道されている。このような動きがあるとは想像もしていなかった。クラス全体で完食を目指そうなどと言いだしたら、その陰で苦しむ子供が大勢いるのは火を見るよりも明らかである。好き嫌いの多い子供、小食な子供、肥満があるために食事制限を勧められている子供など、様々な個人的事情は倫理的には一見正しい「残さず食べる」という旗のもとに高まる同調圧力に踏みにじられることは想像に難くない。
 偏食を目の敵にする人は現在でも多い。しかし、大人であっても嫌いなものは一切ないという人はどの程度いるのだろうか。コリアンダーが食べられないとかブルーチーズには手をつけられないとか言う人は珍しくもないだろう。食糧事情の良好な現代社会で、多少の偏食があったところで健康を害する心配などない。少しでも楽しめる食物が増えればそれに越したことはないが、有無を言わせず強制的に食べざるを得ない状況に追い込まれた子供が、前向きに好き嫌いをなくし食事をより一層楽しめるようになるとはとても思えない。深刻な例としては、自閉症児の偏食ではかなりの苦痛を伴う場合があり、一般の人が生のミミズや電球を割ったガラスを食えと言われることに近い場合が多い。
 小食な子供が不必要な食事量を強いられることも当人にとっては苦痛以外の何物でもないし、ゆっくりとしか食べられない子供が限られた時間では食べきれない量に挑まされるのも苦痛だろう。食事というのは本来健康を支えるためのものであるし、文明社会においては大いなる楽しみでもある。なぜ食事するたびに苦痛を味合わさねばならないのか。しかも、それが一見善意や「正しい」理由に基づき、集団からの圧力としてもたらされるのだから、苦しむ子供がいることはきっと見逃されることが多いはずである。
 個人的な印象にしか過ぎないが、今の社会は何か「正しいこと」とされる旗印ができると、非常に声高に叫ぶ集団によって世の中がほぼ一色に塗られてしまうような気持ち悪さを感じることが多い。多様性を認める姿勢とは真反対である。給食の完食運動はこういった社会の趨勢が反映されているようで不気味である。

2014年11月24日月曜日

日本版Vineland-II適応行動尺度

 DSM-IVからDSM5への改定で、子供の臨床に関連したもっとも大きな変化は広汎性発達障害が廃止され、変わって自閉スペクトラム症が設定されたことである。しかし、個人的には自閉スペクトラム症以上に強く印象に残ったことは精神遅滞から知的能力障害への変化であった。何が印象的であったかというと、DSM5では知的能力障害の定義にIQを使うことを放棄していることである。誤解のないように付け加えると、DSM5は決して標準化された知能検査が無意味と主張しているのではない。解説の中では知能検査の意義や解釈についてかなり言及しているし、知的能力障害の診断の目安がIQ 65〜75以下であることも説明している。しかし、診断基準自体では、知的能力障害の定義そのもの、あるいは重症度の判定にIQの数字は用いられていない。
 DSM5では知的能力障害と診断するために、1)知的機能の欠陥がある、2)適応機能の欠陥がある、3)知的および適応の欠陥は発達期の間に発症する、という3つの条件を満たすことを要求している。1)を評価するための重要な情報として個別化、標準化された知能検査を取り上げているが、知的能力障害と判断するための具体的なIQは指定されていない。また、知能検査は臨床的評価と併せて考慮に入れることが求められている。つまり、知能検査結果は重要な情報であるが、あくまで参考情報の一つという扱いである。
 上記のように知的機能の欠陥と並ぶ診断条件として適応機能の欠陥がある。これ自体はDSM-IVでも求められていた条件である。しかし、DSM5で大きく変化したのは、知的能力障害の重症度判定である。DSMーIVでは精神遅滞の重症度はIQによって定められていた。ところがDSM5の知的能力障害重症度は適応機能の程度によって定められている。適応機能は日常生活の3つの領域ごとに評価する。すなわち、言語や学習などを含む「概念領域」、対人関係や社会的判断を含む「社会的領域」、セルフケア、金銭管理や仕事の課題の調整などを含む「実用的領域」である。
 DSM5に基づいて知的能力障害をきちんと診断し、その重症度を評価するためには、その子供の日常生活全体にわたる適応状態を詳細に評価する必要がある。知能検査の結果で機械的に結論を出すわけにはいかないのである。これはなるほど納得出来る。子供の知的障害の臨床に携わる、恐らくほとんどの人が気付いているのではないかと思うが、IQでは今ひとつ個人の生活状況をうまく予想できない。同じIQの子供でも、実際の生活がどの程度うまくいっているかどうかは個人個人で結構違う。「知能」がものを言いそうな学業での達成度でさえ、意外にIQでは予測できない。したがって、知能検査よりも現実の生活での具体的適応状況を評価した方が実態をよく把握できると言える。問題は、生活における適応状況をそれなりの客観性を持って評価することの難しさである。事細かに生活の状況を聞き取ることである程度適応状態を把握することはできるかもしれない。しかし、誰が評価しても、見落としなく全般的な評価をし、しかもその結果が年齢を考慮してどの程度の適応状況かを判断できることが望まれる。正にこういったニーズに打って付けのツールが、今年の10月に出版された。日本版Vineland-II適応行動尺度である。以下に、マニュアルを斜め読みして分かる範囲のことを紹介する。
 日本版Vineland-II適応行動尺度は半構造化*1*された面接による適応度の評価法である。0歳0ヶ月から92歳11ヶ月までの対象者の評価が可能である。対象者の適応行動レベルを、コミュニケーション領域、日常生活スキル領域、社会性領域、運動スキル領域の4領域に分けて評価する。このうち、運動スキル領域は0歳~6歳及び50歳~92歳までの対象者のみで評価する。7歳~49歳の対象者では運動スキル領域以外の3領域を評価することになる。運動スキル領域以外の3領域は、上述の知的能力障害の重症度を決める適応機能の3つの領域それぞれに概ね対応している。これらの3または4領域の評価をした上で、適応行動総合点が算出される。
(*1* 2016/9/2訂正:「構造化」ではなく「半構造化」である)

 各領域は其々複数の下位領域から構成される。具体的に述べると、コミュニケーション領域は受容言語、表出言語、読み書きの3領域で構成される。日常生活スキル領域は身辺自立、家事、地域生活の3領域からなっている。社会性領域には3つの下位領域があり、対人関係、遊びと余暇、コーピングスキルである。運動スキル領域のみは下位領域が2つで、粗大運動と微細運動である。それぞれの下位領域ごとに20~54個の質問項目が用意されており、それぞれの領域ごとに年齢発達に応じた難易度の順に並べられており、適応行動のレベルを得点化できるようになっている。適応行動を評価するための総質問項目は385項目である。適応行動の評価とは別に、不適応行動領域の評価項目も用意されている。これは不適応行動指標と不適応行動重要事項の2つの下位領域から構成され、前者はさらに内在化問題と外在化問題の2種類の下位得点がある。
 日本版Vineland-II適応行動尺度は1367人(米国の原版では3695人)のデータをもとに標準化されており、統計的な特性が厳密に検討されている。各下位領域得点は素点からv評価点が算出される。これは多くの心理検査の評価点と同様のものだが、平均点が15点で1標準偏差が3点に調整されている。知能検査などの評価点が平均10点であるのに、v評価点では平均が15点に設定されているのは、低い水準のパフォーマンスをより詳細に識別するためと説明されている。4種類の領域得点と適応行動総合点はWechsler知能検査などと同様に、平均が100、標準偏差が15に調整されている。不適応行動指標は下位尺度(内在化問題、外在化問題)と同様にv評価点が算出される。すべての得点は90%信頼区間(必要に応じて85%または95%も選択可能)を示すことが可能となっている。また、領域間、あるいは下位領域間の得点差の有意性も検討できる。
 日本版Vineland-II適応行動尺度の施行にはWechsler知能検査並みの時間を要する。さらに、評価者になるためには、かなりのトレーニングが必要と思われる。したがって、どこでも誰でも気楽に施行できるような評価法ではない。しかし、個人個人が生活に即して発揮できる力を多方面から評価できるため、種々の場面での援助や療育の計画に資するところは大きそうである。知的能力障害を診断するだけでは本人や家族へのメリットはあまりない。障害を持つ子供たち(子供に限らないが)の生活を支えるつもりがあるのなら、知能検査と並行して是非とも行うべき評価ではないかと思う。今後様々な臨床例での知見が積み重ねられ、データの解釈や応用の範囲が広がることを願う。
最後に、全く個人的な感想を追加しておく。上記の通り、日本版Vineland-II適応行動尺度には不適応行動を評価する項目も含まれているが、評価の主体は適応度である。つまり、「何ができるのか」ということを評価する尺度である。障害のある子供達を評価するとき、得てして異常や欠陥に注目しがちである。しかし、彼らを支援するときにできないことや弱み以上に把握すべきことは、何ができるか、何が強みかということである。日本版Vineland-II適応行動尺度が臨床の場に広がる中で、そういう視点も広がるのではないかという気がする。

2014年11月16日日曜日

「障がいは個性だ」問題

大学を卒業後すぐに、小児神経科と称する部門に所属した。小児神経科は、小児科の亜種の様なものだが、子供の神経系の問題を専門とする。具体的には脳性麻痺、知的障害、てんかん、筋肉疾患、末梢神経障害などが主な診療対象であり、最近では発達障害を有する子供達を診察することが多い。つまり、小児神経科医の仕事は、障害を持つ子供たちのための活動が占める割合が大きい。
 障害を持つ子供たちのための医療の特徴の一つは、医師あるいは医療だけで話が完結しないということである。障害種別によっても詳細は違ってくるが、子供たちを支えるためには他の職種の人々、特に福祉や教育に従事する人たちとの連携が必須になる。とりわけ、知的能力障害や、発達障害者支援法でいう所の発達障害を有する子供達にとっては、毎日の生活で接する人達の援助が何よりも重要となる。そういう状況もあって、僕は教師や保育士といった他職種の人々に強く期待してしまう。向こうからすれば勝手に期待してほしくないかもしれないが、教師や保育士が障害のある子供達を支える役割を持っていることは、社会的コンセンサスを得ていると考えてよいだろう。実際、教師や保育士の適切なサポートのおかげで障害を持っていても生き生きと毎日を暮らせている子供達は多いのである。本当に多くの教師・保育士は熱心に職務をこなしている
 大きく期待してしまうだけに、時にはがっかりしてしまうこともある。まあ、自分が失望を振り撒いている存在なのに何を偉そうに、と思われるかもしれない。しかし、ここは僕の考えを書きなぐるための場所なのであって、思っていることを書いてしまうのだ。障害を有する子供達を職業として日常的に支える立場にある人達、あるいはそういう職業を目指している学生達の言動で失望を通り越して怒りを覚えるものの一つが「障がいは個性だ」というセリフである。実によく聞くセリフである。念のために補足しておくが、障害を持つ子供やその家族がこういうセリフを言っても全く問題を感じない。あくまで職業的に障害を持つ人たちを支えるべき立場の人たちが口にした時に限り、腹がたつのである。
 「障がいは個性だ」と言いたがる人達は、そのことによって何を主張したいのだろう。障害を個性と言い換えることにどういう意義を見出しているのだろうか。もし、障害という言葉にネガティブな意味付けをしており、個性と言い換えることでスティグマから解放しているつもりなら、とんでもない話だ。言葉の言い換えごときで救えるはずがない。障害を持つ人々を支える立場にある人なら、障害という言葉に差別的な意味をつけることを正面から批判すべきだ。障害という言葉を言い換えて安心しているのであれば、その人自身が障害に負の意味づけをしているに相違ない。
 そこまで甚だしい勘違いではなく、少しでも前向きな気持ちになって欲しい程度の理由で個性と言い換えているにしても、そこには問題がある。個性というのは本来、なんら住み辛さや生き辛さを表す言葉ではない。現在の障害概念は国際生活機能分類(ICF)で定義されている。ICFの定義によれば、障害という言葉は心身の調子が悪い状態のみを意味するものではない。障害は、歩いたり、食べたり、喋ったりという日常生活の中での活動が制限されていることを含んでいる。また、学校や仕事、余暇活動など様々な生活場面への参加に制約があることも含んでいる。障害は、日常生活の中で自分一人の力では様々な活動や参加が十分にできない「状態」を意味している。つまり、住み辛い、生き辛い「状態」なのである。そして、その「状態」は本人に固有の特性なのではなく、本人の健康状態と暮らしている環境との相互作用によって決まる。障害を伴う人たちには、生活することの困難さを軽減するための援助が必要なのである。
 障害を個性と言い換えても効果がないばかりか、援助が必要な状態であることから目を逸らし、生活の困難さを軽減することを本人の努力に求めてしまうのではないかと危惧する。職務の一環として障害を有する人たちを支えなければいけない人達は、無意味な言葉の言い換えに頭を使っている暇があれば、どうやって支えれば良いのかを考えねばならない。

2014年11月5日水曜日

ちょっとは疑えよ

新卒の医師を指導する時や、ゼミで学生を相手にしているとき、こちらの言っていることを余りにも素直に受け止めるので、不安になることがある。もちろん、僕にはだまくらかしてやろうという悪意はないので、それなりに正しいと思うことを説明している。しかし、自信の無いことや、自分で考えても疑わしいことも結構述べている。診療現場での判断や研究にまつわる考え方などはそもそも正解がないことも多く、僕の考えが間違っているとは言えなかったとしても別の考え方も常にあるはずである。何の批判もなく僕の説明を鵜呑みにし、指示通りに動く姿を見ると、「ちょっとは疑えよ」と言いたくなる。
 大学を卒業後、4年半余り大学病院で働いた。大学病院では、世間では皮肉を交えて語られる教授回診というものがある。教授が部下を引き連れて入院患者を診察して回る、儀式的な行事である。僕の親分は専門領域においては国際的にも名の知れた人で、回診を熱心に行う人でもあった。一人ひとりの患者の横で、主治医を相手にああでもないこうでもないと議論するのである。まあ、患者にとっては横でぐだぐだ議論されるのも迷惑だったと思うが、若い主治医達には勉強になる場でもあった。当然、初々しい新人であった僕もボスの質問にきちんと答えようと必死に頭をしぼったし、それに備えて勉強もした。
 ボスの議論の進め方には一つの特徴があり、こちらがAと主張すると、「Bではありませんか?」と揺さぶりをかけてくるのだ。僕がAと主張する根拠を縷々述べると、向こうは極めて余裕の表情でAと考えることの問題点を繰り出すのだ。何回かの議論の末にとうとうこちらがBであると認めると、なんと親分は「Aではないのですか?」と真逆の主張をし始めることがしばしばあった。最初の数年間は、こう思っていた。「親分は答えを知っている。知った上で、ああではないか、こうではないかと新米を相手に遊んでいるに違いない。なんて意地悪なんだ。」と。
 だが、数年程経つと必ずしもそうではないことに気がついてきた。確かに分かった上で新米を突っつくことも多少はあったのだろうと思うのだが、親分自身がAかBか迷っていることも結構あるらしいのであった。若い医者を突っつきながら自分の考えを整理していることが少なくなかったように思う。また、当初Aであると確信を持っていたものが、若い医師とのディスカッションの中で自分の考えの問題に気付き、結論を変えることもあったのではないかと思う。僕と同列に論じるのも気が引けるが、自他が認める偉い研究者であっても分からないことや間違うこと、あるいは迷いもあるのだなあと気がついた。
 当たり前といえば当たり前である。いかに偉大な人物であっても、一人の人間が自分の分かっている範囲だけで物事を考えていたら、大きな問題を解決したり革新的なアイデアを出したり出来る訳がない。今から思うと、親分は自分の迷っていることや分からないことを隠すことをしなかったのだなと思う。それを素直に出すのではなく、議論させることによって気付かせたのかもしれない。一見叶わないと思える指導者の言葉であっても、議論を通じて批判的に吟味すれば反論したり対案を出したりする余地があるものだと分からせることも、指導者のスキルかもしれない。そう考えると、冒頭に書いたような後輩や学生に関する愚痴を垂れている自分は、指導者としての力量が低いのだなあと思う。

2014年10月30日木曜日

井出草平 著「アスペルガー症候群の難題」

これは2つの意味において挑戦的な書籍である。第1に、アスペルガー症候群患者の犯罪をテーマとしており、しかもアスペルガー症候群では一般の人に比べて犯罪のリスクが上がるという文脈で書かれていること。第2に、徹底的に客観的な証拠にこだわっていること。論点となるデータはすべて専門家の手による学術論文か、ジャーナリストによる長期取材の記録である。特に多数例を対象とした数量的研究が存在するときは、できるだけそのデータを示している。一般の人を対象とした新書版ということを考えると、この2つの特徴を持っていることはかなりの冒険だったのではないかと思う。
 まず、上記の第2点目についてコメントしておく。科学的に確かな主張をする上で重要なことは根拠を明確にするということである。何かを主張するための論拠として、批判に耐えうる様々な観点からの客観的なデータが必要である。可能な限り、多数例から統計的に明確に主張できることを論拠にするべきである。また、論拠として引用したデータの限界も指摘しておくべきである。そうすることによって、その主張がどの程度「確からしいか」を推定することができる。科学的な研究に慣れている人であれば、そういうことに配慮した主張はすっきりして腑に落ちる。しかし、どうも一般の人はそうではない。七面倒臭い議論になじめない人が圧倒的に多いのではないかと思う。白か黒か、結論を明確に述べることを公的な議論でも求める人が多い。記憶に新しいところでは、福島の原子力発電所の事故でも、専門家の丁寧な説明よりも、危険か危険ではないかの二者択一の主張の方が人口に膾炙した。世の人々は面倒臭い議論が嫌いなのである。単純化した、明確な結論だけを提示することを好む一般の人向けの新書に、徹底的にデータを重視した記述をするということはかなり珍しい書籍ではないかと思う。以下の記述にも関係が深いことを再度強調しておくと、客観的データを重視するということは、不確かなことをどの程度不確かかということも添えて記述するということである。不確かなことだからと単純に否定するとか強固に肯定することは科学的な態度ではない。
 さて、第1点目のことに関して幾つか僕が考えたことを記しておく。その前に断っておくが、本書では「アスペルガー症候群」という言葉を、知的障害を伴わない自閉症スペクトラム障害の意味で用いている。したがって、ICD-10やDSM-IV、あるいはその他の研究者が定義したアスペルガー症候群とは微妙にニュアンスが異なっている。本書ではまず、アスペルガー症候群あるいは自閉症スペクトラムとはどのようなものであるかを説明し、アスペルガー症候群の患者が引き起こしたと考えられている幾つかの最近の事件を簡単に紹介している。次いで、アスペルガー症候群では平均的な人に比べて犯罪が多いのかどうかを検討している。
 アスペルガー症候群で犯罪のリスクが高いかどうかを明確にするためには、アスペルガー症候群患者を子供の頃から前方指摘に長期間追跡し、犯罪を犯すものがどの程度の割合で認められるか、つまり犯罪率を検討する必要がある。しかし、現状ではそのようなデータはない。そこで筆者は「犯罪親和性」として家庭裁判所に送致された人の中でアスペルガー症候群と診断される割合と、一般有病率との比を検討している。その結果、アスペルガー症候群は一般有病率に比べて家庭裁判所に送致されたものでの診断率が5〜30倍ほど高い。このことから、平均的な人々に比べてアスペルガー症候群患者では犯罪を犯す人の割合が高い可能性が考えられる。著者は非常に慎重に、この「犯罪親和性」のデータで確実なことが証明できたわけではなく、犯罪リスクが高い「かもしれない」ことを示しているにすぎないことをページを割いて説明している。また、仮にそうであってもアスペルガー症候群のうち犯罪を犯すものは数%から1割程度にしか過ぎず、アスペルガー症候群の一般人口における割合は0.5%程度であることを考慮すると社会的な影響が著しく高いわけではないことも説明している。
 続いて、アスペルガーの犯罪の特徴を整理している。犯罪種別としては傷害・性犯罪・放火・窃盗・ストーカーが起こりやすい。圧倒的に多いのは対人関心接近型と称されるもので、自分のとった行動が現実社会にどういう影響をもたらすのかを認識しないままに、アスペルガーに特異的な人との関わり方や距離の取り方の奇妙さの延長線上に生じる犯罪である。また、純粋な興味とこだわりに基づいて犯行にいたる実験型も比較的多い。アスペルガー症候群患者が犯罪を犯した場合、再犯率が高い可能性がある。小規模の調査であるが再犯率は75%にのぼるという指摘もあり、医療機関による再犯の防止は現状では期待できない。
 アスペルガー症候群では何が犯罪の危険因子や予測因子になるのだろう。一つのキーワードとして、暴力的な噴出を繰り返す児童に対して杉山登志郎さんが名付けた「暴力アスペ」についても度々言及している。杉山さんによれば「一人いれば学級崩壊になってしまうほど」の子供達であり、高機能児の5%程度とされている。ただ、この「暴力アスペ」が実際に犯罪に結びつく主体なのかどうかは明らかではない。虐待経験は重要な意味がありそうである。触法行為の発生は、ネグレクト経験があると6.34倍、身体的虐待があると3.73倍に増加することが示されている。ただ、虐待経験だけで全ての触法行為を説明できるわけではない。
 さて、以上のような話がかなりのページ数を割いて述べられているのである。これを読んだ人がどういう感想を持つのかということが心配になる。日常、自閉症やアスペルガー症候群と縁のない人であれば、アスペルガー症候群とは実に恐ろしい「病気」である、位のことを考えるかもしれない。一方、家族や自身がアスペルガー症候群の場合、この本がアスペルガー症候群と犯罪の強固な関係を主張しているように感じ、差別を助長するものだと怒りを覚えるかもしれない。実際、早速怒りをぶつけるブログも公開されている。この点は作者も十分に意識しており、データの持つ意味や解釈の限界を繰り返し説明しているし、アスペルガー症候群患者全体の中で実際に犯罪を犯すものは少数であることや、犯罪全体の中でのインパクトは決して大きくないことを繰り返し述べている。書籍のタイトルに「犯罪」という言葉を使わず、「難題」としたのも、興味本位の取られ方をしないための配慮ではないかと思う。それでも、物事を程度問題として理解することや反証も含めて複数の側面から検討することを苦手とする人々がこの本を中途半端に読んだとき、誤解に満ちた解釈をし、それを広める人たちがいるのではないかと僕も心配になる。これが本書が新書として出版されたことに対して「挑戦的」と感じた大きな理由である。
 ただ、著者の考えは大変納得できる。犯罪は大きな問題である。被害者はもちろん、加害者となった人にとっても不幸なことである。アスペルガー症候群が犯罪のリスクになる「可能性がある」のなら、それをより正確に検証すべきである。そして犯罪リスクが確認されたのであれば、合理的な対策を講じねばならない。検証することや対策には資金、人材、制度など様々な社会資源を投じねばならず、社会のコンセンサスを得る必要がある。しかし、明確ではないからといってベールに覆ったままにしておくとこの問題に関する社会的認知を得られない。結果的に、いつまでも大した対策がなされることもなく、将来の犠牲者(被害者だけではなく、犯罪に走る本人も)を救うことができない。情緒的で根拠のない言説を繰り返すのではなく、現時点で明確になっていることを最大限、明らかにしていくべきである。著者が新書版でこの問題を取り上げたのは、おおよそこういった考えがあってのことのようだ。ともすれば情緒に流されやすく、問題を単純化しやすい一般社会に対して、このような根拠に基づく客観的な情報提供がなされるようになったことは、進歩なのかもしれない。
 詳しく述べないが、この本ではアスペルガー症候群の犯罪リスクだけを指摘して終わっているわけではない。この難題に対して薬物療法をはじめとした現在すでになされている対応や、進展しているADHDと犯罪リスクの研究から考えられる将来へ向けての提案も記述している。また、対策だけではなく、医療観察法などの司法での取り扱い、厳罰化傾向への批判、特別支援教育の制度上の問題点、薬物療法にまつわる倫理的問題など、様々な観点からこの問題を論じており、著者の学識の広さを窺わせる。
 著者の井出草平さんのことは、1年以上前にたまたまSYNODOSの記事を読んで知った。その記事ではDSM-IVからDSM5への自閉症診断基準の変化とアスペルガー症候群の位置付けについて非常に精緻な解説をしておられた。専門が社会学とのことで、こういった分野が社会学者の主なテーマになるのか、井出さんが特殊な興味を持たれたのか、僕にはわからない。以後、twitterでも井出さんの発言を読むようにしているが、根拠や論理を明確にしたしっかりとした発言をされる方という印象を持っている。
 本論とは関係ないが、最後に個人的に引っかかったことを一つ述べておく。診断に関する考え方についてである。井出さんはかなり診断をカテゴリーとして厳密に捉え、アスペルガー症候群ないし自閉症スペクトラムと定型発達者は連続的につながっているという考え方に否定的である。診断が家族や本人に及ぼす心理的、社会的影響を考えると、過剰診断につながりかねない定型発達者まで含めた連続性を強調することに疑念を抱くことは理解できる。
 しかし、現実の臨床においてはこれはかなり難しい問題である。自閉的特性をなにがしか有する子供がいた時、とりあえず「障害」か否かを判断することはできたとしても、その判断は結構不安定である。自閉症スペクトラムではないと判断しても、いずれ生活の困難が明確になることはままある。一度「違う」と宣言してしまうと、本当に困った時の対応が後手に回りやすい。そのため、迷った時は自閉的な特性があることを家族に説明し、慎重に経過を見ていくことになる。どうしても診断するかどうかの線引きを曖昧にせざるを得ないのである。臨床家の多くはこのことで悩ましい思いをしているのだと思う。杉山登志郎さんは、適応障害に至っている状態が障害であり、特性はあるもののうまく適応できている状態は「発達凸凹」と名付けて経過を見ることを提唱しているが、これも自閉症スペクトラムと定型発達者の境界の曖昧さを凌ぐための工夫だろう。ただ、「発達凸凹」という概念を作ると、結局は定型発達と凸凹、凸凹と自閉症スペクトラムという2つの境界を判断する必要が出るし、発達凸凹と判断してもその意義を説明する際には自閉症スペクトラムであるリスクを説明せざるを得ない。
 カテゴリーにこだわることのもう一つの問題は、教育や保育の現場で働く人が診断の有無にこだわってしまうことである。自閉的特性のある子供を支援するときに、病院での診断名にこだわってもほとんど益はない。むしろ、個々の子供の中に自閉的特性を連続的なものとして確認できる方が合理的な援助が可能となると思う。こういった理由から、僕自身は自閉症スペクトラムという状態を定型発達者に繋がる連続的な概念として理解した方が良いと考えている。

