2015年6月24日水曜日

最近の○○は

入学試験で高校生が書いた小論文を読んでいると、面白いことに「最近の○○は」という表現に非常によくお目にかかる。「最近の親の子育て力は低下し」とか「最近の子供はゲームで遊ぶことが多いため体力が低下し」といった調子である。大概はとりたてて根拠を示して書いているわけではなく、当然のコンセンサスのような書きっぷりである。おいおい、ちょっと待て。いつと較べて「最近」なんだい?せいぜい18歳の高校生たちが10年前や20年前と比較して物を言っているとは思い難いし、かといって親の子育て力の変化や子供のライフスタイルの変化を1、2年前と比較してもあまり意味がない。いったい君達は何を根拠にそんなことを言うのだい?と質問したくなる。
 とはいえ、「最近の○○は」に根拠がないのは高校生に限った話ではない。僕も含めて大人が言っている「最近の○○は」にもほとんど根拠がない。その良い例が、犯罪に対する認識である。「最近世の中が物騒になった。」という発言を、多くの人が口にしがちだ。しかし、現実にはこの平成の社会は第二次世界大戦後最も平和な社会である。発生数を正確に把握しやすい殺人事件の統計を見れば昭和30年前後が最も多く、現在はその頃の7分の1程度である(データはここを参照)。強姦犯だと昭和30年頃の40分の1程度だ(データはここ)。
 自分の直感的な印象が実際とは違うことがあっても良い。神ではない身であれば、すべての物事に正しい認識を持つことは不可能である。また、事実を確認できるだけの客観的なデータがない場合でも何らかの判断を迫られることはある。そういう場合には印象に頼らざるを得ないこともあるだろう。問題は、多くの人の多くの場合に自分の印象が事実と異なっている可能性があるという認識が欠けていることである。あくまで印象に過ぎないので誤っている可能性は多分にある、と意識していれば修正できる可能性がある。
 しかし、人は(僕自身も含めて)自分が抱く印象に根拠なく過剰な確信を抱きがちである。少々反論されたくらいではたじろがない。時にはぐうの音も出ないだろうと思えるくらいの客観的な資料を見せられても、あくまで自説にこだわる姿が見られる。狂信的にワクチンを否定する人たちや、ごく微量の放射線の危険性にこだわる人たちなどこの例になる。
 個人が一人で間違った確信を持っていても、別に大した問題にはならない。ただ、こういった確信はしばしば世論の動向を決めることになる。事実に反する印象を根拠に世の中の動きや政策が決まってくると、限られた労働資源や経済資源が意味のないものや、時には有害なものに注ぎ込まれることになり、大きな社会の損失につながりかねない。
 社会を構成する人々が、客観的な根拠に基づいて物事を判断したり考えを変更したりできるようにするためには何が必要なのだろうか。小中学校のうちから事実を観察し、その結果に基づいてものを考える訓練をするように教育内容を変えていけば良いのだろうか。それとも、そもそもそういう期待を持つだけ無駄なのだろうか。