2017年2月14日火曜日

宣言的記憶の発達

 人の記憶はどのくらいの時間情報を保持できるかで短期記憶と長期記憶に分けられる(厳密には短期記憶よりも保持期間の短い感覚記憶がある)。長期記憶は記憶内容を意識できる宣言的記憶と、意識できない非宣言的記憶に分けられる。そして、宣言的記憶には、世界の事実についての記憶である意味記憶と、自伝的出来事の記憶であるエピソード記憶が含まれる。言葉の意味を知っていたり、者の名前を知っていたり、何かの理論を知っているというような、いわゆる「知識」は意味記憶になる。これに対して、大学の受験の日には珍しく雪が結構降って辺りが白くなっていたなあとか、昨夜飲んだ味噌汁は少し辛かったなあというような、いつ、どこで、誰が、何を、という情報と強く結びついた記憶がエピソード記憶である。
 神経学の教科書に記述してある知識ではこういったことをさらっと書いてあるので、ふむふむ宣言的記憶は意味記憶とエピソード記憶に分かれるんだな、2つの違う種類の記憶があるんだ、と考えがちだ(少なくとも僕はそう理解していた)。しかし、記憶の発達研究の知見を見ると、意味記憶とエピソード記憶は結構関係が深い。
 発達の過程で最も早く確認できる記憶は視覚性再認記憶である。これは、目の前に提示されたものが過去に見たことがあると認識する記憶である。乳児には見慣れたものよりも新しい刺激を好む新奇選好という特性がある。これを利用して、過去に見たことがあるものと見たことのないものを同時に見せて、乳児がどちらを長く見るかを検証すれば、見たことがあると記憶しているかどうかを確認できる。一つのものを見なれさせた直後なら新生児でもどちらが目新しいかを判断できるし、生後3ヶ月児なら丸1日記憶が保たれる。
 乳児期早期には特定のものを知っているかどうかを判断するだけの単純な記憶であったものが、生後半年を過ぎると記憶の構成要素同士を関連づけることができるようになる。例えば特定の顔を記憶するときに、顔を提示された時の背景を結びつけて記憶できるようになる。複数の要素を関連づける機能は2歳にかけて次第に発達し、関連づけられる要素の数が増えるだけではなく、柔軟性を増していく。例えば、遅延模倣課題という手法を使った実験で判明したことにこのようなものがある。遅延模倣課題では、検査者が人形を使って演じた一連の動作を一定の遅延時間後に子供が模倣するかどうかを確かめる。生後半年過ぎの乳児でもこの課題で、連続した複数の動作を模倣することが可能である。しかし、実験者が動作を演じた時と記憶確認時で人形が異なっていると模倣できなくなる。ところが、1歳半を過ぎると違う人形を見せられても、検査者が演じた動作を模倣できるようになる。人形を使って演じる「動作」と、別の「人形」とを新たに関連づけることが可能となったのである。
 記憶の構成要素を柔軟に関連づけられるようになってくると、エピソード記憶が機能し始める。エピソード記憶は唯一の空間的時間的文脈の中で生じた出来事の記憶である。つまり、経験された文脈の詳細に関する記憶が必要となる。このような記憶を情報源記憶とも呼ぶ。エピソード記憶が機能するためには情報源記憶が必要である。情報源記憶は未熟ながらも3〜4歳の子供で確認でき、その後10歳を超えるまで発達し続けると考えられている。
 以上をまとめると、まず知っているものを初めて見るものから区別できるようになり、ついで記憶の構成要素同士を関連づけられるようになり、関連付けがより柔軟になってくる頃に情報源記憶が成立しエピソード記憶が機能しだす。様々な要素を柔軟に関連づけて記憶できるようになれば意味記憶を維持するには十分である。つまり、意味記憶がエピソード記憶より先に完成するのである。意味記憶とエピソード記憶はいずれも大脳の内側側頭葉、特に海馬体という部位の機能によって支えられていることが分かっている。共通した脳部位が担っていることと、出現順序およびその連続性を考慮すると、意味記憶はエピソード記憶のベースとなっている可能性が高い。
 僕は記憶力が弱い。記憶全般に問題があるので、僕の海馬体は安普請なのだろう。中でもエピソード記憶が極めて弱い。ついで機械的暗記が大変苦手である。その一方で、何らかの理屈や理論になったものは比較的覚えていることができる。これは何を意味しているのかよくわからないが、複雑に関連づけられたものはかろうじて覚えているということなのだろうか。最近、記憶の発達について調べる機会があった。記憶について勉強したからといって記憶が改善するわけではない。調べたこともすぐに忘れていくのだろう。せめて要点を文章にして残しておこう。それがこの文章を書いた動機である。時が過ぎて、記憶の発達について調べたということさえ忘れても、ささやかな爪痕が残っているのを目にすれば多少思うところがあるのではないかと期待して。

2017年2月3日金曜日

大人ってえ奴は

 子供は能力が低いし、狭い世界のことしか分かっていないし、本当に大したことない奴らのくせに、いろいろ屁理屈をこねて大人を批判する。大人は信用できないなどとほざいたりする。全くもって度し難い奴らだぜ。子供は黙って大人の言うことを聞いていりゃあそれで良いんだよっ!と言いたくなることがないといえば嘘になる。しかし、事実大人は信用できないと思わせるようなことをよくしでかすのである。僕にも未だに忘れられない、大人に不信感を抱いたエピソードがある。

1)小学生の頃、僕は本が好きだった。それを良しとしてくれたのだろう。僕の親は、馴染みの本屋に話をつけ、僕が読みたいと思う本を何でも持って帰って良いことにし、その代金を払ってくれていた。おかげで暇があれば本屋に長居をし、延々としゃがみこんで立ち読み(?)をしていた。いつも立ち上がった時にはめまいがしていたことを覚えている。そして自由に本を選んで家に持ち帰り、続きを読んでいた。読みたい本を自由に読める環境を作ってくれたことを、今考えても親に感謝すべきことだと思っている。しかし、この思い出には消し難い染みがついている。ある日、僕はふと六法全書を手に取った。社会の仕組みも大して知らない小学生だったので、当然法律なんてよく知らなかった。ただ、世の中の様々なことが法律で定められており、法律は重要であることだけは知っていた。どんなことが定められているのだろうか。一度興味を持つと、当然好奇心を抑えられるわけがない。そこで、六法全書を読もうと考え、問題があるなどとは夢にも思わず、いつものように家に持ち帰ったのである。しかし、その時はなぜか母親が六法全書を見るなり怒り出した。何を言われたのか、はっきりとは覚えていない。なぜこのようなものを持って帰るのか。こんなものを読むと屁理屈ばかりこねるようになる。というようなことを言われたような気がする。そして母は、僕から六法全書を取り上げ、本屋に返したのである。好きな本を買って読めば良いと言われているのに、なぜ六法全書はダメなのか、しかも、叱られねばならぬ程のことだったのか。僕にはさっぱり分からなかった。当時全く納得できなかったし、いまでも納得できるとはいえない。

