2026年2月15日日曜日

愛情が不足している/しっかり愛情をかけてあげて

  暦の上ではすでに秋真っ只中のはずなのにうんざりするような暑さが続いていたと思ったら突然薄ら寒くなり出した10月末、本田英美は市内にある大きな保育所の職員室に座っていた。この保育園に通う5歳児の岡田将太は集団活動に参加したがらないし、しばしば激しいかんしゃくや他の子供への暴力が見られる。対応に困った先生達がケース会議を開いたのだが、将太の主治医である小児神経科医の英美も招かれて参加することになったのである。会議は実り多いものだった。何よりも担任の先生が真面目で誠実なだけではなく、子供の行動特徴を細かく客観的に把握しているし、見聞きした事実と自分が考えた推測とをきちんと分けて説明できる人であった。おかげで、英美は問題となっている将太の行動それぞれの生じやすい条件や生じた後の場の展開などを具体的に把握できた。このような情報から、英美は問題の頻度を増やしやすい環境やそのような行動が生じる直接のきっかけを指摘するとともに、なぜ翔太がそのように振る舞わざるをえないかという行動の持つ意味についての仮説を説明することもできた。担任と主任の先生は飲み込みが早く、英美の説明からいくつかの対処方法を思いついたらしい。さっそく、まず取り掛かれることは何かなどの作戦を練り始めていた。会議の終了時に還暦前後くらいかなと思われる園長が締めの挨拶をしたのだが、その中で「私は問題行動を起こしやすい子供って、親の愛情が不足しているのではないかと思っています。もっとしっかり愛情をかけてあげてほしいなと常々感じてます」という一説があった。これを聞いた瞬間、英美はそれまで感じていた充実感が吹っ飛び気持ちが暗くなった。こんなに優秀な職員達を束ねている園長でもこういうことを口走るのかとひどく残念な気分であったが、時間も遅かったので何も言わずにその場を辞した。

 英美は最近Chat GPTで遊ぶことがよくある。この日も帰宅後、Chat GPTに「愛情をかける、という言葉に胡散臭さを感じるのですが、どう思いますか」と質問してみた。すると彼(彼女なのか?)の第一声は「その感覚、かなり自然だと思います。『愛情をかける』という言葉には、たしかに胡散臭く聞こえる要素が含まれやすいです」というものであった。お、なかなか好意的な返答ではないか、と思いながら英美は続きを読んだ。チャット君の言い分は要約すれば次のようなものである。

  • 具体性がなく、何をどうすれば良いのかが曖昧で聴く側に解釈を丸投げしているので責任の所在がぼやける。
  • 道徳的に「正しそう」な響きを持っているので反論しづらい。
  • 信頼関係がある場面や具体的な行動とセットであれば、完全にダメな言葉とも言えない。
  • つまり違和感の正体は、「中身が語られていないのに、良いことを言った気になれる言葉」になりやすいところではないか。

 チャット君、なかなか大したものではないか。これは議論の相手としては結構いけるぞと思い、さらに質問を重ねることにした。英美は「教師や保育者が学校園で問題を起こす子供の親について『親の愛情が足りない』とか『もっと愛情をかけてほしい』と口にすることがしばしばあります。この言葉自体には客観的で建設的な意義は乏しいと思います。ただ、教師や保育者がそう思っている背景を明らかにできれば子供を取り巻く問題の一端を明らかにする一助になるかもしれません。このような発言をする教師や保育者に、どのような質問をすれば状況をより良い方向へ動かす手掛かりになると思いますか」と入力した。すると、チャット君の第一声は「とても整理された問題提起だと思います」というものであった。英美は思わず「褒めていただいて恐縮です」と言いながら頭を下げる。チャット君の説明はざっと以下のようなものであった。

 チャット君はまず、「愛情が足りない/もっと愛情を」 という曖昧で検証不能で行動につながりにくい表現の裏には、教師・保育者の言語化しきれていない観察や困難感があるとのべた。なんたる落ち着いた思考であろうかと英美は感心する。そしてチャット君は、「愛情が足りない/もっと愛情を」 という表現を翻訳させる質問を教師や保育者に投げかけることが有効ではないかと提案してくれる。チャット君は質問の具体例を、5つの目的に分けて示してくれた。

1.抽象的評価を、観察可能な事実や具体的行動に変換するための質問

  • 「『愛情が足りない』と感じられたのは、どんな場面を見てそう思われたのですか?」
  • 「具体的に、どんな関わりが増えると変化がありそうだと考えていますか?」
  • 「逆に、十分に関わっているように見える場面はありましたか?」

