2017年12月7日木曜日

リーディング・スキル・テスト

 先日、同僚の国語教育学者と雑談した折に、新井紀子さんが開発したリーディング・スキル・テスト[1]のことを話題にした。新井さんは、AIである東ロボくんに東大の受験問題を解かせるプロジェクトを進める中でAIの学習能力には限界があるという結論を得た。AIは「『意味は考えていなくて、正しさは保証しないけど、結構正しい』判断をする」のだが「過去に学習していない問題やパターンに突き当たると、解答できないのだ[2]」。しかし、東大に合格こそできないものの、東ロボくんの偏差値よりも成績の悪い高校生は多い。限界のあるAIにも叶わない高校生も多くいるということに疑問を感じた新井さんは、現実の子供達の学力に興味を持ちリーディング・スキル・テストを開発し、日本の子供達の読解力の現状を解析したのである。このテストでは、初めて見た文章の意味を素早く理解する力を調べることが目的[3]であり、主語や目的語を判別できるか、指示語を正しく理解できるかなどの短文レベルでの文章理解力の評価を行なっている(具体的な問題例は[4]を、リーディング・スキル・テストが測定する読解力に関しては[5]を参照のこと)。
 最近、基礎学力の低い大学生の存在が問題になり、本来高等学校までに習得するはずの教科内容を学生に解説する努力をしている大学も多い。しかし、基本的な読解力がなければ基礎学力云々以前の問題になる。僕は、件の国語教育学者に新井さんのリーディング・スキル・テストの話をし、大学生の基礎学力を問題視する前にリーディング・スキル・テストで評価した方が良いのではなかろうかと持ちかけたのである。ところが彼はどこか冷めた雰囲気で「読解力といっても、難しいところがあるんですよ。まず教育学者の間でも学力観をどう捉えるかということが結構違っていて、」という返答が返ってきた。いやいや、学力観って言われても僕もよく知らないが、かなり抽象的レベルの概念だということは分かる。学力を読み書き計算技能をひたすら身に付けることと考えるか、問題解決能力を身につけることとするか、関心・意欲・態度を重視するのか、生きる力とみなすのか、人によって主張するところは違うのだろうし、そのあたりの議論に関心はない。しかし、学力をどう定義しようが、現代社会において身につけるべき学力に識字能力が不必要なはずはない。短文レベルの読解ができなくては話にならないだろうし、学力観以前の問題だと思うのだが、どうも噛み合わない。
 いったい彼と僕の齟齬はどこから来たのか。思い当たることは、彼と僕の出自である。僕は技術屋さんとして育っている。もちろん営業面(臨床)での経験もいくらかは積んでいるが、物事の考え方、分析の仕方はあくまで技術屋のそれである。技術屋的な発想と真っ当な教育学の徒の発想の差があるのかもしれない。技術屋さんは見て聞いて触って確認した現に存在する具体的問題を取り上げ解決しようとする。もちろん遠い将来に達成しようとする目標を立てることはあるが、出発点は常に現実にそこにある問題の解決である。一方、教育業界の人はともすれば理念が先行するように見える(個人の感想です)。目指すものが抽象的な言葉になりやすい(個人の思い込みです)。だから学習の基本のキである短い文章の意味を正確に読み取れないという足下に迫った問題を語っている時に、「学力観」という抽象的な問題に話が広がってしまうのかしら。いや、あくまで個人の感想ですけどね。

[1] 湯浅誠「AI研究者が問う ロボットは文章を読めない では子どもたちは「読めて」いるのか?」https://news.yahoo.co.jp/byline/yuasamakoto/20161114-00064079/
[2] ReseMom「【NEE2017】シンギュラリティは来ない…東ロボくんの母・NIIセンター長 新井紀子教授」https://resemom.jp/article/2017/06/02/38461.html
[3] 毎日新聞「読解力:「子供は読めているのか」診断テストを開発」https://mainichi.jp/articles/20170923/k00/00m/040/106000c
[4]国立情報学研究所「リーディングスキルテストの実例と結果(平成27年度実施予備調査)」http://www.nii.ac.jp/userimg/press_20160726-2.pdf
[5]新井紀子「リーディングスキルテストで測る読解力とは」http://www.nii.ac.jp/userimg/press_20160726-1.pdf

2017年11月16日木曜日

子育ては誰のため?

 ここ5年か10年、僕は「科学」と「子育て」が結びつくと胡散臭いものを感じてしまう。ましてや「子育て」に「成功」が引っ付くと一層胡散臭い。胡散臭さの塊のような題名の本が出版された。
キャシー・ハーシュ=パセック、ロバータ・ミシュニック・ゴリンコフ(2017)「科学が教える、子育て成功への道」扶桑社
ぱっと見の怪しさとは裏腹に著者は学習科学と発達心理学の第一人者であり、学習科学の実験研究をもとに提示したモデルが記述されているとHONZレビューで山本尚毅さんが述べていることに興味を惹かれ読んでみた。
 著者らは、この21世紀における成功を「他者と協働し、創造的で、自らの能力を活かし、責任ある市民として生きるということだ」と定義している。そして、成功を目指す時に子供が身につけるべきスキルが6つの”C”(6Cs)、すなわち、Collaboration(協働、協調の意味もある)、Communication(意思の疎通、コミュニケーションの方が通じやすいかな)、Content(内容、後で説明する)、Critical Thinking(批判的思考)、Creative Innovation(創造的革新、創造的刷新)、そしてConfidence(自信)だというのである。この中でContentが何を意味するのかが分かりにくいので説明しておく。Contentは計算や読み書きなど、現時点での学校教育で最も重視されているスキルのことである。通常、教育という言葉から人が思い浮かべるものはまさにContentである。しかし、Contentだけでは成功するためには全く不十分だということが著者らの主張である。詳しい内容の紹介は山本尚毅さんのレビューに譲り、ここでは読んでいる最中に僕が感じた妙な居心地の悪さについて書き留めておく。
 初めに断っておくが、この本の内容が悪いとか間違っているというつもりはない。「学習科学と発達心理学の第一人者」の著書であれば主張の根拠となった様々な研究が紹介されるのではないかと期待したが全くそういう内容ではなかった。しかし、このことは一般の人向けに分かりやすく主張を記述するという本書の性格上仕方のないことだろう。上記の6つの"C"がそれぞれ重要であることについては全く異論はない。
 では何故僕はこの本に居心地の悪さを感じたのだろうか。著者らは6つの"C"それぞれについて4段階のレベルを設定し、それぞれが最も高いレベルになることを目指して子供を育てる必要性を述べている。最初に僕が引っかかったのは、CollaborationとCommunicationである。仕事で自閉スペクトラム症の子供達などCollaborationとCommunicationが苦手な人によく接するため、こういうことを声高に要求され出すと追い詰められる人がたくさんいるだろうなと気になったのである。
 読んでいるうちに、多少考え直した。CollaborationやCommunicationが苦手な人であっても、その子なりにその領域を伸ばしていくのが良い、という風に理解すればまんざら悪いことではない。著者らも、すべての子供が6つの"C"それぞれで一定レベルを達成しなくてはいけない、とは明言していない。子供の何を伸ばしていくかと考えるときに、6つの"C"という観点を意識しましょう、その子その子に応じて6つの領域それぞれを伸ばしていくことを考えましょう、ということであれば悪いことではない。ただ、読んでいるとどうしても皆が一斉に同じ方向を向かねばならない様な気にさせられる。6つの"C"それぞれにおいてレベル4を目指しましょうと述べている様に感じられる。教育者の物言いは洋の東西を問わず「これが正しい道ですよ。皆さんこっちを向きましょうね。」という圧力を内包しているなあ、と感じた次第だ。
 僕がこういう感想を抱いてしまったのは、僕の中に教育者に対する偏見があるからかもしれない。しかし、もう一つ理由がある。この本を読み始める直前に読んでいた本がSteve Silbermanの”Neuro Tribes”だったということだ。”Neuro Tribes”では、「劣った人」とのみ認識されることが普通だった自閉症スペクトラムの人々が、平均的な人々とは性質が異なるものの様々な能力を発揮できる可能性を持った人々であることが次第に明らかになり、やがて自閉症スペクトラムの人々自らが声を上げ、自閉症スペクトラムを人間の多様性の一つとして考えてそれぞれのやり方で人生を楽しみ能力を発揮することができる世の中を作っていこうと主張し始めるまでの歴史を詳細に記述している。どんな人にとっても6つの"C"を伸ばしていくことを意識することはおそらく悪くないだろう。ただ、ハーシュ=パセックとゴリンコフの本には、世の中には様々な特徴を持った多様な人が存在しており、6つの"C"の成長可能性についても凸凹がある人が大勢いることが考慮されていない様に見える。彼女らのモデルをその多様性にどう当てはめていくのかという視点での記述がほとんどないということが、”Neurotribe”を読んだ後だけになお一層気になったのである。
 もう一点、彼女らの記述で引っかかることがある。子育てで目指すべき方向性、すなわち何を成功と考えるかについては上述の様に「他者と協働し、創造的で、自らの能力を活かし、責任ある市民として生きるということだ」と記している。あまり文句の付け所がない文言である。ぱっと聞けば、悪くないと誰しも思うだろう。なぜこの様な成功を目指すべきかと言えば、その根拠は現代社会のニーズである。著者らは、とりわけ現在成功している産業界から出されたニーズを盛んに記述している。ドラッカーが指摘し、現にAppleやGoogleで求められる人材とはどの様な人か、そこを目指すには、という論旨が随所に展開されるのである。いや、分かるんだけど、間違いだとは言わないけど、何か引っかかるんだよなあ。そりゃ、これからの時代をよりよく生きていくためには、時代の要請、社会が求めるもの、といったものが重要になるのは当たり前かもしれない。だけどなあ、引っかかるんだな。
 一体僕は何に引っかかっているのだろう。どうして居心地が悪いのだろう。ひょんなことからこの問題の答を見つけてしまった。それはBuzzFeedに掲載された女優の東ちづるさんのインタビューの中にあった。東さんは障害を持った人々と一緒に演劇活動を行なっている。東さんはこの活動を通じて浅く、広く、ゆるく「依存しあう」社会を目指しているという。東さんは「まぜこぜ社会」と表現している。障害者施設で大勢の障害者が殺された相模原事件に関連して述べられたあずまさんの言葉を、少し長くなるが引用する。
 私、あの事件について社会はもっと熱をもって怒るかと思っていたんです。でも、もう風化してしまっている。「障害者は役に立たない、いなくなればいい」という加害者の供述が報道されましたよね。怒りが見えないのは、この言葉に「わからないでもないな」と思った人が多かったからじゃないかって考えています。
 ある重度障害者のお母さんからも、事件の後に「私の子供も社会の役に立っていない。税金を使われる立場だから」って話を聞きました。言葉に追い詰められているんです。私は「じゃあ、お母さんは社会の役に立っているんですか?」と聞き返しました。みんな、社会の役に立つために生まれたわけじゃないですよねって。
 話が逆になっているんですよ。みんなが社会の役に立てではなくて、「人の役に立つ社会であれ」でしょ。社会が私たちにとって役立つ存在であることが大事で、そういう社会を作るのは私たち。そのために税金を払っているわけですよね。
 「障害者は税金を使っている。社会の役に立たない」と思う人たちは、一生、自分は税金を使われないで、強者として生きられると思っているのでしょうか?いつ、どんなことが起きてもおかしくないのに?これは無自覚な優生思想です。
 まぜこぜ、まぜこぜって言ってきたのは、この社会には、明らかな分断があるからなんです。障害を持った子供、家族は社会との関わりが弱くなった人がいる。その一方で、無自覚な優生思想もある。結局、障害者が見えないことになっているんです。だから想像力が働かない言葉が広がる。そして、追い詰められる人もでてくる。
僕の意識の根底にあったのは、まさに「人の役に立つ社会であれ」なのである。色々な考え方、様々な能力、それぞれに異なる嗜好を持つ多様な人々が互いに存在を認めあえる社会に僕は憧れているのである。社会のために存在することを人に求めるのではなく、多様な人がそれぞれに満足感を持って行きていける社会を目指すべきではないかと考えているのだ。それぞれの子供がより充実した人生を送るために6つの”C”を意識するというなら良いのだが、社会の要請に応じて6つの”C”をゴリゴリ伸ばそうという考え方には馴染めないのである。おそらく「なんて甘い考えだ」と舌打ちしながら言う人は多いのだろう。ジョン・レノンの「イマジン」並みに甘くてとろい考えだと指摘されそうだ。しかし、僕は「イマジン」の1節が結構好きである。
“You may say I’m a dreamer
But I’m not the only one
I hope someday you’ll join us
And the world will be as one”

