学校園の先生方は、本来仕事の要素として子供を指導することが大きな割合を占めていますので、「指導する」とおっしゃってもさして違和感はありません。何気なく当然のことという印象しか持たない人が多いでしょう。しかし、私はいつの頃からか先生方がおっしゃる「指導」とはいったい何を意味しているのだろうかと考えることが多くなりました。典型的には次の例のような状況で疑問が湧きます。
私の外来を受診したある小学生は、学校で叫んだり他児に手を出したりするなど、問題となる行動を繰り返していました。そのことに悩んだ保護者が受診を希望されました。家では特に問題はなく、学校で問題が生じていますので学校での様子を担任の先生に手紙に書いてもらってほしいと伝えたところ、程なく担任の先生からの手紙が届きました。最近数週間に先生が観察した問題行動を非常に細かく書いてあります。暴言を吐いた、物を投げた、他児に手が出た、教室から脱走した、などなど。そして、それぞれのエピソードの後に「指導した」との簡潔な記載があります。問題が生じたのが何の時間だったかは一応記載されていますが、具体的な活動内容、場所、周囲にいる人々についての記載はありません。何が直接的なきっかけになったのかの記載もありません。そして、その問題行動が生じた後に本人や周囲の人がどのような状態になったのかの記載もありません。ただただ、問題行動の具体と「指導した」という文言が羅列されています。このような事例での「指導」はいったいどのようなものでしょうか。
先生からの手紙を読むかぎり、問題行動そのものにしか注目していないように見えます。その行動はなぜ生じているのかを探るという発想がうかがえません。してみると、ここで指導と記載されている具体は何だろうかと考えるに、その行動はしてはいけないことだと「注意」あるいは「叱る」ことを意味しているのではないだろうかと思えてきます。さらに、なぜそのように振る舞ったのか理由を「問いただす」のではないかと想像します。冷静に考えれば、注意し、叱り、問いただすことにそれほど意味があるとは思えません。何度も「指導」されているのですから、本人だってその行動が世間では、少なくとも教室ではよくないとされているくらいのことはわかっているはずです。中等度から重度の知的発達症を有する子供のような特殊な事例では「よくない」ということが理解できない可能性はあります。それならそうで、単に注意することや叱ることを繰り返しても成果は期待できないでしょう。
問いただすという対応もあまり成果を期待できません。まず、興奮して問題行動を起こした子供は自分でも説明できないことがよくあります。仮に説明できたとしても、先生が納得できるような説明にはならないことが多いでしょう。たとえば、友達を叩いた子供がその理由として相手が自分の悪口を言った、と説明した時、先生は「なるほど、それなら叩いても仕方ないね」で終わらせることはできるのでしょうか。注意し、叱り、問いただすという接し方は、本人が悪いと自覚していることをただひたすら責め続けていることであり、100%自分が悪かったと認め、謝罪し、許しを乞うことを求めているようにしか見えません。
注意するな、叱るなと言う気はありませんが、何度も繰り返しているのなら立ち止まって考えてみた方が良いでしょう。子供が不適切な行動をやめ、建設的に暮らせるように促していくことこそが指導です。繰り返し注意したり叱ったりする必要があるということは、成果を挙げていないということです。同じ対応を繰り返していれば、成果を上げないだけではなく、先生と子供の関係が悪化するでしょうし、子供は自信を失っていさらに状況が悪くなる可能性が高いのです。
問題行動は、一般的に適応的行動と考えられています。つまり、その子供が置かれた生活環境の中で自分が必要なものを何とか手に入れることや、耐えられない状況から何とか逃げ出すことを目指す、止むに止まれぬ行動であり、本人が何とか編み出した適応的な行動なのです。そう考えると、その振る舞いがいかに不適切かと説教することで解決することが非常に難しいことがわかります。止むに止まれぬ行動であり、その子供にとっては辛い状況を脱する手立てが他にないのですから、そうそうやめるわけにもいきません。子供の不適切な行動、しかも、繰り返し生じる行動への対処の基本は、そのような行動を取らずにはいられない苦しみから解放することです。その子供にとって必要なものをいかに与えられるか、その子供にとって堪え難い苦痛からいかに解放するか、ということが対策の主眼となるのです。問題行動への具体的な対応を説明することは本稿の目的ではありませんので、ここでは応用行動分析が助けになることを指摘するのみとしておきます。
この例でも当てはまりますが、多くの学校の先生は「指導する」という言葉をあまりにもあっさりと口にされるのです。まるで、「指導する」の一言で詳細は言わなくても伝わるでしょ、とでも考えておられるように見えます。しかし、何について指導するにしても、具体的なアプローチは一つに定まることは少ないと思います。繰り返し暴言を吐く、という単純な事象に対する指導を考えても、その行動を維持する要因は複数考えられるでしょうし、その要因への手の入れ方も色々なやり方が考えられそうです。もしも、指導することに何らかの成果を期待しようというのであれば、「指導する」の一言で表現できるようなものにはならないと思うのです。
問題行動に限らず通常の教科教育についても「指導」や「教育」という言葉の意味を考える時に「成果をあげる」ということを強く意識してほしいなあと思います。私なんぞに言われるまでもなく、成果を目指して奮闘されている先生が大多数だとは思います。ただ、発達障害を主な対象とする診療をしている身としては、日常生活の中で困っていることがあって受診する子供達やその親から話を聞くことが多いのです。そのためか、学業についてもごくごく基礎的なことが理解できていないままに取り残されている子供たちにしばしば出会います。ひらがなをスムーズに読むことさえできていないまま繰り返し長文読解に取り組まされ、読解力がないと指摘され続ける子がいます。序数や基数など基本的な数量概念理解ができていない状態の子が、繰り上がり繰り下がりの計算が弱いという理由で大量の計算問題に取り組ませられ続けることもあります。このような子供達を見る時、「なぜなかなか成果が上がらないのだろうか」と一度立ち止まって考え、本人が躓いている原因は何かを分析してみたり、その子供には異なった教授法が向いているのではないかと思案してみたりしていただけないものかなあとよく思います。「指導する」ことが単に決められた学習内容を伝達することや、定まった手順での指導を機械的に繰り返すことにならないでほしいと切に願っています。
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さて、だらだらと書いてきましたが、この「先生、お言葉を返すようで恐縮ですが」シリーズは今回で終わりです。一部でも読んでいただいた方には感謝いたします。