2014年8月27日水曜日

局所最適、全体最適

原子力発電所が停止したことによる電力不足と不景気が相まって、ここ何年か節電が叫ばれている。最近少し緩和された気もするが、それでも至る所で照明が暗くなっている。節電は世の中のためでもあるし、経費削減にもつながるので一見めでたいのだが、スーパーや商店の商品陳列スペースが妙に暗いと人ごとながら心配になる。この暗く盛り下がった雰囲気で、客足が遠のいたり、客単価が減少したりすまいかと。行政からの指示があって節電せざるを得ないのなら、せめて暗くすることでより雰囲気がおしゃれになったり製品が魅力的に見える様に店舗の内装に頑張ってお金をかけた方が良いのではなかろうか、とも考える。素人が考えることぐらいは商売する側の人達はとっくに考えているのかもしれないが。
 僕が勤務する大学でも、経理から様々な倹約令が飛んでくる。予算の執行に関しても細々としたチェックが入る。もちろん、経理課の職員は職務に忠実なだけであるし、全体的にはもっともな指摘や主張が多い。ただ、経理担当部門の動きは支出の抑制が最高の価値基準になっており、予算の執行に関していかに減らせるかという観点からの介入しかしない。「ここの部分にはもっとお金を使った方が良いですよ。」てな指示が飛ぶことはまずない。非常に予算的に苦しい時には各部門、各事業一律に予算を絞ることもよくある。予算の緊縮を強調するあまり、肝心のパフォーマンスを低下させてしまうことがあるのではないかと心配することが結構ある。もちろん、とんでもなく放漫経営になる可能性があるので、予算を執行する立場の人の思い通りにすることが良いとは思わない。しかし、もう少し全体的な損益を見通したマネージメントをする立場の人がいるのではないかと思う。
 ここで自分の職場環境についての愚痴を述べようと思っている訳ではない。どの業界であれ、職務に忠実な人の集団では人それぞれが自分の領域内の問題をつぶすことに熱心に取り組む、ということについて考えている。問題をつぶすことに熱心に取り組むこと自体は悪くはない。しかし、人は得てして局所的な問題に目を奪われ、それに集中してしまう。そして次第に、局所的な問題をつぶすこと自体が日々の目標になってしまいがちである。本来自分は(自分たちは)何を目指していたのか、どういう世界を作ろうとしていたのかを時々立ち止まって考えると、今解決しようと努力していることが必ずしも目標に近づくために有効な手段ではない、むしろ足を引っ張っているということに気付くことも多いのではないか。個別の問題が解決しなくても、全体として成果を上げていければそれで良いはずである。つまり、局所最適に拘るよりも全体最適を目指すのである。変化の激しい流動的社会では、こういう発想がより重要になると思う。しかし、こういったそもそも論は日本人には人気がない(と言っても、僕は外国のことをよく知らないが)。自分の仕事を淡々とこなせば良いのだという考え方の方が肯定的に受け入れられている様に思う。
 局所的な問題解決に専念する考え方に、倫理的信念が加わると、一層困った状態になる。自分は正しいことをやっているのだという自負に支えられ、より一層局所的問題解決に突進するのである。そうなると、局所的問題に関してだけ評価しても、まるで効果のない状態を持続させることになりがちだ。個人的によく経験する例を挙げると、不適切な言動をとりがちな子供への指導で、問題な発言や振る舞いをことごとく叱って修正ないし反省させようとする教師などこの典型例である。いうまでもなく、何度か叱って効果を上げるのであれば、それで良い。しかし、まるで効果がないままに子供を追い回し、結果的に益々問題行動が悪化するという事例が非常に多い。何年か先の将来に、今より少しでも社会的に適切な振る舞いができる人に育つことを目指すのであれば、今現在の不適切な言動を効果のないままに叩き続ける必要はない。むしろ事態を悪化させる。不適切な振る舞いを無駄に追いかけ回している暇があったら、そこそこまともに振る舞っている状態を褒めることや、建設的な活動に取り組む時間を増やすことにエネルギーを注いだ方が余程ましである。
 何年か前のこと、教員の研修会で「効果がないままに不適切な振る舞いを叱り続けることは無駄である。むしろ、将来的に有害である。」という意味の説明をした時、フロアの教員から「しかし、子供の将来を考えると放置することはできない。こまめに注意すべきだと思う。」という発言があった。周りの教員達もうんうんと頷いており、論理矛盾も気にならない風であった。この時は、局所的な問題にのみ注目する態度と倫理的信念が一体になった時の手強さをつくづく感じた。

2014年8月20日水曜日

「うちの子、すぐに忘れるんです。」

発達障害児対象の診療をしていると、「うちの子、すぐに忘れるんです。」と訴える親に会うことは少なくない。「すぐ忘れる」と聞けば、記憶能力の障害をまず考える。しかし、話を聞いてみると大抵の場合、記憶障害としてはなんだかおかしい。友達との遊ぶ約束や何かを買ってもらえる親との約束はよく覚えている。好きなヒーローの得意技や手持ちのカードの戦闘力については事細かに説明できる。昨日見たバラエティ番組のコントの何が面白かったのかも覚えている。どうも、エピソード記憶にも意味記憶にも問題が有るとは思えない。
 実は、家族が「すぐ忘れる」と表現する時には様々な状態が含まれている。多いのは注意しても叱っても同じことを繰り返すということだ。これにも色々な状態が含まれる。何のことを注意され叱られたのか分かっていないことが結構有る。親が何を叱っているのか理解できているかどうかの問題だ。親の口調や形相から叱られていることは十二分に分かっていても、その内容を正確に理解していないのである。ほとんどの大人は、叱る時には何を叱られているのか相手が理解していることが前提になっており、親切丁寧な問題点の解説をしないことがほとんどである。そのくせ、本質的な情報を含まない文句を山ほど並べ立てるので、一層分かりにくい表現になる。また、叱られている時には本人は感情的に不安定になって理性的な理解が妨げられていることが多いため、いよいよ持って相手の言葉の内容が理解できない。何が悪いのか分かっていないのだから、同じことを繰り返してしまう。こういう状況が疑わしい時は、言うまでもなくきちんと分かる様に説明する必要が有る。
 注意された事の意味は十分理解できていても、肝心の瞬間に(何かに夢中になっていたりして)意識に浮かんでこない場合がある。その結果、同じことを繰り返してしまう。これも非常に多いパターンである。瞬間的に頭に浮かんでいない状態なので、「忘れる」という表現が全く間違っている訳ではない。しかし、脳の中に情報はきちんと保持されているので、落ち着いている時に聞かれれば注意されたことを正確に思い出せる。平均的な大人でも、「今日はゴミ袋を買わないといけない」と思いながらスーパーに赴き、買い物に夢中になっている間にゴミ袋のことを失念していたというような経験をした人は多いに違いない。それと似た様なものである。こういう場合はいくら叱っても、肝心の瞬間に意識に浮かんでこないのだから、叱ることの効果はほとんどない。重要な局面で注意事項を如何に思い出させるかという工夫が必要である。例えば出かける時に鍵を持って行って欲しいのなら、玄関のドアに「鍵を持ちましたか?」と書いたカラフルな張り紙をしておくと忘れることを防げるかもしれない。
 衝動性が強い子供もいる。分かっちゃいるけど、ついつい言ってしまう・やってしまう、というやつだ。これも、叱ることの効果がほとんどない。本人だって後で反省している。すっかり忘れて反省していないように見える子供もいるが、自分が失敗を繰り返すことで自身の立場が悪くなっていることは、高学年くらいになれば理解している。分かっちゃいるけどついやってしまうのだから、こういうタイプも問題を繰り返す。しかし、決して忘れた訳ではない。こういったケースの扱いは難しい。自己評価を低下させない様にしながら成熟するのを待てばよいのではないかと思うのだが、世間はそれを待ってくれない。必ずしも世の人々が冷たいからではない。むしろ、その子の「将来」を心配する親や教師が使命感に駆られて問題を逐一叱って回る。せめて少しでも良い方向に動かしたいのであれば、失敗した後で叱るよりも、問題な行動をしていない時にこまめに褒めておく方が合理的なのだが。
 他にも「うちの子、すぐに忘れるんです。」状態を生じる真の原因はあるかもしれない。はなからする気が起きないことや興味がないからという場合もあるだろう。する気が起きないとか興味が無い状態に至る機序も複数あるかもしれない。そして、それぞれのケースで有効な対応は異なってくるだろう。しかし、様々な状態を「すぐに忘れるんです。」の一言で表現してしまうと、当然のことながら問題の改善は遠のいていく。人は複雑な問題を単純化しやすい。最も印象に残る現象のみを捉え、そして頭の中にストックされた似た様な結果に至る原因をさっと照合して結びつける。その結果、単純で人に伝えやすいが、何かしらピントのずれた問題の解釈が出来上がる。一旦ラベルを貼ってしまうと、なかなか別の見方が出来ない。
 人間の行動は複雑である。人間自体が複雑だが、その複雑な存在が多様な環境と相互作用をする中で行動は生じる。ありふれた問題行動一つをとっても、その一瞬を切り取るだけでは何故そういう現象が起こるか理解することは難しい。矯めつ眇めつ様々な可能性を考えていかなければなかなか理解できない。他の人の成し遂げたことや失敗したことを「あいつは◯◯だから。」と一言で説明する物言いを耳にすることは多いが、こういう単純な言説はとりあえず疑ってかかる方が安全だ。

2014年8月7日木曜日

もし何かあれば

痙攣の既往がある子どもは、学校の水泳で何らかの制限を受けることが多い。自治体によっても差はあるが、ひどい例では幼児期に1、2回熱性痙攣があったと報告した結果、小学校を卒業するまで水泳時に親が監視する様に求められることがあった。「もし何かあれば責任が取れないから。」ということらしい。しかし、幼児期の熱性痙攣既往者がたまたま夏の日の水泳中に(学校の水泳では事前に体温まで確認されている)痙攣を起こす確率など、計算するのもあほらしい位の僅かなものである。プールの排水溝に不備がないか確認することの方が余程現実的である。
 感情の制御が難しい子供が、小学校で激しいかんしゃくを起こし、学校から逃げ出そうとすることがある。そういう時に、複数の教員で取り囲み押さえつけようとしたため、さらに子供が興奮して大騒動というエピソードを耳にすることがある。発達障害児の診療をしていると珍しいことではない。小学生ともなれば、余程知的障害が重い子供でなければ勝手に逃亡させておいても迷子になることもないだろうし、頭が冷えたら戻ってくるか自宅に帰るかするのではないかと思うが、学校の先生達は結構派手な立ち回りを演じることが多い。曰く、「学校外に出て、もし何かあれば責任が取れないから。」
 確かに危険性が0とは言えないだろう。しかし、興奮して暴れている子供を取り押さえることにもかなり危険性がある。勝手に逃亡させておく方が余程安全ではないか。しかも、こういった対処を繰り返すことで子供の自己評価や教師に対する信頼感は低下するだろう。長期的に考えると失うものは多そうである。先に上げた水泳の制限であれば、学校側の責任回避という一点に絞れば失うものはなさそうだが、子供の立場に立てば根拠薄弱な理由で失うものがあるのは可哀想である。多くのことに対して「もし何かあれば」とか、「危険性は0ではない」を根拠にして色々なことが行われる。「放射線の危険性は0ではない」からと非現実的なレベルの危険性しかない地域の住民も避難させ続け、却って震災関連死を増やしたことは記憶に新しい。
 予測できる危険性に対して対策を立てること自体は、言うまでもなく重要なことである。しかし、その危険が現実化する確率はどの程度か、そしてそれによって被る損害は何が予想されるかということを考慮することは大前提だろう。また、何らかの対処を実行する時に、その対処法によって生じる損害は無いのかということも十分に考慮すべきである。リスクに対処する手段はその特定のリスクを回避できる効果ではなく、総体としてどの程度危険性を低下させるかを最も重視すべきだと思う。しかし、現実には特定のリスクだけに注目し、しかも完璧なリスク回避を目指そうとするため、結局トータルでは損失の方が大きいのではないかという事例がやたらと目に付く。そういうお粗末な対応程、「良いこと」をしているのだから批判なんてとんでもない、という圧力をまき散らしている様に感じるのは僕だけだろうか。

2014年8月2日土曜日

喫煙

https://www.facebook.com/amnesictatsu/posts/840213275996763 (2014/8/2) より転載

二十代終わり頃、僕は煙草を吸い始めた。バイクの免許を取り、煙草を吸い、世の平均より10年以上遅くグレ始めたのだ。さすがに誰も相手にしなかったけれど。盗んだバイクに飛び乗ってご町内の窓ガラスを割って回ったりすることもなく、毎日せっせと働き、まあ、おとなしいグレ方であった。この時の喫煙は割と長続きし、5年間くらいプカプカと吸っていた。1日一箱くらい吸っていただろうか。
 40歳過ぎた頃にも1、2年間吸い、そして止めた。その後は全く吸っていない。つまり、今まで2回の禁煙をした訳だ。といっても、吸い始めが遅かったためか、そんなに頑張って止めた訳ではない。いずれも、ある日ふと思いたって止めた。止めてしばらくは口寂しい感覚もあったが、さほど辛くもなかった。今、そばで人が喫煙していたら耐えられない程ではないが、止めて欲しいなと思う。乗り物の指定席やレストランの席は迷うこと無く禁煙席をお願いする。おかげで最近は街中で暮らしやすい。この10年、20年程度で、喫煙派と非喫煙派の立場は逆転し、今の日本でヘビースモーカーだと、街の至る所で住み辛さを感じるだろうなと思う。
 要するに僕は、「喫煙についてどう思いますか?」と尋ねられた時、「止めた方が良いと思います。」と答える程度には禁煙賛成派である。ただ、昨今病院や大学など多くの公共施設が次々と敷地内全面禁煙を謳い出している風潮には、素直に頷けない。これには二つの理由がある。一つには地域の評判を落とす可能性がある。どういうことかというと、大きな組織程、そう簡単に喫煙者をなくすことは出来ない。そういう人達はどういう行動をとるか。多くは敷地のすぐ外、例えば正門の前などで煙草を吸う。それだけでも結構みっともないが、吸い殻を道路に捨てる人もいて、近隣の苦情を引き起こしやすい。二つ目はもっと問題が大きい。安全性についてである。阻害された喫煙者達は建物の裏やトイレで吸う可能性がある。これは実質的な危険性がある。禁煙ではなく、分煙ではいけないのだろうか。少なくとも現状では、法律で認められた嗜好品である。そこまで徹底的に排除せねばならないのだろうか。喫煙者を減らした方が良いということに異論は無い。しかし、そうであればなおのこと「排除」の姿勢は正しいのだろうか。ニコチンに限らず薬物依存状態にある人に現状から脱するための援助をするのであれば、排除よりも包摂の姿勢が必要だと思う。
 かつてグレ始めた前後に、僕は大きな大学病院の小児病棟で働いていた。こういう特殊な病院には特殊な病気の患者が多く入院する。数ヶ月間以上の長期に渉り入院する子どもも多かった。小学校低学年以下の子どもであれば、ほとんどの子どもに親、大概は母親が付き添っている。難病に苦しむ我が子の世話を付きっ切りで行ない、不自由な病棟で暮らすことのストレスは相当なものだろうと思う。当時、深夜に病棟で色々な処置を行なうことがよくあった。処置が済んで医局(医師の溜まり場)に戻る際、僕はエレベーターよりも階段をよく使っていたのだが、病棟の階段の踊り場には灰皿とベンチが設置されていた。深夜の階段踊り場にはいつも数人の患者の母親達が煙草を吸いながら雑談をしていた。僕が通りかかると、「あ、センセ、こんばんは」などと声をかけてくれたりした。喫煙が良いとも思わないが、ストレスに満ちた付き添い生活の中で、子どもが寝静まった後に一服吸いながら他愛無いおしゃべりをすることは随分彼女達の救いになっていたのではないかと思う。僕は約5年間勤めて大学病院を出た。10年くらい他の病院で働いてから再び大学病院に勤め始めたのだが、その時には施設内全面禁煙になっていた。勿論、階段の踊り場には灰皿は無く、ベンチさえも無くなっていた。付き添いの親達は、今はどうやってストレスを軽減しているのだろうか。大学病院に復帰してから、ふと気になることが時々あった。