2017年11月9日木曜日

偏食は悪か?

 隣の研究室の学生が、大学教員でもある栄養士になぜ偏食はいけないかというインタビューをした。結局のところ客観的な根拠を聞くことができず、倫理観が主体だったらしい。僕も最近、たまたま知り合った栄養士になぜ偏食がいけないかを聞くと、食材の生産者への感謝の気持ちなどを理由とし、客観的な根拠は聞くことができなかった。単なる素人に意見を聞いた結果がそうであればまだ分かるが、一応自然科学系に属する食の専門家に聞いても倫理あるいは価値観としての根拠のみで偏食はいけないという。これほど国中が口を揃えて「好き嫌いはいけない」とのたまっている根拠がこの程度である。
 当然、栄養失調になるほどの偏食は憂慮すべき事態であり、早急な対処が必要となるだろう。しかし、健康を害するほどの偏食などほとんどない。ぼくは倫理として偏食を良くないものとする考え方には抵抗がある。その理由はいくつかある。まず、大上段に構えた理由から述べるが、個人が食べるものを自己決定できないということが正当化されるのだろうか。個人の食事を摂る自由を強制的に制限する権利が誰にあるというのだろうか。
 次に、現実的な健康被害が生じる可能性があるということも大きな理由である。アレルギーがある子供が禁忌の食材を食べざるを得ない状況に追い詰められる危険性がある。ここまで明確なことではなくても、ひどく嫌なものを首根っこを抑えられて無理強いされて食べた結果、心理的な悪影響が生じる可能性は十分考えられる。特殊な場合として、自閉症児にはひどい偏食が伴っていることがよくある。多くの場合は、特定の料理や食材に根拠なく悪いイメージを持ち、食べないという状況に陥っている。この程度ならなんとかなることもあるが、自閉症児にとってかなり深刻な事態もある。彼らにとってはその食材が、平均的な人が生のミミズや腐りかけたカエルの死骸を食べろと強いられたのに匹敵するほどの嫌悪感を引き起こしている場合もあるのだ。当然、生のミミズや腐りかけたカエルの死骸を毎日無理やり食べさせられれば心身の健康を害する人は多いだろう(例え殺菌してあったとしても)。
 偏食がいけないという人たちの日常を見ていると、その主張に一貫性がないということも引っかかるところである。「好き嫌いがいけない」と声高に叫ぶ人たちの多くに好き嫌いがある。この世で人類が食しているものであれば一切好き嫌いをせずに食べている、と胸を張って宣言できる人はほとんどいないのではないだろうか。好き嫌いなく食べましょう攻撃の最前線を担っている教師でも、「パクチーはやめときます」とか「マトンはちょっと」などと言っている人は結構いそうだし、平均的な日本人ならイナゴの佃煮や油で揚げたバッタあるいは蟻の浮いたスープを大量に出されても「勘弁してくれ」という人が多いのではなかろうか。つまり、好き嫌いを無くせと主張している人達は、いかなる食物であっても美味しくいただきなさいと言っているのではなく、私達が食べているんだからあんたも食べるべきだという同調圧力をかけているに過ぎない。
 生きるためには食事は絶対必要である。毎日毎日、普通は3回の食事を食べ続けなければいけない。禅宗の僧侶でもない人、とりわけ子供にとって、毎日の食事が苦行である必要はないだろう。食事は生きる上での楽しみであって欲しい。本当は苦しみに満ちた世の中だからこそ、楽しみがたくさんあると認識させることはそれこそ「生きる力」となる。そういう意味で、食べられるものが増えることは悪くない。「これを食べることができる様になると、新しい楽しみが増えるよ」「もっと楽しくなるよ」と思わせること、そしてより楽しい世界を「自分の意思で選ぶことができるんだよ」と思わせることが偏食への基本的な対応だと考えた方が良い。併せて、自分が食べているものの成分がどの様に自分の体を支えているのかという科学的な理解を得るように促す工夫も必要だろう。日々食事を楽しみ、食べることの幸せを噛み締めながら暮らすことができれば、食材の生産者への感謝の念も育つというものだろう。偏食が「悪いこと」だから本人を苦しめても「直す」という発想では生きることの喜びには繋がらないだろうし、食材の生産者に感謝する気持ちも育たないだろう。人間、あらゆる要素に個人差がある。皆が同じになることを目指すのではなく、様々な人が共に暮らせる社会の方が暮らしやすい。肉が好きな子供も肉が食べられない子供も、ブロッコリーをモリモリ食べる子供もブロッコリーを口に入れられない子供も、共に幸せに生きていける社会が良いではないか。

2017年9月29日金曜日

言霊の国

 何かに対する不平不満を垂れ流している文章はみっともないものである。誰かの落ち度や欠点をあげつらうような文章は、本人は「俺は分かってるんだ、俺は意識が高いんだ」と息巻いているのだが、人が読んでも得るものは少ないし面白くもない文章になりがちである。もちろん、手間暇をかけて客観的なデータをつぶさに集め、論理的な思考で丹念に問題を批判する文章には高い価値がある。しかし、さして深い知識があるわけでもないのに自分の感じたことだけを根拠に文句を垂れ流すような文章はロクデモナイものである。何が言いたいかというと、以下の文章はそのロクデモナイものですよという親切な警告なのである。
 かなり前の話になるが、今村復興相が失言により更迭された(東京新聞)。首都圏で震災が生じると甚大な被害が生じることを述べようとする文脈の中で、「まだ東北で、あっちの方で良かった」と述べたというのである。福島の原発事故の自主避難者について自己責任という意味合いの表現を使い顰蹙を買った(朝日新聞)記憶が新しい中での失言であり、自民党の対応も早かった。「東北で良かった」は確かにひどい物言いである。自主避難者について「自己責任」と表現したことも冷たい印象を与えることは否定できない。政治家なら言葉の影響に十分に想いを致し慎重に発言すべきである。しかも、復興大臣は政権の中の誰よりも震災被害者の気持ちを支えるべき立場にあるのだから、短期間に被災者の感情を逆撫でするような発言を繰り返した以上は更迭されても当然だろう。一連の報道を見ていて僕は「ひどい大臣がいたもんだ」という感想を抱いた。しかし、これとはまた別のことも気に掛かっている。
 今村復興相を更迭することについて特に異論はない。しかし、彼が言ったことは全くのデタラメではない。もし同規模の地震と津波が関東を襲えば、被害はさらに甚大になり、日本全体への影響も大きなものになることはまず間違い無い。無神経な大臣がいたという問題とは別に、関東で地震が生じた場合どのくらいの被害が予想され、どう対応すべきかということについても、こういう機会に議論してもよいとおもうが、僕が見る限りではそのような議論が今村復興相更迭をきっかけにマスコミで熱心に始まったようには見えなかった。
 自主避難の問題にしても、今村復興相を更迭すれば済むような話では無い。未曾有の事態に直面し、恐怖に駆られた人が多くいたのは無理からぬ話である。自主避難者も原発事故の被害者であることは確かだし、援助が必要であることには異議はない。しかし、科学的に妥当性の低い避難を継続させるという形で援助し続けることが良いことなのだろうか。自主避難者に家賃補助を続けることはむしろ問題を悪化、複雑化させる可能性はないのだろうか。自主避難者を適切に支援する方法として何が有効で実行可能であるかを考えることは重要ではないのか。しかし、新聞やテレビはそういったことには関心がなく、担当大臣が被災者に対して冷たい発言をしたということだけに注目しているように見える。つまり、「ものの言い方」だけが問題になっているのである。取り上げた言説に考えるべき指摘や事実が含まれていたとしても、言い方が悪ければ考慮に値しないのである。逆に、まるで無意味であったり、弊害のあることが含まれていても、物言いが表面的に美しかったり感じ良かったりすれば好意的に評価されてしまう。
 さて、ここ最近日本の研究者が発表する科学論文の数が増えず、国際比較での順位が下がり続けていることをご存知だろうか。新聞やテレビでもごくたまに取り上げられるので、把握しておられる方もいらっしゃるだろう。しかし、誰もが口にする日本の一大事という雰囲気が醸し出されるまでには至っていない。どうもマスコミの興味は薄いのである。そのことを端的に示すエピソードがあった。非常に権威あるイギリスの学術雑誌ネイチャーの社説が日本のこの問題を取り上げたのだが、このことを日本の新聞がほとんど真剣に取り上げていないのである。これは僕の印象を述べているのではない。ジャーナリストの団藤保晴さんがお怒りになっている記事を読んで知ったのである(Yahooニュース)。ネイチャーは親切というか余計なお節介というか、日本の現状をとても心配してくれているらしいのである。ネイチャーの指摘するところでは、2003~2005年と2013~2015年論文数を比較すると米、中、独、英、仏、韓は発表論文数が軒並み二桁%以上の伸びを示し、中でも韓国は126%、中国に至っては325%増加を示している中で、日本はほとんど横ばい状態なのである。さらに1994年から2014年にかけて5年ごとに、世界中から引用される重要論文数の伸びを研究施設ごとに示すグラフが示されている。1994年からの5年間で最も重要論文数が増加していた施設は国立大学だったのだが、1999年からの5年間ではほぼ0になり、それ以降は減少傾向を示している。2004年には国立大学が法人化されており、国からの運営交付金も減額され始めている。こういった客観的な指標は明らかに国の政策の失敗を示している。こういった重要な指摘をしているネイチャーの社説を大きく取り上げる新聞がないということを団藤さんは嘆いておられるのである。
 なん年前からであろうか、大学や各種の研究所から発せられた情報として、基礎的研究であるのにまるで夢のような研究成果が出たような新聞記事が多いことが気になっていた。曰く、この発見によって自閉症の病因解明への道が開かれた、難病治療の方法が見つかりそうである、てな具合である。基礎的研究の成果が役に立つ応用技術として成果をあげることに繋がるかどうかはそんなに簡単でも単純でもない。ノーベル賞を取った山中伸弥さんや大隅良典さんも、役に立つことばかりが強調され、基礎研究を軽視する日本の状況を危惧している(NHK)。新聞は、実現するかどうかも分からない夢の研究成果は言われたままに報道する一方で、ネイチャーの社説のような科学的な科学の話には興味を持たないのは何故だろう。
 さらに話は飛ぶが、今月初めに日本学術会議が「子どもの放射線被ばくの影響と今後の課題 -現在の科学的知見を福島で生かすためにー」という報告書を発表した。この中で、過去の放射線被曝による健康影響についての科学的知見や、福島第一原発事故後の住民の被曝線量の推定値などを整理し、膨大な客観的データ(すなわち信頼性の高い論文の数々)を根拠に福島の子供達の癌や先天異常の増加は考えられないと述べている。これは非常に喜ばしく、福島の住民はもちろん日本中の人にとって価値の高い報告である。しかし、この報告書については福島の地方紙と全国紙の福島地方版で報道されたのみで、全国版で報道されることはなかったと、坂村健さんが憤慨されている(毎日新聞)。なるほど個人的な印象としても、新聞やテレビの報道は福島原発事故の影響に対する不安を増加させる様な話題が多いのではないかと思う。事故直後の混乱時にはしようがないとしても、6年以上経過してもこの状況は良くない。放射線被曝の影響がないことを広める努力をほとんどしない一方で、県外避難した子供が原発事故を理由にいじめられるとそこには飛びついて憤慨してみせる。いつまでも放射線に対する不安が収まらない状況を作った一因は、新聞テレビの報道のあり方ではないかと思うのだが、そこを反省する様子はあまり見られない。
 僕の偏見かもしれないのだが、日本の新聞やテレビは客観的データに基づいた報道や、そこから論理的に演繹できる主張をすることが少なすぎるのではないかと思う(海外のことは知りません)。美しい言葉、気持ちの良い表現、どちらかといえば悲しい状況に追い詰められた人中心の物語、権力に対する怒り、こういったものを機械的に繰り返しているだけの様な気がする、といえば言い過ぎであろうか。

