2026年3月27日金曜日

注意欠如多動症・自閉スペクトラム症:総論

  まず、発達障害(最近では医学的概念である神経発達症という名称を使う人も増えています)の代表的で頻度の高い診断概念である、注意欠如多動症や自閉スペクトラム症の傾向をどのように評価するかから解説します。この2つの診断概念には大きな共通点があります。それは、日常生活の中で見られる行動によって定義されているということです。具体的に言いますと、注意欠如多動症は不注意と多動-衝動性に該当する行動が多いときに診断します。自閉スペクトラム症は社会的コミュニケーションおよび対人的相互反応における欠陥と、限定的で反復的な行動・興味・活動に相当する行動が多いときに診断します。こう説明すると単純に見えますが、これらの行動特徴があるかどうかを判断することは結構悩ましいです。それは、いずれの特徴もどうなれば条件を満たせるかが曖昧だからです。教師や保育者にはWISCなどの知能検査推しの方が多くいらっしゃり、注意欠如多動症や自閉スペクトラム症を思わせる子供がいると、とにかく検査をしてもらえと保護者に勧めます。しかし、知能検査は診断には全く影響しません。その子供の日常の様子をよく知る人の観察が最も重要な情報源になります。それぞれの具体的な症状は次節以降で説明しますが、ここではわかりやすい不注意を例に説明をします。

 不注意とは、必要な対象に注意を向けられない、必要な対象に注意を持続できない、ということです。そのため、具体的には気が散ったり、忘れ物が多かったり、不注意な失敗をしたりします。さて、気が散ることや忘れ物をすることは正常とは異なる全く異常な特徴でしょうか。そんなことはありません。だれだって気が散りますし、忘れ物をします。誰にでもあることではありますが、様々な程度があります。非常に集中力が高くこまめな確認を怠らないので気が散ることも忘れ物をすることも滅多にない人がいます。逆に、常に気が散るし日々忘れ物のオンパレードと言える人もいます。そして、滅多に気が散らない人と常に気が散る人の間には様々な程度に気が散る人がいるのですから、気の散りやすさというものは連続的なものとして評価することができます。では、気が散りやすさが「ある」と見做すことと「ない」と判断することの境界はどのように決めれば良いのでしょう。

 実は客観的な基準なんてありません。頻度の観点でとても多いときや、程度の観点でとても激しいときにその特徴があると判断します。などと説明してもやはりスッキリしませんよね。結局のところ、本人や見ている人の主観によって決まります。対象となる子どもが属する社会の平均的感覚に基づいて、「多い」「目立つ」「困りそう」と感じられるレベルかどうかによって判断します。つまり、注意欠如多動症の症状としての不注意があるかどうかの境目は極めて曖昧なのです。さらに、本来は「あるかどうか」で表現できるものではなく、強いか弱いかという程度問題で考えるのが妥当です。不注意という一つの要素だけではなく、注意欠如多動症という診断概念についても本当は診断される人と診断されない人という異質な集団があるわけではありません。「注意欠如多動症的な傾向」が弱いあるいはほとんど見られない人から非常に強い人まで連続的に捉えることができるわけです。

 実際に医師が注意欠如多動症や自閉スペクトラム症を診断する際には公的な診断基準に依って診断します。現在よく使われている診断基準はアメリカ精神医学会が出版している「DSM-5-TR精神疾患の診断・統計マニュアル」[1]か、世界保健機構WHOが作成した「ICD-10疾病及び関連保健問題の国際統計分類第10版:精神および行動の障害」[2]という診断基準集です。いずれも、できるだけ診断する人によって結論がぶれないように、一つの行動特徴、例えば不注意を評価するにあたって複数の観点から判断するようにしてあります。それでも、最終的には主観に左右されるということには変わりはありませんし、連続的に評価できる性質の特徴であることも同じです。なお、現実の臨床場面ではDSM-5-TRが用いられることが多いようです。また、ICDがすでに第11版(ICD-11)が公開されていて、日本でも間も無く新しい版が用いられ出す予定ですので、現行のICD-10は早晩使われなくなります。そのため、この文章で診断基準に触れるときにはDSMー5ーTRを用いることにします。