緩い社会、厳格な社会

https://www.facebook.com/amnesictatsu/posts/839377386080352 (2014/7/31) より転載

電車でもバスでも、乗り降りの際に切符を確認する。このことを我々は当たり前のことと感じている。しかし、国外ではそうでもない。4年前にベルリンへ行ったとき、地下鉄に乗る時もおりる時も切符の確認は無かった。先月、学会に参加するためにウィーンに行ったのだが、ここでも路面電車や地下鉄に切符の確認なしに乗ることが出来た。1週間通用する切符を買えば、まるでフリーパスで乗り降りする感じがして、大変気持ちよかった。人に聞くと、たまに検札をする人が来て、その時に切符を持っていないと処罰されるらしい。とはいえ、1週間にわたり何度も乗り降りしたが、検札らしき人を見たことは無い。この状態でも、多くの人はまともに切符を買っているのだろう。中にはただ乗りしている人もいるのではないかとも思うが、そういう細かいことはあまり問題にしていないのだろう。多少の損失は有るかもしれないが、恒常的な検札が無いことから人件費は減らせそうでもある。結構合理的なのかもしれない。
 わずかな経験だが、ヨーロッパの街を歩いていると至る所で日本と異なった緩い印象を受ける。日本よりもエコにうるさいはずなのに、歩きタバコは珍しくない。電車の発着はそこそこ不正確だし、電車や地下鉄の中に自転車を持ち込むし、たっぷりサイズの乳母車を押した親が電車内を含めて町中どこでも屈託なく通行している。誰も文句を言わない。そういえば、最近ネットでしばしば話題になるが、欧州の国々での子育て経験が有る日本人女性は口を揃えて日本よりもヨーロッパの方がおおらかで子どもを育てやすいと述べるらしい。ベルリンで経験したが、トラブルがあって突然運休になる電車があってもその詳細を把握している駅員がほとんどいなかったりする。にもかかわらず、その場の客は皆落ち着いており(内心はシランが)、騒ぎ立てる人はいない。ウィーンのど真ん中では車列の先頭を馬車がのんびりと進んでおり、そこら中馬糞だらけだ。とにかく、そこここに緩い感じが漂っており厳密さが酷く乏しい。そして、細かいことで見張られている感じが少ないのである。
 欧州の人がいい加減だとは思わない。何しろ哲学と現代科学の発祥の地だ。ウィーン大学一つでノーベル賞受賞者は10人以上いる。基本は理屈っぽいに違いない。それが証拠に、ウィーンのカフェやレストランでワインやビールを頼む時、必ずメニューに”0.3L”などと量が明記されている。食事のメニューにはどういう材料でどういう調理がなされたのかが説明されている。にもかかわらず、街の至る所で「細かいことは気にせんもんね。」という雰囲気が漂っている。どうして彼の国はかくも緩いのだろうか。引き比べて「理屈じゃないんだ!」が好きな人の多い日本はどうして事細かなことに厳密なのだろう。欧州の人の方が理屈を重視するだけに大枠や原則を重んじ、理屈を無視する日本人は頼るべき芯となるものが無いためこまごまとした現実を規制しないと安心できないのだろうか。
 なんだかよく分からないが、何が彼我の差を決めているのか分からないが、この国で暮らしていて息苦しさを感じるたびに、ヨーロッパの街から受ける印象を思い出し、もやもやするのである。

自閉症と仕事

https://www.facebook.com/amnesictatsu/posts/825559730795451 (2014/7/7) より転載

自閉症スペクトラム(ASD)を有する人達が仕事に就く時に、どの様なことに困るかについて考えてみた。僕の診療対象はほとんど子供なので、実際に体験した事例をまとめた訳ではなく、あくまで考えてみたことである。知的障害を伴うかどうか、感覚過敏がひどいかどうか、二次障害として鬱病や不安障害を発症しているかどうかなど、様々な要因が影響するので、困りどころは人それぞれである。ここでは知的障害のないASDに本来伴いやすい特徴の影響に絞って考える。なお、どの様なことに困るかを考える訳であるから、どうしてもASDの特性のネガティブな影響を縷々述べることになる。しかし、適切な環境で暮らせた時には同じ特性がポジティブな形で生活に影響することも多いということを最初に断っておく。
 まず、人の気持ちを直感的に掴めないことからくるコミュニケーション能力の弱さはASDの基本的特徴であり、これによって生じる問題が当然考えられる。人が何かを期待している時でもそれに気づいて合わせることができなかったり、相手が不愉快に感じる発言をそうとは知らずに言ってしまうことは多いだろう。また、適当に話を合わせて会話を維持することが難しいので、他愛無い雑談ができない。こういった特徴は、特に接客業(営業職を含む)において大変不利になるだろう。しかし、接客業以外なら意外にこのことが問題の発端となることは少ないかもしれない。なぜなら、仕事の場では基本的な規則を守り、それなりの技術や知識を持ち、信頼性の高い結果を出していれば評価されることが多いからである。接客業でさえ、仕事内容によっては愛想はないが信頼できる店員としての評価を得ることができるかもしれない。
 むしろ、コミュニケーションが下手なことが問題になるのは、他の特徴に端を発した問題が生じ、上司や客から叱られたりクレームをかけられた時の対応の中でのことが多そうだ。通常、人は叱ったりクレームをかけたりする時には、相手が神妙な面持ちで謝罪したり反省の言葉を述べることを期待する。ASDを有する人達はそういう「演技」が下手なので、相手の気持ちを逆なでする様な発言(言い逃れに聞こえる釈明やひどく事務的な状況説明など)をしてしまい、より一層自分が不利になるという展開につながりやすい。本来ASD者には正直者が多く、企んでつく嘘は上手ではない。しかし、人から非難され追いつめられた時にはひどく拙い、すぐにばれる嘘をついてしまい、一層問題をこじらせることも有る。コミュニケーションに関連して追加すると、自分が困っていることや辛い思いをしている時に、それを人に説明したり助けを求めたりすることがスムーズに出来ないことも問題になりやすい。物事が上手く行かなかったり、自分が限界に近づいたりしても、相談したり助けを求めたりできぬままに時間が流れ、より一層問題が深刻化しやすい。助けを求めるスキルは、就職に関して礼儀作法以上に身につけておいて欲しい重要なポイントではないかと思う。
 ASDを有する人達は多種類の情報を並行して処理することが苦手である。恐らくはそれが一因となって、重要性や緊急性に基づいた物事の重み付けが上手く出来ない。また、多くの可能性を考慮しながら事前に行動の計画を立てることが難しい。こういった特徴は多くの職場で直接的な困難の原因になりそうである。特に、日々新しい要求や突発事態が生じる職場ではかなり困難の原因になりそうである。「臨機応変に」対応することを期待する向きが世の中には多いが、ASDを伴う人達はまさに臨機応変が難しいのである。きちっと手順が決まっていれば相当高度な作業をこなす人であっても、「臨機応変」が降り掛かるとたちまち調子が崩れるのである。複数の情報を同時に処理することが難しいことや、全体よりも細部に注目しがちな特徴は、不十分な情報のみに基づいて物事を決定してしまうことにも繋がりやすい。「臨機応変」に対応せねばならないとき、ごく一部の情報だけに注目し、しかも、注目した情報それぞれの何が重要で何はこの際無視すれば良いのかといった重み付けが困難であるため、端で見ている時に「今それか?」とビックリしそうになるピントのずれた行動をしがちである。ルーチンの作業であれば非常に適切に処理している人の場合、普段の働きぶりといざという時のとんちんかんな対応のギャップが大きく、周りの人の理解を得難い。それどころか自分が得意としている狭い領域に限っては、驚く程「臨機応変」に高度な問題解決ができる人達もおり、その場合は益々周囲の人に取っては失敗するときの拙さが理解を超えるだろう。
 ある行動をしていたり、あることを考えたり感じたりしている時に、自分がどういう行動をしているか、自分が何を考え感じているか、ということを意識することも苦手である。第三者視点で自分の置かれた状況を把握しづらいのだ。そのため、自分の行動を客観的に振り返りにくく、結果として自分のどういう行動が問題を引き起こしたかを理解しづらい。また、自分の能力を客観的に評価しにくい事から、自分を妙に過小評価したり、過大評価したり、という事も多そうである。
 一度考えついたり認識したりしたことをなかなか変更できないことも、職場で躓く要因になりそうである。一度受けた指示が変更になっても最初の指示にこだわっていたり、人の言葉を誤解して受け止めてしまうとそれがなかなか修正できなかったりする。価値観の拠り所がかなり浅いレベルに有ることもASDの特徴である。このことと、考えを変え難いことが組み合わされて困った事態を引き起こすことが有る。子供であれば一等賞であることのみが価値が有ると思い込んだり、友達の数が多い方が偉いと思い込んだりすることはよく有る。現実社会では、表面的に「良いこと」とされていることの周囲には様々な考え方が成り立っており、そのため人の持つ価値観は多様になるのだが、ASDを有する人々はシンプルな価値基準を身につけやすく、そして一度身につけるとどうしてもそこに拘ってしまうことがよく有る。大学に行くことが偉いという価値観を持ってしまうと、大学へ行くこと以外の進路は考えられなくなるかもしれない。また、大学を卒業すれば、大学卒業者に相応しい職業という自分の思い込みによって職業選択の幅が著しく狭められることが有るかもしれない。上に述べた自分の能力を客観的に評価できない事も加わり、自分の実力以上の進路を選ぶ事も多いかもしれない。
 色々並べたが、一つひとつの特徴は多くの人にとってさほど珍しいものではないと思う。意識して見ていれば、似た様な特徴を持っている人は、日常的によくお目にかかる。ASD者を支援するためには、上司や同僚が自分の直感にそぐわない言動に対して「あり得ない」と考えず、その苦手さをまずは受け入れることが必要だと思う。その上で、有効な支援や助言のあり方を考えることが求められる。ASD者に対してそういう対応が可能な職場は特定の価値観を押し付ける度合いが小さい職場とも言え、ASD以外の多くの人にとっても気持ちよく生産性を上げやすい職場ではないかと考えるが、どうだろう。

言葉によるコミュニケーション

https://www.facebook.com/amnesictatsu/posts/821599031191521 (2014/6/30) より転載

学生に講義している時に気が付いたが、「コミュニケーション」を言葉によるコミュニケーションに限定して用いる人が多い。「言葉が話せない乳児とはコミュニケーションがとれないので」、「発達性言語障害があるとコミュニケーションが難しいので」といった調子である。恐らく、学生に限らずコミュニケーションと言えば言葉と考える人は多いのだろう。しかし、コミュニケーション手段は言葉に限定されている訳ではない。表情のやり取りであったり、身振りの使い方であったり、言語以外にもコミュニケーションのチャンネルは色々ある。「非言語性コミュニケーション」という言葉があるくらいだ。周りの人が何をしているのか全く気にせずにっこりと見つめ合う、回し蹴りを食らわしてやりたい恋人同士などは、非言語性コミュニケーションに没頭しているのである。
 では、言語によるコミュニケーションの特徴は何だろうと考えると、明確な意味の遣り取りが出来るということではないかと思う。いやしくも言語でコミュニケーションをとる以上は、自分の考えや気持ちを明確に相手に伝え、相手の考えや気持ちを明確に理解することが大事ではなかろうか。と、僕は思っている。だから、人の話を聞いて理解できないとそのままで置いておけないし、自分が話す時には相手に理解してもらえないとどうも落ち着かない。
 付き合いの長いある知人は、良い人なのだが、それどころか最も世話になっている人の一人でもあるのだが、会話をしている時に話していることがとても分かりにくい。何故分かりにくいのかというと、ケースバイケースで色々なパターンが有る。文法的間違い、例えば「〜された」が「〜した」になることが有る。主語や目的語を抜かして話すことが多い。前提となる背景説明を省略しがち。単純な取り違えもよくする。例えば、「AよりもBが好き」というつもりで「BよりもAが好き」などと言う。この調子なので、何を言おうとしているのかよく分からないことが多い。さらに、こちらが理解できなかった時やよく聞き取れなかった時に「なんて言ったの?」と尋ねると、自分が話した直後にも関わらず「何だったかな」と悩むことが多く、そもそも明確な「意味」を相手に伝えるつもりがあったのかどうかさえ怪しい。本人が伝えたいこととは別に、気になることが有る。それは、その人が質問するのでこちらが真剣に返事を言い始めた矢先に、かぶせる様に喋り始めることが多いのだ。え?あんたが質問したんじゃなかったのか?それに誠実に答えようとしているのに、何故聞こうとしないのだ?と、こちらの頭の中は?????で一杯になる。どうも、人の発する言葉の意味を受け止めようとしていないのである。
 要するに、この知人は自分の語る言葉の意味を正確に伝えようとしていないし、相手の語る言葉の意味をきちんと理解しようともしていないのである。言葉によるコミュニケーションの最大の特徴は明確な意味を伝えられることではなかったのか。相手の発する意味を理解できることではなかったのか。この人はいったい言葉を何と考えているのだろうか。
 しかし、次第に分かってきたことがあり、それを今では確信している。日々の生活の中で他者との言語的コミュニケーション量は、明らかにその知人の方が僕よりも多いのだ。彼女の話を聞いていると、友人を始めとして様々な人と多くの会話をしているらしいのである。実際、非常に長時間電話で話している姿を僕自身がよく目撃しているし、魚屋や八百屋の兄ちゃんと気軽に話をしている姿を見ることも多い。その知人と比較すれば僕の方が遥かに正確に言葉を組み立てているはずなのに、彼女の方が僕よりも余程多くの人と長時間語り合っているのである。これはいかなることであるのか?
 時と共に僕は学んだ。言葉によるコミュニケーションにおいても、正確な意味の遣り取りは大して重要ではないということを。学問的議論や裁判など一部の例外を除いて、人にとって意味の正確さなどあまり「意味」が無いのである。意味の有無など無関係に、言葉のキャッチボールが出来ていることが言語性コミュニケーションにおいても最も重要なことなのである。つまるところ、人間は言葉を習得する前から習得する後に至るまで、コミュニケーションに必要なものは意味の明確さや論理ではないのである。

発達障害の理解と支援

https://www.facebook.com/amnesictatsu/posts/817354794949278 (2014/6/23) より転載

教員の研修会での講演を依頼された時、「発達障害の理解と支援」といったタイトルを提案されることが多い。以前は診断基準や主な症状・行動特徴などを教科書的に説明していたが、果たしてこれで「理解」につながるのだろうかと疑問を抱く様になった。何と言えば良いのだろう。無関係ではないものの、どこか違う世界の話を聞きました、というような雰囲気を感じてしまうのだ。質疑応答で、「今日聞いた話は勉強になって良かった。それはさておき、私は日常こういうことに困っていてどのような対策をしたもんだべか?」といった質問をされることが多く、教育現場での業務に用いている思考の中に、講演内容を組み込めていないのだ。こういう経験を繰り返すうちに、最近ずっと考える様になったことが有る。教師が発達障害を理解するためには、まずは障害の診断名から離れて、一般論として子供の個々の行動特性を分析するトレーニングから始める方が良いのではないか、と。
 教師も含めた一般の人と、発達障害との間の壁は、恐らく「障害」という名称への引っかかりではないかと思う。自閉症であれ、注意欠陥多動性障害であれ、発達障害の診断がつく人は特殊な症状を持った特殊な人であるに違いない。しかし、日常的に自分には明確に見分けられない。きっと訓練を受けた医師のみに理解できる特殊な状態なんだ、という思いが有るのではないか。熱心な教師なら、本を読んだり講演を聴いたりして、その特殊状態に関して少しでも多くの「知識」を「記憶」しようとする。しかし、忙しい業務の合間に勉強しても個々の診断概念についての断片的な知識を得るだけに終わるかもしれない。さして意欲の無い人であれば、発達障害者支援法や学校教育法が何を言おうが、自分の本来の業務とは関係のない事柄という意識を持つかもしれない。
 発達障害は、日常の行動特徴や認知的特徴によって定義されている。行動や認知の特性が平均的な人達とずれているために、様々な困難に遭遇する。ではその「ずれた」行動・認知特性とはどの様なものかといえば、ごくありふれた話ばかりである。白衣を着て偉そうな顔をした医師が勿体つけて診断名を告げるものだからさぞや特殊な状態なのだろうと思うかもしれないが、そうではない。うっかり屋さんだったりぼんやり屋さんだったり、落ち着きの無い人だったり余計なことをいらぬ時に何も考えずに言ってしまう人だったり、空気を読むのが下手で人付き合いの悪い人だったり、話が噛み合いにくい人だったりする。こんな人達は周りを見渡せばどこにでも居そうである。こういった特徴がある程度強くなり、本人の努力や工夫ではカバーできないレベルになると、人から援助してもらわないと暮らし難い状況になる。発達障害の基本的特徴は、ほとんどの人が多かれ少なかれ持っている、ありふれた行動・認知パターンなのである。そして、その「ずれ」が大きいために、生活の中で困り、なおかつ自分だけの力ではカバーできなくなった状態である。つまり、発達障害は単に多くの人々に見られるありふれた特徴の、「程度問題」なのである。
 物事の認識の仕方や振る舞い方に平均的な人達とのズレがあること、程度問題であること、困っていること、最低限この3点を押さえておけば、個々の診断概念を熟知しなくても、そこそこ主体的に発達障害児を理解することが可能だと思う。出発点は、「困っている」ことへの気付きである。一例を挙げよう。発達障害児に関することを教師と話している時によく聞く台詞に、「障害のためにこうなのか、それとも単なる我が侭なのかが分からないのです。」というものがある。こんなこと、悩む必要など無い。「我が侭」だと教師が感じ困っているということは、本人にとっても困った状態なのである。周囲が持て余したり困ったり心配したりする状態は、本人にとって困っている状態であり、何らかの理由で現在属している環境の現実に適応できていないということである。「我が侭」なのかどうなのかと悩む暇があったら、その子供が現状に上手く適応できていないのはどういう背景に基づくのかと考えを進めれば良い。何かを認識できなかったり、何かを誤認識したり、何かを理解できていなかったり、集中力や抑制能力が低かったり、といった環境とのミスマッチの要因となっていることを探っていけば良いのだ。
 このアプローチをとる時に、何らかの診断概念に当てはまるかどうかは問題にならない。診断しそれに基づいて対処しようという考え方ではなく、困っている子供を現実の状況に応じて援助しようという考え方だからである。だから、個々の医学的診断概念を知らずとも、援助を開始できる。つまり、発達障害の勉強をしてから支援が始まるのではなく、とりあえず始めてしまえるのである。勿論、発達障害の種々の病型について、特にその認知的特徴を学んでおくことは、困っている子供の認知特性を推測する際のヒントになるだろう。こういったアプローチで重要なポイントがいくつか有ると思う。まず、子供が困っていることを認める態度が必要である。その子供が「出来ない」ということを、指導者が認められなければ一歩も進めない。次に、物事を倫理的な善悪で考えないことが重要である。子供の言動を悪意に取ったり、指導者の力不足を嘆いたりしていれば、何時迄経っても建設的な対応が難しい。子供の種々の能力や認知・行動特性と、指導者を含む環境との齟齬がどこに有るかを検証すべきである。そのために、子供とその周囲の環境を客観的に観察する態度が必要となる。憶測ではなく、事実として観察できることを根拠に問題の背景を探るのである。
 以上のように、僕は発達障害などの認知・行動面の問題を抱えた子供の支援が出来る様に教員をトレーニングするためには、個別の障害病型の教科書的な説明を繰り返しても成果は上がりにくいと考えている。では、少なくとも教員がトレーニングを受けておいた方が良いことは何だろう。僕の狭い経験から判断する限り、何か一つ学ぶのであれば応用行動分析ではないかと思う。認知心理学や認知神経学の知識を得ておくことも役に立つだろう。しかし、認知心理学や認知神経学の知見はなかなか現実に適用できない。仮説どまりのものが多いし、現実の行動特性とのつながりはさほど明確ではないからだ。その点、応用行動分析には種々の利点が有る。まず、現実に生じたことを根拠に仮説を設定するので荒唐無稽な考えに結びつきにくい。また、本人を変えたり成長させることにこだわらない。まずは環境に手を入れることで現実的に可能な改善策を模索する。何より客観的に観察する態度を重視するので、根拠の無い思い込みで対処することを防ぐことが出来る様になる。とはいえ、心や価値から離れてクールにものを考える行動分析学は今の教育界の人達との相性が悪いかもしれないなあとも思っている。

