2015年4月27日月曜日

何でもかんでも障害

ここ5年から10年ほど、広汎性発達障害という診断を受ける子供が多い印象がある。保育園や小学校で何らかの問題を指摘された子供の多くは、担任の教師・保育士から病院受診を熱心に勧められ、受診した子供は判で押したように広汎性発達障害の診断がついてくる。斯くして、保育・教育界は高々5年10年の間に発達障害(広汎性発達障害と混同されている)が激増していると大騒ぎである。世界的にも広汎性発達障害(今は自閉症スペクトラム障害と呼ぶようになっている)の有病率は高くなる傾向があるが、それでもせいぜい1%どまりである。ところが、日本の学会などの発表では子供の数%以上が該当すると主張するものも多い。基本的な原因が生物学的な要因であると推測されている広汎性発達障害が、1世代も経ない間に激増するというのも素直に信じがたい。
 こういう状況を見るにつけ、当然診断に対する批判も増えてくる。僕自身も、どこかの病院で広汎性発達障害と診断された子供と出会う際に、本当に厳密に評価し診断基準に該当するかどうかを誠実に検討しているのだろうか?という疑問を抱くことが少なからずある。ただ、これは自閉症や、さらには発達障害を専門に診療している立場の考え方である。一般の人はもう少し別の観点からも疑問を呈する人が多いのではないだろうか。それは、何でもかんでも障害にしてしまって良いのかという疑問である。こんなに調子づいて自閉症なり広汎性発達障害なりの診断をしていては、世の中障害者だらけではないか。そんなに多くの人を障害者と認定するのはナンセンスではないか。無理やり障害の診断をすることに妥当性はあるのか。といったところだ。
 人口の多数が「障害」という特殊な扱いを受けることはおかしいという発想は、かなり理解しやすく自然であるように思える。実際、医療においても「正常」と「異常」の境目を「世の中で極めて珍しい」という観点で線引きしていることは多い。もっと具体的に述べると、検査データが異常かどうかの判断を、平均値を2標準偏差以上下回る(あるいは上回る)ときという基準に頼ることが多い。これは分かりやすく言うと、そういう値になるのは全人口の2.3%未満しか存在せず、かなり珍しい現象だということを示している。典型的な具体例は低身長で、各年齢での平均身長を2標準偏差を超えて下回ったときに低身長と診断する。しかし、珍しいからということで人口の一定の割合を「異常」と定義することには問題もある。常に一定の割合の人が「異常」と考えるのも変な話である。そもそも「異常」とは何かということはとても難しい問題である。
 現在、障害は国際生活機能分類で定義されている。簡単に述べれば、ある健康状態において自分が属する環境の中で自分一人の力では食べたり、話したり、物を操作したり、移動したりという活動が十分にできないことや、仕事や学習、余暇活動など社会的活動への参加が十分にできないことを示している。つまり、自らの健康状態では、属する環境の中で暮らし辛い状態なのである。ある社会集団の中で珍しいほど少数かどうかではなく、暮らし辛いかどうかが障害があるかどうかの判断根拠となる。
 例えば、何らかの理由である地域のかなり多くの人が暮らし辛いとき、珍しくないから「障害には当たらない」と主張しても良いだろうか。非常に貧しい国で、子供の半数くらいが栄養失調に基づく生活の困難さがあるとき、あるいは長い内戦状態のある国で多くの人々が四肢の運動障害を伴っているとき、多くの人が同じ境遇にあって珍しくもないので一々障害とみなす必要がないと主張しても良いのだろうか。そんなことはない。自分一人の力で十分な活動や参加ができない人には障害があり、援助が必要なのである。
 「何でもかんでも障害にしてしまって良いのか」という問題に戻るが、正しい回答は「ダメ」である。何故ダメかという理由については、2つの次元がある。まず、障害と認定する以上は独力では活動や参加に困難さがあるという条件を満たす必要がある。「困っている」ことを正しく認定できているかどうかということである。さらに、どういう種類の困難さがあるかという評価も妥当でなければいけない。困難さの生じる状況によって必要な援助も異なるからである。
 上に述べたように、受診する子が全て「広汎性発達障害」という診断であれば、丁寧に評価したのだろうかという疑問が湧いてくる。しかし、「何でもかんでも障害にしてしまって良いのか」の意味が何らかの障害と診断される人の数が多すぎる、という意味なら、必ずしも多いから不適切とは僕は思わない。障害の境界が少々広がり障害と目される人の数が増えても、その困難さに対する援助が用意される環境を構築すれば、その人たちの困難さは解消されるか軽減する。より自立して生活できる人が増えていけばそれで良いのではないかと思う。日々の困難さに苦しんでいる人たちに対して、援助に値する障害かどうかを認定するような態度をとる必要なんてさらさらないと考えている。