追記)誤植を1つ見つけた。p41に「オーストラリア生まれのハンス・アスペルガー」と記載されているが、アスペルガーが生まれたのはオーストリアである。

2014年10月27日月曜日

匙加減

医師に批判的な人は多いが(その中には頷ける意見も少なくないが)、当然のことながら真面目に熱意を持って仕事に取り組む医師も多い。僕が直接交流のある医師に限れば、むしろ真剣に診療に取り組む人の方が圧倒的に多いと思っている。まあ、どんな職業領域でも外部の人間が考えるよりは当事者達は真面目に頑張っていることが多いのかもしれない。とはいえ、明らかに問題な医師が存在することも確かである。ろくに勉強しないとか、変な思い込みで判断するとか、色々な医師がいる。一般の人にとっては、私利私欲に走る医師と、患者の気持ちを蔑ろにし偉そうな医師が、問題のある医師として最も思い浮かべやすいイメージではなかろうか。
 僕が医師になって5年目に赴任した病院の先輩から「肺炎医者」という言葉を教えてもらった。全国的に通用するのか、その先輩が勝手に作った言葉なのか不明だが、意味は次の通りである。咳と発熱で受診した比較的元気な患者の胸部X線を撮り、何も所見がなくても「うーむ、これは肺炎ですね。入院しましょう。」と説明して入院費を稼ぐ医師のことである。実際、これに類することを日常的にしでかす医師は実在する。これなどは典型的な私利私欲に走る医師だろう。
 世界医師会(WMA)が作成した医の国際倫理綱領では「医師は、医療の提供に際して、患者の最善の利益のために行動すべきである。」と規定している。当然、上記の「肺炎医者」はとんでもない話である。しかし、患者の最善の利益を目指せば、物事は極めてシンプルであり、迷う余地などないかといえば、必ずしもそうではない。様々な医療的判断を下す時に、白か黒か決めがたいことが多い。患者の容態を改善すると確信を持って投与した薬の副作用で、却って状態を悪くすることがある。大概の治療法には僅かな確率であっても事態を悪化させる可能性を秘めている。確率的に判断できるような情報がある場合はまだましで、五里霧中の状態で判断を迫られる事態も多い。また、患者の希望に添って医学的には明らかに患者にとって不利な状況を選択することもある。エホバの証人の信者に対して輸血治療を控えることがその例である。
 これらのことはまあ仕方がないと、多くの人は納得できるのではないかと思う。しかし、倫理的にもっとグレーな問題がある。検査をすべきかどうか一概には結論を出せないとき、治療するかどうかどちらを選んでもそれなりに理由があるとき、医師は診療費が上がる方を選ぶ傾向がある、と思う。勿論様々な理由で例外は生じる。例えば、経済的に貧しい患者が相手であればとにかくお金がかからないことを第一の原則とすることがある。しかし、一般的な診療においては病院経営に有利になるような判断に傾きやすい。医師が営業努力をすると聞けば、眉をひそめる人は多いと思う。とにかく世の中金勘定を表に出すことを嫌う人が多い。私財を投げ打って患者に尽くす医師が名医のイメージである。しかし、これは本当だろうか。
 多くの人にとって医師や病院との付き合いは一時的なものである。しかし、医師側から見れば次々と新たな患者の診療をせねばならない。一人の患者の診療が終了しても、そこで医師の活動が終わるわけではない。次から次へと新たな患者の診療を続けなければいけない。もちろん患者個人にとっても慢性的な病気になれば長く医師と付き合う必要が生じる。つまり、医師や病院にとって「継続性」は極めて重要なキーワードとなる。責務と言って良い。継続性を確かなものとするためには、患者のことだけを考えていてはいけない。医師自身が、あるいは病院が組織として、継続可能な状態にあらねばならない。例えば、一人の医師は自身の心身の健康を維持し続けないといけない。一時の熱情に駆られて寝る間も惜しんで診療を続けると、早晩その医師は潰れるだろう。それでは医師の責任は果たせない。病院はといえば、大儲けをしなくても良いが職員の給料を払い、施設のメンテナンスをし、医療技術の進歩に見合った設備投資をし続けないといけない。潰れてはいけないのである。ここに医師が様々な判断をする際に経営を意識せざるを得ない状況が生まれてくる。患者のことだけを考えていれば経営が成り立つシステムが必要と主張したい人もいるかもしれないが、それは医師や病院の責任ではない。政治、行政、そして有権者の責任である。医師や病院は現状のシステムの中で、診療を継続し続けねばならないのである。明らかに患者に不利な判断はしない。しかし病院を潰してもいけない。非常にグレーな状況の中でバランスをとることになる。とりあえず現状の中で医療を継続させていくために、医師は処方以外にも匙加減に気を配り続けねばいけないのである。

2014年10月21日火曜日

現場至上主義

政治家で現場を自分の目で見ることを重視する(と、強調する)人が多い。現場を見ることでの気付きを重視しているのだろう。現場を自分の目で見、現場の声を自分の耳で聞くことによって、それまでは自分に欠けていた情報を知り、思い込み、誤解、偏見、考えの足りない点を改善できるということであろう。確かに、現場の状況に興味を持つことは悪くない。まるで現場の状況に興味を持たない人が政策を考えるよりも良いと思う。しかし、僕は現場を見ることをやたらと強調したがる人に不安を感じる。それは、そういう人は自分の体験を絶対視しそうな気がするからである。
 人間の経験は限られている。長年ある現場で働いてきた人でさえ、個人の意見は必ずしも全容を表現していないし、誤解に基づく誤ったものになっているかもしれない。ましてや短時間現場に赴き、限られた場面を見て、限られた人の話を聞いた経験がどれほどその領域に対する知見を深めるかと考えると、甚だ怪しい。情報のサンプリング数があまりにも少なすぎる。たまたま自分が見聞きした情報が極めて偏っている可能性があり、わずかな経験に基づく推論の精度は極めて低い。サンプリング数以前の問題もある。観察・評価手法の適切さといえば良いだろうか、適切な対象から適切な方法で情報を得ようとしているかということである。例えば、ある会社の労働実態を知ろうとした時、その会社の広報部門の社員の話を上司が監督している公開の席で聴いたとする。その場合、その会社にとって都合の良い話しか出てこないことは考えなくてもわかる。自分が知りたい情報を得るためには一言で現場を見るといっても、いつ、どういう対象を選択するかは重要な条件になる。
 繰り返しになるが、現場の実態を自分の目で見ることは良いことである。というよりも現場の実態から得られる情報を重視することは当たり前であり、物事を考える上での前提条件である。霞が関の役人が頭で考えた調査項目を全国にばらまき、それによって収集した情報のみを根拠に政策立案をするということがあるのなら、実態にそぐわない政策になる可能性が高い。その場合、現場の状況を直接見たり、現場の声を直接聞くことは重要な計画修正につながる可能性がある。しかし、現場で見聞きした体験から得られた気付きだけに依存して計画を進めると、それはそれで誤った判断をする可能性がある。現場で見聞きしたことによる気付きから何をどう進めていくのかを考える時、もっと深く実態を検討した書籍や報告書を探すべきだし、足りなければもっと包括的な、あるいはもっと深く掘り下げるための調査を実行する必要がある。しかし、世の中は「現場」という言葉を重視しすぎているように思う。時には神格化さえしているように思う。現場重視をやたら強調する人を見るとき、果たして現場で得られた気付きを超える客観的な考察を広げる気があるのだろうかと不安になるのである。
 今、僕は保育・教育系の大学に勤務している。この業界も現場信仰が強い。下手をすると現場経験年数が客観的データを遥かに上回る論拠になりやすい。しかし、広くデータを集める努力(つまり勉強)を欠いたままに経験年数だけが長くなると、無意味なばかりか誤った信念を増強して有害でさえあると思うのだが。

2014年10月9日木曜日

反抗挑戦性障害

反抗挑戦性障害と診断される子供達がいる。こういう子供は些細なことで腹を立てやすく、人に(特に大人に)突っ掛かりやすく言葉尻を捉えては議論しようとする。そして、意地悪で執念深いことがよくある。一言で言えば、可愛げのない小憎らしい子供達である。
 こういう状態になる原因や機序は自閉症程には分かっていない。といっても、自閉症自体が謎に満ちているので、反抗挑戦性障害は謎だらけである。元々の脳機能や気質と関連する可能性も指摘されるし、ネグレクトや懲罰的しつけなどの養育環境との関連も指摘されている。遺伝的要因も否定できないのだが明確な証拠もない。要するに原因は分からないのである。「反抗挑戦性障害」という均質な集団がいるかどうかも分からない。最近では、幾つかのサブタイプが含まれているのではないかと主張されている。例えばBoyla(2014)は反抗挑戦性障害を刺激依存型、認知的過負荷型および不安型の3型に分類することを提唱している。ただ、現時点ではそういった分類の妥当性は明確ではない。まあ、つまるところ何かといえば口を荒らし、いらいらし、反抗的な言動をとり、ともすれば喧嘩を売る子供達である。
 単なる小憎らしい悪ガキに診断名を冠して特別に配慮することには意味がある。反抗挑戦性障害の子供達は思春期前後に暴力や盗みなど非行に走る子供が一定割合存在する。誤解されないように説明しておくと、反抗挑戦性障害と診断された子供の大半は非行に走らない。ただ、平均的な子供に比較すると深刻な問題を起こす頻度が高いのである。また、不安障害やうつ病になる頻度も平均的な子供に比較すると高い。成長過程で、こういう将来建設的に暮らすことの障害となる現象を何とか回避できるかどうかが大きな問題となってくる。どうすれば良いのかと言えば、なかなか簡単に答えられることではないのだが、こういった子供達が社会を信頼出来ることに加え、自分の評価を落とさないように支えるサポートが必要なのではないかと思う。
 反抗挑戦性障害の子供に関して、僕個人の中に確信めいた認識がある。客観的に証明されていることではない。単に経験上形成された個人的な考えである。それは、彼らは「懐いてくれる」ということだ。上に説明したように取っ付きの悪い連中である。とにかく口を開けば人の気に障る発言のオンパレードだから。ただ、そういう憎たらしげな物言いに引っかからずに、その子の言動を良いように良いように解釈した発言を繰り返すと、いつの間にか気を許し、素直に受け答えをする様になる。まるで、それまで必死に自分の周りに築いて来た防御壁を、自らあっさり壊してしまったような。「警戒体制解除!」である。そうなると、おいおいそこまで不用心で良いのかい?と尋ねたいくらいになることもある。
 恐らく僕が初めて経験した反抗挑戦性障害の子と出会ったのは20年近く前である。おおよそ彼が小学校にいる期間を付き合った後、僕は当時の勤務先をやめ別の病院に移ることになった。最後の診察時に、その「悪ガキ」は無愛想な口調で僕が辞めることが如何に残念かをぼそぼそと語り、半泣きで見送ってくれた。それ以降、似たような経験を時々する。正直にいうと、行動の問題で幼児期ないし就学頃から経過を見始める子供の場合、繰り返し受診するのは親中心のことが多く、短い期間で繰り返し本人と面接できる機会は割と少ない。そのため、僕の抱いている「確信」は広く一般的に通用するものであると断言はできない。しかし、繰り返し本人に好意的な言葉をかけ続けた時に、一気に懐いてくれて、素直に話が出来るようになる反抗挑戦性障害の子供達は、全員とはいえなくとも、少なくないのではないかと考えている。そういう子供達は責められている時には頑に鎧をかぶっているが、好意的な態度にはめっぽう防備が手薄なのである。そこに彼らを少しでも暗い将来から遠ざけるための鍵があると思う。だから、子供達が口を荒らしたり反抗的な悪態をつく度に逐一叱責する指導者や親を見ると悲しくなる。「もっと忍耐強く待てませんか?あなた自身、我慢が大切と主張しているじゃないですか。」と言いたくなる。

2014年10月3日金曜日

決断する

発達障害の診療をし、その辺りのことを学生にも講義していると、自分自身の能力のアンバランスさに色々気付いてしまう。発達障害や神経心理学に首を突っ込むよりも遥か前から自分のことをバランスの悪い人間だなあと気がついていたが、最近それが非常に具体性を持って認識でき出した。発達性読字障害に該当するのではないかということについては既に書いたが( http://amnesictatsu.blogspot.com/2014/08/1.html )、他にも注意散漫さ、衝動性、機械的暗記やエピソード記憶の拙さ、運動能力やリズム感覚の粗末さなど、一つひとつ確認していくと次第に目の前が暗くなり、うなだれてしまう。そうそう、子どもの頃から十二分に自覚していたことがあった。それはかんしゃく持ちということである。ほんの些細なきっかけで、自分でも不思議な程の怒りが吹き出すことがよくあり、間欠性爆発性障害と診断しても良い。
 などなど自分の弱いところを並べ立てると身の置き所がなくなってくる。子供達の指導の基本は出来ないことよりも出来ていることや、弱みよりも強みに注目することである。自分に対しても同じ配慮をした方が良いだろう。では、僕の強みは何かと考えてみるが、なかなか自分では何に強いのか分からない。ただ、ひょっとするとこれは自分の強みなのかもしれないなと最近思うことが一つある。それは、物事を決めることが割と速いということだ。特に、選択肢が明確な事案ではあまり時間をかけずに決断する。もちろん、熟慮することなく決めていくことは必ずしも良い結果に結びつかないので、決断が速いことを単純に「優れている」とは言えない。実際、僕も「あー、もっとよく考えればよかった」と後悔することが多い。ただ、物事を決めるという過程は一つの能力かもしれないなあと最近よく思う。
 何故そう考えるようになったかと言えば、なかなか決められない人物をよく目にするからである。仕事をしていてもしょっちゅう遭遇するのであるが、このことを意識し出したきっかけは次男である。既に成人した今ではさほど目に付かないが、子供の頃はケーキ屋で食べたいケーキを選ぶだけで随分時間をかけていた。日常、楽器やスポーツなど何かの活動に興味を持っても、それを始めるかどうか考えているうちに月日が経ち、チャンスを逃すことが多かった。次男以外では、最近の極めつけは年老いた母親である。昔はそうでもなかったように思うのだが、今はうどん屋で何を注文するのかさえ人に任せようとする。僕にしてみれば何をそんなに悩む必要があるのかよく分からないのだが、「決める」ということはかなりエネルギーを必要とすることらしいのだ。年を取るとともに決める力は低下するようである。
 ある案を採用するか否か、あるいは複数の案のいずれを採用するか、といったことを決定しないといけない時、概ね次のような作業をすると思う。まず、何時までに結論を出す必要があるのかを考える。次に、特定の案を採用することおよびしないことそれぞれの利点と欠点のうち、現在明確に分かっていること、ある程度推測できること、現時点でほとんど情報がないことをリストアップする。そして、悪い結果として何が予想でき、その深刻度や対処法の有無を考慮に加える。これらの思考を経て物事を決めている。後先になるが、これらの作業の前にその問題が公的なものか私的なものかとか、重要度が高いか低いかといった重み付けもしており、これも考慮して結論を出す。
 自分で分析する限りでは、僕が物事を決めるのが速い主な理由は、曖昧な情報にあまり捕われないことのようだ。不確かな情報をもとにあれこれ考えても何か進展がある訳がないと考え、そこに時間をかけないのだと思う。不確かな情報をもとに考えることが可能なことは、せいぜいある幅を持って起こり得る可能性をリストアップするまでである。ましてや情報がないことについては考えるだけ時間の無駄である。従って、情報を得る手段がないと判断した時は、その要因について考えることは直ちに放棄してしまう。どうも無駄なことが嫌いらしい。面倒くさがりなのだろう。成果のないことにとろとろと時間やエネルギーを費やすことが嫌いで面倒くさくてたまらないのだ。また、考えても得ることのない問題については運を天に任せると割り切ってしまうらしく、さほど不安も感じない。まあ、能天気な人間なのだろう。
 決断できない人々は曖昧なことや情報の無いことで悩んでしまうのだろうか。「万が一~が起こったら」という発想から逃れられないのだろうか。考えた所で結論を出せる訳でもない時に悩むのは無駄だし、根拠も無い不安に基づく「万が一のことを避けたい」にこだわることで、決められないことのリスクが増大するのだが、多くの人はそこで身動きできなくなるのだろうか。本当の所は分からない。しかし、同じ状況におかれても決断にかかる時間は人それぞれであり、結論を出せるか否かでさえ人それぞれであることはどうも確かである。そう考えると、「決断する」ということ自体が人の一つの能力なのではないかと思えてくるのである。
 前述の様に、決断が早ければいつも良い結果を残す訳ではない。「もっと時間をかけて十分に考えれば良かった。」と歯嚙みすることは結構多い。ただ、決めることが早い性格に生まれついて最も損だなと思うことは、自分が熟慮しなかったために失敗したという経験ではない。なかなか物事を決められない人と付き合うことが至って苦手であることだ。選択肢も明確だし、決断の期限も明確だし、取り立てて準備するものは無くただ決断すれば良いと思われることを、それでもなかなか決められない人と個人的に、あるいは会議の席で接するたびに、イライラとしていたたまれなくなるのだ。思わず「代わりに僕が決めましょうか?」と言ってしまいそうになりストレスは弥が上にも高まってしまうのである。全く持って僕はバランスの悪いかんしゃく持ちである。