 うむ、これは「愛情が足りない」と口にする教師・保育者を一方的に非難することを避け、さらにそう感じた根拠を少しでも汲み取ろうとする試みではないか。確かに無根拠に口にしているとばかりは言えない。先生の発言の背景を具体化すると、子どもや保護者への援助を考えるヒントになるかもしれない。それだけではなく、保護者への適切な関わりを考えるように水を向けたり、保護者の評価すべき点を意識するように促したりもしている。なかなか巧みな進め方ではないか。

2.親の問題として語られているものが、実は現場の支援困難や限界感の表現である可能性を探るための質問

  • 「そのことで、先生ご自身はどんな点が一番大変だと感じておられますか?」
  • 「園(学校)での対応として、難しいと感じている部分はどこでしょうか?」
  • 「もし今より支援が増えるとしたら、どんな点が助かりそうですか?」

 なるほどなあ、「愛情が足りない」などという碌に根拠のない発言が口をついて出てきているということは、保育士教師の置かれた辛い状況がもたらすものということは考えられるな。保育者や教師の味わっているかもしれない辛さに目を向けるなんて、さすが下手なカウンセラーよりも癒し上手のチャット君である。この手の保育者や教師に共感的な眼差しというものは英美の苦手とするところである。患者やその保護者には優しい気持ちを抱けるのだけどなあ。

3.親評価から離れ、子どものニーズや特性に話題を戻すための質問

  • 「その子は、どんな時に一番落ち着いていますか?」
  • 「安心しているように見える瞬間はありますか?」
  • 「逆に、特に不安定になりやすい状況はありますか?」

 ここは重要だな。結局は子供の様子に心配なところがあることから広がって出てきた発想なんだから、子供の状況を明確にしておくことはまず必要だと思う。でも、小児神経科医の英美の場合、子供の状況から話が始まることが多いので、改めてこのような質問に繋げる機会は少なそうだ。

4.無意識の規範(例:こうあるべき親像)が判断を歪めていないかを可視化するための質問

  • 「先生のご経験上、うまくいっていると感じるご家庭には、どんな共通点がありますか?」
  • 「それは、そのご家庭の事情が違っても実現可能なことだと思われますか?」
  • 「難しい事情がある場合、どこまでを期待できると考えていますか?」

 こ、これは、すごい!「愛情が足りない」という考えに至る自分の思考過程を内省させ、客観化するきっかけを作っているではないか。チャット君、出来る子。

5.評価で終わらせず、建設的な具体的支援や連携に話を進めるための質問

  • 「今の状況で、親・園(学校)・外部支援の中で、どこに働きかけるのが現実的だと思いますか?」
  • 「この子にとって、今一番小さくても効果がありそうな変化は何でしょう?」
  • 「もし親御さんに一つだけ伝えるとしたら、どんな形が一番伝わりやすいと思いますか?」

 英美は思わず「勉強になります」と頭を下げそうになった。実に説得力のある説明ではないか。一貫して、相手を責めることを避けながら現実的な思考をさせるように促しているように見える。大したものである。しかも、チャット君は最後に次のようなまとめを述べてくれた。

「愛情が足りない」という言葉は多くの場合、不安、無力感、説明困難な違和感、支援資源の不足が一語に圧縮されたラベルです。有効な質問とは、そのラベルを観察・困難・ニーズ・選択肢へと分解するものです。あなたの問題意識は、「親を責める言説」そのものではなく、それが思考停止として使われてしまう構造に向いています。上記のような問いかけは、相手を追い詰めずに、その構造をほぐす助けになるはずです。

 なんと、英美の問題意識を反射的な反感ではなく建設的な疑問として捉えてくれている。「えへへ、そうなのか。自分でも知らんかった」と英美は独りごちた。年を経るにつれてそれなりに社会的な振る舞いを身につけてきたとは感じているが、本来英美は単細胞人間である。相手の発言に問題を感じると、ついその問題を指摘し反論しようとしてしまう。現実社会ではそのような対決姿勢で建設的な展開が見られることはほとんどない。チャット君の大人っぽく思慮深い見解を読み、英美は頬が赤らむような気持ちである。とはいえ、英美は面白くない気持ちを抱いていた。チャット君の述べたことは英美の考えとかなり一致しているし、それがもっとスマートに整理されている。秀美が何年間も行きつ戻りつしながらまとめてきた考えを、チャット君は一瞬にして要領よく説明して見せるのである。なんだか間も無く自分は不要な存在になるのかなあという気持ちが胸の内にモヤモヤと湧いてくるのであった。しかし、秀実は一つだけチャット君の意見に明確に反論できる点がある。チャット君は「あなたの問題意識は、『親を責める言説』そのものではなく、それが思考停止として使われてしまう構造に向いています」と述べているが、英美は明確に「親を責める言説」が問題だと考えている。子供を成長させるための仲間として保護者を迎え入れるべき立場にある保育者や教師が、保護者を問題の根本原因のようにみなして得られるものなどなかろう。百歩譲って保護者が実際に相当不適切な子供への接し方をしていたとしても、保護者を非難することによって得られるものなんて無かろうと英美は腹が立つのである。ただ、この時点で保育者や教師についても同じことが言えるのではないかということに気がついていないところが、英美の間抜けさとも言える。



