2014年9月24日水曜日

謝るか謝らないか

 朝日新聞が大変なことになっている。吉田証言について32年振りに誤報を認めたものの謝罪しなかったり、そのことを不適切と指摘した池上彰さんの原稿掲載を拒否したり、少し以前に報道した福島第一原発の吉田調書(吉田続きで分かりにくい)に関する報道も誤報であったことまでが判明したり、大騒動である。で、とうとう社長が出てきて自らの辞任を臭わせつつの謝罪会見を行った。もっと早く、こまめに謝っておけばここまで苦しまなくても済んだのに、と思うのだが、何故人は謝ることをかくも嫌がるのだろうか。
 思うに、謝るという行為を、心のどこかで相手に屈服し自己を全否定することという意味付けをしている人が多いのではないだろうか。全面的無条件降伏である。謝ったが最後、自分は相手に全面降伏したことになる。それどころか、自分の価値を全否定しないといけなくなる。そう感じてしまうのではないだろうか。相手に謝らせようとしている人の言い分を聞いていても、同じことを感じることがよくある。謝罪している人を「心がこもっていない」と責め続ける人達がいるが、いったい何を求めているのだろう。こういう場合、大概謝罪する人がどう言いなおしても満足してもらえない。下手に誠実な説明をしようものなら更に吊るし上げられかねない。恐らく、鞭打たれることを覚悟して身を投げ出すような、全てを謝罪相手に委ねてしまう態度を欲しているのではないだろうか。つまり、多くの人にとっては謝る時も謝られる時も、謝罪に抱くイメージは全面降伏ではないかという気がする。しかし、謝るということは本来そのような意味を持つ言葉なのだろうか。
 広辞苑で「謝る」を引くと、「過失や罪を認めて許しを求める。」と説明されている。これを信頼すれば、2つのステップがある。「過失や罪を認める」ことと「許しを求める」ことである。世の中ではしばしば許してもらえるかどうか、許すかどうか、ということが肥大化している。その延長線として敗北したものと征服したものという、人間同士の力関係の象徴として謝罪が扱われている。しかし、許してもらえるかどうかは相手次第である。時と場合によっては決して許されないことだって多々あるのは自明のことである。それでも許しを請うのはなぜかといえば、自らが確かに過失や罪があったと認めるからだ。謝るという行為の本質は、自分が間違っていたことを認めることではないかと思う。その帰結として、許しを求める行為が現れるのだ。こう考えて来ると、本来、謝るという行為は謝る人自身の問題であり、その結果として相手が許すかどうかは本質的な問題ではない。
 謝罪が人と人の社会的立場の上下を示すための儀式となっていることは、現在の世の中の息苦しさを少なからず助長しているのではないかと思う。逆に、謝るということは自分の犯した間違いを認めることであり自分自身の問題と理解する文化が広まれば、少し大げさだが世の中の風通しが良くなるのではないかという気がする。それぞれの人が過剰に他人との関係を気にせず、淡々と自分の失敗を見つめ、より良い高みを目指して日々を送っている方が生産的ではないか。
 何故、少なからぬ人達が謝ることを人に対する全面降伏と感じているのだろうか。謝罪の社会的意味を過剰に意識するのだろうか。この件に関連しているのではないかと疑っている現象がある。それは、教育・保育現場における「謝らせ主義」である。子どもが何か間違いを犯したり喧嘩をしたりしたとき、教師・保育士はとにかく謝らせようとする。とにかく落ち度のある子供を特定し、謝らせようとする。その結果、「過失や罪を認める」ということをすっ飛ばして謝ることになる場合が多々ある。