勉強は何故必要か

https://www.facebook.com/amnesictatsu/posts/808707982480626 (2014/6/9) より転載

最近、NHK岡山の特番で、勉強を何故すべきかというテーマで中高校生くらいの子供達と色々な大人達による討論をしていた。食事の後片付けに忙しくしている最中に聞こえてきた話では、どうも子供の多くが「何故勉強をしないといけないのか」、「勉強が何の役に立つのか」と疑問を呈し、大人達が勉強の必要性を述べている様であった。まともに聞いていなかったので、その番組に対する批評というわけではないが、触発されて考えたことを記録しておく。
 少なくとも、現代用いている意味での勉強がア・プリオリに必要なものではないことは明らかである。学習の基本は読み書き計算だが、文字が作られたのはせいぜい5千年前頃であり、数万年に及ぶ人類の歴史に比べれば文字の歴史は遥かに短い。文字が無ければ数学だってほとんど進歩しなかっただろう。つまり、文字の発明以降でなければ勉強する対象さえない。そこまで大層なことを言わなくても江戸時代、ひょっとすると明治・大正時代でさえせいぜい文字の読み書きと四則計算が出来れば上出来と言われながら育った人の方が多かったのではないだろうか。ほとんどの家庭で勉強が大切だと子供に教える様になったのはかなり最近のことだと思う。
 勉強が大切であるという価値観は大人の都合と社会的必要性から出来たはずだ。個人的には学歴が高い程収入が多くなりやすく、社会全体でも教育によって国の生産性が向上するし健康管理も上手くいく。そういったことを人々が長い歴史の中で学習し、教育の重要性が認められてきたのだと思う。だから、個人としての大人も、社会や国も、無条件で勉強は全て大事だなんて思っていない。ある意味御都合主義である。娘が大学へ進学することに難色を示す父親もいるだろう。今政府が進めている国立大学改革なんて経済に貢献しない文系学部よりも理系学部に力を入れようとしているらしい。まあ、それはさておき、勉強が大切だなんて大人が勝手に考えているだけである。しかも、自分の都合に良い様に。そんなことを子供達に懇々と語ったからといって子供が勉強するだろうか。将来役に立つと言われても、来る日も来る日も役に立つ実感を持てないままに学校で暮らしているのに、勉強が大切だなんて思えるだろうか。100歩譲って、勉強が大切であることには同意してくれても、だから猛勉強し出すとも思えない。大人だって、世の中の大切だと認識していることを全てきっちりやっている人なんてとても少ない。
 子供に勉強して欲しければ、勉強が大切だと納得させるよりも勉強することが面白いと思わせることが基本だろう。元々子供達は勉強には魅力があると思っているらしいのである。取り組む価値があると思っている様なのである。何となれば、小学校入学を控えた子供達に「入学したら何するの?」、と問えば、異口同音に「べんきょうする」と答える。せっかくやる気満々で入学する子供達のモチベーションを維持するためには、勉強した後に何らかの満足感が残るようにすべきだろう。そのために何よりも重要なことは「分かる」ということではないか。誰にとっても何かが分かる、理解するという体験は魅力的だと思う。そして、分かった先にはさらに謎が広まることを知った時、その魅力は増していく。勉強をしない子は、「あ!そうか。」と分かる体験を味わえず、勉強をすることの面白さを経験させてもらえなかった、ある意味被害者と言えるのかもしれない。現在の「学年」という縛りに閉じ込めている教育制度では、勉強が苦手な子にも、分かりすぎる子にも、してやれることに限界がある。年齢・学年の縛りを解いて、個々の子供が分かることをもっと重視した教育方法に転換していく必要があると思う。
 話は少し変わるが、冒頭の討論会で子供達が投げかけた疑問の中に、「勉強が何の役に立つのか」というものがあった。これは随分昔からある論点だ。自分が思春期であった40年前でも同じ様な議論が子供と大人との間で交わされていた。繰り返しこの疑問が語られていることから、勉強は「役に立つ」あるいは「役に立つべき」という観念が我々の頭の中に巣くっているようだ。大多数の大人が勉強は役に立つから必要と思っているのだろう。その価値観を子供達も取り入れるため、勉強に疑問を持った時に「いったい何の役に立つのか?」と問うのではないだろうか。そして、ほとんどの大人達は説得力のある説明に失敗する。勉強は本当に役に立つのか、役に立つから大切なのか、と問うた時、答えることは意外に難しい。明確に役に立つと断言できるものは読み書き計算の初歩くらいだろう。それより進んだことを勉強することを「役に立つから」大切だと主張するには無理がある。別に勉強が役に立たないと言いたい訳ではない。そうではなく、どういう勉強が役に立つのか、あるいはどういう状況で役に立つのかを予測することは極めて困難なのである。
 役に立ちそうな勉強の最も分かりやすい例は専門職教育だと思う。例えば医学部で勉強することはこれに該当する。確かに医学部で学ぶことの多くは医師になった時に役に立つし、もっと言えば必要不可欠なものが多い。しかし、これほど単純な事例でもことは複雑である。小児科医として働いていたとしても、医学部の専門課程にないこと(例:文学、哲学、心理学、etc.)を勉強したことが役に立つと感じることは結構ある。本人が自覚していないことはもっと多いのではないか。逆に小児科学の勉強は全て役に立つかと言えば、必ずしもそうではない。典型的なものは、その後の医学の進歩によって否定されてしまうことを勉強した場合だ。この場合、役に立たないどころか足を引っ張ることになる。そこそこ有能な医師でいたければ、日々の臨床の場で目にする問題を整理し、その解決に向けて思考を巡らし、必要な情報を探してくるという営みを繰り返し続けることが重要になる。その時、最も役に立つことは細かい知識よりも、多様で柔軟な思考の方法論であり、必要な情報を探して読み解くためのスキルである。こういったものは医学部の専門課程に用意されたカリキュラムのみで形成される訳ではない。恐らく様々な形での「勉強」を経験する程、高められるのだと思う。
 単純そうに見える専門職教育でさえ、その役に立ち具合は簡単には説明できないのである。ましてや、小学校、中学校、高等学校の時点でどの勉強が役に立つのか、どう役に立つのかなど明確に説明できるはずはない。様々なことを勉強し、頭をフル回転させて考える中で、多様な思考法を身につけ、自ら勉強するためのスキルを磨いて行けるのではないか。そのことが「きっと役に立つだろう」とかなりの確信は持てるが、そんな漠然とした話をされて子供達が納得できることもないと思う。結局話は元に戻るが、子供に勉強をさせるためには「面白い」と思わせることが最も重要だし、少なくとも勉強することで何らかの満足感を感じさせる必要がある。勉強は大事である。子供達が勉強することを促して行かねばならない。しかし、勉強す「べき」だから勉強しろ、ではこちらの期待通りに子供が動いてくれることはなさそうである。
 食器の片付けが終わり、件の番組を見た時にはほとんど終わりかけであった。司会者が、議論の結果考えが変わったかどうか、どのようなことを考えたかという質問をしていた。子供達は素直に議論を通じて何を考えたかを語っていた。彼らは、大人の都合で企画された番組に引っ張り出されたのであっても、自分の考えを述べ、相手の主張に反論し、逆に相手の考えを理解し、新たな自分の考えを組み立て主張していた。恐らく、そうやって考え、答えを見つけようとし、見つけたと思ったらさらに分からないことが増えていたのだろう。もし彼らがその営みに面白さを感じたのであれば、それが勉強することの楽しさだと思う。そういう意味では、この討論会は教育的だったのだろう。
(以上で終わるつもりだったが、追記。僕は教育の専門家ではないものが教育を語ることには注意が必要だと考えている。言うまでもないが、この駄文も非専門家が客観的根拠なく述べたものである。正しいかどうかを検討する程の価値もない文章であると、言い訳がましく述べておく)

教師の専門性

https://www.facebook.com/amnesictatsu/posts/800126853338739 (2014/5/25) より転載

随分以前のことだが、DVの事例に関わったことがある。もちろん僕は、DVは全く専門外なので、単に一知人として関わっただけである。その際、ある教育畑出身の人が自分には口を出す資格があると主張し、教育行政の高い役職に就いた経歴をその理由に挙げた。僕はDVと教育行政がどうつながるのか理解できず、返す言葉がなかった。医学的な判断に口を挟もうとする教師も結構多い。患者の親に、薬を飲ませろとか飲ませるなとか、その診断は良いとか悪いとか意見する教師の話は、毎年何回か耳にする。
 これだけを述べると教師の万能感を揶揄しているようだが、全く逆の現象もある。発達障害の診療をしていると、教師から受ける質問で最も多いのではないかと感じるのは、「今後の指導法を教えてください。」というものだ。診断概念や薬物療法について解説を求めるのであれば理解できるが、教師が医者に指導法を聞いてどうするのだろうか、と首を捻る。行動障害に基づく深刻な問題に関する質問ならまだしも、発達障害児に限った話ではなかろうと思われる、どこの学校でも日常的に経験されそうな問題への対処法でさえ質問されることがある。
 つまり、教師と接していると、妙な万能感と妙な自信のなさの両方を強く感じてしまうのである。こういう例を何度も経験している中で、ひょっとすると教師には純粋に技術的な面での専門性の意識が希薄なのかもしれないと思う様になった。自分の能力で今可能なことは何で、限界はどこにあるのか。すぐに対応できなくても、どういう種類の問題に対しては専門家として解決策を追求出来るしするべきであるか。こういったことを明確に意識していないのではないだろうか。僕も教育系の大学で働いているので想像がつくのだが、教師に自分の専門性についての意識が全く無いとは思わない。理念的には「教師とはかくあるべし」という考え方をかなり叩き込まれているように見える。ただ、具体的な技術レベルの専門性という意識に乏しいのではなかろうか、という気がする。明確な根拠はないのだが。
 教育については様々な立場の人が好き放題に意見を述べ、批判をする。教員養成課程でのトレーニングを受けたこともない人々の多くが、教育に対して一家言持っている様に見える。ともすれば世の中の問題点の原因を教育に求め、政治家、経済人、小説家、その他様々な人達が寄ってたかって教育制度を作り替えようとするし、実際その影響を受けた教育政策の変更がなされる。教師に確固たる専門性の意識が乏しい様に見えるのは、世の中全体が教育に高いスキルや方法論が必要と思っていないことの結果ではないかと僕は疑っている。もし、素人には計り知れない高度な専門性を想定していたら、気軽に教育制度の中身に手を突っ込みかき回す気になれるはずが無い。この辺りの事情は保育とよく似ている。準保育士制度の提案が最近話題になったが、そこには保育なんて子育て経験があれば出来る出来る、という舐めた姿勢が見て取れる。
 教育にしても、保育にしても、その業務内容は極めて複雑であるし、日々想定外の事態への対処を求められる。常に一定レベル以上の成果を保障しようとすると、極めて高い知的レベルを要求されることになる。単にたくさんの知識を身に付けておけば対応できるものではなく、手元にある情報をフルに活用して総合的な判断を下し、次の一手を計画し、実行し、その結果を評価して方向を修正していく必要がある。つまり、職業的に教育に関わる以上、理念や倫理だけではなく、高レベルの技能や方法論を常に追求する必要があるはずだ。
 教育の理念や目的だけなら国民全体で議論するのも分かるが、少なくとも技術的な面はもっと教育学の専門家が自律的に物事を決めていける様にした方が良いのではないだろうか。そして、教育の方法論を模索するにあたっては、客観的なエビデンスに基づいて企画することや、新しい試みに対しては必ずその成果を客観的に検証することを重視する必要があると思う。これを保障するためには、教師以外の国民がもっと教育に対して謙虚になり、教師の専門性を尊重するようになる必要があるのではないかと思う。今の政治家の言動や世論を見ていると、先行き明るいとは思えないけれど。

大阪市教委のゼロトレランス

https://www.facebook.com/amnesictatsu/posts/796692373682187 (2014/5/19) より転載

「教育やしつけには厳しさも必要」とだけ書けば、特に反論もない。しかし、ここで言う「厳しさ」が非常に強い苦しみや恐怖心を子供に引き起こす処罰や叱責のことを意味するのであれば、それには疑問がある。行動学の知見を考慮すれば、効果の高い指導のポイントは言動とその結果生じることの対応の一貫性が高いことである。不適切な行動の結果として得することが決してない、あるいは常に損失(軽くても良い)が伴う。適切な行動の結果として必ず良い結果がついて来る。この行動と結果との対応の一貫性が効果的な学習につながるのである。一貫性さえあれば、通常の指導場面での不適切な行動に対して強い罰を加え本人に強い苦痛を与える必要はない。さらに、出来るだけ先回りして、不適切な行動を起こしやすくする環境を取り除き、好ましい行動が生じやすくなる環境を用意できると万全である。ただこのような指導の枠組みを堅固なものにするとき、むしろ指導者の方が苦しくなりがちであり、揺るぎのない強い意志が求められる。つまり、「厳しい」教育やしつけは指導者にとって厳しいのだ。
 強い苦痛を与える「厳しい罰」は一見即効性があるため、多くの指導者がこれに頼ろうとする。体罰でさえ、必要悪と主張する人は跡を絶たない。しかし、強い苦痛を与える罰が有効性に欠けることは多く指摘されている。一見その場では効果があるようでも、学習効果を長期的に維持できない。さらに、般化しないため別の場面(その指導者がいない状況)では同じ問題行動を繰り返しやすい。それだけではなく、負の感情的反応を伴いやすいので、攻撃行動をはじめとして様々な問題行動の増加を伴いやすい。これだけでも困ったもんだが、「厳しい罰」で子供を制御しようとする時に陥りがちな問題がある。それは、適切な振る舞い方が出来ない子供達には何らかの「出来ない」理由があるのだが、そこを無視しがちになるということである。基本的な原因を放置したまま不適切な行動に厳罰を下すという状況は、子供を八方ふさがりの状況に追い詰めていくことになる。
 大阪市の教育委員会が打ち出したゼロトレランスは、問題行動の結果としてどういうことが起こるかを明確にしたという点では理に適っている面もある。しかし、毎日新聞の報道( http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140518-00000013-mai-soci )に基づけば、それにも増して問題が多く、恐らく成功しないのではないかと思う。まず、行動と結果の対応の一貫性についてである。程度の強い問題行動を想定しているためと思うが、出席停止や退学処分など強い懲罰を並べている。要するに、厳罰処分である。これは使いにくい。罰を決定する教員側がその実行を躊躇する。なんとか実行しない様に理由付けを考えるため、一貫した罰の実行が難しくなる可能性がある。また、いよいよ他に考えようがなくなって厳罰を実行したとしても、これは繰り返しにくい。厳罰を実行するためには教員の精神的・実務上の負担が大きく、コストがかかるからである。しかも、出席停止ならまだしも、退学処分は一つの学校では1回しか実行できない。先に述べた様に、言動とその結果生じることの対応の一貫性が高いことが大変重要になる。実行しにくいし、繰り返しにくい罰は一貫性を担保できないので教育的成果につながらない。そればかりか、負の感情的反応を誘発し、多様な問題をさらに誘発する可能性がある。
 もっと問題なのは、問題行動が生じるメカニズムに対する対策を重視していないことだ。人間の問題行動は全く偶発的に生じることはほとんどない。そうせざるを得なくなる何らかの理由が、本人自身の能力や行動特性、そして環境の中にあるはずだ。そこに手を入れずに、生じた問題行動だけ叩いても、行動の改善はなかなか見込めない。分かりやすい例を挙げよう。飢えに悩まされる子供が店の食べ物を繰り返し盗むとき、その盗みに対する処罰だけを繰り返しても、まず解決はしない。飢えた子供に盗みを止めさせたければ、飢えている状況を改善することが最も効果的である。学校での問題行動を、そうせざるを得ない理由に目を向けぬまま、反省を強いることのみで解決しようとしても成功する可能性は極めて低い。問題行動への最も効果的な対応は、厳罰主義に頼るのではなく日常的に問題の目が小さいうちから合理的な対応をきめ細かくすることである。つまり、エビデンスを持った理屈を取り入れながら、教員のスキルを向上させていくという地道な努力が最も重要だと思う。やはり教育には(指導者に対する)「厳しさ」が必要なのである。
 最後に、上記の毎日新聞の記事には「問題行動を繰り返す生徒を集めた特別校の新設」が検討されていることにも言及されている。犯罪学が専門の浜井浩一さんは、現在留置場には老人や障害者など社会で暮らすことが困難な人が繰り返し戻って来る現状を示し、刑務所が社会の最後のセーフティネットになっていることを指摘している。通常の学校で上手く暮らせない子供に、そうならざるを得ない理由への対処を考えないままに特別校を新設すれば、浜井さんが指摘する刑務所とにた様な状況になりはすまいか。器用に暮らせない子供に、何とか社会で頑張って生きていくスキルを身につけさせないと、若くして社会から排除された状況が固定した人達を増やすことにならないだろうか。

