落ち着きが無かったり、衝動的であったり、何らかのハンディを背負い学校や幼稚園に適応できない子供達が耳に胼胝ができるくらい耳にするのは「頑張ろう」であったり「我慢しなさい」である。そのような子供達を診療する身としてはこの手の話をいっぱい聞くので、僕の耳も胼胝だらけである。
長時間座っていられなかったり、順番を友達に譲れなかったり、うっかり失敗して叱られたことを翌日にも繰り返してしまったりする子供達は、見た目には怪しからん奴らなのである。クラスの多くの同級生がきちんとできていることが出来ないのであるから、どう考えても我慢が足りなかったり人並みに頑張らなかったりする不届きな奴らなのである。
ん、そうなのか?
彼らは計画的にさぼったり、人を苦しめるという目的に向かって邁進したりしているのだろうか?
そんな事は無いだろう。わざわざ悪者になりたい子供なんてほとんど存在しない。ほとんどの子供はそれぞれが人に誇れる自分でありたいのだ。それが証拠に、就学直前の子供達に「小学校に行ったら何をするの?」と尋ねると、性別や障害の有無には関係なく口を揃えて「勉強!」と嬉しそうに答える。ほとんどの子供達は世間で良いとされている振る舞いを、自分もしようと考えている。
失敗を繰り返す子供達は頑張っているし、我慢しているのである。そしてそれが限界に達するから、破綻を来すのである。自分の限界まで頑張り、限界まで我慢する子供達。何といじらしいではないか。きちんと勉強し、人のことを思いやり、先生の指示によく従う子供達は、さほど頑張ってもいなければ我慢もしていない。何となれば、そういう子供達にとっては要求されていることが余裕を持って能力の範囲内に収まっているからである。しかし人は通常、何を成し遂げたかという外から見えることだけで物事を判断する。教師も例外ではない。従って、やすやすと物事をこなしている子供が「頑張る子」とか「我慢する子」と評価されることになる。教育者は「成果主義」を批判しがちなのに、奇妙な現象である。そして自分の限界まで頑張り我慢した子供達はどうなるかと言えば、「もっと頑張ろう」、「もう少し我慢しよう」と指導されることになる。
限界まで頑張っている人にもっと頑張らせよう、もっと我慢させようとすることは、かなり残酷なことである。徹夜続きの残業でフラフラになっている社員が、業績が上がらないのは君の頑張りが足りないせいだと言われたらどうだろう。あるいは、足に麻痺がある人が50m走りきれない時、君は我慢が出来ない人だねと言われたらどうだろう。無理なことをやれと言われ続けたとき、その結果として挫折の山が積み上がっていくだけである。失敗を繰り返す子供達の指導として、さらに頑張らせ、さらに我慢させることを中心に据えることは全く合理的ではない。要求水準を下げ、課題を達成する経験を増やすことの方が先決である。
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