2026年2月1日日曜日

できなければ全部しなくて良いよ

  昔に比べて学校の先生たちは優しい人が増えたように思います。「泣こうが喚こうが、しないといけないことはしないといけないのだっ!」と、強引に子供に何かを強いる先生はかなり少ないのではないかと思います。子供達には限界というものがあるとよく承知され、極端な無理強いを避ける先生が増えました。例えば、宿題が辛くて辛くて家庭で親とバトルを繰り広げる子供がよくいます。そのような時に、「できなければ全部しなくても良いよ。できるところまですれば良い」と子供に伝えるのです。さて、このような対応に問題はないのでしょうか。

 「できなければ全部しなくても良いよ」と言われても、かんしゃくを起こしながら宿題を全部やろうとする子供は結構います。おそらく、全部しなくても良いよと言われてやめてしまった時、それは挫折になり悔しいからではないかと思います。しかも、最終的にやめるかどうかは自分の判断に任されています。子供達は誇り高いのです。自分はできないと自ら認めることに耐えられない子が少なくないだろうということは想像に難くありません。おそらく先生方は子供の状況に同情し、善意から「できなければ全部しなくても良いよ」と申し出られているのだろうと思います。しかし、宿題が苦しくてかんしゃくを起こしている子達から見れば、「どうせ君には難しいだろ、できないだろう」と言われた気持ちがするのかもしれません。

 私は子供達(発達障害かどうかに関係なくどの子供でも)に課題を出すときは、量的にも難易度的にもその子供が少し頑張れば達成できる課題を準備することを原則にした方が良いと考えています。時にはガツンと困難な課題に取り組ませても良いのですが、それは日々成功体験を積み自分の力を信じられるようになっていることが大前提です。最も注意深く避けるべきことは、無理やり頑張れば何とかこなせてしまう課題を与え続けることです。大人は子供が頑張って何かを成し遂げることが大好きです。特に、教師にはそのようなタイプが多いように思います。しかし、頑張ればできる課題がその子供にとって適切な課題というわけではありません。日々取り組ませる課題は、基本的には余裕を持ってこなせるレベルにする必要があります。大人だって残業続きだと心の健康を壊してしまいます。退屈な課題でも困りますが、毎日背伸びをし続けないといけない課題を出し続けることは避けるべきです。

 量的にも難易度的にもそれぞれの子供が少し頑張れば達成できる課題を設定する時、難易度を下げることや量を減らすことはすぐにでも実行できることであり、真っ先に考える必要があります。ただ、同時に検討すべきことがあります。それは、子供が苦しんでいる理由や易々とはできない理由を分析することです。難易度を下げ、量を減らし、課題をこなせた経験を積むだけでもそれなりの成果を出せると思います。しかし、多くの子どもがそれほど苦しまずにできていることが簡単にはできない時、その子供のなんらかの特性が学習にとって不利に働いているはずです。例えば、注意力が弱く集中できる時間が短いとか、平仮名読字の自動化が不完全であるとか、序数は身についても基数の理解が不十分だとか。逆に、うまく利用できれば学習にとって有利になるような特性を持っていることもあります。これらのその子供に固有の特徴を分析し、苦手さを補い利用できそうな特性を長所として活用できるような学習方法を具体的に考案することも、子どもが頑張りすぎないように、楽に暮らせるようにする上で重要なポイントです。

 個々の子供に見合った課題の設定はなかなか難しいとは思います。一つの目安は、その子供がその勉強や課題を嫌いにならないことではないでしょうか。欲を言えば、楽しめることが望ましい。そう言えば、私の外来には就学を控えた子供がたくさん来てくれます。「小学校に入ったら、何が楽しみ?」と質問すると、ほとんどの子供は屈託なく「勉強!」と答えます。小学校の先生にとって喜ばしい好条件が準備されています。しかし、小学校入学後も「勉強が楽しい」と言い続ける子は残念なことに少ないです。私は、すべての教科の指導目標を「楽しいと思わせる」にしてもバチは当たらないのではないかなあと考えたりしています。


2026年1月31日土曜日

ぶりょうをかこつ

 僕は非社交的な人間なのだが、時々食事に誘ってくれる友達が少数いる。先日も長年仲良くしてくれている年下の友人から「久しぶりに飲みに行きましょう」と誘いの連絡が入った。時々このように年寄りを誘ってくれるとは優しいなあ、といった意味の返事を書きながら「ぶりょうをかこっている年寄り」という表現が頭に浮かんだ。そのまま書きそうになったものの、「そもそも『ぶりょう』ってなんだ?漢字はどう書くのだ?」という疑問が湧いてきた。スマホに任せれば勝手に漢字を書いてはくれそうだが、ここまで意味も把握せず字もわからない使い慣れない言葉をさも知ったげに書くのはちょっと恥ずかしいなと感じて思いとどまった。