選挙権

https://www.facebook.com/amnesictatsu/posts/795507333800691 (2014/5/17) より転載

国民投票法改正案が衆院を通過した。この法案が発効すると、4年後から憲法改正に関する投票権が18歳以上に引き下げられる。とは言え、年齢が引き下げられるのは憲法改正に関する投票だけで、その他の選挙に関してはなかなか変わりそうにない。選挙権を与える年齢を18歳に引き下げる案は随分昔から議論されている。世界中の国を見渡しても、圧倒的多数の国で18歳になれば選挙権が与えられる。しかし日本では実現しない。議員の利害関係という話もあるのだろうが、国民の少なからぬ数が反対している。色々理由があるのだろうが、18歳ではまだ人間として未成熟だ、大人と見なすには頼りなさ過ぎる、という考えが強いのではなかろうか。 確かに、自分の勤務する大学の学生を見ると、新入生である18歳の学生と、20歳以上の学生では明らかに振る舞いが異なっている。はっきり言って18歳、19歳あたりの学生(1年生や2年生)は幼い。言動が何かに付け子供っぽい。それに引き換え、20歳を超える学生達は大人っぽい。勿論、頼りなさが全くないかと言えばそんなことはない。しかし、明らかに1、2年生に比べて大人の雰囲気である。何か重要な仕事を任せるなら、迷わず20歳以上の学生達を選びたくなる。
 だから僕も選挙権を20歳以上にとどめたいと考えているかと言えば、そうではない。20歳の大学生が18歳の学生よりしっかりしているのは年齢固有の特徴ではないと推測している。単に上級生だから、あるいは下級生だから醸し出す雰囲気にすぎないと。小学校6年生は非常に大人っぽい。それに対して中学1年生の幼稚さは目を覆わんばかりである。20歳以上の「大人」でも似た様なもんである。職場の新人達が如何に頼りなく見えるか。管理職であっても、昇進間もなくの初々しさや頼りなさは、ほとんどの人に当てはまる。
 年齢が人を作る部分もあるかもしれないが、役割や立場が人を作るということの方が大きいのではないかと思う。大体自分やその周囲を見るとき、50歳を過ぎた人の愚かさはびっくりする程である。何歳になっても人間は完成しない。完成するどころか多少ましになった矢先にガタガタと愚かになることがとても多い。40歳、50歳と年を食ってきた人のほとんどは、現在の年齢の人間が自分が若い頃に思っていたよりも遥かに頼りないことを、何も出来ないことを実感しているのではないだろうか。中年になっても、初老になっても、子供の頃や若者の頃に思っていた程には人は成長できないのである。訳知り顔に見えたおじさんおばさん達も、実は分からないことだらけで、不安でいっぱいであることに、自分もその年になって初めて気がつくのである。
 10年、20年経っても人は大して成長できない。とすれば、18歳と20歳の差が如何程あるというのか。まだ幼いとか頼りないとか批判している暇があったら、選挙権という役割を与えれば良い。きっと立場や役割が人を作っていくのではないかと思う。選挙権を与えるということの、教育的な意義がきっとあると思う。

心の理論

https://www.facebook.com/amnesictatsu/posts/787877461230345 (2014/5/4) より転載

僕が大学生だった冬のある日、所属していた部活の部室に行くと半分以上中身のある一升瓶が置いてあった。これはラッキーと思いながらいそいそコップに注ぎ口に含んだところ、何かがおかしい。慌てて吐き出した。その液体は灯油だったのである。アホと言えばアホなエピソードである。しかし、ここには人の行動が何によってもたらされるかが端的に示されている。何故、僕が一升瓶の中の液体を飲むという行動を起こしたかといえば、僕が「その液体は日本酒である、旨い日本酒である」と確信したからである。客観的事実として瓶の中身が素晴らしいものであったからではない。人の行動の根拠はその人の心の状態の中にある。すなわち、人は自分が確信している事や願っている事に基づいて行動するのであり、現実世界の客観的事実を根拠に行動する訳ではない。
 心の状態と行動の密接な関係が理解できていれば、他者の行動を見てその裏にある意図や気持ち(心の状態)を推測できるし、人の心の状態を知る事が出来ればその人の次の行動を予測する事が可能となる。人の心の状態を推測することは複雑な営みである。まず、他人が自分とは違う信念や願いを持っているということを理解できることが大前提である。そして、状況の推移やその場に居合わせる人達の互いの関係性などの文脈をふまえた上で、人の行動、表情、発言を総合的に考慮して、相手の意図、信念、願いなどの心の状態を推測する。そして推測した心の状態を手がかりに、人の次の行動を予測する。このような、他人が自分とは違う信念や願いを持っているということを認識し、人の行動はそれらの信念や願いで説明できることを認識する能力を「心の理論」と呼ぶ。こうやって説明するとややこしいが、多くの人は無意識に、かつ瞬時にこういう作業をやってのける。そのため、人の気持ちを推測する事は誰にでも出来る当たり前の事と思われがちだが、実は上述の様にかなり複雑で高度な作業である。2、3歳の幼児ではこういった能力はまだ発達していない。幼児期を過ぎても「心の理論」が十分に発達しない状態や、後天的に「心の理論」が障害される状態もある。
 「心の理論」という概念が注目される様になったきっかけは、1980年代にバロン=コーエンが自閉症児は「心の理論」が障害されている事を示したことである。自閉症という状態が何故生じるのか。この疑問に認知心理学や神経心理学の立場からの説明が色々されているが、その中で最も多くの人に知られているものは「心の理論」障害仮説だと思う。「心の理論」能力を評価する方法は色々あるが、バロン=コーエンが最初に用いた方法は「誤信念課題」と呼ばれるものであった。これは被験者にまず、人形劇で女の子がビー玉を籠にしまい、続いてその女の子が知らない間に別の人がビー玉を籠から取り出して箱の中にしまったという状況を見せる。そして、その女の子がビー玉で遊ぼうと思った時に籠と箱のどちらを探すか、という問いに答えさせるという課題である。状況の推移から女の子はビー玉が籠の中にあると確信しており(誤信念)、まず籠を探そうとすることを瞬時に判断することが求められる。この課題は、平均的な発達をする子供では4、5歳くらいで通過する。ところが自閉症児では、知的障害がなくても、8歳になっていても、女の子は箱を探すと答えることが多かった。「だって、ビー玉は箱の中にあるから」つまり、自閉症児は心の状態を手がかりに人の行動を予測することに困難さがあるのだ。「心の理論」の障害は、自閉症児の社会での困りどころをかなり良く説明できるため、この考え方は多くの研究者や臨床家に広まることになった。
 レスリーとフリスは「心の理論」を発達させるための基盤として、「メタ表象」能力の重要性を説いている。これは、「認識している」ことや「感じている」ことや「考えている」ことを認識する能力である。心の状態がどうなっているのかを認識する機構である。ここには他人の心の認識だけではなく、自分の心の状態を認識することも含まれている。具体的には、「彼は怒っているな」とか「彼女は好意を持っているな」ということや、「僕は辛い」とか「僕はこのことを喜んでいる」といったことを認識することである。自閉症児では「心の理論」障害があるということは「メタ表象」の弱さもあるということになる。よく自閉症は他者の気持ちが理解しにくい状態と説明されるが、実は自分の気持ちを対象化することも苦手である。そのためか、かなり言語能力が優れた自閉症児でも、「僕は悲しい」、「私は悔しい」、「助けて欲しい」などと自分の気持ちを表現することが苦手な人が多い。
 それにしても、「心の理論」という名称は分かりにくい。何しろ「理論」だから、学者が考えた何かの学説のことの様に思えてしまう。もとの英語は”Theory of mind”である。改めて辞書を引くと、theoryには「理論、学説」という意味の他、「推測、憶測」という訳語も並んでいる。ひょっとしたら、英語圏の人は「心の推測」程度の意味でこの用語を作ったのかもしれない。
 最後に、灯油を口に含むことは止めておいた方が良いことを付け加えておく。飲み込まずにすぐに吐き出し、水で厳重に口を濯いでも、その後一週間以上にわたって灯油の臭いがするという極めて不愉快な状況になる。

モニタリング

https://www.facebook.com/amnesictatsu/posts/786692048015553 (2014/5/2) より転載

 僕は人の言葉を聞き取りにくく、会話の最中によく聞き直す。そういう時、今言った台詞をもう一度はっきりと言ってくれるとありがたい。しかし、ある知人は十中八九同じ台詞を繰り返してくれない。今言った言葉の補足説明をしようとしたり、酷い時は多少関連した別の話題を話し出したりする。発端の台詞を聞き取れていないのにそこから発展した話をされても、こちらとしては益々状況を把握できなくなる。最初の頃、イライラしながら「同じ事をもう一回言って。」と頼んでいたのだが、益々話が拡散して訳が分からなくなることが繰り返された。
 次第に分かってきたのだが、その知人に全く悪気はなく、たった今自分が言った言葉を本当に思い出せないらしいのである。僕は、今言った事を繰り返し言える事は当たり前だと思っていたのでなかなかその事実が信じられなかった。しかし、同じ様ないざこざを繰り返しているうちに、本当にその人には難しいのだという事が納得できだした。この発見を契機に、実は同じ様な人、つまり今言ったばかりの台詞を繰り返せない人は他にも結構いる事も発見した。この発見に感動するあまり、今言ったばかりの台詞を思い出せるかどうかを評価する心理検査を開発するという課題を学生実習で出して遊んでしまったこともある。
 今、現在、自分は何を言っているのか、自分は何をしているのかを把握する認知能力はモニタリングと呼ばれる。様々な、新しい予想外の事態に対処する時に活用される認知能力を実行機能と呼ぶが、モニタリングは実行機能の一要素である。予想外の新しい事態に対処するためには、常に自分の言動を意識し、その言動がどういう状況で行われているのかを自覚し、自分の言動がもたらした結果を把握しながら次の行動を計画・調節していく必要がある。自分は今何をしているのかを客観的に意識できるかどうかは、日常生活において結構大事である。
 この問題が顕著に現れるのは自閉症児である。自閉症児は自分の行動を客観的に認識できていないことから自分の失敗に気付かなかったり、振る舞い方を修正できなかったりする場面が結構ある。といって、件の知人にも大きな問題が日々生じている訳ではない。僕から文句を言われる以外には取り立てて日常困る問題はない。その知人以外にも、同じ台詞を繰り返すことは苦手だけど日常何ら問題なく暮らしている人を、今では多く知っている。恐らく自閉症児の場合はモニタリング障害単独の結果というよりも、併存する他の実行機能の要素の問題や、実行機能以外の問題との相互作用によりモニタリングの障害が大きな影響を持つのではないかと思う。
 なお、「知人」はこの話を書くために想定した架空の人物である。僕の家族の誰かとか、ましてや奥さんだとか、そういうことではない。

「頑張り」「我慢」

https://www.facebook.com/amnesictatsu/posts/780709925280432 (2014/4/23) より転載

 落ち着きが無かったり、衝動的であったり、何らかのハンディを背負い学校や幼稚園に適応できない子供達が耳に胼胝ができるくらい耳にするのは「頑張ろう」であったり「我慢しなさい」である。そのような子供達を診療する身としてはこの手の話をいっぱい聞くので、僕の耳も胼胝だらけである。
 長時間座っていられなかったり、順番を友達に譲れなかったり、うっかり失敗して叱られたことを翌日にも繰り返してしまったりする子供達は、見た目には怪しからん奴らなのである。クラスの多くの同級生がきちんとできていることが出来ないのであるから、どう考えても我慢が足りなかったり人並みに頑張らなかったりする不届きな奴らなのである。
 ん、そうなのか?
 彼らは計画的にさぼったり、人を苦しめるという目的に向かって邁進したりしているのだろうか?
 そんな事は無いだろう。わざわざ悪者になりたい子供なんてほとんど存在しない。ほとんどの子供はそれぞれが人に誇れる自分でありたいのだ。それが証拠に、就学直前の子供達に「小学校に行ったら何をするの?」と尋ねると、性別や障害の有無には関係なく口を揃えて「勉強!」と嬉しそうに答える。ほとんどの子供達は世間で良いとされている振る舞いを、自分もしようと考えている。
 失敗を繰り返す子供達は頑張っているし、我慢しているのである。そしてそれが限界に達するから、破綻を来すのである。自分の限界まで頑張り、限界まで我慢する子供達。何といじらしいではないか。きちんと勉強し、人のことを思いやり、先生の指示によく従う子供達は、さほど頑張ってもいなければ我慢もしていない。何となれば、そういう子供達にとっては要求されていることが余裕を持って能力の範囲内に収まっているからである。しかし人は通常、何を成し遂げたかという外から見えることだけで物事を判断する。教師も例外ではない。従って、やすやすと物事をこなしている子供が「頑張る子」とか「我慢する子」と評価されることになる。教育者は「成果主義」を批判しがちなのに、奇妙な現象である。そして自分の限界まで頑張り我慢した子供達はどうなるかと言えば、「もっと頑張ろう」、「もう少し我慢しよう」と指導されることになる。
 限界まで頑張っている人にもっと頑張らせよう、もっと我慢させようとすることは、かなり残酷なことである。徹夜続きの残業でフラフラになっている社員が、業績が上がらないのは君の頑張りが足りないせいだと言われたらどうだろう。あるいは、足に麻痺がある人が50m走りきれない時、君は我慢が出来ない人だねと言われたらどうだろう。無理なことをやれと言われ続けたとき、その結果として挫折の山が積み上がっていくだけである。失敗を繰り返す子供達の指導として、さらに頑張らせ、さらに我慢させることを中心に据えることは全く合理的ではない。要求水準を下げ、課題を達成する経験を増やすことの方が先決である。