2014年9月24日水曜日

謝るか謝らないか

 朝日新聞が大変なことになっている。吉田証言について32年振りに誤報を認めたものの謝罪しなかったり、そのことを不適切と指摘した池上彰さんの原稿掲載を拒否したり、少し以前に報道した福島第一原発の吉田調書(吉田続きで分かりにくい)に関する報道も誤報であったことまでが判明したり、大騒動である。で、とうとう社長が出てきて自らの辞任を臭わせつつの謝罪会見を行った。もっと早く、こまめに謝っておけばここまで苦しまなくても済んだのに、と思うのだが、何故人は謝ることをかくも嫌がるのだろうか。
 思うに、謝るという行為を、心のどこかで相手に屈服し自己を全否定することという意味付けをしている人が多いのではないだろうか。全面的無条件降伏である。謝ったが最後、自分は相手に全面降伏したことになる。それどころか、自分の価値を全否定しないといけなくなる。そう感じてしまうのではないだろうか。相手に謝らせようとしている人の言い分を聞いていても、同じことを感じることがよくある。謝罪している人を「心がこもっていない」と責め続ける人達がいるが、いったい何を求めているのだろう。こういう場合、大概謝罪する人がどう言いなおしても満足してもらえない。下手に誠実な説明をしようものなら更に吊るし上げられかねない。恐らく、鞭打たれることを覚悟して身を投げ出すような、全てを謝罪相手に委ねてしまう態度を欲しているのではないだろうか。つまり、多くの人にとっては謝る時も謝られる時も、謝罪に抱くイメージは全面降伏ではないかという気がする。しかし、謝るということは本来そのような意味を持つ言葉なのだろうか。
 広辞苑で「謝る」を引くと、「過失や罪を認めて許しを求める。」と説明されている。これを信頼すれば、2つのステップがある。「過失や罪を認める」ことと「許しを求める」ことである。世の中ではしばしば許してもらえるかどうか、許すかどうか、ということが肥大化している。その延長線として敗北したものと征服したものという、人間同士の力関係の象徴として謝罪が扱われている。しかし、許してもらえるかどうかは相手次第である。時と場合によっては決して許されないことだって多々あるのは自明のことである。それでも許しを請うのはなぜかといえば、自らが確かに過失や罪があったと認めるからだ。謝るという行為の本質は、自分が間違っていたことを認めることではないかと思う。その帰結として、許しを求める行為が現れるのだ。こう考えて来ると、本来、謝るという行為は謝る人自身の問題であり、その結果として相手が許すかどうかは本質的な問題ではない。
 謝罪が人と人の社会的立場の上下を示すための儀式となっていることは、現在の世の中の息苦しさを少なからず助長しているのではないかと思う。逆に、謝るということは自分の犯した間違いを認めることであり自分自身の問題と理解する文化が広まれば、少し大げさだが世の中の風通しが良くなるのではないかという気がする。それぞれの人が過剰に他人との関係を気にせず、淡々と自分の失敗を見つめ、より良い高みを目指して日々を送っている方が生産的ではないか。
 何故、少なからぬ人達が謝ることを人に対する全面降伏と感じているのだろうか。謝罪の社会的意味を過剰に意識するのだろうか。この件に関連しているのではないかと疑っている現象がある。それは、教育・保育現場における「謝らせ主義」である。子どもが何か間違いを犯したり喧嘩をしたりしたとき、教師・保育士はとにかく謝らせようとする。とにかく落ち度のある子供を特定し、謝らせようとする。その結果、「過失や罪を認める」ということをすっ飛ばして謝ることになる場合が多々ある。
 子供には色々なタイプがいるが、僕が仕事柄接することが多い自閉症や注意欠如・多動症の子供達は対人関係において不器用で勘の悪い子が多い。こういう子供達は、自分の言動を客観的に振り返ることが苦手だし、人の言葉をきちんと理解することに困難を伴うことが多い。喧嘩の最中や叱られているときのような感情的に不安定になっている時であればなおさらである。いきおい自分の何が間違っていたのかを十分に納得しないまま謝らされることが多い。そこに残るのは屈辱感だけであったりする。主観的には首根っこを押さえられて無理矢理頭を下げさせられる様な体験を繰り返し味わった先に、果たして実り多い世界が待っているだろうか?
 全く別のタイプの子供もいるのではないかと思う。それは、謝ることがお手軽な手段になる子供達である。とにかくあっさり謝ればすぐに解放されることを学習すれば、謝罪の安売りをする子供は多いのではないか。「過失や罪を認める」なんて七面倒くさいことなんてしなくても、さっさと謝ってしまえばとりあえず日々は順調に過ごせるだろう。かくして、自分の失敗について十分考えることも無く、上手に謝ることだけが上達するのである。先に挙げた「謝らされる」子供達と見かけは違うが、自分の過ちに正面から向かい合うことが出来ていないという点では共通している。こういう子供が実際にどのくらい存在するのか、実感としては分からない。僕の診療場面では現実に遭遇することはほとんどないからである。何しろ、さっさと謝る子供は社会を器用に泳いでいくので、僕の診察室を訪れるということはあまりないのである。
 ただ、こういう自分の過ちを深く考えない子供の存在を考えるときに、頭に浮かんでくる大人達が大勢いる。それは、とりあえず謝ってしまう人々である。僕はずっと不思議で堪らないのだが、大学や企業の構成員が何らかの不祥事や犯罪を犯した時に、その所属施設が謝罪することがよくある。例えば、昨年デーマパークでボートを転覆させるなどの迷惑行為を大学生がしでかしたとき、大学外の出来事にも関わらず学生が所属する大学が謝罪の声明を発表した。奇妙な話である。学生が学外で迷惑行為をしでかすに寄与する大学の過失とは何であったのか。人が大勢集まればおかしな人も交じっているものである。大学が全ての学生の倫理観や社会的振る舞いを制御できるはずがない。何ら具体的な過失を認識していないのに、軽々しく謝るのは、恐らく謝っておいた方が話が早い程度の理由であろう。小学校や中学校で、生徒の親が何らかの苦情を学校に対して強く申し入れたとき、学校側の具体的な過失が何であったのか、それは防ぎ得たことなのか、といったことを十分に考えないままに謝罪するという話も日常ちょくちょく耳にする。こういうケースでは得てして折角謝罪したのに、その後に親の意向に添わない言動を教師がとり、さらに炎上するということがよくある。なんとか手っ取り早く事体を沈静化したいがために、自分には具体的にどのような過ちがあったのかを十分に吟味しないままに謝る例を見聞きすることはうんざりするくらい多い。
 謝ることの最も重要な意義は、自分自身が自分の行動を冷静に分析し、その過程で過ちに気づき、何故それが間違っているかを十分に理解し納得することだと思う。そうすることによって、人は将来の改善策を講ずることができるのではないか。こういう態度を身につけるために子供達にまず教えるべきことは、自分の振る舞いを誠実に振り返ることと納得しないままに謝るべきではないことだと思う。そして、自分の振る舞いを誠実に振り返ることには発達段階に応じた限界があるし、責める気満々の人々に囲まれて冷静な振り返りなど出来るものでもない。幼いうちから過ちを犯すたびに逐一謝り反省して「見せる」ことばかりを練習させると、結果的には自分の過ちに正面から向かい合えない人を育てることになるのではないかと思う。

2014年9月16日火曜日

苦しいのが好きですか

マッサージを受けた生後4ヶ月の男児が死亡した(日本経済新聞 http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG06010_W4A900C1CC0000/ )。乳児の首をひねっているうちに死亡していたということで、とんでもない話だ。ネットでは、死亡した子供本人ではないがマッサージ中の写真を見ることが出来る(例えば、 http://matome.naver.jp/odai/2141022200070873901 )。相当長時間首を強く回転させたり、前後屈させたりしていたようだ。赤ちゃんは見るからに苦しそうに泣きわめいているらしい。当然だろう。しかし、終わりの頃には放心状態でぐったりするとのこと。施術者はこのマッサージによって「免疫力」が上がると説明していたようだ。不可解なことに、施術者は不起訴になっている。
 さて、ここではこのような危険な民間療法を放置していることの是非を論じるつもりはない。というか、ここから話はどんどん明後日の方向へ進む。この事件を知ったとき、もちろん危険な民間療法が野放しにされていることへの怒りを感じた。それと同時に、疑問に感じたことがある。長時間にわたり子供が苦しみ続けている状況を親が止めること無く見ていたことである。もちろん、親は子供のためにと考えていたのであって、子供を苦しめたいと思ってマッサージを受けさせた訳ではないだろう。僕が分からないのは、このように明らかに苦しんでいる状況を「子供のためになる」と信じ込めたのは何故だろうということだ。乳児を(大人であっても)苦しめることが本人のためになるということは滅多に無い。それを許容するためには一時苦しんでも、その後に良い状態が待っているということについて、かなり説得力のある合理的説明が必要である。そのためには、例えば医療の様に長い年月にわたって構築された学問大系と、医師免許という国によるお墨付きが必要となる。そうであってさえ、目の前で子供が酷く苦しむ様子を見た時に、そんなものが本当に役に立つのかと疑問に思う方が自然だろう。脱水症の時に点滴を勧めても、不憫に思ってなんとか断ろうとする親は結構いる。
 当然、今回の事件では施術者の説明が相当上手だったという可能性は高い。この施術者のもとには被害にあった乳児だけではなく、かなり多くの子供がマッサージを受けていたようであり、多くの親を納得させる力が施術者にあったのだろう。ただ、ここにはもう一つ別の要因があったのではないかと僕は睨んでいる。客観的な根拠は無い。あくまで僕が密かに疑っているだけのことである。それは、世の中には苦しむことに価値を見いだす人々が少なからず居るということだ。苦しいから意義がある、痛いから良く効く、辛いから成長する、と考える人達である。このたぐいの人々は、どのように素晴らしい成果を目の当たりにしても、当事者が苦しんだ経過が無ければ価値が半減すると感じるのだ。「良薬口に苦し」、「お腹を痛めた子だからこそ愛おしい」、「歯を食いしばり頑張った暁には云々…」補足しておくと、ここで苦しむ主体は他者である。自分から縁の遠い「他人」である程気安く無邪気に苦しむことを求める。しかし、教師が生徒に、親が我が子にさえ苦しむことを求めてしまうことも多いのではないかと僕は疑っている。
 確かに何かを成し遂げるときや何かを生み出すときに、その過程で苦しみが伴うことはしばしばある。しかし、その結果を評価する時には何を成し遂げ、何を生み出したかで評価すべきである。どれだけ苦しんだかということは問題ではない。何の苦しみも無かったとしても、成し遂げたことが素晴らしければそれで良いのだ。過去の過程でどのくらい苦しんだかということを評価の基準にする必要はさらさらない。苦い薬が良く効くとは限らない。毒になる可能性だってある。歯を食いしばって痛みを耐え、潰れていく人も大勢いる。そんなことは大人なら誰でも知っているはずだ。しかるに、成し遂げた結果よりも苦しんだことを重視する人は多い。苦しみ自体の目的化である。手段の目的化に似ているが、誰かが苦しむことを待ち望む態度はさらに見苦しい。
 子供でも大人でも、苦しんでいる状態自体は決して健康的ではない。状況が何であれ、苦しんでいる人達は体かあるいは心が傷つきつつあるのだ。何の見通しも無く放置するべきではない。人が苦しんでいるときは、どうやって苦しみを軽減していくかを考えるべきである。限られた時間を耐え続ければ必ず苦しみは和らぎ、新たに手にするものが豊富にあることを確実に見込めるのであれば(例えば病気で手術をするときの様に)、耐え抜くことを励ましていくという選択肢もあるのかもしれない。しかし、何の見通しも無い中で苦しみ続けることにメリットがあるとは思えない。苦しむことを目指させるのではなく、具体的な目標を達成するための合理的な方法を助言する援助こそが重要だと思う。

2014年9月10日水曜日

TV、ゲーム、インターネット

大学生の頃に喫茶店に設置されているインベーダーゲームが流行した。やたらのめり込んでいる人もいたが、僕にはあまり面白く感じられなかった。ニンテンドーからファミコンが販売されたのは大学を卒業した年で、僕は買わなかった。欲しいとも思わなかった。こんな具合に、僕は元々ゲームに良い感情は持っていない。20歳から10年余り、テレビの無い生活をしていたため、ビデオやその後のDVDにもあまり馴染みが無い。要するに、ゲームに対して好意は無いし、TV、DVDに対しても淡白なのである。それにも拘らず、子供がゲームをしたりTV・DVDを見ることについて目を吊り上げて非難する人がいると、素直に頷く気にはなれない。自分が、ゲームには興味が無くてもパソコンなど電子機器が好きだったことも理由かもしれない。しかし、最も大きな理由は、ゲームやTV・DVDを当然の様に非難する人達からその具体的根拠を聞いたことが無いからだと思う。「どうして?」という質問さえ不適切と言わんばかりに、当然のこととして主張する人が多いのである。
 7、8年くらい前だろうか、仕事の関係で知り合った(つまり、さほど親しかった訳ではない)心理学者に突然尋ねられたことがあった。「ゲームをすることをどう思いますか?」と。どう思いますかと尋ねられても、返事をする根拠が無い。「まあ、直感的にはあんまりやり過ぎると良くなさそうな気もしますが、良いも悪いも客観的な根拠を知らないので、何とも言えませんね。」と答えた。すると相手は俄然張り切り出し、怒りさえ滲ませながら、根拠があろうが無かろうが悪い可能性がある事は子供から切り離さないといけないでしょ、と捲し立て出した。こちらはあっけにとられながら、「悪い可能性」を強調する程の根拠を知らないから、とモゴモゴ言っていたのだが、その心理学者は全く聞く耳を持たない状態であった。別に心理学者だから変だった訳ではないだろう。小児科の同業者でも、ゲーム・ビデオで自閉症になると主張する人はいる。何が根拠かというとその人が出会った少数の事例の主観的経験だけである。
 さて、本当の所はどうなのだろう。最近、この問題に関連する3編の論文を読んだので、紹介する。たまたま出くわした論文を読んだだけなので、最新の研究を網羅するには程遠いのだが、それぞれしっかりした学術雑誌に掲載されているし内容もきちっとしているので、ある程度現状での研究動向を知る参考になると思う(それぞれの論文のURLと概要を文末に記載しておく)。まず、今年出版されたPrzybylskiの論文である[1]。これは10〜15歳の5000人余りの子供を対象にした研究である。ゲームをする時間と、問題行動や好ましい社会的行動(向社会的行動)の出現との関係を検討している。面白いことに、1時間以下の短時間ゲームをする子供は全くゲームをしない子供より向社会的行動出現率や生活への満足感が高く、内在的・外在的問題行動が少なかった。逆に、3時間を超えてゲームをする子ども達はゲームを全くしない子供と比較して向社会的行動と生活への満足度が低く、内在的・外在的問題行動が多かった。ただ、ゲームをする時間で向社会的行動や問題行動を説明できる割合は極めて僅かであった。単純に解釈すれば、ゲームは控えめにすれば良い効果があるし、し過ぎると悪い効果があるという結果である。
 Przybylskiの研究は非常に大勢の子供を対象としており、信頼性は高い。ただ、問題点もある。一つは、同一時点でのゲームの使用時間と行動評価の相関を検討していることである。上記の様に、短時間であれば行動面の良い傾向と、長時間であれば問題行動と相関していたとしても、ゲームをすることが原因で行動特徴が形成されるのか、元々行動特徴がそうであるからゲームの時間が決まるのか、因果関係がはっきりしない。例えば、長時間ゲームをするから行動の問題が増えるのか、日々の生活が上手く行っていないためにゲームに逃避するのか、この研究からは分からない。第二に、家庭の経済状況や親の学歴、本人の能力など、他にも行動に影響しそうな因子の検討がなされていないこともこの研究の弱点である。ただ、何れにしてもゲーム時間と行動特徴の相関は極僅かであり、よしんばゲームが問題行動の頻度を左右したとしても、その程度はしれている。
 2013年に出版されたParkesらの報告[2]は、なかなかの労作である。約11000人の子供を対象に、2年間の追跡調査を行っている。5歳の時点でTV・DVDと電子ゲームに費やした時間と、5歳から7歳にかけての行動特徴の変化との相関を検討している。電子機器の利用時間と行動特徴の評価時点をずらしてあるので、もし両者に相関が認められるならばTV・DVDやゲームを利用することが原因となる行動の変化という因果関係を想定しやすい。また、この研究では、母親およびその他の家族の特徴や本人の特性など、行動の問題に影響しそうな多くの要因を考慮に入れた分析を行っている。結果は、5歳時点でのゲーム利用時間は5歳から7歳にかけての問題行動の変化には全く影響しなかった。TV・DVDに関しては毎日3時間を超えて視聴していると7歳での攻撃行動の増加につながっている。しかし、その程度は極めて僅かである(10点満点の評価得点が0.13ポイント上昇)。
 最後に紹介するのは今年出版されたMillsによる総説である[3]。これはゲームやTVではなく、インターネット利用の思春期の若者の行動や認知能力への影響についての研究動向を記載している。現状では確固たる結論を出せる程の研究は揃っていないが、それでもある程度の知見は出ているようである。Millsはまず、思春期の脳の構造・機能の変化は遺伝の強い制御下にあり、環境から受ける影響は僅かであることを指摘している。そして、インターネット使用によって一般的には余暇活動や社会的活動への悪影響は少ないとする知見を紹介している。また、インターネットが個人の問題解決に新たな手段を提供する一方で、認知能力への影響は少ないことにも言及している。
 これらの文献から何が言えるだろうか。結論じみたことはほとんど何も言えない。ゲームにしてもインターネットにしても子供の発達に良いともいえないし悪いともいえない。ただし、仮に悪影響があったとしても、その程度は非常に小さいということは言えるのではないかと思う。世の中にはゲームやインターネットよりも子供の発達に強く影響するものがたくさんありそうだ。家庭の経済状況の子供への影響は様々な分野の研究で指摘されている。就学前教育の場や小中学校の指導者のスキルも大きいだろう。親の文化的興味のあり方なども影響がありそうである。また、子供に発達障害などの発達の偏りがある場合、如何に適切な支援を講じられるかは重要だろう。仮にゲームやインターネットに問題があっても、その影響は考慮すべき数多くのことの一部に過ぎない。
 今の世の中で、子供がゲームやTV・DVDを利用することを制限するのは、親にとっては大変なことである。子供との論争を制してゲームの時間を制限しても、それが実効を挙げているかどうか確認することは特に共働き家庭では困難だろう。苦労して実際にゲームやインターネットの利用時間を確実に削っても、それによって子供がばりばり勉強し出したり、親の好む文化的活動に勤しみ出すかと言えば、はなはだ怪しい。特に、建設的な活動を豊富に身につけていない子供のゲーム時間を削ったところで、空虚な時間が増して、イライラが募るのが関の山かもしれない。ゲームが子供同士の社会的つながりの一手段になっていることや、パソコンやインターネットの利用が将来の職業的スキルにもつながることを考えると、単純に使用を制限すると逆に問題が生じるかもしれない。そういったリスクを冒す程の価値があるのかと言えば、少なくとも今回紹介した文献から考える限りはどうも怪しい。メリットとデメリットを冷静に考えたとき、ゲームやネットを目の敵にするのではなく、少しでも建設的な活動を増やすことを促していく方が合理的なのではないかと思う。
 前述のMills [3]の論文には、文字に関するソクラテスの面白い発言が取り上げられている。ソクラテスは、文字を習得した者は記憶力を鍛錬しなくなり、書き留めることに頼る余りに物事を忘れやすくなる、と嘆いたそうである。全く何時の世も、新しいメディアに抵抗する人はいるもので、しかもそれが随分賢い人だったりもするのである。


参考文献、概要

[1] Przybylski AK.Electronic Gaming and Psychosocial Adjustment. Pediatrics. 2014 Sep;134(3):e716-22
http://pediatrics.aappublications.org/content/134/3/e716.long
http://pediatrics.aappublications.org/content/134/3/e716.full.pdf+html

電子ゲームが発達期の子供にどのように影響するかについては、負の影響も正の影響も種々報告されている。ただ、ほとんどの先行研究ではゲームの負の影響か正の影響の一方のみについて検証している。また、大学生など協力を得やすい対象を選んで検討しているという問題が有る。そのため、結論を無闇に一般化すべきではない。こういったことを考慮すると現状では電子ゲームが最終的にどのように影響するのかほとんど分かっていない。この研究では、low)一日に1時間以内のゲームをしている子供(およそ半数の子供)、moderate)1〜3時間程度している子供(およそ三分の一)、high)3時間を超えてしている子供(およそ10〜15%)の3群に分け、ゲームをしていない子供との比較を行なった。
対象:男子2436人、女子2463人(10歳〜15歳、平均12.51歳)。
評価項目:
(電子ゲームに取り組む時間)コンソール型のゲーム(恐らくゲーム専用機)とパソコンでのゲームに分けて、それぞれ1時間未満、1-3時間、4-6時間、7時間以上のいずれかを選択。
(内在的および外在的問題)
SDQ (Strengths and Difficulty Questionnaire)の下位尺度のうち、情緒尺度と仲間関係尺度の合計を内在的問題尺度とし、行為尺度と多動・不注意尺度の合計を外在的問題尺度とした。
※SDQについては文献[2]も参照
(向社会的行動)
SDQの向社会性尺度(共感的、援助的考えや行動を評価する)を用いた。
(生活の満足度)
学校生活、学業、外見、家族、友達の5つの領域における満足度を「完全に幸福」から「全く幸福ではない」までの7段階で評価させた。5領域の得点を平均した。
(分析方法)
low、moderate、high群それぞれをゲームを全くしていない子供(noplay)と比較した。比較方法は、群を説明変数とし、上記の評価項目をそれぞれ比説明変数として回帰分析を行なっている(年齢と性も説明変数に入れてその影響を除いている)。
結果:
コンソール型かパソコンかに関係なく、以下の結果が得られた。
短時間ゲームに取り組む群(low)はnoplayに比較して向社会的行動と生活の満足度が高く、内在的および外在的問題が低かった。長時間ゲームに取り組む子供達(high)はnoplayと比較してlowとは逆の違いが認められた。しかし、いずれの場合でも非説明変数の変動のうちゲーム時間で説明できるものは極めて小さかった(<1.6%)。moderateはいずれの評価項目でも差は認められなかった。

[2] Alison Parkes, Helen Sweeting, Daniel Wight, Marion Henderson. Do television and electronic games predict children’s psychosocial adjustment? Longitudinal research using the UK Millennium Cohort Study. Arch Dis Child. 2013 May;98(5):341-8
http://adc.bmj.com/content/early/2013/02/21/archdischild-2011-301508.full
http://adc.bmj.com/content/early/2013/02/21/archdischild-2011-301508.full.pdf+html