2017年9月16日土曜日

不謹慎な話

 僕はともすれば不謹慎な言動を取りそうになる人間だ。しかし、実際に実行することは少ない。むしろ不謹慎な言動を注意深く慎む傾向が強い。基本的におっちょこちょいな僕としては驚くべきことである。ひょっとすると、子供の頃にうんと叱られて、何年もかかって学習したのかもしれない。人の不謹慎な言動に対してはどうかといえば、割と「あんなこと言ってる。良くないよな」などと考えながら眉をひそめることが多い。しかし、その場にいる誰かが明らかに傷付きそうな状況でもなければ、口に出して非難することはない。面倒を避けたいという気持ちもあるのだが、もっと大きな理由がある。僕は、たとえ現実の具体的経験では眉をひそめることが多いとしても、抽象的な概念としては不謹慎が悪いとは思っていない。いや、むしろ不謹慎であることは良いことだと思っている。正確にいえば、不謹慎な言動が許容される社会が望ましいと思っている。
 ある特定の人が批判されることは常にあることだが、時たま同じ文脈の中で多くの人々が不特定多数から一斉に、かつ激しく不謹慎のそしりを受ける事態が発生する。まるで一般人に紛れて密かに生活していた不謹慎警察がそこここで活動し始めたようになるのである。記憶にある最悪の事例は、昭和天皇が崩御した時だ。もう、世の中全体に「不謹慎」攻撃が無差別に炸裂していた。ただ歌を歌うだけという催しでさえ不謹慎という理由で取りやめになることがしばしばあったように記憶している。「不謹慎」という外からの攻撃の結果を、本人の意思で決定したと取り繕う言葉として「自粛」という言葉の方がよく使われたように思う。この時の状態を今上天皇も危惧されていたことは、昨年の「象徴としてのお務めについての天皇陛下のお言葉」にも表れている。
 基本的に不謹慎という言葉は人として良くない言動を指している。しかし罪として罰するべき様なものではない。法を犯す様なものではないし、重大な倫理的問題でもない。不謹慎さの他者への影響は、せいぜい不謹慎な言動を見聞きした人(の一部)が不快に感じる程度の話である。人間、生きているだけで何かしら人に迷惑をかけている。ならば、互いに迷惑を許しあえるほど暮らしやすそうではないか。不謹慎狩りが席巻する社会は、人から受ける迷惑が許せない社会であるし、自分もまた人に迷惑をかけていることに思いが至らない社会でもある。僕はそういう息苦しくギスギスした社会には暮らしたくない。だから、他人の不謹慎な振る舞いを目撃しても、せいぜい心の中で舌打ちすれば良いと思っている。そう、不謹慎な言動が常時至る所で見られるような社会が好きなのだ。これからも、Jアラートが鳴った時に「今日は目覚ましが鳴ったので朝起きれた」とか「試験の日に打ち上げてくれれば良いのに」というような発言が聞こえてくれば、僕は「よしよし」と安堵するのである。

2017年8月21日月曜日

技術屋としての専門性

 以前、教師には技術レベルの専門性がないのではないかという文章を書いたことがあった(「教師の専門性」)。しかし、我ながら漠然とした感情を吐露しただけの文章であった。さて、今日小学校の先生をしている卒業生が職場に遊びに来た。彼と話していて、技術屋としての専門性についての考えが少し進んだので、メモを残しておく。ここで取り上げたい専門性を持った技術屋は、コツコツと手先の技を鍛えた職人ではない。実技を繰り返すことで長年技を磨いてきた人は匠ではあるが、僕の考える専門的な技術屋ではない。もちろんどの様な領域の技術屋でも身体で覚える技術はあると思う。しかし、それだけで終わるなら(つまり、経験だけに裏打ちされた技術屋なら)、極めて狭い領域でしか成果を残せないと思う。それはそれで価値はあるが、社会の大きな問題を解決する技術屋にはなれないと思うのである。ここで「社会の大きな問題を解決する技術屋」とは何を意味するのかはっきりと定義できないのだが、具体的に言えば、建築家、土木屋、医師、ソーシャルワーカー、教師、保育士、といったものをイメージしている。
 今日、僕は技術屋としての専門性には2つの条件があるのではないかと考えついた。まず、技術、あるいは方法を裏付ける理屈ないし理論があるということである。これは、単に××を解決するためには○○が良いという組み合わせを知っているのでは無く、××の状態に○○が良い影響を及ぼす機序を理屈として把握しているということを意味している。仮に○○を実行しても予想に反して効果が認められない時、背景となる理屈を理解できていればなぜ効果がないか、どう変更すれば効果が見込めるか、ということの仮説が立てられる。「長年こうやって来たんでさあ」しか根拠がなければ、それが効果なしと判明した時に打つ手がない。いや、手を打たずにいればまだましで、この方法が良いに違いないと意地になれば傷口を広げるばかりである。
 2番目の条件は、自分が用いた技術・方法がどの程度成果を出せたか判断するための評価法を持っているかどうかである。技術というものは演繹的に考えるだけで磨くことができるものではない。常に進化させていくためには結果の良し悪しを判断し、それをフィードバックさせる必要がある。目指す成果が比較的単純な場面では、「評価法」などと大上段に構える必要はないかもしれない。しかし、「社会の大きな問題を解決する技術屋」と考えるなら、それほど単純には成果を評価できない。どの様に客観的に成果を評価するかという方法論が用意されているかどうかも技術屋としての専門性を規定する重要な要素ではないかと思う。
 まとめると、専門性を持った技術屋としての条件は、まず技術や方法の基盤となる理論を持っていることである。そして、技術や方法を用いた時の成果を評価する方法を確保していることである。僕は今まで自分を技術屋と考えていた。だからこそこういうことを考え、文章として残そうと考えたわけである。しかしなんだなあ、自分の首を絞めている様な気がしてきたぞ。

