2015年2月18日水曜日

やせ我慢

MMRワクチンが一時自閉症の原因ではないかと騒がれた。1998年にLancetに掲載された、MMRワクチン後に自閉症になった子供について報告したWakefieldの論文がきっかけである。その後、MMRワクチンと自閉症の関係を否定する多くの研究が発表され、MMRワクチンは自閉症の原因ではないとする意見が大勢になってきた。そして、そもそものWakefieldの論文が捏造であったことが判明し、Lancetは2010年に彼の論文を抹消した(詳しくはここここを参考に)。インチキ論文が完全に否定されるまでに10年余りが経過したわけである。この間、MMRワクチンの接種率が低下し、多くの子供が風疹や麻疹感染症の犠牲になった。一人の人が引き起こしたデマ騒ぎを収束させるのには、随分時間と犠牲者が必要だったことになる。
 WakefieldはLancetに論文を投稿したので、それなりに手間暇はかけている。しかし、世の中を見渡せば、ワクチンや放射線に関する根拠のない言説や、ホメオパシー、EM菌などの怪しげな代替医療を勧める発言が日々量産されている。間違った主張であればさっさと否定すれば良いではないかと考える人もいるかもしれないが、たった一つの何らかの非科学的な主張の誤りを否定することは膨大な労力を要する。それは、非科学的な主張に対して多くの人が納得できる反論を展開するためには科学的であらねばならないからである。サイモン・シンとエツァート・エルンストによる「代替医療解剖」という有名な本がある。ホメオパシーなどの代替医療を科学的に検証した本である。この本で取り上げられた代替医療について、ほとんどは効果がないと彼らは結論付けている。ただ、たったそれだけの結論に至るまでには、一つ一つの代替医療について膨大な科学的検証研究の報告にあたり、その内容を吟味している。物事に、科学的に誠実な批判を加えようとすると、うんざりするくらいの手間暇がかかるのである。
 話は変わるが、ここ数年くらい日本でもヘイトスピーチに関する議論をよく耳にする。幸いなことに僕が暮らしている環境においてはひどいヘイトスピーチを直接耳にすることはないのだが、伝え聞く東京や大阪の事例は気分が悪くなるような代物である。自分たちが感情的に反感を持つ相手に対して、「日本から出て行け」では飽き足らず、「死ね」とまで言っている。しかも、朝鮮学校に向けてこういったスピーチを行い、可哀想な子供たちを怯えさせたりもしている。何とも胸がざわつく話である。ざわつくなんてものではない。不快極まりないし強い怒りを覚える。このような無法が許されるべきではない。ヘイトスピーチを行う者には厳罰を与えるべきである。即刻逮捕すべく法律を作るべきである。こういうことをする奴らは日本の恥であるからして、国外へ追放しても良いのではないか。いっそ、殺してしまえば世の中が平和になるに違いない!
 と、話を進める訳にはいかないのである。当然のことである。何故なら、これではヘイトスピーチを行っている人たちと全く同じメンタリティに陥っているからである。感情的に憎悪し、問答無用で否定し、罵り、相手の存在さえ否定しようとしている。自分が否定したかったヘイトスピーチと同じ構造である。ヘイトスピーチを間違いだと糾弾するためには、ヘイトスピーチを悪と言えるだけの情緒に偏らない倫理観や価値観を持たねばならない。ヘイトスピーチに対抗するためには、ヘイトスピーチをする人々と同じ間違いを犯すわけにはいかない。多くの人を納得させるだけの理屈が必要である。こちらが差別的になってはいけないし、向こうと同列に不確かな根拠や歪曲した理屈をもとに言い募ってはいけないし、言論の自由とのバランスをどう取るのかも考えなければいけない。そもそも何を持ってヘイトスピーチとみなすのか、ということも根本的な問題である。なかなか面倒な作業である。薄弱な根拠や思い込みで好き放題に振舞っている相手に伍していくのは並大抵のことではない。
 非科学的な言説を科学的に批判することも、非倫理的な主張を倫理的に批判することも、そのコストは膨大なものになる。人間が長い歴史の中で積み上げてきたものは、自然に任せて堆積した訳ではなかろう。大して得にもならないのに、コツコツと労力を捧げてきた多くの人達によって守られたからこその結果ではないかと思う。記憶に新しいところでは、STAP細胞事件でも、誰に命ぜられたわけでもない多くの研究者が、STAP細胞の嘘を暴き、理研の問題を明らかにしてきた。結局、文化や文明は多くの人々のやせ我慢で守られてきたのだと思う。
 こういったことをつらつらと考えているうちに、忘れてはいけない非常に大事なことがあることに気づいた。人間はやせ我慢だけでは生きていけないということである。現実世界で生きていくために必要な諸々がある。程度は様々であっても、余裕がない人にはやせ我慢はできない。やせ我慢をしてコツコツと理念、倫理、論理、価値観といったものを守るために努力する人ができるだけ多く存在するためには、少しでも多くの人が余裕のある生活ができる社会であることが非常に大事である。多くの人が切羽詰まるような状態では犠牲を払ってでも文化を守ろうとする人は著しく減少するだろう。戦争はその典型だが、戦争にならぬまでも貧しい人が増える社会も危険だと思う。そう考えると、「お金以外に大事なものがある」とむやみに経済を軽視する発言をしたがる人には不信感を持ってしまう。