子供のTVや電子ゲームの使用時間と、注意能力や攻撃性あるいは向社会的行動との関連については様々な検討がなされているが、一定の見解がない。先行研究には様々な交絡要因(混乱要因)を考慮していないものが多い。この研究では5歳でのTVや電子ゲームの使用時間と、心理社会的適応の7歳にかけての変化を、様々な交絡要因を考慮に入れて検討した。
対象:生後9ヶ月から追跡されているMillennium Cohort Studyの対象18818人中、5歳と7歳で評価できた11014人の小児(女児5576人、男児5438人)
評価項目:
(心理社会的適応状態)5歳と7歳時点でSDQ (Strength and Difficulties Questionnaire)に母親が記入。情緒、仲間関係、行為、多動・不注意、向社会的行動の5つの下位尺度がそれぞれ0〜10点で評価される。最初の4尺度は得点が高い程問題が多く、向社会的行動は得点が高い程好ましい状態。
(画面視聴時間)5歳の時点での平日のTV/DVDと電子ゲームそれぞれの使用時間を、なし、1時間未満、1時間以上3時間未満、3時間以上5時間未満、5時間以上7時間未満、7時間以上の6段階で、母親によって評価した。
(その他の検討因子)以下の項目を検討に含めた。断りが無いものは子供が1歳時点でのデータ。母親の民族的背景、母親の学歴、調整済み世帯収入、母親の就労状況(5歳)、母親の身体的および精神的健康状態(SF-8 scale)、家族構成(5歳)、母子関係が暖かいか葛藤があるか(3歳)、親子での活動状況(5歳)、household chaos(5歳)、5歳時点での子供の特徴(認知機能、長期間続く疾患や障害、睡眠障害、身体活動、学校への負の態度)
(データ解析)SDQ下位尺度それぞれの5歳時点と7歳時点の差を従属変数とする多変量回帰分析
結果:
・5歳時点で、2/3がテレビを1時間以上3時間未満視聴し、15%は3時間以上視聴していた。テレビを見ない子供は2%未満であった。電子ゲームの使用時間はテレビと相関していたが、テレビよりも短く、3時間以上は3%のみであった。
・性別、7歳児点での月齢、5歳時点でのSDQ得点のみを制御して分析すると、TVもゲームも3時間以上使用していた場合はすべての問題得点が上昇し、向社会的行動は減少していた。1時間以上3時間未満では下位得点の種類によって変化するものとしないものがあった。
・上記に加えて、すべての経済的、家族、本人の特徴要因を制御して検討し直すと、TV/DVDを3時間以上の視聴をしていると7歳時点での行為得点が0.15ポイント上昇したのが唯一の変化であり、ゲームによるSDQ得点の変化はなかった。ゲーム使用時間を制御すると、TV/DVD視聴3時間以上での行為得点上昇は0.13ポイントとなった。
結論:TVの過剰な視聴は素行の問題をわずかに増加させるが、TVや電子ゲームの使用時間はそれ以外の心理社会的適応状態には影響しない。

[3] Mills KL. Effects of Internet use on the adolescent brain: despite popular claims, experimental evidence remains scarce. Trends Cogn Sci. 2014 Aug;18(8):385-7
http://www.cell.com/trends/cognitive-sciences/abstract/S1364-6613(14)00106-5?_returnURL=http%3A%2F%2Flinkinghub.elsevier.com%2Fretrieve%2Fpii%2FS1364661314001065%3Fshowall%3Dtrue
http://www.cell.com/pb/assets/raw/journals/trends/cognitive-sciences/Mills.pdf

(インターネットが思春期の子供の脳や行動に影響しているのかどうかについての研究の現状をまとめた総説)

インターネットにより生徒の集中力低下や認知機能の変化を感じているという、中学校や高等学校の教師の声がある。これに科学的な根拠があるのかどうかをこの論文では検証する。

脳の感受性:
思春期の脳の変化は遺伝の強力な支配の下にあることが示されている。ネットなどの環境の影響による変化はわずかである。思春期は社会文化的な学びにとって重要な時期と考えられている。しかし、現在判明している知見では、インターネット活動は思春期の社会的発達を阻害しない。

インターネット利用と思春期の健康:
ネットにつながる時間は健康や満足につながる活動を減らしていない。最近の長期追跡的研究では、12−24歳の人々では中等度のネットの使用とスポーツやクラブなどへの参加は正の相関を示す。11−13歳での調査では、座ってモニターを使う活動は、余暇の身体活動を減らさないことが示されている。友人とのネットを通じたコミュニケーションは、社会的連帯を増加させる。

インターネット利用と認知:
大学生を対象とした研究では、将来必要となると思われる情報にアクセスした時、その具体的情報を忘れやすい一方でどこで探せば見つけられるかを覚えていることが示されている。ネットに接続することは、正しい情報を広めることで個人の問題解決を助けることが出来るが、その情報を自分のものにするための認知方略を広めることは出来ない。こういったことから、インターネットの認知への影響は微々たるものだが、特定の認知方略を強化する可能性はある。

インターネット嗜癖:
過剰なネット利用者を対象にした神経が贈研究は行われている。しかし、その結果を過剰利用者ではない大多数の思春期の青年(95.6%)には当てはめられない。現状では、行動、認知、安寧の程度と共に脳の評価と、インターネットの種々の活動との相関は検討されていない。この様な研究は一見可能とは思えない。しかし、他の領域での、環境の影響(例:音楽訓練の影響)を調べた研究の手法が参考になるかもしれない。

結論:
World Wide Web (WWW)が開発されてから25年経ち、我々相互影響の在り方や歴史が変化した。新しい世界を成功裏に導くためには新しい技能が求められる。そのことが神経構造にある程度反映されるだろう。しかし、現状ではインターネットの利用が脳の発達に深い影響を与えるという証拠も与えないという証拠も挙っていない。

2014年9月3日水曜日

発達障害の診断は誰がすべきか

発達障害の診断は誰がすべきか?答えは一見簡単で、医師がすれば良い。では、何故診断しないといけないのか。医学診断は生物学的な分類という側面もないではない。しかし基本的には診断は患者の役に立つからするのである。診断することによって治療法が明確になるかもしれないし、たとえ治療法が現在無くても先の見通しがつけばそれは色々な形で役に立つ。種々の福祉制度を利用できる様になるかもしれない。多くの疾患では医療機関で診断し、そして(同じ施設とは限らないが)医療と、時に行政・福祉制度がその診断を利用し、患者のために役立たせることになる。
 ところが、発達障害では少々話が違ってくる。発達障害児をサポートするにあたり、医師や医療の果たせる役割がかなり限られているからだ。もちろん、医療や療育が不必要というつもりはない。薬物療法が必要な時は医療機関でしかできないし、合併障害の診断・治療にも医療は必須である。また、特に幼児期には療育機関でトレーニングすることは重要である。医療機関であれ療育機関であれ、本人や家族の相談に乗り助言をするという機能もあり、これも無視できない。ただ、医療は発達障害児支援の中心にはなり得ない。日常生活に密着して環境を整え、生活スキルを身につけさせ、能力に応じた学習をさせ、苦手なことをカバーする技能を教え、対人関係を調整し、具体的な日常生活に即した助言を家族に与え、ということが発達障害児支援の最も中心的なテーマとなる。毎日の生活に張り付いていない医師や療育機関の職員にはこのようなことをカバーすることは無理である。
 子供本人と日々の生活をともにする人のみが発達障害児の中心的支援者となることができる。そのような立場で職業的に発達障害児をサポートできるのは教師や保育士である。つまり、発達障害の診断を最も生かせる立場の人達は教師や保育士ということになる。文部科学省が特別支援教育の方針を正式に打ち出してから7年余り。現在ではほとんどの教師は発達障害児に対して合理的な配慮を行うことを前向きに考えているのではないかと思う。実際に言葉を交わす機会があった教師達も、自分自身の職務として発達障害児の適切な指導が必要と考えていた。多くの保育士も同様である。ただ、あくまで個人的印象だが、ほとんどの教師は「診断」に対して腰が引けた感じがする。「診断」はあくまで医療の問題であり、自分はその結果を把握できれば良いと思っている様に見える。
 しかし、考えてみればおかしな話である。発達障害やそれに関連する障害病型のほとんどは、平均的な子供からずれた行動傾向や認知スタイルが主たる特徴である。振る舞い方や物事の認識の仕方がずれているがために色々の失敗をし、困難に遭遇する。そういう子供達が暮らしやすい環境を整え、必要なスキルや学問を修得させていくための工夫は、本人達の特徴を踏まえて練り上げる必要がある。そうであってこその合理的配慮である。それならば、様々な診断概念が持つ意味を十分理解しておく必要があるし、それに含まれる特徴を教師自身が子供に確認できないといけない。「自閉症の診断があれば絵カード」という診断名と具体的対応策の組み合わせを知っておけば何とかなると考える人がいるとすれば甘すぎる。同じ診断名が付いている子供であっても能力、性格、今までの適応状態など千差万別であり、対応策も個人個人に併せて調整する必要がある。となれば、定型的な対応策であっても何故それが有効かという原理や機序を理解していないと応用が利かない。日々予想外の出来事に対応を求められる教師・保育士は極めて知的な職業であり、特別支援教育に限らずマニュアル的対応のみで上手く行くはずがない。
 このように考えてくると、発達障害児に適切なサポートや指導を用意するためには、教師や保育士自身が発達障害の診断概念を熟知し、自ら診断できた方が良い。いや、診断すべきである。もちろん、公的な場で軽々しく診断名を振り回すと子供自身や家族を傷つける可能性があるので、その結論の取り扱いには注意が必要である。しかし、あくまで指導計画を練るための事前評価として、発達障害の診断をするスキルを教師は身につけておくべきではないかと僕は考える。恐らくこういう考え方は一般的な医師の考えではないと思う。医師は訓練を受けた自分たちこそが適切な診断を下せると考えがちである。重複障害の診断の重要性も考慮すると、軽々しく医師以外に診断を勧めるべきではないとする考えにも一理ある。しかし、患者を支援する中心的役割を担えない領域だけでも、もっと診断というものを解放する様に考えても良いのではないか。また、教師も自分達の職務遂行に必要な診断を取り戻すくらいの気概を持っても良いのではないかと思う。

2014年8月27日水曜日

局所最適、全体最適

原子力発電所が停止したことによる電力不足と不景気が相まって、ここ何年か節電が叫ばれている。最近少し緩和された気もするが、それでも至る所で照明が暗くなっている。節電は世の中のためでもあるし、経費削減にもつながるので一見めでたいのだが、スーパーや商店の商品陳列スペースが妙に暗いと人ごとながら心配になる。この暗く盛り下がった雰囲気で、客足が遠のいたり、客単価が減少したりすまいかと。行政からの指示があって節電せざるを得ないのなら、せめて暗くすることでより雰囲気がおしゃれになったり製品が魅力的に見える様に店舗の内装に頑張ってお金をかけた方が良いのではなかろうか、とも考える。素人が考えることぐらいは商売する側の人達はとっくに考えているのかもしれないが。
 僕が勤務する大学でも、経理から様々な倹約令が飛んでくる。予算の執行に関しても細々としたチェックが入る。もちろん、経理課の職員は職務に忠実なだけであるし、全体的にはもっともな指摘や主張が多い。ただ、経理担当部門の動きは支出の抑制が最高の価値基準になっており、予算の執行に関していかに減らせるかという観点からの介入しかしない。「ここの部分にはもっとお金を使った方が良いですよ。」てな指示が飛ぶことはまずない。非常に予算的に苦しい時には各部門、各事業一律に予算を絞ることもよくある。予算の緊縮を強調するあまり、肝心のパフォーマンスを低下させてしまうことがあるのではないかと心配することが結構ある。もちろん、とんでもなく放漫経営になる可能性があるので、予算を執行する立場の人の思い通りにすることが良いとは思わない。しかし、もう少し全体的な損益を見通したマネージメントをする立場の人がいるのではないかと思う。
 ここで自分の職場環境についての愚痴を述べようと思っている訳ではない。どの業界であれ、職務に忠実な人の集団では人それぞれが自分の領域内の問題をつぶすことに熱心に取り組む、ということについて考えている。問題をつぶすことに熱心に取り組むこと自体は悪くはない。しかし、人は得てして局所的な問題に目を奪われ、それに集中してしまう。そして次第に、局所的な問題をつぶすこと自体が日々の目標になってしまいがちである。本来自分は(自分たちは)何を目指していたのか、どういう世界を作ろうとしていたのかを時々立ち止まって考えると、今解決しようと努力していることが必ずしも目標に近づくために有効な手段ではない、むしろ足を引っ張っているということに気付くことも多いのではないか。個別の問題が解決しなくても、全体として成果を上げていければそれで良いはずである。つまり、局所最適に拘るよりも全体最適を目指すのである。変化の激しい流動的社会では、こういう発想がより重要になると思う。しかし、こういったそもそも論は日本人には人気がない(と言っても、僕は外国のことをよく知らないが)。自分の仕事を淡々とこなせば良いのだという考え方の方が肯定的に受け入れられている様に思う。
 局所的な問題解決に専念する考え方に、倫理的信念が加わると、一層困った状態になる。自分は正しいことをやっているのだという自負に支えられ、より一層局所的問題解決に突進するのである。そうなると、局所的問題に関してだけ評価しても、まるで効果のない状態を持続させることになりがちだ。個人的によく経験する例を挙げると、不適切な言動をとりがちな子供への指導で、問題な発言や振る舞いをことごとく叱って修正ないし反省させようとする教師などこの典型例である。いうまでもなく、何度か叱って効果を上げるのであれば、それで良い。しかし、まるで効果がないままに子供を追い回し、結果的に益々問題行動が悪化するという事例が非常に多い。何年か先の将来に、今より少しでも社会的に適切な振る舞いができる人に育つことを目指すのであれば、今現在の不適切な言動を効果のないままに叩き続ける必要はない。むしろ事態を悪化させる。不適切な振る舞いを無駄に追いかけ回している暇があったら、そこそこまともに振る舞っている状態を褒めることや、建設的な活動に取り組む時間を増やすことにエネルギーを注いだ方が余程ましである。
 何年か前のこと、教員の研修会で「効果がないままに不適切な振る舞いを叱り続けることは無駄である。むしろ、将来的に有害である。」という意味の説明をした時、フロアの教員から「しかし、子供の将来を考えると放置することはできない。こまめに注意すべきだと思う。」という発言があった。周りの教員達もうんうんと頷いており、論理矛盾も気にならない風であった。この時は、局所的な問題にのみ注目する態度と倫理的信念が一体になった時の手強さをつくづく感じた。

2014年8月20日水曜日

「うちの子、すぐに忘れるんです。」

発達障害児対象の診療をしていると、「うちの子、すぐに忘れるんです。」と訴える親に会うことは少なくない。「すぐ忘れる」と聞けば、記憶能力の障害をまず考える。しかし、話を聞いてみると大抵の場合、記憶障害としてはなんだかおかしい。友達との遊ぶ約束や何かを買ってもらえる親との約束はよく覚えている。好きなヒーローの得意技や手持ちのカードの戦闘力については事細かに説明できる。昨日見たバラエティ番組のコントの何が面白かったのかも覚えている。どうも、エピソード記憶にも意味記憶にも問題が有るとは思えない。
 実は、家族が「すぐ忘れる」と表現する時には様々な状態が含まれている。多いのは注意しても叱っても同じことを繰り返すということだ。これにも色々な状態が含まれる。何のことを注意され叱られたのか分かっていないことが結構有る。親が何を叱っているのか理解できているかどうかの問題だ。親の口調や形相から叱られていることは十二分に分かっていても、その内容を正確に理解していないのである。ほとんどの大人は、叱る時には何を叱られているのか相手が理解していることが前提になっており、親切丁寧な問題点の解説をしないことがほとんどである。そのくせ、本質的な情報を含まない文句を山ほど並べ立てるので、一層分かりにくい表現になる。また、叱られている時には本人は感情的に不安定になって理性的な理解が妨げられていることが多いため、いよいよ持って相手の言葉の内容が理解できない。何が悪いのか分かっていないのだから、同じことを繰り返してしまう。こういう状況が疑わしい時は、言うまでもなくきちんと分かる様に説明する必要が有る。
 注意された事の意味は十分理解できていても、肝心の瞬間に(何かに夢中になっていたりして)意識に浮かんでこない場合がある。その結果、同じことを繰り返してしまう。これも非常に多いパターンである。瞬間的に頭に浮かんでいない状態なので、「忘れる」という表現が全く間違っている訳ではない。しかし、脳の中に情報はきちんと保持されているので、落ち着いている時に聞かれれば注意されたことを正確に思い出せる。平均的な大人でも、「今日はゴミ袋を買わないといけない」と思いながらスーパーに赴き、買い物に夢中になっている間にゴミ袋のことを失念していたというような経験をした人は多いに違いない。それと似た様なものである。こういう場合はいくら叱っても、肝心の瞬間に意識に浮かんでこないのだから、叱ることの効果はほとんどない。重要な局面で注意事項を如何に思い出させるかという工夫が必要である。例えば出かける時に鍵を持って行って欲しいのなら、玄関のドアに「鍵を持ちましたか?」と書いたカラフルな張り紙をしておくと忘れることを防げるかもしれない。
 衝動性が強い子供もいる。分かっちゃいるけど、ついつい言ってしまう・やってしまう、というやつだ。これも、叱ることの効果がほとんどない。本人だって後で反省している。すっかり忘れて反省していないように見える子供もいるが、自分が失敗を繰り返すことで自身の立場が悪くなっていることは、高学年くらいになれば理解している。分かっちゃいるけどついやってしまうのだから、こういうタイプも問題を繰り返す。しかし、決して忘れた訳ではない。こういったケースの扱いは難しい。自己評価を低下させない様にしながら成熟するのを待てばよいのではないかと思うのだが、世間はそれを待ってくれない。必ずしも世の人々が冷たいからではない。むしろ、その子の「将来」を心配する親や教師が使命感に駆られて問題を逐一叱って回る。せめて少しでも良い方向に動かしたいのであれば、失敗した後で叱るよりも、問題な行動をしていない時にこまめに褒めておく方が合理的なのだが。
 他にも「うちの子、すぐに忘れるんです。」状態を生じる真の原因はあるかもしれない。はなからする気が起きないことや興味がないからという場合もあるだろう。する気が起きないとか興味が無い状態に至る機序も複数あるかもしれない。そして、それぞれのケースで有効な対応は異なってくるだろう。しかし、様々な状態を「すぐに忘れるんです。」の一言で表現してしまうと、当然のことながら問題の改善は遠のいていく。人は複雑な問題を単純化しやすい。最も印象に残る現象のみを捉え、そして頭の中にストックされた似た様な結果に至る原因をさっと照合して結びつける。その結果、単純で人に伝えやすいが、何かしらピントのずれた問題の解釈が出来上がる。一旦ラベルを貼ってしまうと、なかなか別の見方が出来ない。
 人間の行動は複雑である。人間自体が複雑だが、その複雑な存在が多様な環境と相互作用をする中で行動は生じる。ありふれた問題行動一つをとっても、その一瞬を切り取るだけでは何故そういう現象が起こるか理解することは難しい。矯めつ眇めつ様々な可能性を考えていかなければなかなか理解できない。他の人の成し遂げたことや失敗したことを「あいつは◯◯だから。」と一言で説明する物言いを耳にすることは多いが、こういう単純な言説はとりあえず疑ってかかる方が安全だ。

2014年8月7日木曜日

もし何かあれば

痙攣の既往がある子どもは、学校の水泳で何らかの制限を受けることが多い。自治体によっても差はあるが、ひどい例では幼児期に1、2回熱性痙攣があったと報告した結果、小学校を卒業するまで水泳時に親が監視する様に求められることがあった。「もし何かあれば責任が取れないから。」ということらしい。しかし、幼児期の熱性痙攣既往者がたまたま夏の日の水泳中に(学校の水泳では事前に体温まで確認されている)痙攣を起こす確率など、計算するのもあほらしい位の僅かなものである。プールの排水溝に不備がないか確認することの方が余程現実的である。
 感情の制御が難しい子供が、小学校で激しいかんしゃくを起こし、学校から逃げ出そうとすることがある。そういう時に、複数の教員で取り囲み押さえつけようとしたため、さらに子供が興奮して大騒動というエピソードを耳にすることがある。発達障害児の診療をしていると珍しいことではない。小学生ともなれば、余程知的障害が重い子供でなければ勝手に逃亡させておいても迷子になることもないだろうし、頭が冷えたら戻ってくるか自宅に帰るかするのではないかと思うが、学校の先生達は結構派手な立ち回りを演じることが多い。曰く、「学校外に出て、もし何かあれば責任が取れないから。」
 確かに危険性が0とは言えないだろう。しかし、興奮して暴れている子供を取り押さえることにもかなり危険性がある。勝手に逃亡させておく方が余程安全ではないか。しかも、こういった対処を繰り返すことで子供の自己評価や教師に対する信頼感は低下するだろう。長期的に考えると失うものは多そうである。先に上げた水泳の制限であれば、学校側の責任回避という一点に絞れば失うものはなさそうだが、子供の立場に立てば根拠薄弱な理由で失うものがあるのは可哀想である。多くのことに対して「もし何かあれば」とか、「危険性は0ではない」を根拠にして色々なことが行われる。「放射線の危険性は0ではない」からと非現実的なレベルの危険性しかない地域の住民も避難させ続け、却って震災関連死を増やしたことは記憶に新しい。
 予測できる危険性に対して対策を立てること自体は、言うまでもなく重要なことである。しかし、その危険が現実化する確率はどの程度か、そしてそれによって被る損害は何が予想されるかということを考慮することは大前提だろう。また、何らかの対処を実行する時に、その対処法によって生じる損害は無いのかということも十分に考慮すべきである。リスクに対処する手段はその特定のリスクを回避できる効果ではなく、総体としてどの程度危険性を低下させるかを最も重視すべきだと思う。しかし、現実には特定のリスクだけに注目し、しかも完璧なリスク回避を目指そうとするため、結局トータルでは損失の方が大きいのではないかという事例がやたらと目に付く。そういうお粗末な対応程、「良いこと」をしているのだから批判なんてとんでもない、という圧力をまき散らしている様に感じるのは僕だけだろうか。