2)中学生になり、英語の授業が始まった。今は英語への苦手意識が強いのだが、中学生の頃は特に好きでもないものの、嫌いでもなかった。その頃、英語の授業内容のせいではないのだが、英語に関連して不満を持っていることがあった。それは、自分の名前を”Tatsuya Ogino”と書かねばいけないことだ。僕は取り立てて国粋主義者ではない。それどころか、その頃から無謀な戦争に走った日本を子供心にアホと違うかと思ったりするような子供だった。しかし、固有名詞、それも個人のアイデンティティである名前を別の言い方にすることに抵抗があったのだ。固有名詞なのになぜ他国の流儀に合わせねばならないのだろうか。しかも、国外では英語で表記するときもfirst nameを先に書かない国もあるらしいとも知り、なおのこと疑問を感じるようになっていた。そういう背景があったため、何年生の時か忘れたのだが、英語のテストで名前を”Ogino Tatsuya”と記述した。その日のうちか、後日かは忘れたが、英語の教師が僕を捕まえ、血相変えて怒り出したのである。年配の(といっても今の僕よりは若かったのかもしれない)女性であるその先生は、まさしく血相を変えていた。テスト問題への解答自体は結構良かったように記憶している。Family nameを最初に書いたというそのことだけで、目を釣り上げて叱られたのである。僕はそこまで非難されるようなことをしたとはどうしても思えず、ただただあっけにとられていた。

3)やはり中学校の頃である。理科の時間、おそらくエネルギー不変の法則のことを説明している時だったと思う。理科の教師が、「自転車のダイナモは、電灯をつけているときにエネルギーを生成しているので、回すのに力が必要になり重くなっている。電灯をつけなければエネルギーを消費しないので、軽く回せるはずである。しかし、実際には電灯をつけていなくてもダイナモをタイヤで回すと漕ぐ力が余分に必要になる。それはなぜだと思うか。」という問題を口にした。額が広く、ぎょろっとした目の、見るからに一癖ありそうな風貌の男性教師だった。僕が当てられたので、頭に浮かんだことを何のためらいもなく答えた。「電気を発生させるエネルギーが必要なくても、軸と軸受けの摩擦などで抵抗ができると思います。」てなことを答えたと思う(正確には覚えていないが、正解だったのだと思う)。教師は明らかにいらだった表情を浮かべ、あからさまに腹立たしそうな口調で、しかも皮肉な要素も湛えた口調で、他の生徒たちに向かって「荻野は頭が良いからすぐに答える。」と言い放ったのである。正解を答えたにもかかわらず、ほとんど晒し者のような目に遭わされ、しばらく事態をどう理解すれば良いのかわからないままに立ち尽くしていたことを覚えている。

 いずれのエピソードも、もう半世紀近く前のことである。しかし、今に至るまで、繰り返し思い出すエピソードである。なんども書いているが僕は記憶力が悪い。特に、エピソード記憶が悪い。だから、あまり具体的な思い出は多くないのだが、それでも繰り返し思い出すところを見ると、かなり印象深い出来事だったのだろう。いずれの状況も、責められるようなことをしたとは思えない。3)はまさに言いがかりであるが、他の2つにしても感情的に叱られるようなことだろうか。第一にこちらには悪意はないし、それどころか前向きな理由あっての行動である。もし間違っているのであれば、それを説明すれば良いことである。口を極めて非難するようなことではない。しかし、彼らは僕の行動に単に反対するのではなく、感情的に非難したり、晒し者にしたりしたのである。これらの記憶は大人に対して非常に暗い印象を僕にもたらした。
 とはいえ、僕自身が大人になってしまった。上記のエピソードに出てくる大人たちよりもおそらく年長になっている。自分が大人になると、上記エピソードの出演者である大人達の「気持ち」は分からなくはない。ああ、こんな子供を見たらイライラさせられるかもしれないなあと。しかし、気持ちは想像できても妥当な振る舞いだったとは、今でも思わない。大人が正当な根拠なく子供を責めるようなことをするべきではないと思う。
 さて、果たして僕は、かつての母親、英語教師、理科教師のような振る舞いをせずに済んでいるのだろうか。息子達や勤務する大学の学生達から責められたことはないが、彼らとてそう素直に不満を伝えてはくれないだろう。ひょっとしたら僕は、あの時の母親、英語教師、理科教師と同じ振る舞いを何度もしているのかもしれない。例えそうではあっても、敢えて主張したい。大人は、軽々しく感情的に子供を責めてはいけない。例え大きな問題があったとしても、ほとんどのことは責めるのではなく、説明すれば良いだけだ、と。

