2026年4月8日水曜日

注意欠如多動症の傾向 3:多動-衝動性

  本節では、DSM-5-TR[1]の注意欠如多動症診断基準の中の(2)多動-衝動性の症状項目を見ていきましょう。多動-衝動性症状9項目のうち、最初の6項目は主として多動を、残り3項目は衝動性を表す行動です。ただ、厳密には区別しにくいと思います。a)から(i)までの全9項目のうち、日常の様子を念頭に置いて当てはまる数が多いほど多動-衝動性の強い子と判断できます。『』内はDSM-5-TRの注意欠如多動症診断基準の(2)多動-衝動性からの引用です。

『(a) しばしば手足をそわそわと動かしたりトントン叩いたりする,またはいすの上でもじもじする.』

 多動は目につく特徴なので、迷うことはあまりないと思います。ただ、普段と違う緊張する場面では目立たなくなる子供もいるので、病院の診察室では目立たないことはよくあります。学校や保育所幼稚園などは日常の様子を見ることができる場なので、最も判断しやすいと思います。ただ、不安が極端に強い子供や場面緘黙の子供では、学校園で(特に厳しい担任の先生がいるときは)多動が目立たないこともあります。

『(b) 席についていることが求められる場面でしばしば席を離れる (例:教室,職場,他の作業場所で,またはそこにとどまることを要求される他の場面で,自分の場所を離れる).』

 幼稚園や保育所では、みんなで集まって先生の話を聞いているときや紙芝居の時間に席を立ったり歩いたりする姿がよくみられます。小学校では授業中に立ち歩くことになりますが、しばしば目にするのはせいぜい低学年までではないでしょうか。高学年になれば学級崩壊のような特殊な状況でなければ授業中に立ち歩く姿は滅多にみられないと思います。座っていないといけない状況で立ち歩く子がいるとき、単なる多動傾向の表れの場合もあるのですが、その場で与えられている課題が難しすぎることや苦痛を与える嫌悪刺激になっていることが多いです。立ち歩く子供にとって適切な活動が用意されているのかどうかを検討しなおした方が良いでしょう。

『(c) 不適切な状況でしばしば走り回ったり高い所へ登ったりする (注:青年または成人では,落着かない感じのみに限られるかも知れない).』

 保育所や幼稚園では保育室の中、学校の廊下、皆が整列している運動場などで走り回っている状況です。また、生垣の上や塀に登ったり飛び降りたりと、何かと高いところへ行こうとしがちです。このような派手な動きは授業や活動への強い不適応状態になっていなければ小学校の高学年に向けて減ってくることが普通です。ただ、(c)の記述にあるように思春期になれば見た目の動きではなく主観も取り上げていますので、本人に質問しないと気づかないことがあります。

『(d) 静かに遊んだり余暇活動につくことがしばしばできない.』

 (d)は、何をしていてもにぎやかでうるさい様を表しています。しきりに喋ったり歌ったり、物をひっくり返したり叩いたり、何かに黙々と取り組む様子がほとんど見られない状態です。1人でも賑やかですが、しばしば他の子供も巻き込んでしまいます。

『(e) しばしば"じっとしていない",またはまるで"エンジンで動かされているように"行動する (例:レストランや会議に長時間とどまることができないかまたは不快に感じる;他の人達には,落ち着かないとか,一緒にいることが困難と感じられるかもしれない).』

 これは、間を開けることなく次々と何かをしており、休む暇もない様子を指しています。取り立ててすることがない時でも、あたりをうろうろと歩き回っていたりします。いわゆる「忙しい」状態です。ただし、このような姿は自由なときに見られやすいです。小学校の授業中のように、ある程度強く統制されている状況では、単にぼんやりとしていることの方が目立つかもしれません。

『(f) しばしばしゃべりすぎる.』

 文字通り喋りすぎる状態です。思いついたことは喋らずにいられないという衝動性との区別は難しいのですが、次から次へと話したいことが頭の中に湧いてくるという感じです。自閉スペクトラム症の子供でも相手の都合にお構いなく喋り続けることの多い子供がいます。自閉スペクトラム症傾向のない注意欠如多動症の子供では、話す内容がどんどん変わっていくことは少ないですし、喋りながらも相手と噛み合ったやり取りができることが普通です。

『(g) しばしば質問が終わる前に出し抜いて答え始めてしまう (例:他の人たちの言葉の続きを言ってしまう;会話で自分の番を待つことができない).』

 (g)は人の話が終わるのが待ちきれず、頭に浮かんだことをつい喋り出してしまう状態です。相手が言い終わる前に答え出すことや、相手が一瞬言い淀むとすぐに「〇〇と言いたいの?」などと先取りしようとすることが多いです。会話の相手が話している番なのに、それを遮って喋り出すことがしばしばあります。指示を最後まで聞かずに動き出すことも多いです。思いついたことをすぐに行動に移してしまうことだと考えれば、気になったものはすぐに触ろうとすることや、興味を持った対象に向かって走り出すようなことも(g)に含まれると思います。

『(h) しばしば自分の順番を待つことが困難である (例:列に並んでいる時).』

 とにかく待つことが難しい状態です。並ばないといけない状況で順番を抜かすこともありますし、順番を抜かしてはいけないとしっかり認識してはいるものの待つことが嫌でその場から逃げ出したりすることもあります。

