教員の研修会での講演を依頼された時、「発達障害の理解と支援」といったタイトルを提案されることが多い。以前は診断基準や主な症状・行動特徴などを教科書的に説明していたが、果たしてこれで「理解」につながるのだろうかと疑問を抱く様になった。何と言えば良いのだろう。無関係ではないものの、どこか違う世界の話を聞きました、というような雰囲気を感じてしまうのだ。質疑応答で、「今日聞いた話は勉強になって良かった。それはさておき、私は日常こういうことに困っていてどのような対策をしたもんだべか?」といった質問をされることが多く、教育現場での業務に用いている思考の中に、講演内容を組み込めていないのだ。こういう経験を繰り返すうちに、最近ずっと考える様になったことが有る。教師が発達障害を理解するためには、まずは障害の診断名から離れて、一般論として子供の個々の行動特性を分析するトレーニングから始める方が良いのではないか、と。
教師も含めた一般の人と、発達障害との間の壁は、恐らく「障害」という名称への引っかかりではないかと思う。自閉症であれ、注意欠陥多動性障害であれ、発達障害の診断がつく人は特殊な症状を持った特殊な人であるに違いない。しかし、日常的に自分には明確に見分けられない。きっと訓練を受けた医師のみに理解できる特殊な状態なんだ、という思いが有るのではないか。熱心な教師なら、本を読んだり講演を聴いたりして、その特殊状態に関して少しでも多くの「知識」を「記憶」しようとする。しかし、忙しい業務の合間に勉強しても個々の診断概念についての断片的な知識を得るだけに終わるかもしれない。さして意欲の無い人であれば、発達障害者支援法や学校教育法が何を言おうが、自分の本来の業務とは関係のない事柄という意識を持つかもしれない。
発達障害は、日常の行動特徴や認知的特徴によって定義されている。行動や認知の特性が平均的な人達とずれているために、様々な困難に遭遇する。ではその「ずれた」行動・認知特性とはどの様なものかといえば、ごくありふれた話ばかりである。白衣を着て偉そうな顔をした医師が勿体つけて診断名を告げるものだからさぞや特殊な状態なのだろうと思うかもしれないが、そうではない。うっかり屋さんだったりぼんやり屋さんだったり、落ち着きの無い人だったり余計なことをいらぬ時に何も考えずに言ってしまう人だったり、空気を読むのが下手で人付き合いの悪い人だったり、話が噛み合いにくい人だったりする。こんな人達は周りを見渡せばどこにでも居そうである。こういった特徴がある程度強くなり、本人の努力や工夫ではカバーできないレベルになると、人から援助してもらわないと暮らし難い状況になる。発達障害の基本的特徴は、ほとんどの人が多かれ少なかれ持っている、ありふれた行動・認知パターンなのである。そして、その「ずれ」が大きいために、生活の中で困り、なおかつ自分だけの力ではカバーできなくなった状態である。つまり、発達障害は単に多くの人々に見られるありふれた特徴の、「程度問題」なのである。
物事の認識の仕方や振る舞い方に平均的な人達とのズレがあること、程度問題であること、困っていること、最低限この3点を押さえておけば、個々の診断概念を熟知しなくても、そこそこ主体的に発達障害児を理解することが可能だと思う。出発点は、「困っている」ことへの気付きである。一例を挙げよう。発達障害児に関することを教師と話している時によく聞く台詞に、「障害のためにこうなのか、それとも単なる我が侭なのかが分からないのです。」というものがある。こんなこと、悩む必要など無い。「我が侭」だと教師が感じ困っているということは、本人にとっても困った状態なのである。周囲が持て余したり困ったり心配したりする状態は、本人にとって困っている状態であり、何らかの理由で現在属している環境の現実に適応できていないということである。「我が侭」なのかどうなのかと悩む暇があったら、その子供が現状に上手く適応できていないのはどういう背景に基づくのかと考えを進めれば良い。何かを認識できなかったり、何かを誤認識したり、何かを理解できていなかったり、集中力や抑制能力が低かったり、といった環境とのミスマッチの要因となっていることを探っていけば良いのだ。
このアプローチをとる時に、何らかの診断概念に当てはまるかどうかは問題にならない。診断しそれに基づいて対処しようという考え方ではなく、困っている子供を現実の状況に応じて援助しようという考え方だからである。だから、個々の医学的診断概念を知らずとも、援助を開始できる。つまり、発達障害の勉強をしてから支援が始まるのではなく、とりあえず始めてしまえるのである。勿論、発達障害の種々の病型について、特にその認知的特徴を学んでおくことは、困っている子供の認知特性を推測する際のヒントになるだろう。こういったアプローチで重要なポイントがいくつか有ると思う。まず、子供が困っていることを認める態度が必要である。その子供が「出来ない」ということを、指導者が認められなければ一歩も進めない。次に、物事を倫理的な善悪で考えないことが重要である。子供の言動を悪意に取ったり、指導者の力不足を嘆いたりしていれば、何時迄経っても建設的な対応が難しい。子供の種々の能力や認知・行動特性と、指導者を含む環境との齟齬がどこに有るかを検証すべきである。そのために、子供とその周囲の環境を客観的に観察する態度が必要となる。憶測ではなく、事実として観察できることを根拠に問題の背景を探るのである。
以上のように、僕は発達障害などの認知・行動面の問題を抱えた子供の支援が出来る様に教員をトレーニングするためには、個別の障害病型の教科書的な説明を繰り返しても成果は上がりにくいと考えている。では、少なくとも教員がトレーニングを受けておいた方が良いことは何だろう。僕の狭い経験から判断する限り、何か一つ学ぶのであれば応用行動分析ではないかと思う。認知心理学や認知神経学の知識を得ておくことも役に立つだろう。しかし、認知心理学や認知神経学の知見はなかなか現実に適用できない。仮説どまりのものが多いし、現実の行動特性とのつながりはさほど明確ではないからだ。その点、応用行動分析には種々の利点が有る。まず、現実に生じたことを根拠に仮説を設定するので荒唐無稽な考えに結びつきにくい。また、本人を変えたり成長させることにこだわらない。まずは環境に手を入れることで現実的に可能な改善策を模索する。何より客観的に観察する態度を重視するので、根拠の無い思い込みで対処することを防ぐことが出来る様になる。とはいえ、心や価値から離れてクールにものを考える行動分析学は今の教育界の人達との相性が悪いかもしれないなあとも思っている。
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