2014年8月27日水曜日

局所最適、全体最適

原子力発電所が停止したことによる電力不足と不景気が相まって、ここ何年か節電が叫ばれている。最近少し緩和された気もするが、それでも至る所で照明が暗くなっている。節電は世の中のためでもあるし、経費削減にもつながるので一見めでたいのだが、スーパーや商店の商品陳列スペースが妙に暗いと人ごとながら心配になる。この暗く盛り下がった雰囲気で、客足が遠のいたり、客単価が減少したりすまいかと。行政からの指示があって節電せざるを得ないのなら、せめて暗くすることでより雰囲気がおしゃれになったり製品が魅力的に見える様に店舗の内装に頑張ってお金をかけた方が良いのではなかろうか、とも考える。素人が考えることぐらいは商売する側の人達はとっくに考えているのかもしれないが。
 僕が勤務する大学でも、経理から様々な倹約令が飛んでくる。予算の執行に関しても細々としたチェックが入る。もちろん、経理課の職員は職務に忠実なだけであるし、全体的にはもっともな指摘や主張が多い。ただ、経理担当部門の動きは支出の抑制が最高の価値基準になっており、予算の執行に関していかに減らせるかという観点からの介入しかしない。「ここの部分にはもっとお金を使った方が良いですよ。」てな指示が飛ぶことはまずない。非常に予算的に苦しい時には各部門、各事業一律に予算を絞ることもよくある。予算の緊縮を強調するあまり、肝心のパフォーマンスを低下させてしまうことがあるのではないかと心配することが結構ある。もちろん、とんでもなく放漫経営になる可能性があるので、予算を執行する立場の人の思い通りにすることが良いとは思わない。しかし、もう少し全体的な損益を見通したマネージメントをする立場の人がいるのではないかと思う。
 ここで自分の職場環境についての愚痴を述べようと思っている訳ではない。どの業界であれ、職務に忠実な人の集団では人それぞれが自分の領域内の問題をつぶすことに熱心に取り組む、ということについて考えている。問題をつぶすことに熱心に取り組むこと自体は悪くはない。しかし、人は得てして局所的な問題に目を奪われ、それに集中してしまう。そして次第に、局所的な問題をつぶすこと自体が日々の目標になってしまいがちである。本来自分は(自分たちは)何を目指していたのか、どういう世界を作ろうとしていたのかを時々立ち止まって考えると、今解決しようと努力していることが必ずしも目標に近づくために有効な手段ではない、むしろ足を引っ張っているということに気付くことも多いのではないか。個別の問題が解決しなくても、全体として成果を上げていければそれで良いはずである。つまり、局所最適に拘るよりも全体最適を目指すのである。変化の激しい流動的社会では、こういう発想がより重要になると思う。しかし、こういったそもそも論は日本人には人気がない(と言っても、僕は外国のことをよく知らないが)。自分の仕事を淡々とこなせば良いのだという考え方の方が肯定的に受け入れられている様に思う。
 局所的な問題解決に専念する考え方に、倫理的信念が加わると、一層困った状態になる。自分は正しいことをやっているのだという自負に支えられ、より一層局所的問題解決に突進するのである。そうなると、局所的問題に関してだけ評価しても、まるで効果のない状態を持続させることになりがちだ。個人的によく経験する例を挙げると、不適切な言動をとりがちな子供への指導で、問題な発言や振る舞いをことごとく叱って修正ないし反省させようとする教師などこの典型例である。いうまでもなく、何度か叱って効果を上げるのであれば、それで良い。しかし、まるで効果がないままに子供を追い回し、結果的に益々問題行動が悪化するという事例が非常に多い。何年か先の将来に、今より少しでも社会的に適切な振る舞いができる人に育つことを目指すのであれば、今現在の不適切な言動を効果のないままに叩き続ける必要はない。むしろ事態を悪化させる。不適切な振る舞いを無駄に追いかけ回している暇があったら、そこそこまともに振る舞っている状態を褒めることや、建設的な活動に取り組む時間を増やすことにエネルギーを注いだ方が余程ましである。
 何年か前のこと、教員の研修会で「効果がないままに不適切な振る舞いを叱り続けることは無駄である。むしろ、将来的に有害である。」という意味の説明をした時、フロアの教員から「しかし、子供の将来を考えると放置することはできない。こまめに注意すべきだと思う。」という発言があった。周りの教員達もうんうんと頷いており、論理矛盾も気にならない風であった。この時は、局所的な問題にのみ注目する態度と倫理的信念が一体になった時の手強さをつくづく感じた。

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