2015年1月18日日曜日

診断を求める教師、求めない教師

自閉症スペクトラム障害や注意欠如・多動症など発達障害のある子供達の診療をしていると、直接的、間接的に子供達を指導している教師の考え方を知る機会が多い。ここでは教師が発達障害の診断を必要と考えるか否かについて、僕が日頃考えていることを述べてみる。
 単純に考えれば、この観点で教師を2つに分けることができる。「診断が必要と考える教師」と「診断は必要ではないと考える教師」である。後者であっても、特別支援学級に籍を移すなど行政的処置をする際には診断書が必要になるので、細かく言えば状況によって話が違う面もあるが、まあ、基本的スタンスとして、という話である。
 教師を別の観点で分けることも考えてみよう。それは「優秀な教師」と「出来の悪い教師」である。何を持って教師として優秀で、どのような教師であれば出来が悪いとするか、は結構難しい問題のはずである。ましてや、一介の医師が特定の教師を捕まえて優秀かどうかの判断をするというのも出過ぎた真似だろう。逆の立場で、教師に医師として優秀か否かなどという評価をされることを考えると、僕自身面白くない。しかし、ここは敢えて分けてしまう。発達障害児を診療する医師の立場で分かる情報を元に考えるのである。非常に大雑把な判断であるが、子供が張り切って登校し、学校で楽しめ、勉強にも取り組めているとき、その担任は出来が良いと考える。さらに、親が教師とうまくコミュニケーションを取れており、子供の学校での状況をよく把握していることも、教師の出来の良さの条件と考える。
 以上2つの要因で分類すると、理論的には4種類の教師が存在することになる。それは、「診断が必要と考える優秀な教師」、「診断が必要と考える出来の悪い教師」、「診断が必要ないと考える優秀な教師」、「診断が必要ないと考える出来の悪い教師」の4種類である。そういった教師が存在するのか、順番に考えてみよう。客観的根拠などはない。あくまで僕の主観である。
 まず、「診断が必要と考える優秀な教師」は明らかに存在する。積極的に診断結果を親に尋ねたり、医療機関から情報を取得し、直ちに学校での対応に何らかの工夫を凝らしていくような人である。こういう人は、普段からこの問題について積極的に勉強している人が多いように感じられる。
 次に、「診断が必要と考える出来の悪い教師」であるが、これも明らかに存在するし、結構多いと思う。典型的な例を記すと、学校で何度か問題が生じて困ると、生徒の親に拝み倒してでも、あるいは脅しに近い要求で、病院を受診させる。とにかく診断してもらってくれと強く主張するのである。あっけにとられながらも親は子供を連れて病院を受診する。そこでなんらかの診断が下りたら問題解決かといえば、事態は一向に変わらず、問題は起こり続ける。教師が取った対策があるとすればせいぜい加配を要求するなどのなんらかの制度利用どまりであったりする。ちなみにこういう教師は、診断にこだわる割に「発達障害」、「広汎性発達障害」、「自閉症」、「ADHD」、「学習障害」といった用語を明確に区別していないように見える。
 「診断が必要ないと考える出来の悪い教師」も確かに存在するし、最も質が悪い。こういう人は高らかに宣言する。「私は子供にレッテルを張るようなことをしない。子供によって対応の仕方を変えたりはしない。」結果的に、子供が困っている事実や苦しんでいる現状を直視せず、どんどん追い詰めていくタイプである。
 問題は、「診断が必要ないと考える優秀な教師」である。果たしてこのような教師は存在するのか。僕は存在すると考えている。こういうケースが僕のような診療をする医師の眼に触れる機会は少ないはずだ。なぜなら、子供が学校生活を楽しめており、保護者も満足感を持っており、なおかつ教師が受診を勧めないのだから、わざわざ病院には来ない可能性が高い。ただ、僕の診察室を訪れる子供の中には、前の学年では非常に暮らし辛い状況に陥っていたのだが、担任が変わった途端に実に良好に学校生活に適応し出すということがしばしばある。そういう事例の中で、上手に指導してくれている(つまり優秀な)教師が診断には全く頓着していないということが稀にあるのだ。