2026年2月11日水曜日

寄り添う

  ほとんどの保育者や教師と、支援が必要な子供について10分間くらい話していれば、何回か耳にしそうな言葉が「寄り添う」です。まあ、悪い言葉ではありません。「困っている子供にしっかりと寄り添いたいと思います」などと言われて、非難できる人がいるとは思えません。子供の幸せを願う善意に溢れた表現です。問題は、この言葉が何を意味しているのか不明確だということです。辞書的には、寄り添うは本来、体が触れそうになるほど近くに寄ることを意味しています。物理的に相手の体の近づくことを意味しています。3つ4つの辞書で確認しましたが、似たり寄ったりの語釈が書いてあります。

 まさか先生方は支援が必要な子供に常にピッタリと体を引っ付けようと考えているわけではないでしょう(特殊な場合はそれが必要なこともあるかもしれませんが)。してみると、「寄り添う」という言葉で具体的にはどういう行動を言い表そうとしているのでしょうか。「先生は『寄り添う』という言葉で具体的に何を言いたいのですか?」などという意地悪な質問をしたことはありません。注意深く見守りたいとか(そう言えば、「見守る」も曖昧な言葉ですが)、時々の子供の気持ちを汲み取り共感を示していきたいなどの意味で「寄り添う」と仰っているのかなと推測しています。いずれにしても、随分曖昧な表現です。率直に言えば、多くの場合は先生ご自身が「寄り添う」の具体的な意味をそれほど深く意識せずに口にされているのではないかという気がしています。

 一般的に、発達障害のある子供が生活の中で何かがうまくいかず困っている時、そこには理由があります。もともと本人が持っている特性と本人を取り巻く環境がうまく噛み合っていないことが日々の困難に結びついています。問題を解決し、物事がうまくいくように子供をサポートするためには、問題が生じる理由をできる限り推測し、具体的な対策を実行する必要があります。例えば、不注意さが強く文字の読みが苦手な子供が授業中に立ち歩いたりかんしゃくを起こしたりして困っているとします。当然、授業中は色々なことが上手くいかず不愉快な時間を強いられている可能性が考えられます。集中できないので先生が何を話しているのかわからない、課題の量がとんでもなく多く感じてしまう、文章を読むことに過剰な努力が必要で疲れ切ってしまう、といったことが起こっているのかもしれません。そうであれば、不注意さを補うような指導の工夫をする、流暢に文字が読めるような練習をする、疲れ果てながら教科書を読まなくても学習が進むように本や問題を読み上げることや音声教材を使うことを検討する、などの対応が必要になります。つまり、問題が生じる原因や仕組みを具体的に想定し、それに対する具体的な作戦を立て実行していく必要があるのです。

 何をするのか具体がわからないものの、悪意を含まず何かをしているように思わせる表現は確かに便利です。私達医師が使うその種の言葉に「様子を見ましょう」とか「経過を見ましょう」という言い回しがあります。一見意味ありげにも見えますが、この一言だけで済ますなら極めて無責任な発言だと思います。どのような可能性が考えられるのか、いつまで経過を見るのか、何に気をつけておく必要があるのか、次に受診するのはどういう時か、などのことを具体的に説明しておく必要があります。

 医師も教師や保育者も専門性を持った対人サービス職です。漫然と流すのではなく、技術的に何が必要で何が不要なのかを可能な限り具体的に考え、そして現時点でわかっていないことやできることの限界も具体的に言及する姿勢がいるのではないかと思います。「寄り添う」という言葉を使うこと自体が責められるわけではありません。しかし、「寄り添う」と口にするだけで何かを言った気になり、具体的な行動計画には全く触れない姿勢はできるだけ避けた方が良いのではないでしょうか。