2014年8月2日土曜日

喫煙

https://www.facebook.com/amnesictatsu/posts/840213275996763 (2014/8/2) より転載

二十代終わり頃、僕は煙草を吸い始めた。バイクの免許を取り、煙草を吸い、世の平均より10年以上遅くグレ始めたのだ。さすがに誰も相手にしなかったけれど。盗んだバイクに飛び乗ってご町内の窓ガラスを割って回ったりすることもなく、毎日せっせと働き、まあ、おとなしいグレ方であった。この時の喫煙は割と長続きし、5年間くらいプカプカと吸っていた。1日一箱くらい吸っていただろうか。
 40歳過ぎた頃にも1、2年間吸い、そして止めた。その後は全く吸っていない。つまり、今まで2回の禁煙をした訳だ。といっても、吸い始めが遅かったためか、そんなに頑張って止めた訳ではない。いずれも、ある日ふと思いたって止めた。止めてしばらくは口寂しい感覚もあったが、さほど辛くもなかった。今、そばで人が喫煙していたら耐えられない程ではないが、止めて欲しいなと思う。乗り物の指定席やレストランの席は迷うこと無く禁煙席をお願いする。おかげで最近は街中で暮らしやすい。この10年、20年程度で、喫煙派と非喫煙派の立場は逆転し、今の日本でヘビースモーカーだと、街の至る所で住み辛さを感じるだろうなと思う。
 要するに僕は、「喫煙についてどう思いますか?」と尋ねられた時、「止めた方が良いと思います。」と答える程度には禁煙賛成派である。ただ、昨今病院や大学など多くの公共施設が次々と敷地内全面禁煙を謳い出している風潮には、素直に頷けない。これには二つの理由がある。一つには地域の評判を落とす可能性がある。どういうことかというと、大きな組織程、そう簡単に喫煙者をなくすことは出来ない。そういう人達はどういう行動をとるか。多くは敷地のすぐ外、例えば正門の前などで煙草を吸う。それだけでも結構みっともないが、吸い殻を道路に捨てる人もいて、近隣の苦情を引き起こしやすい。二つ目はもっと問題が大きい。安全性についてである。阻害された喫煙者達は建物の裏やトイレで吸う可能性がある。これは実質的な危険性がある。禁煙ではなく、分煙ではいけないのだろうか。少なくとも現状では、法律で認められた嗜好品である。そこまで徹底的に排除せねばならないのだろうか。喫煙者を減らした方が良いということに異論は無い。しかし、そうであればなおのこと「排除」の姿勢は正しいのだろうか。ニコチンに限らず薬物依存状態にある人に現状から脱するための援助をするのであれば、排除よりも包摂の姿勢が必要だと思う。
 かつてグレ始めた前後に、僕は大きな大学病院の小児病棟で働いていた。こういう特殊な病院には特殊な病気の患者が多く入院する。数ヶ月間以上の長期に渉り入院する子どもも多かった。小学校低学年以下の子どもであれば、ほとんどの子どもに親、大概は母親が付き添っている。難病に苦しむ我が子の世話を付きっ切りで行ない、不自由な病棟で暮らすことのストレスは相当なものだろうと思う。当時、深夜に病棟で色々な処置を行なうことがよくあった。処置が済んで医局(医師の溜まり場)に戻る際、僕はエレベーターよりも階段をよく使っていたのだが、病棟の階段の踊り場には灰皿とベンチが設置されていた。深夜の階段踊り場にはいつも数人の患者の母親達が煙草を吸いながら雑談をしていた。僕が通りかかると、「あ、センセ、こんばんは」などと声をかけてくれたりした。喫煙が良いとも思わないが、ストレスに満ちた付き添い生活の中で、子どもが寝静まった後に一服吸いながら他愛無いおしゃべりをすることは随分彼女達の救いになっていたのではないかと思う。僕は約5年間勤めて大学病院を出た。10年くらい他の病院で働いてから再び大学病院に勤め始めたのだが、その時には施設内全面禁煙になっていた。勿論、階段の踊り場には灰皿は無く、ベンチさえも無くなっていた。付き添いの親達は、今はどうやってストレスを軽減しているのだろうか。大学病院に復帰してから、ふと気になることが時々あった。

緩い社会、厳格な社会

https://www.facebook.com/amnesictatsu/posts/839377386080352 (2014/7/31) より転載

電車でもバスでも、乗り降りの際に切符を確認する。このことを我々は当たり前のことと感じている。しかし、国外ではそうでもない。4年前にベルリンへ行ったとき、地下鉄に乗る時もおりる時も切符の確認は無かった。先月、学会に参加するためにウィーンに行ったのだが、ここでも路面電車や地下鉄に切符の確認なしに乗ることが出来た。1週間通用する切符を買えば、まるでフリーパスで乗り降りする感じがして、大変気持ちよかった。人に聞くと、たまに検札をする人が来て、その時に切符を持っていないと処罰されるらしい。とはいえ、1週間にわたり何度も乗り降りしたが、検札らしき人を見たことは無い。この状態でも、多くの人はまともに切符を買っているのだろう。中にはただ乗りしている人もいるのではないかとも思うが、そういう細かいことはあまり問題にしていないのだろう。多少の損失は有るかもしれないが、恒常的な検札が無いことから人件費は減らせそうでもある。結構合理的なのかもしれない。
 わずかな経験だが、ヨーロッパの街を歩いていると至る所で日本と異なった緩い印象を受ける。日本よりもエコにうるさいはずなのに、歩きタバコは珍しくない。電車の発着はそこそこ不正確だし、電車や地下鉄の中に自転車を持ち込むし、たっぷりサイズの乳母車を押した親が電車内を含めて町中どこでも屈託なく通行している。誰も文句を言わない。そういえば、最近ネットでしばしば話題になるが、欧州の国々での子育て経験が有る日本人女性は口を揃えて日本よりもヨーロッパの方がおおらかで子どもを育てやすいと述べるらしい。ベルリンで経験したが、トラブルがあって突然運休になる電車があってもその詳細を把握している駅員がほとんどいなかったりする。にもかかわらず、その場の客は皆落ち着いており(内心はシランが)、騒ぎ立てる人はいない。ウィーンのど真ん中では車列の先頭を馬車がのんびりと進んでおり、そこら中馬糞だらけだ。とにかく、そこここに緩い感じが漂っており厳密さが酷く乏しい。そして、細かいことで見張られている感じが少ないのである。
 欧州の人がいい加減だとは思わない。何しろ哲学と現代科学の発祥の地だ。ウィーン大学一つでノーベル賞受賞者は10人以上いる。基本は理屈っぽいに違いない。それが証拠に、ウィーンのカフェやレストランでワインやビールを頼む時、必ずメニューに”0.3L”などと量が明記されている。食事のメニューにはどういう材料でどういう調理がなされたのかが説明されている。にもかかわらず、街の至る所で「細かいことは気にせんもんね。」という雰囲気が漂っている。どうして彼の国はかくも緩いのだろうか。引き比べて「理屈じゃないんだ!」が好きな人の多い日本はどうして事細かなことに厳密なのだろう。欧州の人の方が理屈を重視するだけに大枠や原則を重んじ、理屈を無視する日本人は頼るべき芯となるものが無いためこまごまとした現実を規制しないと安心できないのだろうか。
 なんだかよく分からないが、何が彼我の差を決めているのか分からないが、この国で暮らしていて息苦しさを感じるたびに、ヨーロッパの街から受ける印象を思い出し、もやもやするのである。

自閉症と仕事

https://www.facebook.com/amnesictatsu/posts/825559730795451 (2014/7/7) より転載

自閉症スペクトラム(ASD)を有する人達が仕事に就く時に、どの様なことに困るかについて考えてみた。僕の診療対象はほとんど子供なので、実際に体験した事例をまとめた訳ではなく、あくまで考えてみたことである。知的障害を伴うかどうか、感覚過敏がひどいかどうか、二次障害として鬱病や不安障害を発症しているかどうかなど、様々な要因が影響するので、困りどころは人それぞれである。ここでは知的障害のないASDに本来伴いやすい特徴の影響に絞って考える。なお、どの様なことに困るかを考える訳であるから、どうしてもASDの特性のネガティブな影響を縷々述べることになる。しかし、適切な環境で暮らせた時には同じ特性がポジティブな形で生活に影響することも多いということを最初に断っておく。
 まず、人の気持ちを直感的に掴めないことからくるコミュニケーション能力の弱さはASDの基本的特徴であり、これによって生じる問題が当然考えられる。人が何かを期待している時でもそれに気づいて合わせることができなかったり、相手が不愉快に感じる発言をそうとは知らずに言ってしまうことは多いだろう。また、適当に話を合わせて会話を維持することが難しいので、他愛無い雑談ができない。こういった特徴は、特に接客業(営業職を含む)において大変不利になるだろう。しかし、接客業以外なら意外にこのことが問題の発端となることは少ないかもしれない。なぜなら、仕事の場では基本的な規則を守り、それなりの技術や知識を持ち、信頼性の高い結果を出していれば評価されることが多いからである。接客業でさえ、仕事内容によっては愛想はないが信頼できる店員としての評価を得ることができるかもしれない。
 むしろ、コミュニケーションが下手なことが問題になるのは、他の特徴に端を発した問題が生じ、上司や客から叱られたりクレームをかけられた時の対応の中でのことが多そうだ。通常、人は叱ったりクレームをかけたりする時には、相手が神妙な面持ちで謝罪したり反省の言葉を述べることを期待する。ASDを有する人達はそういう「演技」が下手なので、相手の気持ちを逆なでする様な発言(言い逃れに聞こえる釈明やひどく事務的な状況説明など)をしてしまい、より一層自分が不利になるという展開につながりやすい。本来ASD者には正直者が多く、企んでつく嘘は上手ではない。しかし、人から非難され追いつめられた時にはひどく拙い、すぐにばれる嘘をついてしまい、一層問題をこじらせることも有る。コミュニケーションに関連して追加すると、自分が困っていることや辛い思いをしている時に、それを人に説明したり助けを求めたりすることがスムーズに出来ないことも問題になりやすい。物事が上手く行かなかったり、自分が限界に近づいたりしても、相談したり助けを求めたりできぬままに時間が流れ、より一層問題が深刻化しやすい。助けを求めるスキルは、就職に関して礼儀作法以上に身につけておいて欲しい重要なポイントではないかと思う。
 ASDを有する人達は多種類の情報を並行して処理することが苦手である。恐らくはそれが一因となって、重要性や緊急性に基づいた物事の重み付けが上手く出来ない。また、多くの可能性を考慮しながら事前に行動の計画を立てることが難しい。こういった特徴は多くの職場で直接的な困難の原因になりそうである。特に、日々新しい要求や突発事態が生じる職場ではかなり困難の原因になりそうである。「臨機応変に」対応することを期待する向きが世の中には多いが、ASDを伴う人達はまさに臨機応変が難しいのである。きちっと手順が決まっていれば相当高度な作業をこなす人であっても、「臨機応変」が降り掛かるとたちまち調子が崩れるのである。複数の情報を同時に処理することが難しいことや、全体よりも細部に注目しがちな特徴は、不十分な情報のみに基づいて物事を決定してしまうことにも繋がりやすい。「臨機応変」に対応せねばならないとき、ごく一部の情報だけに注目し、しかも、注目した情報それぞれの何が重要で何はこの際無視すれば良いのかといった重み付けが困難であるため、端で見ている時に「今それか?」とビックリしそうになるピントのずれた行動をしがちである。ルーチンの作業であれば非常に適切に処理している人の場合、普段の働きぶりといざという時のとんちんかんな対応のギャップが大きく、周りの人の理解を得難い。それどころか自分が得意としている狭い領域に限っては、驚く程「臨機応変」に高度な問題解決ができる人達もおり、その場合は益々周囲の人に取っては失敗するときの拙さが理解を超えるだろう。
 ある行動をしていたり、あることを考えたり感じたりしている時に、自分がどういう行動をしているか、自分が何を考え感じているか、ということを意識することも苦手である。第三者視点で自分の置かれた状況を把握しづらいのだ。そのため、自分の行動を客観的に振り返りにくく、結果として自分のどういう行動が問題を引き起こしたかを理解しづらい。また、自分の能力を客観的に評価しにくい事から、自分を妙に過小評価したり、過大評価したり、という事も多そうである。
 一度考えついたり認識したりしたことをなかなか変更できないことも、職場で躓く要因になりそうである。一度受けた指示が変更になっても最初の指示にこだわっていたり、人の言葉を誤解して受け止めてしまうとそれがなかなか修正できなかったりする。価値観の拠り所がかなり浅いレベルに有ることもASDの特徴である。このことと、考えを変え難いことが組み合わされて困った事態を引き起こすことが有る。子供であれば一等賞であることのみが価値が有ると思い込んだり、友達の数が多い方が偉いと思い込んだりすることはよく有る。現実社会では、表面的に「良いこと」とされていることの周囲には様々な考え方が成り立っており、そのため人の持つ価値観は多様になるのだが、ASDを有する人々はシンプルな価値基準を身につけやすく、そして一度身につけるとどうしてもそこに拘ってしまうことがよく有る。大学に行くことが偉いという価値観を持ってしまうと、大学へ行くこと以外の進路は考えられなくなるかもしれない。また、大学を卒業すれば、大学卒業者に相応しい職業という自分の思い込みによって職業選択の幅が著しく狭められることが有るかもしれない。上に述べた自分の能力を客観的に評価できない事も加わり、自分の実力以上の進路を選ぶ事も多いかもしれない。
 色々並べたが、一つひとつの特徴は多くの人にとってさほど珍しいものではないと思う。意識して見ていれば、似た様な特徴を持っている人は、日常的によくお目にかかる。ASD者を支援するためには、上司や同僚が自分の直感にそぐわない言動に対して「あり得ない」と考えず、その苦手さをまずは受け入れることが必要だと思う。その上で、有効な支援や助言のあり方を考えることが求められる。ASD者に対してそういう対応が可能な職場は特定の価値観を押し付ける度合いが小さい職場とも言え、ASD以外の多くの人にとっても気持ちよく生産性を上げやすい職場ではないかと考えるが、どうだろう。

言葉によるコミュニケーション

https://www.facebook.com/amnesictatsu/posts/821599031191521 (2014/6/30) より転載

学生に講義している時に気が付いたが、「コミュニケーション」を言葉によるコミュニケーションに限定して用いる人が多い。「言葉が話せない乳児とはコミュニケーションがとれないので」、「発達性言語障害があるとコミュニケーションが難しいので」といった調子である。恐らく、学生に限らずコミュニケーションと言えば言葉と考える人は多いのだろう。しかし、コミュニケーション手段は言葉に限定されている訳ではない。表情のやり取りであったり、身振りの使い方であったり、言語以外にもコミュニケーションのチャンネルは色々ある。「非言語性コミュニケーション」という言葉があるくらいだ。周りの人が何をしているのか全く気にせずにっこりと見つめ合う、回し蹴りを食らわしてやりたい恋人同士などは、非言語性コミュニケーションに没頭しているのである。
 では、言語によるコミュニケーションの特徴は何だろうと考えると、明確な意味の遣り取りが出来るということではないかと思う。いやしくも言語でコミュニケーションをとる以上は、自分の考えや気持ちを明確に相手に伝え、相手の考えや気持ちを明確に理解することが大事ではなかろうか。と、僕は思っている。だから、人の話を聞いて理解できないとそのままで置いておけないし、自分が話す時には相手に理解してもらえないとどうも落ち着かない。
 付き合いの長いある知人は、良い人なのだが、それどころか最も世話になっている人の一人でもあるのだが、会話をしている時に話していることがとても分かりにくい。何故分かりにくいのかというと、ケースバイケースで色々なパターンが有る。文法的間違い、例えば「〜された」が「〜した」になることが有る。主語や目的語を抜かして話すことが多い。前提となる背景説明を省略しがち。単純な取り違えもよくする。例えば、「AよりもBが好き」というつもりで「BよりもAが好き」などと言う。この調子なので、何を言おうとしているのかよく分からないことが多い。さらに、こちらが理解できなかった時やよく聞き取れなかった時に「なんて言ったの?」と尋ねると、自分が話した直後にも関わらず「何だったかな」と悩むことが多く、そもそも明確な「意味」を相手に伝えるつもりがあったのかどうかさえ怪しい。本人が伝えたいこととは別に、気になることが有る。それは、その人が質問するのでこちらが真剣に返事を言い始めた矢先に、かぶせる様に喋り始めることが多いのだ。え?あんたが質問したんじゃなかったのか?それに誠実に答えようとしているのに、何故聞こうとしないのだ?と、こちらの頭の中は?????で一杯になる。どうも、人の発する言葉の意味を受け止めようとしていないのである。
 要するに、この知人は自分の語る言葉の意味を正確に伝えようとしていないし、相手の語る言葉の意味をきちんと理解しようともしていないのである。言葉によるコミュニケーションの最大の特徴は明確な意味を伝えられることではなかったのか。相手の発する意味を理解できることではなかったのか。この人はいったい言葉を何と考えているのだろうか。
 しかし、次第に分かってきたことがあり、それを今では確信している。日々の生活の中で他者との言語的コミュニケーション量は、明らかにその知人の方が僕よりも多いのだ。彼女の話を聞いていると、友人を始めとして様々な人と多くの会話をしているらしいのである。実際、非常に長時間電話で話している姿を僕自身がよく目撃しているし、魚屋や八百屋の兄ちゃんと気軽に話をしている姿を見ることも多い。その知人と比較すれば僕の方が遥かに正確に言葉を組み立てているはずなのに、彼女の方が僕よりも余程多くの人と長時間語り合っているのである。これはいかなることであるのか?
 時と共に僕は学んだ。言葉によるコミュニケーションにおいても、正確な意味の遣り取りは大して重要ではないということを。学問的議論や裁判など一部の例外を除いて、人にとって意味の正確さなどあまり「意味」が無いのである。意味の有無など無関係に、言葉のキャッチボールが出来ていることが言語性コミュニケーションにおいても最も重要なことなのである。つまるところ、人間は言葉を習得する前から習得する後に至るまで、コミュニケーションに必要なものは意味の明確さや論理ではないのである。

発達障害の理解と支援

https://www.facebook.com/amnesictatsu/posts/817354794949278 (2014/6/23) より転載

教員の研修会での講演を依頼された時、「発達障害の理解と支援」といったタイトルを提案されることが多い。以前は診断基準や主な症状・行動特徴などを教科書的に説明していたが、果たしてこれで「理解」につながるのだろうかと疑問を抱く様になった。何と言えば良いのだろう。無関係ではないものの、どこか違う世界の話を聞きました、というような雰囲気を感じてしまうのだ。質疑応答で、「今日聞いた話は勉強になって良かった。それはさておき、私は日常こういうことに困っていてどのような対策をしたもんだべか?」といった質問をされることが多く、教育現場での業務に用いている思考の中に、講演内容を組み込めていないのだ。こういう経験を繰り返すうちに、最近ずっと考える様になったことが有る。教師が発達障害を理解するためには、まずは障害の診断名から離れて、一般論として子供の個々の行動特性を分析するトレーニングから始める方が良いのではないか、と。
 教師も含めた一般の人と、発達障害との間の壁は、恐らく「障害」という名称への引っかかりではないかと思う。自閉症であれ、注意欠陥多動性障害であれ、発達障害の診断がつく人は特殊な症状を持った特殊な人であるに違いない。しかし、日常的に自分には明確に見分けられない。きっと訓練を受けた医師のみに理解できる特殊な状態なんだ、という思いが有るのではないか。熱心な教師なら、本を読んだり講演を聴いたりして、その特殊状態に関して少しでも多くの「知識」を「記憶」しようとする。しかし、忙しい業務の合間に勉強しても個々の診断概念についての断片的な知識を得るだけに終わるかもしれない。さして意欲の無い人であれば、発達障害者支援法や学校教育法が何を言おうが、自分の本来の業務とは関係のない事柄という意識を持つかもしれない。
 発達障害は、日常の行動特徴や認知的特徴によって定義されている。行動や認知の特性が平均的な人達とずれているために、様々な困難に遭遇する。ではその「ずれた」行動・認知特性とはどの様なものかといえば、ごくありふれた話ばかりである。白衣を着て偉そうな顔をした医師が勿体つけて診断名を告げるものだからさぞや特殊な状態なのだろうと思うかもしれないが、そうではない。うっかり屋さんだったりぼんやり屋さんだったり、落ち着きの無い人だったり余計なことをいらぬ時に何も考えずに言ってしまう人だったり、空気を読むのが下手で人付き合いの悪い人だったり、話が噛み合いにくい人だったりする。こんな人達は周りを見渡せばどこにでも居そうである。こういった特徴がある程度強くなり、本人の努力や工夫ではカバーできないレベルになると、人から援助してもらわないと暮らし難い状況になる。発達障害の基本的特徴は、ほとんどの人が多かれ少なかれ持っている、ありふれた行動・認知パターンなのである。そして、その「ずれ」が大きいために、生活の中で困り、なおかつ自分だけの力ではカバーできなくなった状態である。つまり、発達障害は単に多くの人々に見られるありふれた特徴の、「程度問題」なのである。
 物事の認識の仕方や振る舞い方に平均的な人達とのズレがあること、程度問題であること、困っていること、最低限この3点を押さえておけば、個々の診断概念を熟知しなくても、そこそこ主体的に発達障害児を理解することが可能だと思う。出発点は、「困っている」ことへの気付きである。一例を挙げよう。発達障害児に関することを教師と話している時によく聞く台詞に、「障害のためにこうなのか、それとも単なる我が侭なのかが分からないのです。」というものがある。こんなこと、悩む必要など無い。「我が侭」だと教師が感じ困っているということは、本人にとっても困った状態なのである。周囲が持て余したり困ったり心配したりする状態は、本人にとって困っている状態であり、何らかの理由で現在属している環境の現実に適応できていないということである。「我が侭」なのかどうなのかと悩む暇があったら、その子供が現状に上手く適応できていないのはどういう背景に基づくのかと考えを進めれば良い。何かを認識できなかったり、何かを誤認識したり、何かを理解できていなかったり、集中力や抑制能力が低かったり、といった環境とのミスマッチの要因となっていることを探っていけば良いのだ。
 このアプローチをとる時に、何らかの診断概念に当てはまるかどうかは問題にならない。診断しそれに基づいて対処しようという考え方ではなく、困っている子供を現実の状況に応じて援助しようという考え方だからである。だから、個々の医学的診断概念を知らずとも、援助を開始できる。つまり、発達障害の勉強をしてから支援が始まるのではなく、とりあえず始めてしまえるのである。勿論、発達障害の種々の病型について、特にその認知的特徴を学んでおくことは、困っている子供の認知特性を推測する際のヒントになるだろう。こういったアプローチで重要なポイントがいくつか有ると思う。まず、子供が困っていることを認める態度が必要である。その子供が「出来ない」ということを、指導者が認められなければ一歩も進めない。次に、物事を倫理的な善悪で考えないことが重要である。子供の言動を悪意に取ったり、指導者の力不足を嘆いたりしていれば、何時迄経っても建設的な対応が難しい。子供の種々の能力や認知・行動特性と、指導者を含む環境との齟齬がどこに有るかを検証すべきである。そのために、子供とその周囲の環境を客観的に観察する態度が必要となる。憶測ではなく、事実として観察できることを根拠に問題の背景を探るのである。
 以上のように、僕は発達障害などの認知・行動面の問題を抱えた子供の支援が出来る様に教員をトレーニングするためには、個別の障害病型の教科書的な説明を繰り返しても成果は上がりにくいと考えている。では、少なくとも教員がトレーニングを受けておいた方が良いことは何だろう。僕の狭い経験から判断する限り、何か一つ学ぶのであれば応用行動分析ではないかと思う。認知心理学や認知神経学の知識を得ておくことも役に立つだろう。しかし、認知心理学や認知神経学の知見はなかなか現実に適用できない。仮説どまりのものが多いし、現実の行動特性とのつながりはさほど明確ではないからだ。その点、応用行動分析には種々の利点が有る。まず、現実に生じたことを根拠に仮説を設定するので荒唐無稽な考えに結びつきにくい。また、本人を変えたり成長させることにこだわらない。まずは環境に手を入れることで現実的に可能な改善策を模索する。何より客観的に観察する態度を重視するので、根拠の無い思い込みで対処することを防ぐことが出来る様になる。とはいえ、心や価値から離れてクールにものを考える行動分析学は今の教育界の人達との相性が悪いかもしれないなあとも思っている。