2017年1月6日金曜日

教育現場における発達障害児支援の専門家

 発達障害のある子供を対象にした診療をしていると、教師からの相談を受ける機会が結構ある。わざわざ病院に出向く教師は熱心な人が多く、親を通じてでは十分に把握できない学校園での子供の様子を知ることができる機会にもなるので、医師としては大歓迎である。であるのだが、どうもすっきりしない思いを抱くことにもなる。以前にも似たようなことを書いたことがあるが、学校園の先生からの質問はまず間違いなく子供にどう指導すれば良いかということである。聞かれたことには答えようとするのが臨床医の性であり、なんとか妥当性の高い回答を捻り出そうと、頭をフル回転させることになる。しかし、考えついたことを訥々と説明しながらも、脳裏には決まって一つの疑問が浮かんでくる。「俺は医者だぞ。医者が子供の指導法を、よりにもよって教師に助言しているのはおかしくないか?」
 脳機能の特徴や合併症、あるいは薬物療法や遺伝学的な知見について質問されるのであれば理解できる。しかし、教育や保育のトレーニングを受けたこともない医師が指導法について聞かれても、大したアイデアが出るとは思えない。TEACCHの創始者であるショプラーさんは治療者はジェネラリストとしての専門家たれと述べている。したがって、医師であっても教育や療育に踏み込んでいくべきだし、教師であっても医学的な知識を広げていくべきである。とはいえ、限界もある。教師が完全に医師の役割を担うことは難しいし、その逆も簡単にできることではない。教師が医師に指導法について助言を求めるという、専門性の完全な逆転にはかなり無理があるのではないだろうか。
 僕自身の経験を振り返る限り、相談を受けた事例では、教師がかなり困り悩んでいることは確かである。有効性の高い助言ができる専門家が必要なことは間違い無いだろう。発達障害のある子供の学校での指導を援助するためには、どのような専門家が必要なのだろう。少なくとも医師がその適任だとは思えない。やはり教育現場での問題を解決する以上、基盤となるべきは教育であり、教師の中に専門性を持った人を育てるべきであろう。教育現場に能力の高い専門家が育つことで、一義的には今現在困っている教師を助け、ひいては困難に直面している子供達を減らすことができるだろう。また、長期的には発達障害にまつわる問題を教育現場内で解決できる割合が増加することで、社会的支出を抑えることにも繋がるだろう。
 どのような専門家を育てる必要があるのだろうか。もちろん、最も重要なことは教育・指導のスキルである。行動面や感情制御、知能や識字能力などに何らかのハンディがある子供を前提にした教科内容の組み立て方や、教科指導の方法論は最も基本的なこととして抑えておくべきだろう。もしも十分な方法論が構築されていないのが現状であれば、そこを整備することは喫緊の課題である。しかし、まさしく僕の専門外の事柄になるので、ここでは立ち入らない。こういった教育内容や教育方法論と並行して専門家が習得すべきことや与えられるべき属性について、医師の立場から考え付くことを書いてみようと思う。
 まず、発達障害や関連する障害病型に関する診断基準、よく観察される症状や行動特徴、可能性のある二次障害などの理解は必須だろう。できれば認知科学・神経心理学的な基盤も抑えて欲しい。別に自分が医者だから、自分が関心を持っていることが重要といっているのではない。これらの事柄は、子供達が日常において経験する困難さに直結するものだからである。困難さの直接的原因と言い換えても良い。支援方法を考える時に、どういうメカニズムで困難が生じているかを理解できなければ、合理的な対策も難しいだろう。上に述べた教育内容や教育方法論も、対象となる子供の特性に沿ったものを構築すべきだろう。
 心理学的素養も重要な要素だと思う。上に、認知科学・神経心理学に言及したが、発達障害のある子供を支援する上で必須の心理学的領域は、行動分析学の分野ではないかと思う。行動分析学あるいは応用行動分析を習得すべきだと考える理由は大きく2つある。第一に、発達障害のある子供への対応の大半は、行動を対象とするものだからである。抑うつや強迫性障害などの二次障害への対応は別として、本人の行動レパートリーに即した生活環境を構築することや、生活環境に上手く適応することに役立つように行動レパートリーを広げ、逆に適応を阻害するような行動レパートリーを問題の少ない形へと変容させるというアプローチが必須である。ここでは応用行動分析学の考え方が直接的に役に立つ。第二に、行動分析学では介入と結果の関係を数量的に確認するということが非常に重視されているからである。介入対象を具体的に定義し、介入手続きを明確に規定し、具体的目標を立てた上で結果を数量的に評価するという考え方を繰り返し学ぶことで、説明変数と従属変数を常に意識した考え方のトレーニングになるのではないだろうか。もちろん、認知科学でもこういう考え方は基本であるし、その他多くの自然科学に共通した考え方でもある。しかし、「指導の効果」という教師としては最も興味を持ちやすい題材を使ってトレーニングできる点が、他の学問分野よりも有利な点ではないかと思う。
 最後になるが、発達障害のある子供への指導に関して教師や学校園に助言する専門家には、本人の学識やスキルだけではなく、立場に伴う権威も必要だと思う。例えば医師が何らかの診断書を作成したら公的な拘束力を持つ(ただし万能ではない)。これと同じ意味で、法律や制度に守られた権威がある程度必要ではないかと思う。学校の人事をさえ左右できるほど、とまでは言わないが、その専門家が提案したことや助言したことを聞き流すには教師や学校園側に相当な覚悟を要する程度の権威があることが望ましい。まあ、この考え方には反論したくなる人もいるだろう。僕は、教師には理屈が通じにくいという印象を持っている。もちろん例外は多いし、個人的に話しているぶんにはきちんと話が通じる人が多い。しかし、学校組織の一員としての教師は、理屈よりも兼ねてから培ってきた価値観を重視することが多い。しかも、教師としての経験年数が様々な主張の根拠になりやすいく、一層話はややこしい。いかに理論に裏打ちされていたとしても、自らの価値観に沿わない助言を受け入れにくいし、教師の経験年数が長いほど考えを変えにくいのではないかと思う。にもかかわらず、理屈に裏打ちされた合理的な助言を受け入れさせるには、ある程度権威の力を借りないといけないのではないかと思うのである。それは教師に対する偏見だと腹を立てる人が多いかもしれない。そう、単なる僕の偏見である可能性は否定できないし、僕自身この考えが間違いであることを願っている。
 以上、思いついたことをくどくどと並べて見た。果たしてこのような専門家が養成されることはあるのだろうか。現実的な方向性としては、特別支援学校教諭養成課程にテコ入れし、特別支援学校だけではなく全ての学校園で活動できるような特別な資格を与える課程に変えていくのが良いのではないかと思う。しかし、そういう特殊な専門的職種を教育界は受け入れられるだろうか。まあ、形はどうであれ、少しでも多くの発達障害を持つ子供たちが学校生活を楽しみ、能力に見合った学習をできるようになってくれるのであれば、僕としては特にいうことはないのだけれど。

2016年11月29日火曜日

失敗はあってはならないものなのか?