 子供には色々なタイプがいるが、僕が仕事柄接することが多い自閉症や注意欠如・多動症の子供達は対人関係において不器用で勘の悪い子が多い。こういう子供達は、自分の言動を客観的に振り返ることが苦手だし、人の言葉をきちんと理解することに困難を伴うことが多い。喧嘩の最中や叱られているときのような感情的に不安定になっている時であればなおさらである。いきおい自分の何が間違っていたのかを十分に納得しないまま謝らされることが多い。そこに残るのは屈辱感だけであったりする。主観的には首根っこを押さえられて無理矢理頭を下げさせられる様な体験を繰り返し味わった先に、果たして実り多い世界が待っているだろうか?
 全く別のタイプの子供もいるのではないかと思う。それは、謝ることがお手軽な手段になる子供達である。とにかくあっさり謝ればすぐに解放されることを学習すれば、謝罪の安売りをする子供は多いのではないか。「過失や罪を認める」なんて七面倒くさいことなんてしなくても、さっさと謝ってしまえばとりあえず日々は順調に過ごせるだろう。かくして、自分の失敗について十分考えることも無く、上手に謝ることだけが上達するのである。先に挙げた「謝らされる」子供達と見かけは違うが、自分の過ちに正面から向かい合うことが出来ていないという点では共通している。こういう子供が実際にどのくらい存在するのか、実感としては分からない。僕の診療場面では現実に遭遇することはほとんどないからである。何しろ、さっさと謝る子供は社会を器用に泳いでいくので、僕の診察室を訪れるということはあまりないのである。
 ただ、こういう自分の過ちを深く考えない子供の存在を考えるときに、頭に浮かんでくる大人達が大勢いる。それは、とりあえず謝ってしまう人々である。僕はずっと不思議で堪らないのだが、大学や企業の構成員が何らかの不祥事や犯罪を犯した時に、その所属施設が謝罪することがよくある。例えば、昨年デーマパークでボートを転覆させるなどの迷惑行為を大学生がしでかしたとき、大学外の出来事にも関わらず学生が所属する大学が謝罪の声明を発表した。奇妙な話である。学生が学外で迷惑行為をしでかすに寄与する大学の過失とは何であったのか。人が大勢集まればおかしな人も交じっているものである。大学が全ての学生の倫理観や社会的振る舞いを制御できるはずがない。何ら具体的な過失を認識していないのに、軽々しく謝るのは、恐らく謝っておいた方が話が早い程度の理由であろう。小学校や中学校で、生徒の親が何らかの苦情を学校に対して強く申し入れたとき、学校側の具体的な過失が何であったのか、それは防ぎ得たことなのか、といったことを十分に考えないままに謝罪するという話も日常ちょくちょく耳にする。こういうケースでは得てして折角謝罪したのに、その後に親の意向に添わない言動を教師がとり、さらに炎上するということがよくある。なんとか手っ取り早く事体を沈静化したいがために、自分には具体的にどのような過ちがあったのかを十分に吟味しないままに謝る例を見聞きすることはうんざりするくらい多い。
 謝ることの最も重要な意義は、自分自身が自分の行動を冷静に分析し、その過程で過ちに気づき、何故それが間違っているかを十分に理解し納得することだと思う。そうすることによって、人は将来の改善策を講ずることができるのではないか。こういう態度を身につけるために子供達にまず教えるべきことは、自分の振る舞いを誠実に振り返ることと納得しないままに謝るべきではないことだと思う。そして、自分の振る舞いを誠実に振り返ることには発達段階に応じた限界があるし、責める気満々の人々に囲まれて冷静な振り返りなど出来るものでもない。幼いうちから過ちを犯すたびに逐一謝り反省して「見せる」ことばかりを練習させると、結果的には自分の過ちに正面から向かい合えない人を育てることになるのではないかと思う。