 してみると、「診断が必要と考える優秀な教師」も「診断が必要と考える出来の悪い教師」も「診断が必要ないと考える優秀な教師」も「診断が必要ないと考える出来の悪い教師」も、全て存在するということになる。診断が必要と考えるか否かという要因と教師の優秀さという要因の間にはあまり相関がないという結論になりそうである。結局、教育にとって発達障害の診断などというものは意味がないのだろうか。
 結論を急ぐ前に、もう一度「診断が必要ないと考える優秀な教師」について考えてみたい。こういう教師はなぜ、発達障害児の指導に成功しているのだろうか。相手を選ばない万能の教育指導法を会得しているからだろうか。どんな能力、どんな学力、どんな行動特性あるいはどんな認知特性を持っている子供に対しても通用する万能指導法を駆使しているのだろうか。その様なことは俄かには信じがたい。集中力が極端に悪い子供に、人の意図を読むことが極端に劣る子供に、文脈や状況を考慮することが極めて不十分な子供に、文字の読み書きが著しく下手な子供に、ごくごく平均的な子供たちと同じ指導をして上手くいくはずがない。定型発達児と比較して色々極端にずれたところのある子供を上手く指導するためには、その子供の特徴を十分認識し、それを元に合理的に対応することが必須のはずである。恐らくこういう教師は診断を必要とは考えていなくても、個々の子供の特徴を評価するということが(意識的か否かはさておき)きちんとできているのではないだろうか。そして、それに基づいて個々の子供に合わせた指導の工夫が(意識的か否かはさておき)できているのではないか。
 「診断が必要と考える優秀な教師」についても考え直す必要がある。かれらは病院で下された診断名のみを頼りに発達障害児の指導に成功しているのだろうか。恐らくそうではないと思う。なぜなら、病院で下される診断はその子供の限られた側面を表しているに過ぎないからだ。同じ自閉症スペクトラム障害と診断された子供でも、子供ごとに行動特性、認知特性、あるいは知能など多岐に渡る。一つか二つのラベル的な診断名を知っただけでは子供を十分に理解することは不可能である。恐らくこういう教師も、病院に受診する前から個々の子供の特性を多面的に評価できているのではないかと思う。こういう教師は、自ら子供を評価分析する中で、診断名も評価の精度を上げるための一情報として取得しているのではないだろうか。
 このように考えると、「診断が必要ないと考える優秀な教師」は子供を評価するということにあまり自覚的ではなく、センスの良さに頼って指導をするタイプかもしれない。それに対して、「診断が必要と考える優秀な教師」は子供に関する情報を意識的に収集するタイプのように思える。教師としての力量は一概にどちらが上とも言えず、個人個人の差ということになるだろう。しかし、教師としてのスキルを同僚や後輩に伝達することができるのは、後者ではないかと思う。
 僕は発達障害の診断は、子どもの行動の評価尺度として役に立つと考えている。診断を行動の評価尺度として扱うということは、自閉症なのか違うのか、ADHDに該当するか否か、ということとは別の次元の考え方である。それぞれの病型の構成概念ごとに(ADHDであれば不注意の要素と多動性ー衝動性の要素)、どの程度対象となる子どもの行動の中に見られるか、ということを評価するのである。発達障害の診断概念をこのように利用することで、子供の行動を整理しやすくなる。だから、教師には診断を十分に利用して欲しいし、そのためには教師自身が診断できるようになることが良いと考えている(このことは既に書いた)。そういう意味で、教育において発達障害の診断は有用だと考えている。その一方で、病院で下される診断名にひどくこだわることに如何程の意義があるのか、少々懐疑的でもある。