2015年4月27日月曜日

何でもかんでも障害

ここ5年から10年ほど、広汎性発達障害という診断を受ける子供が多い印象がある。保育園や小学校で何らかの問題を指摘された子供の多くは、担任の教師・保育士から病院受診を熱心に勧められ、受診した子供は判で押したように広汎性発達障害の診断がついてくる。斯くして、保育・教育界は高々5年10年の間に発達障害(広汎性発達障害と混同されている)が激増していると大騒ぎである。世界的にも広汎性発達障害(今は自閉症スペクトラム障害と呼ぶようになっている)の有病率は高くなる傾向があるが、それでもせいぜい1%どまりである。ところが、日本の学会などの発表では子供の数%以上が該当すると主張するものも多い。基本的な原因が生物学的な要因であると推測されている広汎性発達障害が、1世代も経ない間に激増するというのも素直に信じがたい。
 こういう状況を見るにつけ、当然診断に対する批判も増えてくる。僕自身も、どこかの病院で広汎性発達障害と診断された子供と出会う際に、本当に厳密に評価し診断基準に該当するかどうかを誠実に検討しているのだろうか?という疑問を抱くことが少なからずある。ただ、これは自閉症や、さらには発達障害を専門に診療している立場の考え方である。一般の人はもう少し別の観点からも疑問を呈する人が多いのではないだろうか。それは、何でもかんでも障害にしてしまって良いのかという疑問である。こんなに調子づいて自閉症なり広汎性発達障害なりの診断をしていては、世の中障害者だらけではないか。そんなに多くの人を障害者と認定するのはナンセンスではないか。無理やり障害の診断をすることに妥当性はあるのか。といったところだ。
 人口の多数が「障害」という特殊な扱いを受けることはおかしいという発想は、かなり理解しやすく自然であるように思える。実際、医療においても「正常」と「異常」の境目を「世の中で極めて珍しい」という観点で線引きしていることは多い。もっと具体的に述べると、検査データが異常かどうかの判断を、平均値を2標準偏差以上下回る(あるいは上回る)ときという基準に頼ることが多い。これは分かりやすく言うと、そういう値になるのは全人口の2.3%未満しか存在せず、かなり珍しい現象だということを示している。典型的な具体例は低身長で、各年齢での平均身長を2標準偏差を超えて下回ったときに低身長と診断する。しかし、珍しいからということで人口の一定の割合を「異常」と定義することには問題もある。常に一定の割合の人が「異常」と考えるのも変な話である。そもそも「異常」とは何かということはとても難しい問題である。
 現在、障害は国際生活機能分類で定義されている。簡単に述べれば、ある健康状態において自分が属する環境の中で自分一人の力では食べたり、話したり、物を操作したり、移動したりという活動が十分にできないことや、仕事や学習、余暇活動など社会的活動への参加が十分にできないことを示している。つまり、自らの健康状態では、属する環境の中で暮らし辛い状態なのである。ある社会集団の中で珍しいほど少数かどうかではなく、暮らし辛いかどうかが障害があるかどうかの判断根拠となる。
 例えば、何らかの理由である地域のかなり多くの人が暮らし辛いとき、珍しくないから「障害には当たらない」と主張しても良いだろうか。非常に貧しい国で、子供の半数くらいが栄養失調に基づく生活の困難さがあるとき、あるいは長い内戦状態のある国で多くの人々が四肢の運動障害を伴っているとき、多くの人が同じ境遇にあって珍しくもないので一々障害とみなす必要がないと主張しても良いのだろうか。そんなことはない。自分一人の力で十分な活動や参加ができない人には障害があり、援助が必要なのである。
 「何でもかんでも障害にしてしまって良いのか」という問題に戻るが、正しい回答は「ダメ」である。何故ダメかという理由については、2つの次元がある。まず、障害と認定する以上は独力では活動や参加に困難さがあるという条件を満たす必要がある。「困っている」ことを正しく認定できているかどうかということである。さらに、どういう種類の困難さがあるかという評価も妥当でなければいけない。困難さの生じる状況によって必要な援助も異なるからである。
 上に述べたように、受診する子が全て「広汎性発達障害」という診断であれば、丁寧に評価したのだろうかという疑問が湧いてくる。しかし、「何でもかんでも障害にしてしまって良いのか」の意味が何らかの障害と診断される人の数が多すぎる、という意味なら、必ずしも多いから不適切とは僕は思わない。障害の境界が少々広がり障害と目される人の数が増えても、その困難さに対する援助が用意される環境を構築すれば、その人たちの困難さは解消されるか軽減する。より自立して生活できる人が増えていけばそれで良いのではないかと思う。日々の困難さに苦しんでいる人たちに対して、援助に値する障害かどうかを認定するような態度をとる必要なんてさらさらないと考えている。