 せっかくなので(なにが?)辞書を引いてみた。そうか、「ぶりょう」は「無聊」と書くのか。「無」という字を使うことは知っていたが、「聊」は初めて知った。で、「無聊」はどういう意味かといえば、「することがなくて退屈なこと」とある。なるほど、そうなのか。明鏡国語辞典には「心配事があって気が晴れないこと」という語釈も載っているが、「無聊をかこっている」の日常的な使われ方から考えるに「することがなくて退屈なこと」の方がよく使われる意味だろう。案の定、明鏡国語辞典には「することがなくて退屈なこと」という語釈の用例として「無聊をかこつ」と書いてあるではないか。やはりこっちだ。ん?、え??、「かこつ」??
 僕は「無聊をかこっている」という表現の「かこっている」は「囲う」の活用形だと思い込んでいた。「かこつ」だったのか。知らなかった。しかし、「かこつ」ってなんだ?「かこつ」を辞書で引くと「託つ」と書くらしい。意味は、「ぐちをいう、嘆く」ということらしい。つまり、「無聊を託つ」はすることがなくて退屈だと愚痴っているのである。し、知らなかった。この勢いで、「聊」という漢字は何なのかを調べることにした。なんと、送り仮名「か」をつけると「いささか」と読むらしい。「些か」とも書く「いささか」であるが、「聊か」という表記もあったんだ。うーむ、知らんことばかりではないか。「聊」を漢和辞典で調べると、ここに書くには多すぎる多くの意味が記されている。なんということであろう。知らないことが多すぎるではないか。
 人生の折り返し地点なんてとっくの昔に通り過ぎて、間も無くゴールの白いテープさえ見えるかもしれない年齢に至ってこの体たらくは情けない。もともと身につけたものが少ない上に、脳みそからばらばらと音を立てて知識がこぼれ落ち出した老人がなんとか大恥をかかぬように暮らすためには無聊を託っている暇なんてないのである。

2026年1月25日日曜日

障害なのか我が儘なのか分からないんです

  「障害なのか我が儘なのか分からないんです」は、発達障害診療の中で医師が保育者や教師から(時には保護者からも)直接受けることが多い質問です。言葉を素直に受け止めるなら、このような質問には障害と我が儘は明確に異なったものという前提がありそうです。そして、質問者は子供に見られる振る舞いが障害としての特徴なのか我が儘なのかを判断したいのにわからないと悩んでいるようです。障害としての表現なのか我が儘なのかがはっきりしたら、その先どうしようというのでしょうか。おそらく、障害の特徴なら許し助けてあげるけれど、我が儘なら厳しく指導する、くらいのことを考えておられるのではないかと想像します。

 この様な質問をされる方は、国際生活機能分類(ICF)が定義する意味での障害を理解できていない、発達障害特性の連続性を理解できていない、「我が儘」という言葉が何を意味するのか考えていない、のいずれかまたは全てだろうと想像しています。国際生活機能分類(ICF)が定義する障害については、まずは別項(「障害ではなく個性だと考えています」)をご参照ください。一言で言えば、個人の健康状態を基盤とするなんらかの特性と生活環境のミスマッチがもたらす暮らし難さや生活の困難さが障害です。目が見えないとか耳が聞こえないなどの身体的、機能的問題があるかどうかが障害かどうかの境目ではありません。活動や参加が妨げられた状態、すなわち生活することの困難さ、平たく言えば暮らしづらさがあるということが障害と判断できる目安です。

 次に、発達障害の連続性について説明します。多くの発達障害は、その行動や認知の特徴で定義されています。例えば、不注意さ、人の気持ちを読み取ることの難しさ、読字の非流暢さなどです。このような行動や認知の特性は「ある」か「ない」かや(+)か(-)で表せるものではありません。なぜならそれぞれの特徴の程度は連続的だからです。例えば、不注意かどうかを明確に線引きすることはできません。人は誰しも不注意さを見せることがあり得るのですが、世間の目から見れば不注意さがほとんど目につかないように感じられる人もいれば日々不注意だらけに見えるような人もいます。そして、その間には様々な程度に不注意な人が無数に存在するのです。ここからが異常、と線引きすることはできません。となると、不注意さが主たる症状である注意欠如多動症の診断なんてできないではないかと思った方もいらっしゃるかもしれません。一応の目安はあるのです。それは、その不注意さが明確に生活の困難さに結びついているかどうかが境目になります。もちろん、これだってそれほど明確な判断はできません。本人、家族、保育者や教師、そして医師の感じ方に左右される面は必ずあります。しかし「生活の支障になる程度に」不注意だということがその不注意さが障害であるかどうかの判断基準であるということは断言できます。困っていれば障害だし、特別な支援や合理的配慮が必要となるのです。