2014年9月16日火曜日

苦しいのが好きですか

マッサージを受けた生後4ヶ月の男児が死亡した(日本経済新聞 http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG06010_W4A900C1CC0000/ )。乳児の首をひねっているうちに死亡していたということで、とんでもない話だ。ネットでは、死亡した子供本人ではないがマッサージ中の写真を見ることが出来る(例えば、 http://matome.naver.jp/odai/2141022200070873901 )。相当長時間首を強く回転させたり、前後屈させたりしていたようだ。赤ちゃんは見るからに苦しそうに泣きわめいているらしい。当然だろう。しかし、終わりの頃には放心状態でぐったりするとのこと。施術者はこのマッサージによって「免疫力」が上がると説明していたようだ。不可解なことに、施術者は不起訴になっている。
 さて、ここではこのような危険な民間療法を放置していることの是非を論じるつもりはない。というか、ここから話はどんどん明後日の方向へ進む。この事件を知ったとき、もちろん危険な民間療法が野放しにされていることへの怒りを感じた。それと同時に、疑問に感じたことがある。長時間にわたり子供が苦しみ続けている状況を親が止めること無く見ていたことである。もちろん、親は子供のためにと考えていたのであって、子供を苦しめたいと思ってマッサージを受けさせた訳ではないだろう。僕が分からないのは、このように明らかに苦しんでいる状況を「子供のためになる」と信じ込めたのは何故だろうということだ。乳児を(大人であっても)苦しめることが本人のためになるということは滅多に無い。それを許容するためには一時苦しんでも、その後に良い状態が待っているということについて、かなり説得力のある合理的説明が必要である。そのためには、例えば医療の様に長い年月にわたって構築された学問大系と、医師免許という国によるお墨付きが必要となる。そうであってさえ、目の前で子供が酷く苦しむ様子を見た時に、そんなものが本当に役に立つのかと疑問に思う方が自然だろう。脱水症の時に点滴を勧めても、不憫に思ってなんとか断ろうとする親は結構いる。
 当然、今回の事件では施術者の説明が相当上手だったという可能性は高い。この施術者のもとには被害にあった乳児だけではなく、かなり多くの子供がマッサージを受けていたようであり、多くの親を納得させる力が施術者にあったのだろう。ただ、ここにはもう一つ別の要因があったのではないかと僕は睨んでいる。客観的な根拠は無い。あくまで僕が密かに疑っているだけのことである。それは、世の中には苦しむことに価値を見いだす人々が少なからず居るということだ。苦しいから意義がある、痛いから良く効く、辛いから成長する、と考える人達である。このたぐいの人々は、どのように素晴らしい成果を目の当たりにしても、当事者が苦しんだ経過が無ければ価値が半減すると感じるのだ。「良薬口に苦し」、「お腹を痛めた子だからこそ愛おしい」、「歯を食いしばり頑張った暁には云々…」補足しておくと、ここで苦しむ主体は他者である。自分から縁の遠い「他人」である程気安く無邪気に苦しむことを求める。しかし、教師が生徒に、親が我が子にさえ苦しむことを求めてしまうことも多いのではないかと僕は疑っている。
 確かに何かを成し遂げるときや何かを生み出すときに、その過程で苦しみが伴うことはしばしばある。しかし、その結果を評価する時には何を成し遂げ、何を生み出したかで評価すべきである。どれだけ苦しんだかということは問題ではない。何の苦しみも無かったとしても、成し遂げたことが素晴らしければそれで良いのだ。過去の過程でどのくらい苦しんだかということを評価の基準にする必要はさらさらない。苦い薬が良く効くとは限らない。毒になる可能性だってある。歯を食いしばって痛みを耐え、潰れていく人も大勢いる。そんなことは大人なら誰でも知っているはずだ。しかるに、成し遂げた結果よりも苦しんだことを重視する人は多い。苦しみ自体の目的化である。手段の目的化に似ているが、誰かが苦しむことを待ち望む態度はさらに見苦しい。
 子供でも大人でも、苦しんでいる状態自体は決して健康的ではない。状況が何であれ、苦しんでいる人達は体かあるいは心が傷つきつつあるのだ。何の見通しも無く放置するべきではない。人が苦しんでいるときは、どうやって苦しみを軽減していくかを考えるべきである。限られた時間を耐え続ければ必ず苦しみは和らぎ、新たに手にするものが豊富にあることを確実に見込めるのであれば(例えば病気で手術をするときの様に)、耐え抜くことを励ましていくという選択肢もあるのかもしれない。しかし、何の見通しも無い中で苦しみ続けることにメリットがあるとは思えない。苦しむことを目指させるのではなく、具体的な目標を達成するための合理的な方法を助言する援助こそが重要だと思う。