 なお、(g)と(h)は待つことが難しいという共通の特性を反映しており、特定の行動をどちらに当てはめれば良いのか判断に困ることが多いです。そのようなときはあまり真剣に悩まず、エイヤッ!と決めれば良いと思います。

『(i) しばしば他人を妨害し,邪魔する (例:会話,ゲーム,または活動に干渉する;相手に聞かずにまたは許可を得ずに他人の物を使い始めるかもしれない;青年または成人では,他人のしていることに口出ししたり,横取りすることがあるかもしれない).』

 衝動性のある子供は人の活動から影響を受けやすいです。ただ単に気が散ってしまうことも多いのですが、気になった他者の活動に干渉してしまうことも多いです。単純に友好的に参加しようとするのならまだ良いのですが、相手が使っていた物を自分が使おうとしたり、相手の活動を悪く言ったり、明らかに相手の邪魔をしようとしたりもします。当然、相手からすれば邪魔で鬱陶しい状況ですから、喧嘩に発展することも多いです。

 多動-衝動性は小学校高学年に近付くほど目立たなくなることが普通です。ただ、(c)で説明しましたように、年齢が上がっても主観の中でじっとできない気持ちが生じやすいことはあります。また、(f)の喋りすぎることや、(g)の人が話している最中に話し始めることは結構大人になるまで見られることが多い印象が私にはあります。

 衝動性に関して補足しておきます。衝動性が激しいかんしゃくにつながったり、些細なことで他者に手が出ることにつながったりもします。ただ、激しい感情爆発やしつこく他者を攻撃する行動は注意欠如多動症の傾向としての衝動性とは分けて考えた方がよさそうです。注意欠如多動症に見られる典型的な衝動性には、常時見られる、大きなエネルギーを必要としない些細な行動、原則として短時間の行動、という特徴があり、加えて他者に対する怒りや敵意を伴わないことが原則です。

 余談ですが、激しく長時間持続するかんしゃくや、他者に対する暴言暴力が注意欠如多動症や自閉スペクトラム症に伴う頻度が高いことは事実です。しかし、かんしゃくや他者への攻撃性は注意欠如多動症や自閉スペクトラム症の基本的特徴ではありません。就学年齢前後以降に見られる激しいかんしゃくや攻撃性は、不適切な環境で暮らす中で生じた二次的に生じた問題と考えた方が良いということを知っておいてください。

参考書:

[1]APA、日本精神神経学会、他「DSM-5-TR 精神疾患の診断・統計マニュアル」医学書院

「学校園でできるアセスメント」:目次


2026年4月4日土曜日

注意欠如多動症の傾向 2:不注意

 本節では、DSM-5-TR[1]の注意欠如多動症診断基準に記載された(1)不注意の症状項目を見ていきましょう。不注意とは、必要なことに注意を向けられないことや、必要なことに注意を持続できないことを意味します。日常的な表現を用いればうっかり屋さんとかぼんやりやさんくらいに考えれば良いでしょうか。(1)不注意には、(a)から(i)までの9項目の症状が記述されています。日常の様子を念頭に置いて当てはまる数が多いほど不注意の強い子と判断すれば良いです。『』内はDSM-5-TRの注意欠如多動症診断基準からの引用です。

『(a) 学業,仕事,または他の活動中に,しばしば綿密に注意することができない,または不注意な間違いをする (例:細部を見過ごしたり,見逃してしまう,作業が不正確である).』

 これはいわゆるうっかりミスの多さです。コップをひっくり返したり、紙を破いてしまったり、物にぶつかったり、躓きやすかったりといったことです。転んだりぶつかったりしやすいので、小さな怪我(ときには大きな怪我も)がしょっちゅう見られることもあります。小学生の学習面では、引き算を足し算にしてしまったり、問題文を最後まで読まずに判断するので間違えたりします。

『(b) 課題または遊びの活動中に,しばしば注意を持続することが困難である (例:講義,会話,または長時間の読書に集中し続けることが難しい).』

 いわゆる集中力の問題です。遊びでさえ転々とする子がいます。遊びには集中するけれど、さほど興味のない活動をさせると続かない子もいます。授業の前半は先生の話を聞いたり問題を解いたりしているのに、後半には窓の外をボーと見ていたりします。不注意傾向が強くても、特定の活動、主に自分が好きなことにはむしろ過剰に集中している子も多いです。そのような子であっても、生活の中の多くの活動で集中できなければ該当すると考えましょう。

『(c) 直接話しかけられた時に,しばしば聞いていないように見える (例:明らかな注意を逸らすものがない状況でさえ,心がどこか他所にあるように見える).』

 不注意が強いと人の話を聞いていないことがよくあります。まるで耳に入っていないように見えることもありますし、話の一部しか頭に入っていないこともあります。何かに熱中したり気を取られたりしている時のこともありますし、特に何もしていない時でも人の話を聞いていないことが多い子供もいます。長々と説明していると、次第に生気のないぼんやりとした表情になり、見るからに上の空になっているように見えます。全く聞いていないのではなく、人の話の一部しか頭に残っていない子供もこの項目に該当します。