 さて、「我が儘」とは何でしょう。明鏡国語辞典の語釈は「他人のことは考えないで自分の思うままに振る舞うこと。」となっています。他の辞書を見ても、日常的な使用に関しては似たり寄ったりの説明です。これを子供の能力や行動特性の面から説明できないかを考えてみましょう。「他人のことは考えないで」は他人の気持ちに想像が及ばないことと取れます。つまり、人の気持ちに対する鈍感さを示しています。もちろん、人の気持ちを理解した上で考慮に入れないとも考えられますが、「我が儘」という言葉の持つ子供っぽさからはそういう作為的な印象はありません。もし、理解できていてあえて考慮しないのなら、その振る舞いが結果として自分に何をもたらすのか、自分の社会的立場がどうなるのか、ということが計算できていないと言えます。つまり、先を見通し予測する力が弱いと言えるでしょう。「自分の思うままに振る舞う」ということは、自分の主張を曲げられない頑固さとも取れますし、思いついたことを後先考えずに実行しようとする衝動性とも取れます。抑制能力の弱さで説明できるかもしれません。そして結果としては、これもまた長い目で総合的に考えられる自分の利益の計算ができていないと言えます。

 人の気持ちに対する鈍感さ、思考の柔軟性の乏しさ、衝動性、見通しの悪さ、いずれも自閉スペクトラム症や注意欠如多動症に認められる特徴です。そして、上にも述べたように、このような特徴の程度は連続的です。多少の「我が儘」は多くの人に見られるもので、特に困りません。他者からひどく「我が儘」と見做される場合は、本人の暮らしにくさにつながります。そうなると、本人の力だけでは健康的、建設的に暮らせなくなります。放置して潰せば良いのでしょうか?そんなはずはありません。どの子供も、可能な限り健康的に成長させてあげなければなりません。そう考えると、迷うことなく援助の対象になります。生活の支障になれば、困っていれば障害と考えれば良いということです。

 このように考えてくると、「我が儘」という概念を再定義したくなります。「我が儘」とは大人の側から見た大人の都合で成り立つ言葉だと言えます。大人が正しいと考えるように子供が行動しない、大人が我慢すべきと思うことを子供が我慢しない、ということを表した言葉に過ぎません。子供の立場に立って考えれば、何らかの行動特性や思考の特性から大人から非難され暮らしにくくなっている状況なのですから援助が必要な状態なのです。障害と我が儘を明確に区別できるという考えが、そもそも的外れであり、本質を見えなくしているのではないかと思います。

 さて、結論を言えば、障害でも我が儘でもいいじゃないですか。両者に共通して言えることは、自覚があるかどうかは別にして生活の中で困っている状態だということです。助けてあげましょうよ。世の中には、素敵な世界があるんだということを教えてあげれば良いじゃないですか。

「先生、お言葉を返すようで恐縮ですが」:目次

2026年1月17日土曜日

障害ではなく個性だと考えています

  教師や保育者と発達障害についての話をしているときに、明らかに善意から「障害ではなく個性だと考えています」と仰る方を時々目にします。このような主張をされる人達は障害を個性と言い換えることにどういう意義を見出しておられるのでしょうか。もし、障害という言葉にネガティブな意味付けをし、個性と言い換えることでスティグマから解放しているつもりなら、とんでもない話です。言葉の言い換え程度で救えるものではありません。教師や保育者などの障害を持つ人々を支える立場にある人なら、障害という言葉に差別的な意味をつけることを正面から批判すべきです。障害という言葉を言い換えて安心しているのであれば、その人自身が障害に負の意味づけをしているのではないかと思います。

 そこまで甚だしい勘違いではなく、少しでも前向きな気持ちになって欲しい程度の理由で個性と言い換えているにしても、そこには問題があります。個性という言葉は本来、暮らし辛さや生き辛さを表す言葉ではありません。個性と言い換えてしまうことで、障害がもたらす苦しさを見えにくくしてしまいます。なぜ障害という言葉が公に用いられているかというと、本人には変えることができない暮らしにくさを有する人には社会が援助する必要があるからです。


 現在の障害概念は国際生活機能分類(ICF、上図)で定義されています(厚生労働省、2002)。図4では真ん中に描かれている、心身機能・身体構造、活動、参加の3要素をまとめて ICFでは生活機能と呼びます。人が生活する状態を総合的に表したものです。ICFの定義によれば、生活機能の3つの要素全てが問題を呈している状態が障害です。障害は単に心身の調子が悪い状態のみを意味するものではありません。障害は、歩いたり、食べたり、喋ったりという日常生活の中での「活動」が制限されていることを含んでいます。また、学校や仕事、余暇活動など様々な生活場面や社会への「参加」に制約があることも含んでいます。障害は、日常生活の中で自分一人の力では様々な活動や参加が十分にできていない「状態」を意味しています。つまり、暮らし辛い、生き辛い「状態」であり、人として当然保障されるべき権利が侵害されているのです。そして、その「状態」は本人に固有の特性なのではなく、本人の健康状態と暮らしている環境との相互作用によって決まります。環境を変えることで活動や参加の状態を改善することができるのです。障害を伴う人たちには、生活することの困難さを軽減するための環境の調整が必要です。