2015年4月20日月曜日

内田樹 編「日本の反知性主義」

小さいとはいえ、一応大学と名の付く職場で働いている。大学といえば知の探求がその本来の使命だろう、と思いたいのだが、とても知的とは言い難い言説に接することが多く、忸怩たる思いを抱く。何しろうちの大学なんぞ、学生に求める重点目標が「さわやかな挨拶とマナーの向上」である。いや、さわやかな挨拶もマナーの向上も悪いわけではない。しかし、大学を名乗るならもっと知的な目標があっても良いではないか。僕が働く大学だけの傾向ではないのだろう。色々出てくる政府の大学改革についての提案を見ていると、あまり知性を重視しないのは日本全体の方向性なのだろうか、という気もする。
 最近、内田樹さん編集の「日本の反知性主義」なる書籍が出版された。今の大学には、知の探求とは反対の流れがあるように感じて日々不満を感じながらも、自分の頭ではそれを明確に整理できていなかったことから、これはタイムリーとばかりにamazonさんに届けてちょうだいとお願いしてしまった。まったく、酔っ払ってインターネットを見ていると、細々と散財してしまう。
 さて、読んでみるとなかなか興味深いことが色々書いてある。感心するような論考も多いし、単純に面白いと感じる文章もある。様々な人がそれぞれの観点から執筆した文章が集まっているので、漠然とした統一テーマはあるものの、書籍全体に書かれていることは変化に富んでいる。最近とみに集中力が低下した僕でも、比較的スイスイと読めてしまった。しかし、その読後感には複雑なものがある。こういうことで良いのだろうかという疑念が残る。
 疑念については後で述べるとして、まず、「知性」や「反知性主義」をこの本ではどう定義しているかについて述べる。内田樹さんは自説に固執することなく他人の言うことをとりあえず黙って聴き、「得心がいったか」「腑に落ちたか」「気持ちが片付いたか」どうかを自分の内側を見つめて判断し、それを以ってさしあたり理非の判断に変えることができる人を「知性的な人」とみなしている。つまり、内田さんは「知性とは知の自己刷新のことを言うのだろうと」考えているのである。さらに、知性とは集団的な現象であると主張する。すなわち、人間は人間集団として情報を取り入れ、その重要度を衡量し、その意味するところについて仮説を立て、それにどう対処すべきかについての合意形成を行うというのだ。その上で、こういった力動的プロセス全体を活気づけ、駆動させる力の全体を内田さんは知性と呼ぶのである。つまり、知性は「社会的あるいは公共的」なかたちでしか構築されないし、機能もしないのである。
 内田さんはさらに重要な指摘をする。「社会的あるいは公共的」であるためには、時間を味方にしなければならないと言うのである。知性とは、死者達も、未だ生まれていない人達をもフルメンバーに含む、時空を超えた共同体としての営みだと言うのである。このことに関連して、内田さんは「科学者は先行する世代の科学者達の肩の上に立って仕事をする」というポパーの言葉を引用している。
 以上の論考を踏まえて、内田さんは反知性主義の際立った特徴はその狭さと無時間性にあると指摘する。反知性主義者達は今の自分のいるこの視点から「一望俯瞰すること」に固執し、自分の視点そのものを「ここではない場所」や「いまではない時間」に導くために何をすべきかを問わないからである。
 鷲田清一さんの知性に関する考え方も興味深い。鷲田さんはまず、複数文化がいかにして共存するかという問題について、エリオットの「(一つの社会の中に階層や地域などの相違が)多ければ多いほど、あらゆる人間が何等かの点において他のあらゆる人間の同盟者となり、他の何等かの点においては敵対者となり、かくしてはじめてたんに一種の闘争、嫉視、恐怖のみが他の全てを支配するという危険から脱却することが可能となるのであります。」という言葉を引用し、社会の平和を保つためには、多様な摩擦が存在することが必要であると述べている。そして、知性を身につけるほど世界を理解するときの補助線や参照軸が増殖し、世界はより複雑なものとなり、理解することが煩雑になる。世界を理解するためには煩雑さに耐えることが必要であることを知り、複雑さの増大に耐える耐性を身につけていることが知性的ということなのだと鷲田さんは主張する。うーん、深い。
 白井聡さんは反知性主義の定義を明確にすることから話を進めている。白井さんはホーフスタッターの言葉を引き、反知性主義とは「知的な生き方およびそれを代表するとされる人びとに対する憤りと疑惑」であり、「そのような生き方の価値をつねに極小化しようとする傾向」と定義している。その上で、反知性主義は積極的に攻撃的な原理であることや、大衆民主主義社会では反知性主義の危険性が高まることを指摘している。そして、現代の反知性主義が活気づけられる2つの文脈として、資本主義のネオリベラリズム化と学問における啓蒙主義の公然たる放棄があると主張している。
 著者によって考え方は異なるが、いやだからこそ、知性とは何かということについて多面的な考え方を知ることができて面白い。反知性主義という言葉についても、ホーフスタッター以来の歴史や、単なる無知や非知性とは異なる概念であることを知ることができた(無知とは僕のことである)。それぞれに成る程と頷いてしまう。上に記した以外にも、反知性主義を効率と予定調和を目指す「台本至上主義」によって説明する相田和弘さんや、科学に内在する知性の退行について論じた中野徹さんの論考も非常に興味深いものであった。
 さて、内田樹さんはその原稿の最後で、現在の政治状況を猛烈に批判する。曰く、日本は全ての制度の株式会社化のプロセスを進んでおり、金儲けに最適化したシステムだけが生き残ろうとしている。国政の政策の適否は50年後、100年後の日本という国の状態によってのみ検証される。しかるに、今の為政者たちは自分たちの政策が歴史的にどう検証されるかということには何の興味も持っていない。極めて断定的な筆致なのである。ここでは、何故「日本は全ての制度の株式会社化のプロセスを進んでおり、金儲けに最適化したシステムだけが生き残ろうとしている」と言えるのか、何故「今の為政者たちは自分たちの政策が歴史的にどう検証されるかということには何の興味も持っていない」と言えるのか、ということの根拠は示されない。「国政の政策の適否は50年後、100年後の日本という国の状態によってのみ検証される」ことに異存はないが、さて、今の国政ではその検証に耐えないと言えるだけの根拠も述べられていない。
 内田さんは、知性というものを考えるにあたって自説に固執することなく他人の言うことをとりあえず黙って聴き、吟味することを重視しているのである。そして、知性とは社会的あるいは公共的なものであることを強調している。それが何故、丁寧に根拠を積み上げることなく、現在の国政のあり方を全否定するような乱暴な主張をするのであろうか。
 白井聡さんは学問における啓蒙主義の放棄について説明する文脈で、突如現在の精神医学や臨床心理学の批判を始める。精神分析学の衰退と、脳生理学、薬物療法、認知行動療法の発展している現状を、「人間とは何か」を問う学問の代わりに「人間の死」を事実上の前提とした学問が知の制度の中心を占めるようになっていることを表しているというのである。何故だか白井さんは、臨床家は精神分析学か、投薬及び認知行動療法かを二者択一で選んでいるように考えているようなのだが、おそらくそのようなことはない。臨床家は目の前の患者をより良く理解し、苦しみを軽減することに役立つものを重視しているだけだと思う。僕は精神分析学についての教養には欠けているので、色々知ったようには言えない。しかし、フロイトも精神科医である。臨床経験を重ねる内に、患者の病態を理解するモデルとして精神分析学に至ったのではなかろうか。別に思想家を喜ばせようとして理論を深めていった訳ではないのではと想像する。精神分析学の勢いが衰えたことと、現代社会において反知性主義が優勢になったことを直結させることには無理があるのではないかと思う。
 どうもこの本の執筆者には何かを予め是として、論を進めている部分が多いように思える。もともと内田さんの編纂の意図として、「特定秘密保護法、集団的自衛権行使容認、学校教育法の改定などの安倍政権の動きへの市民レベルからの批判が何故起こらないか、という疑問が起点となっている。」ということが出発点となっているので、特定の政治的立場が前面に出やすいのは分かる。しかし、自分が問題と感じているものを批判するからこそ、根拠を十分に用意し、丁寧に論を進めていくべきではないかと思うのだが、ネオリベラリズム、安倍政権、あるいは原発に関しては「ダメなもの」という大前提で話を進めているように感じることが多かった。上記の白井さんのように個人的な思想に合わない状況を突如断罪するという態度にも危うさを感じる。名越康文さんと内田さんの対談に至っては、何か命題を出すたびに「そうなんですよね」「そうそう」とお互いに頷きあっているような文章が続き、気持ちが悪い。印象や直感的に受け止めたことは一切述べるべきではないと主張しているのではない。直感的な印象を主張するならするで、その論拠を丁寧に積み上げるべきで、断定的に主張することは「知性的」とは思いにくい。
 もちろん著者が高橋源一郎さんや小田嶋隆さんのように作家やコラムニストの場合、自分の内なる声や直感に端を発する考察をすることは、それはそれで価値のあることだとは思う。しかし、編者の内田さんはこの本を「共同研究」と称している。同好の士が集って、「そうだよね、そうだよね、うんうん」と納得し合うようなものが研究とは思えないし、ましてや「反知性主義」に一矢報いることにはならないのではないだろうか。どの著者も深い知性と広い教養を持っているのだろうなということは、それぞれの稿を読めば推測できる。今ひとつ教養にかける僕が批判しても、すっきりと説得力のある文章にはならないだろうとは思いながらも、このなんとも言えない嫌な読後感を書き留めておきたいと考えた次第だ。