 数々の確定した冤罪事件の裁判について見聞きしている時、何時も不思議に思うことがある。有罪とするにはかなり明確な矛盾点や、無罪を示唆する物証が色々あっても、検察は躍起になって有罪を勝ち取ろうとすることである。また、一度有罪となった事件の再審請求を、再審の場で有罪を主張するのであればまだしも、再審自体を封じようとすることである。冤罪被害者への同情や正義に反することへの怒りもあるのだが、ここではそういうことを論じようと考えているわけではない。僕が不思議に思っているのは、無罪を示唆する状況が少なからずあるにもかかわらず、なぜ検察が組織をあげて有罪判決を求めようとするのか、ということである。
 何か社会正義に反することが行われた時、その職に就く人全体を根っから悪人のように主張したがる人が結構いる。例えば、保険料の水増し請求で逮捕される医師が何人かいれば、医者なんてみんなズルをしているんだと言われがちである。しかし、自分が医師として接してきた医師達は(まあ、自分は置いておくとして)、圧倒的多数が真剣に仕事に取り組んでいる。何の雑念もなく、とまでは言わないが、かなりのことを犠牲にして患者のための活動を最優先にしている医師はむしろ多数派だと考えている。この認識から、多くの業界で、個人レベルで見れば真面目に理想を掲げながら職務に励む人は多いのではないかと、僕は考えている。悪口を言われる代表格に見える政治家や企業経営者も、実態は真面目に理想を追いかけている人は多いに違いない。当然、検察にも正義と法の精神を守ることを使命と考えて働いている検察官が多いのではないかと想像する。そうであれば、冤罪を作ることを何よりも恐れるのではないか。有罪率が下がるよりも、一人でも冤罪を作ることこそを何とか避けようと考えるのではないだろうか。それなのに、無罪を示唆する客観的状況がかなりあるときでさえ、裁判で有罪を勝ち取り、再審の道を塞ごうと組織をあげて頑張るのはなぜだろう。僕にはそれがどうも分からない。
 分からないなりに、このことに深く関わっているのではないかと感じているものが一つある。それは日本社会、とりわけ役所で色濃く見られるものであるが、無謬主義である。一度立てた方針は正しい、決して間違い無いという前提にこだわるという、お馴染みの考え方である。すべて方針が正しいという前提から論理が始まるので、役所が一旦動き始めると滅多なことでは方向修正ができない。東北の大震災で福島の原子力発電所が事故を起こしたとき、原発事故処理に使えるロボットが存在しなかった。日本はロボット技術のレベルが高いにもかかわらずだ。その理由が、原発は安全だからロボットを開発する必要がないという論理だったという冗談みたいな話を聞いたことがある。これが本当かどうかは知らないが、似たような話はあちらこちらに存在しているに違いない。「方針が正しい以上結果も良いはず」の延長で、我々の社会は結果の客観的な評価、特に数値による評価を避ける傾向が顕著である。最近多少改善の機運は見られるが、数値による評価を嫌悪する発言は随所で聞かれるし、物事を物語として理解しようとする人が山ほどいる。そこここで(役所だけではなく、ちっぽけな私企業でさえ)横行する秘密主義も、無謬主義とその帰結としての結果を評価することを忌避する思考の産物ではないかと思う。
 失敗を認めれば良いじゃないかと思う。規模が大きくなればなるほど、失敗したことは隠しおおせない。むしろ、失敗した可能性があれば正直に言及し、それを衆人環視のもとに客観的に検証すれば良いではないか。その方が、失敗に基づく損失を最小限にできる。最初に述べた司法の話題に戻れば、失敗を認めることで冤罪の可能性を下げることができる。検証の結果、もとの方針が良かったということもあるだろう。それならめでたいことだ。殆どの人が「人間なのだから失敗することもある。」というくせに、公的に失敗することを許さないこの息苦しい社会がもっと柔軟にならないのかと僕は考えるのだが、同意してくれる人はあまりいないのだろうか。
 愛想のない文章なので、一つ落ちを付けておこう。てっきり無謬は「むびょう」と読むのだと、今日の今日まで信じていました。ごめんなさい。