2014年9月10日水曜日

TV、ゲーム、インターネット

大学生の頃に喫茶店に設置されているインベーダーゲームが流行した。やたらのめり込んでいる人もいたが、僕にはあまり面白く感じられなかった。ニンテンドーからファミコンが販売されたのは大学を卒業した年で、僕は買わなかった。欲しいとも思わなかった。こんな具合に、僕は元々ゲームに良い感情は持っていない。20歳から10年余り、テレビの無い生活をしていたため、ビデオやその後のDVDにもあまり馴染みが無い。要するに、ゲームに対して好意は無いし、TV、DVDに対しても淡白なのである。それにも拘らず、子供がゲームをしたりTV・DVDを見ることについて目を吊り上げて非難する人がいると、素直に頷く気にはなれない。自分が、ゲームには興味が無くてもパソコンなど電子機器が好きだったことも理由かもしれない。しかし、最も大きな理由は、ゲームやTV・DVDを当然の様に非難する人達からその具体的根拠を聞いたことが無いからだと思う。「どうして?」という質問さえ不適切と言わんばかりに、当然のこととして主張する人が多いのである。
 7、8年くらい前だろうか、仕事の関係で知り合った(つまり、さほど親しかった訳ではない)心理学者に突然尋ねられたことがあった。「ゲームをすることをどう思いますか?」と。どう思いますかと尋ねられても、返事をする根拠が無い。「まあ、直感的にはあんまりやり過ぎると良くなさそうな気もしますが、良いも悪いも客観的な根拠を知らないので、何とも言えませんね。」と答えた。すると相手は俄然張り切り出し、怒りさえ滲ませながら、根拠があろうが無かろうが悪い可能性がある事は子供から切り離さないといけないでしょ、と捲し立て出した。こちらはあっけにとられながら、「悪い可能性」を強調する程の根拠を知らないから、とモゴモゴ言っていたのだが、その心理学者は全く聞く耳を持たない状態であった。別に心理学者だから変だった訳ではないだろう。小児科の同業者でも、ゲーム・ビデオで自閉症になると主張する人はいる。何が根拠かというとその人が出会った少数の事例の主観的経験だけである。
 さて、本当の所はどうなのだろう。最近、この問題に関連する3編の論文を読んだので、紹介する。たまたま出くわした論文を読んだだけなので、最新の研究を網羅するには程遠いのだが、それぞれしっかりした学術雑誌に掲載されているし内容もきちっとしているので、ある程度現状での研究動向を知る参考になると思う(それぞれの論文のURLと概要を文末に記載しておく)。まず、今年出版されたPrzybylskiの論文である[1]。これは10〜15歳の5000人余りの子供を対象にした研究である。ゲームをする時間と、問題行動や好ましい社会的行動(向社会的行動)の出現との関係を検討している。面白いことに、1時間以下の短時間ゲームをする子供は全くゲームをしない子供より向社会的行動出現率や生活への満足感が高く、内在的・外在的問題行動が少なかった。逆に、3時間を超えてゲームをする子ども達はゲームを全くしない子供と比較して向社会的行動と生活への満足度が低く、内在的・外在的問題行動が多かった。ただ、ゲームをする時間で向社会的行動や問題行動を説明できる割合は極めて僅かであった。単純に解釈すれば、ゲームは控えめにすれば良い効果があるし、し過ぎると悪い効果があるという結果である。
 Przybylskiの研究は非常に大勢の子供を対象としており、信頼性は高い。ただ、問題点もある。一つは、同一時点でのゲームの使用時間と行動評価の相関を検討していることである。上記の様に、短時間であれば行動面の良い傾向と、長時間であれば問題行動と相関していたとしても、ゲームをすることが原因で行動特徴が形成されるのか、元々行動特徴がそうであるからゲームの時間が決まるのか、因果関係がはっきりしない。例えば、長時間ゲームをするから行動の問題が増えるのか、日々の生活が上手く行っていないためにゲームに逃避するのか、この研究からは分からない。第二に、家庭の経済状況や親の学歴、本人の能力など、他にも行動に影響しそうな因子の検討がなされていないこともこの研究の弱点である。ただ、何れにしてもゲーム時間と行動特徴の相関は極僅かであり、よしんばゲームが問題行動の頻度を左右したとしても、その程度はしれている。