2015年3月27日金曜日

記憶力

 学校や幼稚園・保育園で働く先生対象の研修会で、障害を持つ子供についての講演を依頼されるとき、事例を中心に話してくださいと言われることが非常に多い。教師や保育士は判で押したように事例が好きである(というふうに僕には見えている)。そういう時、僕は必ず「事例は苦手です。」と言うことにしている。これに深い理由はない。単に、記憶力が悪いからである。
 記憶という言葉は色々な意味を含むが、ここでは過去の情報を時間が経ってから意識に上らせる能力と考える。記憶にはエピソード記憶と意味記憶がある。エピソード記憶は「いつ」「どこで」「誰が」「何をした」ということと密接に結びついた記憶である。一方、意味記憶とは言葉の意味、物の名前や概念、法則や規則といった情報の記憶である。僕はどちらの記憶能力も非常に悪い。人の名前や漢字を典型例として、意味記憶が大層貧弱である。しかし、意味的に関連付けたものや理屈で説明できるものはある程度覚えることができる。意味記憶以上に、僕のエピソード記憶はボロボロなのである。10年前はおろか、1週間前のある1日の出来事や食事を正確に思い出せることがほとんどない。漠然とした匂いや雰囲気、あるいはクオリアとでもいうようなものの記憶は少し残っているのだが、具体的な記憶が残らない。大げさにいえば、僕は思い出のない人間である。
 エピソード記憶が弱いと、特定の事例をなかなか思い出せない。頭の中では色々な事例の断片的な記憶が、カオスのように入り乱れている。といって、病院の記録を検索して、これはという事例のカルテを出してくるのは面倒である。そういう事情で、僕は講演の中に事例を混ぜることはほとんどない。勢い、理屈が中心の話になる。精一杯、抽象的で理論的な話を目論む。ところで、大概講演の後で会の主催者側の人が挨拶をし、講演内容を褒めてくれる。褒めてくれること自体は外交辞令だから、さして思うことはない。ただ、どの様に褒めるかといえば、「先生のお話は、とても具体的でわかりやすく...」と言われることが多く、首をかしげる。
 後付けの理屈なのだが、障害を持つ子供の支援を考えるときに、瑣末な具体を羅列するよりも理論的枠組みとか考え方を重視する方が良いと思っている。「○○には△△」「××には~~」といったマニュアル的対応では、無限にバリエーションがある日々の問題に柔軟に対応できないと思うからである。だから、僕の話の中では、理屈で考えよーね、共感なんかに頼っちゃためだよー、具体的な評価と具体的な戦略が大切ですよー、僕は情緒的な話は嫌いですよー、と繰り返し強調するようにしているつもりである。ある学校の研修会で、やはり終了時に挨拶された方が「先生には子供たちに寄り添うことが大事ということを教えていただいたと思います。」と仰しゃり、頚椎を脱臼するくらい強く首をかしげたことがある。
 この話には、落ちも結論もない。