『(d) しばしば指示に従えず,学業,用事,または職場での義務をやり遂げることができない (例:課題を始めるがすぐに集中できなくなる,また容易に脱線する).』

 「指示に従えず」という表現がありますが、これは反抗的という意味ではないことに注意してください。指示された作業を一気に最後まですることができず、途中で横道に逸れて関係ないことをし始めることを意味しています。意図して指示した人に逆らっているわけではありません。着替えの最中に転がっていたおもちゃをいじり始めたり、食事の最中に手を止めて隣の子供とのおしゃべりに熱中し始めたり、プリントに取り組んでいる最中に消しゴムのカスを集めて丸め出したり、というようなことです。その結果、何かと時間がかかることになりやすいです。

『(e) 課題や活動を順序立てることがしばしば困難である (例:一連の課題を遂行することが難しい,資料や持ち物を整理しておくことが難しい,作業が乱雑でまとまりがない,時間の管理が苦手,締め切りを守れない).』

 (e)は要領の悪さ、段取りの悪さを意味します。あまり手順を考えずに目についた物に手が伸びたり、無駄な動きが多かったりします。要領の悪さが表面化しやすい活動として、片付けが非常に苦手な子供が多いです。(d)と同様に作業の途中で横道に逸れるため要領が悪そうに見えることもあります。そこを厳密に区別することは難しいと思います。

『(f) 精神的努力の持続を要する課題 (例:学業や宿題,青年期後期および成人では報告書の作成,書類に漏れなく記入すること,長い文書を見直すこと) に従事することをしばしば避ける,嫌う,またはいやいや行う.』

 小学生なら同じ漢字を何回も書いて練習するとか単調な計算問題をたくさんするということなどの時の様子を考えれば良いと思います。就学前の幼児では「精神的努力の持続を要する課題」があまりないかもしれませんが、部屋中に散らかっているおもちゃを片付けるように指示した際のことを考えれば良いかもしれません。不注意の強い子供では、平均的な子供よりも与えられた課題の量が著しく多いと感じがちです。そのため、なんとか取り組まずに済ませられないか、という方向に発想が向きやすいです。ただし、学校で公然と逃げ出す子供はかなり限られます。むしろ多いのは、家庭で親から宿題をしろと指示されたのに後回しにして逃げようとするため、親子喧嘩になることです。話は逸れますが、宿題で親子関係を崩すような事態になると、結局その子供にとっての利得と損失のバランスはどうなるか、ということは担任の先生にはよく考えていただきたい点でもあります。注意欠如多動症の傾向が明確に見られる子供では、反復学習をひどく嫌がることが多いです。典型的な例は漢字の練習です。何故だかわかりませんが、小学校の先生は漢字を習得させる際に、同じ字を何度も繰り返し書かせることが好きなように見えます。このような反復学習をひどく嫌う子どもには他の学習方法を工夫した方が良いと思います。

『(g) 課題や活動に必要なもの (例:学校教材,鉛筆,本,道具,財布,鍵,書類,眼鏡,携帯電話) をしばしばなくしてしまう.』

 (g)は、始終「あれがない」「これがない」と探し回っているような状況を示しています。中には本人は気にしていないのだけれどその子が触ったものはすぐになくなるので周りの人が困っているという場合もあります。小学生では、紛失した小物やプリントが机の中やランドセルの底からごっそり見つかるということも多いです。この失くしやすいという特徴は、物を使い終わったら片付けるよりも先に次の活動に注意が集中してしまうので、どこに置いたかわからなくなることで生じています。つまり、片付けられないことにも通じる特徴です。

『(h) しばしば外的な刺激 (青年期後期および成人では無関係な考えも含まれる) によってすぐ気が散ってしまう.』

 読んで字の如く、気が散りやすいことを意味します。取り組んでいる課題や作業に関係ない音や視覚的な刺激に注意を取られるため、しばしば作業が中断します。場合によっては、自分が今何をしているのかがわからなくなり、作業が後退したりもします。人が何かを説明しているときにも気が散るので(c)の状態につながります。何をしている時でもキョロキョロと視線が移ろっている子もいます。このような場合、自閉スペクトラム症の特徴である「視線があいにくい」ということと区別しにくくなります。DSM-5-TRの原文には「青年期後期及び成人では」と表現されていますが、自分の頭に浮かんだ考えに気が散ることは子供でも多いように思います。

『(i) しばしば日々の活動 (例:用事を足すこと,お使いをすること,青年期後期および成人では,電話を折り返しかけること,お金の支払い,会合の約束を守ること) で忘れっぽい.』

 様々な忘れ物をします。授業や活動に必要なものを忘れます。親に伝えるようにと念を押したことを忘れます。朝、せっかく準備をした物をカバンやランドセルに入れて玄関まで持ってきているのに、靴を履いたら手ぶらでドアを開けて出て行く子もいます。多くの場合、自分が楽しみなことは覚えていることが多いのですが、それでさえ忘れてしまうこともあります。今まさに実行しようとしていたことや話そうとしていたことでさえ、何かのきっかけで忘れてしまいきょとんとしていることもあります。

 (a)から(i)の9つの項目はすべて、大なり小なりお互いに無関係ではありません。子供の具体的な行動をどの項目に当てはめれば良いのかを考えているうちにわからなくなってしまうこともあるかもしれません。しっかりと責任を取らねばならない正式な診断を下すわけではないのですから、あまり真剣に悩まず勢いで決めてしまえば良いと思います。次節では多動-衝動性の症状項目について説明します。

参考書:

[1]APA、日本精神神経学会、他「DSM-5-TR 精神疾患の診断・統計マニュアル」医学書院

「学校園でできるアセスメント」:目次




2026年3月31日火曜日

注意欠如多動症の傾向 1

  注意欠如多動症の基本的特徴は不注意、多動そして衝動性です。落ち着きのなさを主訴に外来を受診した子供の親が「この子が多動かどうかを知りたくて」とおっしゃることがよくあります。そういう時、この子を見ていてよく動くなあ、じっとできないなあと思ったことがありますか?と質問すると、「そうです、よく動くんです」といった返事が返ってきます。私は、そう感じるのなら多動と言えば良いですよ、と返事をします。一般の方は「多動」は専門家が何かの方法で判定するものだと考えておられることが多いようです。しかし、そのような特殊なものではありません。日常的な言葉の意味通りに、多動かどうか、衝動的かどうか、不注意かどうかを判断すれば良いだけなのです。当然、教師や保育者にとっては簡単な話です。子供の普段の振る舞いを、何かの課題に取り組む状況も含めて直接観察している立場ですし、同じ年齢の子供の標準的な状況を踏まえた上で判断できるのですから。

 そうは言っても、不注意、多動、衝動性のアセスメントをしっかりと行うのなら、何らかの物差しが欲しくなります。そういうとき、前節で紹介したDSM-5-TR[1]の注意欠如多動症診断基準が参考になります。実際に医師が注意欠如多動症を診断するときに用いるものです。DSM-5-TRの注意欠如多動症診断基準では具体的な症状項目が2項に分けられています。(1)不注意と(2)多動-衝動性です。(1)不注意には(a)から(i)までの9つの症状項目が、(2)多動-衝動性には(a)から(i)までの9つの症状項目が記載されています。多動と衝動性は関連が強いので一つにまとめられています。次節以降にそれぞれの症状項目を具体的に説明しましょう。次節以降の文中、『』内はDSM-5-TRの注意欠如多動症診断基準からの引用です。注意欠如多動症診断基準に記載された症状項目は結構わかりやすいのではないかと思います。恐る恐る最初に注意しておきますが、「しばしば」は頻度が高いという意味です。英語なら、"often/frequently"です。「そんなこと、知っとるわい!」と思った方、我慢してください。私は10年くらい前まで12年間ほど、保育士・教師の養成課程がある大学で講義をしていたのですが、「しばしば」は「ときに」「たまに」と同義だと思っていた学生がすごく多かったのです。

 対象となる子供のアセスメントにおいては、日常生活全般を思い浮かべながら個々の項目に該当するかどうかを考えていきます。ある特定の時、例えば昨日の図工の時間には妙にはしゃいでよく喋っていたなあなどというごく限定された状況のみに基づいて判断してはいけません。過去半年間くらい全体を思い浮かべながら判断します。

 該当するかどうかは直感的に当てはまると感じるかどうかなのです。もう少し具体的にいうなら、同学年の子供集団の中で明らかに目立つかどうか、多いかどうか、日々の問題になっているかどうかに基づいて考えてください。「明らかに」ということが重要です。その際、それぞれの症状項目は大なり小なりすべての人に見られるものであることを意識しておく必要があります。子供集団の中で明らかに目立つ程度に逸脱しているときに当てはまると考えるようにすると安全です。また、平均的な子供と比べて異常か正常かを客観的に判定しようと考えないでください。真面目に考えれば考えるほど泥沼にはまります。あくまで自分の主観の中で目立つかどうか、気になるかどうかということで判断してください。もともとこのような症状を客観的に判定する方法はありません。とどのつまりは主観で決まりますので、気楽に考えれば良いと思います。

参考書:

[1]APA、日本精神神経学会、他「DSM-5-TR 精神疾患の診断・統計マニュアル」医学書院


「学校園でできるアセスメント」:目次



2026年3月27日金曜日

注意欠如多動症・自閉スペクトラム症:総論

  まず、発達障害(最近では医学的概念である神経発達症という名称を使う人も増えています)の代表的で頻度の高い診断概念である、注意欠如多動症や自閉スペクトラム症の傾向をどのように評価するかから解説します。この2つの診断概念には大きな共通点があります。それは、日常生活の中で見られる行動によって定義されているということです。具体的に言いますと、注意欠如多動症は不注意と多動-衝動性に該当する行動が多いときに診断します。自閉スペクトラム症は社会的コミュニケーションおよび対人的相互反応における欠陥と、限定的で反復的な行動・興味・活動に相当する行動が多いときに診断します。こう説明すると単純に見えますが、これらの行動特徴があるかどうかを判断することは結構悩ましいです。それは、いずれの特徴もどうなれば条件を満たせるかが曖昧だからです。教師や保育者にはWISCなどの知能検査推しの方が多くいらっしゃり、注意欠如多動症や自閉スペクトラム症を思わせる子供がいると、とにかく検査をしてもらえと保護者に勧めます。しかし、知能検査は診断には全く影響しません。その子供の日常の様子をよく知る人の観察が最も重要な情報源になります。それぞれの具体的な症状は次節以降で説明しますが、ここではわかりやすい不注意を例に説明をします。