 2013年に出版されたParkesらの報告[2]は、なかなかの労作である。約11000人の子供を対象に、2年間の追跡調査を行っている。5歳の時点でTV・DVDと電子ゲームに費やした時間と、5歳から7歳にかけての行動特徴の変化との相関を検討している。電子機器の利用時間と行動特徴の評価時点をずらしてあるので、もし両者に相関が認められるならばTV・DVDやゲームを利用することが原因となる行動の変化という因果関係を想定しやすい。また、この研究では、母親およびその他の家族の特徴や本人の特性など、行動の問題に影響しそうな多くの要因を考慮に入れた分析を行っている。結果は、5歳時点でのゲーム利用時間は5歳から7歳にかけての問題行動の変化には全く影響しなかった。TV・DVDに関しては毎日3時間を超えて視聴していると7歳での攻撃行動の増加につながっている。しかし、その程度は極めて僅かである(10点満点の評価得点が0.13ポイント上昇)。
 最後に紹介するのは今年出版されたMillsによる総説である[3]。これはゲームやTVではなく、インターネット利用の思春期の若者の行動や認知能力への影響についての研究動向を記載している。現状では確固たる結論を出せる程の研究は揃っていないが、それでもある程度の知見は出ているようである。Millsはまず、思春期の脳の構造・機能の変化は遺伝の強い制御下にあり、環境から受ける影響は僅かであることを指摘している。そして、インターネット使用によって一般的には余暇活動や社会的活動への悪影響は少ないとする知見を紹介している。また、インターネットが個人の問題解決に新たな手段を提供する一方で、認知能力への影響は少ないことにも言及している。
 これらの文献から何が言えるだろうか。結論じみたことはほとんど何も言えない。ゲームにしてもインターネットにしても子供の発達に良いともいえないし悪いともいえない。ただし、仮に悪影響があったとしても、その程度は非常に小さいということは言えるのではないかと思う。世の中にはゲームやインターネットよりも子供の発達に強く影響するものがたくさんありそうだ。家庭の経済状況の子供への影響は様々な分野の研究で指摘されている。就学前教育の場や小中学校の指導者のスキルも大きいだろう。親の文化的興味のあり方なども影響がありそうである。また、子供に発達障害などの発達の偏りがある場合、如何に適切な支援を講じられるかは重要だろう。仮にゲームやインターネットに問題があっても、その影響は考慮すべき数多くのことの一部に過ぎない。
 今の世の中で、子供がゲームやTV・DVDを利用することを制限するのは、親にとっては大変なことである。子供との論争を制してゲームの時間を制限しても、それが実効を挙げているかどうか確認することは特に共働き家庭では困難だろう。苦労して実際にゲームやインターネットの利用時間を確実に削っても、それによって子供がばりばり勉強し出したり、親の好む文化的活動に勤しみ出すかと言えば、はなはだ怪しい。特に、建設的な活動を豊富に身につけていない子供のゲーム時間を削ったところで、空虚な時間が増して、イライラが募るのが関の山かもしれない。ゲームが子供同士の社会的つながりの一手段になっていることや、パソコンやインターネットの利用が将来の職業的スキルにもつながることを考えると、単純に使用を制限すると逆に問題が生じるかもしれない。そういったリスクを冒す程の価値があるのかと言えば、少なくとも今回紹介した文献から考える限りはどうも怪しい。メリットとデメリットを冷静に考えたとき、ゲームやネットを目の敵にするのではなく、少しでも建設的な活動を増やすことを促していく方が合理的なのではないかと思う。
 前述のMills [3]の論文には、文字に関するソクラテスの面白い発言が取り上げられている。ソクラテスは、文字を習得した者は記憶力を鍛錬しなくなり、書き留めることに頼る余りに物事を忘れやすくなる、と嘆いたそうである。全く何時の世も、新しいメディアに抵抗する人はいるもので、しかもそれが随分賢い人だったりもするのである。