2015年3月15日日曜日

発達障害理解の入り口:最初に理解しておくべきこと

 教師が発達障害について学ぶときにまず最初に押さえておくべきと、僕が考える項目を具体的に説明する。

1.大前提

1)発達障害は行動・認知特性と環境のミスマッチであり、その種類は一つではない

病型に関わらず発達障害児の困難さを規定する要因は2つある。本人の物事の受け止め方(認知)や振る舞い方(行動)が平均的な子供のそれとはずれているということと、生活している環境がその行動・認知のずれ方と上手く合わないということである。例えば注意を向ける範囲が平均的な子供に比べて狭すぎたり(あるいは広すぎたり)、他人と接する際に直感的に相手の気持ちや考えを読み取り計算に入れる能力が弱かったり、といったことである。
 こういった特性それ自体は善でも悪でもない。本人の生活を阻害するかどうかは暮らす環境との組み合わせによって決まる。例えば、注意や興味が狭い範囲に集中する程度が強い場合、人の話を聞き逃したり重要な状況の変化に気づけなかったりすることにつながるかもしれないが、特定の活動に集中せねばならない環境であればむしろ有利に働く。人の気持ちを敏感に読み取れる方が一見良さそうに思えるが、世の中には常に人の顔色ばかり伺っていては成功しない領域もある。人の行動・認知の特性と環境との組み合わせがうまくいっていない時に暮らし辛さが発生する。つまり、障害とは本人に固有の特徴ではなく、本人の行動・認知特性と環境のミスマッチによって生じた状態像である(このことに関連して、国際生活機能分類 - ICFによる障害の考え方を理解しておくべきである)。
 自閉症スペクトラムでも注意欠如・多動症でも学習障害でも、平均的な子供からずれている特性は一つではない。発達障害に関連する多くの病型を通じて考えれば、非常に多くの種類の「ずれ」が存在することになる。それぞれのずれと特性と環境のミスマッチの結果、あるいは複数のミスマッチの複合体として現実の困難さが生じることになる。
 なお、行動・認知の「ずれ」ということからもう一つ分かることがある。上述のように、どの様な行動・認知の特性のずれかは個人個人で様々であるが、さらにはそれぞれの特性のずれ方の程度も様々だということである。本人の特性のずれ具合も様々であれば、取り巻く環境の許容力も様々である。つまり、発達障害は程度問題なのである。自閉症か否か、注意欠如・多動症か否か、などと白黒を明確にすることに拘っていると、ピントがずれた理解になる。

2)問題を認める
 
発達障害児に限らず子供が日々の生活の中で何かがうまく行っていない時、周囲の大人達(親、教師など)は「できない」という現実を否定することから始めることがよくある。「出来るのにしない」、「私の注意を聞こうとしない」、「こんなことをしでかすなんて信じられない!」といった具合である。しかし、子供がわざわざ意図的に失敗するはずがない。誰が好き好んで恥をさらしたり叱られたりするものか。失敗するときには、なんらかの理由があってうまくいっていないのである。出来ないのである。そして、本人に自覚があるかどうかにかかわらず、困っているのである。何かが出来ない、そして困っているということを認めることから支援は始まる。
 教師と話していると、「自閉症だから支援が必要」、「ADHDだから援助が必要」という発想を持つ人が多い。それは考える方向が逆である。「出来ないから、困っているから支援が必要」なのであり、平均的な環境で支援が必要な状態があれば、その基盤となる問題は何かと検討を進める中で、行動・認知特性と環境とのミスマッチが存在すれば、主たる問題は発達障害として理解できるという話になる。自閉症とかADHDという診断は、生活の中で困るかもしれないという予測因子になるのであり、支援の根拠ではない。支援の根拠は困っていることや近い将来に高確率で困りそうだという状況であり、発達障害かどうかに関係なく全ての困っている子供に、問題に応じた適切な援助を用意するという発想が必要である。ただし、当然のことだが子供のすべての問題を発達障害と結びつけてはいけない。

3)本人の性格に原因を求めたり、倫理的問題にしない

繰り返し述べてきたように、問題が生じるのは本人要因と環境要因の相互作用の結果と考える。「努力が足りない」「我儘」「依存心が強い」「意欲がない」「自己中心的だから」「人に対する思いやりがない」といった台詞(もちろん考え方も)は禁止である。もしも本人の性格や人間性が根本的におかしいことが問題の原因なら、問題を解決するためには本人の人間性を変えないといけない。別の人間に変えて見せようという話になる。これは不可能だ。本人の行動・認知特性をそのままで認めた上で、うまく社会に適応させるにはどういう工夫をすればよいかを考えれば建設的である。

2.対策よりも評価・分析

何か問題が生じているとき、対策として何をすれば良いかと次の一手を知ることばかりに捉われる人が多い。しかし、意識して対策を練ろうという状況は、通常そう単純な話ではない。本人の種々の特性と、環境の複数の要因が複雑に絡まって問題が生じていることがほとんどである。直感的な対応やマニュアル的な対応で何とかなるのなら、問題解決を意識せざるを得ない状況にはなっていないだろう。対策を考えるよりも現状を評価・分析し、どういう要因が今の問題を形成しているのかを考えることが必要である。教師は極めて高い知性を要求される職種である。