 不注意とは、必要な対象に注意を向けられない、必要な対象に注意を持続できない、ということです。そのため、具体的には気が散ったり、忘れ物が多かったり、不注意な失敗をしたりします。さて、気が散ることや忘れ物をすることは正常とは異なる全く異常な特徴でしょうか。そんなことはありません。だれだって気が散りますし、忘れ物をします。誰にでもあることではありますが、様々な程度があります。非常に集中力が高くこまめな確認を怠らないので気が散ることも忘れ物をすることも滅多にない人がいます。逆に、常に気が散るし日々忘れ物のオンパレードと言える人もいます。そして、滅多に気が散らない人と常に気が散る人の間には様々な程度に気が散る人がいるのですから、気の散りやすさというものは連続的なものとして評価することができます。では、気の散りやすさが「ある」と見做すことと「ない」と判断することの境界はどのように決めれば良いのでしょう。

 実は客観的な基準なんてありません。頻度の観点でとても多いときや、程度の観点でとても激しいときにその特徴があると判断します。などと説明してもやはりスッキリしませんよね。結局のところ、本人や見ている人の主観によって決まります。対象となる子どもが属する社会の平均的感覚に基づいて、「多い」「目立つ」「困りそう」と感じられるレベルかどうかによって判断します。つまり、注意欠如多動症の症状としての不注意があるかどうかの境目は極めて曖昧なのです。さらに、本来は「あるかどうか」で表現できるものではなく、強いか弱いかという程度問題で考えるのが妥当です。不注意という一つの要素だけではなく、注意欠如多動症という診断概念についても本当は診断される人と診断されない人という異質な集団があるわけではありません。「注意欠如多動症的な傾向」が弱いあるいはほとんど見られない人から非常に強い人まで連続的に捉えることができるわけです。

 実際に医師が注意欠如多動症や自閉スペクトラム症を診断する際には公的な診断基準に依って診断します。現在よく使われている診断基準はアメリカ精神医学会が出版している「DSM-5-TR精神疾患の診断・統計マニュアル」[1]か、世界保健機構WHOが作成した「ICD-10疾病及び関連保健問題の国際統計分類第10版:精神および行動の障害」[2]という診断基準集です。いずれも、できるだけ診断する人によって結論がぶれないように、一つの行動特徴、例えば不注意を評価するにあたって複数の観点から判断するようにしてあります。それでも、最終的には主観に左右されるということには変わりはありませんし、連続的に評価できる性質の特徴であることも同じです。なお、現実の臨床場面ではDSM-5-TRが用いられることが多いようです。また、ICDがすでに第11版(ICD-11)が公開されていて、日本でも間も無く新しい版が用いられ出す予定ですので、現行のICD-10は早晩使われなくなります。そのため、この文章で診断基準に触れるときにはDSM-5-TRを用いることにします。

 教師や保育者が、注意欠如多動症や自閉スペクトラム症という概念の定義と曖昧さ知り、健康とされる人と診断される人との間の連続性や境界の不鮮明さを理解することには大きな意義があると私は考えています。先生方の目の前には何も問題がない「健常児」と、明らかに異常な「発達障害児(注意欠如多動症や自閉スペクトラム症を含む)」がいるのではありません。単なる子供集団がいるだけなのです。そして、個々の子供がそれぞれの行動パターンや認知パターンの個性を持っています。例えば、非常に細かい対象に注意を集中し過ぎてしまう子供もいればもっと広い範囲に注意を間配れる子供もいますし、あまりにも広範囲の対象に注意が拡散する子供さえいます。注意機能の配分の、様々の程度の個人差が見られます。注意が拡散すればするほど周囲からは「気が散りやすい」「集中できない」子供として目立つようになりますし、様々な活動での失敗に繋がり暮らしづらくなります。そうなると、支援が必要になるということになります。注意欠如多動症や自閉スペクトラム症に見られる特徴は特殊な病的サインではなく人としての行動や認知のバリエーションにしか過ぎず、平均からのずれが大きくなり過ぎたために暮らしにくさにつながった状態と考えれば良いのです。

 次節以降は、注意欠如多動症の傾向や自閉スペクトラム症の傾向をどのように評価するか、具体的に説明します。実際のDSM-5-TR診断基準を読んだことのある方もいらっしゃるかもしれません。そこには注意欠如多動症と診断するための該当症状項目数やその他の条件などが書かれています。しかし、教師や保育者の皆さんは、診断することを目的にしないでください。第一に、迂闊に診断名を口にすると子供自身や保護者との関係を大きく損なうことがあります。あくまで自分が指導する子供に対する理解を深める糸口として利用することを考えてください。第二に、診断できるかどうかで配慮するかどうかが決まるわけではありません。言い換えれば、どの程度以上これらの特徴が強ければ配慮が必要になるという境界線はないのです。程度の強い子供ほどしっかりと配慮しなければ子供が本来持っている能力を発揮できなくなる可能性が高くなるということであって、これらの特性が弱い子供でも不注意や多動-衝動性を念頭に置いた配慮が助けになることはあります。どの子に対しても、その時々の必要性に応じて配慮し支援するという意識は大切です。