2017年8月8日火曜日

緊急事態には穏やかに指示を出せ

 自分が医師だと、医療ドラマを見る時に興醒めすることが多くなる。医学的に明らかな間違いがある時は典型的な例である。しかし、最近のドラマは結構取材して作られることが増えているようだし、自分が医師として下り坂を転げ落ちていることもあって、明らかな間違いにテレビの前でツッコミを入れることは減ってきたと思う。相変わらず多いなあと感じる問題は、めったやたらと腕の良い、なんでも助けてしまうゴットハンド・ドクターが出て来る問題である。現実の医療はそんなに輝かしい功績を毎日積み上げているわけではない。昔に比べて解決できる問題が増えてきたとはいえ、十分に治療成果を上げられない、いやいや全く手の付けようの無い状態でさえ多いのが医療の現状である。不自然なほど腕の良い医師が活躍するドラマを観ると「ケッ、」と言いたくなる。とか言いながら、僕は医療ドラマを結構よく見ている。今季は10年ぶりに始まったコードブルーである。山Pは相変わらず優秀すぎるだろうと思うものの、第1シーズンから上手くいかないことに悩む医師に焦点を当てることが多かったし、今回は新人の育成ということもテーマになっているし、まあ、ましな方ではないかとも思うのである。で、コードブルーを見ていて急に思い出したことがある。そのことを書き留めておこうと思う。ここまでの前置きとは全く関係のない、リーダー論である。ベストセラーのビジネス書を遥かに凌ぐ内容になる予定は全くないのだが、お付き合い願えれば幸いである。
 僕は医師になって直ぐに大学病院の小児神経学を専門にする部署に所属した。小児神経学とは、てんかんや脳性麻痺など子供の脳神経疾患を扱う分野である。小児科の一領域と言っても良いが、一領域を専門とする部署なので非常に狭い領域のみに専念する医師になったわけである。総合診療医とは全く逆の方向性と言って良い。医師になって5年目が終わろうとする頃、地方都市にある中核病院の小児科に赴任した。そこはかなり大きな病院であった。日々多岐に渡る患者が受診するため、その病院の医師達は鍛えられていた。若い研修医といえどもかなり高度な治療手技を自分のものにしていた。ところで、僕は形式的には神経疾患の責任者として赴任しており、どちらかと言えば指導的立場に属していた。しかし、長年大学病院という特殊な場所の、しかも小児神経学に特化した一層特殊な部署に所属していたので、第一線の小児科医が身につけている多くの手技が習得できていなかった。とりわけ、心肺蘇生に関連した技術は極めて乏しかった。
 ある日、一人の患者の血圧が低下し、呼吸もままならない状況が発生した。病棟には僕と、僕より若い何人かの研修医達がおり、その事態に対応することになった。上述のように、僕は心肺蘇生に全く不慣れであり、その一方で研修医達は信頼できる優秀なメンバーが揃っていた。一応その場にはいたものの、僕としてはかなり見物人的な意識が強い状態であった。道具を用意したり、記録をとったり、邪魔にならないように周辺部の雑用係を引き受けていたのである。すると、研修医の中ではリーダー格の医師が僕に向かって「先生、指示を出してください。こういう修羅場には司令塔が必要です」と言ったのである。確かに、その時は患者に複数の医師が群がっているのだが、どことなく騒然として、スムーズに処置が進まない状態になっていた。そこで僕がそれぞれの医師を指定しながら次に何をするかの指示を出し、分からないことがあれば率直に質問して教えてもらいながら次の一手は僕が判断するというふうにした。すると頼りない司令塔であっても、個々がそれぞれ勝手に動いていた時よりもずっと効率的に物事が進み出したのである。この時僕は、混乱した状況では誰かが声を出して指示をする役割を引き受ける必要があることを学んだ。
 それから何年か後の話である。外来で診察しているときのことだが、隣の診察室では後輩医師がアレルギー患者の負荷試験をしていた。アレルギーの原因と思われる食物を少量食べさせて、症状が悪化しないか確認する検査である。と、突然その医師が金切り声を上げだした。看護師に呼吸をサポートするバッグを持ってくるように指示を与えている様子である。何事かと覗きに行くと、患者が強いアレルギー反応(アナフィラキシー)を起こしていた。傍目八目の強みでこちらは結構冷静である。見れば患者はさほど重篤では無さそうだ。まずは血圧の確認だなと考え、看護師に「血圧測って〜」と呑気な声で指示を出した。すると後輩医師は急速に落ち着きを取り戻し、テキパキと動き始めた。後輩とはいえ彼女は有能な医師で、僕より緊急対応のスキルは遥かに高いのである。それ以降は僕の出る幕はなかった。たまたま患者の経過が落ち着いていたので油断していたところに、予想外の強い症状が出たため狼狽えてしまったらしい。後でその医師から僕の声を聞いて冷静になれたと礼を言われた。一声発するだけで他に何もしなくても礼を言ってもらえるのだからお得な経験である。
 このエピソードで、緊迫した状況では、その場にいる人の過剰な緊張を取ることができることも様々な現場を管理する上で重要な要素だと気がついた。この時の僕の振る舞いは偶然の産物だが、後に出会った救命救急医はこの考えの正しさを裏付けてくれた。その救急医は常にのんびりと穏やかに明るく振る舞うのである。急患の処置で騒然としているERに、「どんな〜?」と言いながら、いつも飄々とした様子で入ってくる。もちろん、必要な指示や処置は的確に進めていくのである。その医師が部屋に入ってくると、場のスタッフ達にはどことなくホッとした雰囲気が漂う。その医師が醸し出す穏やかな雰囲気は、おそらくスタッフそれぞれが本来持っている力を十分に発揮できる下地になっていたと思う。
 テレビの医療ドラマは妙にギスギスした場面が多い。特に救命救急が舞台になっているものでは、登場人物がやたらと厳しいことを言い、怒鳴りあっているような演出が目につく。僕にとっての優秀な救命救急医は上記の医師のイメージである。そのため、やたら医師が喚いているドラマを観るとむしろ現実味がない気がしてしまう。
 話が逸れてしまうが、高校野球を始めとして日本のスポーツ界にはやたらと檄を飛ばしたがる監督やコーチが多い。檄を飛ばすどころか罵りと言った方が良いくらいの言動を取る人も少なくない気がする。人ごとのように言っているが、本来僕もこの種の人間である。たまたまスポーツが苦手だったので監督になることもなかったが、万が一監督になっていたら怒鳴り回していた可能性が高い。しかし、厳しく怒鳴り続けることで人が実力を発揮するかということに今の僕はかなり懐疑的である。
 とりとめのない話になりそうなので、まとめに入ろう。予期せぬトラブルや緊迫した事態が繰り返し生じる現場で、複数の人員で対処する際のマネージメントには重要なポイントが2つあると思う。まず、誰かがリーダーにならねばならない。つまり、その場の責任を背負って明確な指示を出す役割である。それは日常の役職の上下や知識やスキルを習得しているかどうかは必ずしも関係ない。非常事態が生じた時に、責任を背負う人が名乗りを上げなければ、混乱し続けるリスクがある。もう一点は、場の雰囲気を過剰に緊張させてはいけない。「緊張感を持って対処する」ことが好きな人は多い。特に、いわゆるお偉方にはこのセリフを好んで使いたがる人が多い気がする。ついでに言えば、教育関係者もこういう発想が好きな人が多いのではないかと思う。しかし、その場にいるメンバーが持てる力を余すところなく発揮するためには、リラックスさせる必要があるのではなかろうか。緊急事態や突発事態が繰り返し起こる現場や、社会の枠組みが大きく変わり今まで通りの対応では事態が改善しないような状況では、人に指示を出す役を引き受け、しかもあくまで穏やかにのんびり振舞える人は、そのような状態におけるリーダーに最もふさわしいのではないかと思う。穏やかに「緊急事態が発生しました」と言える人である。

2017年7月2日日曜日

意識的な社会的技術

 小児科医になる人は子供が好きな人ばかりというイメージがあるかもしれない。しかし、そんなことはない。実際、僕は子供が好きではなかった。では何故小児科医(細かく拘ると小児神経科医)になったのかというと、子供相手ならあまり喋らなくて良さそうだという非社交的な理由が大きかった。大学生の頃、僕は親しくない人と話すことがめっぽう苦手だった。だから、なるべくならあまり話さなくても仕事ができそうな進路を選びたかった。特に女性と話すことが苦手で、産婦人科や膠原病(女性の患者が多い)を専門とする診療科には進みたくなかった。いかに暗い青春時代を送っていたのかがよく分かる、悲しい逸話ではないか。
 さて、小児科医になってから自分の間抜けさ加減に気がついた。考えれば当たり前のことだが、小児科医はかなり喋らないといけない。幼い子供が一人で受診するはずはなく、必ず親か祖父母か、世話を焼いている大人が付いてくる。しかも、圧倒的に母親、つまり女性が多い。結果的に、多くの女性としゃべりまくりながら今日に至る。おかげで、今では仕事に関する話や事務的な話なら全く臆することなく女性と話すことができる。むしろ男性よりも女性の方が話しやすいかなと思っているくらいだ。ただし、相変わらずなんの目的もない雑談は苦手である。
 いくら苦手意識があったとはいえ、大人相手の、しかも仕事の上での話なら小児科医になって間も無くからそれなりにできていた。何しろ患者の家族は医師の話を聞こうとしてくれるし、結構気も使って話を合わせてもくれるのである。こちらとしては、最低限礼儀を失しないことに気をつけておけば、まあそこそこ仕事が成立する程度の話はできていた。意外なことに問題は子供であった。特に苦労したのは乳児である。話さなくて良いから楽だろうなんてとんでもない話だった。奴らは泣くのである。遠慮のかけらもない。1mm足りとも気遣いを見せる素振りはないのである。
 世間のイメージ通り、子供が大好きな小児科医もいる。そのような医師は何の躊躇もなく赤ちゃんに近づき、あろうことかいきなり抱き上げたりもする。子供が好きな医師からは赤ちゃんを安心させるオーラでも出ているのか、赤ちゃんも抱かれて平気な顔をしている。ところが僕の場合は赤ちゃんと顔をあわせるだけで相手の表情は固くなる。距離を縮めるともう半泣きで、赤ちゃんに手を伸ばせば7割、8割の赤ちゃんは泣いてしまう。乳児の診察で重要なスキルの一つは、いかに泣かさないかということである。学生実習の時に小児科の指導医が最初に教えることの一つに「口の中の診察は最後にしろ」というのがある。これも泣かさないための配慮である。泣かれると聴診器は役立たずで邪魔なだけの管に化してしまうし、目の動きも見られないし、手足の運動能力も確認できないし、口の中も十分見られないしで、もう仕事にならない。泣き喚く赤ちゃんを見ながら、よく考えずに小児科医の道を選択したことを後悔することもあった。
 さすがに、いつまでも途方に暮れているわけにはいかない。四苦八苦するうちに、色々工夫の余地があることに気が付いた。まず発見したことは、親に抱かれて赤ちゃんが診察室に入ってきた時、目を合わせないようにすると泣きにくくなるということである。診察前の乳児の挙動から得られる情報も多いので全く見ないわけではないのだが、目を合わさないようにするだけで恐怖感が喚起されにくくなるようである。このことに気付いてからは、赤ちゃんが入室後しばらくは、まるで本人には関心がなく親と会話したいだけという振りをするようにした。今から思えば、赤ちゃんが診察室や医師に慣れてくる時間を稼ぐということに加え、会話しているうちに親がリラックスしだすことにも意味があるのではないかと思う。一般的に乳児は新規な場面に遭遇した時に親の様子に注目し、親が用心していると自分も怖がるし、親が安心していると自分も安心する。社会的参照と名付けられた現象である。
 すぐに目を合わさないことの次に考え出したことは、赤ちゃんにおもちゃを渡すことである。親と会話をしている間に赤ちゃんが次第に落ち着いてくると、好奇心を表に出しキョロキョロあたりを見回すようになる。この様なタイミングで親と会話を続けながらおもちゃを渡す。おもちゃとして僕が愛用しているのは紙切れである。紙はどこでも必ず手に入るので使いやすい。そのままそっと差し出すこともあるが、赤ちゃんの前でビリビリと小さな短冊に切って見せたり、息を吹きかけて揺らしたり、丸めて小さな玉を作ったりして赤ちゃんが一層興味を持てるようにする。知らない人の前で激しく泣くので困るということは人見知りが始まっているわけで、おおよそ生後半年を超えている。この時期を過ぎるとかなり自由にものを手にとって遊べるようになる。従って、紙切れに興味を持てば積極的に手に取ろうとしだす。1歳の誕生日が近くなれば丸めた紙を指先でつまんだり、薄い紙を両手でそれぞれつまんで引っ張ったりもする。こうやって遊ばせることで赤ちゃんを安心させられるだけではなく、手先の器用さを中心に運動機能の評価を同時に行うことができる。
 かなり落ち着いていた赤ちゃんでも、実際に触ったり聴診器をあてたりしだすとやおら泣き始めることがよくある。ここでなんとかできないかとひねり出したのが、診察直前に診察道具で遊ばせる方法である。特に使いやすいのは聴診器である。赤ちゃんの前でぶらぶらと振り子のように振り注目を引きつけた上で「はい、どうぞ」とベル(聴診器の先にある、体に当てる部分)を差し出すと、多くの乳児はベルを手に取ろうとする。しばらく触らせた上で「ちょうだい」と手を伸ばすと、1歳に近い赤ちゃんであれば返してくれることが多い。こうやって聴診器に慣れた後だと無事に聴診を開始できることが多い。ここまで来ればお腹を触ったり、手足を触ったり、打鍵器で膝や足首を叩いたりと、無事に診察が進められることが多いのである。
 僕は方法を「考える」ことで、乳児との付き合い方が随分上手くなった。しかし、何も考えずにすっと赤ちゃんを抱き上げるタイプの人と比べると膨大な時間を費やしたことになるし、それでもなお赤ちゃんとの間に壁のない人のレベルには至っていない。例外的な反応を示す赤ちゃんがいれば咄嗟にうまい対応ができないことも多い。また、もっとうまい方法があるのかもしれないが、一度やり方を決めてしまうとなかなか新しいアプローチを取り入れることができない。ひょっとしたら上記の方法の何かがむしろ僕と赤ちゃんの距離を縮めることの障害になっていたとしても、そこに気付くことができない。癪に触ることには、躊躇うことなく赤ちゃんを抱き上げるタイプの人達は僕の苦労なんて気付きもしないのである。全くもって、赤ちゃんと良好な関係を築くことは赤子の手をひねるようにはいかないのである。このように書いていくと、似たような話があることに思い当たる。自閉症を伴う人達が社会に入り暮らしていく苦労というのはこういうことなのかもしれない。

