この節は「学習の問題」というタイトルにしていますが、子供の学力のアセスメントについて解説しようというわけではありません。発達障害診療をしている医者が小学校の教科学習に関して感じている問題をつらつらと述べようという趣旨です。愚痴をこぼすコーナーです。
私の外来を発達障害のある小学生が受診するときに2番目か3番目に多い主訴が、「勉強がうまくいかない」というものです。最も多い主訴は集中できない、衝動的、かんしゃく、暴言暴力など行動の問題です。勉強の悩みと同程度に多いのが不登校傾向です。ただ、主訴が行動の問題や不登校傾向であっても、細かく聞き取ればその多くに学習の問題が潜んでいます。つまり、勉強で苦しい思いをしていることが行動の問題や不登校傾向につながっていることが多いのです。そう考えると、勉強の悩みというものは子供の健康な暮らしにとっての大きな脅威であり、なんとか対策を立てるべき問題といえます。
言うまでもありませんが、医者はその養成課程や実臨床の場で小学生に勉強を教えるということを学んでいません。学習の問題を医者に訴えてもお門違いというものです。しかし、あまりにも訴えが多いので、見て見ぬふりもできません。クリニックのスタッフと一緒に頭を悩ませながら、多少なりとも手助けできることがないかを探るようになりました。その中でいろいろ気づくことがあります。子供が勉強で躓いているとき、教師個人の問題ももちろんあると思うのですが、構造的な問題が大きいのではないかと感じます。つまり、日本の教育行政や教育界の文化に起因する問題が多いのではないかと考えるようになったのです。私が考え付いた小学校の教科指導に関するいくつかの具体的問題点を以下に記していこうと思います。教える内容に関してではなく、主に指導方法やシステムに関する問題です。おそらく構造的問題なので、教師個人には如何ともし難いことが多いかもしれません。ただ、校長や教頭など、リーダーが工夫すればなにかしら現状を変えていけることも多いのではないかと思います。
まず指摘したいことは、最も基本的なスキルが身に付いていないことが見逃されているということです。私自身の診療経験から考えると、学業不振を主訴とする子供のかなりの割合は文字を読むことが苦手です。教科書を音読してもらうと、たどたどしい。1文字ずつ区切って読む逐次読みの子もいますし、そこまでひどくなくても音節の途中など不自然な部位で途切れがちだったりします。読み誤りや読み飛ばしも頻回に見られます。そのような子の多くは、たとえ一通りの平仮名を一応読めていても、反射的に読めるようになっていません。文字を見て瞬時に読める(自動化すると言います)ようになっていない子供に長文読解や作文を課題として与えると、それは拷問に近い作業になります。仮名文字をスムーズに読むという、読み書きの入り口で躓いたまま学年が上がり、国語が嫌いになっている子供はかなり多いのではないでしょうか。読字に苦労し続けると、いずれは国語のみならず多くの教科で付いていけなくなります。
低学年のうちに習得すべき最も基本的なことができていないという、平仮名読み問題と類似したこととして、数量概念の理解ができていないままに学年が上がっていく子供も結構いるように感じます。例えば、一桁の加減算で指を使いながら考えている知能は全く正常範囲内の5年生の子の診療をしたことがあります。その子に適当な一桁の数を線分や円で表し、それを参考に別の数に相当する線分や円を描かせると、とんでもない長さや大きさの図を描いてしまいます。かろうじて序数は把握できているようなのですが、基数(集合数)としての数量概念がきちんと身についていないようです。最も基本である数量概念(序数と基数)が十分に理解できていないままだと、早晩算数が理解できなくなるのは目に見えています。平仮名読字の自動化や、数量概念の把握など、「え、そこから?」と言いたくなりそうな入り口で躓いているのに、なんら対策を講じられないままに次々と上のレベルのことを教えられていけば、勉強が辛いもの以外の何者でもなくなることが目に見えています。
上に述べた、最も基本的なスキルが身に付いていないことが見逃されていることと無関係ではありませんが、学校では学力についての評価がきちんとなされていないように見えます。学力テストをしているではないかと反論したくなる人もいるかもしれません。確かに学力テストも評価の一つと言えます。しかし、これでは不十分です。学力テストは現在教えていることが身についているかどうかをチェックしているにすぎません。子供ごとにどの程度の学力が身についているのかを知るためには、教科ごとの学習内容を就学前の準備段階から中学校卒業後のレベルまで連続的なものとみなし、その中で今現在その子供はどのレベルにあるかを評価できる方法が必要です。学習到達度の評価です。このような評価が当たり前になされていれば、平仮名がスムーズに読めない子供に長文の作文を書かせたり、一桁の数の概念を身につけていない子に二桁三桁の繰り上がり繰り下がりのある計算をさせたりはしないはずです。何年にもわたる「発達」という観点から、一人一人の子供が今どのレベルにあるのかということをきちんと評価する必要があるのではないでしょうか。