 教師や保育者が、注意欠如多動症や自閉スペクトラム症という概念の定義と曖昧さ知り、健康とされる人と診断される人との間の連続性や境界の不鮮明さを理解することには大きな意義があると私は考えています。先生方の目の前には何も問題がない「健常児」と、明らかに異常な「発達障害児(注意欠如多動症や自閉スペクトラム症を含む)」がいるのではありません。単なる子供集団がいるだけなのです。そして、個々の子供がそれぞれの行動パターンや認知パターンの個性を持っています。例えば、非常に細かい対象に注意を集中し過ぎてしまう子供もいればもっと広い範囲に注意を間配れる子供もいますし、あまりにも広範囲の対象に注意が拡散する子供さえいます。注意機能の配分の、様々の程度の個人差が見られます。注意が拡散すればするほど周囲からは「気が散りやすい」「集中できない」子供として目立つようになりますし、様々な活動での失敗に繋がり暮らしづらくなります。そうなると、支援が必要になるということになります。注意欠如多動症や自閉スペクトラム症に見られる特徴は特殊な病的サインではなく人としての行動や認知のバリエーションにしか過ぎず、平均からのずれが大きくなり過ぎたために暮らしにくさにつながった状態と考えれば良いのです。

 次節以降は、注意欠如多動症的傾向や自閉スペクトラム症的傾向をどのように評価するか、具体的に説明します。実際のDSM-5-TR診断基準を読んだことのある方もいらっしゃるかもしれません。そこには注意欠如多動症と診断するための該当症状項目数やその他の条件などが書かれています。しかし、教師や保育者の皆さんは、診断することを目的にしないでください。第一に、迂闊に診断名を口にすると子供自身や保護者との関係を大きく損なうことがあります。あくまで自分が指導する子供に対する理解を深める糸口として利用することを考えてください。第二に、診断できるかどうかで配慮するかどうかが決まるわけではありません。言い換えれば、どの程度以上これらの特徴が強ければ配慮が必要になるという境界線はないのです。程度の強い子供ほどしっかりと配慮しなければ子供が本来持っている能力を発揮できなくなる可能性が高くなるということであって、これらの特性が弱い子供であっても不注意や多動-衝動性を念頭に置いた配慮が助けになることはあります。どの子に対しても、その時々の必要性に応じて配慮し支援するという意識は大切です。

 この文章は支援の具体を説明することが目的ではありませんが、支援に関連して意識していただきたい注意点を書いておきます。注意欠如多動症の傾向や自閉スペクトラム症の傾向が見られるとき、そのような特徴はその子が本来持っている人としての振る舞い方や物事の認識の仕方の特徴です。暮らしにくさにつながらなければ性格とか個性と称しても良いものです。さてみなさん、冷静に自分を振り返ってみましょう。あなたは自分の性格を根本的に変えることはできますか?おそらく、自分の意思で性格を大きく変えることのできる人はいないと思います。せいぜい、違う性格を演じることが少しできる程度ではないでしょうか。注意欠如多動症や自閉スペクトラム症の傾向は子供自身の意思で変えることはできません。したがって、こういう傾向を変えさせようと指導することは違う人間になれと強要することに他ならないのです。こういう行動特徴を変えるのではなく、これらの特性があってもうまく生活できるように必要なサポートを提供し、ゆくゆくは自らそういう工夫ができるようになることを目指すということをしっかりと意識していただきたいと思います。


参考書:

[1]APA、日本精神神経学会、他「DSM-5-TR 精神疾患の診断・統計マニュアル」医学書院

これはとても高価な本です。なんと23,100円もします!精神疾患の診療をする医師なら1冊買っておけと強く言えるのですが、教師や保育者が買うべき図書とは言いにくいです。ただ、一度目を通しておくと診断基準に書かれていることの理解が深まります。興味を抱かれた先生は、まずは図書館で目を通すことをお勧めします。詳しい解説を省いて診断基準だけ掲載したものとして「DSM-5-TR 精神疾患の分類と診断の手引」という書籍もあるのですが、これでも5,500円します。


[2] WHO、融 道男、他「ICD-10 精神および行動の障害―臨床記述と診断ガイドライン(新訂版)」医学書院

これは5,280円で、DSM-5-TRよりも随分安いです。しかし、お勧めしません。WHOはすでに新しいICD-11を発表しており、間もなく日本でも取り入れられる予定です。ICD-11での神経発達症の診断基準はDSM-5-TRに非常に近いものになっています。

学校園でできるアセスメント

 最近、ある小学校の先生と雑談する機会がありました。短い時間でしたが、熱心に教育に取り組んでいらっしゃるのだろうなと思わせる、素敵な人でした。発達性読字障害(ディスレクシア)に関する話題だったのですが、印象に残った言葉がありました。その先生は「私たちはアセスメントができないので」と嘆いておられたのです。アセスメントができないので発達性読字障害の子供達に適切な援助を考えることが難しい、というような訴えだったと思います。よく考える前に喋り出す傾向のある私は、即座に「え?そんなん、ややこしい検査をせんでも教科書を音読してもらうだけでかなり当たりをつけれますよ」と返事をしていました。その先生は意外そうな顔をしているので、発達性読字障害がある子供の音読時の特徴や、多くの場合は平仮名を反射的に読めないことが基本的な特徴であることや、時間がなければ拗音促音などの特殊音節をいくつか読ませるだけでもかなりの情報が得られることや、小枝達也先生、関あゆみ先生の本を参考にすればもっとしっかりした評価を学校でもできることなどを伝えたところ、自分たちで評価できるなんて考えもしなかったというような感想を漏らされました。