2017年5月23日火曜日

ADHDの病態は明らかにできるのか

 最近出た注意欠如・多動症(ADHD)の総説が目に入り、なんとなく気になって読んでみた。ADHDの脳科学、認知科学的な問題を取り上げている。最新の研究成果を詳しく解説しているものではなく、といって臨床的に有用なことなどほとんど書かれていない論文で、あまり面白い内容ではなかった。が、まとまりのない、それこそ役にも立たない考えがふわふわ浮かんできたので、これも何かの縁と考え書き留めておく。
Mueller A, et al. Linking ADHD to the Neural Circuitry of AttentionTrends in Cognitive Sciences 21:474–488, 2017
ざっくり説明すると、ADHDの基盤となる認知機能障害を明確にすることによって、より診断を精緻化し、合理的な治療を開発できるようになるだろうと主張している。ADHDに関連する認知機能としては、選択的注意、持続的注意、反応の正確性、認知的柔軟性、作業記憶、時間情報処理、反応抑制、そして報酬系を取り上げている。そりゃ一体なんだ?と疑問に思った人はこだわらないでいただきたい。集中力とか、我慢する力とか、損得勘定を正しく評価する力とか、まあそんなものと思ってもらえれば良い。これらの機能がADHDでは障害されているらしいことが、人間やモデル動物を使った研究結果から推測されている。どの機能が特に障害されているのかを個々の患者で明らかにできるようになれば、より臨床像と明確な対応を示す緻密な診断ができるようになるだろう。そしてそれぞれの認知機能の基盤となる神経機構を解明することで、患者の特性に合わせた治療法を開発できるのではないかというのが、この論文の論旨である。
 確かに、この領域の研究が進むことでADHDを臨床的に意味のある下位病型に分類できたり、より有効性の高い治療的取り組みを開発できる可能性はあると、僕も思う。ただ、あまり大きく期待できないだろうなあとも思う。第一に、こういう患者本人の脳機能のみに注目した研究が進んでも、環境との相互作用の中で臨床像が決定されるというADHDを始めとした発達障害の大きな特徴を掴みきれないだろう。同じ認知・行動特性を持っていても、環境の条件や生活の場の許容力によって問題が生じるかどうか、問題が生じるにしてもどういう領域が特に問題になるのかが変わってくる。問題を本人固有のものとした見方をする限り、ADHDの全容を理解することは難しいのではないかと思うのである。
 障害を想定している認知機能それぞれの概念が、本当に存在すると仮定して良いのだろうかということについても多少不安を感じる。少なくとも現時点では想像に想像を重ねた様な極めて不確かな概念である。例えば、選択的注意という概念を想定することで色々なことを説明できる様になるので大きな意味はある。しかし、何を選択的注意というのか、選択的注意は一つの機能なのか下位カテゴリーがあるのか、選択的注意は独立した機能なのか、といったことについては結構不確かである。今後脳科学の研究が進み、選択的注意がより具体性を増す可能性もある。しかし、素人ながらに最近の脳科学の動向を見ていると、あらゆる認知機能は脳全体のネットワークとしてのみ理解されるようになる可能性もある。そうなると、個別の機能に分解して論じることがナンセンスと言われだす可能性さえある(素人の直感、鵜呑みにしないでね)。
 研究者は、脳科学の手法を駆使してADHD患者固有の障害を明らかにしようと張り切っていることが多い気がする。一般の人も、障害といえば個々の患者の中に原因があると考えやすい。研究者も一般の人も最新の科学を駆使した知見が大好きである。何かはっきり説明できることがしっくり来るのだろう。しかし、ADHDやその他の発達障害を伴う子供達の臨床に携わっていると、事はそんなに単純なのだろうかと懐疑的になる。少数の原因が問題を生成するのではなく、数え切れないくらいの多くの要因が互いに複雑に作用しあった結果が現状ではないのだろうかと思うのだが、もちろん根拠のない僕の勝手な思いである。

2017年5月3日水曜日

学ぶことが面白いと感じることもある

 大学でも職場でもどこでも良いが、何かがきっかけで猛烈に勉強しだす人がいる。僕の知っているある若者は、中学校で習うようなことさえ碌に身についていないにもかかわらず、ちょっと解説本を読めと紹介するだけで1年も経たない内に統計ソフトをほとんど独習で扱えるようになり、標準偏差やp値の概念を理解し、分散分析も実行し、その意味もかなり理解している状態になった。それでも英語の力は如何ともし難いなあと半分あきらめていたが、かなり強引に英語論文もなんとかかんとか読み出した。こういう人は何に火をつけられたのだろうか。必要に迫られたことももちろんありそうだが、何かを面白いと認識してしまうことが大きいのではないかと思う。僕自身を振り返っても、仕事を始めてから学校の試験勉強や受験勉強などよりもはるかに真剣に勉強した時期がある。必要に迫られた時にも努力はするが、面白みを感じている時には自分でも意外な力を発揮することがあった。学問に取り組むことはとっつきが悪く、なかなか辛いものである。しかし、必死で取り組むと必ず面白さがあり、それに気づくことができると自分の能力にはレベルが高すぎる論文をかき集め、いまいち理解できないにもかかわらず必死に読んだりしだす。別に誰もが学問に面白さを感じる必要はない。しかし、誰でもそういう経験ができるチャンスを持てるような社会であった方が良いのではないか。
 「現実社会は理屈じゃないからね」と学問を見下したようにいう人がよくいる。そんなことはない。科学技術を直接支えている学問領域が多いということを横に置いても、学問に勤しむことは大きな意味がある。視野が広がる、現実社会で問題の設定ができるようになる、問題解決の手段を自ら探し求めることができる、などの力を身につけることができ、そういう人が増えることは必ず社会に貢献するだろう。しかし、それだけではない。社会貢献など考えなくても、自分が気づかなかった自分の能力を開花させ、思ってもみなかった人生が始まるかもしれないと考えれば、スリリングではないか。人は無限の可能性を持っているわけではないと思う。願っても努力してもできないことはある。しかし、自らは思いつきもしなかった新しい世界を選べることに気づける可能性もある。想像さえできなかった新しい魅力的な未来の可能性を知ることができる、なんと魅力的ではないか。僕にとっては「信じれば夢は叶う」などという内向きの考えよりもはるかに魅力的である。
 教育再生実行会議なるものが「職業に結びつく知識や技能を高める実践的なプログラムを大学に設けるとの提言」を出したという報道があった。「アカデミックな教育課程に偏りがちな大学を変革し、産業界が求める『即戦力』となる人材を育てるのが狙い。」とのことだ(日本経済新聞)。ツイッターの僕のタイムラインでは、大学がアカデミックな教育に偏るのは当たり前だろうとか、「即戦力」などという薄っぺらなものより学問的なトレーニングを受ける方がよほど現実社会での応用力がつくだろうというもっともな意見が噴出している。いずれももっともな主張であり、少し真剣に学問に取り組んだ経験があれば納得できる主張だろう。僕はもう一点付け加えたい。誰もが勉強が好きである必要も、学問に打ち込む必要もないと思う。しかし、人生の一時期に新たな興味や可能性を知るチャンスは広範に用意されている社会であってほしい。よもや自分が学問なんてと思っている人が本当に学問に向いていないとは限らない。ふとしたきっかけで学ぶことの面白さに目覚めるチャンスはあった方がいいだろう。教育再生実行会議のメンバーはそれなりの教育を受けた人達だろうと思うが、上記のような薄っぺらな提言をするところを見ると現代日本の教育の失敗例達だったのかもしれない。