さて、ここまで述べたことを踏まえると自然な結論になりますが、今の小学校の教科指導は個々の子供の理解力や習得できているものを前提としたカリキュラムになっていません。大多数の子供は一斉に同じレベルの内容が教えられています。これは原則として学習指導要領に沿った指導をしないといけないと決められているからであって、教師個人や学校の責任ではありません。とはいえ、このままで良いとも思えません。私は、学習指導要領では各科目の指導順序だけを定め、学年ごとに内容を固定することをやめれば良いのではないかと思います。そして、一人一人にオーダーメイドで教えるのはあまりにも非効率なので、教科ごとに進度の違う複数のクラスを用意し、子供自身の希望も取り入れてクラスを選択させれば良いのではないでしょうか。どうしても一学年の大半の子供に同じ内容を教えることに固執するのであれば、8、9割以上の子供が理解し身につけられる内容に留めるべきです。その場合は、知的能力が高い子供たちに意欲を持たせ続けるにはどうすれば良いかという問題が生じると思いますが。
効率の良い学び方が子供によって異なることへの配慮が不足しているのではないかということも指摘したいと思います。同じことを学ばせる場合でも、成果の出やすい学び方が子供によって違うことがあります。個人的にとてもよく遭遇する例として、漢字の学習方法を取り上げましょう。おそらく多くの学校では同じ漢字を何度も書かせる方略を採用しているように見えます。しかし、同じ字を何回も書くことがひどく苦痛となる子は少なからず存在します。注意欠如多動症と診断されている子供の多くは単調な繰り返し練習をひどく嫌います。こういう子供はとにかく早く済ませたいがために非常に雑な書きっぷりになります。まず偏だけを上から下へと次々に書き、次いで旁を書いていく、という奇妙な作戦を取る子供も出現します(何を隠そう、私の小学生時代のことです)。とにかく苦痛から早く逃れたくて、じっくりと文字の構造を見ることがありません。何度も書くことで学べる子もいるでしょうが、一つの字をじっくり綺麗に書かせることや、粘土で文字を作らせることの方が文字の形の細部まで意識して身につけられる子もいるかもしれません。文字の構成要素を「タテ タテ ヨコ ヨコ」などと音にして唱えると覚えやすい子もいるかもしれません。今時であればゲームボーイの漢字学習ソフトなら張り切れる子供もいるかもしれません。学習方法の様々な選択肢を提示し、それぞれの子供が自分に合った方法を選択できるようになれば良いのになあと思います。
さて、最後に粗雑な感想を述べておきます。教科指導に限定された話でもありませんが、今時の小学校はおしなべて子供に高い負荷をかけすぎているのではないかと感じます。「ほどほどにしとけよー」「疲れたら休めよー」という雰囲気があまりにも乏しいのです。一方的に「頑張る」ことに価値を置きすぎています。大人と同様に、子供にもそれぞれのペースがあります。教科学習に限定しても、知的な理解力のレベルだけで物事が決まるわけではありません。褒められながら思いっきり突っ走ることが嬉しい子供もいますし、なかなかエンジンのかからない子供もいます。疑問に感じたことを延々と考え続ける子供もいれば、考え続けることが至って苦手な子供もいます。それぞれの子供のペースが全く考慮されない指導を続けた時、遅かれ早かれ子供は限界に達するでしょう。難しすぎる内容を延々と聞かされ続けることや、分かりきった退屈な内容に取り組まされ続けることも、学習意欲を消失させることは考えるまでもありません。色々な意味でその子供のペースからかけ離れた指導が続くと、苦痛に満ちた時間を耐え忍ぶことになります。高すぎる負荷という表現を使うと、学習内容のレベルが子供にとって高すぎる場合だけを想像しやすいですが、色々な意味で子供にとって不快なあるいは苦痛な状況が続く状態は全て負荷が高すぎると言えます。教科教育の中で過負荷が続くことは学力的な問題を増加させるだけではなく、暴力やかんしゃくなどの行動の問題、不登校や登校渋りにもつながります。小学校生活の中では教科学習の時間が圧倒的に長いのですから、当然のことといえます。
さて、次節からは最初に取り上げた平仮名読字と数量概念のアセスメントについて説明したいと思います。