参考文献、概要

[1] Przybylski AK.Electronic Gaming and Psychosocial Adjustment. Pediatrics. 2014 Sep;134(3):e716-22
http://pediatrics.aappublications.org/content/134/3/e716.long
http://pediatrics.aappublications.org/content/134/3/e716.full.pdf+html

電子ゲームが発達期の子供にどのように影響するかについては、負の影響も正の影響も種々報告されている。ただ、ほとんどの先行研究ではゲームの負の影響か正の影響の一方のみについて検証している。また、大学生など協力を得やすい対象を選んで検討しているという問題が有る。そのため、結論を無闇に一般化すべきではない。こういったことを考慮すると現状では電子ゲームが最終的にどのように影響するのかほとんど分かっていない。この研究では、low)一日に1時間以内のゲームをしている子供(およそ半数の子供)、moderate)1〜3時間程度している子供(およそ三分の一)、high)3時間を超えてしている子供(およそ10〜15%)の3群に分け、ゲームをしていない子供との比較を行なった。
対象:男子2436人、女子2463人(10歳〜15歳、平均12.51歳)。
評価項目:
(電子ゲームに取り組む時間)コンソール型のゲーム(恐らくゲーム専用機)とパソコンでのゲームに分けて、それぞれ1時間未満、1-3時間、4-6時間、7時間以上のいずれかを選択。
(内在的および外在的問題)
SDQ (Strengths and Difficulty Questionnaire)の下位尺度のうち、情緒尺度と仲間関係尺度の合計を内在的問題尺度とし、行為尺度と多動・不注意尺度の合計を外在的問題尺度とした。
※SDQについては文献[2]も参照
(向社会的行動)
SDQの向社会性尺度(共感的、援助的考えや行動を評価する)を用いた。
(生活の満足度)
学校生活、学業、外見、家族、友達の5つの領域における満足度を「完全に幸福」から「全く幸福ではない」までの7段階で評価させた。5領域の得点を平均した。
(分析方法)
low、moderate、high群それぞれをゲームを全くしていない子供(noplay)と比較した。比較方法は、群を説明変数とし、上記の評価項目をそれぞれ比説明変数として回帰分析を行なっている(年齢と性も説明変数に入れてその影響を除いている)。
結果:
コンソール型かパソコンかに関係なく、以下の結果が得られた。
短時間ゲームに取り組む群(low)はnoplayに比較して向社会的行動と生活の満足度が高く、内在的および外在的問題が低かった。長時間ゲームに取り組む子供達(high)はnoplayと比較してlowとは逆の違いが認められた。しかし、いずれの場合でも非説明変数の変動のうちゲーム時間で説明できるものは極めて小さかった(<1.6%)。moderateはいずれの評価項目でも差は認められなかった。

[2] Alison Parkes, Helen Sweeting, Daniel Wight, Marion Henderson. Do television and electronic games predict children’s psychosocial adjustment? Longitudinal research using the UK Millennium Cohort Study. Arch Dis Child. 2013 May;98(5):341-8
http://adc.bmj.com/content/early/2013/02/21/archdischild-2011-301508.full
http://adc.bmj.com/content/early/2013/02/21/archdischild-2011-301508.full.pdf+html

子供のTVや電子ゲームの使用時間と、注意能力や攻撃性あるいは向社会的行動との関連については様々な検討がなされているが、一定の見解がない。先行研究には様々な交絡要因(混乱要因)を考慮していないものが多い。この研究では5歳でのTVや電子ゲームの使用時間と、心理社会的適応の7歳にかけての変化を、様々な交絡要因を考慮に入れて検討した。
対象:生後9ヶ月から追跡されているMillennium Cohort Studyの対象18818人中、5歳と7歳で評価できた11014人の小児(女児5576人、男児5438人)
評価項目:
(心理社会的適応状態)5歳と7歳時点でSDQ (Strength and Difficulties Questionnaire)に母親が記入。情緒、仲間関係、行為、多動・不注意、向社会的行動の5つの下位尺度がそれぞれ0〜10点で評価される。最初の4尺度は得点が高い程問題が多く、向社会的行動は得点が高い程好ましい状態。
(画面視聴時間)5歳の時点での平日のTV/DVDと電子ゲームそれぞれの使用時間を、なし、1時間未満、1時間以上3時間未満、3時間以上5時間未満、5時間以上7時間未満、7時間以上の6段階で、母親によって評価した。
(その他の検討因子)以下の項目を検討に含めた。断りが無いものは子供が1歳時点でのデータ。母親の民族的背景、母親の学歴、調整済み世帯収入、母親の就労状況(5歳)、母親の身体的および精神的健康状態(SF-8 scale)、家族構成(5歳)、母子関係が暖かいか葛藤があるか(3歳)、親子での活動状況(5歳)、household chaos(5歳)、5歳時点での子供の特徴(認知機能、長期間続く疾患や障害、睡眠障害、身体活動、学校への負の態度)
(データ解析)SDQ下位尺度それぞれの5歳時点と7歳時点の差を従属変数とする多変量回帰分析
結果:
・5歳時点で、2/3がテレビを1時間以上3時間未満視聴し、15%は3時間以上視聴していた。テレビを見ない子供は2%未満であった。電子ゲームの使用時間はテレビと相関していたが、テレビよりも短く、3時間以上は3%のみであった。
・性別、7歳児点での月齢、5歳時点でのSDQ得点のみを制御して分析すると、TVもゲームも3時間以上使用していた場合はすべての問題得点が上昇し、向社会的行動は減少していた。1時間以上3時間未満では下位得点の種類によって変化するものとしないものがあった。
・上記に加えて、すべての経済的、家族、本人の特徴要因を制御して検討し直すと、TV/DVDを3時間以上の視聴をしていると7歳時点での行為得点が0.15ポイント上昇したのが唯一の変化であり、ゲームによるSDQ得点の変化はなかった。ゲーム使用時間を制御すると、TV/DVD視聴3時間以上での行為得点上昇は0.13ポイントとなった。
結論:TVの過剰な視聴は素行の問題をわずかに増加させるが、TVや電子ゲームの使用時間はそれ以外の心理社会的適応状態には影響しない。