2016年11月24日木曜日

ゲンガクテキ

 衒学的という言葉がある。英語でpedantic。辞書には、学問のあることをひけらかすさま、と説明されている。ともすれば、さして深くは理解していない小難しげな言葉遣いをする人のことである。衒学的という言葉はめったに日常会話で使われることはない。しかし、自閉症に関連した書籍を読むとこの言葉は結構出て来る。知能の障害されていない自閉症児では、衒学的な話し方をする子供が結構多い。自閉症児の話し方の一つの特徴といっても良い。文語調の言い回しを多用したり、あまり一般的には使われていない古語や専門用語をしきりに口にしたりする。十分に理解しないままに難しい言い回しを好んで使う子供も多い。
 僕が衒学的という言葉を知ったとき、これは自分のためにある言葉ではないかと思った。というのも、僕は好んで小難しげな言葉を使う傾向が強いからである。言葉の背景まで十分に理解した上で使うならまだしも、つい先ほど仕入れたばかりの言葉を付け焼き刃で用いることもしばしばである。こういう性癖を自覚しているので、衒学的という言葉が自分にピッタリ当てはまったように感じたのである。ただ、そういう傾向を強く持ちながらも、現実にはそれほど実害はない。というのも、僕は記憶力が悪い。衒学的であり続けるための必要条件は、記憶力の良さである。たとえ深い理解を欠いていたとしても、言葉自体を覚えているからこそ衒学的な物言いができるのである。何か新しい言葉に触れて、「お、これは良いな。どこかで使ってやろう。」と思ったとしても、その言葉を不正確にしか覚えられなければ恥をかくだけだ。僕は何回聞いても次々と記憶が怪しくなり、正確に思い出せなくなる。いやそれどころか、良いなあと思った言葉を聞いた経験自体を忘れてしまうことが多い。そういう事情で、幸か不幸かのべつまくなしに難しげな言葉を使うことから逃れられている。
 何年か前に、衒学的な僕が飛びついた言葉がある。マックス・ウェーバーが言った「価値合理性」と「目的合理性」である。もう、「マックス・ウェーバーが」というだけで格好良いではないか。ここはよりドイツ語っぽく「ヴェーバー」の方がもっと格好良いかな、などと浮かれたくなる。とは言え、僕が注目した理由は「ヴェーバーがね、価値合理性と目的合理性という概念を述べていてね、」とか言ってみたい、ということだけではない。日々の生活の中で予てから疑問に思っていた現象を記述しているように思えたからだ。
 どのような疑問を持っていたのかを具体的に説明する。僕は、人は何か行動を起こすとき、その行動自体が単なる楽しみである場合を除き、何らかの目的があり、そしてその目的を達成するために最善と思われる行動を取ろうとすることが普通だと思っていた。もともとそういう発想をする下地があったとは思うが、医師になってより明確にそう考えるようになった気がする。しかし、世の中を見ていると必ずしもそうではない。目的を達成するためにはどう見ても効果的ではない行動を進んで選ぶ人が多いのである。いわゆる「血迷って」感情的に振舞っているなら理解できるが、極めて冷静に効果を期待できない行動を取りがちな人々を稀ならず目撃した。こういう人の中には、「今までこうしてきた」からという理由だけで行動を決めている人がいる。要するに何も考えず、新しいことに手をつけようとせず、同じ振る舞いを営々と繰り返す人達だ。このタイプよりもさらに不思議な人達は、冷静に考えた上で効果の乏しい、時には逆効果とも思える行動に打って出る人々である。観察しているうちになんとなく分かってきたことなのだが、こういった人たちが行動を選択する際はどうも「良いこと」だからということが根拠となっているように見える。何が良いのかというと、もちろん目的が良いことという前提もある。しかしそれ以上に、行動自体すなわち方法が良いということが非常に大きな根拠となる。そして、その行動が目的を達成することにどの位役に立つのかということがほとんど問われない。それどころか、なんのためにするのかという目的が明瞭でなくてもその行動自体が良いことだから実行しようということになる。たとえ目的を考慮していても、大変抽象的で、後から成果を検証できないような目的を掲げていることが大変多い。例えば、勤労に汗を流すことは「良いこと」だから働くという考え方である。そして、あえて目的を問えば将来の幸せのためとか社会貢献につながるとか、非常に曖昧な答しか出てこない。その結果として具体的成果があろうがなかろうが、一生懸命働くことは良いことだから働くべきという発想である。自分が豊かになるわけでないし社会が豊かになるわけでもなく、誰一人救われないような仕事をするくらいなら、仕事を放り出して遊んだほうがマシだと、僕なら考える。しかし、この考えが通用しないのである。
 「今までこうしてきた」や「良いこと」を根拠にして行動を決定する人達はかなり手強い。何かをする以上は目的を明確にするべきであることを訴え、目的達成のために合理的な行動を選択すべきということを懇々と説いても、1mmも考えを変えない人々が大勢いる。どこの世界にも変わり者はいる。大勢の人が集まれば、了解不能な主張をする人が必ずいる。だからたまたま自分に理解できない主張にしがみつく人がいたくらいでは僕は動揺しない。しかし、「今までこうしてきた」や「良いこと」を根拠にする人達は驚くほど多い。むしろ目的を達成する可能性の高さを吟味して行動を選択する人よりもよほど多いかもしれないということに次第に気づき、僕の頭の中は混乱するばかりなのであった。そのような状況の中で上記のマックス・ヴェーバーの言葉に出会ったのである。
 ヴェーバーは「社会学の根本概念」という書籍の中で、社会的行為は四つの種類に区別できると説く。
(一)目的合理的行為。これは、外界の事物の行動および他の人間の行動について或る予想を持ち、この予想を、結果として合理的に追求され考慮される自分の目的のために条件や手段として利用するような行為である。
(二)価値合理的行為。これは、或る行動の独自の絶対的価値 ー 倫理的、美的、宗教的、その他の ー そのものへの、結果を度外視した、意識的な信仰による行為である。
(三)感情的、特にエモーショナルな行為。これは直接の感情や気分による行為である。
(四)伝統的行為。身についた習慣による行為である。
(清水幾太郎 訳)
まさに、僕が常々考えていた人の振る舞い方の類型に名前が付いているではないか。特に、目的合理的行為は基本的に僕が意識している振る舞い方であり、価値合理的行為は僕が謎に感じ、理解に苦しんできた他者の行動パターンである。ヴェーバーは、価値合理的行為の意味は行為の結果ではなく行為そのものであり、そういう意味では感情的行為と共通しているとも述べている。つまり、善を為すという究極的な目的はあるが、その行為によって直接もたらされることを期待する具体的目的に欠けているのである。このことは、「良いこと」を根拠に行動する人達の目的意識の乏しさに該当する。
 なるほど、古今東西を問わず「今までこうしてきた」や「良いこと」を根拠にして行動する人々は存在したんだ。そして、これらの行為の類型にはきちんと名前が付けられていたんだ。僕は、ヴェーバーの記述を見つけてすっかり安心した。気持ちがずいぶん落ち着いた。と書くと訝る人がいるかもしれない。「ヴェーバーが記述していたからって、何故そういう行為の類型が生じるのかは分からないではないか。あるいは現実に周囲の人々の振る舞い方が自分のそれとは相違している時にどう対処すれば良いかは不明のままではないか。」と。良いのである。自分が一体全体どういうことだろうと思っていたことに名前が付いていれば、それで十分なのである。ましてや命名者がひどく有名で高尚らしい人物であればもう言うことないのである。真に理解していなくても名前を知れば満足というところが、衒学的な人間の衒学的たる所以である。
 最近、学生と話をしている時に目的合理性と価値合理性という言葉をひけらかしたくなった。「あのね、君。ヴェーバーって人が人間の振る舞い方には4つの類型が在るって言ってるんだよ。知ってる?知らないの。じゃあ教えてあげるよ。まずね、ん?えと、理念だっけ?理想だっけ?何かそんな種類の合理性と、う、う、う、手段だっけ?方法合理性?まあなんだ、目的を達成するのに上手いやり方を選択するって場合とだな、、、」僕は底の浅い衒学的人間にさえなれない。

2016年10月26日水曜日

発達障害児を育てる保護者の支援

 最近、ある自治体の保育士の研修会で、発達障害をテーマに話をする機会があった。主たる内容は、発達障害を総論的に理解しようというものだ。ただ、保護者支援についても話して欲しいと主催者に言われたので、発達障害児の親に接するときに大事ではないかと思えることを追加した。その内容をここにまとめておく。保育者が保護者支援に従事する際に念頭においてほしいことである。正直に言えば、僕自身の数多くの失敗経験に対する反省がベースになっている。加えて、患者を診療する経験を通じて保育士(あるいは教師)に期待するようになったことを述べることになる。つまり、保育者が「こう振舞うべき」ということを述べるのではなく、保育者にこう振舞ってほしいなあという僕の希望をまとめたものである。