 簡単に言えば「困っている」状況が障害なのですから、「それは個性ですよ」と能天気なことを言われても困ります。障害を個性と言い換えても効果がないばかりか、援助が必要な状態であることから目を逸らし、生活の困難さを軽減することを本人の努力に求めてしまうのではないかと危惧するわけです。念のために補足しておきますが、障害を持つ子供やその家族がこういうセリフを言っても全く問題を感じません。あくまで障害を持つ人たちを職業的に支えるべき立場の人たちが口にすることは問題だと考えるのです。

 話が少しそれますが、「どの子供も区別する気はありません」や「子供を区別することなく指導します」と口にする学校園の先生がしばしばいらっしゃいます。「障害は個性です」も、「どの子供も区別する気はありません」も、どちらも障害という括りで子供を分けたくないという気持ちが共通しているように思えます。ただ、私は両者から違う印象を受けます。「障害は個性です」には無知な無邪気さや能天気な善意を感じます。しかし、「どの子供も区別する気はありません」や「子供を区別することなく接します」というセリフには自分の考え通りに人を従わせようという支配欲のようなものを感じます。これは多分に私の個人的経験の影響でしょう。私が経験した、「どの子供も区別する気はありません」や「子供を区別することなく接します」と仰る先生は受け持ちの子供に一律の指導をし、一律の課題に取り組むことを求めます。どれだけ子供本人が困っていても、「自分のやり方」「自分が必要と考えたこと」を押し通そうとされる方ばかりでした。個人的経験を一般化して良いかどうかわかりませんが、現在、私は教師が「どの子供も区別する気はありません」や「子供を区別することなく接します」と口にするのを見ると、おそらく力量の低い先生なんだろうなと判断する癖がついています。

 話を元に戻しましょう。結論を申し上げれば、子供の健やかな成長を支えることを生業としている先生方には困っている子供を際限なく困らせることや、苦しんでいる子を弥が上にも苦しめるようなことに加担してほしくないのです。障害があるということは生活に支障をきたしているのだということをしっかり認識し、必要な支援が速やかに提供されるような環境を構築することに尽力していただきたいと願っているのです。その結果として、子供達が持てる力を十分に発揮しながら日々の生活を楽しめるような環境になったとき、今まで発達障害として捉えられていた特性を文字通り個性と称することが可能となると思います。


「先生、お言葉を返すようで恐縮ですが」:目次

2026年1月4日日曜日

接し方/指導の仕方を教えてください

  思いがけず時間ができたので、本田英美は机に頬杖をついてぼんやりしていた。視線を向けた診察室の窓の外では色付き始めたもみじが風に揺れている。英美が診療している発達障害専門外来は原則予約制で、一人当たりの診療時間が結構長くとってある。毎日隙間なく組み込まれた受診予約に沿って子どもたちの診療をしているのだが、たまに予約のキャンセルがあるとポッカリと時間が空いてしまう。こういうぼんやりしている時には得てしてあまり面白くない記憶が蘇ってくる。今日の英美は先週参加した学会での出来事を思い出していた。その学会で、英美は注意欠如多動症患者を対象としたワーキングメモリ検査得点と薬物治療との関連について検討した研究を発表した。時間内にプレゼンテーションを終え質問タイムになった時、演台に近い前方の席に座っている男性が手を挙げた。立ち上がりマイクへと歩む男性を見て、英美は見覚えがある顔だと気づいた。発達障害を専門とする臨床家や研究者なら知らぬものはいない大物である。自ら臨床に携わりながら子供の認知科学的研究でも多くの業績を上げているこの分野での権威である。男性はゆっくりとマイクを握り、穏やかな微笑みを浮かべながら口を開いた。「素人質問で恐縮なのですが...」。その言葉を聞いて英美はぞっとした。学会場で権威のある学者が口にする「素人質問で恐縮なのですが...」が本当に素人質問であることなど滅多にない。自分が最も力を入れて研究している分野とずれていますが、程度の意味であり、むしろ自分が興味を持つ領域だから食いついてきていることが多い。事実、この時に英美に投げかけられた質問は簡単に答えられるようなものではなく、彼女は脂汗を流すことになった。

 「本田先生」、苦い記憶に浸っている時に診療所スタッフの吉川鉄子に声をかけられ、英美はハッとして振り向いた。「健太くんのお母さんと小学校の担任の先生がいらっしゃいました」と鉄子が告げる。健太くんは注意欠如多動症の小学生である。可愛らしい子なのだが、何しろ集中力が続かないし、思いついたことをすぐに行動に移してしまう。おまけに多少読字の拙さがあるため文章を読むことが苦手で、特に国語の時間は今何の説明をされているのかわからなくなることがしばしばある。そのため、授業中に離席したり、隣や前の席の子供に話しかけたり、時にはイライラして突然叫んだりする。すでに数年前から時々相談に乗っていたのだが、この日は担任の教師が医師に直接話を聞きたいと強く希望したため、母親と一緒に来院することになったのである。