 このエピソードでなるほどと思いついたことがあります。実は、学校園で子供に何らかの問題がある時、例えば集中できない、かんしゃくを起こす、喧嘩が多い、勉強についていけないなどの問題を心配した時に、保護者に医療機関で検査をしてもらってくれと強く勧める保育者や教師が実に多いのです。このことを不思議に思っていたのですが、その理由の少なくとも一部がわかったように思えました。おそらく、全てではないにしても多くの先生方はアセスメントで何をするのかを具体的に考えるのではなく、子供に発達障害に関連する問題が見られる時には専門機関で専門家のみができる「アセスメント」をしないといけないと思い込んでいるのではないでしょうか。そして、専門機関で専門家のみができる「アセスメント」をすると何かご利益があると。

 受け持ちの子供に発達障害が疑われる問題が見られる時、専門施設の専門家のみにできる特殊な検査をしないと問題の本質を把握することや、その対策を講じることができないということは滅多にありません。学校園での子供の様子を注意深く観察すればかなりの情報を集めることができますし、対策に結びつけることが可能です。ここでは発達障害に関連する、特別な検査器具がなくても学校園でできるアセスメントについていろいろ考えていきたいと思います。念のために申し上げますが、専門家が行う高レベルで複雑なアセスメントに意味がないというつもりはありません。専門家が精密にアセスメントすることによって初めてわかる子供の特徴というものもあります。ただ、発達障害を伴う子供達への支援を行う時、そこまで頑張らなくても日常生活の中で簡単にアセスメントすることで適切な支援を開始できることが多いのです。それに、専門家による精密なアセスメントは限られた施設でしかできませんので、予約しても実現するのは数ヶ月から半年以上先になることが多いです。その間、困っている子供を放置するわけにはいきません。ぜひ、教師や保育者の皆さんは勤務されている現場で、積極的にご自分でアセスメントを試みていただきたいと思います。


目次

・注意欠如多動症・自閉スペクトラム症:総論

(続く)


2026年3月12日木曜日

指導する

  学校園の先生方は、本来仕事の要素として子供を指導することが大きな割合を占めていますので、「指導する」とおっしゃってもさして違和感はありません。何気なく当然のことという印象しか持たない人が多いでしょう。しかし、私はいつの頃からか先生方がおっしゃる「指導」とはいったい何を意味しているのだろうかと考えることが多くなりました。典型的には次の例のような状況で疑問が湧きます。

 私の外来を受診したある小学生は、学校で叫んだり他児に手を出したりするなど、問題となる行動を繰り返していました。そのことに悩んだ保護者が受診を希望されました。家では特に問題はなく、学校で問題が生じていますので学校での様子を担任の先生に手紙に書いてもらってほしいと伝えたところ、程なく担任の先生からの手紙が届きました。最近数週間に先生が観察した問題行動を非常に細かく書いてあります。暴言を吐いた、物を投げた、他児に手が出た、教室から脱走した、などなど。そして、それぞれのエピソードの後に「指導した」との簡潔な記載があります。問題が生じたのが何の時間だったかは一応記載されていますが、具体的な活動内容、場所、周囲にいる人々についての記載はありません。何が直接的なきっかけになったのかの記載もありません。そして、その問題行動が生じた後に本人や周囲の人がどのような状態になったのかの記載もありません。ただただ、問題行動の具体と「指導した」という文言が羅列されています。このような事例での「指導」はいったいどのようなものでしょうか。

 先生からの手紙を読むかぎり、問題行動そのものにしか注目していないように見えます。その行動はなぜ生じているのかを探るという発想がうかがえません。してみると、ここで指導と記載されている具体は何だろうかと考えるに、その行動はしてはいけないことだと「注意」あるいは「叱る」ことを意味しているのではないだろうかと思えてきます。さらに、なぜそのように振る舞ったのか理由を「問いただす」のではないかと想像します。冷静に考えれば、注意し、叱り、問いただすことにそれほど意味があるとは思えません。何度も「指導」されているのですから、本人だってその行動が世間では、少なくとも教室ではよくないとされているくらいのことはわかっているはずです。中等度から重度の知的発達症を有する子供のような特殊な事例では「よくない」ということが理解できない可能性はあります。それならそうで、単に注意することや叱ることを繰り返しても成果は期待できないでしょう。