 この文章は支援の具体を説明することが目的ではありませんが、支援に関連して意識していただきたい注意点を書いておきます。注意欠如多動症の傾向や自閉スペクトラム症の傾向が見られるとき、そのような特徴はその子が本来持っている人としての振る舞い方や物事の認識の仕方の特徴です。暮らしにくさにつながらなければ性格とか個性と称しても良いものです。さてみなさん、冷静に自分を振り返ってみましょう。あなたは自分の性格を根本的に変えることはできますか?おそらく、自分の意思で性格を大きく変えることのできる人はいないと思います。せいぜい、違う性格を演じることが少しできる程度ではないでしょうか。注意欠如多動症や自閉スペクトラム症の傾向は子供自身の意思で変えることはできません。したがって、こういう傾向を変えさせようと指導することは違う人間になれと強要することに他ならないのです。こういう行動特徴を変えるのではなく、これらの特性があってもうまく生活できるように必要なサポートを提供し、ゆくゆくは自らそういう工夫ができるようになることを目指すということをしっかりと意識していただきたいと思います。


参考書:

[1]APA、日本精神神経学会、他「DSM-5-TR 精神疾患の診断・統計マニュアル」医学書院

これはとても高価な本です。なんと23,100円もします!精神疾患の診療をする医師なら1冊買っておけと強く言えるのですが、教師や保育者が買うべき図書とは言いにくいです。ただ、一度目を通しておくと診断基準に書かれていることの理解が深まります。興味を抱かれた先生は、まずは図書館で目を通すことをお勧めします。詳しい解説を省いて診断基準だけ掲載したものとして「DSM-5-TR 精神疾患の分類と診断の手引」という書籍もあるのですが、これでも5,500円します。

[2] WHO、融 道男、他「ICD-10 精神および行動の障害―臨床記述と診断ガイドライン(新訂版)」医学書院

これは5,280円で、DSM-5-TRよりも随分安いです。しかし、お勧めしません。WHOはすでに新しいICD-11を発表しており、間もなく日本でも取り入れられる予定です。ICD-11での神経発達症の診断基準はDSM-5-TRに非常に近いものになっています。

学校園でできるアセスメント

 最近、ある小学校の先生と雑談する機会がありました。短い時間でしたが、熱心に教育に取り組んでいらっしゃるのだろうなと思わせる、素敵な人でした。発達性読字障害(ディスレクシア)に関する話題だったのですが、印象に残った言葉がありました。その先生は「私たちはアセスメントができないので」と嘆いておられたのです。アセスメントができないので発達性読字障害の子供達に適切な援助を考えることが難しい、というような訴えだったと思います。よく考える前に喋り出す傾向のある私は、即座に「え?そんなん、ややこしい検査をせんでも教科書を音読してもらうだけでかなり当たりをつけれますよ」と返事をしていました。その先生は意外そうな顔をしているので、発達性読字障害がある子供の音読時の特徴や、多くの場合は平仮名を反射的に読めないことが基本的な特徴であることや、時間がなければ拗音促音などの特殊音節をいくつか読ませるだけでもかなりの情報が得られることや、小枝達也先生、関あゆみ先生の本を参考にすればもっとしっかりした評価を学校でもできることなどを伝えたところ、自分たちで評価できるなんて考えもしなかったというような感想を漏らされました。

 このエピソードでなるほどと思いついたことがあります。実は、学校園で子供に何らかの問題がある時、例えば集中できない、かんしゃくを起こす、喧嘩が多い、勉強についていけないなどの問題を心配した時に、保護者に医療機関で検査をしてもらってくれと強く勧める保育者や教師が実に多いのです。このことを不思議に思っていたのですが、その理由の少なくとも一部がわかったように思えました。おそらく、全てではないにしても多くの先生方はアセスメントで何をするのかを具体的に考えるのではなく、子供に発達障害に関連する問題が見られる時には専門機関で専門家のみができる「アセスメント」をしないといけないと思い込んでいるのではないでしょうか。そして、専門機関で専門家のみができる「アセスメント」をすると何かご利益があると。

 受け持ちの子供に発達障害が疑われる問題が見られる時、専門施設の専門家のみにできる特殊な検査をしないと問題の本質を把握することや、その対策を講じることができないということは滅多にありません。学校園での子供の様子を注意深く観察すればかなりの情報を集めることができますし、対策に結びつけることが可能です。ここでは発達障害に関連する、特別な検査器具がなくても学校園でできるアセスメントについていろいろ考えていきたいと思います。念のために申し上げますが、専門家が行う高レベルで複雑なアセスメントに意味がないというつもりはありません。専門家が精密にアセスメントすることによって初めてわかる子供の特徴というものもあります。ただ、発達障害を伴う子供達への支援を行う時、そこまで頑張らなくても日常生活の中で簡単にアセスメントすることで適切な支援を開始できることが多いのです。それに、専門家による精密なアセスメントは限られた施設でしかできませんので、予約しても実現するのは数ヶ月から半年以上先になることが多いです。その間、困っている子供を放置するわけにはいきません。ぜひ、教師や保育者の皆さんは勤務されている現場で、積極的にご自分でアセスメントを試みていただきたいと思います。


目次

・注意欠如多動症・自閉スペクトラム症:総論

・注意欠如多動症の傾向 1

・注意欠如多動症の傾向 2

・注意欠如多動症の傾向 3:多動-衝動性

(続く)


2026年3月12日木曜日

指導する

  学校園の先生方は、本来仕事の要素として子供を指導することが大きな割合を占めていますので、「指導する」とおっしゃってもさして違和感はありません。何気なく当然のことという印象しか持たない人が多いでしょう。しかし、私はいつの頃からか先生方がおっしゃる「指導」とはいったい何を意味しているのだろうかと考えることが多くなりました。典型的には次の例のような状況で疑問が湧きます。

