ところが、発達障害では少々話が違ってくる。発達障害児をサポートするにあたり、医師や医療の果たせる役割がかなり限られているからだ。もちろん、医療や療育が不必要というつもりはない。薬物療法が必要な時は医療機関でしかできないし、合併障害の診断・治療にも医療は必須である。また、特に幼児期には療育機関でトレーニングすることは重要である。医療機関であれ療育機関であれ、本人や家族の相談に乗り助言をするという機能もあり、これも無視できない。ただ、医療は発達障害児支援の中心にはなり得ない。日常生活に密着して環境を整え、生活スキルを身につけさせ、能力に応じた学習をさせ、苦手なことをカバーする技能を教え、対人関係を調整し、具体的な日常生活に即した助言を家族に与え、ということが発達障害児支援の最も中心的なテーマとなる。毎日の生活に張り付いていない医師や療育機関の職員にはこのようなことをカバーすることは無理である。
子供本人と日々の生活をともにする人のみが発達障害児の中心的支援者となることができる。そのような立場で職業的に発達障害児をサポートできるのは教師や保育士である。つまり、発達障害の診断を最も生かせる立場の人達は教師や保育士ということになる。文部科学省が特別支援教育の方針を正式に打ち出してから7年余り。現在ではほとんどの教師は発達障害児に対して合理的な配慮を行うことを前向きに考えているのではないかと思う。実際に言葉を交わす機会があった教師達も、自分自身の職務として発達障害児の適切な指導が必要と考えていた。多くの保育士も同様である。ただ、あくまで個人的印象だが、ほとんどの教師は「診断」に対して腰が引けた感じがする。「診断」はあくまで医療の問題であり、自分はその結果を把握できれば良いと思っている様に見える。
しかし、考えてみればおかしな話である。発達障害やそれに関連する障害病型のほとんどは、平均的な子供からずれた行動傾向や認知スタイルが主たる特徴である。振る舞い方や物事の認識の仕方がずれているがために色々の失敗をし、困難に遭遇する。そういう子供達が暮らしやすい環境を整え、必要なスキルや学問を修得させていくための工夫は、本人達の特徴を踏まえて練り上げる必要がある。そうであってこその合理的配慮である。それならば、様々な診断概念が持つ意味を十分理解しておく必要があるし、それに含まれる特徴を教師自身が子供に確認できないといけない。「自閉症の診断があれば絵カード」という診断名と具体的対応策の組み合わせを知っておけば何とかなると考える人がいるとすれば甘すぎる。同じ診断名が付いている子供であっても能力、性格、今までの適応状態など千差万別であり、対応策も個人個人に併せて調整する必要がある。となれば、定型的な対応策であっても何故それが有効かという原理や機序を理解していないと応用が利かない。日々予想外の出来事に対応を求められる教師・保育士は極めて知的な職業であり、特別支援教育に限らずマニュアル的対応のみで上手く行くはずがない。
このように考えてくると、発達障害児に適切なサポートや指導を用意するためには、教師や保育士自身が発達障害の診断概念を熟知し、自ら診断できた方が良い。いや、診断すべきである。もちろん、公的な場で軽々しく診断名を振り回すと子供自身や家族を傷つける可能性があるので、その結論の取り扱いには注意が必要である。しかし、あくまで指導計画を練るための事前評価として、発達障害の診断をするスキルを教師は身につけておくべきではないかと僕は考える。恐らくこういう考え方は一般的な医師の考えではないと思う。医師は訓練を受けた自分たちこそが適切な診断を下せると考えがちである。重複障害の診断の重要性も考慮すると、軽々しく医師以外に診断を勧めるべきではないとする考えにも一理ある。しかし、患者を支援する中心的役割を担えない領域だけでも、もっと診断というものを解放する様に考えても良いのではないか。また、教師も自分達の職務遂行に必要な診断を取り戻すくらいの気概を持っても良いのではないかと思う。
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