 2人を診察室に招き入れ、椅子を勧める。内心、ちょっと失礼かもしれないなあと思わせる程度に古くて薄汚れた椅子なので、少々気が咎める。しかし、綺麗な調度品を揃えるほど潤沢な予算はないので仕方がない。すでに馴染みの母親はリラックスしてすんなり座った。それに続いて担任の先生も椅子に座ったが、慣れぬ場で緊張しているのか硬い表情だ。英美は、2人が椅子に座ったことを確認してから担任の先生に顔を向け、「今日はどのようなご用件でしょうか」と質問した。間髪を入れず「今日は健太くんにどのように接すれば良いのか、どのように指導すれば良いのかを教えていただきたいと考えやってまいりました」と担任は口にした。一瞬、英美の脳裏には先週の学会で英美に質問した学者の顔が浮かび上がった。いったい何を言っているのだろう。教師が医師に、よりにもよって指導の仕方を尋ねるなんて。学会場で耳にする「素人質問で恐縮なのですが...」みたいなものではないか。だが、担任の先生の顔は至って真剣である。学会で質問した権威のような余裕に満ちた表情ではない。元々生真面目そうな先生に見えるが、英美に対しても真面目に真剣に質問しているようなのだ。

 実は英美が教師や保育者からこのようなセリフを聞くのは今回が初めてではない。というか、何回聞かされたか覚えていない程度には何度も経験している。このような質問をされるたびに英美は、教師や保育者が医者に子供の指導方法を教えてもらおうとして良いのか?それが許されるのなら医師が教師に病気の治療法を教えて欲しいと相談しても許されるのか?そうなのか?と叫びたくなる。もちろん本当に叫んだりはしない。何しろこの道20年のキャリアである。どんな質問を受けても涼しい顔をしていられるだけの自制心は身につけている。それどころか、発達障害を専門に診療していると必要に迫られて色々な付け焼き刃の知識だけは膨らんでいるので、一見それらしい返事をすることさえできるようになっている。しかし、教師としての職歴はないし、教育学を本気で勉強したこともない。自分の説明が本当にそれで良いのか自信がない。一見涼しい顔をしながらも、このような、立場が逆転しているだろうと言いたくなる質問を受けるたびに心の中に割り切れない思いが満ちてくるのである。

 今日も英美はまずまず無難なことを説明し、健太くんの担任と母親はそれなりに腑に落ちた雰囲気で帰っていった。2人の姿が診察室のドアから出て行き見えなくなると、英美は溜め息をついた。「どうしました、浮かない顔ですね」と後ろから声がする。スタッフの鉄子である。鉄子はその名前に似合わずふっくらとした顔をしているし、物言いも優しげである。なぜ鉄子という名前になったのだろう。父親が製鉄会社の社員か大の鉄道ファンだったのかもしれないと英美は想像したりもするが、本当のところはわからない。

「また言われたよ、どのように指導したら良いか教えてくださいって、教師にだよ」と英美は愚痴った。

「あらあら、ぷんぷんせずに教えてあげれば良いじゃないですか」と鉄子。英美が10年前にこのクリニックで働き出した時にはすでに鉄子はいた。長年の付き合いのせいか、英美のことはその時々の気分まで鉄子は鋭く見抜いてしまう。

「だって、子供を指導するなんて、あっちの方が専門家でしょ。なんで医師にそんな質問ができるのかなあ」

「確かにそうですね。なんでなんでしょうね」

「うーん、よくわからないなあ。発達障害は『障害』なのだから明確な異常がある病気と感じているのかなあ。そう感じているのなら、医者だけが正しく診断し、適切な『治療』や『処方』ができると考えているのかもしれないけど」

「あ、そうかもしれませんね。発達障害といえばどうしても診断という話になりやすいし、医者が診断するものなら医者が治療や対処も考えられると思っている可能性はありますね」

「それは誤解なんだけどなあ。医者は教師としてのトレーニングを受けたことなんてないんだから。それに、発達障害に見られる特徴は正常の人には見られない特殊な異常なんかではなくて多くの人に見られる行動や認識の仕方のバリエーションにすぎないよ」

「先生、いつもそう言ってますね。そのことを理解していれば、指導方法や接し方なんて経験を積んだ教師や保育者なら日常の業務でしていることから発展させれば対応できそうですけどね」と鉄子。鉄子自身、以前は発達障害の子供は普通の子供とは違う独特の異常を持っている子供たちだろうとなんとなく考えていた。しかし、英美と一緒に働き出し、実際の子供達に接しながら英実から発達障害の説明を詳しく聞くうちに、以前考えていたことは誤解だったということを実感として理解できるようになった。発達障害と言われる子供は「正常」な子供とは明確に区別される「異常」があるのではなく、人としての行動パターンや物事の認識の仕方のバリエーションの範囲内にいる子供たちにすぎない。実際、診察室で出会う子供たちは決して想像を絶するような存在ではない。

