平均的な子供でもそうだろうが、特に発達障害児は学校の担任が変わった事で日常の生活状態が良くも悪くも大きく変わる事が多い。発達障害児の診療をしていると珍しい話ではないが、特にここ1、2ヶ月の間に、担任がらみで状態が大きく変化した似た様なケースを複数経験した。全員共通した状況は、家では親が困る事はあまりない。学校では、ある学年までは取り立てて大きく問題になるエピソードは無かった。しかし、問題の学年になってから授業中に不適切な言動が頻回に見られたり、学習に取り組もうとしなかったり、同級生とのけんかが増えたりし、困って病院を受診したという状況である。そこで改めて評価すると、大きな問題にならなかったものの集中力の悪さや多動傾向、あるいは対人関係の作り方の拙さが幼少期から認められていた事が確認された。中には、問題の多かった時期からさらに学年が上がって担任も変わった後は急速に落ち着き、受診時には直ちに対処せねばならない大きな問題が無い子供もいた。
まるで、応用行動分析で言うところのAB、あるいはABAデザインの様な状況である。具体的にどこがどう上手くいかなかったのかはもっと詳細な情報を得ないと不明だが、少なくとも特定の担任という「介入」がこれらの子供達に取って悪条件になった可能性は極めて高い。僕の主観的な印象だが、こういうケースでの担任は個々の失敗を一々取り上げ、子供を(ついでに家族を)追い詰めていくタイプが多い気がする。危ういバランスながらがんばって上手く暮らせていた子供が、たまたま担任との組み合わせが悪かったために適応できなくなったのかもしれないのである。小児期に自己評価が大きく低下する体験は、下手をすれば一生尾を引くかもしれず、運が悪かったで済ませるわけにはいかない。一方、指導に失敗した担任にとっても不幸な状況のはずである。
よく言われる担任の「当たり外れ」の話をしたいのではない。先に挙げた様な状況では、ABデザインの様なしゃれた言い方をするまでもなく、誰が見ても何らかの意味で担任のやり方がその子供と合っていない可能性が高い事は分かると思う。ある学年で問題が頻発すれば、では、今までの学年ではどうであったのか、家庭ではどう認識されているのか、という風に検討を進めれば、今の指導に工夫をする余地があるかもしれないと気づくはずである。ならばどうしてその子供と担任を支える動きが起きなかったのだろうか。
学校の内部の状況をよく知らないと、こういった現象が放置されていたメカニズムを分析できない。ここでは疑問点だけを羅列しておく。まず、つまづいた子供と担任をカバーするためのシステムが学校にはあるのだろうか。例えば、問題事例が報告されたら、第三者の教員が過去の状況や家庭での状況を含め、広範な情報を直ちに調査する制度など。次に、倫理的な問題ではなく業務のパフォーマンスの問題とした認識は出来ているのだろうか。倫理的な観点で見た時、発達障害児が引き起こす問題は「悪いこと」である事が多いので、担任側に改善すべき要素があるという話になりにくい。最後に、教育業界には何か問題がある時によりよい状況を得るために合理的な戦略を考えるよりも、問題が生じる責任を問う風土が無いだろうか。責任を問う文化では、当事者は他に助けを求めにくく抱え込む事になりやすいと思う。
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