1)対等な立場で接する

世の中には人から「先生」と呼ばれる職業がある。政治家、医師、教師、保育士などである。もちろんどの職業でも、個人個人でずいぶん性格やものの考え方は違っており、皆が同じ言動をとるわけではない。しかし、「先生」と呼ばれる人々に比較的共通した振る舞い方の傾向がある。それは、他者を教えよう、指導しようとする傾向である。
 一般的に、発達障害のある子供を育てている保護者は、しかも支援が必要と言える保護者は、不安を抱き、自信を失いかけている人が多い。教え諭そうとする態度は、相手の緊張を高めがちだし、言われた通りのことができないとますます自信を失わせることになりやすい。特に、倫理的判断に基づいて保護者の言動を非難し、改善させようとすると、保護者の不安が増強し自信を失うだけでなく、支援者に対する反発を募らせることになる。また、非難するわけではないにしても、保護者の考えと明らかに異なる価値観を押し付けると、保護者は反発し、支援者との距離を置こうとしかねない。保護者を支援するときに最も重要なことの一つは、根気よく長く付き合い続けることである。短期間で袂を別つ関係では、有益な支援などできない。
 緊張を強いず、反発を招かない支援を続ける上で念頭に置いておくと良いことがある。あまり役に立とうとしない、ということである。困っている人を助けてあげたいと考えれば、誰しも役に立つことをまず第一に考えるだろう。何らかの専門職の立場にあれば、なおのこと役に立たねばならないというプレッシャーは強くなりがちである。しかし、発達障害を有する子供を育てる親が何かに困っていたり悩んでいるときに、そのような状態に至る要因は複数あり、それらが互いに複雑に影響し合っていることが普通である。つまり、そう簡単に解決できるものではないことが圧倒的に多い。複雑な問題を前にしたとき、とにかく解決しようと焦るほど、実効性のない行動に出て事態を悪化させる可能性が高くなるし、事態が改善しない責任を保護者にかぶせ、責めることになりやすい。根拠のない解決策を連発するよりも、確実な対処法を提案できるまでは事態を把握することに徹した方が良い。

2)話すよりも聞く

「支援」という言葉には能動的な意味合いが強いので、つい何かをしなければと思いがちである。しかし、保護者支援で最も基本的な活動は話を聞くことではないかと思う。当たり前のことだが、保護者が何を不安に思い、何に困っているのかを把握せずに適切な支援はできない。発達障害を有する子供の暮らしている家庭に泊まり込んで直接状況を確認することなど無理である。通常は、問題を把握するためには話を聞くこと以外に方法がない。
 保護者の話をよく聞くことには、現状把握以外に様々な利点がある。まず、保護者が自分の頭を整理できる。自分は何に不安を感じ何に困っているのか、初めからきちんと把握し言葉にできる人はあまりいない。聞き手が適切なタイミングで話を促したり、質問したり、保護者の話をまとめたりできるかどうかによって程度は異なるだろうが、話をしている中で問題点を改めて客観的に把握できるようになることが多い。また、不思議なもので、十分に悩みを吐露することだけで人間はかなり不安が軽減されるらしい。下手な助言をしたり、ましてや余計なお世話の説教をするよりも、ひたすら話を聞くことの方が相手の気持ちを安定させる上で効果がある。しっかり話を聞くことによって、保護者の支援者に対する信頼感が高まることも見逃せない。頻回に長時間話を聞くことは難しくても、たまに十分に時間をとって話を聞くと、その後保護者と話がしやすくなるし、こちらの意見を受け入れてくれる可能性が高まる。
 保護者から話を聞いている時に留意すべきことがある。まず、不安や心配を軽んじてはいけない。たとえ根拠の薄い不安を訴えたりありえないことを心配したりしていても、しょっぱなから「そんなことはありえない。」とか「それは心配のしすぎですよ。」と言ってはいけない。親切心から安心してもらいたくて「それは心配のしすぎですよ。」という人も多いのだが、この様に雑な対応で安心できることは滅多にない。不安で心配な気持ちを抱いていることをまず受け止めるべきである。その上で、実際心配している状態になる可能性はどの程度あるのかを一緒にゆっくり考えたり、万が一心配していることが生じた時にはどういう手立てがあるかを考えたりするのが良い。不安や心配だけではなく、保護者の考えも即座に否定しない様に注意したほうが良い。相当歪んでいる、あるいは明らかに間違った考えを主張する人はしばしばいる。それが信念に近いほど、即座に否定された時に一層強固にその考えにしがみつきやすい。別に賛成する必要もないが、真剣に時間をかけて考えている姿を見せた方が良い。
 もう一点、保護者の話を聞いている時に留意すべきこととして、「出来ていることを聞き出す」努力・工夫が必要である。子供が様々な問題を起こしていても、その合間には出来ていることも数多くある。また、保護者自身の子供への接し方の中にも、上手な、あるいは好ましい接し方を数多く実行できていることが多い。子供が引き起こす問題や、保護者の子育ての拙さばかりに注目しても解決策に繋げることは難しい。むしろ、子供の持っている力や保護者の持っている力に注目させ、それを生かしていける様に援助すべきである。