 私の外来を受診したある小学生は、学校で叫んだり他児に手を出したりするなど、問題となる行動を繰り返していました。そのことに悩んだ保護者が受診を希望されました。家では特に問題はなく、学校で問題が生じていますので学校での様子を担任の先生に手紙に書いてもらってほしいと伝えたところ、程なく担任の先生からの手紙が届きました。最近数週間に先生が観察した問題行動を非常に細かく書いてあります。暴言を吐いた、物を投げた、他児に手が出た、教室から脱走した、などなど。そして、それぞれのエピソードの後に「指導した」との簡潔な記載があります。問題が生じたのが何の時間だったかは一応記載されていますが、具体的な活動内容、場所、周囲にいる人々についての記載はありません。何が直接的なきっかけになったのかの記載もありません。そして、その問題行動が生じた後に本人や周囲の人がどのような状態になったのかの記載もありません。ただただ、問題行動の具体と「指導した」という文言が羅列されています。このような事例での「指導」はいったいどのようなものでしょうか。

 先生からの手紙を読むかぎり、問題行動そのものにしか注目していないように見えます。その行動はなぜ生じているのかを探るという発想がうかがえません。してみると、ここで指導と記載されている具体は何だろうかと考えるに、その行動はしてはいけないことだと「注意」あるいは「叱る」ことを意味しているのではないだろうかと思えてきます。さらに、なぜそのように振る舞ったのか理由を「問いただす」のではないかと想像します。冷静に考えれば、注意し、叱り、問いただすことにそれほど意味があるとは思えません。何度も「指導」されているのですから、本人だってその行動が世間では、少なくとも教室ではよくないとされているくらいのことはわかっているはずです。中等度から重度の知的発達症を有する子供のような特殊な事例では「よくない」ということが理解できない可能性はあります。それならそうで、単に注意することや叱ることを繰り返しても成果は期待できないでしょう。

 問いただすという対応もあまり成果を期待できません。まず、興奮して問題行動を起こした子供は自分でも説明できないことがよくあります。仮に説明できたとしても、先生が納得できるような説明にはならないことが多いでしょう。たとえば、友達を叩いた子供がその理由として相手が自分の悪口を言った、と説明した時、先生は「なるほど、それなら叩いても仕方ないね」で終わらせることはできるのでしょうか。注意し、叱り、問いただすという接し方は、本人が悪いと自覚していることをただひたすら責め続けていることであり、100%自分が悪かったと認め、謝罪し、許しを乞うことを求めているようにしか見えません。

 注意するな、叱るなと言う気はありませんが、何度も繰り返しているのなら立ち止まって考えてみた方が良いでしょう。子供が不適切な行動をやめ、建設的に暮らせるように促していくことこそが指導です。繰り返し注意したり叱ったりする必要があるということは、成果を挙げていないということです。同じ対応を繰り返していれば、成果を上げないだけではなく、先生と子供の関係が悪化するでしょうし、子供は自信を失っていさらに状況が悪くなる可能性が高いのです。

 問題行動は、一般的に適応的行動と考えられています。つまり、その子供が置かれた生活環境の中で自分が必要なものを何とか手に入れることや、耐えられない状況から何とか逃げ出すことを目指す、止むに止まれぬ行動であり、本人が何とか編み出した適応的な行動なのです。そう考えると、その振る舞いがいかに不適切かと説教することで解決することが非常に難しいことがわかります。止むに止まれぬ行動であり、その子供にとっては辛い状況を脱する手立てが他にないのですから、そうそうやめるわけにもいきません。子供の不適切な行動、しかも、繰り返し生じる行動への対処の基本は、そのような行動を取らずにはいられない苦しみから解放することです。その子供にとって必要なものをいかに与えられるか、その子供にとって堪え難い苦痛からいかに解放するか、ということが対策の主眼となるのです。問題行動への具体的な対応を説明することは本稿の目的ではありませんので、ここでは応用行動分析が助けになることを指摘するのみとしておきます。

 この例でも当てはまりますが、多くの学校の先生は「指導する」という言葉をあまりにもあっさりと口にされるのです。まるで、「指導する」の一言で詳細は言わなくても伝わるでしょ、とでも考えておられるように見えます。しかし、何について指導するにしても、具体的なアプローチは一つに定まることは少ないと思います。繰り返し暴言を吐く、という単純な事象に対する指導を考えても、その行動を維持する要因は複数考えられるでしょうし、その要因への手の入れ方も色々なやり方が考えられそうです。もしも、指導することに何らかの成果を期待しようというのであれば、「指導する」の一言で表現できるようなものにはならないと思うのです。

 問題行動に限らず通常の教科教育についても「指導」や「教育」という言葉の意味を考える時に「成果をあげる」ということを強く意識してほしいなあと思います。私なんぞに言われるまでもなく、成果を目指して奮闘されている先生が大多数だとは思います。ただ、発達障害を主な対象とする診療をしている身としては、日常生活の中で困っていることがあって受診する子供達やその親から話を聞くことが多いのです。そのためか、学業についてもごくごく基礎的なことが理解できていないままに取り残されている子供たちにしばしば出会います。ひらがなをスムーズに読むことさえできていないまま繰り返し長文読解に取り組まされ、読解力がないと指摘され続ける子がいます。序数や基数など基本的な数量概念理解ができていない状態の子が、繰り上がり繰り下がりの計算が弱いという理由で大量の計算問題に取り組ませられ続けることもあります。このような子供達を見る時、「なぜなかなか成果が上がらないのだろうか」と一度立ち止まって考え、本人が躓いている原因は何かを分析してみたり、その子供には異なった教授法が向いているのではないかと思案してみたりしていただけないものかなあとよく思います。「指導する」ことが単に決められた学習内容を伝達することや、定まった手順での指導を機械的に繰り返すことにならないでほしいと切に願っています。