勉強は何故必要か

https://www.facebook.com/amnesictatsu/posts/808707982480626 (2014/6/9) より転載

最近、NHK岡山の特番で、勉強を何故すべきかというテーマで中高校生くらいの子供達と色々な大人達による討論をしていた。食事の後片付けに忙しくしている最中に聞こえてきた話では、どうも子供の多くが「何故勉強をしないといけないのか」、「勉強が何の役に立つのか」と疑問を呈し、大人達が勉強の必要性を述べている様であった。まともに聞いていなかったので、その番組に対する批評というわけではないが、触発されて考えたことを記録しておく。
 少なくとも、現代用いている意味での勉強がア・プリオリに必要なものではないことは明らかである。学習の基本は読み書き計算だが、文字が作られたのはせいぜい5千年前頃であり、数万年に及ぶ人類の歴史に比べれば文字の歴史は遥かに短い。文字が無ければ数学だってほとんど進歩しなかっただろう。つまり、文字の発明以降でなければ勉強する対象さえない。そこまで大層なことを言わなくても江戸時代、ひょっとすると明治・大正時代でさえせいぜい文字の読み書きと四則計算が出来れば上出来と言われながら育った人の方が多かったのではないだろうか。ほとんどの家庭で勉強が大切だと子供に教える様になったのはかなり最近のことだと思う。
 勉強が大切であるという価値観は大人の都合と社会的必要性から出来たはずだ。個人的には学歴が高い程収入が多くなりやすく、社会全体でも教育によって国の生産性が向上するし健康管理も上手くいく。そういったことを人々が長い歴史の中で学習し、教育の重要性が認められてきたのだと思う。だから、個人としての大人も、社会や国も、無条件で勉強は全て大事だなんて思っていない。ある意味御都合主義である。娘が大学へ進学することに難色を示す父親もいるだろう。今政府が進めている国立大学改革なんて経済に貢献しない文系学部よりも理系学部に力を入れようとしているらしい。まあ、それはさておき、勉強が大切だなんて大人が勝手に考えているだけである。しかも、自分の都合に良い様に。そんなことを子供達に懇々と語ったからといって子供が勉強するだろうか。将来役に立つと言われても、来る日も来る日も役に立つ実感を持てないままに学校で暮らしているのに、勉強が大切だなんて思えるだろうか。100歩譲って、勉強が大切であることには同意してくれても、だから猛勉強し出すとも思えない。大人だって、世の中の大切だと認識していることを全てきっちりやっている人なんてとても少ない。
 子供に勉強して欲しければ、勉強が大切だと納得させるよりも勉強することが面白いと思わせることが基本だろう。元々子供達は勉強には魅力があると思っているらしいのである。取り組む価値があると思っている様なのである。何となれば、小学校入学を控えた子供達に「入学したら何するの?」、と問えば、異口同音に「べんきょうする」と答える。せっかくやる気満々で入学する子供達のモチベーションを維持するためには、勉強した後に何らかの満足感が残るようにすべきだろう。そのために何よりも重要なことは「分かる」ということではないか。誰にとっても何かが分かる、理解するという体験は魅力的だと思う。そして、分かった先にはさらに謎が広まることを知った時、その魅力は増していく。勉強をしない子は、「あ!そうか。」と分かる体験を味わえず、勉強をすることの面白さを経験させてもらえなかった、ある意味被害者と言えるのかもしれない。現在の「学年」という縛りに閉じ込めている教育制度では、勉強が苦手な子にも、分かりすぎる子にも、してやれることに限界がある。年齢・学年の縛りを解いて、個々の子供が分かることをもっと重視した教育方法に転換していく必要があると思う。
 話は少し変わるが、冒頭の討論会で子供達が投げかけた疑問の中に、「勉強が何の役に立つのか」というものがあった。これは随分昔からある論点だ。自分が思春期であった40年前でも同じ様な議論が子供と大人との間で交わされていた。繰り返しこの疑問が語られていることから、勉強は「役に立つ」あるいは「役に立つべき」という観念が我々の頭の中に巣くっているようだ。大多数の大人が勉強は役に立つから必要と思っているのだろう。その価値観を子供達も取り入れるため、勉強に疑問を持った時に「いったい何の役に立つのか?」と問うのではないだろうか。そして、ほとんどの大人達は説得力のある説明に失敗する。勉強は本当に役に立つのか、役に立つから大切なのか、と問うた時、答えることは意外に難しい。明確に役に立つと断言できるものは読み書き計算の初歩くらいだろう。それより進んだことを勉強することを「役に立つから」大切だと主張するには無理がある。別に勉強が役に立たないと言いたい訳ではない。そうではなく、どういう勉強が役に立つのか、あるいはどういう状況で役に立つのかを予測することは極めて困難なのである。
 役に立ちそうな勉強の最も分かりやすい例は専門職教育だと思う。例えば医学部で勉強することはこれに該当する。確かに医学部で学ぶことの多くは医師になった時に役に立つし、もっと言えば必要不可欠なものが多い。しかし、これほど単純な事例でもことは複雑である。小児科医として働いていたとしても、医学部の専門課程にないこと(例:文学、哲学、心理学、etc.)を勉強したことが役に立つと感じることは結構ある。本人が自覚していないことはもっと多いのではないか。逆に小児科学の勉強は全て役に立つかと言えば、必ずしもそうではない。典型的なものは、その後の医学の進歩によって否定されてしまうことを勉強した場合だ。この場合、役に立たないどころか足を引っ張ることになる。そこそこ有能な医師でいたければ、日々の臨床の場で目にする問題を整理し、その解決に向けて思考を巡らし、必要な情報を探してくるという営みを繰り返し続けることが重要になる。その時、最も役に立つことは細かい知識よりも、多様で柔軟な思考の方法論であり、必要な情報を探して読み解くためのスキルである。こういったものは医学部の専門課程に用意されたカリキュラムのみで形成される訳ではない。恐らく様々な形での「勉強」を経験する程、高められるのだと思う。
 単純そうに見える専門職教育でさえ、その役に立ち具合は簡単には説明できないのである。ましてや、小学校、中学校、高等学校の時点でどの勉強が役に立つのか、どう役に立つのかなど明確に説明できるはずはない。様々なことを勉強し、頭をフル回転させて考える中で、多様な思考法を身につけ、自ら勉強するためのスキルを磨いて行けるのではないか。そのことが「きっと役に立つだろう」とかなりの確信は持てるが、そんな漠然とした話をされて子供達が納得できることもないと思う。結局話は元に戻るが、子供に勉強をさせるためには「面白い」と思わせることが最も重要だし、少なくとも勉強することで何らかの満足感を感じさせる必要がある。勉強は大事である。子供達が勉強することを促して行かねばならない。しかし、勉強す「べき」だから勉強しろ、ではこちらの期待通りに子供が動いてくれることはなさそうである。
 食器の片付けが終わり、件の番組を見た時にはほとんど終わりかけであった。司会者が、議論の結果考えが変わったかどうか、どのようなことを考えたかという質問をしていた。子供達は素直に議論を通じて何を考えたかを語っていた。彼らは、大人の都合で企画された番組に引っ張り出されたのであっても、自分の考えを述べ、相手の主張に反論し、逆に相手の考えを理解し、新たな自分の考えを組み立て主張していた。恐らく、そうやって考え、答えを見つけようとし、見つけたと思ったらさらに分からないことが増えていたのだろう。もし彼らがその営みに面白さを感じたのであれば、それが勉強することの楽しさだと思う。そういう意味では、この討論会は教育的だったのだろう。
(以上で終わるつもりだったが、追記。僕は教育の専門家ではないものが教育を語ることには注意が必要だと考えている。言うまでもないが、この駄文も非専門家が客観的根拠なく述べたものである。正しいかどうかを検討する程の価値もない文章であると、言い訳がましく述べておく)

教師の専門性

https://www.facebook.com/amnesictatsu/posts/800126853338739 (2014/5/25) より転載

随分以前のことだが、DVの事例に関わったことがある。もちろん僕は、DVは全く専門外なので、単に一知人として関わっただけである。その際、ある教育畑出身の人が自分には口を出す資格があると主張し、教育行政の高い役職に就いた経歴をその理由に挙げた。僕はDVと教育行政がどうつながるのか理解できず、返す言葉がなかった。医学的な判断に口を挟もうとする教師も結構多い。患者の親に、薬を飲ませろとか飲ませるなとか、その診断は良いとか悪いとか意見する教師の話は、毎年何回か耳にする。
 これだけを述べると教師の万能感を揶揄しているようだが、全く逆の現象もある。発達障害の診療をしていると、教師から受ける質問で最も多いのではないかと感じるのは、「今後の指導法を教えてください。」というものだ。診断概念や薬物療法について解説を求めるのであれば理解できるが、教師が医者に指導法を聞いてどうするのだろうか、と首を捻る。行動障害に基づく深刻な問題に関する質問ならまだしも、発達障害児に限った話ではなかろうと思われる、どこの学校でも日常的に経験されそうな問題への対処法でさえ質問されることがある。
 つまり、教師と接していると、妙な万能感と妙な自信のなさの両方を強く感じてしまうのである。こういう例を何度も経験している中で、ひょっとすると教師には純粋に技術的な面での専門性の意識が希薄なのかもしれないと思う様になった。自分の能力で今可能なことは何で、限界はどこにあるのか。すぐに対応できなくても、どういう種類の問題に対しては専門家として解決策を追求出来るしするべきであるか。こういったことを明確に意識していないのではないだろうか。僕も教育系の大学で働いているので想像がつくのだが、教師に自分の専門性についての意識が全く無いとは思わない。理念的には「教師とはかくあるべし」という考え方をかなり叩き込まれているように見える。ただ、具体的な技術レベルの専門性という意識に乏しいのではなかろうか、という気がする。明確な根拠はないのだが。
 教育については様々な立場の人が好き放題に意見を述べ、批判をする。教員養成課程でのトレーニングを受けたこともない人々の多くが、教育に対して一家言持っている様に見える。ともすれば世の中の問題点の原因を教育に求め、政治家、経済人、小説家、その他様々な人達が寄ってたかって教育制度を作り替えようとするし、実際その影響を受けた教育政策の変更がなされる。教師に確固たる専門性の意識が乏しい様に見えるのは、世の中全体が教育に高いスキルや方法論が必要と思っていないことの結果ではないかと僕は疑っている。もし、素人には計り知れない高度な専門性を想定していたら、気軽に教育制度の中身に手を突っ込みかき回す気になれるはずが無い。この辺りの事情は保育とよく似ている。準保育士制度の提案が最近話題になったが、そこには保育なんて子育て経験があれば出来る出来る、という舐めた姿勢が見て取れる。
 教育にしても、保育にしても、その業務内容は極めて複雑であるし、日々想定外の事態への対処を求められる。常に一定レベル以上の成果を保障しようとすると、極めて高い知的レベルを要求されることになる。単にたくさんの知識を身に付けておけば対応できるものではなく、手元にある情報をフルに活用して総合的な判断を下し、次の一手を計画し、実行し、その結果を評価して方向を修正していく必要がある。つまり、職業的に教育に関わる以上、理念や倫理だけではなく、高レベルの技能や方法論を常に追求する必要があるはずだ。
 教育の理念や目的だけなら国民全体で議論するのも分かるが、少なくとも技術的な面はもっと教育学の専門家が自律的に物事を決めていける様にした方が良いのではないだろうか。そして、教育の方法論を模索するにあたっては、客観的なエビデンスに基づいて企画することや、新しい試みに対しては必ずその成果を客観的に検証することを重視する必要があると思う。これを保障するためには、教師以外の国民がもっと教育に対して謙虚になり、教師の専門性を尊重するようになる必要があるのではないかと思う。今の政治家の言動や世論を見ていると、先行き明るいとは思えないけれど。

大阪市教委のゼロトレランス

https://www.facebook.com/amnesictatsu/posts/796692373682187 (2014/5/19) より転載

「教育やしつけには厳しさも必要」とだけ書けば、特に反論もない。しかし、ここで言う「厳しさ」が非常に強い苦しみや恐怖心を子供に引き起こす処罰や叱責のことを意味するのであれば、それには疑問がある。行動学の知見を考慮すれば、効果の高い指導のポイントは言動とその結果生じることの対応の一貫性が高いことである。不適切な行動の結果として得することが決してない、あるいは常に損失(軽くても良い)が伴う。適切な行動の結果として必ず良い結果がついて来る。この行動と結果との対応の一貫性が効果的な学習につながるのである。一貫性さえあれば、通常の指導場面での不適切な行動に対して強い罰を加え本人に強い苦痛を与える必要はない。さらに、出来るだけ先回りして、不適切な行動を起こしやすくする環境を取り除き、好ましい行動が生じやすくなる環境を用意できると万全である。ただこのような指導の枠組みを堅固なものにするとき、むしろ指導者の方が苦しくなりがちであり、揺るぎのない強い意志が求められる。つまり、「厳しい」教育やしつけは指導者にとって厳しいのだ。
 強い苦痛を与える「厳しい罰」は一見即効性があるため、多くの指導者がこれに頼ろうとする。体罰でさえ、必要悪と主張する人は跡を絶たない。しかし、強い苦痛を与える罰が有効性に欠けることは多く指摘されている。一見その場では効果があるようでも、学習効果を長期的に維持できない。さらに、般化しないため別の場面(その指導者がいない状況)では同じ問題行動を繰り返しやすい。それだけではなく、負の感情的反応を伴いやすいので、攻撃行動をはじめとして様々な問題行動の増加を伴いやすい。これだけでも困ったもんだが、「厳しい罰」で子供を制御しようとする時に陥りがちな問題がある。それは、適切な振る舞い方が出来ない子供達には何らかの「出来ない」理由があるのだが、そこを無視しがちになるということである。基本的な原因を放置したまま不適切な行動に厳罰を下すという状況は、子供を八方ふさがりの状況に追い詰めていくことになる。
 大阪市の教育委員会が打ち出したゼロトレランスは、問題行動の結果としてどういうことが起こるかを明確にしたという点では理に適っている面もある。しかし、毎日新聞の報道( http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140518-00000013-mai-soci )に基づけば、それにも増して問題が多く、恐らく成功しないのではないかと思う。まず、行動と結果の対応の一貫性についてである。程度の強い問題行動を想定しているためと思うが、出席停止や退学処分など強い懲罰を並べている。要するに、厳罰処分である。これは使いにくい。罰を決定する教員側がその実行を躊躇する。なんとか実行しない様に理由付けを考えるため、一貫した罰の実行が難しくなる可能性がある。また、いよいよ他に考えようがなくなって厳罰を実行したとしても、これは繰り返しにくい。厳罰を実行するためには教員の精神的・実務上の負担が大きく、コストがかかるからである。しかも、出席停止ならまだしも、退学処分は一つの学校では1回しか実行できない。先に述べた様に、言動とその結果生じることの対応の一貫性が高いことが大変重要になる。実行しにくいし、繰り返しにくい罰は一貫性を担保できないので教育的成果につながらない。そればかりか、負の感情的反応を誘発し、多様な問題をさらに誘発する可能性がある。
 もっと問題なのは、問題行動が生じるメカニズムに対する対策を重視していないことだ。人間の問題行動は全く偶発的に生じることはほとんどない。そうせざるを得なくなる何らかの理由が、本人自身の能力や行動特性、そして環境の中にあるはずだ。そこに手を入れずに、生じた問題行動だけ叩いても、行動の改善はなかなか見込めない。分かりやすい例を挙げよう。飢えに悩まされる子供が店の食べ物を繰り返し盗むとき、その盗みに対する処罰だけを繰り返しても、まず解決はしない。飢えた子供に盗みを止めさせたければ、飢えている状況を改善することが最も効果的である。学校での問題行動を、そうせざるを得ない理由に目を向けぬまま、反省を強いることのみで解決しようとしても成功する可能性は極めて低い。問題行動への最も効果的な対応は、厳罰主義に頼るのではなく日常的に問題の目が小さいうちから合理的な対応をきめ細かくすることである。つまり、エビデンスを持った理屈を取り入れながら、教員のスキルを向上させていくという地道な努力が最も重要だと思う。やはり教育には(指導者に対する)「厳しさ」が必要なのである。
 最後に、上記の毎日新聞の記事には「問題行動を繰り返す生徒を集めた特別校の新設」が検討されていることにも言及されている。犯罪学が専門の浜井浩一さんは、現在留置場には老人や障害者など社会で暮らすことが困難な人が繰り返し戻って来る現状を示し、刑務所が社会の最後のセーフティネットになっていることを指摘している。通常の学校で上手く暮らせない子供に、そうならざるを得ない理由への対処を考えないままに特別校を新設すれば、浜井さんが指摘する刑務所とにた様な状況になりはすまいか。器用に暮らせない子供に、何とか社会で頑張って生きていくスキルを身につけさせないと、若くして社会から排除された状況が固定した人達を増やすことにならないだろうか。

選挙権

https://www.facebook.com/amnesictatsu/posts/795507333800691 (2014/5/17) より転載

国民投票法改正案が衆院を通過した。この法案が発効すると、4年後から憲法改正に関する投票権が18歳以上に引き下げられる。とは言え、年齢が引き下げられるのは憲法改正に関する投票だけで、その他の選挙に関してはなかなか変わりそうにない。選挙権を与える年齢を18歳に引き下げる案は随分昔から議論されている。世界中の国を見渡しても、圧倒的多数の国で18歳になれば選挙権が与えられる。しかし日本では実現しない。議員の利害関係という話もあるのだろうが、国民の少なからぬ数が反対している。色々理由があるのだろうが、18歳ではまだ人間として未成熟だ、大人と見なすには頼りなさ過ぎる、という考えが強いのではなかろうか。 確かに、自分の勤務する大学の学生を見ると、新入生である18歳の学生と、20歳以上の学生では明らかに振る舞いが異なっている。はっきり言って18歳、19歳あたりの学生(1年生や2年生)は幼い。言動が何かに付け子供っぽい。それに引き換え、20歳を超える学生達は大人っぽい。勿論、頼りなさが全くないかと言えばそんなことはない。しかし、明らかに1、2年生に比べて大人の雰囲気である。何か重要な仕事を任せるなら、迷わず20歳以上の学生達を選びたくなる。
 だから僕も選挙権を20歳以上にとどめたいと考えているかと言えば、そうではない。20歳の大学生が18歳の学生よりしっかりしているのは年齢固有の特徴ではないと推測している。単に上級生だから、あるいは下級生だから醸し出す雰囲気にすぎないと。小学校6年生は非常に大人っぽい。それに対して中学1年生の幼稚さは目を覆わんばかりである。20歳以上の「大人」でも似た様なもんである。職場の新人達が如何に頼りなく見えるか。管理職であっても、昇進間もなくの初々しさや頼りなさは、ほとんどの人に当てはまる。
 年齢が人を作る部分もあるかもしれないが、役割や立場が人を作るということの方が大きいのではないかと思う。大体自分やその周囲を見るとき、50歳を過ぎた人の愚かさはびっくりする程である。何歳になっても人間は完成しない。完成するどころか多少ましになった矢先にガタガタと愚かになることがとても多い。40歳、50歳と年を食ってきた人のほとんどは、現在の年齢の人間が自分が若い頃に思っていたよりも遥かに頼りないことを、何も出来ないことを実感しているのではないだろうか。中年になっても、初老になっても、子供の頃や若者の頃に思っていた程には人は成長できないのである。訳知り顔に見えたおじさんおばさん達も、実は分からないことだらけで、不安でいっぱいであることに、自分もその年になって初めて気がつくのである。
 10年、20年経っても人は大して成長できない。とすれば、18歳と20歳の差が如何程あるというのか。まだ幼いとか頼りないとか批判している暇があったら、選挙権という役割を与えれば良い。きっと立場や役割が人を作っていくのではないかと思う。選挙権を与えるということの、教育的な意義がきっとあると思う。