2015年4月20日月曜日

内田樹 編「日本の反知性主義」

小さいとはいえ、一応大学と名の付く職場で働いている。大学といえば知の探求がその本来の使命だろう、と思いたいのだが、とても知的とは言い難い言説に接することが多く、忸怩たる思いを抱く。何しろうちの大学なんぞ、学生に求める重点目標が「さわやかな挨拶とマナーの向上」である。いや、さわやかな挨拶もマナーの向上も悪いわけではない。しかし、大学を名乗るならもっと知的な目標があっても良いではないか。僕が働く大学だけの傾向ではないのだろう。色々出てくる政府の大学改革についての提案を見ていると、あまり知性を重視しないのは日本全体の方向性なのだろうか、という気もする。
 最近、内田樹さん編集の「日本の反知性主義」なる書籍が出版された。今の大学には、知の探求とは反対の流れがあるように感じて日々不満を感じながらも、自分の頭ではそれを明確に整理できていなかったことから、これはタイムリーとばかりにamazonさんに届けてちょうだいとお願いしてしまった。まったく、酔っ払ってインターネットを見ていると、細々と散財してしまう。
 さて、読んでみるとなかなか興味深いことが色々書いてある。感心するような論考も多いし、単純に面白いと感じる文章もある。様々な人がそれぞれの観点から執筆した文章が集まっているので、漠然とした統一テーマはあるものの、書籍全体に書かれていることは変化に富んでいる。最近とみに集中力が低下した僕でも、比較的スイスイと読めてしまった。しかし、その読後感には複雑なものがある。こういうことで良いのだろうかという疑念が残る。
 疑念については後で述べるとして、まず、「知性」や「反知性主義」をこの本ではどう定義しているかについて述べる。内田樹さんは自説に固執することなく他人の言うことをとりあえず黙って聴き、「得心がいったか」「腑に落ちたか」「気持ちが片付いたか」どうかを自分の内側を見つめて判断し、それを以ってさしあたり理非の判断に変えることができる人を「知性的な人」とみなしている。つまり、内田さんは「知性とは知の自己刷新のことを言うのだろうと」考えているのである。さらに、知性とは集団的な現象であると主張する。すなわち、人間は人間集団として情報を取り入れ、その重要度を衡量し、その意味するところについて仮説を立て、それにどう対処すべきかについての合意形成を行うというのだ。その上で、こういった力動的プロセス全体を活気づけ、駆動させる力の全体を内田さんは知性と呼ぶのである。つまり、知性は「社会的あるいは公共的」なかたちでしか構築されないし、機能もしないのである。
 内田さんはさらに重要な指摘をする。「社会的あるいは公共的」であるためには、時間を味方にしなければならないと言うのである。知性とは、死者達も、未だ生まれていない人達をもフルメンバーに含む、時空を超えた共同体としての営みだと言うのである。このことに関連して、内田さんは「科学者は先行する世代の科学者達の肩の上に立って仕事をする」というポパーの言葉を引用している。
 以上の論考を踏まえて、内田さんは反知性主義の際立った特徴はその狭さと無時間性にあると指摘する。反知性主義者達は今の自分のいるこの視点から「一望俯瞰すること」に固執し、自分の視点そのものを「ここではない場所」や「いまではない時間」に導くために何をすべきかを問わないからである。
 鷲田清一さんの知性に関する考え方も興味深い。鷲田さんはまず、複数文化がいかにして共存するかという問題について、エリオットの「(一つの社会の中に階層や地域などの相違が)多ければ多いほど、あらゆる人間が何等かの点において他のあらゆる人間の同盟者となり、他の何等かの点においては敵対者となり、かくしてはじめてたんに一種の闘争、嫉視、恐怖のみが他の全てを支配するという危険から脱却することが可能となるのであります。」という言葉を引用し、社会の平和を保つためには、多様な摩擦が存在することが必要であると述べている。そして、知性を身につけるほど世界を理解するときの補助線や参照軸が増殖し、世界はより複雑なものとなり、理解することが煩雑になる。世界を理解するためには煩雑さに耐えることが必要であることを知り、複雑さの増大に耐える耐性を身につけていることが知性的ということなのだと鷲田さんは主張する。うーん、深い。
 白井聡さんは反知性主義の定義を明確にすることから話を進めている。白井さんはホーフスタッターの言葉を引き、反知性主義とは「知的な生き方およびそれを代表するとされる人びとに対する憤りと疑惑」であり、「そのような生き方の価値をつねに極小化しようとする傾向」と定義している。その上で、反知性主義は積極的に攻撃的な原理であることや、大衆民主主義社会では反知性主義の危険性が高まることを指摘している。そして、現代の反知性主義が活気づけられる2つの文脈として、資本主義のネオリベラリズム化と学問における啓蒙主義の公然たる放棄があると主張している。