発達障害児とクラス担任

https://www.facebook.com/amnesictatsu/posts/774248375926587 (2014/4/12) より転載

平均的な子供でもそうだろうが、特に発達障害児は学校の担任が変わった事で日常の生活状態が良くも悪くも大きく変わる事が多い。発達障害児の診療をしていると珍しい話ではないが、特にここ1、2ヶ月の間に、担任がらみで状態が大きく変化した似た様なケースを複数経験した。全員共通した状況は、家では親が困る事はあまりない。学校では、ある学年までは取り立てて大きく問題になるエピソードは無かった。しかし、問題の学年になってから授業中に不適切な言動が頻回に見られたり、学習に取り組もうとしなかったり、同級生とのけんかが増えたりし、困って病院を受診したという状況である。そこで改めて評価すると、大きな問題にならなかったものの集中力の悪さや多動傾向、あるいは対人関係の作り方の拙さが幼少期から認められていた事が確認された。中には、問題の多かった時期からさらに学年が上がって担任も変わった後は急速に落ち着き、受診時には直ちに対処せねばならない大きな問題が無い子供もいた。
 まるで、応用行動分析で言うところのAB、あるいはABAデザインの様な状況である。具体的にどこがどう上手くいかなかったのかはもっと詳細な情報を得ないと不明だが、少なくとも特定の担任という「介入」がこれらの子供達に取って悪条件になった可能性は極めて高い。僕の主観的な印象だが、こういうケースでの担任は個々の失敗を一々取り上げ、子供を(ついでに家族を)追い詰めていくタイプが多い気がする。危ういバランスながらがんばって上手く暮らせていた子供が、たまたま担任との組み合わせが悪かったために適応できなくなったのかもしれないのである。小児期に自己評価が大きく低下する体験は、下手をすれば一生尾を引くかもしれず、運が悪かったで済ませるわけにはいかない。一方、指導に失敗した担任にとっても不幸な状況のはずである。
 よく言われる担任の「当たり外れ」の話をしたいのではない。先に挙げた様な状況では、ABデザインの様なしゃれた言い方をするまでもなく、誰が見ても何らかの意味で担任のやり方がその子供と合っていない可能性が高い事は分かると思う。ある学年で問題が頻発すれば、では、今までの学年ではどうであったのか、家庭ではどう認識されているのか、という風に検討を進めれば、今の指導に工夫をする余地があるかもしれないと気づくはずである。ならばどうしてその子供と担任を支える動きが起きなかったのだろうか。
 学校の内部の状況をよく知らないと、こういった現象が放置されていたメカニズムを分析できない。ここでは疑問点だけを羅列しておく。まず、つまづいた子供と担任をカバーするためのシステムが学校にはあるのだろうか。例えば、問題事例が報告されたら、第三者の教員が過去の状況や家庭での状況を含め、広範な情報を直ちに調査する制度など。次に、倫理的な問題ではなく業務のパフォーマンスの問題とした認識は出来ているのだろうか。倫理的な観点で見た時、発達障害児が引き起こす問題は「悪いこと」である事が多いので、担任側に改善すべき要素があるという話になりにくい。最後に、教育業界には何か問題がある時によりよい状況を得るために合理的な戦略を考えるよりも、問題が生じる責任を問う風土が無いだろうか。責任を問う文化では、当事者は他に助けを求めにくく抱え込む事になりやすいと思う。

自閉症関連の診断名

https://www.facebook.com/amnesictatsu/posts/766465840038174 (2014/3/28) より転載

自閉症がらみの用語が多くて、親や教師・保育士が混乱している事がよくある。DSM5になって、「自閉症スペクトラム」が加わったものだから、さらに「???」となる人が増えそう。ちょっと自閉症の歴史を付け焼き刃でまとめてみた。
 1943年にアメリカでカナーが人との情緒的触れ合いの根本的欠如と変化への強い抵抗を示す11人の子供達を「早期幼児自閉症」として報告した。翌1944年にオーストリアのアスペルガーがカナーの症例と類似した特徴を持つ患者を「自閉的精神病質」として報告した。以後、社会性の障害を特徴とする様々な概念が色々な研究者によって提唱された。1970年代にウィングとグールドがイギリスのキャンバーウェル地区の調査で、カナーやアスペルガーが定義した様な患者以外にも、様々なレベルの自閉症的な特徴を持つ子供が存在していることを見出した。その子供達は共通して、社会的相互作用の障害、コミュニケーションの障害、想像的活動の障害および反復的な行動パターンを示していた。ウィングとグールドは、カナー型やアスペルガー型の子供も含めて広く連続的な概念として「自閉症スペクトラム」と名付けた。
 一方、1987年のアメリカ精神医学会の精神障害の診断と統計の手引き第3版改訂版(DSM-III-R)および1994年に発行された第4版(DSM-IV)において、自閉症スペクトラムとほぼ同じ意味で「広汎性発達障害」という診断名が採用され、これが世界中に普及した。広汎性発達障害はウィングらの自閉症スペクトラムの考え方の影響を受けたものだが、大きな違いとして、広汎性発達障害の名の下に「自閉性障害」、「レット障害」、「小児期崩壊性障害」、「アスペルガー障害」、「特定不能の広汎性発達障害」の5つの下位カテゴリーが区別されていた。しかし、レット障害は特定の遺伝子異常で生じる特殊な疾患であることが判明したし、他の4病型の境界は明確ではないという問題点があった。2013年にDSMは第5版(DSM5)に改訂されたが、広汎性発達障害からレット障害が除外され、残りの4つの下位カテゴリーの区別も廃止されて連続的な概念となった。さらに、広汎性発達障害という名称も自閉症スペクトラムに変更された。
 以上の様な経緯があるため、世間には自閉症スペクトラムに関係した多くの用語が存在する。特に、「広汎性発達障害」、「自閉性障害・自閉症」、「アスペルガー障害」、「特定不能の広汎性発達障害」という言葉を耳にすることが多いのではないかと思うが、患者家族や教師・保育士の立場では、全て自閉症スペクトラムと同じ意味だと割り切っても、実質的な問題は無いと思う。

教訓話

https://www.facebook.com/amnesictatsu/posts/762349703783121 (2014/3/21) より転載

大学に入学予定の高校生達が書いた感想文を読んでいる。課題図書は言語発達のメカニズムを解説したものなのに、やたらと将来への教訓話に押し込めてしまう人が多い。知的に面白がるだけで良いではないかとむかっ腹を立てながら、学生達にコメントを書いた。

追記(2015/6/8):学生に読んでもらった課題図書は下記のものである。
今井むつみ「ことばの発達の謎を解く」筑摩書房、2013

【この文章は、私が担当した方々全員に書いています。
 「言葉の発達の謎を解く」という本はどのように人が言葉を獲得していくのだろうかということについて書かれています。皆さんも読んで気付かれたと思いますが、既に十二分に分かっていることを教科書の様に解説している本ではありません。言語発達のことを調べている研究者達が、一つ一つ小さな問いを立て(例:何を手がかりに音節を区別するのか、固有名詞と普通名詞をどのように区別するのか、etc.)、そしてそれを明らかにするために様々な手段を工夫し、その結果あくまで仮説ではあるけれど問いに対する答えを見出して行く、その過程を出来るだけ具体的に分かりやすく解説しているのです。
 皆さんはこの本を真面目に読み、感じたことや考えたことを率直に文章にしてくれました。そのことは高く評価します。ただ、皆さんの原稿を読んで少し引っかかるところもありました。それは、「保育士になった時にはこの本から得た知識を生かして〜」というふうに、この本から何らかの教訓を得ようとされている人が多かったからです。どのようなことでもそれを自分の将来への教訓とすることは悪いことではありません。しかし、いつもいつもそのように物事を教訓として受け止めていると息が詰まります。新しいことを理解することや、謎を解明する筋道の目撃者となることは、それ自体で大変魅力的なことです。物事を明らかにすることの面白さの前では、現実的な教訓や利得は小さなことです。
 皆さんは4月から大学生になります。大学での学びの目標は色々あります。保育士や教師の資格を得ることもその一つだと思います。しかし、もっと重要なことがあります。それは、複雑な現象の中からいったい何が問題なのかと自ら問いを立てる力や、その問いに対して自ら解決法を探る力を身に付けるための基礎となる「教養」を身につけることです。すなわち、学問をするための基礎的なトレーニングをすることです(「学問」は「問うて学ぶ」と書きます)。現実社会では、当然保育や教育の現場では、次々と新しい問題が持ち上がります。それを解決して行く時に表面的な知識やハウツー的な対処法を数多く頭に入れておいても限界があります。保育や教育は極めて知的な仕事なのです。経験したことが無い問題が生じた時に最も重要なことは、混沌とした状況を整理し、自ら問いを設定出来る力です。問いを設定することが出来ると解決法は目前に有ることが多いものです。
 「言葉の発達の謎を解く」のような学術研究の成果を解説した本を読むときには、研究者達がどのような問いを立てどのような解決法を工夫したかを理解し、さらには自分でも新たな疑問や問いを設定することを楽しんでもらいたいと思います。そのような読書法は自ら問いを設定し解決法を探す力を身につけることにきっと役に立つと思います。】

自閉症と環境

https://www.facebook.com/amnesictatsu/posts/761415987209826 (2014/3/19) より転載

古くから自閉症の成因として環境の関与に関する様々な説が唱えられ、多くは否定されて来た。最近、エピジェネティクスという考え方が導入され、自閉症と環境の関係は新たな局面を迎えている様に思う。エピジェネティクスとは、DNA配列に変化が無くても環境の影響などによって遺伝子発現が起こったり起こらなかったりする現象である。このムーヴメントに乗っかって、過去の「冷蔵庫マザー」のような言説を蒸し返す人が出てこないかということが少し心配だが、自閉症発症過程の解明が少しでも進展する可能性が出ることは喜ばしい。
 ところで、エピジェネティクスが何らかの役割を果たすとすれば、成長過程の何時のことだろうか。出生時には脳はかなり完成型に近づいていることや、現在2歳には自閉症の診断が概ね可能となっていることを併せて考えると、胎生期、遅くとも生後1、2年以内に関与しているのではないだろうか。
 疫学調査で自閉症の有病率が世界的に増加していることについて、エピジェネティクスで説明できるのではないかと述べる人がいる。しかし、僕はどうも信じる気になれない。ほんの10年、20年の間に、自閉症の有病率が2倍にも3倍にも増えているのである。胎生期から生後1、2年までの間にエピジェネティクスのスイッチを「ON」する環境と言えば心理文化的な要因よりも化学物質などの物理的要因の方が考えやすいが、こんなに短期間に特殊な環境物質の影響が激増するのだろうかと考えると、にわかには信じがたい。日本でいえば高度成長時代の方が余程怪しげな物質にあふれていたのではないだろうか。勿論、自閉症の増加の一部をエピジェネティクスで説明できる可能性はある。ただ、この極端な増加の大半をエピジェネティクスで説明できるとは思えないのだ。
 客観的根拠のない個人的想像だが、個人が自閉症的傾向をどの程度持っているかという分布は年月を経ても大きく変わらないのではないだろうか。そして、変わったのはどの程度自閉症的傾向が強い人まで社会が許容できるかということではないだろうか。自閉症の有病率が高い地域程、「変わり者」を受け入れる余裕がなくなっている可能性は無いだろうか。本田秀夫先生は「自閉症スペクトラム」と「自閉症スペクトラム障害」という言葉を区別している。前者は単に自閉症の特徴を持っている人達である。そして、生活の支障が大きくなり、福祉的支援が必要となった人達が「障害」となる、と彼は主張する。杉山登志郎先生は認知に高い峯と低い谷の両者を持つ人々を発達凸凹と呼び、発達凸凹に適応障害が加算されたグループが発達障害ではないかと考えている。多少意味合いは違うが、いずれも素因として自閉的特性を持つということと、「障害」となることを区別した考え方である。この、「障害」になるかならないかの閾値が低いか高いかは、その社会の住み易さや息苦しさの程度を反映しているのではないかという気がする。

医師の説明

https://www.facebook.com/amnesictatsu/posts/759898427361582 (2014/3/16) より転載

臨床医は説明するという事が仕事の中で重要なポイントである。自閉症診療においても説明する事は重要である。これは当たり前のようで、必ずしもそうではなかった。20年くらい前だろうか、何か小児科関係の研究会で自閉症の診療をしている医師の講演があった。その医師は「どのように自閉症を診断すれば良いのか分からない」というフロアからの質問に対して「分かる人には分かる様になります」との返答をしていた事が印象に残っている。自閉症という言葉は誰もが知っているが、広汎性発達障害という言葉はやっと広まり出した頃である。もう少し最近になって耳にした噂話。古くから地域で自閉症診療を担ってきた精神科医に小児科医が教えを乞うた時、「言語化できない」と言って相手にしなかったと聞いた事がある。
 彼らの気持ちは分からなくもない。何しろ自閉症は結構曖昧な概念である。現在診断のよりどころとなるDSMやICDでは比較的明確な基準が示されている。とは言え、実際の子供の行動が診断基準に当てはまるかどうかは結構判断が難しいし、診断基準に記載されていない自閉症の特徴も多い。DSMやICDの診断基準が流布する以前であればさらに事は曖昧であった。しかし、臨床医は説明せねばならないと思う。勿論何もかも説明する事は出来ない。しかし、どこまで言語で説明できるのかをぎりぎりまで検討すべきである。その上で、自分の出した結論を可能な限り説明し、合わせて何に付いては説明しきれないかまで説明すべきである。どのような事であっても(一目惚れをした相手にどういう感情を持ったか、という事さえ)かなりのレベルで言語により説明できるはずである。「世の中には口で説明できない事がある」という台詞は、可能なところを説明しきった後でこそ生きてくると思う。カナーもアスペルガーも、そうやって自分の経験した興味深い子供達をなんとか言語記録に残そうと努力したのだと思う。
 医師は一般人には認められない事を実行する事が許されている。切ったり刺したり化学物質を飲ませたり。そういう物理的な振る舞いをしない時でも、人の人生を大きく左右するかもしれない立場にある。そういう事を考慮すると、自分の判断や行動を患者、患者の家族、政府・自治体、世間に必要とあらばいつでも最大限説明する事が求められている。

価値感に忠実な心理学と雑食性の医学

https://www.facebook.com/amnesictatsu/posts/745161385501953 (2014/2/20) より転載

ジョン・O・クーパーらの「応用行動分析学」という巨大な本を手に入れた。通して読む気はさらさらないが、総論だけでもと思いぼちぼち読んでいる。読んでいて気づいたのだが、現在においても行動学の研究者は、あくまで行動学の立場に忠実であろうとしている。
 同僚の若くて優秀な認知心理学者と雑談している時にこの経験を話題にし、心理学者は自分が属している学派に忠実であることに改めて気がついた旨を伝えた。彼女はそのことに同意しつつ、行動学をしている人は非常に肩身が狭いことや、フロイトやユングを取り上げる人など風前の灯ではないかといったことを話してくれた。どうも彼女自身も自分の立場に忠実らしい。
 しかし、それほど立場をクリアに分けるのも不思議な感じがする。臨床心理学領域はさておき、客観的なデータに基づいて論を組み立てる心理学分野であれば、実際の実験系は行動学とさして変わらないのではないか。例えば、作業記憶という構成概念を前提にし、前頭葉に磁気刺激を与えて作業記憶が改善するかどうかを検討したとする。研究者に観察可能なものは作業記憶能力そのものではなく、数唱なり、n-back課題なり、作業記憶を反映すると考えられる課題での反応だけである。この実験の場合オペラント行動への介入のトピックである事後刺激への介入ではなく、事前事象への介入を検討していることにはなるが、観察しているものはあくまで行動である。恐らく行動分析学が積み上げてきた考え方は生かされているだろうし、逆に行動分析学の研究者であれば興味のままに研究を進めているうちにこういう方面へと進出する人がいても自然である。渾然一体となって学問が進歩しそうなものと思いたくなるのだが、実際には自分がよって立つ立場というものを強固に守っているらしい。
 日常的な問題(障害児の指導など)への介入が対象なのか、より細かい心理的事象の機序を解明したいのか、研究対象によって適切な手法を用いれば良いだけの様に思うのだが、どうも心理学者達はそういう考えにはならないらしい。心理学者の精神性は非常に価値観に忠実なのかもしれない。一方、臨床医学などやっていると、事象を説明でき、問題解決に役に立つものであれば何でも利用すれば良いと思ってしまう。そういう風に考えると医学者は損得勘定を第一に考える雑食性と言えるかもしれない。うーん、心理学者の方が格好いいけど、医学畑の方がお気楽で良かったとも思う。

発達障害は程度問題 -- 尺度的診断

https://www.facebook.com/amnesictatsu/posts/740086226009469 (2014/2/11) より転載

「発達障害は程度問題 -- 尺度的診断」
病院で受ける診断は、何らかの診断カテゴリーに当てはまるか否か、白黒はっきり付けることが普通である。「はしか」なのか「はしか」でないのか、「胃潰瘍」なのか「胃潰瘍」ではないのか。今現在この瞬間に世界中の人は2種類に分けられる。はしかに罹患している人と、そうではない人である。多くの人は病院の診断というものはそういうものだと思っているし、医師も基本的には明確な診断を目指す。
 しかし、意外に物事は単純ではない。胃炎と胃潰瘍の境界はどこにあるのか、前癌状態と癌の境目はどこなのか、気管支炎と肺炎はどう区別するのか、結構曖昧なことは多い。そういう場合、医療側としては定義をより精緻で明確なものに作り替えたり、中間的なカテゴリーを設定したりして、曖昧な領域をできるだけ減らそうとする。そうは言っても、ものによってはすっきりしないところが多く残される。特に、「健康」と「疾病」の関係に不連続性が乏しい場合にすっきりしない状況になる。分かりやすい例では、低身長や近視がある。それぞれ一応の基準がある。しかし、身長が1cm異なっても、視力が0.1異なっても、実質的な差はない。どうしてもその診断には不自然さ、「無理矢理感」が残る。
 発達障害に含まれる様々な状態も、こういった無理矢理感がつきまとう。何しろ、落ち着きがなかったり、気が散りやすかったり、人付き合いが下手だったり、細かいことにこだわりやすかったり、本を読むのが下手だったりする人達である。多少なりともこういった要素を持っている人は、世の中に五万といる。おっちょこちょいで落ち着きがない人に「注意欠陥/多動性障害」という診断をしようと思っても、どちらかと言えばおっちょこちょいの人から驚天動地と言っても良いくらい酷くおっちょこちょいの人まで、そのバリエーションは無限にある。いったいどこで線引きすれば良いのか。現在病院では一見明確そうに診断しているが、実際は全く明確ではないのである。しかも、純粋な注意欠陥/多動性障害や純粋な自閉症と言える人は少数派で、発達障害を持つ多くの人は別の発達障害病型や、二次障害を併せ持つので、事態は極めて複雑である。
 上に述べたように、医学診断は何らかのカテゴリーに当てはまるかどうかを判断することが原則である(カテゴリー的診断)。しかし、医学診断には別の概念もある。尺度的診断(dimensional diagonosis、「次元的診断」と訳す方が適切かもしれない)である。尺度的診断では疾病、あるいは障害の基本的な構成要素一つ一つを連続的な量として評価する。例えば、注意欠陥/多動性障害なら「不注意」と「多動性ー衝動性」という要素それぞれの程度を評価するのである。DSM-IVの「広汎性発達障害」からDSM5の「自閉症スペクトラム」への移行にあたっては、尺度的診断の考え方がかなり導入されている。
 尺度的診断はカテゴリー的診断に比べて、一人一人の状態を個別に評価するので、実態を反映しやすい。「注意欠陥/多動性障害」なり「自閉症スペクトラム」なりの単なる名前よりも、具体的な援助の種類や程度を計画しやすい。病院の医師の役割としては、診断書を発行することや、何らかの治療法を適用するかどうかを決定せねばならないので、最終的にはカテゴリー化せざるを得ない面がある。しかし、教育や福祉に携わる人達は一人一人の複雑な状況を考慮した取り組みを求められる。そういう時に、病院で何らかの診断がついたかつかなかったかということよりも、自分で様々な側面の「程度」を評価することができれば、随分援助しやすくなると思う。