2026年2月7日土曜日

親の理解が悪いから

  保育者や教師が、自分が受け持つ子供の行動に問題を感じているのにその心配を保護者に共有してもらえない時、「親の理解が悪いから」と口にされることがあります。さすがに、保護者に面と向かって「あなたの理解が悪い」などと口にする先生は見たことがありません。私自身の経験では、研修会などで医師と雑談している時などにこのような発言が出てきます。おそらく、同僚同士の雑談などでは頻繁に出てくる表現ではないかなと推測しています。私がこんなに心配しているのに保護者はどうして理解してくれないのだろうかと戸惑われた経験を持つ先生が多いのだろうと思います。しかし、ちょっと立ち止まって考えてください。本当に理解が悪いのでしょうか。私の経験からは、必ずしもそうではないような気がします。

 先生方から「理解が悪い保護者」と判断された親について考える時、私の頭にまず浮かんでくるのは非常に上手に子供に接している親です。意図しているのかセンスが良いからか分かりませんが、親が子供に非常に適切な接し方をするため家庭では大した問題が生じず、したがって親は何も困っていないという状況はよくあります。この様な場合、先生と親の話が噛み合わなくなってしまいます。そういう場合でも、親に順序立てて聞いていくと子供の行動特徴は結構しっかりと把握していることが多いです。じっとすることが苦手とか、集中が難しいとか、会話に噛み合いにくさがあるとか、冷静に把握していることが多いのです。つまり、親の理解が悪いのではなく困っていない状況なのです。この様な場合に、先生が「問題がある」とか「異常だ」というニュアンスを前面に出し、医療機関受診をせっついたりすると保護者もなかなか話に乗って来れないと思います。
 先生から「理解が悪い」とみなされそうな、別のタイプの保護者もいます。それは、自分の子供に問題があることを受け入れられない人達です。このような保護者でも、自分の子供の特徴に何も気づいていないということはそれほど多くないのではないかと私は感じています。なぜなら、子供に問題があるかどうかではなく、保護者自身が家庭で子供に接する時に苦しんだり辛く感じたりすることがないかに焦点を当てて話をすると色々語り出すことがよくあるからです。例えば、「つい感情的に強く叱ってしまうことはありませんか?」という質問をする様な時です。学校園での問題や先生が心配していることを伝えても乗ってこない保護者は、現実を理解していない人なのではなく、子供にまつわる心配な事実を色々感じながらも、自分を保つために何とか問題の存在を否定しようとしているのかもしれません。
 これらの場合には、どんな対応をすれば保護者との協力関係を築きやすいのでしょうか。簡単な解決策はありませんが、少なくともいくつか念頭に置いておくと良いかもしれないことがあります。第一に、日頃から先生が気になるエピソードをこまめに具体的に伝えておくと良いと思います。問題が非常に大きくなって先生が疲れ果ててから勢い込んで保護者に連絡することは避けた方が安全です。降って湧いたような学校園からの連絡を保護者が受け止めきれなくなるからです。日常的に小さなエピソードがこまめに伝えられている方が、保護者としても学校園での様子を想像しやすく、冷静に受け止めやすいと思います。
 第二に、先生が問題と感じるエピソードを伝えるときに、できる限り良い情報も合わせて伝えた方が良いです。本人ができる様になったこと、努力していること、楽しめたこと、ほっこりするエピソードなどを合わせて伝えるようにすると良いと思います。そうすることで子供の学校園での生活が悪いことだらけなのではなく、問題があったとしてもそれは生活の中の一部分だということが親に感じ取れます。問題だけを、それも繰り返し伝えてしまうとかなり気丈な親でも参ってしまいます。
 第三に、「問題」は誰にとっての問題か、ということを意識すると良いと思います。あくまで本人にとっての問題として伝えるのが原則です。先生や周りの子供達が困っていることもよくあるとは思いますが、まずは、本人を中心に据えた説明をすると良いと思います。楽しく有意義な集団生活を過ごしてもらいたいが、この様な状況が起こるため本人が十分に力を発揮できなかったり楽しい集団生活を送りにくくなったりしているので心配である、なんとかしたいと思っているという文脈で伝えるのです。併せて、先生なりに次にどの様な手立てを考えているかも伝えると良いと思います。打つ手がなくて困り果てているような伝え方よりも、たとえ確実ではなくても解決策のプランがあるように伝える方が、保護者は冷静に受け止められます。その際に、考えつく助言やアイデアが何かあれば教えて欲しいと保護者に伝えるともっと良いかもしれません。特に、子供の特徴を熟知し上手に接している親なら先生の仕事に役立つ良いヒントをくれるかもしれません。ただし、学校園で生じている問題を親に解決させようとすることは絶対に避けた方が良いです。例えば、「親御さんからもよく言って聞かせてくださいね」などと頼んだりすることはやめておくことをお勧めします。家で親が注意したら「はい、わかりました」と学校園での行動が変わるくらいなら、最初から何の苦労もありません。親に解決を依頼しても役に立たないばかりか、学校園でも家庭でも同じことについて説教されることになり、子供が安らぐ場がなくなります。親が学校園での問題を解決することはほぼ不可能だと考えておきましょう。親に何か依頼するのであれば、確実に実行でき、かつ、親子関係を悪化させないことに限っておく方が良いと思います。例えば、学校で何かの目標を達成できた時に、保護者から褒めてもらう様に依頼するというようなことなら簡単に実行できそうです。
 最後に、保護者が共感してくれるかどうかに関わらず、学校園で生じている問題には保育者や教師が自分で対応せざるを得ません。先にも述べましたように、家庭で学校園の問題を解決することはできません。そして、現場には保護者はいませんから頼ることはできません。結局、問題を解決できる人は先生をおいて他にはいないのです。学校園での子供の様子を保護者が把握できる様にしておくことは大切ですが、学校園で生じた問題への対応は基本的に自分達がしないといけないと考え、腹を括りましょう。