[3] Mills KL. Effects of Internet use on the adolescent brain: despite popular claims, experimental evidence remains scarce. Trends Cogn Sci. 2014 Aug;18(8):385-7
http://www.cell.com/trends/cognitive-sciences/abstract/S1364-6613(14)00106-5?_returnURL=http%3A%2F%2Flinkinghub.elsevier.com%2Fretrieve%2Fpii%2FS1364661314001065%3Fshowall%3Dtrue
http://www.cell.com/pb/assets/raw/journals/trends/cognitive-sciences/Mills.pdf

(インターネットが思春期の子供の脳や行動に影響しているのかどうかについての研究の現状をまとめた総説)

インターネットにより生徒の集中力低下や認知機能の変化を感じているという、中学校や高等学校の教師の声がある。これに科学的な根拠があるのかどうかをこの論文では検証する。

脳の感受性:
思春期の脳の変化は遺伝の強力な支配の下にあることが示されている。ネットなどの環境の影響による変化はわずかである。思春期は社会文化的な学びにとって重要な時期と考えられている。しかし、現在判明している知見では、インターネット活動は思春期の社会的発達を阻害しない。

インターネット利用と思春期の健康:
ネットにつながる時間は健康や満足につながる活動を減らしていない。最近の長期追跡的研究では、12−24歳の人々では中等度のネットの使用とスポーツやクラブなどへの参加は正の相関を示す。11−13歳での調査では、座ってモニターを使う活動は、余暇の身体活動を減らさないことが示されている。友人とのネットを通じたコミュニケーションは、社会的連帯を増加させる。

インターネット利用と認知:
大学生を対象とした研究では、将来必要となると思われる情報にアクセスした時、その具体的情報を忘れやすい一方でどこで探せば見つけられるかを覚えていることが示されている。ネットに接続することは、正しい情報を広めることで個人の問題解決を助けることが出来るが、その情報を自分のものにするための認知方略を広めることは出来ない。こういったことから、インターネットの認知への影響は微々たるものだが、特定の認知方略を強化する可能性はある。

インターネット嗜癖:
過剰なネット利用者を対象にした神経が贈研究は行われている。しかし、その結果を過剰利用者ではない大多数の思春期の青年(95.6%)には当てはめられない。現状では、行動、認知、安寧の程度と共に脳の評価と、インターネットの種々の活動との相関は検討されていない。この様な研究は一見可能とは思えない。しかし、他の領域での、環境の影響(例:音楽訓練の影響)を調べた研究の手法が参考になるかもしれない。

結論:
World Wide Web (WWW)が開発されてから25年経ち、我々相互影響の在り方や歴史が変化した。新しい世界を成功裏に導くためには新しい技能が求められる。そのことが神経構造にある程度反映されるだろう。しかし、現状ではインターネットの利用が脳の発達に深い影響を与えるという証拠も与えないという証拠も挙っていない。