1)状況を具体的に認識する

各論的に個々の問題への対処を考えるときに、具体的にどういう状況において、具体的にどういうことに取り組んでいるときに、具体的にどういう問題が生じるのかということを把握することが基本である。
 学習面で問題が生じているのであれば、まずどの教科のどの段階まで習得でき、どこで躓いているのかを出来るだけ明らかにするべきである。特に算数などの積み重ねがものをいう教科では、学年を下って検証し、躓いた段階を明らかにする必要がある。出来ることと出来ないことの差がないかについても検討が必要である。読字、書字能力は全ての学習の基本となるので、特に慎重に評価すべきである。一見読み書きできているように見えても、スムーズさに欠ける場合や、読み誤りが多い場合は注目する必要がある。
 問題行動については、誰にでも状況が目に浮かぶように具体的に把握する必要がある。例えば、「落ち着きがない」という認識よりも「1時間の授業中に3、4回は勝手に立ち上がったり歩き出したりするし、席に座っている間も鉛筆や消しゴムを意味なくいじっているときの方が多い」という認識の方が具体的で良い。
 問題行動が生じる前後の状態をできるだけ詳細に把握することは、その行動がなぜ生じるかというメカニズムを考える上で重要である。特に、ほかの子供との喧嘩になったり暴力を振るったときは、その行動自体にばかり注目されがちなので、注意が必要である。必ず前後の状況を可能な限り検証しなくてはいけない。人の行動は、その行動が生じた状況でかなり説明ができる。学校で生じたことを家庭の問題として説明しようとする人をよく見かけるが、ある行動を生じさせる直接的なメカニズムは、学校で生じたものであれば学校に、家庭で生じたものであれば家庭に存在する。
 問題となっている行動の前後の状況で何が特に重要なのかは、1回のエピソードでは判然としないことも多いだろう。しかし、同じ問題行動が繰り返し生じている場合には推測が可能となることが多い。これをより確実にするためには、記録を取ることが重要である。個々のエピソードの際には何が重要かはっきりしなくても行動自体とその前後の状況を可能なかぎり具体的に記録しておく。こうすることによって、後日記録を読み返しているときにキーとなる要素に気づける可能性が高くなる。

2)日常全般から本人要因を推定する

目を引く問題が生じた時だけに注目していても、本人要因を推定しにくい。発達障害児の行動・認知面の特徴(平均的な子供とのずれ)は、普段の生活の中で認められることが普通である。何も難しく考える必要はない。普段から周りの子供と見比べた時に「おや?」と感じることがあれば無視せずに記憶に留めるようにすれば良い。
 例えば、何か他の子供に比べて理解が悪いように感じたら、そこに注目する。我々は一度言葉にするとそれ以上掘り下げない傾向があるが、何に対してどのように理解が悪いのかも分析する。言語面だろうか。教科書やプリントに書かれた文章が正確に理解できないのだろうか。会話で目立つ特徴だろうか。単純に単語の意味や構文の理解が悪いのだろうか。それとも、言外に語られたことの理解が悪いのだろうか。言語面以外の理解はどうなのか。ものの扱い方や操作の仕方が分かっていないのだろうか。物理的な現象が理解できないのだろうか。ゲームのルールが飲み込めないのだろうか。対人的な振る舞い方とその結果として何が起こるかを理解できないのだろうか。あらゆることが同程度に理解できないのだろうか、それとも特定の領域のみが理解できないのだろうか。
 注意能力に疑問を感じた時には、それは注意を持続することが難しいのか、必要なことに注意を向けることが困難なのか、注意の向く範囲が広すぎるのか狭すぎるのか、などと色々な観点から考えてみると良い。記憶力に疑問を感じれば、それはどういう時にそう感じるのか、実際に覚えていないことは何なのか、高い記憶能力を示すことは全くないのかなどと考えを進める。記憶力の問題と思っていても、本当は記憶力以外の問題であることもしばしばある
 日常生活における振る舞い方や、物事の捉え方あるいは認識の仕方で、どこか周囲の子供とは違う、あるいは浮いていると感じた時、その印象を大事にし、そのずれている領域や程度を具体化していくと良い。その過程で判明するかもしれない能力の偏りは、知能、言語能力、長期記憶能力、短期記憶能力、注意能力、抑制能力、計画性、社会性、コミュニケーション能力、思考の柔軟性、などなど認知心理学的観点で整理できることが多い。しかし、無理にこういった専門用語らしきものにまとめる必要はない。むしろ日常用語で具体的に「○○を○○することが弱い」、「○○を○○と受け止める傾向が強い」と表現する方が良い。
 こういったことを日常的に観察し、考察を進める際に重要なポイントがある。教師自身の目や耳で確認できる事実を根拠とし、できるだけ主観的な解釈を交えないようにすることである。例えば、注意の集中や持続が悪いということは、「計算問題を続けて3問以上解けない」とか「3フレーズ以上の説明は最後まで聞いていることがめったにない」という事実を上げることで確度の高い推測が可能となる。

3)本人要因を前提に環境との不整合を考える

上に述べてきたように、本人の振る舞い方や物事の受け止め方などの特徴(平均からのずれ)を把握すると、出来ないことや問題となることが生じるメカニズムが推測できる可能性が出てくる。ここで重要なことは、平均からずれた本人の特徴を「欠点」と考えないことである。そう考えると必然的に「欠点をどう直すか」という話に流れていく。こういう発想は、子供と教師自身の首を絞めることになる。「1.大前提」で述べたように、本人の特性自体は善でも悪でもない。問題が生じる時には本人の特性を許容できない環境があると考え、環境のどの部分を変えれば暮らしやすくなり、楽しみ、学べるようになるのかを考えていく必要がある。
 本人の特性のどこが、環境とどのように不整合を起こしているのか、という仮説を立てることによって、介入方法を計画できることがあるし、その介入がある程度の成果を収めれば仮説の妥当性が確認できる。また、仮説が妥当性を欠いていれば、それに基づく介入計画は成果を上げないだろう。その場合は、さらに新たな仮説を組み立てていくことになり、それも成果である。教育や指導といえば何か絶対的に正しいことがあり、それを適用して完全に問題を解決すべきであると考える人々が、この社会には一定数いる。そして、偏見かもしれないが教育現場にはそういう発想をする人が多い印象を持っている。しかし、発達障害児を理解するためにはよく観察し、仮説を立て、検証するというサイクルを繰り返すことにより、少しずつ事態を改善していくことが早道だと思う。そのためには、科学者、あるいは技術者の目と発想を持つことが有用である。

