2017年5月23日火曜日

ADHDの病態は明らかにできるのか

 最近出た注意欠如・多動症(ADHD)の総説が目に入り、なんとなく気になって読んでみた。ADHDの脳科学、認知科学的な問題を取り上げている。最新の研究成果を詳しく解説しているものではなく、といって臨床的に有用なことなどほとんど書かれていない論文で、あまり面白い内容ではなかった。が、まとまりのない、それこそ役にも立たない考えがふわふわ浮かんできたので、これも何かの縁と考え書き留めておく。
Mueller A, et al. Linking ADHD to the Neural Circuitry of AttentionTrends in Cognitive Sciences 21:474–488, 2017
ざっくり説明すると、ADHDの基盤となる認知機能障害を明確にすることによって、より診断を精緻化し、合理的な治療を開発できるようになるだろうと主張している。ADHDに関連する認知機能としては、選択的注意、持続的注意、反応の正確性、認知的柔軟性、作業記憶、時間情報処理、反応抑制、そして報酬系を取り上げている。そりゃ一体なんだ?と疑問に思った人はこだわらないでいただきたい。集中力とか、我慢する力とか、損得勘定を正しく評価する力とか、まあそんなものと思ってもらえれば良い。これらの機能がADHDでは障害されているらしいことが、人間やモデル動物を使った研究結果から推測されている。どの機能が特に障害されているのかを個々の患者で明らかにできるようになれば、より臨床像と明確な対応を示す緻密な診断ができるようになるだろう。そしてそれぞれの認知機能の基盤となる神経機構を解明することで、患者の特性に合わせた治療法を開発できるのではないかというのが、この論文の論旨である。
 確かに、この領域の研究が進むことでADHDを臨床的に意味のある下位病型に分類できたり、より有効性の高い治療的取り組みを開発できる可能性はあると、僕も思う。ただ、あまり大きく期待できないだろうなあとも思う。第一に、こういう患者本人の脳機能のみに注目した研究が進んでも、環境との相互作用の中で臨床像が決定されるというADHDを始めとした発達障害の大きな特徴を掴みきれないだろう。同じ認知・行動特性を持っていても、環境の条件や生活の場の許容力によって問題が生じるかどうか、問題が生じるにしてもどういう領域が特に問題になるのかが変わってくる。問題を本人固有のものとした見方をする限り、ADHDの全容を理解することは難しいのではないかと思うのである。
 障害を想定している認知機能それぞれの概念が、本当に存在すると仮定して良いのだろうかということについても多少不安を感じる。少なくとも現時点では想像に想像を重ねた様な極めて不確かな概念である。例えば、選択的注意という概念を想定することで色々なことを説明できる様になるので大きな意味はある。しかし、何を選択的注意というのか、選択的注意は一つの機能なのか下位カテゴリーがあるのか、選択的注意は独立した機能なのか、といったことについては結構不確かである。今後脳科学の研究が進み、選択的注意がより具体性を増す可能性もある。しかし、素人ながらに最近の脳科学の動向を見ていると、あらゆる認知機能は脳全体のネットワークとしてのみ理解されるようになる可能性もある。そうなると、個別の機能に分解して論じることがナンセンスと言われだす可能性さえある(素人の直感、鵜呑みにしないでね)。
 研究者は、脳科学の手法を駆使してADHD患者固有の障害を明らかにしようと張り切っていることが多い気がする。一般の人も、障害といえば個々の患者の中に原因があると考えやすい。研究者も一般の人も最新の科学を駆使した知見が大好きである。何かはっきり説明できることがしっくり来るのだろう。しかし、ADHDやその他の発達障害を伴う子供達の臨床に携わっていると、事はそんなに単純なのだろうかと懐疑的になる。少数の原因が問題を生成するのではなく、数え切れないくらいの多くの要因が互いに複雑に作用しあった結果が現状ではないのだろうかと思うのだが、もちろん根拠のない僕の勝手な思いである。

2017年5月3日水曜日

学ぶことが面白いと感じることもある

 大学でも職場でもどこでも良いが、何かがきっかけで猛烈に勉強しだす人がいる。僕の知っているある若者は、中学校で習うようなことさえ碌に身についていないにもかかわらず、ちょっと解説本を読めと紹介するだけで1年も経たない内に統計ソフトをほとんど独習で扱えるようになり、標準偏差やp値の概念を理解し、分散分析も実行し、その意味もかなり理解している状態になった。それでも英語の力は如何ともし難いなあと半分あきらめていたが、かなり強引に英語論文もなんとかかんとか読み出した。こういう人は何に火をつけられたのだろうか。必要に迫られたことももちろんありそうだが、何かを面白いと認識してしまうことが大きいのではないかと思う。僕自身を振り返っても、仕事を始めてから学校の試験勉強や受験勉強などよりもはるかに真剣に勉強した時期がある。必要に迫られた時にも努力はするが、面白みを感じている時には自分でも意外な力を発揮することがあった。学問に取り組むことはとっつきが悪く、なかなか辛いものである。しかし、必死で取り組むと必ず面白さがあり、それに気づくことができると自分の能力にはレベルが高すぎる論文をかき集め、いまいち理解できないにもかかわらず必死に読んだりしだす。別に誰もが学問に面白さを感じる必要はない。しかし、誰でもそういう経験ができるチャンスを持てるような社会であった方が良いのではないか。
 「現実社会は理屈じゃないからね」と学問を見下したようにいう人がよくいる。そんなことはない。科学技術を直接支えている学問領域が多いということを横に置いても、学問に勤しむことは大きな意味がある。視野が広がる、現実社会で問題の設定ができるようになる、問題解決の手段を自ら探し求めることができる、などの力を身につけることができ、そういう人が増えることは必ず社会に貢献するだろう。しかし、それだけではない。社会貢献など考えなくても、自分が気づかなかった自分の能力を開花させ、思ってもみなかった人生が始まるかもしれないと考えれば、スリリングではないか。人は無限の可能性を持っているわけではないと思う。願っても努力してもできないことはある。しかし、自らは思いつきもしなかった新しい世界を選べることに気づける可能性もある。想像さえできなかった新しい魅力的な未来の可能性を知ることができる、なんと魅力的ではないか。僕にとっては「信じれば夢は叶う」などという内向きの考えよりもはるかに魅力的である。
 教育再生実行会議なるものが「職業に結びつく知識や技能を高める実践的なプログラムを大学に設けるとの提言」を出したという報道があった。「アカデミックな教育課程に偏りがちな大学を変革し、産業界が求める『即戦力』となる人材を育てるのが狙い。」とのことだ(日本経済新聞)。ツイッターの僕のタイムラインでは、大学がアカデミックな教育に偏るのは当たり前だろうとか、「即戦力」などという薄っぺらなものより学問的なトレーニングを受ける方がよほど現実社会での応用力がつくだろうというもっともな意見が噴出している。いずれももっともな主張であり、少し真剣に学問に取り組んだ経験があれば納得できる主張だろう。僕はもう一点付け加えたい。誰もが勉強が好きである必要も、学問に打ち込む必要もないと思う。しかし、人生の一時期に新たな興味や可能性を知るチャンスは広範に用意されている社会であってほしい。よもや自分が学問なんてと思っている人が本当に学問に向いていないとは限らない。ふとしたきっかけで学ぶことの面白さに目覚めるチャンスはあった方がいいだろう。教育再生実行会議のメンバーはそれなりの教育を受けた人達だろうと思うが、上記のような薄っぺらな提言をするところを見ると現代日本の教育の失敗例達だったのかもしれない。