2017年4月10日月曜日

抜本的に解決したい問題は多いけれど

 僕は大学の教育・保育系学部に勤めている。主に子供の発達、病気、障害などに関することを教師や保育士を目指している学生に教えている。講義をしている中で、ある現象に気付き、興味を持つようになった。病気でも子供の問題行動でも何でも良いのだが、何らかの問題をどう解決すれば良いかという質問に対して、ほとんど常に学生たちは「原因を見つけ取り除く」と発言するのである。彼らは、世の中の問題には原因があり、それを取り除くことが正しい対応であると、様々な場面で教えられているようなのである。確かに、この「原因を見つけ取り除く」は教育・保育業界の人達と話していると聞く機会が多い発想のように思う。
 そういう医療従事者だって原因論を重視するではないかという人もいるかもしれない。確かに医師は原因を重要と思っていないわけではない。医学生は根治療法と対症療法という言葉を教えられ、なんとなく根治療法の方が偉いという感覚も身につける。特に先端的なことをテーマにする医学研究者には原因を解明するという意識が強いかもしれない。しかし、臨床家は必ずしも原因のみに拘っているわけではない。それは、明確な原因が分かっている疾患よりも原因がはっきりしない病気の方が余程多いからということがあるし、それ以上に、臨床医にとっての最大関心事項は患者の病気が治ることであり、治らなくても少しでも苦しみを軽減することだからである。要は、治れば、あるいは患者の苦痛を軽減できればそれで良しなのである。たとえ原因がはっきりしている疾患であっても、原因に直接手をつけることに危険性や大きな苦痛がある場合は、原因に直接触れずに治療できる方法を探る。原因はまったく分からないものの、放置すればいずれ治る病気もあり、それが分かっていれば手を出さずに経過を見ることが原則となる。
 問題の原因を探り、その原因を取り除くという考え方は何かが足りない。おそらく医師は、原因よりも意識しているものが他にあると思う。それは何だろうと考えていたのだが、最近思いついたことがある。原因と結果だけを想定した考え方に足りない要素は機序(mechanism)である。もったいつけた割には大したことはない。当たり前といっても良いことかもしれない。
 人は原因と結果の関係を単純に考えやすい。一つの原因が存在する。そして、その原因が直接問題を引き起こす。だから、原因を取り除けば問題は解決する。こういう流れである。もう少し具体的な例をあげればこんな感じである。「ばい菌が原因となり、扁桃腺炎を引き起こす。そこで原因であるばい菌を退治すれば扁桃腺炎が治る。」
 こういう発想の第一の問題は、「一つの原因がある」という前提である。医学的な問題に限っても、単一原因を特定できない疾患や障害は数多くある。複数の要因が重なり影響し合うことで臨床像が決まってくるのである。通常、精神科的な問題などはほとんど全てが単一の原因では説明できないと言っても過言ではない。それどころか、通常単一原因と言われているものを取り上げても、ことはさほど単純ではない。例えば、先に書いた扁桃腺炎を例に考えてみよう。太郎君がA群溶血性連鎖球菌感染症による扁桃腺炎と診断されたら、その原因はA群溶血性連鎖球菌ということになる。しかし、本当にそれだけで良いのだろうか。感染症であるからには感染源がある。太郎君は同級生の健太君からA群溶血性連鎖球菌をうつされたのかもしれない。そうすると、菌を持った健太君がそばにいたことが原因とは言えないだろうか。また、A群溶血性連鎖球菌感染症が保育園で流行していたとしても、すべての子供が扁桃腺炎になるわけではない。菌が喉に付着していてさえ全く感染状態にならない子供もいる。おそらく本人の免疫機能を含めた体の状態が感染を成立させやすい人だけが疾病として発症するのだろう。ならば、A群溶血性連鎖球菌に対して感染状態を成立しやすいというもともと本人が持っている体の状態も原因の一つと言えるのではないだろうか。このように考えると、原因という言葉は自明なものでは全くなく、かなり難しい概念である。
 第二の問題は、原因が直接結果を生成するという誤解を生じがちだということである。このことも、A群溶血性連鎖球菌感染症による扁桃腺炎を使って考えてみる。百歩譲ってこの場合扁桃腺炎の原因はA群溶血性連鎖球菌単独だとしよう。だからと言って連鎖球菌が扁桃表面に達すれば魔法のように扁桃腺炎が始まるわけではない。菌が粘膜表面に結合し、そこから臓器内結合組織に入り込み、増殖しながら種々の化学物質を分泌し、細胞が障害されていき、白血球が局所に集まり、などなど多くの現象が展開することによって扁桃腺の炎症が生じる。これらの過程の成り行きによっては一旦感染しても扁桃腺炎にならないかもしれないし、あるいは扁桃腺炎以外の症状を呈するようになることもある。つまり、大元は単一の原因だったとしても、その原因が次の現象を引き起こし、生じた現象それぞれがさらに次の現象を引き起こすという連鎖が続いて扁桃腺炎という結果に至るわけである。この、次々と新しい現象が引き起こされていき結果に至る過程を機序という。
 この次々と引き起こされる現象の連鎖である機序という概念を考えていると、原因についての見方が変わってくる。通常、Aという現象によってBという現象が引き起こされた時、Aは原因であり、Bは結果である。BによってCが引き起こされれば、BはもちろんAもCの原因といえる。そうすると、現象の連鎖である機序によって結果が生じるということは、一つ一つの現象が全て結果の原因と見做すことができる。たとえば、A群溶血性連鎖球菌感染症によって扁桃腺炎が生じるには、粘膜を通過し、結合組織内で増殖し、毒素や酵素を産生し、そこへ白血球が集まって菌を貪食し、白血球から化学物質が放出され、などなど多くの現象が生じる。その一つ一つの現象がそれ以降に生じたことの原因となる。逆に、A群溶血性連鎖球菌が感染するより時間的前にも様々な現象の連鎖が考えられる。A群溶血性連鎖球菌を持った健太くんが太郎くんに接触したことが感染につながるし、さらに遡れば健太くんに菌をうつした人がいる。もっと言えば生物進化の過程でA群溶血性連鎖球菌が発生したことがのちの扁桃腺炎につながるわけだし、いやいや地球上にアミノ酸ができたのが原因だし、それどころかそもそも地球ができたことが、と切りがないのである。一体我々が無邪気に「原因」と呼んでいるものはなんだろう。
 かなり明確に原因を特定できそうなA群溶血性連鎖球菌感染症による扁桃腺炎であっても扁桃腺炎という結果に辿り着くまでに無数とも言える現象の、遥か過去からの連鎖が存在するわけである。その連綿と続く連鎖の中でA群溶血性連鎖球菌は必要不可欠な経路となっており、なおかつA群溶血性連鎖球菌を殺す事で疾患が治癒することから、A群溶血性連鎖球菌が明確な原因のように見えるだけである。しかし、実際にはA群溶血性連鎖球菌感染症による扁桃腺炎に至るまでには様々な現象、その一つ一つが原因といっても良い、の連鎖が続いているのである。多くの要因が次々と参入し、互いに複雑に絡み合いながら連綿と続く連鎖の過程が一旦A群溶血性連鎖球菌に収束したに過ぎないのである。そして、A群溶血性連鎖球菌の後には様々な因果の連鎖が並行して、あるいは影響しあいながら扁桃腺炎という結果に至るまで続いていくのである。
 A群溶血性連鎖球菌感染症による扁桃腺炎に話を限定すれば、このようにややこしく考えなくても「A群溶血性連鎖球菌が原因である」と言っておけば良いのかもしれない。しかし、世の中の多くのことは因果の連鎖が1つか2つの要因に収束したりはしない。何が現在の結果につながる影響を及ぼしたのかをずっと遡って検証しても、常に様々な現象が同時並行的に関与しているものが多いし、そもそも影響を及ぼした要因を次々と辿れず、藪の中のことが多い。ほぼ明確な原因を特定できる状態であっても、原因を取り除くことで問題解決とは必ずしもいかない。例えば、単一の異常遺伝子によってもたらされる優勢遺伝あるいは劣性遺伝の遺伝性疾患でも、遺伝子そのものに手をつけることは非常に困難である。最近は遺伝子治療と称するものの話題がちらほら出てくるが、受精卵が分裂し、一人の人間として生まれ育っていく過程で遺伝子異常の直接的影響だけではなく、二次的、三次的な影響が広がってきて現在の状態につながっているため、生まれ育った後で遺伝子の異常を修復できたとしても多くの現状の問題が解決されることはよほど例外的と考えられる。医学的なことだけを考えてもこの有様である。世間一般に生じていることのほとんどは、原因を1つか2つの事象に帰すことはできないのではないだろうか。
 あまり意地になって「原因を取り除くことによって抜本的な解決を図る」ことを目指すと、却って自体が悪くなる危険性がある。なぜなら、「原因を探るべきであり、見つけるべきであり、取り除くべきである」という考えに固執すると、客観的根拠がないままに犯人探しをしてしまい、ピント外れな「原因」を捏造してしまうからである。こうなると本来の問題が改善しないだけではなく、関係のないものを「原因」とみなして排除しようとすることによる損害が生じる可能性が高い。僕はこういう問題を引き起こさないためには、原因よりも機序を考える習慣を持つことが役に立つのではないかと考えている。生じた問題への対策を考えるとき、その問題の出現に直接影響を与えたと客観的かつ確実に指摘できる要因を一通り洗い出していく。そして考えられた要因一つ一つに直接影響を与えたと確実に言えそうな要因をさらに洗い出していく。こういう作業を地道に繰り返すことで、なぜその問題が生じたのか、少なくとも直近の機序を明らかにできる可能性が高い。機序さえ分かれば、たとえ「原因」が不明なままでもその連鎖を止める、あるいは不完全にする方法を考えていくことができる。原因を取り除いて抜本的な問題解決を図るよりも、部分的であっても確実に問題につながることを客観的に示せる機序に対して実行可能な介入をする方が、劇的な変化はなくても世の中を改善しやすいのではないかと思う。