「そうなんですよねぇ。教育や保育の専門家がわざわざ医者に質問するようなものではないんだけどなあ」

「でも先生、そうは言いながらもいつも説得力のある助言をされているじゃないですか。少なくとも、先生の返事を聞いた教師や保育者の皆さんは納得したような表情で頷いていますよ」

「そりゃあね、素人なりに勉強しましたもん。相談を受けるたびに、困りましたねぇ、で終わってたら格好つきませんものね」

「確かに。私がいうのもなんですけど、お医者さんって割と見栄っ張りというか、わかっているような態度を取りたがりますものね」

「ん?腹立たしくも鋭いご指摘、ありがとうございます。まあ、発達障害の診療に関連する書籍を読み漁りましたよ。応用行動分析の本には本当に助けられたなあ。読字障害や算数障害の本も目に付くものがあれば買って読むし。おかげで、『わかっているような態度』でものが言えるようになりましたよ。でもね、私自身が子供を教育指導したわけではないから、本に書かれていることの良し悪しを経験的に判断することはできないんですよ。ものを言いながらも、本当にこれで良いのかなあという疑問が常に付き纏う」

「教師や保育者たちが、先生が読んできたような本を読めばお医者さんよりももっと実践的な知識を得られそうですね」

「本当にそう思う。教育や保育を実践している専門家が関連する書籍を読めば、そして、そうすることで得られるノウハウをお互いに伝え合えば、医者なんぞが口を挟む余地もない大きな成果を上げると思いますよ。実際、そのように実践されている先生方もいることはいますよ。個人的にも知っていますし」

「教師が医者に指導方法を尋ねるのは格好悪いという意識がもっと広まると良いですね」

「本当にそうですよ。でもね、教師や保育者の先生方の立場に立つと同情してしまう点も多いんだなあ」英美は眉をひそめながら言う。

「どうしてですか?」診察室の窓のブラインドを下ろしながら鉄子は尋ねた。

「おそらく彼らは、子供の年齢ごと、学年ごとに一律の目標を持って指導することを求められているみたいなんですよ。特に、小学校以降の教科教育は基本的には学習指導要領に沿って教えなければいけませんからね。だから、学年ごとに期待される『子供像』を前提にした指導には慣れているのだけど、平均的な子供からはずれた特徴を持っている子供への指導技術には通じていないように見えますね。先生なんだから個々の子供の特徴に合わせて理想的な指導をするべきだ、って主張されても戸惑ってしまう先生が多いのではないかなあ」

「おやまあ、それは気の毒ですね。といって、医者に指導方法を聞きにくるような状況が良いとも思えないし、大体診察室でサラッと総論的な説明をされても現場で実行するには色々難しさもあるかもしれませんね」

「その通りだと思いますよ。先生によっては、医者の話を聞きながら『現場のことをわかってないなあ』と内心イライラしているかもしれませんしね」

「どうすれば子供達が救われる状況ができるのかなあ」

「私は、そもそも発達障害支援の仕組みを医療ベースで考えることは間違っていると思うんですよ」英美は机の上の鉛筆を突っつきながら言った。

「というのはどういうことですか?」

「発達障害支援は基本的に生活支援ですからね。学校や保育所などの子どもたちの生活環境が暮らしやすくなることが根本的に目指すべきことですからね。これは医療の手に余る。やはり、教育や保育自身が発達障害児を受け入れるキャパシティを増やさないといけない。そのためには行政のシステムとして教師や保育者を援助する仕組みが必要だと思いますよ。先生達からの相談を受けたら専門的な知識を持ったスタッフが現場に赴き、教師や保育者に助言をしながらその取り組みが成果を上げるところまで確認するような制度ができるといいんですけどね。そのような組織的な取り組みの中で医学的な知見も必要ということであれば私たち医療者が協力すればよいし」

「それはもっともな意見ですねえ。でも、行政の上層部や政治家がこういうことに理解を持たなければなかなか実現しないかもしれませんねえ。あ、診療時間が終了しましたよ。お昼ご飯を食べに行きましょう」

「そうですね。鉄子さん、お供いたします」

「今日の私のお弁当には、先生が褒めてくれた卵焼きが多めに入っていますよ」

「ごちになります」


「先生、お言葉を返すようで恐縮ですが」:目次





2025年12月31日水曜日

学校との話し合い

 発達障害のある子供への学校の指導が上手くいっていないことがしばしばある。もちろん教師の技量が低い場合もあるだろうが、必ずしもそうではなく単に先生の指導方法が子供個人の特性とあっていないこともある。いずれにしても、子供が学校生活にうまく適応できず困っているのなら保護者は率直に学校に懸念や心配を伝える方が良い。学校との話し合いを建設的なものにするために、僕は保護者に以下のことを念頭に置くように説明している。


1)礼儀正しく。人として、大人として当然のことである。

2)抽象的な表現を使わない。例えば、「子供の気持ちを無視した指導をする」といった曖昧な表現は避ける。抽象的で曖昧な主張は論証することが難しく、得てして水掛け論になってしまう。