3)助言や説明

聞くことの方が重要といっても、有意義な助言ができればそれに越したことはない。助言は具体性が高いほど良い。役に立たない助言の筆頭格とも言える例を挙げると、「たっぷりと愛情をかけてあげてください。」というものがある。これは具体的にはどうしたら良いのかまったく不明な言い方である。特に自罰的な考えを持ちやすい保護者の場合は、日常の問題が残っている限り自分の愛情が足りないと悩むことになりやすく、役に立たないどころか有害でさえある。「しっかり言葉がけしてあげましょう。」なども大変抽象的で分かりにくい。ところが、「朝起きてきたら必ずおはようと声をかけてあげましょう。」とか「あなたが指示したことを子供がし始めたら、ありがとうと言いましょう。」という具体的な話ならまったく迷いどころがなく、実行しやすい。 
 発達障害児を育てている中で生じる問題に対処するとき、目から鱗の斬新な解決策があることは少ない。それどころか、分かっちゃいるけど実行できないということが多い。したがって、保護者がどう振る舞えば良いかばかりを助言し続けると、上手くできない現実に押しつぶされそうになる親や、やけになって反発する親も多くなる。今現在できていないことをするようにという助言ばかりだとなかなか事態が良い方向に動かない。ではどうすれば良いのかというと、僕は希望の持てる話を増やしていくことが必要だと考えている。希望の持てる話として特に重要なポイントは、子供の強みを説明すること、保護者の強みを説明すること、そして保育園での前向きな計画である。
 どのような障害特性を持っていたとしても、何もできない子供は存在しない。少なくとも保育園に通ってきているくらいの子供であれば、出来ないことよりも出来ることの方がはるかに多い。それを当たり前のこととして見過ごしているだけである。また、上手くいかないことであっても、細かく見ていけば評価すべき点が色々あるものだ。途中までは上手く出来たとか、部分的にはすべきことをしているとか。例えば、食事中きちんと座っていられない子供であっても数分間くらいは席について食事に専念している時が繰り返し見られたりする。既にできていることはその子供の強みであり、将来の可能性をも示している。日常的な暮らしにくさの原因とみなされる発達障害特性でさえ、場合によっては強みに転じさせることもできる。例えば、すぐに気が散るADHD児は、その旺盛な好奇心を利用して建設的な活動に打ち込ませることができる場合もある。人と交わろうとせず、細かいことにこだわる自閉症児は、一人でものを楽しむことができることが強みになるし、一度身につけた作業を正確にこなすようになることも多い。
 子供のことが問題になっているので保護者との話は子供に関することに終始しがちである。しかし、親の強みを探し、それを本人に伝えることも重要である。どんなに頼りなさそうに見える親でも、ネグレクト状態のような特殊な状況でなければ、何かしら子供に良い接し方をしている点が色々ある。特に、上記の子供が持つ強みはその親が育ててきたものである。子供が様々な力を身につける過程で、親が自覚していなくても数々の理にかなった育て方をしているはずである。色々と暮らしにくさを持つ発達障害児の保護者は、自信を失っていることが多い。自信がないままに、ただただ反省をし、そして問題を全て解決しようという高いハードルを自ら課していることがよくある。そういう押しつぶされそうな状況にいる保護者に、自分が今まで成し遂げてきたものを自覚してもらい、少しでも自信を回復するための援助が重要である。
 保育士が、発達障害児の保護者と話す時、家庭での問題の相談に乗ることもあると思うが、保育園での問題について話すことが多いのではないかと思う。保育園で上手くいかないことは本人の暮らし辛さにつながるのだが、とりあえずは保育士が困る事態として表面化しやすい。そうなると、人情としては保護者への単なる事実報告にとどまらず、愚痴になりやすい。生じた事実を伝えることは大事だが、愚痴にならないように気をつける必要がある。特に、保育園で生じる問題の解決を親に委ねるべきではない。「おうちでもよく言って聞かせてくださいね。」などと保護者に伝える事例が現実には結構ある。しかし、家で言って聞かせるだけで問題が解決することはまずない。むしろ子供にとっては保育園でも家庭でも同じことで叱られることになって心が安らがないし、親も子供を叱るという不愉快な作業が増えた割には効果につながらず、罪悪感や焦りを増す一方となりやすい。保護者に保育園での問題を伝える時には、併せて保育園での前向きな対処の計画を説明すると良い。別にささやかなもので良いし、100%有効でなければいけないというものでもない。何か困った状態にある時でも、前向きな対策が控えていることを知るだけで気持ちが軽くなる。やって見て上手くいかなければ次の工夫を親に伝えれば良いだけである。保育士の側が常に前向きになり、将来に希望を持った態度を示し続けるのである。愚痴ったり悲観的なことばかりを伝えて親を萎縮させても、保育士にとっても親にとっても、何より子供にとっても碌なことはない。
 保育士は、一人で解決しない、一人で背負い込まないということを常に意識しておくべきである。これは、発達障害を有する子供に限らず、何らかの障害に苦しむ人々をサポートする時に重要なことである。障害児(者)の抱える問題は様々な要素が複雑に絡み合っていることが普通であり、何らかの専門性を持っている一人の人間が解決できることは少ない。もちろん、同僚や上司など同じ職場のメンバーで協力し合うことも必要だが、同時に利用できる地域資源を少しでも多く把握しておく必要がある。児童発達支援センター/事業、病院、教育相談、児童相談所、福祉制度など、様々な施設や人々が大きな力になることが少なくない。子供が抱えた問題に応じて相談先を選べるように、地域にどのような資源があるかできるだけ把握しておく必要がある。自治体が中心となって地域資源をまとめたハンドブックを出していることもあるが、それだけで全て把握できるわけではない。常日頃、様々な施設や人との繋がりを持つように意識しておくと良いかもしれない。
 発達障害に関連した問題が生じた時、まず相談先として浮かんでくるのは医療機関である。確かに、発達障害が疑われる場合に医療機関を受診することには大きな意味がある。医療機関を受診することで得られるものは多く、少なくとも一度は医療機関で評価を受けた方が良い。ただ、病院受診をあまり焦らない方が良い。あまり気が進まない保護者に、病院受診を強硬に迫るようなことをすべきではないし、そこまでして受診する意義は乏しい。まず第一に、病院で下される診断は絶対的なものではない。しかも、診断名がつくと対処法が自動的に決まるわけではない。その上、すべての問題を解決する薬物治療など存在しないし、対処において医師が果たせる役割は極めて限られている。結局のところ、発達障害児に関連した保育現場で生じる問題への対処では、中心的役割を保育士が担うことになる。その際に非常に大切なことは保護者との良好な関係を保つことである。意に沿わぬ保護者を説き伏せてでも病院受診を強要することのメリットはない。診断に関する問題については項を改めて、さらに具体的に説明する。