心の理論

https://www.facebook.com/amnesictatsu/posts/787877461230345 (2014/5/4) より転載

僕が大学生だった冬のある日、所属していた部活の部室に行くと半分以上中身のある一升瓶が置いてあった。これはラッキーと思いながらいそいそコップに注ぎ口に含んだところ、何かがおかしい。慌てて吐き出した。その液体は灯油だったのである。アホと言えばアホなエピソードである。しかし、ここには人の行動が何によってもたらされるかが端的に示されている。何故、僕が一升瓶の中の液体を飲むという行動を起こしたかといえば、僕が「その液体は日本酒である、旨い日本酒である」と確信したからである。客観的事実として瓶の中身が素晴らしいものであったからではない。人の行動の根拠はその人の心の状態の中にある。すなわち、人は自分が確信している事や願っている事に基づいて行動するのであり、現実世界の客観的事実を根拠に行動する訳ではない。
 心の状態と行動の密接な関係が理解できていれば、他者の行動を見てその裏にある意図や気持ち(心の状態)を推測できるし、人の心の状態を知る事が出来ればその人の次の行動を予測する事が可能となる。人の心の状態を推測することは複雑な営みである。まず、他人が自分とは違う信念や願いを持っているということを理解できることが大前提である。そして、状況の推移やその場に居合わせる人達の互いの関係性などの文脈をふまえた上で、人の行動、表情、発言を総合的に考慮して、相手の意図、信念、願いなどの心の状態を推測する。そして推測した心の状態を手がかりに、人の次の行動を予測する。このような、他人が自分とは違う信念や願いを持っているということを認識し、人の行動はそれらの信念や願いで説明できることを認識する能力を「心の理論」と呼ぶ。こうやって説明するとややこしいが、多くの人は無意識に、かつ瞬時にこういう作業をやってのける。そのため、人の気持ちを推測する事は誰にでも出来る当たり前の事と思われがちだが、実は上述の様にかなり複雑で高度な作業である。2、3歳の幼児ではこういった能力はまだ発達していない。幼児期を過ぎても「心の理論」が十分に発達しない状態や、後天的に「心の理論」が障害される状態もある。
 「心の理論」という概念が注目される様になったきっかけは、1980年代にバロン=コーエンが自閉症児は「心の理論」が障害されている事を示したことである。自閉症という状態が何故生じるのか。この疑問に認知心理学や神経心理学の立場からの説明が色々されているが、その中で最も多くの人に知られているものは「心の理論」障害仮説だと思う。「心の理論」能力を評価する方法は色々あるが、バロン=コーエンが最初に用いた方法は「誤信念課題」と呼ばれるものであった。これは被験者にまず、人形劇で女の子がビー玉を籠にしまい、続いてその女の子が知らない間に別の人がビー玉を籠から取り出して箱の中にしまったという状況を見せる。そして、その女の子がビー玉で遊ぼうと思った時に籠と箱のどちらを探すか、という問いに答えさせるという課題である。状況の推移から女の子はビー玉が籠の中にあると確信しており(誤信念)、まず籠を探そうとすることを瞬時に判断することが求められる。この課題は、平均的な発達をする子供では4、5歳くらいで通過する。ところが自閉症児では、知的障害がなくても、8歳になっていても、女の子は箱を探すと答えることが多かった。「だって、ビー玉は箱の中にあるから」つまり、自閉症児は心の状態を手がかりに人の行動を予測することに困難さがあるのだ。「心の理論」の障害は、自閉症児の社会での困りどころをかなり良く説明できるため、この考え方は多くの研究者や臨床家に広まることになった。
 レスリーとフリスは「心の理論」を発達させるための基盤として、「メタ表象」能力の重要性を説いている。これは、「認識している」ことや「感じている」ことや「考えている」ことを認識する能力である。心の状態がどうなっているのかを認識する機構である。ここには他人の心の認識だけではなく、自分の心の状態を認識することも含まれている。具体的には、「彼は怒っているな」とか「彼女は好意を持っているな」ということや、「僕は辛い」とか「僕はこのことを喜んでいる」といったことを認識することである。自閉症児では「心の理論」障害があるということは「メタ表象」の弱さもあるということになる。よく自閉症は他者の気持ちが理解しにくい状態と説明されるが、実は自分の気持ちを対象化することも苦手である。そのためか、かなり言語能力が優れた自閉症児でも、「僕は悲しい」、「私は悔しい」、「助けて欲しい」などと自分の気持ちを表現することが苦手な人が多い。
 それにしても、「心の理論」という名称は分かりにくい。何しろ「理論」だから、学者が考えた何かの学説のことの様に思えてしまう。もとの英語は”Theory of mind”である。改めて辞書を引くと、theoryには「理論、学説」という意味の他、「推測、憶測」という訳語も並んでいる。ひょっとしたら、英語圏の人は「心の推測」程度の意味でこの用語を作ったのかもしれない。
 最後に、灯油を口に含むことは止めておいた方が良いことを付け加えておく。飲み込まずにすぐに吐き出し、水で厳重に口を濯いでも、その後一週間以上にわたって灯油の臭いがするという極めて不愉快な状況になる。

モニタリング

https://www.facebook.com/amnesictatsu/posts/786692048015553 (2014/5/2) より転載

 僕は人の言葉を聞き取りにくく、会話の最中によく聞き直す。そういう時、今言った台詞をもう一度はっきりと言ってくれるとありがたい。しかし、ある知人は十中八九同じ台詞を繰り返してくれない。今言った言葉の補足説明をしようとしたり、酷い時は多少関連した別の話題を話し出したりする。発端の台詞を聞き取れていないのにそこから発展した話をされても、こちらとしては益々状況を把握できなくなる。最初の頃、イライラしながら「同じ事をもう一回言って。」と頼んでいたのだが、益々話が拡散して訳が分からなくなることが繰り返された。
 次第に分かってきたのだが、その知人に全く悪気はなく、たった今自分が言った言葉を本当に思い出せないらしいのである。僕は、今言った事を繰り返し言える事は当たり前だと思っていたのでなかなかその事実が信じられなかった。しかし、同じ様ないざこざを繰り返しているうちに、本当にその人には難しいのだという事が納得できだした。この発見を契機に、実は同じ様な人、つまり今言ったばかりの台詞を繰り返せない人は他にも結構いる事も発見した。この発見に感動するあまり、今言ったばかりの台詞を思い出せるかどうかを評価する心理検査を開発するという課題を学生実習で出して遊んでしまったこともある。
 今、現在、自分は何を言っているのか、自分は何をしているのかを把握する認知能力はモニタリングと呼ばれる。様々な、新しい予想外の事態に対処する時に活用される認知能力を実行機能と呼ぶが、モニタリングは実行機能の一要素である。予想外の新しい事態に対処するためには、常に自分の言動を意識し、その言動がどういう状況で行われているのかを自覚し、自分の言動がもたらした結果を把握しながら次の行動を計画・調節していく必要がある。自分は今何をしているのかを客観的に意識できるかどうかは、日常生活において結構大事である。
 この問題が顕著に現れるのは自閉症児である。自閉症児は自分の行動を客観的に認識できていないことから自分の失敗に気付かなかったり、振る舞い方を修正できなかったりする場面が結構ある。といって、件の知人にも大きな問題が日々生じている訳ではない。僕から文句を言われる以外には取り立てて日常困る問題はない。その知人以外にも、同じ台詞を繰り返すことは苦手だけど日常何ら問題なく暮らしている人を、今では多く知っている。恐らく自閉症児の場合はモニタリング障害単独の結果というよりも、併存する他の実行機能の要素の問題や、実行機能以外の問題との相互作用によりモニタリングの障害が大きな影響を持つのではないかと思う。
 なお、「知人」はこの話を書くために想定した架空の人物である。僕の家族の誰かとか、ましてや奥さんだとか、そういうことではない。

「頑張り」「我慢」

https://www.facebook.com/amnesictatsu/posts/780709925280432 (2014/4/23) より転載

 落ち着きが無かったり、衝動的であったり、何らかのハンディを背負い学校や幼稚園に適応できない子供達が耳に胼胝ができるくらい耳にするのは「頑張ろう」であったり「我慢しなさい」である。そのような子供達を診療する身としてはこの手の話をいっぱい聞くので、僕の耳も胼胝だらけである。
 長時間座っていられなかったり、順番を友達に譲れなかったり、うっかり失敗して叱られたことを翌日にも繰り返してしまったりする子供達は、見た目には怪しからん奴らなのである。クラスの多くの同級生がきちんとできていることが出来ないのであるから、どう考えても我慢が足りなかったり人並みに頑張らなかったりする不届きな奴らなのである。
 ん、そうなのか?
 彼らは計画的にさぼったり、人を苦しめるという目的に向かって邁進したりしているのだろうか?
 そんな事は無いだろう。わざわざ悪者になりたい子供なんてほとんど存在しない。ほとんどの子供はそれぞれが人に誇れる自分でありたいのだ。それが証拠に、就学直前の子供達に「小学校に行ったら何をするの?」と尋ねると、性別や障害の有無には関係なく口を揃えて「勉強!」と嬉しそうに答える。ほとんどの子供達は世間で良いとされている振る舞いを、自分もしようと考えている。
 失敗を繰り返す子供達は頑張っているし、我慢しているのである。そしてそれが限界に達するから、破綻を来すのである。自分の限界まで頑張り、限界まで我慢する子供達。何といじらしいではないか。きちんと勉強し、人のことを思いやり、先生の指示によく従う子供達は、さほど頑張ってもいなければ我慢もしていない。何となれば、そういう子供達にとっては要求されていることが余裕を持って能力の範囲内に収まっているからである。しかし人は通常、何を成し遂げたかという外から見えることだけで物事を判断する。教師も例外ではない。従って、やすやすと物事をこなしている子供が「頑張る子」とか「我慢する子」と評価されることになる。教育者は「成果主義」を批判しがちなのに、奇妙な現象である。そして自分の限界まで頑張り我慢した子供達はどうなるかと言えば、「もっと頑張ろう」、「もう少し我慢しよう」と指導されることになる。
 限界まで頑張っている人にもっと頑張らせよう、もっと我慢させようとすることは、かなり残酷なことである。徹夜続きの残業でフラフラになっている社員が、業績が上がらないのは君の頑張りが足りないせいだと言われたらどうだろう。あるいは、足に麻痺がある人が50m走りきれない時、君は我慢が出来ない人だねと言われたらどうだろう。無理なことをやれと言われ続けたとき、その結果として挫折の山が積み上がっていくだけである。失敗を繰り返す子供達の指導として、さらに頑張らせ、さらに我慢させることを中心に据えることは全く合理的ではない。要求水準を下げ、課題を達成する経験を増やすことの方が先決である。

発達障害児とクラス担任

https://www.facebook.com/amnesictatsu/posts/774248375926587 (2014/4/12) より転載

平均的な子供でもそうだろうが、特に発達障害児は学校の担任が変わった事で日常の生活状態が良くも悪くも大きく変わる事が多い。発達障害児の診療をしていると珍しい話ではないが、特にここ1、2ヶ月の間に、担任がらみで状態が大きく変化した似た様なケースを複数経験した。全員共通した状況は、家では親が困る事はあまりない。学校では、ある学年までは取り立てて大きく問題になるエピソードは無かった。しかし、問題の学年になってから授業中に不適切な言動が頻回に見られたり、学習に取り組もうとしなかったり、同級生とのけんかが増えたりし、困って病院を受診したという状況である。そこで改めて評価すると、大きな問題にならなかったものの集中力の悪さや多動傾向、あるいは対人関係の作り方の拙さが幼少期から認められていた事が確認された。中には、問題の多かった時期からさらに学年が上がって担任も変わった後は急速に落ち着き、受診時には直ちに対処せねばならない大きな問題が無い子供もいた。
 まるで、応用行動分析で言うところのAB、あるいはABAデザインの様な状況である。具体的にどこがどう上手くいかなかったのかはもっと詳細な情報を得ないと不明だが、少なくとも特定の担任という「介入」がこれらの子供達に取って悪条件になった可能性は極めて高い。僕の主観的な印象だが、こういうケースでの担任は個々の失敗を一々取り上げ、子供を(ついでに家族を)追い詰めていくタイプが多い気がする。危ういバランスながらがんばって上手く暮らせていた子供が、たまたま担任との組み合わせが悪かったために適応できなくなったのかもしれないのである。小児期に自己評価が大きく低下する体験は、下手をすれば一生尾を引くかもしれず、運が悪かったで済ませるわけにはいかない。一方、指導に失敗した担任にとっても不幸な状況のはずである。
 よく言われる担任の「当たり外れ」の話をしたいのではない。先に挙げた様な状況では、ABデザインの様なしゃれた言い方をするまでもなく、誰が見ても何らかの意味で担任のやり方がその子供と合っていない可能性が高い事は分かると思う。ある学年で問題が頻発すれば、では、今までの学年ではどうであったのか、家庭ではどう認識されているのか、という風に検討を進めれば、今の指導に工夫をする余地があるかもしれないと気づくはずである。ならばどうしてその子供と担任を支える動きが起きなかったのだろうか。
 学校の内部の状況をよく知らないと、こういった現象が放置されていたメカニズムを分析できない。ここでは疑問点だけを羅列しておく。まず、つまづいた子供と担任をカバーするためのシステムが学校にはあるのだろうか。例えば、問題事例が報告されたら、第三者の教員が過去の状況や家庭での状況を含め、広範な情報を直ちに調査する制度など。次に、倫理的な問題ではなく業務のパフォーマンスの問題とした認識は出来ているのだろうか。倫理的な観点で見た時、発達障害児が引き起こす問題は「悪いこと」である事が多いので、担任側に改善すべき要素があるという話になりにくい。最後に、教育業界には何か問題がある時によりよい状況を得るために合理的な戦略を考えるよりも、問題が生じる責任を問う風土が無いだろうか。責任を問う文化では、当事者は他に助けを求めにくく抱え込む事になりやすいと思う。

自閉症関連の診断名

https://www.facebook.com/amnesictatsu/posts/766465840038174 (2014/3/28) より転載

自閉症がらみの用語が多くて、親や教師・保育士が混乱している事がよくある。DSM5になって、「自閉症スペクトラム」が加わったものだから、さらに「???」となる人が増えそう。ちょっと自閉症の歴史を付け焼き刃でまとめてみた。
 1943年にアメリカでカナーが人との情緒的触れ合いの根本的欠如と変化への強い抵抗を示す11人の子供達を「早期幼児自閉症」として報告した。翌1944年にオーストリアのアスペルガーがカナーの症例と類似した特徴を持つ患者を「自閉的精神病質」として報告した。以後、社会性の障害を特徴とする様々な概念が色々な研究者によって提唱された。1970年代にウィングとグールドがイギリスのキャンバーウェル地区の調査で、カナーやアスペルガーが定義した様な患者以外にも、様々なレベルの自閉症的な特徴を持つ子供が存在していることを見出した。その子供達は共通して、社会的相互作用の障害、コミュニケーションの障害、想像的活動の障害および反復的な行動パターンを示していた。ウィングとグールドは、カナー型やアスペルガー型の子供も含めて広く連続的な概念として「自閉症スペクトラム」と名付けた。
 一方、1987年のアメリカ精神医学会の精神障害の診断と統計の手引き第3版改訂版(DSM-III-R)および1994年に発行された第4版(DSM-IV)において、自閉症スペクトラムとほぼ同じ意味で「広汎性発達障害」という診断名が採用され、これが世界中に普及した。広汎性発達障害はウィングらの自閉症スペクトラムの考え方の影響を受けたものだが、大きな違いとして、広汎性発達障害の名の下に「自閉性障害」、「レット障害」、「小児期崩壊性障害」、「アスペルガー障害」、「特定不能の広汎性発達障害」の5つの下位カテゴリーが区別されていた。しかし、レット障害は特定の遺伝子異常で生じる特殊な疾患であることが判明したし、他の4病型の境界は明確ではないという問題点があった。2013年にDSMは第5版(DSM5)に改訂されたが、広汎性発達障害からレット障害が除外され、残りの4つの下位カテゴリーの区別も廃止されて連続的な概念となった。さらに、広汎性発達障害という名称も自閉症スペクトラムに変更された。
 以上の様な経緯があるため、世間には自閉症スペクトラムに関係した多くの用語が存在する。特に、「広汎性発達障害」、「自閉性障害・自閉症」、「アスペルガー障害」、「特定不能の広汎性発達障害」という言葉を耳にすることが多いのではないかと思うが、患者家族や教師・保育士の立場では、全て自閉症スペクトラムと同じ意味だと割り切っても、実質的な問題は無いと思う。

教訓話

https://www.facebook.com/amnesictatsu/posts/762349703783121 (2014/3/21) より転載

大学に入学予定の高校生達が書いた感想文を読んでいる。課題図書は言語発達のメカニズムを解説したものなのに、やたらと将来への教訓話に押し込めてしまう人が多い。知的に面白がるだけで良いではないかとむかっ腹を立てながら、学生達にコメントを書いた。

追記(2015/6/8):学生に読んでもらった課題図書は下記のものである。
今井むつみ「ことばの発達の謎を解く」筑摩書房、2013

【この文章は、私が担当した方々全員に書いています。
 「言葉の発達の謎を解く」という本はどのように人が言葉を獲得していくのだろうかということについて書かれています。皆さんも読んで気付かれたと思いますが、既に十二分に分かっていることを教科書の様に解説している本ではありません。言語発達のことを調べている研究者達が、一つ一つ小さな問いを立て(例:何を手がかりに音節を区別するのか、固有名詞と普通名詞をどのように区別するのか、etc.)、そしてそれを明らかにするために様々な手段を工夫し、その結果あくまで仮説ではあるけれど問いに対する答えを見出して行く、その過程を出来るだけ具体的に分かりやすく解説しているのです。
 皆さんはこの本を真面目に読み、感じたことや考えたことを率直に文章にしてくれました。そのことは高く評価します。ただ、皆さんの原稿を読んで少し引っかかるところもありました。それは、「保育士になった時にはこの本から得た知識を生かして〜」というふうに、この本から何らかの教訓を得ようとされている人が多かったからです。どのようなことでもそれを自分の将来への教訓とすることは悪いことではありません。しかし、いつもいつもそのように物事を教訓として受け止めていると息が詰まります。新しいことを理解することや、謎を解明する筋道の目撃者となることは、それ自体で大変魅力的なことです。物事を明らかにすることの面白さの前では、現実的な教訓や利得は小さなことです。
 皆さんは4月から大学生になります。大学での学びの目標は色々あります。保育士や教師の資格を得ることもその一つだと思います。しかし、もっと重要なことがあります。それは、複雑な現象の中からいったい何が問題なのかと自ら問いを立てる力や、その問いに対して自ら解決法を探る力を身に付けるための基礎となる「教養」を身につけることです。すなわち、学問をするための基礎的なトレーニングをすることです(「学問」は「問うて学ぶ」と書きます)。現実社会では、当然保育や教育の現場では、次々と新しい問題が持ち上がります。それを解決して行く時に表面的な知識やハウツー的な対処法を数多く頭に入れておいても限界があります。保育や教育は極めて知的な仕事なのです。経験したことが無い問題が生じた時に最も重要なことは、混沌とした状況を整理し、自ら問いを設定出来る力です。問いを設定することが出来ると解決法は目前に有ることが多いものです。
 「言葉の発達の謎を解く」のような学術研究の成果を解説した本を読むときには、研究者達がどのような問いを立てどのような解決法を工夫したかを理解し、さらには自分でも新たな疑問や問いを設定することを楽しんでもらいたいと思います。そのような読書法は自ら問いを設定し解決法を探す力を身につけることにきっと役に立つと思います。】

自閉症と環境

https://www.facebook.com/amnesictatsu/posts/761415987209826 (2014/3/19) より転載

古くから自閉症の成因として環境の関与に関する様々な説が唱えられ、多くは否定されて来た。最近、エピジェネティクスという考え方が導入され、自閉症と環境の関係は新たな局面を迎えている様に思う。エピジェネティクスとは、DNA配列に変化が無くても環境の影響などによって遺伝子発現が起こったり起こらなかったりする現象である。このムーヴメントに乗っかって、過去の「冷蔵庫マザー」のような言説を蒸し返す人が出てこないかということが少し心配だが、自閉症発症過程の解明が少しでも進展する可能性が出ることは喜ばしい。
 ところで、エピジェネティクスが何らかの役割を果たすとすれば、成長過程の何時のことだろうか。出生時には脳はかなり完成型に近づいていることや、現在2歳には自閉症の診断が概ね可能となっていることを併せて考えると、胎生期、遅くとも生後1、2年以内に関与しているのではないだろうか。
 疫学調査で自閉症の有病率が世界的に増加していることについて、エピジェネティクスで説明できるのではないかと述べる人がいる。しかし、僕はどうも信じる気になれない。ほんの10年、20年の間に、自閉症の有病率が2倍にも3倍にも増えているのである。胎生期から生後1、2年までの間にエピジェネティクスのスイッチを「ON」する環境と言えば心理文化的な要因よりも化学物質などの物理的要因の方が考えやすいが、こんなに短期間に特殊な環境物質の影響が激増するのだろうかと考えると、にわかには信じがたい。日本でいえば高度成長時代の方が余程怪しげな物質にあふれていたのではないだろうか。勿論、自閉症の増加の一部をエピジェネティクスで説明できる可能性はある。ただ、この極端な増加の大半をエピジェネティクスで説明できるとは思えないのだ。
 客観的根拠のない個人的想像だが、個人が自閉症的傾向をどの程度持っているかという分布は年月を経ても大きく変わらないのではないだろうか。そして、変わったのはどの程度自閉症的傾向が強い人まで社会が許容できるかということではないだろうか。自閉症の有病率が高い地域程、「変わり者」を受け入れる余裕がなくなっている可能性は無いだろうか。本田秀夫先生は「自閉症スペクトラム」と「自閉症スペクトラム障害」という言葉を区別している。前者は単に自閉症の特徴を持っている人達である。そして、生活の支障が大きくなり、福祉的支援が必要となった人達が「障害」となる、と彼は主張する。杉山登志郎先生は認知に高い峯と低い谷の両者を持つ人々を発達凸凹と呼び、発達凸凹に適応障害が加算されたグループが発達障害ではないかと考えている。多少意味合いは違うが、いずれも素因として自閉的特性を持つということと、「障害」となることを区別した考え方である。この、「障害」になるかならないかの閾値が低いか高いかは、その社会の住み易さや息苦しさの程度を反映しているのではないかという気がする。

医師の説明

https://www.facebook.com/amnesictatsu/posts/759898427361582 (2014/3/16) より転載

臨床医は説明するという事が仕事の中で重要なポイントである。自閉症診療においても説明する事は重要である。これは当たり前のようで、必ずしもそうではなかった。20年くらい前だろうか、何か小児科関係の研究会で自閉症の診療をしている医師の講演があった。その医師は「どのように自閉症を診断すれば良いのか分からない」というフロアからの質問に対して「分かる人には分かる様になります」との返答をしていた事が印象に残っている。自閉症という言葉は誰もが知っているが、広汎性発達障害という言葉はやっと広まり出した頃である。もう少し最近になって耳にした噂話。古くから地域で自閉症診療を担ってきた精神科医に小児科医が教えを乞うた時、「言語化できない」と言って相手にしなかったと聞いた事がある。
 彼らの気持ちは分からなくもない。何しろ自閉症は結構曖昧な概念である。現在診断のよりどころとなるDSMやICDでは比較的明確な基準が示されている。とは言え、実際の子供の行動が診断基準に当てはまるかどうかは結構判断が難しいし、診断基準に記載されていない自閉症の特徴も多い。DSMやICDの診断基準が流布する以前であればさらに事は曖昧であった。しかし、臨床医は説明せねばならないと思う。勿論何もかも説明する事は出来ない。しかし、どこまで言語で説明できるのかをぎりぎりまで検討すべきである。その上で、自分の出した結論を可能な限り説明し、合わせて何に付いては説明しきれないかまで説明すべきである。どのような事であっても(一目惚れをした相手にどういう感情を持ったか、という事さえ)かなりのレベルで言語により説明できるはずである。「世の中には口で説明できない事がある」という台詞は、可能なところを説明しきった後でこそ生きてくると思う。カナーもアスペルガーも、そうやって自分の経験した興味深い子供達をなんとか言語記録に残そうと努力したのだと思う。
 医師は一般人には認められない事を実行する事が許されている。切ったり刺したり化学物質を飲ませたり。そういう物理的な振る舞いをしない時でも、人の人生を大きく左右するかもしれない立場にある。そういう事を考慮すると、自分の判断や行動を患者、患者の家族、政府・自治体、世間に必要とあらばいつでも最大限説明する事が求められている。