発達障害は程度問題

https://www.facebook.com/amnesictatsu/posts/726923840659041 (2014/1/19) より転載

発達障害は程度問題であるということをここ最近、と言っても5年以上になるが、よく考える。ここで言う「発達障害」は発達障害者支援法で規定されている意味での発達障害である。発達障害には様々な状態が含まれるのだが、その最も中心となる病型は学習障害、広汎性発達障害および注意欠陥多動性障害の三つである。
 学習障害とは知的障害が無いにもかかわらず、文字の読み書きあるいは計算能力が十分ではないために学業に支障を来たしている状態である。知的能力は高いし家庭や学校環境にも大きな問題がないにも関わらず、文字が読めないとか計算ができないといった状態にある。こう言うと全く文字が読めないとか、一桁の数さえ数えられないとかいったイメージがわくかもしれないが、実際はかなり異なっている。文字を読むことに困難さがある学習障害(ディスレクシアとも言う)の子供は学年が上がれば結構読めるようになる。ただ流暢に読めなかったり、一見スラスラ読めているようでも読み方が遅く本人はかなり努力していたりする。そのため文章の内容理解が悪くなる。計算障害にしてもいつまでたっても一桁の足し算もできないようなことはなく、簡単な加減乗除ならなんとかできるようになることが普通である。しかし、計算を間違い易いし、計算することにかなり苦痛を伴う。その困難さの程度は個人個人で異なっており、生活が著しく妨げられるくらいの人もいれば、その困難さを本人が自覚できるかどうか微妙な程度の人もいる。
 広汎性発達障害は、現在は自閉症スペクトラム(Autism spectrum disorder; ASD)という名前に移行しつつある。ASDは二つの行動特徴から規定されている。第一はコミュニケーションや社会的相互作用の障害である。もう一つの特徴は限定的で反復的な行動、興味、活動である。コミュニケーションや社会的相互作用の障害が具体的にどうのように現れるかといえば、年齢相応の友達関係を築けない、人の身振りや表情の意味が理解しにくい、誰に相手をされなくても長時間一人で活動して苦にならない、人と会話が続かない、会話が噛み合わない、言葉の裏にある意味が読み取れず冗談を真に受けたり皮肉が理解できなかったりする、といった状況が観察される。二番目の特徴である限定的で反復的な行動、興味、活動では、特定の活動に熱中し繰り返し行ったり、変化を嫌ってスケジュールや物の配置など常に同じであることにこだわったりする。また、非常に細部に注目し、その正確さにこだわったりもする。音や肌触りなど特定の感覚刺激に対する過剰な敏感さや鈍感さを示すなど、感覚刺激に対する反応の奇妙さが見られやすいことも二番目の特徴の要素である。二つの行動特徴のいずれにおいても日常どのように表現されるかやその程度は人によって様々である。
 先に述べたように、文字を読むことが苦手な学習障害の人であっても、その苦手さの程度は人それぞれである。一方、学習障害ではない人の文字を読む能力は一定かと言えばそんなことはなく、個人個人で速く読める人、ゆっくり読む人、読み間違いの少ない人、読み間違いが多い人など人それぞれである。比較的読字能力が高い学習障害のある人と、比較的読むことが苦手な「健常者」はどの位違いがあるのだろう。実は、両者の間に明瞭な線を引くことはできない。シェイウィッツという学者は膨大な数の子供達の読字能力を測定した研究を報告しているが、読字能力の分布は平均点付近で最も人数が多く、能力の高い方と低い方に向けてなだらかに人数が減るような分布であった。「学習障害」あるいは「読字障害」と呼べる特殊な集団がいるのではなく、なだらかに分布する読字能力の低い裾野の人達が「学習障害」の正体である。
 ASDについても同じようなことが言える。ASDの特徴をどの程度持っているかを評価するための質問紙がいくつか作成されている。当然ASDの診断を受けている人達の評価得点は総じて高く、診断を受けたことの無い人達の得点はASDを伴う人達よりも全体としては低い。しかしそれぞれの分布は重なりが大きい。つまり、自閉症スペクトラムと名付けられる特殊な一群がいるというよりも、人間の行動特性の一要素として自閉症的な特徴がとても弱い人からとても強い人まで連続的に分布していると考えられる。そして、自閉症的な特徴の強い人達が何らかの理由で生活に困難を生じ出した時に「自閉症スペクトラム」と診断される様なのである。
 このことは注意欠陥多動性障害でも同じである。注意欠陥多動性障害は日常的な言葉で説明すれば、落ち着きが無く、悪気無く考えなしの言動をつい取ってしまい、気が散りやすく、うっかり屋さんでぼんやり屋さんで無くしものや忘れ物の多い人達である。こういった特徴を並べた時に、ほとんどの人は多少なりとも自分の中に同じ要素を見つけることが出来るのではなかろうか。失言したことの無い人もうっかりミスをしたことの無い人もほとんどいないだろう。忘れ物や無くしものが日常茶飯事という人もいるだろう。大概の人は多少はもっている要素ばかりである。しかし、その程度がだんだんひどくなれば、いつかは生活に支障を来すことも想像に難くない。生活に支障を来すようになり、なおかつ本人のみの力ではそれをカバーすることが難しくなった状態が注意欠陥多動性障害である。
 「〜障害」という診断が付けられるとまるで「健常」とははっきりと異なる特殊な人のように思えてしまう。しかし、実際には診断された人であってもその特性の程度は人それぞれだし、診断されていない人であったも様々な程度でそれぞれの特性を持っている。しかも診断するかどうかの境目は極めて曖昧である。それは典型的な「発達障害」を有する人からごく平均的な発達をした人に至るまで、その間には様々な程度の人が存在し、「障害」と「非障害」の間は極めて連続的なものだからである。
 さらにややこしいことに、障害か否かを決める時には生活する上で「困る」か否かが根拠となる。同じ様な行動特性を持っていても、その人の環境との組み合わせによって困るかどうかが違ってくる。人との付き合いが下手な人でも、誰から非難されることも無く、本人も満足に暮らしていれば障害ではない。ところが人付き合いが多少不器用であったり、物事へのこだわりが多少あるだけでも、それをもって日々他人から非難され続けるとその環境に適応できなくなる。うっかり者でおっちょこちょいであっても、家庭的にも職業的にものんびりとした生活を送っている人であれば何ら困らないだろう。しかし、生き馬の目を抜く証券会社のトレーダーマンであればとても困るだろうし仕事が続けられないかもしれない。つまり、それぞれの行動特性を持っている人が「障害」になるかどうかは本人の特性だけで決まるものではなく、本人の特性と生活環境とのマッチングの善し悪しで決まるのである。発達障害的な行動・認知様式の程度が弱ければ障害になるリスクは減るかもしれないが、それでも環境のあり方によっては困難を伴うこともあるのだ。多少老眼が始まっても、毎日大まかな作業しかしていなければ大して困らないが、細かい字を大量に読んだり小さなものを加工せねばならなければ困るのと似た様なものだ。
 最近、教師や保育士が「グレイゾーン」なる言葉を用いることがよくある。それは上に述べた様に発達障害と定型発達の間が連続的であることや、障害か否かの境目は環境とのマッチングで決まる相対的で流動的なものであるということが理解しにくいからではないかと思う。このことを理解しないままに病院で診断されたかどうかだけにこだわっていると、現実的な対応をし損ねる可能性がある。発達障害を有する子供達を支援する時にはそれぞれの病型の細かい知識を有すること以上に、発達障害は程度問題であることを認識しておくことは重要ではないかと考える。

本田秀夫「自閉症スペクトラム 10人に1人が抱える『生きづらさ』の正体」

https://www.facebook.com/amnesictatsu/posts/723289291022496 (2014/1/12) より転載

本田秀夫「自閉症スペクトラム 10人に1人が抱える『生きづらさ』の正体」という本を読んだ。自閉症スペクトラムの子供達(and 大人)をどうサポートするか、著者の経験に基づく考えを述べている。客観的データをもとに論じているのではないため、違う意見を持っている人を論理的に説き伏せられるような書籍ではない。しかし、僕にとっては非常に腑に落ちる内容であった。特に、思春期以前にはできるだけの援助をし、失敗させることを可能な限り避け、人の助けを借りれば世の中結構なんとかなるもんだという思いを抱かせることを第一に考えることは、僕としては非常に納得できる意見である。この考え方の延長線として、得意なことを十分に保障することを優先し、苦手克服の特訓を極力避けるようにという主張にも僕は全く賛成である。しかし、こういった考え方が世間、特に教育関係者に受け入れられるかというと、なかなか難しいだろうなと思う。
 著者は自閉症スペクトラムの連続性を現時点で障害のない人たちまで含めて広く捉えている。そして、その特性が生活に支障があるかどうかで『障害』かどうかが決定するという。このように生物学的概念と社会学的概念をきちんと分けた考え方も、僕自身の考えと一致している。医師は診断をカテゴリー的に捉える傾向が強いと思っていたので、同様の考え方の長い臨床経験を有する医師が他にもいることを知り、読んでいて心強く感じた。
 著者は自閉症の子供達に自立スキルとソーシャルスキルを指導する際に「合意」が重要であると述べている。そして構造化は合意を教える最初のステップであると説明している。僕自身は本人が合意することを漠然と意識しており、本人がどう思っているか聞くことや、本人の腑に落ちることが必要であることを保護者や教師に説明することは度々あった。しかし、合意が重要であることを明確に言語化していなかったように思う。改めてこの説明を読んで、目を開かされた思いがした。
 自分が日頃考えていたことに非常に一致した内容であること以外に客観的根拠は無いが、是非多くの保護者や教師・保育士に読んで欲しいと思う本である。異論のある人もいるかもしれない。しかし、自閉症スペクトラムの支援は柔軟で多面的な発想が必要だと思う。少なくとも、こういう考え方もあるということを知っておくのは悪くないと思う。

豊田秀樹、前田忠彦、柳井晴夫 著「原因をさぐる統計学ー共分散構造分析入門」

https://www.facebook.com/amnesictatsu/posts/709984695686289 (2013/12/23) より転載

豊田秀樹、前田忠彦、柳井晴夫 著「原因をさぐる統計学ー共分散構造分析入門」
twitterで統計たん(@stattan)さんが紹介されていたのをきっかけに、豊田秀樹、前田忠彦、柳井晴夫 著「原因をさぐる統計学ー共分散構造分析入門」(講談社)を読んだ。数年前から複雑な要因の因果の連鎖を検証する手法として共分散構造分析に魅力を感じていた。しかし、2、3簡単な書籍を読んでみたものの、相関や重回帰分析と関係が深そうなことがぼんやり分かったものの、非常に分かり難く敷居の高さを感じていた。特に、重回帰分析や探索的因子分析と違い、研究者の裁量で決めなければいけない要素が多そうな点が非常に不気味さを感じさせていた。また、モデルの妥当性についての吟味も難しそうである。我ながら、アホなりに賢明であったと思うが、闇雲にPCソフトウェアに数値を放り込むような冒険は控えた方が良いと考えていた。この書籍を読むことで、少し足下が明るくなった気がする。
 この本では、相関分析や回帰分析から始めて、共分散構造分析を生成し、解釈するまでを非常に分かりやすく解説している。本の前半は共分散、相関、重回帰などの統計学基本事項の復習と頭の整理としても役に立つ。共分散構造分析の説明では構造変数と誤差変数、内生変数と外生変数、観測変数と潜在変数という基本的な変数の意味から始め、測定方程式と構造方程式、モデルの妥当性について順に丁寧に説明している。どの段階でも常に具体的なデータを元に作成したモデルを示しながら説明されているので大変納得しやすい。
 この本を読むことで共分散構造分析についてかなり具体的なイメージを持つことができた。特に、この手法は分析者自身が今までの知見を元に考察することで自らモデルを構築しその妥当性を示すことが主たる役割であることが理解できた。本当は統計手法は全てモデルを作る意識が必要なのだろうと思うが、共分散構造分析は重回帰や因子分析よりもはるかに予めモデルを意識することをユーザーに要求する手法なのかもしれない。
 この本のおかげで共分散構造分析の理解がかなり進んだように思うが、実際に統計ソフトで解析するまでには越えねばならない壁がたくさん残っているような気がする。

発達障害診療

https://www.facebook.com/amnesictatsu/posts/706222646062494 (2013/12/16) より転載

発達障害診療
子供が発達障害ではないかと心配になり病院を受診する人にとって、病院での物事の進み方は予めイメージしていたものと随分違っているかもしれない。
病院を受診すれば診察して検査して、そして異常か正常か明確な結論が出る。そして異常なら薬かなにか_本人_の治療が始まる。こういうイメージを頭に浮かべながら受診する人が結構いるのではなかろうか。この様に考えている人にとって実際はかなり違った展開になることが多い。
 基本として理解していないと混乱することが幾つかある。まず、発達障害(に関連する種々の病型)の診断に関しては、検査が根拠とはならない。検査が無意味とは言わないが、検査はあくまで参考にしかならない。では、何が診断根拠となるかといえば、日常の行動を詳細に聞き取った情報(病歴)である。例え検査と称することを行っても、あるいは医師ではなく心理士が対応しても、その内容は日常の行動特徴の聞き取り調査ということはよくある。本人の診察や行動観察も重要な意義があるが、特に症状の軽い子供の場合、病院での観察だけでは診断できないことが多く、詳細な病歴の聴取が欠かせない。発達障害診療は根掘り葉掘り質問し、話を聞くことから始まるのである。検査だけしてあまり質問をされることが無いままに診断されるような時は、真面目に診療しているのかその病院を疑った方が良い。
 次に、いかに丁寧に評価しても、発達障害の診断は白黒明確に付くものでは無い。発達障害の特徴はどれをを取っても、「健常児」には見られない特殊な症状などと言えるものではない。むしろ、ほとんどの特徴は多くの人に大なり小なり認められるものである。そういった特徴が平均的な子供より「過剰」に認められ、日常生活の差し障りになっているだけである。特定の病型として診断するかしないかの線引きは、本人の特性と環境との組み合わせの不一致に基づく強い暮らしにくさがあるかどうかで決まるものであり、かなり流動的である。このことは今後の対処法を計画する上でとても重要なので、保護者には診断概念の意味を十分に理解してもらう必要がある。つまり、出来るだけ丁寧に家族に状況を説明することが問題への対処の第一歩にもなるのである。保護者からの情報が主体となって診断された時は、その診断名は隠れていた問題が明らかになったのではなく、既に保護者が把握していた行動特徴を整理し、命名したものに過ぎない。説明に際して、こういったことも理解してもらうことを目指さなければいけない。
 診断がついた後も、一般的な「病気」とは対応の仕方が随分異なっている。先に述べた様に本人の特性と環境とのマッチングが上手く行かないために暮らし辛い状態になっているのが発達障害である。そして、薬剤や訓練で多少事態が良くなることはあるが、本人の行動や認知の特性が根本的に変化する訳ではない。つまり、薬剤や訓練で問題が完全に消失することはほとんどない。ではどうするのかと言えば、日常生活で問題が生じている諸々の具体的状況を把握した上で、適応しやすいように環境を変化させるのである。本人を変えるよりも環境を整えることの方が優先されるのである。ある程度お決まりの対処法というものもあるが、発達障害児といえどもその生活状況は様々であり、従って生じる困りどころも人それぞれである。具体的な状況を把握した上で何らかの一般原則や理論(応用行動分析など)を頼りに試行錯誤していくしかない。ここでも本人や家族と話し合いながら少しずつ物事を前に進めていくことになる。
 事ほど左様に、発達障害診療は通常の病院診療とは違ってモヤモヤしているのである。物事がテキパキ進まないのである。ぐだぐだ質問されたり、めったやたらに説明されたりするのである。病院によっては、特に幼児期に受診者に対して、結構流れ作業的に診断、療育と話が進む事がある。例えそうであっても、それだけでレールに乗ったと安心するわけにはいかない。結局は、生活の中で生じた具体的問題に対してどう対応するかを話し合っていかざるを得ないのである。こういった事情を理解しないままに病院を受診すると、いったい何をやっているのだろうと困惑するはめになるかもしれない。発達障害診療は子供自身や保護者が主体的に関与しようとする程度に比例して受診する価値が決まってくる側面がある。