3.その他

1)病院は重要だが、受診を焦らない

病院は、それなりにトレーニングを受けた医師が評価し、必要に応じて検査もし、発達障害児の特性を綺麗に整理してくれる可能性が高い。また、日常的に困っている状態に対してどう対処すれば良いか助言をくれる可能性があるし、注意欠如・多動症の症状や一部の行動障害、あるいは不安などの精神症状に対する薬物治療ができる場合もある。診断書を発行し、種々の福祉制度へ繋ぐこともサポートしてくれる。病院とはなかなかのポテンシャルを持っており、価値のあるものと言える。したがって、何らかの発達障害が疑われる子供は、一度は専門医のいる病院を受診した方が良い。
 しかし、病院を受診するにあたって満たしておくべき重要な条件がある。それは、保護者が(出来れば本人も)納得して受診するということである。保護者との共同歩調は極めて重要である。問題の解決を焦るあまり、ほとんど泣くように懇願したり、あるいは脅迫じみた強硬さで受診するように指示し、保護者が納得しないままに病院を受診することがよくある。このようなことをすると、教師は多くのものを失う可能性がある。何よりも大きいのは、保護者との(場合によっては子供とも)信頼関係が破壊されることである。学校で講じる対処法を保護者が理解し、納得しておく必要があるが、これが難しくなる。また、学校だけで行えることには限界があり、様々な家庭の協力が必要になることも多いが、保護者との信頼関係が崩れるとこういったことが難しくなる。
 保護者が納得していないままに病院を受診すると、診断の精度が落ちるという問題も知っておかないといけない。発達障害の診断は何か検査をすれば客観的に確定できると誤解している人が世の中には多い。しかし、診断する上で最も重要なものは日常生活で観察できる行動に関する詳細な情報である。多くの子供は保護者と共に受診するので、保護者からの聞き取りが最も重要な情報源になる。保護者が問題の存在を理解できていなかったり納得していない場合、正確かつ詳しい情報が医師に伝わらない。その結果、正確な診断が難しいこともあるし、何も問題はないと説明されて帰ることも有り得る。焦って受診させたばかりに、却って問題の把握や対処が遅れることになりかねない。
 実は、教師が自分の指導戦略を練る上で、病院での診断の価値は極めて限られている。通常、なんらかの発達障害の診断を受ける子供たちは、複数の行動・認知上の特徴や、二次的に生じた様々な精神的問題を抱えていることが普通である。ところが、医師の下す診断は代表的な一つか二つの病型を指摘するだけのことが多い。一つか二つの診断名を知らされても、その子供に認められる様々な特徴や問題の一部が明確になるだけである。しかも、「発達障害理解の入り口:障害病型別に学ぶことは適切か」で述べたように、診断名に対して自動的に対処法が定まるわけではない。教師が病院の診断を自分の指導戦略に有効に生かしていくためには、病院で下される診断一つ一つの一般的意味を理解していないといけない。しかも、通常それだけでは非常に情報不足なので、結局は教師自身が子供の行動・認知特性をかなり把握しておく必要が有る。
 多くのものを失いながら無理に病院を受診させても、診断が不正確になる可能性が有る上に、診断を子供の指導に活かすことが難しい。生じている問題が大きいほど、まずは保護者と良好な関係を作り、子供を支えるチームの一員となってもらうべきである。そして子供のより良い生活を一緒に模索する中で、一つの有効かもしれない道具として病院受診を提案するのが良い。

2)教師が(自分が)成し得てきたことを確認する

どんなに困り果てた状況が生じていても、子供に対して有効な指導が一切できていない教師はほとんどいない。他の教師や保護者にも協力してもらいながら日常の指導場面を検証すれば、どんなに手強い生徒に対しても、多少なりとも成果をあげる指導をしている場面をいくつも確認できるはずである。これこそがその教師の能力であり、強みである。子供を指導するときには子供が出来ていないことよりも出来ていることに注目する方が上手くいく。0から何かを生み出すよりも、すでにあるものをより良く伸ばしていく方が可能性が高いからである。このことは教師自身にも当てはまる。自分が成し得てきたことを自覚し、それをテコに作戦を考えていく方が、何の当てもなくただ足掻くよりも成功率が高いはずである。

※最後に

 ここに書いたことはタイトルにあるように、発達障害理解の入り口である。職務として発達障害児を援助せねばならない人達は、この先際限なく勉強すべきだろう。診断概念ごとに特徴を解説した医学領域の文献はもちろん、応用行動分析や認知心理学、福祉制度やソーシャルワークの方法論、生徒指導や学級経営などの教育学で扱う題材など、役に立つ領域の文献は無数にあるだろう。ぜひ頑張って勉強していただきたい。その際、目の前の子供への援助にどう組み込めるかという、問題解決志向で勉強していただきたい。