価値感に忠実な心理学と雑食性の医学

https://www.facebook.com/amnesictatsu/posts/745161385501953 (2014/2/20) より転載

ジョン・O・クーパーらの「応用行動分析学」という巨大な本を手に入れた。通して読む気はさらさらないが、総論だけでもと思いぼちぼち読んでいる。読んでいて気づいたのだが、現在においても行動学の研究者は、あくまで行動学の立場に忠実であろうとしている。
 同僚の若くて優秀な認知心理学者と雑談している時にこの経験を話題にし、心理学者は自分が属している学派に忠実であることに改めて気がついた旨を伝えた。彼女はそのことに同意しつつ、行動学をしている人は非常に肩身が狭いことや、フロイトやユングを取り上げる人など風前の灯ではないかといったことを話してくれた。どうも彼女自身も自分の立場に忠実らしい。
 しかし、それほど立場をクリアに分けるのも不思議な感じがする。臨床心理学領域はさておき、客観的なデータに基づいて論を組み立てる心理学分野であれば、実際の実験系は行動学とさして変わらないのではないか。例えば、作業記憶という構成概念を前提にし、前頭葉に磁気刺激を与えて作業記憶が改善するかどうかを検討したとする。研究者に観察可能なものは作業記憶能力そのものではなく、数唱なり、n-back課題なり、作業記憶を反映すると考えられる課題での反応だけである。この実験の場合オペラント行動への介入のトピックである事後刺激への介入ではなく、事前事象への介入を検討していることにはなるが、観察しているものはあくまで行動である。恐らく行動分析学が積み上げてきた考え方は生かされているだろうし、逆に行動分析学の研究者であれば興味のままに研究を進めているうちにこういう方面へと進出する人がいても自然である。渾然一体となって学問が進歩しそうなものと思いたくなるのだが、実際には自分がよって立つ立場というものを強固に守っているらしい。
 日常的な問題(障害児の指導など)への介入が対象なのか、より細かい心理的事象の機序を解明したいのか、研究対象によって適切な手法を用いれば良いだけの様に思うのだが、どうも心理学者達はそういう考えにはならないらしい。心理学者の精神性は非常に価値観に忠実なのかもしれない。一方、臨床医学などやっていると、事象を説明でき、問題解決に役に立つものであれば何でも利用すれば良いと思ってしまう。そういう風に考えると医学者は損得勘定を第一に考える雑食性と言えるかもしれない。うーん、心理学者の方が格好いいけど、医学畑の方がお気楽で良かったとも思う。

発達障害は程度問題 -- 尺度的診断

https://www.facebook.com/amnesictatsu/posts/740086226009469 (2014/2/11) より転載

「発達障害は程度問題 -- 尺度的診断」
病院で受ける診断は、何らかの診断カテゴリーに当てはまるか否か、白黒はっきり付けることが普通である。「はしか」なのか「はしか」でないのか、「胃潰瘍」なのか「胃潰瘍」ではないのか。今現在この瞬間に世界中の人は2種類に分けられる。はしかに罹患している人と、そうではない人である。多くの人は病院の診断というものはそういうものだと思っているし、医師も基本的には明確な診断を目指す。
 しかし、意外に物事は単純ではない。胃炎と胃潰瘍の境界はどこにあるのか、前癌状態と癌の境目はどこなのか、気管支炎と肺炎はどう区別するのか、結構曖昧なことは多い。そういう場合、医療側としては定義をより精緻で明確なものに作り替えたり、中間的なカテゴリーを設定したりして、曖昧な領域をできるだけ減らそうとする。そうは言っても、ものによってはすっきりしないところが多く残される。特に、「健康」と「疾病」の関係に不連続性が乏しい場合にすっきりしない状況になる。分かりやすい例では、低身長や近視がある。それぞれ一応の基準がある。しかし、身長が1cm異なっても、視力が0.1異なっても、実質的な差はない。どうしてもその診断には不自然さ、「無理矢理感」が残る。
 発達障害に含まれる様々な状態も、こういった無理矢理感がつきまとう。何しろ、落ち着きがなかったり、気が散りやすかったり、人付き合いが下手だったり、細かいことにこだわりやすかったり、本を読むのが下手だったりする人達である。多少なりともこういった要素を持っている人は、世の中に五万といる。おっちょこちょいで落ち着きがない人に「注意欠陥/多動性障害」という診断をしようと思っても、どちらかと言えばおっちょこちょいの人から驚天動地と言っても良いくらい酷くおっちょこちょいの人まで、そのバリエーションは無限にある。いったいどこで線引きすれば良いのか。現在病院では一見明確そうに診断しているが、実際は全く明確ではないのである。しかも、純粋な注意欠陥/多動性障害や純粋な自閉症と言える人は少数派で、発達障害を持つ多くの人は別の発達障害病型や、二次障害を併せ持つので、事態は極めて複雑である。
 上に述べたように、医学診断は何らかのカテゴリーに当てはまるかどうかを判断することが原則である(カテゴリー的診断)。しかし、医学診断には別の概念もある。尺度的診断(dimensional diagonosis、「次元的診断」と訳す方が適切かもしれない)である。尺度的診断では疾病、あるいは障害の基本的な構成要素一つ一つを連続的な量として評価する。例えば、注意欠陥/多動性障害なら「不注意」と「多動性ー衝動性」という要素それぞれの程度を評価するのである。DSM-IVの「広汎性発達障害」からDSM5の「自閉症スペクトラム」への移行にあたっては、尺度的診断の考え方がかなり導入されている。
 尺度的診断はカテゴリー的診断に比べて、一人一人の状態を個別に評価するので、実態を反映しやすい。「注意欠陥/多動性障害」なり「自閉症スペクトラム」なりの単なる名前よりも、具体的な援助の種類や程度を計画しやすい。病院の医師の役割としては、診断書を発行することや、何らかの治療法を適用するかどうかを決定せねばならないので、最終的にはカテゴリー化せざるを得ない面がある。しかし、教育や福祉に携わる人達は一人一人の複雑な状況を考慮した取り組みを求められる。そういう時に、病院で何らかの診断がついたかつかなかったかということよりも、自分で様々な側面の「程度」を評価することができれば、随分援助しやすくなると思う。

発達障害は程度問題

https://www.facebook.com/amnesictatsu/posts/726923840659041 (2014/1/19) より転載

発達障害は程度問題であるということをここ最近、と言っても5年以上になるが、よく考える。ここで言う「発達障害」は発達障害者支援法で規定されている意味での発達障害である。発達障害には様々な状態が含まれるのだが、その最も中心となる病型は学習障害、広汎性発達障害および注意欠陥多動性障害の三つである。
 学習障害とは知的障害が無いにもかかわらず、文字の読み書きあるいは計算能力が十分ではないために学業に支障を来たしている状態である。知的能力は高いし家庭や学校環境にも大きな問題がないにも関わらず、文字が読めないとか計算ができないといった状態にある。こう言うと全く文字が読めないとか、一桁の数さえ数えられないとかいったイメージがわくかもしれないが、実際はかなり異なっている。文字を読むことに困難さがある学習障害(ディスレクシアとも言う)の子供は学年が上がれば結構読めるようになる。ただ流暢に読めなかったり、一見スラスラ読めているようでも読み方が遅く本人はかなり努力していたりする。そのため文章の内容理解が悪くなる。計算障害にしてもいつまでたっても一桁の足し算もできないようなことはなく、簡単な加減乗除ならなんとかできるようになることが普通である。しかし、計算を間違い易いし、計算することにかなり苦痛を伴う。その困難さの程度は個人個人で異なっており、生活が著しく妨げられるくらいの人もいれば、その困難さを本人が自覚できるかどうか微妙な程度の人もいる。
 広汎性発達障害は、現在は自閉症スペクトラム(Autism spectrum disorder; ASD)という名前に移行しつつある。ASDは二つの行動特徴から規定されている。第一はコミュニケーションや社会的相互作用の障害である。もう一つの特徴は限定的で反復的な行動、興味、活動である。コミュニケーションや社会的相互作用の障害が具体的にどうのように現れるかといえば、年齢相応の友達関係を築けない、人の身振りや表情の意味が理解しにくい、誰に相手をされなくても長時間一人で活動して苦にならない、人と会話が続かない、会話が噛み合わない、言葉の裏にある意味が読み取れず冗談を真に受けたり皮肉が理解できなかったりする、といった状況が観察される。二番目の特徴である限定的で反復的な行動、興味、活動では、特定の活動に熱中し繰り返し行ったり、変化を嫌ってスケジュールや物の配置など常に同じであることにこだわったりする。また、非常に細部に注目し、その正確さにこだわったりもする。音や肌触りなど特定の感覚刺激に対する過剰な敏感さや鈍感さを示すなど、感覚刺激に対する反応の奇妙さが見られやすいことも二番目の特徴の要素である。二つの行動特徴のいずれにおいても日常どのように表現されるかやその程度は人によって様々である。
 先に述べたように、文字を読むことが苦手な学習障害の人であっても、その苦手さの程度は人それぞれである。一方、学習障害ではない人の文字を読む能力は一定かと言えばそんなことはなく、個人個人で速く読める人、ゆっくり読む人、読み間違いの少ない人、読み間違いが多い人など人それぞれである。比較的読字能力が高い学習障害のある人と、比較的読むことが苦手な「健常者」はどの位違いがあるのだろう。実は、両者の間に明瞭な線を引くことはできない。シェイウィッツという学者は膨大な数の子供達の読字能力を測定した研究を報告しているが、読字能力の分布は平均点付近で最も人数が多く、能力の高い方と低い方に向けてなだらかに人数が減るような分布であった。「学習障害」あるいは「読字障害」と呼べる特殊な集団がいるのではなく、なだらかに分布する読字能力の低い裾野の人達が「学習障害」の正体である。
 ASDについても同じようなことが言える。ASDの特徴をどの程度持っているかを評価するための質問紙がいくつか作成されている。当然ASDの診断を受けている人達の評価得点は総じて高く、診断を受けたことの無い人達の得点はASDを伴う人達よりも全体としては低い。しかしそれぞれの分布は重なりが大きい。つまり、自閉症スペクトラムと名付けられる特殊な一群がいるというよりも、人間の行動特性の一要素として自閉症的な特徴がとても弱い人からとても強い人まで連続的に分布していると考えられる。そして、自閉症的な特徴の強い人達が何らかの理由で生活に困難を生じ出した時に「自閉症スペクトラム」と診断される様なのである。
 このことは注意欠陥多動性障害でも同じである。注意欠陥多動性障害は日常的な言葉で説明すれば、落ち着きが無く、悪気無く考えなしの言動をつい取ってしまい、気が散りやすく、うっかり屋さんでぼんやり屋さんで無くしものや忘れ物の多い人達である。こういった特徴を並べた時に、ほとんどの人は多少なりとも自分の中に同じ要素を見つけることが出来るのではなかろうか。失言したことの無い人もうっかりミスをしたことの無い人もほとんどいないだろう。忘れ物や無くしものが日常茶飯事という人もいるだろう。大概の人は多少はもっている要素ばかりである。しかし、その程度がだんだんひどくなれば、いつかは生活に支障を来すことも想像に難くない。生活に支障を来すようになり、なおかつ本人のみの力ではそれをカバーすることが難しくなった状態が注意欠陥多動性障害である。
 「〜障害」という診断が付けられるとまるで「健常」とははっきりと異なる特殊な人のように思えてしまう。しかし、実際には診断された人であってもその特性の程度は人それぞれだし、診断されていない人であったも様々な程度でそれぞれの特性を持っている。しかも診断するかどうかの境目は極めて曖昧である。それは典型的な「発達障害」を有する人からごく平均的な発達をした人に至るまで、その間には様々な程度の人が存在し、「障害」と「非障害」の間は極めて連続的なものだからである。
 さらにややこしいことに、障害か否かを決める時には生活する上で「困る」か否かが根拠となる。同じ様な行動特性を持っていても、その人の環境との組み合わせによって困るかどうかが違ってくる。人との付き合いが下手な人でも、誰から非難されることも無く、本人も満足に暮らしていれば障害ではない。ところが人付き合いが多少不器用であったり、物事へのこだわりが多少あるだけでも、それをもって日々他人から非難され続けるとその環境に適応できなくなる。うっかり者でおっちょこちょいであっても、家庭的にも職業的にものんびりとした生活を送っている人であれば何ら困らないだろう。しかし、生き馬の目を抜く証券会社のトレーダーマンであればとても困るだろうし仕事が続けられないかもしれない。つまり、それぞれの行動特性を持っている人が「障害」になるかどうかは本人の特性だけで決まるものではなく、本人の特性と生活環境とのマッチングの善し悪しで決まるのである。発達障害的な行動・認知様式の程度が弱ければ障害になるリスクは減るかもしれないが、それでも環境のあり方によっては困難を伴うこともあるのだ。多少老眼が始まっても、毎日大まかな作業しかしていなければ大して困らないが、細かい字を大量に読んだり小さなものを加工せねばならなければ困るのと似た様なものだ。
 最近、教師や保育士が「グレイゾーン」なる言葉を用いることがよくある。それは上に述べた様に発達障害と定型発達の間が連続的であることや、障害か否かの境目は環境とのマッチングで決まる相対的で流動的なものであるということが理解しにくいからではないかと思う。このことを理解しないままに病院で診断されたかどうかだけにこだわっていると、現実的な対応をし損ねる可能性がある。発達障害を有する子供達を支援する時にはそれぞれの病型の細かい知識を有すること以上に、発達障害は程度問題であることを認識しておくことは重要ではないかと考える。

本田秀夫「自閉症スペクトラム 10人に1人が抱える『生きづらさ』の正体」

https://www.facebook.com/amnesictatsu/posts/723289291022496 (2014/1/12) より転載

本田秀夫「自閉症スペクトラム 10人に1人が抱える『生きづらさ』の正体」という本を読んだ。自閉症スペクトラムの子供達(and 大人)をどうサポートするか、著者の経験に基づく考えを述べている。客観的データをもとに論じているのではないため、違う意見を持っている人を論理的に説き伏せられるような書籍ではない。しかし、僕にとっては非常に腑に落ちる内容であった。特に、思春期以前にはできるだけの援助をし、失敗させることを可能な限り避け、人の助けを借りれば世の中結構なんとかなるもんだという思いを抱かせることを第一に考えることは、僕としては非常に納得できる意見である。この考え方の延長線として、得意なことを十分に保障することを優先し、苦手克服の特訓を極力避けるようにという主張にも僕は全く賛成である。しかし、こういった考え方が世間、特に教育関係者に受け入れられるかというと、なかなか難しいだろうなと思う。
 著者は自閉症スペクトラムの連続性を現時点で障害のない人たちまで含めて広く捉えている。そして、その特性が生活に支障があるかどうかで『障害』かどうかが決定するという。このように生物学的概念と社会学的概念をきちんと分けた考え方も、僕自身の考えと一致している。医師は診断をカテゴリー的に捉える傾向が強いと思っていたので、同様の考え方の長い臨床経験を有する医師が他にもいることを知り、読んでいて心強く感じた。
 著者は自閉症の子供達に自立スキルとソーシャルスキルを指導する際に「合意」が重要であると述べている。そして構造化は合意を教える最初のステップであると説明している。僕自身は本人が合意することを漠然と意識しており、本人がどう思っているか聞くことや、本人の腑に落ちることが必要であることを保護者や教師に説明することは度々あった。しかし、合意が重要であることを明確に言語化していなかったように思う。改めてこの説明を読んで、目を開かされた思いがした。
 自分が日頃考えていたことに非常に一致した内容であること以外に客観的根拠は無いが、是非多くの保護者や教師・保育士に読んで欲しいと思う本である。異論のある人もいるかもしれない。しかし、自閉症スペクトラムの支援は柔軟で多面的な発想が必要だと思う。少なくとも、こういう考え方もあるということを知っておくのは悪くないと思う。

豊田秀樹、前田忠彦、柳井晴夫 著「原因をさぐる統計学ー共分散構造分析入門」

https://www.facebook.com/amnesictatsu/posts/709984695686289 (2013/12/23) より転載

豊田秀樹、前田忠彦、柳井晴夫 著「原因をさぐる統計学ー共分散構造分析入門」
twitterで統計たん(@stattan)さんが紹介されていたのをきっかけに、豊田秀樹、前田忠彦、柳井晴夫 著「原因をさぐる統計学ー共分散構造分析入門」(講談社)を読んだ。数年前から複雑な要因の因果の連鎖を検証する手法として共分散構造分析に魅力を感じていた。しかし、2、3簡単な書籍を読んでみたものの、相関や重回帰分析と関係が深そうなことがぼんやり分かったものの、非常に分かり難く敷居の高さを感じていた。特に、重回帰分析や探索的因子分析と違い、研究者の裁量で決めなければいけない要素が多そうな点が非常に不気味さを感じさせていた。また、モデルの妥当性についての吟味も難しそうである。我ながら、アホなりに賢明であったと思うが、闇雲にPCソフトウェアに数値を放り込むような冒険は控えた方が良いと考えていた。この書籍を読むことで、少し足下が明るくなった気がする。
 この本では、相関分析や回帰分析から始めて、共分散構造分析を生成し、解釈するまでを非常に分かりやすく解説している。本の前半は共分散、相関、重回帰などの統計学基本事項の復習と頭の整理としても役に立つ。共分散構造分析の説明では構造変数と誤差変数、内生変数と外生変数、観測変数と潜在変数という基本的な変数の意味から始め、測定方程式と構造方程式、モデルの妥当性について順に丁寧に説明している。どの段階でも常に具体的なデータを元に作成したモデルを示しながら説明されているので大変納得しやすい。
 この本を読むことで共分散構造分析についてかなり具体的なイメージを持つことができた。特に、この手法は分析者自身が今までの知見を元に考察することで自らモデルを構築しその妥当性を示すことが主たる役割であることが理解できた。本当は統計手法は全てモデルを作る意識が必要なのだろうと思うが、共分散構造分析は重回帰や因子分析よりもはるかに予めモデルを意識することをユーザーに要求する手法なのかもしれない。
 この本のおかげで共分散構造分析の理解がかなり進んだように思うが、実際に統計ソフトで解析するまでには越えねばならない壁がたくさん残っているような気がする。

発達障害診療

https://www.facebook.com/amnesictatsu/posts/706222646062494 (2013/12/16) より転載

発達障害診療
子供が発達障害ではないかと心配になり病院を受診する人にとって、病院での物事の進み方は予めイメージしていたものと随分違っているかもしれない。
病院を受診すれば診察して検査して、そして異常か正常か明確な結論が出る。そして異常なら薬かなにか_本人_の治療が始まる。こういうイメージを頭に浮かべながら受診する人が結構いるのではなかろうか。この様に考えている人にとって実際はかなり違った展開になることが多い。
 基本として理解していないと混乱することが幾つかある。まず、発達障害(に関連する種々の病型)の診断に関しては、検査が根拠とはならない。検査が無意味とは言わないが、検査はあくまで参考にしかならない。では、何が診断根拠となるかといえば、日常の行動を詳細に聞き取った情報(病歴)である。例え検査と称することを行っても、あるいは医師ではなく心理士が対応しても、その内容は日常の行動特徴の聞き取り調査ということはよくある。本人の診察や行動観察も重要な意義があるが、特に症状の軽い子供の場合、病院での観察だけでは診断できないことが多く、詳細な病歴の聴取が欠かせない。発達障害診療は根掘り葉掘り質問し、話を聞くことから始まるのである。検査だけしてあまり質問をされることが無いままに診断されるような時は、真面目に診療しているのかその病院を疑った方が良い。
 次に、いかに丁寧に評価しても、発達障害の診断は白黒明確に付くものでは無い。発達障害の特徴はどれをを取っても、「健常児」には見られない特殊な症状などと言えるものではない。むしろ、ほとんどの特徴は多くの人に大なり小なり認められるものである。そういった特徴が平均的な子供より「過剰」に認められ、日常生活の差し障りになっているだけである。特定の病型として診断するかしないかの線引きは、本人の特性と環境との組み合わせの不一致に基づく強い暮らしにくさがあるかどうかで決まるものであり、かなり流動的である。このことは今後の対処法を計画する上でとても重要なので、保護者には診断概念の意味を十分に理解してもらう必要がある。つまり、出来るだけ丁寧に家族に状況を説明することが問題への対処の第一歩にもなるのである。保護者からの情報が主体となって診断された時は、その診断名は隠れていた問題が明らかになったのではなく、既に保護者が把握していた行動特徴を整理し、命名したものに過ぎない。説明に際して、こういったことも理解してもらうことを目指さなければいけない。
 診断がついた後も、一般的な「病気」とは対応の仕方が随分異なっている。先に述べた様に本人の特性と環境とのマッチングが上手く行かないために暮らし辛い状態になっているのが発達障害である。そして、薬剤や訓練で多少事態が良くなることはあるが、本人の行動や認知の特性が根本的に変化する訳ではない。つまり、薬剤や訓練で問題が完全に消失することはほとんどない。ではどうするのかと言えば、日常生活で問題が生じている諸々の具体的状況を把握した上で、適応しやすいように環境を変化させるのである。本人を変えるよりも環境を整えることの方が優先されるのである。ある程度お決まりの対処法というものもあるが、発達障害児といえどもその生活状況は様々であり、従って生じる困りどころも人それぞれである。具体的な状況を把握した上で何らかの一般原則や理論(応用行動分析など)を頼りに試行錯誤していくしかない。ここでも本人や家族と話し合いながら少しずつ物事を前に進めていくことになる。
 事ほど左様に、発達障害診療は通常の病院診療とは違ってモヤモヤしているのである。物事がテキパキ進まないのである。ぐだぐだ質問されたり、めったやたらに説明されたりするのである。病院によっては、特に幼児期に受診者に対して、結構流れ作業的に診断、療育と話が進む事がある。例えそうであっても、それだけでレールに乗ったと安心するわけにはいかない。結局は、生活の中で生じた具体的問題に対してどう対応するかを話し合っていかざるを得ないのである。こういった事情を理解しないままに病院を受診すると、いったい何をやっているのだろうと困惑するはめになるかもしれない。発達障害診療は子供自身や保護者が主体的に関与しようとする程度に比例して受診する価値が決まってくる側面がある。