医療とエビデンス

https://www.facebook.com/amnesictatsu/posts/701702253181200 (2013/12/8) より転載

医療とエビデンス
エビデンス、何て訳すのだろう。証拠とか根拠かな。病院の勤務医から、柄にも無く教員に転職して7年半になる。住む世界が変わると良くも悪くも色々戸惑うことが多い。特に、教育業界には何かを主張する時に客観的根拠をあまり重視しない人が多いことにもどかしい思いをする。
 てなことを考えながら、ほんの20年程度前の医療現場を思い出すと赤面してしまった。今でこそ「エビデンスに基づく医療」が常識の様に語られるが、昔は医療現場でも結構評判が悪かった。「エビデンスが流行だからな。」とか「統計で有意差があってもそれが必ずしも真実ではない。」とか憎々しげに語る先輩医師が少なからずいた。それも後輩から見て出来の悪い先輩ではなく、尊敬すべき人たちでさえそういう雰囲気であった。臨床において何事につけ客観的根拠を重視する考え方が定着してきたのは最近のことの様に思う。
 もちろん、現在においても医療はエビデンスだけでは前に進まない。何しろエビデンスが無い問題が山ほどある。と云うよりも、無数にある医療上の問題の中でエビデンスが十分に揃っているものの方が例外である。特に、患者が理解しやすい説明の仕方、不安を最小限に抑える接し方、闘病意欲を増し将来への希望を持たせるための対応方法など、良好な対人関係を形成するための方法論については、客観的な検討は恐らく少ないと思う。こういうソフトな技術は定量的な分析が難しいと思うが、手の付けようが全くないとも思えない。例えば、応用行動分析の領域に参考に出来る手法が無いだろうか。考えてみれば医師が患者にどのように向かい合うかという問題は、検査、薬物治療、手術などのハードな技術の問題以上に医療の本質につながる重要問題だと思う。幾ら突き詰めても客観化出来ない「技」の部分が残るとは思うが、根拠を明確にできることはした上で残された部分で技を振るうことをことを目指すという意識は必要だと思う。

大倉幸宏 「『昔は良かった』と言うけれど」

https://www.facebook.com/amnesictatsu/posts/700575859960506 (2013/12/6) より転載

大倉幸宏 著「『昔は良かった』と言うけれど」を読んだ。明治から大正、昭和初期の間の日本人の道徳意識はどうであったのかについて、当時の新聞記事や法律を含めた行政文書などを基に検証したものである。駅や汽車の利用の仕方では子供や荷物を使って複数の座席を独占したり、車内をゴミだらけにする様子を嘆く新聞記事などが次々と紹介される。そういえば、僕自身が子供の頃の昭和30年代、40年代でも食べかすなどのゴミは皆座席の下に押し込んでいたな。今の電車内の方が遥かにきれいである。車内で化粧をして顰蹙を買うということは最近の話かと思えば、昭和初期には既に槍玉に挙がっていたらしい。公園や銭湯や図書館などの公共の場所の利用の仕方も結構でたらめで、特に非衛生的な振る舞いについては現代社会ではちょっと見られない様なことが明治から昭和初期までには結構見られていたようだ。食物の量を偽って販売したり、積み荷を抜き取るなど各種職業上の倫理の問題、児童虐待、しつけや道徳教育の甘さなど、これでもかという程の資料が用意されていて面白い。
 戦前の良くない事例をただ記述しても、現代との比較にはならない。きちんとした統計などは取られていないため客観的データがほとんどない。数少ない客観的資料としては昔は必ずしも年寄りを大切にした訳ではないことを記述している章で、1940年以降の高齢者10万人あたりの自殺率は1950年がピークで、その後は下がり続け、2000年では1950年の半分以下に減少していることが示されているくらいである。従って、この本の記述のみを根拠に戦前よりも今の方が良い世の中だとは言えない。ただ、ここまで新聞などで多くの問題が提起され、それに対して行政も繰り返し様々な手を打ってきた経緯を知ると、少なくとも諸手を上げて賛美する程には戦前が良い時代だったとは言えそうにない。
 この本を読んで思い出したのが、広井多鶴子と小玉亮子による「現代の親子問題」と、浜井浩一の「2円で刑務所、5億で執行猶予」である。広井らは戦後の様々な資料を丁寧に検証し、子供を育てる家族に限れば核家族化の顕著な進行はないことを示している。そして、親の子育てや教育をする力の低下に対する批判とは裏腹に、かつては外部に頼る割合が大きかったしつけや教育機能を家庭が自ら引き受け取り込み続けた流れを明らかにしている。また、浜井はしばしば語られる治安の悪化や少年犯罪の低年齢化には何の根拠もなく、法務省統計の客観的データからは凶悪犯罪は昭和30年頃をピークにその後激減していることや、少年犯罪の低年齢化を示すデータはなく、むしろ高齢者の犯罪が増加していることを示している。
 昔は良かったという根拠のない個人的思い込みが、しばしば社会の指導的立場にある人々の言動の根拠となっていることが多い様に思う。多くの人が、思い込みに基づく善意から、せっかく築き上げてきた良いものを破壊していくことがないことを祈る。

共感覚

https://www.facebook.com/amnesictatsu/posts/689803514371074 (2013/11/17) より転載

先日、共感覚に興味を持つ学生がいたことがきっかけで探してみると、open access reviewを見つけたので読んでみた。
Mylopoulos MI, Ro T. Synesthesia: a colorful word with a touching sound? Front Psychol. 4:763,2013
http://www.frontiersin.org/Cognitive_Science/10.3389/fpsyg.2013.00763/abstract

評価方法に焦点を当てて共感覚にまつわる問題点を解説している。単なる読後メモ。
視覚心像(visual imagery)などの他の感覚受容現象と区別をつけるために役に立つ共感覚の3つの特徴;

(1) automaticity:共感覚は意図的に制御できない。
(2) reliability:引き金となる刺激を知覚した時には確実に共感覚反応が生じる。
(3) consistency:時が経っても同じ刺激に対して同じ共感覚反応が生じる。ただしこれは共感覚の中核的特徴ではない。

“test of genuineness” (TOG):共感覚の診断に最も広く使われている方法。特定の刺激に対してどのような知覚反応が生じるかを確認し、1年以上経ってから警告無しにもう一度同じ評価を行う。この評価法はconsistencyを確認することが出来る。ただ、この方法ではautomaticityやreliabilityの確認は出来ない。また、記憶に基づいて判断している可能性も残る。

【共感覚を理解するための心理課題】

Stroop task:grapheme-color synestheteに対して共感覚を惹起する書記素(文字)を提示し、その文字を答えさせる。共感覚を持つ人はincongruent trial(文字の色とその文字に惹起される共感覚の色が異なる)ではcongruent trialよりも反応が遅くなる。この課題はautomaticityを示すことが出来る。ただ、この課題で共感覚が知覚に基づくのか認知に基づくのかを区別することは出来ない。もしも共感覚がない人に書記素と色の対応を訓練すると、共感覚者と同様にincongruent trialで反応が遅くなる。このことは、Stroopの所見が純粋に知覚に基づく必要がないことを示している。

視覚的探査課題:視覚刺激の配列の中に標的刺激が存在するかどうかを判断する課題。標的刺激が他の刺激(distractor)と一つの感覚様態(形、色、etc.)で異なっていれば標的刺激が被験者の注意を引きつける(pop-out effect)。共感覚者にこの課題を施行すると共感覚によりpop-out effectが生じ、それはpreattention processであろうという原理が想定されている。ただ、視覚的探査課題を用いた研究の報告では予想に一致するものとそうではないものが混在している。また、共感覚者の成績が良かった場合でも本人の主観を聞き取ると、配列全体からは共感覚は感じられなかったり、複数の標的刺激が埋め込まれている時に一つ一つに対してしか共感覚が生じなかったという報告があり、注意や高次認知処理が関与している可能性が示唆されている。

PERCEPTUAL CROWDINGEXPERIMENTS:視野の周辺部に一文字を提示しても容易に認識できる。しかし、その標的文字が両側に非標的文字によって挟まれていると認識しにくくなる。これをcrowding effectという。もしも標的文字に非表的文字とは異なる色がついていると認識しやすくなる。grapheme-color synestheteに対して共感覚を惹起する標的文字を提示すると標的文字の認識が早くなるかもしれない。実際には、視覚的探査課題と同様に予想通りの結果と予想に反する結果が混在している。

【共感覚は本人の外にあるのか、頭の中にあるのか】

共感覚者はprojector synestheteとassociator synestheteに分けられることが多い。前者は共感覚を空間の中にある(out there in space)と表現し、後者は心の目にあると表現する。projectorかassociatorかの判断は本人の主観的報告に依存しているため、種々の混乱が生じやすい。Stroop taskでは、incongruent条件に置いてprojectorは文字から引き起こされる共感覚の色の呼称がassociatorよりもスムーズだし、逆にassociatorは文字本来の色の呼称がスムーズである。Stroopにおいてはprojectorの方がよりautomaticであると言える。fMRIを用いた研究では、projectorの共感覚は主として紡錘回によって駆動されるbottom-up processであり、associatorでは頭頂葉上部を経由するtop-down processであることが示されている。

これとは別に、しばしば共感覚は“higher”と“lower”に分類される。higherの方は物理的な引き金刺激が存在しないときでも、刺激に関連したことを考えたりイメージするだけで共感覚が惹起される。また、higherは共感覚を誘発する物理的刺激の感覚的特徴だけではなく、概念的特徴によって共感覚が惹起されるとも説明されている。これに対して、lowerでは共感覚体験を惹起するためには物理的刺激を必要とする。例えば「5」によって共感覚が誘発されるhigherの場合、「V」でも「five」でも同じ共感覚が引き起こされる。しかし、lowerでは「5」のみで共感覚が引き起こされる。“higher”と“lower”の区別はassociatorとprojectorに対応するとの主張もあるが、結論は出ていない。

サイモン・シンとエツァート・エルンスト 「代替医療解剖」

https://www.facebook.com/amnesictatsu/posts/687311371286955 (2013/11/14) より転載

サイモン・シンとエツァート・エルンストによる「代替医療解剖」を遅まきながら読んだ。非常に面白かったという感想と共に、どこか先の見えない暗い気分を抱いている自分にも気付いてしまう。
 この本では主として鍼、ホメオパシー、カイロプラクティック、ハーブ療法を取り上げ、科学的臨床試験、特にメタアナリシスデータを根拠に有効性を検証している。また、有害事象についても広く検討している。巻末には鍼、ホメオパシー、カイロプラクティック、ハーブ療法以外の多くの代替療法について執筆時点で判明している科学的検討の結果を短くまとめている(僕の大好きなマッサージや指圧についてもまとめてある)。まあざっくりまとめると、限られた対象におけるごく一部の治療法を除き、ほとんどの大体療法は科学的な検討では効果が認められないし、明らかな危険性を有するものも少なからず存在する。どの代替療法であっても通常医療を否定してまで選択する理由は何もないということである。
 大変な労作だと思う。高々文庫本一冊分であるが(といっても読むにはそれなりの手間がかかるが)、これ一冊を仕上げるにあたって膨大な量の科学的知見(論文)を参照していることが分かる。これは「科学的に」何かを主張する時、とりわけ他者の主張を批判する時に普遍的に必要とされる態度でもある。たとえ一目見れば意味のないことが分かりそうな馬鹿馬鹿しい主張(ex. 有効成分の入っていない砂糖玉で全ての病が改善する!)であってもそれを科学的に否定する為には膨大なデータを準備することが求められるし、そこまでしても「有効であるという証拠は現時点ではない。」という極めて控えめな結論にさえなる。この調子で多くの人に適切な知識を納得させていくことは可能なのだろうか?と考えると、どうも楽天的にはなれず、気分は暗く沈んでいくのである。
 そこで教育の出番だっ!と考える人もいるだろう。実際、教育は重要だと思う。例え理屈が十分に理解されなくても、現時点で効果がないとかむしろ害があると判明しているものを繰り返し教えていくことで多くの人を役にも立たない代替医療にのめり込むことから救うことが出来るだろう。さらに、科学的検証法、特に統計学的なものの考え方を教えることが出来れば自力で情報を噛み砕いて咀嚼し、あやしげな医療に巻き込まれることから逃れられると思う。しかし、シンとエルンストも指摘するように教育機関でさえ根拠なく代替医療の推進に協力しているところは結構ある。僕の勤務校でも(幸い常勤講師ではなかったが)マクロビの立場から講義している授業が行われたことがあり、愕然としたことがある。
 教育も当てにならないとしたら、頼るは行政である。この本でも主張されているように、こと人の健康に関わることは全て一律に有効性と安全性を検証せねばならないという制度が望ましい。ところが現状ではそうなっていないばかりか、結構政府や行政の幹部に代替医療やとんでも科学の信奉者が入り込んでおり、今後システムが整備されていくことはあまり期待できない。
 以上に加えて、インターネットでろくに根拠もない情報があっという間に広がり信じられることが増えている社会状況も考慮すると、この問題が好転していきそうな気になかなかなれず、ため息をつくばかりである。

「自己責任です。」

https://www.facebook.com/amnesictatsu/posts/681313385220087 (2013/11/3) より転載

「自己責任です。」という台詞を大勢の人の前で口にしたことがある。20年位前、地方の医師会の研修会でてんかん治療に関する講演をしたときである。その時の講演では、思春期ともなれば患者本人に治療の意味や選択肢をよく説明し、どういう方針を選択するのか、治療しないということも含めて患者自身に選ばせる、というようなことを説明した。そのことに対して初老の医師が治療しないことを患者が選択した時に痙攣が再発する可能性もあるではないかと質問し、それに対して僕は自己責任という言葉を用いたのである。質問した医師はどこか悲しげな表情を浮かべたことを覚えている。医療に限らず権威がパターナリズム的に人を囲い込む構造に対する反感を思春期頃から抱いていたし、インフォームド・コンセントやEBMといった考え方が勢いを増してきていた背景や、個人的にLinuxコミュニティの活動に感化されていたことなどから当時は「自己責任」という言葉をしきりに口にしていた。
 そして今、「自己責任」という単語を耳にすると寒々とした思いがする。自己責任という考え方は個人を尊重する欧米で根付いたものと思っていたが、最近、実は日本は徹底的に自己責任の国だったことに気がついた。貧しくて困っている人達は本人の努力が足りない所為になる。子供の学力が低いことは本人が努力しないことと親の子育ての悪さが原因と看做される。老いていく人達が不自由になっていっても本人の蓄えと家族の献身だけで何とかせねばいけない。苦しんでいる人に手を差し伸べる仕組みが乏しいだけではなく、そういう人達に社会から与えられるものの大きな割合を占めているのは非難の言葉であったりする。
 20年前に半ば得意げに「自己責任」という言葉を口にしていたとき、こういうことを想像していた訳ではない。今から思えば個人に責任を課すことを考えていたのではなく、個人の自己決定を支援したかっただけだと思う。今でも患者を抱え込み、大した根拠もなくあれこれ指示するパターナリズムは嫌いだ。自分で判断することの助けとなるように、根拠のある選択肢を出来るだけ多く示したい。そして自己決定の結果失敗した人には役にも立たない慰めではなく、新しい一歩を踏み出す助けとなる合理的な選択肢を提案したい。そういう自己決定を支援するシステムが社会に広がって欲しいと思っていたのだと思う。と、後付けで言い訳がましく説明しても、20年前に質問した年配医師の悲しげな表情が脳裏をちらつく。