2015年3月12日木曜日

発達障害理解の入り口:障害病型別に学ぶことは適切か

 最近、教師が発達障害を理解するためにはどういう勉強をすべきなのだろうとよく考える。「教師」と書いたが、保育士やソーシャルワーカーなど、職業的に発達障害児の日常的な支援に携わる人たちを広く含む。
 発達障害のことを勉強するためにはまず、自閉症スペクトラム障害(広汎性発達障害)、注意欠如・多動症、限局性学習症(学習障害)を始めとして、関連する障害の一つ一つを教科書的に勉強するのが正攻法であろう。しかし、こういう正攻法で現実的な対応に生かせるレベルまで勉強することは結構な時間と努力を要する。発達障害児の親であれば自分の子供に関連のあるものに絞って勉強すれば良い。しかし、教師や保育士など職業的に発達障害児支援の中心となる人達は、様々なタイプの子どもたちに対応することが求められる。だからといって、膨大な領域に渡る事柄を理解し習得することは極めて難しいことではないかと思う。
 別に教師は発達障害の特別な勉強をする必要はないと言うつもりはない。大いに勉強すべきである。それどころか僕は、教師は発達障害に属する各病型の診断ができる力を身につけた方が良いとさえ考えている(ここに書いた)。発達障害の診断過程は子供の行動の評価尺度として利用できると考えているからである。診断できる様になって欲しいというからには当然、相当勉強しても罰は当たらないと思っている。だが、理想的にはそうあって欲しいと考えているが、現実を見たときには諦めの境地に至ることが多い。おそらく教師は忙しすぎる。日々の業務に追い回され、発達障害について十分に勉強する余裕などなさそうである。
 もちろん教師は真面目な人が多く、少なからぬ人たちが努力して様々な本を読んだり講演を聞いたり研修を受けたりしている。しかし、中途半端に個々の障害病型について勉強するため、断片的な知識の寄せ集めになりがちではないかと感じている。今、目の前にいる子供についての理解を深めるということに繋がりにくいようなのである。あくまで印象論にしか過ぎないのだが、なまじ自閉症やADHDといった個別のカテゴリーの存在を意識することが、却って実践的な発達障害の理解を妨げているのではないかと、最近は考えることが多い。多くの人は、子供が特定の障害病型に当てはまるのか否か、黒か白か、ということにこだわりすぎるのである。しかも、診断名が明らかになると対処法が明確になると強く期待しすぎているように思う。
 特定の診断カテゴリーに当てはまるかどうかの線引きは結構曖昧である。世の中は、ごくごく平均的な子供集団と典型的な発達障害に綺麗に別れるわけではない。発達障害は程度の問題なのである。極めて特徴的な典型例では判断に悩むことは少ないが、程度が軽くなってくると診断すべきかどうか決めることは難しい。比較的似たような特徴を持った子供の一方がADHDなり自閉症なりに診断され、一方が特定の診断はできないと判断されることはざらである。受診した医師が違っていれば結論は異なりやすい。医師が同じであっても、日常に問題があると考えている人が情報を伝えるか、問題がないと考えている人が伝えるかによって最終判断は違ってくる。そういうときには病院で診断されたかどうかで現実に生じている問題や有効な対処・指導方法が変わってくるわけではない。
 さらにややこしいことに、診断名と対処・指導方法が1対1で自動的に決まるわけではない。発達障害の各病型の診断名は、本人の物事の捉え方や行動の仕方の特徴を示しているだけである。そういう特徴を持った子供が日常の生活環境の様々な条件と上手くマッチしない時に問題が発生する。しかも、一人の子供が診断名には反映されないプラスアルファの特徴や問題を複数伴っていることが多い。そういう複雑な要因と生活環境との相互作用の中で暮らし辛さが発生する。現実的な対応は一つ一つの具体的状況に応じて戦略を練る必要がある。つまり診断名は、個々の具体的状況ごとに対応の方向性を決める際の、重要ではあるが一つの情報にしか過ぎない。
 発達障害は、病型が何であれ本人の認知・行動特性と環境との相互作用で具体的問題が生じる。このことを認識しておけば、必ずしも個々の病型についての詳細な知識がなくてもなんらかの支援を開始することが可能だと思う。必要に迫られて発達障害の勉強を始めた人が、個々の病型の詳細な特徴を学ぶことから始めていたら、時間がいくらあっても足りない。すぐにでも何らかの支援を実行できるようにするためには、個々の病型について学ぶよりも先に抑えておくべきことがあるのではないかと思う。それは、「知識を得ること」ではなく、「考え方を学ぶ」ことである。発達障害理解の入り口として個々の障害病型を勉強するよりも先に理解しておくべきと僕が考えることは以下の通りである。長くなるので、詳細は稿を改めて説明する。一つ大きな特徴を指摘すると、具体的支援方法には言及していない。支援方法を知ることよりも、子供を理解できるようになることの方が優先順位が高いと考えているからである。

1.大前提
1)発達障害は認知・行動特性と環境のミスマッチであり、その種類は一つではない
2)問題を認める
3)本人の性格に原因を求めたり、倫理的問題にしない

2.対策よりも評価・分析
1)状況を具体的に認識する
2)日常全般から本人要因を推定する
3)本人要因を前提に環境との不整合を考える

3.その他
1)病院は重要だが、受診を焦らない
2)教師が(自分が)成し得てきたことを確認する

2015年3月6日金曜日

即戦力

最近、大学教育改革に絡んで即戦力という言葉をよく聞く。これに関して思うところがあり、文章としてまとめようと思った。しかし、3年前に既につぶやいており、その後たいして進歩していないので、その時のツイをまとめておく。

2012年02月06日(月)

1)最近「即戦力」という言葉に不快感を感じる。妙に「即戦力」を求める企業が目につく。そう都合よく即戦力は手に入らんだろう。しかし、企業はまあ良い。大学や短期大学が自分たちの売りとして「即戦力を育てる」などとたわけたことをぬかしているのを見ることがしばしばあり、腹が立つ。

2)僕が病院で診療をしていたときのことを考えると、本人のもともと持っていた能力が高く、きっちりとしたトレーニングを受け、臨床での実戦経験も豊富な医師が同僚として赴任して来たら、「即戦力」と表現して喜んだろう。つまり、「即戦力」は「有能な医師」とほぼ同義である。

3)当然、「有能な医師」は短期間では養成できない。6年間の大学教育だけでは到底足りない。「有能な人」を育てるためには時間がかかるのは医師だけなのか?そんなはずは無い。多くの職域で優れた人となるためには本人の努力はもちろん、適切な育成環境と、長い時間が必要なはずだ。

4)「即戦力」を求める企業はどういうつもりだろう。長いトレーニングを受けたベテランしか採用しないよ、という意味だろうか。もし、大学卒業したての人間に即戦力たるを求めているのであれば、その程度のレベルの低い仕事しかしてないんだよ、と喧伝しているのだろうか。

5)非常に高度な能力を要する職場が「即戦力」として大学新卒を雇用しているのであれば、短期間使い回して早々に捨て去ることができる要員を求めているとしか思えない。しかし、企業が「即戦力」を求めるのは良い。それぞれが、それぞれの経営方針により採用計画を立てれば良い。

