2018年8月31日金曜日

親と学校園のすれ違い

 発達障害診療をしていると、学校園側と親の認識の差に悩まされることがしばしばある。子供に問題があるという認識が学校園側に強く親に弱いというパターンと、親が強く気にしているが学校園側はなんとも思っていないパターンがある。特に困るのが前者である。親が受診の必要性をほとんど感じていないにも関わらず、学校園側が拝むようにして、時には脅すような言動までとって受診を勧めた結果、親が渋々、あるいは半信半疑で子供を病院に連れてくるという状況になる。
 このような状態で受診されても子供にはほとんどメリットがない。仮に医師が親から聞き取った話だけを根拠に判断すれば、ほとんど問題ありませんという結論になる。親はその結論に飛びつくので、その結果子供は適切な支援を受けるチャンスが遠のくことになる。
 逆に、診察時の観察と学校園側からの乏しい情報を精一杯拡大解釈をして自閉スペクトラム症なり注意欠如・多動症なりの診断を下したらどうだろうか。問題の存在を無理やり押し付けられた親は建設的に子供に接することができるのだろうか。そして親の心中にお構いなく療育だ、特別支援教育だと公的制度に機械的に当てはめられていくことが果たして良い結果につながるのだろうか。長期にわたり誰よりも子供を支えていくのは親である。当然、親こそが最も子供の置かれた状況を正しく理解し主体的に子育てに取り組んで欲しいのに、親置き去りで物事が進んでいくことによって子供にとって適切な生活を保証できるのだろうか。
 親が十分に受け入れられないままに発達障害の診断を急いでも得るものはあまりない。子供が困っている、あるいは困りそうな状況について親と十分に共通認識を形成できるまでは原則として受診させるべきではない。問題点の共通認識を形成することは学校園の教師・保育者が責任をもってなすべき仕事である。何故これが上手くできない担当者が多いのだろうか。
 学校園と親のディスコミュニケーションが生じる要因は色々あると思うが、中でも重要なポイントは親に問題を伝える際に事実と解釈の分離をきちんとできているかどうかではないかと思う。親には解釈を伝えるのではなく日々起こっている事実を淡々と伝えてほしい。単なる事実の伝達なら、担当者が嘘つきと思われていない限りは親も受け入れやすいと思う。正常か異常かという観点や何らかの診断に該当するという前提が前面に出ると、日常問題を感じていなかった親ほど素直に受け止められなくなる。たとえ明確に結論を述べていなくても話の持って行き方によっては担任が子供を異常と考えている、あるいは何らかの障害と見做しているということは分かるものである。いきなり病院受診を勧めればいかなる言い訳をしようが御宅の子供さんは異常ですよ、何らかの診断がつきますよと言い放っているも同然である。焦って病院受診を迫らなくても良いように、あまり大きな問題が生じていない段階から気になる振る舞いがあればこまめに客観的な態度で伝えていくべきである。
 とはいえ、問題となる事実ばかりを繰り返し聞かされると親は凹むものである。何かが上手くできるようになったとか、何かに頑張ったとか、良いニュースも織り交ぜながら伝えるべきだろう。その他にも事実を伝える際に配慮すべきことがいくつかある。まず、徹頭徹尾子供の立場に立って、子供が困らないようにサポートしたいという姿勢を前面に出す必要がある。また、親に解決を迫っていると受け取られないように細心の注意を払うべきである。間違っても、教師・保育者が迷惑を受けて困っていると主張しているように受け取られないようにする必要がある。そのためには、ささやかで良いので自らが次の一手を考えていることを伝えるべきである。伝えてはみても成果が上がらずに終わるということを恐れる必要はない。たとえすぐに成果を出せなくても、子供のためにあれこれと工夫しようとしてくれている先生を親は信頼するはずである。
 このように、教師・保育者自身がなんとか解決の枠組みを構築する中で、その一要素として病院受診を提案すれば良い。困り果てた時に病院に放り投げたらなんとかなると期待したくなるかもしれないが、発達障害を伴う子供たちの支援において病院や医師が果たせる役割は極めて小さいということを認識しておくべきである。もともと病院が関与するかどうかに関係なく、学校園での問題を解決できるかどうかは教師や保育士が自らの責任において対策を工夫し、それを実行していくかどうかにかかっている。