2023年9月30日土曜日

指示は率直に

 僕は発達障害の子どもたちを対象に診療しているので、わりと保育者・教師と接する機会が多い。僕が個人的に知っている限りでは、保育者や教師は子供に「自分で考えさせる」ことを重視している。そして、そのことが顕著に現れるのは何かを指示する時である。してほしい行動を端的に指示するのではなく、今何をすべきかと質問するのである。おそらく、保育者や教師の養成過程でそういう教育をみっちりしているはずだ。

 なぜそう考えるかといえば、経験的な根拠がある。僕は平成最後の12年間、私立大学の保育士・教師養成課程で教員をしていた。似つかわしくもないのだが、教育者になりすましていたのである。その頃、講義でADHDへの対応を説明する際に、L.J. フィフナーさんの「こうすればうまくいくADHDをもつ子の学校生活(中央法規出版)」を下敷きにした内容を話していた。その中に、指示の出し方として「平叙文を用い、疑問文は用いない」という項目があったのだが、毎年必ず学生からなぜ疑問文を用いてはいけないのか、子供に考えさせないといけないのではないか、と怪訝そうに質問を受けたのである。それはもう見事なくらい判で押したように同じ質問をする。だから、これはかなり力を入れて指導されているポイントなのだなと分かった。

 時代はすでに令和になっているが、相変わらず僕は子供に何かを指示する時に質問の形にすることが良いことだとは思っていない。「そんなことをして良いと思っているの?」などと分かりきったことを質問の形にして強い非難の意味を持たせている場合など論外だが、そういう感情的な意味を持たせない場合でも指示をする時に質問の形にすることは良いことだとは思えない。

 まず、質問には必然的に「答えなさい」という指示が含まれる。目的の行動を促すだけではなく別の指示が重複するのである。もっと問題なのは、何かを指示する時に質問の形を取ることは単に必要な行動を促すのではなく「私が何をしてほしいと思っているのかを当てなさい」と命令していることになる。これは、単純に次の行動を指示することよりもはるかに負荷の高い作業であり子供を緊張させる。質問に対して考えたことを率直に伝えれば済む話ではない。質問する側はすでに答えを持っているのである。子供はそれを当てなければならない。これは要領の悪い子や、人の気持ちや文脈を察することが苦手な子供たちにはかなりハードルが高い。四苦八苦して考えたことを相手に伝えても、相手の考える正解にならなければ直ちに否定される。こんなことを繰り返して考える力がつくとは思えない。多くの人が期待する「正解」のコレクションをより多く身につけようとするだけだ。

 考えることを強制された時に考えつくことはそれ程多くない。本当に物事を考える癖をつけたいのであれば、自発的に考えたくなる状況を如何に増やすかということが重要なのではないだろうか。その筆頭は、好きなことや面白いと思うことに没頭する時間を増やすことだろう。好きなことや面白いことは、人から強制されなくても詳しく知りたくなるし、そのことにもっと精通し熟達するためにはどうすれば良いのだろうかと考えを巡らすはずだ。分からないことがあれば何故だろうと自然に考える。勉強は辛くてもするべきものである、と主張したい大人は多い。しかし、おそらく勉強に真剣に取り組む子供の多くは勉強を面白いと思えた経験があるのではなかろうか。勉強は義務だからと勉強に張り切る子はいたとしても少数ではないだろうか。

 もう一つ重要そうなことは、考えたことを躊躇いなく表出できるようにすることだろう。思考は頭の中だけで深まることはない。何らかの形で表現し、それに対する外部からの反応を得てこそ精緻化できる。考えるということは表現するということとほとんど同等なのではないかという気さえする。子供に臆することなく考えを表明してもらいたければ最も重要なことは子供が何を口にしても即座に否定しないということだ。たとえ倫理的に不適切な意見を口にしても、まずはそういうふうに考えるんだな、よく説明してくれたと感謝しながら耳を傾ける態度が必要だと思う。

 人から「考えなさい」と言われて考えられる程度のことは浅い。本当にに自分で考える子供を育てたいのなら、子供に接するあらゆる瞬間に何かに興味を持たせ、面白がらせ、意見を口にさせる様に促す指導者のスキルが問われるのではないだろうか。

2023年1月2日月曜日

自閉症をどう理解するか

 随分久しぶりに丁寧に論文を読んだ。論文を読むこと自体が久し振りとも言えるのだが。

Pellicano E & den Houting J. Annual Research Review: Shifting from ‘normal science’ to neurodiversity in autism science. J Child Psychol Psychiatry. 2022 Apr;63(4):381-396.  doi: 10.1111/jcpp.13534.

https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC9298391/

 自閉症という概念の捉え方の変化を解説したもので、具体的には神経多様性パラダイム(neurodiversity paradigm)の解説である。伝統的な医学的自閉症観では自閉症を障害と捉える。自閉症者に見られる特徴をすべて障害や欠陥として扱う。そして、自閉症者への援助の根底には障害である「自閉症」を消すことを目指すという暗黙の了解がある。医学的自閉症觀で最も重視されることは、自閉症の遺伝学的・生物学的原因を明らかにすることである。そして、遺伝学的・生物学的原因を明らかにすることは自閉症者を「正常」に近づけるべく治療をすることに連なる。

 神経多様性パラダイムは医学的な自閉症観に異議を唱え、自閉症者を、平均的な人と比べての強みも弱みも含めて、ありのままに受け止め、尊重し、敬意を払おうという考え方である。その上で、自閉症者達自身のニーズや主張を聞いた上で自閉症研究や支援方法の開発を目指す必要があるという主張も含まれる。

 僕にとって神経多様性という考え方は、5年くらい前にSilberman Sによる”Neuro Tribes”を読んで以来関心を持ってきた概念である。僕自身は神経多様性に共感を抱いているのだが、さて、具体的に社会に実装すると考えるとハードルの高さに眩暈がしそうでもある。ただ、Pellicanoとden Houtingによれば、劇的ではないものの自閉症研究の世界では明確な変化が見られだしているとのことで、喜ばしい。

 この論文の中に気になった点が一つある。自閉症者に対する不適切な治療的取り組みの代表として応用行動分析(ABA)を取り上げている。この文章の中ではABAを、電気ショックという嫌悪刺激を用いたごく特殊な取り組みや、(ごく特殊とまでは言えないが)自閉症者の行動を「普通の人」の行動に近づけるために行われる取り組みのことを指している。詳しくない人が何気なく読むと、応用行動分析は非常に悪しき治療法という印象を持ちそうだ。しかし、本来応用行動分析とは単なる心理学の1領域にしか過ぎない。特定の方法(e.g. 電気ショック)や特定の目的(e.g. 自閉症者の行動を「普通の人」の行動に近づける)を示すものではない。理論や学問という普遍性のある名称を、個別事例の名称として用いられると困るなあと思う。