2026年2月1日日曜日

できなければ全部しなくて良いよ

  昔に比べて学校の先生たちは優しい人が増えたように思います。「泣こうが喚こうが、しないといけないことはしないといけないのだっ!」と、強引に子供に何かを強いる先生はかなり少ないのではないかと思います。子供達には限界というものがあるとよく承知され、極端な無理強いを避ける先生が増えました。例えば、宿題が辛くて辛くて家庭で親とバトルを繰り広げる子供がよくいます。そのような時に、「できなければ全部しなくても良いよ。できるところまですれば良い」と子供に伝えるのです。さて、このような対応に問題はないのでしょうか。

 「できなければ全部しなくても良いよ」と言われても、かんしゃくを起こしながら宿題を全部やろうとする子供は結構います。おそらく、全部しなくても良いよと言われてやめてしまった時、それは挫折になり悔しいからではないかと思います。しかも、最終的にやめるかどうかは自分の判断に任されています。子供達は誇り高いのです。自分はできないと自ら認めることに耐えられない子が少なくないだろうということは想像に難くありません。おそらく先生方は子供の状況に同情し、善意から「できなければ全部しなくても良いよ」と申し出られているのだろうと思います。しかし、宿題が苦しくてかんしゃくを起こしている子達から見れば、「どうせ君には難しいだろ、できないだろう」と言われた気持ちがするのかもしれません。

 私は子供達(発達障害かどうかに関係なくどの子供でも)に課題を出すときは、量的にも難易度的にもその子供が少し頑張れば達成できる課題を準備することを原則にした方が良いと考えています。時にはガツンと困難な課題に取り組ませても良いのですが、それは日々成功体験を積み自分の力を信じられるようになっていることが大前提です。最も注意深く避けるべきことは、無理やり頑張れば何とかこなせてしまう課題を与え続けることです。大人は子供が頑張って何かを成し遂げることが大好きです。特に、教師にはそのようなタイプが多いように思います。しかし、頑張ればできる課題がその子供にとって適切な課題というわけではありません。日々取り組ませる課題は、基本的には余裕を持ってこなせるレベルにする必要があります。大人だって残業続きだと心の健康を壊してしまいます。退屈な課題でも困りますが、毎日背伸びをし続けないといけない課題を出し続けることは避けるべきです。

 量的にも難易度的にもそれぞれの子供が少し頑張れば達成できる課題を設定する時、難易度を下げることや量を減らすことはすぐにでも実行できることであり、真っ先に考える必要があります。ただ、同時に検討すべきことがあります。それは、子供が苦しんでいる理由や易々とはできない理由を分析することです。難易度を下げ、量を減らし、課題をこなせた経験を積むだけでもそれなりの成果を出せると思います。しかし、多くの子どもがそれほど苦しまずにできていることが簡単にはできない時、その子供のなんらかの特性が学習にとって不利に働いているはずです。例えば、注意力が弱く集中できる時間が短いとか、平仮名読字の自動化が不完全であるとか、序数は身についても基数の理解が不十分だとか。逆に、うまく利用できれば学習にとって有利になるような特性を持っていることもあります。これらのその子供に固有の特徴を分析し、苦手さを補い利用できそうな特性を長所として活用できるような学習方法を具体的に考案することも、子どもが頑張りすぎないように、楽に暮らせるようにする上で重要なポイントです。