 著者によって考え方は異なるが、いやだからこそ、知性とは何かということについて多面的な考え方を知ることができて面白い。反知性主義という言葉についても、ホーフスタッター以来の歴史や、単なる無知や非知性とは異なる概念であることを知ることができた(無知とは僕のことである)。それぞれに成る程と頷いてしまう。上に記した以外にも、反知性主義を効率と予定調和を目指す「台本至上主義」によって説明する相田和弘さんや、科学に内在する知性の退行について論じた中野徹さんの論考も非常に興味深いものであった。
 さて、内田樹さんはその原稿の最後で、現在の政治状況を猛烈に批判する。曰く、日本は全ての制度の株式会社化のプロセスを進んでおり、金儲けに最適化したシステムだけが生き残ろうとしている。国政の政策の適否は50年後、100年後の日本という国の状態によってのみ検証される。しかるに、今の為政者たちは自分たちの政策が歴史的にどう検証されるかということには何の興味も持っていない。極めて断定的な筆致なのである。ここでは、何故「日本は全ての制度の株式会社化のプロセスを進んでおり、金儲けに最適化したシステムだけが生き残ろうとしている」と言えるのか、何故「今の為政者たちは自分たちの政策が歴史的にどう検証されるかということには何の興味も持っていない」と言えるのか、ということの根拠は示されない。「国政の政策の適否は50年後、100年後の日本という国の状態によってのみ検証される」ことに異存はないが、さて、今の国政ではその検証に耐えないと言えるだけの根拠も述べられていない。
 内田さんは、知性というものを考えるにあたって自説に固執することなく他人の言うことをとりあえず黙って聴き、吟味することを重視しているのである。そして、知性とは社会的あるいは公共的なものであることを強調している。それが何故、丁寧に根拠を積み上げることなく、現在の国政のあり方を全否定するような乱暴な主張をするのであろうか。
 白井聡さんは学問における啓蒙主義の放棄について説明する文脈で、突如現在の精神医学や臨床心理学の批判を始める。精神分析学の衰退と、脳生理学、薬物療法、認知行動療法の発展している現状を、「人間とは何か」を問う学問の代わりに「人間の死」を事実上の前提とした学問が知の制度の中心を占めるようになっていることを表しているというのである。何故だか白井さんは、臨床家は精神分析学か、投薬及び認知行動療法かを二者択一で選んでいるように考えているようなのだが、おそらくそのようなことはない。臨床家は目の前の患者をより良く理解し、苦しみを軽減することに役立つものを重視しているだけだと思う。僕は精神分析学についての教養には欠けているので、色々知ったようには言えない。しかし、フロイトも精神科医である。臨床経験を重ねる内に、患者の病態を理解するモデルとして精神分析学に至ったのではなかろうか。別に思想家を喜ばせようとして理論を深めていった訳ではないのではと想像する。精神分析学の勢いが衰えたことと、現代社会において反知性主義が優勢になったことを直結させることには無理があるのではないかと思う。
 どうもこの本の執筆者には何かを予め是として、論を進めている部分が多いように思える。もともと内田さんの編纂の意図として、「特定秘密保護法、集団的自衛権行使容認、学校教育法の改定などの安倍政権の動きへの市民レベルからの批判が何故起こらないか、という疑問が起点となっている。」ということが出発点となっているので、特定の政治的立場が前面に出やすいのは分かる。しかし、自分が問題と感じているものを批判するからこそ、根拠を十分に用意し、丁寧に論を進めていくべきではないかと思うのだが、ネオリベラリズム、安倍政権、あるいは原発に関しては「ダメなもの」という大前提で話を進めているように感じることが多かった。上記の白井さんのように個人的な思想に合わない状況を突如断罪するという態度にも危うさを感じる。名越康文さんと内田さんの対談に至っては、何か命題を出すたびに「そうなんですよね」「そうそう」とお互いに頷きあっているような文章が続き、気持ちが悪い。印象や直感的に受け止めたことは一切述べるべきではないと主張しているのではない。直感的な印象を主張するならするで、その論拠を丁寧に積み上げるべきで、断定的に主張することは「知性的」とは思いにくい。
 もちろん著者が高橋源一郎さんや小田嶋隆さんのように作家やコラムニストの場合、自分の内なる声や直感に端を発する考察をすることは、それはそれで価値のあることだとは思う。しかし、編者の内田さんはこの本を「共同研究」と称している。同好の士が集って、「そうだよね、そうだよね、うんうん」と納得し合うようなものが研究とは思えないし、ましてや「反知性主義」に一矢報いることにはならないのではないだろうか。どの著者も深い知性と広い教養を持っているのだろうなということは、それぞれの稿を読めば推測できる。今ひとつ教養にかける僕が批判しても、すっきりと説得力のある文章にはならないだろうとは思いながらも、このなんとも言えない嫌な読後感を書き留めておきたいと考えた次第だ。