2015年2月5日木曜日

「さっさと結論を言え!」、あるいは三森ゆりかさんの著書のこと

学生「ちょっといいですか?」
僕「どうぞ。」
学生「前回の障害児保育の授業ですが、」
僕「はい」
学生「前日から熱が出て、」
僕「はい。」
学生「その日の朝になっても熱が下がらなかったんです。」
僕「そうですか。」
学生「それで病院を受診して、講義に出ることができませんでした。」
僕「なるほど。」
学生「それで、出られなかった日の講義時間にプリントが配布されたと聞いたのですが、、、」
僕「配ったかもしれませんね。」
学生「えっと、僕は出席できなかったので、そのプリントをもらえなかったのです。」
僕「要するに、前回の講義で配布したプリントを下さいと言いに来たの?」
学生「はい。」
僕「最初から言えば、一言で済むじゃない。」
学生「・・・・・」

製薬会社の人「この薬の水薬について、お伺いしたいのですが。」
僕「はい。」
製薬「水薬は大分使っていただけましたか?」
僕「いいえ、一人か二人です。」
製薬「水薬を使われての印象は何かありますか?」
僕「印象と言われても、一人か二人にしか使ってませんから。」
製薬「カプセルと水薬で、効果の違いについての印象が何かありますか?」
僕「え、水薬とカプセルで効果が違うのですか?」
製薬「お使いいただいている先生方に色々伺うと、」
僕「効果が違うという客観的データがあるのですね」
製薬「いえ、客観的データはありません。」
僕「では、水薬とカプセルの効果の比較云々と言ってもしょうがないですね。」
製薬「水薬の方が体重に合わせて微調整が可能だということでして。」
僕「それはそうでしょうね。で、微調整をすることで有効率が上昇するのですか?」
製薬「いえ、有効率が上がるというデータはありません。」
僕「結局、何を仰りたいのですか?」
製薬「・・・・」

 日常的によく遭遇するエピソードのサンプルを書き出してみた。両者を通じて一番目につくのは僕の傲慢さや性格の意地悪さだが、それは横へ置いておく。いずれも相手が何を僕に伝えたいのかなかなか分からないのである。前者は一言で済む結論を先延ばしにして、前置きばかり述べるため、相手の意図を了解するのにえらく手間暇がかかる例である。後者に至っては、結局何を伝えたいのかよく分からなかった。ひょっとすると、水薬の方が有効性が高いという現場の医師の印象論を伝えたかったのかもしれないが、それならそれで「客観的データで証明されたわけではないが」と断った上で、そういう意見をここかしこで聞いていると述べればよい。
 「主張したい結論を明確に述べてくれ」ということだ。人に何かを語るとき、特にそれが事務的な要件であったり学術的・技術的な内容であったりする場合は、自分が何を伝えようとしているのかを予め明確にしないといけない。また、それをどうやったら相手に分かりやすく伝えられるかを考えなければいけない。そうでなければ相手の貴重な時間を無駄に潰すことになる。
 最近、相手によく伝わる表現を考えるときに大変参考になる本を見つけた。三森ゆりかさんの「大学生・社会人のための言語技術トレーニング」(大修館書店)である。「言語技術」と銘打っており、会話表現に限った話だけが書かれているわけではない。しかし、具体的なスキルの解説は「対話」から始まる。三森さんは、対話は下記のように一定の形式に則った主張や説明をする必要があると述べる。
   1)意見の主張
   2)根拠(意見の背景にある理由・そこに至った原因など)
   3)意見の再主張
つまり、結論を最初に述べるということである。自分が述べようとする意見の核心をまず述べた上で、その理由や背景、あるいは具体例などを述べるのである。最後に、改めて論旨を短くまとめる。
 最初に結論を述べなければいけないということについて、僕は全くもってその通りだと思う。特に、実務的な、あるいは技術的な議論をするときには必須である。と書けば、まるで僕がこのやり方を、ずっと昔から一貫して実践しているように読めるかもしれないが、そうではない。それどころか、本来はくどくどと前置きを並べることが僕の話し方の特徴といってもよかった。ところが、僕が医師になったときのボスは「結論をまず述べなさい。」ということに非常にこだわる人であった。僕がくどくどと回りくどい話し方を始めると、直ちにきつい指導が入るのであった。
 今でも油断すると前置きから話し始めることも多いが、それでも昔に比べると随分改善したのではないかと思う。口頭での説明だけではなく、文章の書き方についても件のボスや、多くの先輩に繰り返し書き直しをさせられることによって、多少はましになった。この経験から、物事の表現法は練習によって改善するという確信を持つようになった。逆に言えば、世の中に説明が下手な人が溢れているのは、小学校、中学校、あるいは高等学校でそういうトレーニングがなされていないのではないかと疑っている。実際、僕自身を振り返っても、学校で対話のトレーニングを受けた記憶はない。大人になってからであってもトレーニングされる機会に巡り会えたことは運が良かった。
 他にも三森さんは対話における留意点をあげている。曰く、主語を明確にする、5W1Hを明確に提示する、単語で話さない(きちんと文章にする)、「わからない・別に・ビミョー・なんとなく」といった用語は使わない。どれもこれも非常に重要である。さらには、対話から発展して、物語の構造、説明の仕方、報告や記録の書き方、クリカルリーディング、作文技術などについて順次丁寧かつ具体的に解説をしてくれている。そのカバーする範囲は決して技術的な分野だけではなく、文学や美術を目指す人にとっても参考になると思う。タイトルには「大学生・社会人のための」と書かれているが、この本の内容を小・中・高等学校でみっちり教えるようになれば、日本の言論環境も変わっていくのではないかなと思う。