2017年4月10日月曜日

抜本的に解決したい問題は多いけれど

 僕は大学の教育・保育系学部に勤めている。主に子供の発達、病気、障害などに関することを教師や保育士を目指している学生に教えている。講義をしている中で、ある現象に気付き、興味を持つようになった。病気でも子供の問題行動でも何でも良いのだが、何らかの問題をどう解決すれば良いかという質問に対して、ほとんど常に学生たちは「原因を見つけ取り除く」と発言するのである。彼らは、世の中の問題には原因があり、それを取り除くことが正しい対応であると、様々な場面で教えられているようなのである。確かに、この「原因を見つけ取り除く」は教育・保育業界の人達と話していると聞く機会が多い発想のように思う。
 そういう医療従事者だって原因論を重視するではないかという人もいるかもしれない。確かに医師は原因を重要と思っていないわけではない。医学生は根治療法と対症療法という言葉を教えられ、なんとなく根治療法の方が偉いという感覚も身につける。特に先端的なことをテーマにする医学研究者には原因を解明するという意識が強いかもしれない。しかし、臨床家は必ずしも原因のみに拘っているわけではない。それは、明確な原因が分かっている疾患よりも原因がはっきりしない病気の方が余程多いからということがあるし、それ以上に、臨床医にとっての最大関心事項は患者の病気が治ることであり、治らなくても少しでも苦しみを軽減することだからである。要は、治れば、あるいは患者の苦痛を軽減できればそれで良しなのである。たとえ原因がはっきりしている疾患であっても、原因に直接手をつけることに危険性や大きな苦痛がある場合は、原因に直接触れずに治療できる方法を探る。原因はまったく分からないものの、放置すればいずれ治る病気もあり、それが分かっていれば手を出さずに経過を見ることが原則となる。
 問題の原因を探り、その原因を取り除くという考え方は何かが足りない。おそらく医師は、原因よりも意識しているものが他にあると思う。それは何だろうと考えていたのだが、最近思いついたことがある。原因と結果だけを想定した考え方に足りない要素は機序(mechanism)である。もったいつけた割には大したことはない。当たり前といっても良いことかもしれない。
 人は原因と結果の関係を単純に考えやすい。一つの原因が存在する。そして、その原因が直接問題を引き起こす。だから、原因を取り除けば問題は解決する。こういう流れである。もう少し具体的な例をあげればこんな感じである。「ばい菌が原因となり、扁桃腺炎を引き起こす。そこで原因であるばい菌を退治すれば扁桃腺炎が治る。」
 こういう発想の第一の問題は、「一つの原因がある」という前提である。医学的な問題に限っても、単一原因を特定できない疾患や障害は数多くある。複数の要因が重なり影響し合うことで臨床像が決まってくるのである。通常、精神科的な問題などはほとんど全てが単一の原因では説明できないと言っても過言ではない。それどころか、通常単一原因と言われているものを取り上げても、ことはさほど単純ではない。例えば、先に書いた扁桃腺炎を例に考えてみよう。太郎君がA群溶血性連鎖球菌感染症による扁桃腺炎と診断されたら、その原因はA群溶血性連鎖球菌ということになる。しかし、本当にそれだけで良いのだろうか。感染症であるからには感染源がある。太郎君は同級生の健太君からA群溶血性連鎖球菌をうつされたのかもしれない。そうすると、菌を持った健太君がそばにいたことが原因とは言えないだろうか。また、A群溶血性連鎖球菌感染症が保育園で流行していたとしても、すべての子供が扁桃腺炎になるわけではない。菌が喉に付着していてさえ全く感染状態にならない子供もいる。おそらく本人の免疫機能を含めた体の状態が感染を成立させやすい人だけが疾病として発症するのだろう。ならば、A群溶血性連鎖球菌に対して感染状態を成立しやすいというもともと本人が持っている体の状態も原因の一つと言えるのではないだろうか。このように考えると、原因という言葉は自明なものでは全くなく、かなり難しい概念である。
 第二の問題は、原因が直接結果を生成するという誤解を生じがちだということである。このことも、A群溶血性連鎖球菌感染症による扁桃腺炎を使って考えてみる。百歩譲ってこの場合扁桃腺炎の原因はA群溶血性連鎖球菌単独だとしよう。だからと言って連鎖球菌が扁桃表面に達すれば魔法のように扁桃腺炎が始まるわけではない。菌が粘膜表面に結合し、そこから臓器内結合組織に入り込み、増殖しながら種々の化学物質を分泌し、細胞が障害されていき、白血球が局所に集まり、などなど多くの現象が展開することによって扁桃腺の炎症が生じる。これらの過程の成り行きによっては一旦感染しても扁桃腺炎にならないかもしれないし、あるいは扁桃腺炎以外の症状を呈するようになることもある。つまり、大元は単一の原因だったとしても、その原因が次の現象を引き起こし、生じた現象それぞれがさらに次の現象を引き起こすという連鎖が続いて扁桃腺炎という結果に至るわけである。この、次々と新しい現象が引き起こされていき結果に至る過程を機序という。