===

 さて、だらだらと書いてきましたが、この「先生、お言葉を返すようで恐縮ですが」シリーズは今回で終わりです。一部でも読んでいただいた方には感謝いたします。

「先生、お言葉を返すようで恐縮ですが」:目次


2026年3月7日土曜日

このままでは将来困るから

  片付けがとても苦手で、忘れ物も多いし、面倒臭くてメモも取れない子供がよくいます(大人も多いですが)。何度もなんども先生が注意したり叱ったりするのですが、一向に改善の兆しがありません。僕の外来にはこういうタイプの子供がよく受診します。何度も叱られたり注意されたりしても失敗を繰り返すのですから、叱ることの成果はありません。授業に必要なものを無くしたり忘れたりしますから、様々な学習で不利になります。対策を立てずに放置すれば、学校生活に大きく躓いていくのが目に見えています。それを防ぐためにはこまめに指示を出してあげたり、必要な手順を表にして机に置いてあげたり、あるいは忘れたものは学校の備品を貸してあげるなりして、苦手なことで躓きっぱなしになることを避け、本来自分が持っている能力を十分に発揮できるようにしてあげる方が良いのではないかと思います。僕は、必要な援助をしてもらえるように学校の先生にお願いすることを保護者にお勧めしています。しかし、実際に保護者が先生に相談するとしばしば返ってくる返事が「このままでは将来困るから、手助けをしない方が良いです」というものです。

 「このままでは将来困るから」という台詞はとてもよく耳にする言葉です。片付けができず忘れ物が多い子供がいても「このままでは将来困るから」手伝うことなくお説教をして改善させようとします。何かといえば口を荒らす子供には、「このままでは将来困るから」悪い言葉遣いをするたびに逐一叱ろうとします。この種のエピソードにはほぼ例外なく共通する問題があります。「このままでは将来困るから」という意見に問題はありません。確かに困る可能性が高いです。それならば、少しでも将来が明るくなるように変化をもたらす方策を探る必要があります。ところが、このような台詞を口にする先生方は得てして対応を変えようとしません。今まで散々注意したりお説教したりしてきたのに改善が見られないのです。このような対応では解決しないということを自ら実証しているわけです。成果のない方法を継続することは明らかに不適切です。成果がないばかりか、忘れ物のために学習効率が低下して勉強に遅れ出したり、繰り返しダメ出しを受けることから負の感情が高まりより一層暴言が増えたりすることがあります。

 忘れ物や無くし物が多い子供では、取り敢えず物を忘れたり無くしたりしても困らないように支援し、能力に見合った学習が進むように取り計らえば良いと思います。そのようにすることで何もかも自信をなくしていくことを防ぐことができます。そして、忘れ物や無くし物を減らすために、その子供にもできる具体的な方法を一緒に考えてあげれば良いのです。忘れ物をするたびにお説教し授業に参加できない状態を長期に続けるよりもよほど素晴らしい「将来」を保証することができると思います。何かといえば口を荒らす子であれば、少々失敬な物言いや無作法な台詞を口にしても耳に入っていないふりをしながら、そこそこ普通に話している時に言葉遣いがよくなっていることを繰り返し褒める方が、より効果が上がります。私は「このままでは将来困るから」という言葉自体を批判しているのではありません。この台詞を言い訳にして子供への一向に成果が上がらない接し方にこだわり、新しい指導の工夫をしないことに情けない思いを抱くのです。

 「このままでは将来困るから」、明るい将来を実現するための作戦を練ろうと考えることがごく自然で合理的な発想ではないかと思います。しかし、現実には「このままでは将来困るから」、このままの状態を維持し続けようとされる先生の話を耳にすることが結構多いのです。世の中には、論理的に考えれば無益な方向に進んでいても、今までの自分のやり方を変えることにひどく抵抗を感じる方が多いのでしょうか。どうも不思議です。しかも、自分のやり方を変えられない先生が目指していることが子供の振る舞い方を変えることなのですから、なんだか悪い冗談を聞かされているような気がしてきます。

 ひょっとしたら、このタイプの先生方は行動や認知の特性が日常生活の困難に繋がっている発達障害というものを理解することがどうしてもできないのかもしれません。目の悪い子供に自分の力で遠くを見なさいと説教しても無駄であり、眼鏡をかけさせる必要があります。これと全く同じで、不注意の強い子供に自分の意思で忘れ物をしないことを求めたり、衝動性の強い子供に自らの努力のみで口を荒らさないことを求めたりすることはナンセンスです。自分の意思や努力ではどうにもならない困難さで生活に支障をきたしているのだから「障害」なのです。しかし、「このままでは将来困るから」手伝わないと主張する先生方にはこのような子供たちの苦しみが見えず、単なる心がけの問題としか思えないのかもしれません。そうだとすれば、悲しいことです。

「先生、お言葉を返すようで恐縮ですが」:目次