学生に講義している時に気が付いたが、「コミュニケーション」を言葉によるコミュニケーションに限定して用いる人が多い。「言葉が話せない乳児とはコミュニケーションがとれないので」、「発達性言語障害があるとコミュニケーションが難しいので」といった調子である。恐らく、学生に限らずコミュニケーションと言えば言葉と考える人は多いのだろう。しかし、コミュニケーション手段は言葉に限定されている訳ではない。表情のやり取りであったり、身振りの使い方であったり、言語以外にもコミュニケーションのチャンネルは色々ある。「非言語性コミュニケーション」という言葉があるくらいだ。周りの人が何をしているのか全く気にせずにっこりと見つめ合う、回し蹴りを食らわしてやりたい恋人同士などは、非言語性コミュニケーションに没頭しているのである。
では、言語によるコミュニケーションの特徴は何だろうと考えると、明確な意味の遣り取りが出来るということではないかと思う。いやしくも言語でコミュニケーションをとる以上は、自分の考えや気持ちを明確に相手に伝え、相手の考えや気持ちを明確に理解することが大事ではなかろうか。と、僕は思っている。だから、人の話を聞いて理解できないとそのままで置いておけないし、自分が話す時には相手に理解してもらえないとどうも落ち着かない。
付き合いの長いある知人は、良い人なのだが、それどころか最も世話になっている人の一人でもあるのだが、会話をしている時に話していることがとても分かりにくい。何故分かりにくいのかというと、ケースバイケースで色々なパターンが有る。文法的間違い、例えば「〜された」が「〜した」になることが有る。主語や目的語を抜かして話すことが多い。前提となる背景説明を省略しがち。単純な取り違えもよくする。例えば、「AよりもBが好き」というつもりで「BよりもAが好き」などと言う。この調子なので、何を言おうとしているのかよく分からないことが多い。さらに、こちらが理解できなかった時やよく聞き取れなかった時に「なんて言ったの?」と尋ねると、自分が話した直後にも関わらず「何だったかな」と悩むことが多く、そもそも明確な「意味」を相手に伝えるつもりがあったのかどうかさえ怪しい。本人が伝えたいこととは別に、気になることが有る。それは、その人が質問するのでこちらが真剣に返事を言い始めた矢先に、かぶせる様に喋り始めることが多いのだ。え?あんたが質問したんじゃなかったのか?それに誠実に答えようとしているのに、何故聞こうとしないのだ?と、こちらの頭の中は?????で一杯になる。どうも、人の発する言葉の意味を受け止めようとしていないのである。
要するに、この知人は自分の語る言葉の意味を正確に伝えようとしていないし、相手の語る言葉の意味をきちんと理解しようともしていないのである。言葉によるコミュニケーションの最大の特徴は明確な意味を伝えられることではなかったのか。相手の発する意味を理解できることではなかったのか。この人はいったい言葉を何と考えているのだろうか。
しかし、次第に分かってきたことがあり、それを今では確信している。日々の生活の中で他者との言語的コミュニケーション量は、明らかにその知人の方が僕よりも多いのだ。彼女の話を聞いていると、友人を始めとして様々な人と多くの会話をしているらしいのである。実際、非常に長時間電話で話している姿を僕自身がよく目撃しているし、魚屋や八百屋の兄ちゃんと気軽に話をしている姿を見ることも多い。その知人と比較すれば僕の方が遥かに正確に言葉を組み立てているはずなのに、彼女の方が僕よりも余程多くの人と長時間語り合っているのである。これはいかなることであるのか?
時と共に僕は学んだ。言葉によるコミュニケーションにおいても、正確な意味の遣り取りは大して重要ではないということを。学問的議論や裁判など一部の例外を除いて、人にとって意味の正確さなどあまり「意味」が無いのである。意味の有無など無関係に、言葉のキャッチボールが出来ていることが言語性コミュニケーションにおいても最も重要なことなのである。つまるところ、人間は言葉を習得する前から習得する後に至るまで、コミュニケーションに必要なものは意味の明確さや論理ではないのである。
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