 この次々と引き起こされる現象の連鎖である機序という概念を考えていると、原因についての見方が変わってくる。通常、Aという現象によってBという現象が引き起こされた時、Aは原因であり、Bは結果である。BによってCが引き起こされれば、BはもちろんAもCの原因といえる。そうすると、現象の連鎖である機序によって結果が生じるということは、一つ一つの現象が全て結果の原因と見做すことができる。たとえば、A群溶血性連鎖球菌感染症によって扁桃腺炎が生じるには、粘膜を通過し、結合組織内で増殖し、毒素や酵素を産生し、そこへ白血球が集まって菌を貪食し、白血球から化学物質が放出され、などなど多くの現象が生じる。その一つ一つの現象がそれ以降に生じたことの原因となる。逆に、A群溶血性連鎖球菌が感染するより時間的前にも様々な現象の連鎖が考えられる。A群溶血性連鎖球菌を持った健太くんが太郎くんに接触したことが感染につながるし、さらに遡れば健太くんに菌をうつした人がいる。もっと言えば生物進化の過程でA群溶血性連鎖球菌が発生したことがのちの扁桃腺炎につながるわけだし、いやいや地球上にアミノ酸ができたのが原因だし、それどころかそもそも地球ができたことが、と切りがないのである。一体我々が無邪気に「原因」と呼んでいるものはなんだろう。
 かなり明確に原因を特定できそうなA群溶血性連鎖球菌感染症による扁桃腺炎であっても扁桃腺炎という結果に辿り着くまでに無数とも言える現象の、遥か過去からの連鎖が存在するわけである。その連綿と続く連鎖の中でA群溶血性連鎖球菌は必要不可欠な経路となっており、なおかつA群溶血性連鎖球菌を殺す事で疾患が治癒することから、A群溶血性連鎖球菌が明確な原因のように見えるだけである。しかし、実際にはA群溶血性連鎖球菌感染症による扁桃腺炎に至るまでには様々な現象、その一つ一つが原因といっても良い、の連鎖が続いているのである。多くの要因が次々と参入し、互いに複雑に絡み合いながら連綿と続く連鎖の過程が一旦A群溶血性連鎖球菌に収束したに過ぎないのである。そして、A群溶血性連鎖球菌の後には様々な因果の連鎖が並行して、あるいは影響しあいながら扁桃腺炎という結果に至るまで続いていくのである。
 A群溶血性連鎖球菌感染症による扁桃腺炎に話を限定すれば、このようにややこしく考えなくても「A群溶血性連鎖球菌が原因である」と言っておけば良いのかもしれない。しかし、世の中の多くのことは因果の連鎖が1つか2つの要因に収束したりはしない。何が現在の結果につながる影響を及ぼしたのかをずっと遡って検証しても、常に様々な現象が同時並行的に関与しているものが多いし、そもそも影響を及ぼした要因を次々と辿れず、藪の中のことが多い。ほぼ明確な原因を特定できる状態であっても、原因を取り除くことで問題解決とは必ずしもいかない。例えば、単一の異常遺伝子によってもたらされる優勢遺伝あるいは劣性遺伝の遺伝性疾患でも、遺伝子そのものに手をつけることは非常に困難である。最近は遺伝子治療と称するものの話題がちらほら出てくるが、受精卵が分裂し、一人の人間として生まれ育っていく過程で遺伝子異常の直接的影響だけではなく、二次的、三次的な影響が広がってきて現在の状態につながっているため、生まれ育った後で遺伝子の異常を修復できたとしても多くの現状の問題が解決されることはよほど例外的と考えられる。医学的なことだけを考えてもこの有様である。世間一般に生じていることのほとんどは、原因を1つか2つの事象に帰すことはできないのではないだろうか。
 あまり意地になって「原因を取り除くことによって抜本的な解決を図る」ことを目指すと、却って自体が悪くなる危険性がある。なぜなら、「原因を探るべきであり、見つけるべきであり、取り除くべきである」という考えに固執すると、客観的根拠がないままに犯人探しをしてしまい、ピント外れな「原因」を捏造してしまうからである。こうなると本来の問題が改善しないだけではなく、関係のないものを「原因」とみなして排除しようとすることによる損害が生じる可能性が高い。僕はこういう問題を引き起こさないためには、原因よりも機序を考える習慣を持つことが役に立つのではないかと考えている。生じた問題への対策を考えるとき、その問題の出現に直接影響を与えたと客観的かつ確実に指摘できる要因を一通り洗い出していく。そして考えられた要因一つ一つに直接影響を与えたと確実に言えそうな要因をさらに洗い出していく。こういう作業を地道に繰り返すことで、なぜその問題が生じたのか、少なくとも直近の機序を明らかにできる可能性が高い。機序さえ分かれば、たとえ「原因」が不明なままでもその連鎖を止める、あるいは不完全にする方法を考えていくことができる。原因を取り除いて抜本的な問題解決を図るよりも、部分的であっても確実に問題につながることを客観的に示せる機序に対して実行可能な介入をする方が、劇的な変化はなくても世の中を改善しやすいのではないかと思う。