3)心配な事実の時系列を元に話し合う。そのためには記録が大事。主観的な印象などは人によって受け止め方が異なるが、事実は議論の確固たる土台になりやすい。なお、子供の主張したことは、その内容が事実なのではなく、子供がそう言うのを保護者が聞いたということが事実。例えば、子供が「先生がめちゃくちゃきつく叱るので怖い」と言ったとして、本当に先生がめちゃくちゃきつく叱っているかどうかは不明である。ただ、子供がそう言ったということは事実だし、子供がそう感じている可能性が高いということは考慮すべきポイントとなる。

4)担任との話し合いが建設的に進まないときは、学校を代表する人に話し合いの場を作るように要望すると良い。保護者は心配な時の申し入れ先としてまず担任を考える。勘が良くフットワークの軽い担任ならそれでうまくいく。しかし、担任の人柄や力量によっては一対一の話し合いは泥沼になりやすい。そうなると、お互いに疲弊する。話が進まないときはいつまでも担任を相手にせず、校長、教頭、コーディネーターなど学校という組織を代表する人と話し合う方が良い。

5)学校を代表する立場の人と話すときに担任の人格や力量を批判しない。あくまで気になり心配な事実が生じていることについての対処を申し入れる。むしろ、一生懸命指導してくれている担任を学校として援助してあげてほしい、くらいの文脈で良い(あまりにも白々しくならなければ)。仮に、担任が明らかに不適切な発言や子供への接し方をしたということがあっても、その不適切な事実を事実として取り上げれば良い。それを元に担任の人格や考え方を非難することは避けるべきである。

6)子供自身や保護者の希望は率直に伝えれば良いが、よほど明確で具体的なこと(例:発達性読み障害があるので音声教材を使いたい)以外は、対処方法を要求するのではなく認識された問題の解決を求め、その方法は専門家集団である学校に任せる方が良い。原則として保護者は何か具体的な対策を要求するのではなく、子供が困っていることを伝えその解決を依頼するという立場に立つのが良い。

7)学校はすぐに動かない(動けない)ことが多い。一度の話し合いで物事が解決することは滅多にない。解決どころか問題を問題と認識するまでに時間がかかることがよくある。時間をかけ、繰り返し話し合いの場を持つ覚悟が必要である。そして、話し合いを繰り返す都度、それまでの間に行った対処方法、本人の状況の変化や成果を学校側と共に振り返ると良い。この振り返りももちろん事実の時系列を中心にすることが大切である。さらに、次の話し合いをいつするかと次回までに何を目標にするかを決めておくのが望ましい。

8)第三者を交える。保護者としては子供が心配で焦る気持ちがあって当然である。その状況で上に述べたような配慮をしながら冷静に話し合うことはなかなか難しい。さらに、学校に対して専門的な助言をする必要が出てくることもある。そうなると、保護者だけで学校と話し合うことはかなりハードルが高くなる。できれば、相談支援事業所職員など、事情や子供の特徴を理解し発達障害についての知識もある第三者を交えることが望ましい。話し合いに同席できる専門的知識を持った第三者を見つけることが難しいなら、せめて話し合いの前後に相談できる専門家を確保しておく方が良い。


 この文章は、子供の成長と幸せを実現するために保護者と学校が建設的な話し合いができるようにという前向きの動機で書いている。ただ、もっと消極的な理由もある。保護者が悪者になるという事態を避けたいのである。我が子が苦しんでいるとき、そしてその原因の幾許かを学校の指導に帰すことができそうなとき、親が冷静でいることは難しい。しかし、そのような感情に任せて碌に準備もせずに学校に乗り込むと、往々にして話し合いが建設的に進みにくいし、下手をすれば保護者がクレーマーやモンスターペアレントとみなされることにもなりかねない。そうなると事態は硬直し、子供がなかなか救われないことにもなる。上に記した配慮事項は子供と保護者自身を守るという意味でも念頭においていただきたい。

2025年12月24日水曜日

検査をしてもらってください

 子供が学校や保育所などで何らかの問題があってうまく暮らせていないときに、前項で書いたように保育者や教師の皆さんは診断や診断書を求めることが多いです。これに加えてしばしば耳にする言葉が「検査をしてもらってください」です。きっかけとしては、集中できない、かんしゃくが多い、指示が通らない、人の気持ちがピンとこない、など初めて診断を求める際と似たり寄ったりです。小学校になれば、本が読めないとか計算ができないなど、学習に関連した問題がきっかけになることも増えます。