 個々の子供に見合った課題の設定はなかなか難しいとは思います。一つの目安は、その子供がその勉強や課題を嫌いにならないことではないでしょうか。欲を言えば、楽しめることが望ましい。そう言えば、私の外来には就学を控えた子供がたくさん来てくれます。「小学校に入ったら、何が楽しみ?」と質問すると、ほとんどの子供は屈託なく「勉強!」と答えます。小学校の先生にとって喜ばしい好条件が準備されています。しかし、小学校入学後も「勉強が楽しい」と言い続ける子は残念なことに少ないです。私は、すべての教科の指導目標を「楽しいと思わせる」にしてもバチは当たらないのではないかなあと考えたりしています。


2026年1月31日土曜日

ぶりょうをかこつ

 僕は非社交的な人間なのだが、時々食事に誘ってくれる友達が少数いる。先日も長年仲良くしてくれている年下の友人から「久しぶりに飲みに行きましょう」と誘いの連絡が入った。時々このように年寄りを誘ってくれるとは優しいなあ、といった意味の返事を書きながら「ぶりょうをかこっている年寄り」という表現が頭に浮かんだ。そのまま書きそうになったものの、「そもそも『ぶりょう』ってなんだ?漢字はどう書くのだ?」という疑問が湧いてきた。スマホに任せれば勝手に漢字を書いてはくれそうだが、ここまで意味も把握せず字もわからない使い慣れない言葉をさも知ったげに書くのはちょっと恥ずかしいなと感じて思いとどまった。

 せっかくなので(なにが?)辞書を引いてみた。そうか、「ぶりょう」は「無聊」と書くのか。「無」という字を使うことは知っていたが、「聊」は初めて知った。で、「無聊」はどういう意味かといえば、「することがなくて退屈なこと」とある。なるほど、そうなのか。明鏡国語辞典には「心配事があって気が晴れないこと」という語釈も載っているが、「無聊をかこっている」の日常的な使われ方から考えるに「することがなくて退屈なこと」の方がよく使われる意味だろう。案の定、明鏡国語辞典には「することがなくて退屈なこと」という語釈の用例として「無聊をかこつ」と書いてあるではないか。やはりこっちだ。ん?、え??、「かこつ」??
 僕は「無聊をかこっている」という表現の「かこっている」は「囲う」の活用形だと思い込んでいた。「かこつ」だったのか。知らなかった。しかし、「かこつ」ってなんだ?「かこつ」を辞書で引くと「託つ」と書くらしい。意味は、「ぐちをいう、嘆く」ということらしい。つまり、「無聊を託つ」はすることがなくて退屈だと愚痴っているのである。し、知らなかった。この勢いで、「聊」という漢字は何なのかを調べることにした。なんと、送り仮名「か」をつけると「いささか」と読むらしい。「些か」とも書く「いささか」であるが、「聊か」という表記もあったんだ。うーむ、知らんことばかりではないか。「聊」を漢和辞典で調べると、ここに書くには多すぎる多くの意味が記されている。なんということであろう。知らないことが多すぎるではないか。
 人生の折り返し地点なんてとっくの昔に通り過ぎて、間も無くゴールの白いテープさえ見えるかもしれない年齢に至ってこの体たらくは情けない。もともと身につけたものが少ない上に、脳みそからばらばらと音を立てて知識がこぼれ落ち出した老人がなんとか大恥をかかぬように暮らすためには無聊を託っている暇なんてないのである。

2026年1月25日日曜日

障害なのか我が儘なのか分からないんです

  「障害なのか我が儘なのか分からないんです」は、発達障害診療の中で医師が保育者や教師から(時には保護者からも)直接受けることが多い質問です。言葉を素直に受け止めるなら、このような質問には障害と我が儘は明確に異なったものという前提がありそうです。そして、質問者は子供に見られる振る舞いが障害としての特徴なのか我が儘なのかを判断したいのにわからないと悩んでいるようです。障害としての表現なのか我が儘なのかがはっきりしたら、その先どうしようというのでしょうか。おそらく、障害の特徴なら許し助けてあげるけれど、我が儘なら厳しく指導する、くらいのことを考えておられるのではないかと想像します。

 この様な質問をされる方は、国際生活機能分類(ICF)が定義する意味での障害を理解できていない、発達障害特性の連続性を理解できていない、「我が儘」という言葉が何を意味するのか考えていない、のいずれかまたは全てだろうと想像しています。国際生活機能分類(ICF)が定義する障害については、まずは別項(「障害ではなく個性だと考えています」)をご参照ください。一言で言えば、個人の健康状態を基盤とするなんらかの特性と生活環境のミスマッチがもたらす暮らし難さや生活の困難さが障害です。目が見えないとか耳が聞こえないなどの身体的、機能的問題があるかどうかが障害かどうかの境目ではありません。活動や参加が妨げられた状態、すなわち生活することの困難さ、平たく言えば暮らしづらさがあるということが障害と判断できる目安です。