2017年2月19日日曜日

このままでは将来困るから

 片付けがてんでダメで、忘れ物も多いが面倒臭くてメモも取れないという子供がよくいる。何度もなんども教師が注意したり叱ったりするものの一向に改善の兆しがない。もうこうなったら自分で解決することはまず無理だし、といって放置すると様々なことで不利になる。だったらこまめに指示を出したり、必要な手順を表にして机に置いてあげるなりして、苦手なことで躓きっぱなしになることを避け、本来自分が持っている能力を十分に発揮できるようにしてあげる必要がある。
 僕の外来にはこういうタイプの子供がよく受診する。最近、こういう片付けが全くできないしメモも取れない子供を育てているお母さんが、学校の先生に連絡帳をきちんと書いているかどうかを確認して欲しいと頼んだ時の経験を語っていた。本人任せではまず無理なので先生に協力して欲しいと頼んだ訳だが、教師は「このままずっと自分でできないと将来困ることになる。だから手伝うべきではない。」と返事をしたとのことであった。
 「このままでは将来困るから」というセリフはこの事例に限らずとてもよく耳にする言葉である。片付けができず忘れ物が多い子供がいても「このままでは将来困るから」手伝うことなく自分でなんとかさせようとする。何かと言えば口を荒らす子供には、「このままでは将来困るから」悪い言葉遣いをするたびに逐一叱ろうとする。発達障害のある子供のための専門外来をしていると、稀ならず見聞するエピソードである。
 この種のエピソードにはほぼ例外なく共通する問題がある。「このままでは将来困るから」という意見に問題はない。確かに困る可能性が高い。ならば、少しでも将来が明るくなるように変化をもたらす方策を探るべきだろう。しかし、担任がこういうセリフを口にする事例では、1ヶ月経っても半年経っても事態がほとんど改善していないのである。改善しないどころか子供本人は一層投げやりになっていたりもする。本当に「このままでは将来困るから」と心配するのであれば、何か有効な対策を考えようとするのが自然な発想だと思う。しかし、少なくとも個人的な経験で見る限りは、積極的な援助策を講じようとしない教師に限って「このままでは将来困るから」と口にしがちである。そして、「自主性を育てる」と称してうっかりぼんやりした子供には忘れ物が多い状態を続けさせる。口を荒らす子供がますます荒れ出しても、口を開くたびに細かく細かく叱り続けることになる。そして時々、ちっとも改善しないとこぼしてため息をつく。
 多分、今までのやり方と違うことをするのが面倒なのだろう。別に教師に限った話ではない。今まで繰り返してきたやり方を変えることに強い抵抗を感じる人は一定数いると思う。そして、十年一日のごとく同じ行動をとることに問題があるかもしれないと指摘されかけた時、自分の振る舞いを正当化する理由が必要になる。それが「このままでは将来困るから」なのではないだろうか。真の問題設定として「このままでは将来困るから」と思うなら、成果を出せそうな戦略を立てる必要があるし、一定期間の後に成果が上がっているかどうかを評価する必要がある。言うまでもなく、何ヶ月あるいは半年も事態が改善しないような介入法が成果を出せるはずがない。
 上記のお母さんには、先生にこう言ように提案しておいた。「なるほど、手助けせずに放っておいたらこの子は自分でできるようになるのですね。先生は勝算をお持ちなのですね。あと何ヶ月見れば明らかな改善が見られると計算しておられますか。もしその時まで待っても改善が見られない場合には、次に打つ手も準備されているのですね。」

2017年2月14日火曜日

宣言的記憶の発達

 人の記憶はどのくらいの時間情報を保持できるかで短期記憶と長期記憶に分けられる(厳密には短期記憶よりも保持期間の短い感覚記憶がある)。長期記憶は記憶内容を意識できる宣言的記憶と、意識できない非宣言的記憶に分けられる。そして、宣言的記憶には、世界の事実についての記憶である意味記憶と、自伝的出来事の記憶であるエピソード記憶が含まれる。言葉の意味を知っていたり、者の名前を知っていたり、何かの理論を知っているというような、いわゆる「知識」は意味記憶になる。これに対して、大学の受験の日には珍しく雪が結構降って辺りが白くなっていたなあとか、昨夜飲んだ味噌汁は少し辛かったなあというような、いつ、どこで、誰が、何を、という情報と強く結びついた記憶がエピソード記憶である。
 神経学の教科書に記述してある知識ではこういったことをさらっと書いてあるので、ふむふむ宣言的記憶は意味記憶とエピソード記憶に分かれるんだな、2つの違う種類の記憶があるんだ、と考えがちだ(少なくとも僕はそう理解していた)。しかし、記憶の発達研究の知見を見ると、意味記憶とエピソード記憶は結構関係が深い。
 発達の過程で最も早く確認できる記憶は視覚性再認記憶である。これは、目の前に提示されたものが過去に見たことがあると認識する記憶である。乳児には見慣れたものよりも新しい刺激を好む新奇選好という特性がある。これを利用して、過去に見たことがあるものと見たことのないものを同時に見せて、乳児がどちらを長く見るかを検証すれば、見たことがあると記憶しているかどうかを確認できる。一つのものを見なれさせた直後なら新生児でもどちらが目新しいかを判断できるし、生後3ヶ月児なら丸1日記憶が保たれる。
 乳児期早期には特定のものを知っているかどうかを判断するだけの単純な記憶であったものが、生後半年を過ぎると記憶の構成要素同士を関連づけることができるようになる。例えば特定の顔を記憶するときに、顔を提示された時の背景を結びつけて記憶できるようになる。複数の要素を関連づける機能は2歳にかけて次第に発達し、関連づけられる要素の数が増えるだけではなく、柔軟性を増していく。例えば、遅延模倣課題という手法を使った実験で判明したことにこのようなものがある。遅延模倣課題では、検査者が人形を使って演じた一連の動作を一定の遅延時間後に子供が模倣するかどうかを確かめる。生後半年過ぎの乳児でもこの課題で、連続した複数の動作を模倣することが可能である。しかし、実験者が動作を演じた時と記憶確認時で人形が異なっていると模倣できなくなる。ところが、1歳半を過ぎると違う人形を見せられても、検査者が演じた動作を模倣できるようになる。人形を使って演じる「動作」と、別の「人形」とを新たに関連づけることが可能となったのである。
 記憶の構成要素を柔軟に関連づけられるようになってくると、エピソード記憶が機能し始める。エピソード記憶は唯一の空間的時間的文脈の中で生じた出来事の記憶である。つまり、経験された文脈の詳細に関する記憶が必要となる。このような記憶を情報源記憶とも呼ぶ。エピソード記憶が機能するためには情報源記憶が必要である。情報源記憶は未熟ながらも3〜4歳の子供で確認でき、その後10歳を超えるまで発達し続けると考えられている。
 以上をまとめると、まず知っているものを初めて見るものから区別できるようになり、ついで記憶の構成要素同士を関連づけられるようになり、関連付けがより柔軟になってくる頃に情報源記憶が成立しエピソード記憶が機能しだす。様々な要素を柔軟に関連づけて記憶できるようになれば意味記憶を維持するには十分である。つまり、意味記憶がエピソード記憶より先に完成するのである。意味記憶とエピソード記憶はいずれも大脳の内側側頭葉、特に海馬体という部位の機能によって支えられていることが分かっている。共通した脳部位が担っていることと、出現順序およびその連続性を考慮すると、意味記憶はエピソード記憶のベースとなっている可能性が高い。
 僕は記憶力が弱い。記憶全般に問題があるので、僕の海馬体は安普請なのだろう。中でもエピソード記憶が極めて弱い。ついで機械的暗記が大変苦手である。その一方で、何らかの理屈や理論になったものは比較的覚えていることができる。これは何を意味しているのかよくわからないが、複雑に関連づけられたものはかろうじて覚えているということなのだろうか。最近、記憶の発達について調べる機会があった。記憶について勉強したからといって記憶が改善するわけではない。調べたこともすぐに忘れていくのだろう。せめて要点を文章にして残しておこう。それがこの文章を書いた動機である。時が過ぎて、記憶の発達について調べたということさえ忘れても、ささやかな爪痕が残っているのを目にすれば多少思うところがあるのではないかと期待して。

2017年2月3日金曜日

大人ってえ奴は

 子供は能力が低いし、狭い世界のことしか分かっていないし、本当に大したことない奴らのくせに、いろいろ屁理屈をこねて大人を批判する。大人は信用できないなどとほざいたりする。全くもって度し難い奴らだぜ。子供は黙って大人の言うことを聞いていりゃあそれで良いんだよっ!と言いたくなることがないといえば嘘になる。しかし、事実大人は信用できないと思わせるようなことをよくしでかすのである。僕にも未だに忘れられない、大人に不信感を抱いたエピソードがある。

1)小学生の頃、僕は本が好きだった。それを良しとしてくれたのだろう。僕の親は、馴染みの本屋に話をつけ、僕が読みたいと思う本を何でも持って帰って良いことにし、その代金を払ってくれていた。おかげで暇があれば本屋に長居をし、延々としゃがみこんで立ち読み(?)をしていた。いつも立ち上がった時にはめまいがしていたことを覚えている。そして自由に本を選んで家に持ち帰り、続きを読んでいた。読みたい本を自由に読める環境を作ってくれたことを、今考えても親に感謝すべきことだと思っている。しかし、この思い出には消し難い染みがついている。ある日、僕はふと六法全書を手に取った。社会の仕組みも大して知らない小学生だったので、当然法律なんてよく知らなかった。ただ、世の中の様々なことが法律で定められており、法律は重要であることだけは知っていた。どんなことが定められているのだろうか。一度興味を持つと、当然好奇心を抑えられるわけがない。そこで、六法全書を読もうと考え、問題があるなどとは夢にも思わず、いつものように家に持ち帰ったのである。しかし、その時はなぜか母親が六法全書を見るなり怒り出した。何を言われたのか、はっきりとは覚えていない。なぜこのようなものを持って帰るのか。こんなものを読むと屁理屈ばかりこねるようになる。というようなことを言われたような気がする。そして母は、僕から六法全書を取り上げ、本屋に返したのである。好きな本を買って読めば良いと言われているのに、なぜ六法全書はダメなのか、しかも、叱られねばならぬ程のことだったのか。僕にはさっぱり分からなかった。当時全く納得できなかったし、いまでも納得できるとはいえない。

2)中学生になり、英語の授業が始まった。今は英語への苦手意識が強いのだが、中学生の頃は特に好きでもないものの、嫌いでもなかった。その頃、英語の授業内容のせいではないのだが、英語に関連して不満を持っていることがあった。それは、自分の名前を”Tatsuya Ogino”と書かねばいけないことだ。僕は取り立てて国粋主義者ではない。それどころか、その頃から無謀な戦争に走った日本を子供心にアホと違うかと思ったりするような子供だった。しかし、固有名詞、それも個人のアイデンティティである名前を別の言い方にすることに抵抗があったのだ。固有名詞なのになぜ他国の流儀に合わせねばならないのだろうか。しかも、国外では英語で表記するときもfirst nameを先に書かない国もあるらしいとも知り、なおのこと疑問を感じるようになっていた。そういう背景があったため、何年生の時か忘れたのだが、英語のテストで名前を”Ogino Tatsuya”と記述した。その日のうちか、後日かは忘れたが、英語の教師が僕を捕まえ、血相変えて怒り出したのである。年配の(といっても今の僕よりは若かったのかもしれない)女性であるその先生は、まさしく血相を変えていた。テスト問題への解答自体は結構良かったように記憶している。Family nameを最初に書いたというそのことだけで、目を釣り上げて叱られたのである。僕はそこまで非難されるようなことをしたとはどうしても思えず、ただただあっけにとられていた。