 「検査をしてもらってください」には謎がいっぱいです。まず、「検査」とはいったい何を指しているのでしょうか。発達障害の(あるいは疑われる)子供に関する話なので、おそらく認知機能検査あるいは心理検査の類と思われます。世の中には記憶、知覚、実行機能などの個別の認知機能に関する検査や適応行動の評価など山ほど検査があります。ただ、その辺りを熟知されている教師や保育者の先生は多くないので、ほとんどの場合は知能検査や発達検査と呼ばれるものを指しているのだろうと思います。しかし、集中力がないとかかんしゃくとか交友関係がうまくいかないなどの問題があるときに知能検査をする意味なんてありません。学習の問題なら多少の関連はあるでしょうが、それにしても知能検査をすればどの教科のどの単元が難しいだろうということや、どういう指導法で子供が学習内容を理解できるのかが分かることはほとんどありません。実際に学習に取り組んでいる状況をつぶさに観察する方がよほど対策に直結する情報を得ることができます。

 簡単に片付けると大変失礼ですが、安易に「検査をしてもらってください」とおっしゃる先生方のほとんどは検査がどういう意義を持っているのか理解されていないのではないかという気がします。知能検査にはどのような課題が含まれ、それぞれの課題から算出される得点がどのような意味を持っているか、あまりご存知ないままに検査に謎の効用を漠然と期待しておられる方がほとんどではないでしょうか。そういえば、検査で発達障害の診断ができると考えておられる先生方も多そうです。知能検査で評価する対象は言葉の通り知能です。注意欠如多動症や自閉スペクトラム症などはあくまで日常生活の中で観察される行動で定義されていますので、知能検査結果で診断できるわけではありません。現在発達障害に関連した診断病型で、診断に際し知能検査の重要性が高いものは知的発達症(知的障害)と限局性学習症(学習障害)だけです。しかし、この2つの病型であっても検査のみが診断を支えるものではなく、むしろ日常生活の中での適応状態や行動を確認し、知的発達症や限局性学習症の診断が実生活の状態をよく説明できていることを示す必要があります。

 以上述べてきたように、発達障害に関して何よりも検査が優先される状況などというものは滅多にありません。しかし、教師や保育者の先生方が「検査をしてもらってください」と強く主張すると保護者も不安になり、医療機関に検査をすることを強く希望するという状況が頻発します。このことに関しては、一方的に教師や保育者を責めるのは気の毒な状況もあります。どういうことかというと、知能検査によって多くのことが明らかになるという幻想を持たせそうな説明をする医師や心理師も多いからです。学習や発達の問題があれば知能検査が必須であると医師や発達相談に出務している心理師が患者の親に説明することが結構あります。まるで特定の支援方法が有効であると知能検査の結果から証明されたように説明されることもあります。自閉スペクトラム症や注意欠如多動症の診断根拠が全て知能検査所見で説明されている医療機関の書類をこの目で見たこともあります。これらの状況をしばしば目や耳にしていれば、学校園の先生方が知能検査に過剰な期待を持ってしまうことも無理からぬ話かもしれません。しかし、知能検査をして得られることは非常に少ないのです。認知能力の特性が漠然と掴めることはあります。しかし、どの教科のどの単元が理解できるかどうかの予測はできませんし、学習に困難を示す子供の具体的な支援方法を編みだせることもほとんどありません。ましてや、自閉スペクトラム症や注意欠如多動症など日常の行動特徴から定義されている状態の診断の根拠になることは決してありません。知能検査さえすれば明らかになることが色々ある、あるいは知能検査をしなければ手が打てないなどと主張する医療機関は少々怪しいと疑った方が良いと思います。

子供の日常に何らかの問題があるのなら、そしてそのことで子供自身が困り保護者が心配しているのなら、まずは検査のことには触れずに医療機関に相談してごらんなさいといえば良いのではないでしょうか。どうしても知能検査が欠かせないかどうかは医師に任せれば良いのです。「知能検査や発達検査は害がないしやってもバチは当たらないだろう」程度に考えている方がいれば、それは間違いです。知能検査や発達検査は結構子供にとってストレスになることが多いです。しかも、かかる医療費もそれほど安いものではありません。このご時世に、無駄に子供を辛い目に合わせたり意味のない医療費を発生させたりすることが許されるとは思いません。

 最後に、医療における検査の位置付けについて触れておきます。医師は基本的に臨床経過や診察所見から推定できる病態を裏付けるために検査を計画します。検査をすることでどの様な結果が出そうか、そしてその結果を得ることでその後のどのような具体的対応に結びつけられるかについて、ある程度の見通しを持っていることが前提です。具体的目的意識を持たないままに、とりあえず検査をするということは通常ありません。いや、正直に言いますと、とりあえず検査を絨毯爆撃のようにしてしまう医師もいるにはいます。しかし、その様な医師は医療の世界では恥ずかしい存在とみなされます。検診や人間ドッグなどは多少「とりあえず検査」に近いかもしれませんが、それでも対象集団において頻度の高い疾患を念頭に置き、有意な所見が得られた時は次にどう進めるのか具体的な対応が想定されています。それぞれの検査の具体的意味やその結果の具体的利用方法を考えることなく検査を計画することは、少なくともまともな医療機関ならしないということを知っていただけると嬉しいです。