 次に、発達障害の連続性について説明します。多くの発達障害は、その行動や認知の特徴で定義されています。例えば、不注意さ、人の気持ちを読み取ることの難しさ、読字の非流暢さなどです。このような行動や認知の特性は「ある」か「ない」かや(+)か(-)で表せるものではありません。なぜならそれぞれの特徴の程度は連続的だからです。例えば、不注意かどうかを明確に線引きすることはできません。人は誰しも不注意さを見せることがあり得るのですが、世間の目から見れば不注意さがほとんど目につかないように感じられる人もいれば日々不注意だらけに見えるような人もいます。そして、その間には様々な程度に不注意な人が無数に存在するのです。ここからが異常、と線引きすることはできません。となると、不注意さが主たる症状である注意欠如多動症の診断なんてできないではないかと思った方もいらっしゃるかもしれません。一応の目安はあるのです。それは、その不注意さが明確に生活の困難さに結びついているかどうかが境目になります。もちろん、これだってそれほど明確な判断はできません。本人、家族、保育者や教師、そして医師の感じ方に左右される面は必ずあります。しかし「生活の支障になる程度に」不注意だということがその不注意さが障害であるかどうかの判断基準であるということは断言できます。困っていれば障害だし、特別な支援や合理的配慮が必要となるのです。

 さて、「我が儘」とは何でしょう。明鏡国語辞典の語釈は「他人のことは考えないで自分の思うままに振る舞うこと。」となっています。他の辞書を見ても、日常的な使用に関しては似たり寄ったりの説明です。これを子供の能力や行動特性の面から説明できないかを考えてみましょう。「他人のことは考えないで」は他人の気持ちに想像が及ばないことと取れます。つまり、人の気持ちに対する鈍感さを示しています。もちろん、人の気持ちを理解した上で考慮に入れないとも考えられますが、「我が儘」という言葉の持つ子供っぽさからはそういう作為的な印象はありません。もし、理解できていてあえて考慮しないのなら、その振る舞いが結果として自分に何をもたらすのか、自分の社会的立場がどうなるのか、ということが計算できていないと言えます。つまり、先を見通し予測する力が弱いと言えるでしょう。「自分の思うままに振る舞う」ということは、自分の主張を曲げられない頑固さとも取れますし、思いついたことを後先考えずに実行しようとする衝動性とも取れます。抑制能力の弱さで説明できるかもしれません。そして結果としては、これもまた長い目で総合的に考えられる自分の利益の計算ができていないと言えます。

 人の気持ちに対する鈍感さ、思考の柔軟性の乏しさ、衝動性、見通しの悪さ、いずれも自閉スペクトラム症や注意欠如多動症に認められる特徴です。そして、上にも述べたように、このような特徴の程度は連続的です。多少の「我が儘」は多くの人に見られるもので、特に困りません。他者からひどく「我が儘」と見做される場合は、本人の暮らしにくさにつながります。そうなると、本人の力だけでは健康的、建設的に暮らせなくなります。放置して潰せば良いのでしょうか?そんなはずはありません。どの子供も、可能な限り健康的に成長させてあげなければなりません。そう考えると、迷うことなく援助の対象になります。生活の支障になれば、困っていれば障害と考えれば良いということです。

 このように考えてくると、「我が儘」という概念を再定義したくなります。「我が儘」とは大人の側から見た大人の都合で成り立つ言葉だと言えます。大人が正しいと考えるように子供が行動しない、大人が我慢すべきと思うことを子供が我慢しない、ということを表した言葉に過ぎません。子供の立場に立って考えれば、何らかの行動特性や思考の特性から大人から非難され暮らしにくくなっている状況なのですから援助が必要な状態なのです。障害と我が儘を明確に区別できるという考えが、そもそも的外れであり、本質を見えなくしているのではないかと思います。

 さて、結論を言えば、障害でも我が儘でもいいじゃないですか。両者に共通して言えることは、自覚があるかどうかは別にして生活の中で困っている状態だということです。助けてあげましょうよ。世の中には、素敵な世界があるんだということを教えてあげれば良いじゃないですか。