6)しかし、大学や短大自ら即戦力となる人材の育成を標榜しているのを見ると悲しくなる。「うちは単純作業ならすぐに取り組めるし、単純作業しかできない、使い捨て用の人材を育成してますよ。」と公言しているようなものだ。高等教育機関なら長期的に成長していく人物を育てるべきではないか。

2013年01月03日(木)

何故教師や保育士を大学で養成するのか。手遊びを覚えるだけなら専門学校で良い。手遊びが子供を惹きつける機構や発達段階との関係を探求することで、手遊びが有効でない時にどう解決するのかを考え出せるかもしれない。高等教育は問題を設定し解決する力を育てることだと思う。即戦力養成ではない。

2015年2月18日水曜日

やせ我慢

MMRワクチンが一時自閉症の原因ではないかと騒がれた。1998年にLancetに掲載された、MMRワクチン後に自閉症になった子供について報告したWakefieldの論文がきっかけである。その後、MMRワクチンと自閉症の関係を否定する多くの研究が発表され、MMRワクチンは自閉症の原因ではないとする意見が大勢になってきた。そして、そもそものWakefieldの論文が捏造であったことが判明し、Lancetは2010年に彼の論文を抹消した(詳しくはここここを参考に)。インチキ論文が完全に否定されるまでに10年余りが経過したわけである。この間、MMRワクチンの接種率が低下し、多くの子供が風疹や麻疹感染症の犠牲になった。一人の人が引き起こしたデマ騒ぎを収束させるのには、随分時間と犠牲者が必要だったことになる。
 WakefieldはLancetに論文を投稿したので、それなりに手間暇はかけている。しかし、世の中を見渡せば、ワクチンや放射線に関する根拠のない言説や、ホメオパシー、EM菌などの怪しげな代替医療を勧める発言が日々量産されている。間違った主張であればさっさと否定すれば良いではないかと考える人もいるかもしれないが、たった一つの何らかの非科学的な主張の誤りを否定することは膨大な労力を要する。それは、非科学的な主張に対して多くの人が納得できる反論を展開するためには科学的であらねばならないからである。サイモン・シンとエツァート・エルンストによる「代替医療解剖」という有名な本がある。ホメオパシーなどの代替医療を科学的に検証した本である。この本で取り上げられた代替医療について、ほとんどは効果がないと彼らは結論付けている。ただ、たったそれだけの結論に至るまでには、一つ一つの代替医療について膨大な科学的検証研究の報告にあたり、その内容を吟味している。物事に、科学的に誠実な批判を加えようとすると、うんざりするくらいの手間暇がかかるのである。
 話は変わるが、ここ数年くらい日本でもヘイトスピーチに関する議論をよく耳にする。幸いなことに僕が暮らしている環境においてはひどいヘイトスピーチを直接耳にすることはないのだが、伝え聞く東京や大阪の事例は気分が悪くなるような代物である。自分たちが感情的に反感を持つ相手に対して、「日本から出て行け」では飽き足らず、「死ね」とまで言っている。しかも、朝鮮学校に向けてこういったスピーチを行い、可哀想な子供たちを怯えさせたりもしている。何とも胸がざわつく話である。ざわつくなんてものではない。不快極まりないし強い怒りを覚える。このような無法が許されるべきではない。ヘイトスピーチを行う者には厳罰を与えるべきである。即刻逮捕すべく法律を作るべきである。こういうことをする奴らは日本の恥であるからして、国外へ追放しても良いのではないか。いっそ、殺してしまえば世の中が平和になるに違いない!
 と、話を進める訳にはいかないのである。当然のことである。何故なら、これではヘイトスピーチを行っている人たちと全く同じメンタリティに陥っているからである。感情的に憎悪し、問答無用で否定し、罵り、相手の存在さえ否定しようとしている。自分が否定したかったヘイトスピーチと同じ構造である。ヘイトスピーチを間違いだと糾弾するためには、ヘイトスピーチを悪と言えるだけの情緒に偏らない倫理観や価値観を持たねばならない。ヘイトスピーチに対抗するためには、ヘイトスピーチをする人々と同じ間違いを犯すわけにはいかない。多くの人を納得させるだけの理屈が必要である。こちらが差別的になってはいけないし、向こうと同列に不確かな根拠や歪曲した理屈をもとに言い募ってはいけないし、言論の自由とのバランスをどう取るのかも考えなければいけない。そもそも何を持ってヘイトスピーチとみなすのか、ということも根本的な問題である。なかなか面倒な作業である。薄弱な根拠や思い込みで好き放題に振舞っている相手に伍していくのは並大抵のことではない。
 非科学的な言説を科学的に批判することも、非倫理的な主張を倫理的に批判することも、そのコストは膨大なものになる。人間が長い歴史の中で積み上げてきたものは、自然に任せて堆積した訳ではなかろう。大して得にもならないのに、コツコツと労力を捧げてきた多くの人達によって守られたからこその結果ではないかと思う。記憶に新しいところでは、STAP細胞事件でも、誰に命ぜられたわけでもない多くの研究者が、STAP細胞の嘘を暴き、理研の問題を明らかにしてきた。結局、文化や文明は多くの人々のやせ我慢で守られてきたのだと思う。
 こういったことをつらつらと考えているうちに、忘れてはいけない非常に大事なことがあることに気づいた。人間はやせ我慢だけでは生きていけないということである。現実世界で生きていくために必要な諸々がある。程度は様々であっても、余裕がない人にはやせ我慢はできない。やせ我慢をしてコツコツと理念、倫理、論理、価値観といったものを守るために努力する人ができるだけ多く存在するためには、少しでも多くの人が余裕のある生活ができる社会であることが非常に大事である。多くの人が切羽詰まるような状態では犠牲を払ってでも文化を守ろうとする人は著しく減少するだろう。戦争はその典型だが、戦争にならぬまでも貧しい人が増える社会も危険だと思う。そう考えると、「お金以外に大事なものがある」とむやみに経済を軽視する発言をしたがる人には不信感を持ってしまう。