2014年9月3日水曜日

発達障害の診断は誰がすべきか

発達障害の診断は誰がすべきか?答えは一見簡単で、医師がすれば良い。では、何故診断しないといけないのか。医学診断は生物学的な分類という側面もないではない。しかし基本的には診断は患者の役に立つからするのである。診断することによって治療法が明確になるかもしれないし、たとえ治療法が現在無くても先の見通しがつけばそれは色々な形で役に立つ。種々の福祉制度を利用できる様になるかもしれない。多くの疾患では医療機関で診断し、そして(同じ施設とは限らないが)医療と、時に行政・福祉制度がその診断を利用し、患者のために役立たせることになる。
 ところが、発達障害では少々話が違ってくる。発達障害児をサポートするにあたり、医師や医療の果たせる役割がかなり限られているからだ。もちろん、医療や療育が不必要というつもりはない。薬物療法が必要な時は医療機関でしかできないし、合併障害の診断・治療にも医療は必須である。また、特に幼児期には療育機関でトレーニングすることは重要である。医療機関であれ療育機関であれ、本人や家族の相談に乗り助言をするという機能もあり、これも無視できない。ただ、医療は発達障害児支援の中心にはなり得ない。日常生活に密着して環境を整え、生活スキルを身につけさせ、能力に応じた学習をさせ、苦手なことをカバーする技能を教え、対人関係を調整し、具体的な日常生活に即した助言を家族に与え、ということが発達障害児支援の最も中心的なテーマとなる。毎日の生活に張り付いていない医師や療育機関の職員にはこのようなことをカバーすることは無理である。
 子供本人と日々の生活をともにする人のみが発達障害児の中心的支援者となることができる。そのような立場で職業的に発達障害児をサポートできるのは教師や保育士である。つまり、発達障害の診断を最も生かせる立場の人達は教師や保育士ということになる。文部科学省が特別支援教育の方針を正式に打ち出してから7年余り。現在ではほとんどの教師は発達障害児に対して合理的な配慮を行うことを前向きに考えているのではないかと思う。実際に言葉を交わす機会があった教師達も、自分自身の職務として発達障害児の適切な指導が必要と考えていた。多くの保育士も同様である。ただ、あくまで個人的印象だが、ほとんどの教師は「診断」に対して腰が引けた感じがする。「診断」はあくまで医療の問題であり、自分はその結果を把握できれば良いと思っている様に見える。
 しかし、考えてみればおかしな話である。発達障害やそれに関連する障害病型のほとんどは、平均的な子供からずれた行動傾向や認知スタイルが主たる特徴である。振る舞い方や物事の認識の仕方がずれているがために色々の失敗をし、困難に遭遇する。そういう子供達が暮らしやすい環境を整え、必要なスキルや学問を修得させていくための工夫は、本人達の特徴を踏まえて練り上げる必要がある。そうであってこその合理的配慮である。それならば、様々な診断概念が持つ意味を十分理解しておく必要があるし、それに含まれる特徴を教師自身が子供に確認できないといけない。「自閉症の診断があれば絵カード」という診断名と具体的対応策の組み合わせを知っておけば何とかなると考える人がいるとすれば甘すぎる。同じ診断名が付いている子供であっても能力、性格、今までの適応状態など千差万別であり、対応策も個人個人に併せて調整する必要がある。となれば、定型的な対応策であっても何故それが有効かという原理や機序を理解していないと応用が利かない。日々予想外の出来事に対応を求められる教師・保育士は極めて知的な職業であり、特別支援教育に限らずマニュアル的対応のみで上手く行くはずがない。
 このように考えてくると、発達障害児に適切なサポートや指導を用意するためには、教師や保育士自身が発達障害の診断概念を熟知し、自ら診断できた方が良い。いや、診断すべきである。もちろん、公的な場で軽々しく診断名を振り回すと子供自身や家族を傷つける可能性があるので、その結論の取り扱いには注意が必要である。しかし、あくまで指導計画を練るための事前評価として、発達障害の診断をするスキルを教師は身につけておくべきではないかと僕は考える。恐らくこういう考え方は一般的な医師の考えではないと思う。医師は訓練を受けた自分たちこそが適切な診断を下せると考えがちである。重複障害の診断の重要性も考慮すると、軽々しく医師以外に診断を勧めるべきではないとする考えにも一理ある。しかし、患者を支援する中心的役割を担えない領域だけでも、もっと診断というものを解放する様に考えても良いのではないか。また、教師も自分達の職務遂行に必要な診断を取り戻すくらいの気概を持っても良いのではないかと思う。