「先生、お言葉を返すようで恐縮ですが」:目次

2026年1月17日土曜日

障害ではなく個性だと考えています

  教師や保育者と発達障害についての話をしているときに、明らかに善意から「障害ではなく個性だと考えています」と仰る方を時々目にします。このような主張をされる人達は障害を個性と言い換えることにどういう意義を見出しておられるのでしょうか。もし、障害という言葉にネガティブな意味付けをし、個性と言い換えることでスティグマから解放しているつもりなら、とんでもない話です。言葉の言い換え程度で救えるものではありません。教師や保育者などの障害を持つ人々を支える立場にある人なら、障害という言葉に差別的な意味をつけることを正面から批判すべきです。障害という言葉を言い換えて安心しているのであれば、その人自身が障害に負の意味づけをしているのではないかと思います。

 そこまで甚だしい勘違いではなく、少しでも前向きな気持ちになって欲しい程度の理由で個性と言い換えているにしても、そこには問題があります。個性という言葉は本来、暮らし辛さや生き辛さを表す言葉ではありません。個性と言い換えてしまうことで、障害がもたらす苦しさを見えにくくしてしまいます。なぜ障害という言葉が公に用いられているかというと、本人には変えることができない暮らしにくさを有する人には社会が援助する必要があるからです。


 現在の障害概念は国際生活機能分類(ICF、上図)で定義されています(厚生労働省、2002)。図4では真ん中に描かれている、心身機能・身体構造、活動、参加の3要素をまとめて ICFでは生活機能と呼びます。人が生活する状態を総合的に表したものです。ICFの定義によれば、生活機能の3つの要素全てが問題を呈している状態が障害です。障害は単に心身の調子が悪い状態のみを意味するものではありません。障害は、歩いたり、食べたり、喋ったりという日常生活の中での「活動」が制限されていることを含んでいます。また、学校や仕事、余暇活動など様々な生活場面や社会への「参加」に制約があることも含んでいます。障害は、日常生活の中で自分一人の力では様々な活動や参加が十分にできていない「状態」を意味しています。つまり、暮らし辛い、生き辛い「状態」であり、人として当然保障されるべき権利が侵害されているのです。そして、その「状態」は本人に固有の特性なのではなく、本人の健康状態と暮らしている環境との相互作用によって決まります。環境を変えることで活動や参加の状態を改善することができるのです。障害を伴う人たちには、生活することの困難さを軽減するための環境の調整が必要です。

 簡単に言えば「困っている」状況が障害なのですから、「それは個性ですよ」と能天気なことを言われても困ります。障害を個性と言い換えても効果がないばかりか、援助が必要な状態であることから目を逸らし、生活の困難さを軽減することを本人の努力に求めてしまうのではないかと危惧するわけです。念のために補足しておきますが、障害を持つ子供やその家族がこういうセリフを言っても全く問題を感じません。あくまで障害を持つ人たちを職業的に支えるべき立場の人たちが口にすることは問題だと考えるのです。

 話が少しそれますが、「どの子供も区別する気はありません」や「子供を区別することなく指導します」と口にする学校園の先生がしばしばいらっしゃいます。「障害は個性です」も、「どの子供も区別する気はありません」も、どちらも障害という括りで子供を分けたくないという気持ちが共通しているように思えます。ただ、私は両者から違う印象を受けます。「障害は個性です」には無知な無邪気さや能天気な善意を感じます。しかし、「どの子供も区別する気はありません」や「子供を区別することなく接します」というセリフには自分の考え通りに人を従わせようという支配欲のようなものを感じます。これは多分に私の個人的経験の影響でしょう。私が経験した、「どの子供も区別する気はありません」や「子供を区別することなく接します」と仰る先生は受け持ちの子供に一律の指導をし、一律の課題に取り組むことを求めます。どれだけ子供本人が困っていても、「自分のやり方」「自分が必要と考えたこと」を押し通そうとされる方ばかりでした。個人的経験を一般化して良いかどうかわかりませんが、現在、私は教師が「どの子供も区別する気はありません」や「子供を区別することなく接します」と口にするのを見ると、おそらく力量の低い先生なんだろうなと判断する癖がついています。

 話を元に戻しましょう。結論を申し上げれば、子供の健やかな成長を支えることを生業としている先生方には困っている子供を際限なく困らせることや、苦しんでいる子を弥が上にも苦しめるようなことに加担してほしくないのです。障害があるということは生活に支障をきたしているのだということをしっかり認識し、必要な支援が速やかに提供されるような環境を構築することに尽力していただきたいと願っているのです。その結果として、子供達が持てる力を十分に発揮しながら日々の生活を楽しめるような環境になったとき、今まで発達障害として捉えられていた特性を文字通り個性と称することが可能となると思います。


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