3)やはり中学校の頃である。理科の時間、おそらくエネルギー不変の法則のことを説明している時だったと思う。理科の教師が、「自転車のダイナモは、電灯をつけているときにエネルギーを生成しているので、回すのに力が必要になり重くなっている。電灯をつけなければエネルギーを消費しないので、軽く回せるはずである。しかし、実際には電灯をつけていなくてもダイナモをタイヤで回すと漕ぐ力が余分に必要になる。それはなぜだと思うか。」という問題を口にした。額が広く、ぎょろっとした目の、見るからに一癖ありそうな風貌の男性教師だった。僕が当てられたので、頭に浮かんだことを何のためらいもなく答えた。「電気を発生させるエネルギーが必要なくても、軸と軸受けの摩擦などで抵抗ができると思います。」てなことを答えたと思う(正確には覚えていないが、正解だったのだと思う)。教師は明らかにいらだった表情を浮かべ、あからさまに腹立たしそうな口調で、しかも皮肉な要素も湛えた口調で、他の生徒たちに向かって「荻野は頭が良いからすぐに答える。」と言い放ったのである。正解を答えたにもかかわらず、ほとんど晒し者のような目に遭わされ、しばらく事態をどう理解すれば良いのかわからないままに立ち尽くしていたことを覚えている。

 いずれのエピソードも、もう半世紀近く前のことである。しかし、今に至るまで、繰り返し思い出すエピソードである。なんども書いているが僕は記憶力が悪い。特に、エピソード記憶が悪い。だから、あまり具体的な思い出は多くないのだが、それでも繰り返し思い出すところを見ると、かなり印象深い出来事だったのだろう。いずれの状況も、責められるようなことをしたとは思えない。3)はまさに言いがかりであるが、他の2つにしても感情的に叱られるようなことだろうか。第一にこちらには悪意はないし、それどころか前向きな理由あっての行動である。もし間違っているのであれば、それを説明すれば良いことである。口を極めて非難するようなことではない。しかし、彼らは僕の行動に単に反対するのではなく、感情的に非難したり、晒し者にしたりしたのである。これらの記憶は大人に対して非常に暗い印象を僕にもたらした。
 とはいえ、僕自身が大人になってしまった。上記のエピソードに出てくる大人たちよりもおそらく年長になっている。自分が大人になると、上記エピソードの出演者である大人達の「気持ち」は分からなくはない。ああ、こんな子供を見たらイライラさせられるかもしれないなあと。しかし、気持ちは想像できても妥当な振る舞いだったとは、今でも思わない。大人が正当な根拠なく子供を責めるようなことをするべきではないと思う。
 さて、果たして僕は、かつての母親、英語教師、理科教師のような振る舞いをせずに済んでいるのだろうか。息子達や勤務する大学の学生達から責められたことはないが、彼らとてそう素直に不満を伝えてはくれないだろう。ひょっとしたら僕は、あの時の母親、英語教師、理科教師と同じ振る舞いを何度もしているのかもしれない。例えそうではあっても、敢えて主張したい。大人は、軽々しく感情的に子供を責めてはいけない。例え大きな問題があったとしても、ほとんどのことは責めるのではなく、説明すれば良いだけだ、と。

2017年1月6日金曜日

教育現場における発達障害児支援の専門家

 発達障害のある子供を対象にした診療をしていると、教師からの相談を受ける機会が結構ある。わざわざ病院に出向く教師は熱心な人が多く、親を通じてでは十分に把握できない学校園での子供の様子を知ることができる機会にもなるので、医師としては大歓迎である。であるのだが、どうもすっきりしない思いを抱くことにもなる。以前にも似たようなことを書いたことがあるが、学校園の先生からの質問はまず間違いなく子供にどう指導すれば良いかということである。聞かれたことには答えようとするのが臨床医の性であり、なんとか妥当性の高い回答を捻り出そうと、頭をフル回転させることになる。しかし、考えついたことを訥々と説明しながらも、脳裏には決まって一つの疑問が浮かんでくる。「俺は医者だぞ。医者が子供の指導法を、よりにもよって教師に助言しているのはおかしくないか?」
 脳機能の特徴や合併症、あるいは薬物療法や遺伝学的な知見について質問されるのであれば理解できる。しかし、教育や保育のトレーニングを受けたこともない医師が指導法について聞かれても、大したアイデアが出るとは思えない。TEACCHの創始者であるショプラーさんは治療者はジェネラリストとしての専門家たれと述べている。したがって、医師であっても教育や療育に踏み込んでいくべきだし、教師であっても医学的な知識を広げていくべきである。とはいえ、限界もある。教師が完全に医師の役割を担うことは難しいし、その逆も簡単にできることではない。教師が医師に指導法について助言を求めるという、専門性の完全な逆転にはかなり無理があるのではないだろうか。
 僕自身の経験を振り返る限り、相談を受けた事例では、教師がかなり困り悩んでいることは確かである。有効性の高い助言ができる専門家が必要なことは間違い無いだろう。発達障害のある子供の学校での指導を援助するためには、どのような専門家が必要なのだろう。少なくとも医師がその適任だとは思えない。やはり教育現場での問題を解決する以上、基盤となるべきは教育であり、教師の中に専門性を持った人を育てるべきであろう。教育現場に能力の高い専門家が育つことで、一義的には今現在困っている教師を助け、ひいては困難に直面している子供達を減らすことができるだろう。また、長期的には発達障害にまつわる問題を教育現場内で解決できる割合が増加することで、社会的支出を抑えることにも繋がるだろう。
 どのような専門家を育てる必要があるのだろうか。もちろん、最も重要なことは教育・指導のスキルである。行動面や感情制御、知能や識字能力などに何らかのハンディがある子供を前提にした教科内容の組み立て方や、教科指導の方法論は最も基本的なこととして抑えておくべきだろう。もしも十分な方法論が構築されていないのが現状であれば、そこを整備することは喫緊の課題である。しかし、まさしく僕の専門外の事柄になるので、ここでは立ち入らない。こういった教育内容や教育方法論と並行して専門家が習得すべきことや与えられるべき属性について、医師の立場から考え付くことを書いてみようと思う。
 まず、発達障害や関連する障害病型に関する診断基準、よく観察される症状や行動特徴、可能性のある二次障害などの理解は必須だろう。できれば認知科学・神経心理学的な基盤も抑えて欲しい。別に自分が医者だから、自分が関心を持っていることが重要といっているのではない。これらの事柄は、子供達が日常において経験する困難さに直結するものだからである。困難さの直接的原因と言い換えても良い。支援方法を考える時に、どういうメカニズムで困難が生じているかを理解できなければ、合理的な対策も難しいだろう。上に述べた教育内容や教育方法論も、対象となる子供の特性に沿ったものを構築すべきだろう。
 心理学的素養も重要な要素だと思う。上に、認知科学・神経心理学に言及したが、発達障害のある子供を支援する上で必須の心理学的領域は、行動分析学の分野ではないかと思う。行動分析学あるいは応用行動分析を習得すべきだと考える理由は大きく2つある。第一に、発達障害のある子供への対応の大半は、行動を対象とするものだからである。抑うつや強迫性障害などの二次障害への対応は別として、本人の行動レパートリーに即した生活環境を構築することや、生活環境に上手く適応することに役立つように行動レパートリーを広げ、逆に適応を阻害するような行動レパートリーを問題の少ない形へと変容させるというアプローチが必須である。ここでは応用行動分析学の考え方が直接的に役に立つ。第二に、行動分析学では介入と結果の関係を数量的に確認するということが非常に重視されているからである。介入対象を具体的に定義し、介入手続きを明確に規定し、具体的目標を立てた上で結果を数量的に評価するという考え方を繰り返し学ぶことで、説明変数と従属変数を常に意識した考え方のトレーニングになるのではないだろうか。もちろん、認知科学でもこういう考え方は基本であるし、その他多くの自然科学に共通した考え方でもある。しかし、「指導の効果」という教師としては最も興味を持ちやすい題材を使ってトレーニングできる点が、他の学問分野よりも有利な点ではないかと思う。
 最後になるが、発達障害のある子供への指導に関して教師や学校園に助言する専門家には、本人の学識やスキルだけではなく、立場に伴う権威も必要だと思う。例えば医師が何らかの診断書を作成したら公的な拘束力を持つ(ただし万能ではない)。これと同じ意味で、法律や制度に守られた権威がある程度必要ではないかと思う。学校の人事をさえ左右できるほど、とまでは言わないが、その専門家が提案したことや助言したことを聞き流すには教師や学校園側に相当な覚悟を要する程度の権威があることが望ましい。まあ、この考え方には反論したくなる人もいるだろう。僕は、教師には理屈が通じにくいという印象を持っている。もちろん例外は多いし、個人的に話しているぶんにはきちんと話が通じる人が多い。しかし、学校組織の一員としての教師は、理屈よりも兼ねてから培ってきた価値観を重視することが多い。しかも、教師としての経験年数が様々な主張の根拠になりやすいく、一層話はややこしい。いかに理論に裏打ちされていたとしても、自らの価値観に沿わない助言を受け入れにくいし、教師の経験年数が長いほど考えを変えにくいのではないかと思う。にもかかわらず、理屈に裏打ちされた合理的な助言を受け入れさせるには、ある程度権威の力を借りないといけないのではないかと思うのである。それは教師に対する偏見だと腹を立てる人が多いかもしれない。そう、単なる僕の偏見である可能性は否定できないし、僕自身この考えが間違いであることを願っている。
 以上、思いついたことをくどくどと並べて見た。果たしてこのような専門家が養成されることはあるのだろうか。現実的な方向性としては、特別支援学校教諭養成課程にテコ入れし、特別支援学校だけではなく全ての学校園で活動できるような特別な資格を与える課程に変えていくのが良いのではないかと思う。しかし、そういう特殊な専門的職種を教育界は受け入れられるだろうか。まあ、形はどうであれ、少しでも多くの発達障害を持つ子供たちが学校生活を楽しみ、能力に見合った学習をできるようになってくれるのであれば、僕としては特にいうことはないのだけれど。