4)病院での診断についての補足

発達障害から「診断」という言葉が切り離せないため、どうしても病院受診が必須と考えられやすい。私見だが、保育士や教師の中にも病院受診に強くこだわる人が多い気がする。これは全く間違いという訳ではない。病院には他の施設には期待できない様々な機能を期待できる。ただ、多くの人がこの領域における病院の役割に過剰に期待しすぎているし、誤解していることも多いと思う。
 まず、当たり前のことを指摘しておく。発達障害の特性を持った子供が病院を受診すれば診断されるし、受診しなければ診断されない。病院で診断を受けたから発達障害なのではなく、診断の有無に関わらず発達障害児は発達障害児なのである。こう改めて書くとひどく当たり前のことのように見える。しかし、なぜか診断を受けているか受けていないかにこだわる保育士や教師はとても多い。診断の有無で実際の保育現場で生じる問題が異なるわけではないし、支援の必要性や具体的な支援方法が変わるわけでもない。病院の診断が大きな意味を持つのは、加配をつける時や、受給者証の発行あるいは就学に際して特別支援学級選ぶといった、公的な制度を利用するときだけである。診断があろうがなかろうが、保育現場で困難を抱えている子供に対しては合理的な支援をせねばならない。
 病院での診断は基本的にはカテゴリー診断だということも認識しておく必要がある。カテゴリー診断とは、ある診断名に当てはまるか否かを結論とすることである。つまり、結論は黒か白かのいずれかである。ところが、これは発達障害という概念の実態にあまりそぐわない。例えば多動という症状一つを取っても、まったく問題のないレベルから極端に逸脱したレベルまでの間に、様々な程度の多動状態が存在し得る。どこから異常でどこまでは正常などと単純に線引きできない。ほとんど程度の変わらない多動状態の子供の一方が例えばADHDと診断され、他方が明確な診断を受けなかったとしても、診断を受けた子供だけが問題であり援助が必要といえるだろうか。また、同じ子供であっても属している社会環境の状況によって、多動が暮らしづらさに繋がることもあれば、何の問題も引き起こさないということもある。かように、診断を受けた子供が問題だらけで、診断されなかった子供には何の問題もない、ということはまったく言えないのである。
 発達障害の診断精度は、情報源に依存していることも重要である。同一人物に関する評価でも、多くの問題を感じる人もいればほとんど問題を感じていない人もいる。保育士はとても困っているのに保護者は問題を感じていないとか、その逆とかは現実には数多く遭遇する事態である。一般的に、問題を強く感じている立場の人が情報源となる時の方が、問題をあまり感じていない人が情報源となる時よりも、発達障害の診断に結びつきやすい。問題の有無が微妙な事例では、最終的な判断が医師の主観によって左右されることもある。もちろん、医師のスキルや評価に費やせる時間によっても診断は左右される。そのため、同じ子供のことであっても、複数の病院でまったく異なる結論となることが珍しくない。
 最後に、医師の診断は最も問題となる一つか二つの診断名で結論づけられることが普通である。したがって、いかに正確で妥当な診断を受けていたとしても、診断名はその子供の特徴の一部を表しているに過ぎない。結局、現場での支援は保育士の、子供の特性を正確に見抜く観察力にかかっているのである。
 なお、支援者の立場から発達障害の診断をどう理解すれば良いかについて、もっと詳しく解説した文章を書いたことがある。よかったら参考にしてほしい。

2016年9月18日日曜日

みんな頑張ってることを知ってるかい?

 歳をとった実の母も、同じく高齢の義理の母も、会うたびに忙しいという。忙しくて、大変で、疲れたという。それは気の毒に、いったい何がそんなに忙しいかと聞いてみると、実際にしなければいけなかったこと、実行したことは驚くほど少ない。そんなの忙しくもなんともないではないかと苦笑しながら口に出して指摘したくなる。いや、正直に言えば多少は口に出すことも多い。しかし、これは間違っている。断言できるが、間違っている。何故なら、母達の主観の中では本当に忙しく、なんとか課題をこなすべく頑張り、疲れているのである。このことは僕自身がリアルに実感できるようになってきた。若い頃に比べて単位時間あたりに実行できる仕事量が減っているし、一回に仕事に集中できる時間も随分短くなったし、同じ仕事をすると以前よりずっと疲れるようになっている。こうなると、以前は暇に感じていたくらいのスケジュールでも忙しいと感じてしまう。忙しいは主観的な概念である。本人が忙しいと感じたら、忙しいのである。
 「頑張る」という言葉もどのように使われているのか、よく考えてみる必要がある。本来、頑張っているかどうかは本人の気持ちの中の問題である。しかし、人は他者がどのくらい頑張ったかを、客観的に観察できるもので評価する。作業に従事している時間、作業に集中しているように見える度合、気が散っている様子の少なさ、成し遂げられた具体的成果の量、真剣なあるいは苦痛にゆがんだ表情、などである。小学生であれば、どのくらい確実に先生の話を聞いているか、課題にきちんと取り組めているか、授業と関係ないことに注意を向けることが少ないか、そういうことが授業中に頑張っているかどうかの指標になる。成果主義に反感を持ち、日々頑張っていることを評価したい教師は多いが、子供の心の中までは分からないので、こういう見て確認できる姿を評価する。
 だが、これは間違っている。断じて間違っている。頑張ることも本来は主観的な概念だ。誰もが目を見張るほどの成果を上げている人でも、本人は「かる〜く」こなしているかもしれない。来る日も来る日もコツコツと参考書を読んでいる人も、参考書を読むことがほとんど意識せずにできる生活習慣になっていることだってあり得る。こういう人達は、主観的には大して頑張っていない。逆に苦手意識があり嫌いでたまらない漢字の書き取り練習を、ほんの数文字だけ仕上げた子供は、死ぬのではないかと感じるほど頑張ったのかもしれない。
 忙しさとか頑張りは、極めて主観的な概念である。本人が持っている様々な能力のレベル、本人の心理的な健康状態、あるいは対象となる活動が本人にとって好きか嫌いかなど、様々な要因によって形作られるものである。本人が忙しいと感じれば忙しいし、頑張ったと感じれば頑張っているのだ。そして、現実に達成できた作業量の多寡に関係なく、忙しすぎたり頑張りすぎたりすると人は疲弊する。場合によっては不合理な振る舞いに繋がったり、肉体的な不調につながったりもする。
 人々は頑張る人が大好きで、それ以上に頑張っていない人が大嫌いである。かくいう僕自身も頑張っている人に感心し、頑張ろうとしない人に怒りの念を抱くことがしばしばある。しかし、そういう感情を抱くときには十分に自覚しないといけない。頑張っている「ように見える」人を好み、頑張っていない「ように見える」人を嫌っているに過ぎないということをである。
 人が他者を頑張っているかどうかで評価しようとすることには、少なくとも2つの危険性がある。まず、自覚的には間違いなく頑張った人に「頑張りが足りない」と言いがかりとしか言えない評価を下すことになりかねない。結果として、本人の意欲をスポイルすることにつながる。また、もっと頑張れと言われても実際に何をどうすれば良いかは闇の中であり、より良い状態を実現するための具体的方策につながらない。様々な能力や文化的背景を持つ人々を指導する職業の人、典型的には教師など、はこのことを十分念頭におくべきだと、僕は考えている。指導者は、自分の思い込みにしか過ぎない頑張っている程度で人を評価するリスクをとるべきでないと思う。全ての人はそれぞれに「頑張っている」ことを前提にしておく方が安全だと思う。その上で、頑張れなどという抽象的な言葉ではなく、何をどのようにすれば良いのか、具体的な行動を助言するように心がけたほうが良い。