発達性読字障害の1事例

https://www.facebook.com/amnesictatsu/posts/672103646141061 (2013/10/20) より転載

発達性読字障害の1事例について。といっても僕のことだが。
 子供時代を振り返ると色々思い当たることがある。小学生の頃から人の言葉を聞き間違えることが大変多かった。また、相手の言うことがはっきり聞き取れないため、「え?」と聞き返すことが多かった。通常の聴力検査では何時も全く問題はなく、どうも音節や音素の聞き間違いが多かったのではないかと思う。発達性読字障害の基盤として音韻認識の障害は国際的に重視されている。さらに、僕は雑音がある場所で人の言葉を聞き取ることが大変苦手である。騒がしくても音楽の旋律を追いかけたり、小さな音が何の音か判断することは苦労しなかったが、語音の聞き取りは騒音があると顕著に悪化した。これも読字障害患者の特徴だ。
 話は逸れるが、この聞き返すという行為に対して世の人は結構冷たい。聞き返されると怒りだす人もいたりする。最近ではなるべく「よく聞こえなかったのでもう一度言って。」と言う様にしているが、それでも黙り込んだり露骨に嫌そうな顔をする人は結構いる。
 読字障害に話を戻すと、子供の頃読書が苦手だと思ったことは無い。むしろ本を読むことは好きだった。ただ、長文を読む時、段落ごとに初めに戻って読み返すということが多かった。大人になって気がついたことだが、自分は文字を読む速度が遅い。自分が遅いというよりも、人はもっと速く読めるということに気がついたのだ。道路の標識、チラシの文章、日常目に触れる様々な文章を見た時、僕はしばらく見つめていないと内容が飲み込めないのだが、多くの人はさっと見ただけで内容を把握しているらしいことに気付いた。ディスレキシア(発達性読字障害)の最も基本的で、上手く適応できた大人にも見いだされる特徴は読みが遅いことであるということは比較的最近知ったことである。
 書字も苦手だ。最近パソコンの使用で拍車がかかっているが、漢字を正確に書くことが出来ない。子供の頃から繰り返し使用してすっかり定着したと思われる漢字でさえ、ともすれば線が長過ぎたり短すぎたり、点が無かったり多すぎたり、そもそも形が思い浮かばなくなったりということは日常茶飯事であった。
 ディスレクシア患者はワーキングメモリー能力の低さも指摘されることが多い。小学校の頃から授業中先生の話を聞くのが苦手だった。集中力の無さもあったのだが、集中して聞いていても長い話を追いかけ続けることが難しかった。何時しか授業中は先生の話を聞くよりも勝手に教科書を読むことが中心になり、たまに聞き取れて印象に残ったことを教科書に書き込んでいた。当然、ノートを取ることも苦手である。医者になってからは学会に参加することが多いが、これも口演を聴いても付いて行けず、ぼんやりスライドを眺めていることが多い。
 周辺的なこととして、英語が大変苦手である。単語の綴りは発音とは無関係に個別に覚えないといけないし、レコードがすり切れる程繰り返し聞いた洋楽の歌詞がほとんど聞き取れない。ディスレクシア患者は母語以外の言語を習得することが一般的に難しい。また、読字能力と直接的な関係はないが、多くのディスレクシア患者に共通して僕はADHDである。丁寧な作業が出来ないし、同じ作業を繰り返すのは大嫌いだし、書字は雑だし、待つことが苦手でエレベータをじっと待つくらいなら階段を上ってしまう。
 此の様に多くの特徴があることから、僕には発達性読字障害の特徴があるのだろうと思う。幸い、本を読むことが好きだったし、気軽に本が読める環境でもあったことで、日常困らない程度に適応できたのだろう(色々なハンディを抱えながら社会生活を何とか送ってきた自分を密かに褒めてあげたい)。現在、標準よりは早いのではないか?と思える程度に目、耳、物覚え、手先の器用さなどにずんずん老化による変化が加わってきている。はあ、生きていくことは大変だ。

「気になる」が気になる

https://www.facebook.com/amnesictatsu/posts/668516286499797 (2013/10/15) より転載

「気になる」が気になる
保育士や教師が最近よく使う「気になる子」という言い回しが気になる。単純に何かにつまづいた子に注目し、対応を考えているのであれば問題ないのだが。しかし、どうも引っかかるのである。「気になる子」の響きには能動的に「気にする」のではなく「気にさせられている」というやらされ感が漂っている。本来あるべきではない状況が起こってしまっている、目を反らしたいけどそうもいかない、という感覚が読み取れる、と言うと穿ち過ぎだろうか。また「気になる子」には子どもを正常か異常かにカテゴライズするという前提が感じられる。本当なら自閉症とかADHDとかにカテゴライズしたいところだか、その判断ができないため「気になる子」という中間カテゴリーを設けたように思える。自分で判断できないカテゴリーにこだわることにあまり意味は無い。無意味なカテゴリーに纏めてしまうよりも、子どもの日常生活の中で何が気になるのか個別に具体化させた方が良い。何に困っているのか、何が問題なのか具体的に認識できれば、少しでも事態を改善する方法も工夫できるのではないかと思う。

千住 淳さんの総説

https://www.facebook.com/amnesictatsu/posts/667689696582456 (2013/10/14) より転載

千住 淳さんの自発的な社会的認知についての総説を読んだ。自閉症スペクトラム(ASD)患者は他者が誤信念を有することの認識(心の理論)、模倣、そして視線認知に問題があることが多くのデータで示されている。しかし、特に高機能ASDにおいては、これらの能力に関する課題で標準的発達を示す対照群との差が認められないという報告もなされている。この総説では、誤信念を有することの認識、模倣、視線認知に関して、自発的(spontaneous)発現に焦点を当てて最近の知見をまとめている。
Senju A. Atypical development of spontaneous social cognition in autism spectrum disorders. Brain Dev 35:96-101
 誤信念課題に関しては、明示的な教示をしない課題を使った実験を紹介している。何を考えるべきか明確な教示をする標準的な誤信念課題では対照群と差がない成績を出す高機能ASD成人を対象としている。彼らに何も教示せずに主人公が誤信念を抱く状況をVTRで見せ視線の動きを検討すると、標準的発達を遂げた対照群に認められる登場人物の誤信念に基づいた予期的視線変化がASD成人では認められなかった(なお、この課題では標準的発達の2歳児でも予期的視線変化が認められる)。このことから、ASDは必ずしも誤信念課題解決に必要な全ての能力が欠けている訳ではなく、その能力を自発的に用いることに問題があると言える。
 ASDにおける模倣の異常が指摘されている。ただ、明確な教示のもとではASD者は目的指向的行動を模倣することが出来る。また、他者の表情を自発的に模倣しないASD児が明確に指示されると模倣が可能であることや、ASD児ではあくびの伝染が認められないことなども報告されている。これらの知見は自発的模倣あるいは行動の同調傾向がASD者には欠けていることを示している。ただ、その後の実験では他者に何らかの注意を向けている時には、ASD者にも自発的模倣が認められることも確認されている。
 特に社会的な、あるいはコミュニケーションを取るための行動を目撃した時に相手の目に注目する傾向がASD者では弱い。この目に向ける注意の弱さがASD者の顔認知の特異性の基盤の一部になっている可能性がある。ただ、発汗などで評価した他者の視線に対する生理的覚醒は対照群と同様にASDでも確認できる。他者の視線により生理的覚醒が引き起こされるにも関わらず、それが現実の他者の目に対する認知・行動に結びつかない。
 この総説に書いてあることは概ね以上である。この総説ではcentral coherenceの弱さについては取り上げられていない。central coherence関連課題でもASD者は明示的に指示されていれば全体処理が可能であり、あくまで明示的教示が無い場合に部分処理に偏る。このことも、この総説に書かれていることとつながる様な気がする。

小学校の漢字教育

https://www.facebook.com/amnesictatsu/posts/665488670135892 (2013/10/11) より転載

「小学校の漢字教育」
小学校の漢字教育は、日本の学校の問題が凝縮されている様な気がしてきた。
第1は、間違いを直させることを最優先すること。何が正しいか教えることが悪いと言っているのではない。意欲をスポイルする指導手技の拙劣さが問題なのである。特に知的能力、集中力、読字能力などのハンディを持ち漢字習得に困難がある子どもがやっとの思いで書いた漢字を徹底的に直されて学習意欲が持続するはずが無い。
第2は、根拠の無いとめ、はね、はらいにひどく拘ること。これは第1の指摘よりも問題が大きいかもしれない。とめ、はね、はらいや点の位置、線の長さが細かく問題になるのは、それによって別の漢字になる時だけである(「干」と「于」)。教科書の字体が唯一の正解ではないし、過去の書聖と称される人でも教科書体とはかなり違った書を残している(阿辻哲次「漢字を楽しむ」講談社現代新書)。文化庁でさえ漢字書字に関してかなりの自由度を認めている( http://www.bunka.go.jp/kokugo_nihongo/pdf/jouyoukanjihyou_h22.pdf )。こういった背景に関係なく神経質に漢字の細部にこだわる指導をしていることは、学校という所が法律や学問的権威、伝統といったより普遍的な価値観を蔑ろにし、自分の閉じられた世界でのみ通用するルールに拘りやすいことを示しているのではないか。同様の問題は算数のかけ算における順序問題にも見られる。いつまで経っても体罰を擁護しがちな教員が後を絶たないことも、この種の問題の延長線上にあるのではないかという気がする。

講義ノート(現代子ども学入門)

https://www.facebook.com/amnesictatsu/posts/662524783765614 (2013/10/6) より転載

講義ノート(現代子ども学入門)
「子どもの障害:障害とは何か」
1. 君の考えは?
(自分の言葉で書き出してもらう、学生が何を考えているか率直な所を見る)
2. 辞書では
広辞苑:身体器官に何らかのさわりがあって機能を果さないこと。「言語―」
・時間は関係ないのか
(急性上気道炎 ⇔ 慢性閉塞性肺疾患 どちらも何らかの障りがあり機能が低下しているのだがどちらも障害だろうか)
・程度は関係ないのか
(視力:1.0・・・0.8・・・0.5・・・0.2・・・0.001、弱視は0.3未満、盲は文字を活用できない、さて視覚障害はどこからなのだろうか)
○辞書から読み取れる「障害」とは何だろう。
(長期にわたり、困るくらいに、体の機能が低下している状態を指すらしい)
(精神の機能は考慮されていないようでもある)
3. 法令(行政)での扱い
• 身体障害
  – 視覚障害
  – 聴覚障害
  – 肢体不自由
  – その他の内臓の障害(慢性腎不全、白血病、糖尿病、他)
• 知的障害
• 精神障害
  – 統合失調症、気分障害、不安障害、etc
• 発達障害
  – 広汎性発達障害、注意欠陥/多動性障害、学習障害
○法令から読み取れる「障害」とは何だろう。
(基本的に特定の身体機能の障害を念頭においているらしい)
(しかし、実際には種々の障害が合併していることが多い)
(「ある人」の個人的な特徴と看做されている)
4. 改めて障害とは何か
(もう一度考えてもらい、記述する)
(困っているみたいだ)
(体や精神の機能が十分ではないようだ)
(長く続くようだ)
(その人固有の特徴のようだ → 本当か?)
5. 国際的な障害の定義
(国際生活機能分類ICFの図をもとに説明する)
(ある健康状態のもとでの「心身機能・身体構造」、「活動」、「参加」の状態がある)
(「心身機能・身体構造」、「活動」、「参加」は互いに影響を及ぼし合い、この3つを纏めたものが「生活機能」である)
(本人以外の要因は「環境因子」、家族や経済状態など個人的な状態は「個人因子」)
(環境因子と個人因子は生活機能に影響を及ぼし、生活機能を改善させることもあるし悪化させることもある)
(障害とは、生活機能の低下した状態であり、単に心身機能や身体構造に異常が生じた状態ではない)
(むしろ、活動や参加の状態が妨げられることが重要)
(生活機能は環境因子や個人因子によって左右されることを考えると、障害というのは個人が内包する特性ではなく個人と環境の相互作用によって決まる状態である)
(障害とは固定された状態ではなく、環境因子の状態によって悪化も改善もするし、場合によっては障害の状態を脱することもある[ただし逆もある])

障害とは、(まとめ)
• 個人と環境の相互の関係で決まる状態像である
  – 独力で十分に活動できない
  – 独力で十分に参加できない
• 「特別扱い」が必要な状態
  – 決して「個性」などというものではない
6. 君は障害ではないのか?
(同じ人であっても属する環境の変化がどのような影響を及ぼすかを考える)

Wingの三つ組み

https://www.facebook.com/amnesictatsu/posts/661856747165751 (2013/10/5) より転載

Wing L, Gould J, Gillberg C. Autism spectrum disorders in the DSM-V: Better or worse than the DSM-IV? Res Dev Disabil 32:768-773,2011
この論文はDSM5のproposalの段階でのASD診断基準に関するコメント。既にDSM5正式版が発行された現在読んでも参考になることが書いてある。
僕にとって一番の収穫は、Wingの三つ組みを改めて説明していることだ。それによると、
1)Impairment of social interaction(社会的相互作用の障害):他者と共に以下の状況にあることへの興味や喜びを示す非言語的表現が著しく減少している;目を合わすこと、微笑みかけ微笑みに答えること、包容やキスの様な親愛に満ちた体の接触、挨拶、手を振ってさよならをすること。社交的な子どもでは、言語を身につけるより遥か以前の生まれた時から社会的相互作用の始まりが認められる。また、重度の障害があり話すことが出来ない、移動すら出来ない子どもや成人であっても社交的な人であれば社会的相互作用が認められる。
2)Impairment of social communication(社会的コミュニケーションの障害):他者と非言語的あるいは言語的に交わり、考えや興味を分かち合ったり、前向きで友好的に交渉したりする能力が低下している。典型的に発達している子どもで最も早く見られる社会的コミュニケーションの徴候は、乳児期後半に認められる興味を共有するための共同参照(joint referencing)である。自閉症スペクトラムの人々はしばしば聞いた事を理解することに問題があり、物事を字義通りに解釈しがちだ。
3)Impairment of social imagination(社会的想像力の障害):自分自身の行動が自分自身や他者にもたらす結果について考えたり予測したりする能力の低さ。典型的な発達ではこれは3歳を超えるまでは発達しない。この能力の障害はおそらくどのタイプであれ自閉症スペクトラムを有する結果の中で最も重要で障害となる。我々は、DSM-IVやDSM-V(およびICD-10)の設計者達はこの障害のことを無視すべきではなかったと信じている。DSMはそうしないで、社会的想像力の障害ではなく反復的行動パターンを三つ組みの最終項目として導入している。
今までWingの著書を色々読んでも「社会的想像力の障害」が具体的に何を指しているのか今一つ分かりにくかった。見立て遊びやごっこ遊びの欠如と関係ありそうなのだが、それだけで定義されているようでも無かった。今回、この論文を読んで「自分の行動が自分および他者にどういう結果をもたらすか予測する」ことの苦手さを指しているということが明確になった。自分の行動が自分自身や他人にもたらす結果を予測する能力といえば心の理論を彷彿とさせる。しかし、心の理論は人には人の心の状態があることを認識し、それに基づいて人の行動を予測する能力であるから、自分の行動の結果を予測する能力とは無関係ではないが同じとは言えないだろう。
 WIngらは自閉症スペクトラムの基本的構成要素として反復的行動パターンよりも社会的想像力の障害を取り上げるべきと主張している。しかし、心の理論障害よりは具体的行動で観察しやすいとは思うが、操作的定義に組み込むには難しいのではないかという気がする。

梅野潤子「研究ってなんだろう:はじめて取り組むあなたのための論文作成ノート」

https://www.facebook.com/amnesictatsu/posts/661461377205288 (2013/10/4) より転載

テストを兼ねた再投稿
梅野潤子「研究ってなんだろう:はじめて取り組むあなたのための論文作成ノート」高菅出版
大学生のために学び方を解説した本である。この種の本は色々読んだが、もちろん本書にも他書で記されていることと共通したことが書かれている。しかし、本書は全体的な構成や目的が類書とはやや異なっているように思う。
まず、念頭に置かれた読者として、学部生、特に学び始めたばかりの「研究のケの字も知らない」学生を想定しているようだ。文章も柔らかく読者を安心させる雰囲気をたたえているし、文章の量も少なめであるため一気に読めそうである(ただし、書かれていることは簡単なことばかりではない)。加えて、社会福祉系学部の学生を強くイメージしているようだが、他の分野、特に教育、保健などの勉強をしている人にも通用する内容である。
第2に、一般のアカデミックスキルズの解説書は体系的に纏められており、個々のトピックごとに解説されているし、大学での学び全体を網羅しようとしていることが普通である。これに対し、本書は「研究」にテーマを絞り、卒論完成に至るまでの時系列に沿って何が必要かを順次記載している。学生は折々に読み返せばまるでメンターが寄り添ってアドバイスしてくれている様な気になるかもしれない。また、新入生が一度読めば大学での研究をどう進めていくかイメージしやすいだろう。スケジュールやToDoリストなど時間管理にページを割いていることは他書でも見られるが、本書の時系列に沿った記述により一層意義が分かりやすい。
第3に、本の構成は導入部である第1章で全体を俯瞰し、さらに大まかな骨子を説明し、そして第2章で具体的な各論に進むという手順を踏み、読者にとって見通しをつけやすくしている。
第4に、研究は実践へ繋がる基礎となるという考えを強く打ち出し、卒業後の実践の場でこそ研究することの価値が活かされるということに読者の目を向けさせている。実践と研究を別物とする考え方とは一線を画しているが、今後実践家向けに研究の意義を説く著書を執筆することが望まれる。
まとめると、大学生が大学での学びを考える上で最初に読むと良い本である。領域ごとの具体的スキル(例えば批判的読解の技術など)については記載が十分ではない面もあるが、本書を読んで走り出した学生であれば、必要に応じて他の本も主体的に読むことが期待できそうである。
とはいえ、ここまで親切に記載された手引書を読んでも、大学で主体的に学ぶということは結構ハードルが高いことであるなと思わざるを得ない。