随分以前のことだが、DVの事例に関わったことがある。もちろん僕は、DVは全く専門外なので、単に一知人として関わっただけである。その際、ある教育畑出身の人が自分には口を出す資格があると主張し、教育行政の高い役職に就いた経歴をその理由に挙げた。僕はDVと教育行政がどうつながるのか理解できず、返す言葉がなかった。医学的な判断に口を挟もうとする教師も結構多い。患者の親に、薬を飲ませろとか飲ませるなとか、その診断は良いとか悪いとか意見する教師の話は、毎年何回か耳にする。
これだけを述べると教師の万能感を揶揄しているようだが、全く逆の現象もある。発達障害の診療をしていると、教師から受ける質問で最も多いのではないかと感じるのは、「今後の指導法を教えてください。」というものだ。診断概念や薬物療法について解説を求めるのであれば理解できるが、教師が医者に指導法を聞いてどうするのだろうか、と首を捻る。行動障害に基づく深刻な問題に関する質問ならまだしも、発達障害児に限った話ではなかろうと思われる、どこの学校でも日常的に経験されそうな問題への対処法でさえ質問されることがある。
つまり、教師と接していると、妙な万能感と妙な自信のなさの両方を強く感じてしまうのである。こういう例を何度も経験している中で、ひょっとすると教師には純粋に技術的な面での専門性の意識が希薄なのかもしれないと思う様になった。自分の能力で今可能なことは何で、限界はどこにあるのか。すぐに対応できなくても、どういう種類の問題に対しては専門家として解決策を追求出来るしするべきであるか。こういったことを明確に意識していないのではないだろうか。僕も教育系の大学で働いているので想像がつくのだが、教師に自分の専門性についての意識が全く無いとは思わない。理念的には「教師とはかくあるべし」という考え方をかなり叩き込まれているように見える。ただ、具体的な技術レベルの専門性という意識に乏しいのではなかろうか、という気がする。明確な根拠はないのだが。
教育については様々な立場の人が好き放題に意見を述べ、批判をする。教員養成課程でのトレーニングを受けたこともない人々の多くが、教育に対して一家言持っている様に見える。ともすれば世の中の問題点の原因を教育に求め、政治家、経済人、小説家、その他様々な人達が寄ってたかって教育制度を作り替えようとするし、実際その影響を受けた教育政策の変更がなされる。教師に確固たる専門性の意識が乏しい様に見えるのは、世の中全体が教育に高いスキルや方法論が必要と思っていないことの結果ではないかと僕は疑っている。もし、素人には計り知れない高度な専門性を想定していたら、気軽に教育制度の中身に手を突っ込みかき回す気になれるはずが無い。この辺りの事情は保育とよく似ている。準保育士制度の提案が最近話題になったが、そこには保育なんて子育て経験があれば出来る出来る、という舐めた姿勢が見て取れる。
教育にしても、保育にしても、その業務内容は極めて複雑であるし、日々想定外の事態への対処を求められる。常に一定レベル以上の成果を保障しようとすると、極めて高い知的レベルを要求されることになる。単にたくさんの知識を身に付けておけば対応できるものではなく、手元にある情報をフルに活用して総合的な判断を下し、次の一手を計画し、実行し、その結果を評価して方向を修正していく必要がある。つまり、職業的に教育に関わる以上、理念や倫理だけではなく、高レベルの技能や方法論を常に追求する必要があるはずだ。
教育の理念や目的だけなら国民全体で議論するのも分かるが、少なくとも技術的な面はもっと教育学の専門家が自律的に物事を決めていける様にした方が良いのではないだろうか。そして、教育の方法論を模索するにあたっては、客観的なエビデンスに基づいて企画することや、新しい試みに対しては必ずその成果を客観的に検証することを重視する必要があると思う。これを保障するためには、教師以外の国民がもっと教育に対して謙虚になり、教師の専門性を尊重するようになる必要があるのではないかと思う。今の政治家の言動や世論を見ていると、先行き明るいとは思えないけれど。
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