 問いただすという対応もあまり成果を期待できません。まず、興奮して問題行動を起こした子供は自分でも説明できないことがよくあります。仮に説明できたとしても、先生が納得できるような説明にはならないことが多いでしょう。たとえば、友達を叩いた子供がその理由として相手が自分の悪口を言った、と説明した時、先生は「なるほど、それなら叩いても仕方ないね」で終わらせることはできるのでしょうか。注意し、叱り、問いただすという接し方は、本人が悪いと自覚していることをただひたすら責め続けていることであり、100%自分が悪かったと認め、謝罪し、許しを乞うことを求めているようにしか見えません。

 注意するな、叱るなと言う気はありませんが、何度も繰り返しているのなら立ち止まって考えてみた方が良いでしょう。子供が不適切な行動をやめ、建設的に暮らせるように促していくことこそが指導です。繰り返し注意したり叱ったりする必要があるということは、成果を挙げていないということです。同じ対応を繰り返していれば、成果を上げないだけではなく、先生と子供の関係が悪化するでしょうし、子供は自信を失っていさらに状況が悪くなる可能性が高いのです。

 問題行動は、一般的に適応的行動と考えられています。つまり、その子供が置かれた生活環境の中で自分が必要なものを何とか手に入れることや、耐えられない状況から何とか逃げ出すことを目指す、止むに止まれぬ行動であり、本人が何とか編み出した適応的な行動なのです。そう考えると、その振る舞いがいかに不適切かと説教することで解決することが非常に難しいことがわかります。止むに止まれぬ行動であり、その子供にとっては辛い状況を脱する手立てが他にないのですから、そうそうやめるわけにもいきません。子供の不適切な行動、しかも、繰り返し生じる行動への対処の基本は、そのような行動を取らずにはいられない苦しみから解放することです。その子供にとって必要なものをいかに与えられるか、その子供にとって堪え難い苦痛からいかに解放するか、ということが対策の主眼となるのです。問題行動への具体的な対応を説明することは本稿の目的ではありませんので、ここでは応用行動分析が助けになることを指摘するのみとしておきます。

 この例でも当てはまりますが、多くの学校の先生は「指導する」という言葉をあまりにもあっさりと口にされるのです。まるで、「指導する」の一言で詳細は言わなくても伝わるでしょ、とでも考えておられるように見えます。しかし、何について指導するにしても、具体的なアプローチは一つに定まることは少ないと思います。繰り返し暴言を吐く、という単純な事象に対する指導を考えても、その行動を維持する要因は複数考えられるでしょうし、その要因への手の入れ方も色々なやり方が考えられそうです。もしも、指導することに何らかの成果を期待しようというのであれば、「指導する」の一言で表現できるようなものにはならないと思うのです。

 問題行動に限らず通常の教科教育についても「指導」や「教育」という言葉の意味を考える時に「成果をあげる」ということを強く意識してほしいなあと思います。私なんぞに言われるまでもなく、成果を目指して奮闘されている先生が大多数だとは思います。ただ、発達障害を主な対象とする診療をしている身としては、日常生活の中で困っていることがあって受診する子供達やその親から話を聞くことが多いのです。そのためか、学業についてもごくごく基礎的なことが理解できていないままに取り残されている子供たちにしばしば出会います。ひらがなをスムーズに読むことさえできていないまま繰り返し長文読解に取り組まされ、読解力がないと指摘され続ける子がいます。序数や基数など基本的な数量概念理解ができていない状態の子が、繰り上がり繰り下がりの計算が弱いという理由で大量の計算問題に取り組ませられ続けることもあります。このような子供達を見る時、「なぜなかなか成果が上がらないのだろうか」と一度立ち止まって考え、本人が躓いている原因は何かを分析してみたり、その子供には異なった教授法が向いているのではないかと思案してみたりしていただけないものかなあとよく思います。「指導する」ことが単に決められた学習内容を伝達することや、定まった手順での指導を機械的に繰り返すことにならないでほしいと切に願っています。

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 さて、だらだらと書いてきましたが、この「先生、お言葉を返すようで恐縮ですが」シリーズは今回で終わりです。一部でも読んでいただいた方には感謝いたします。

「先生、お言葉を返すようで恐縮ですが」:目次


2026年3月7日土曜日

このままでは将来困るから

  片付けがとても苦手で、忘れ物も多いし、面倒臭くてメモも取れない子供がよくいます(大人も多いですが)。何度もなんども先生が注意したり叱ったりするのですが、一向に改善の兆しがありません。僕の外来にはこういうタイプの子供がよく受診します。何度も叱られたり注意されたりしても失敗を繰り返すのですから、叱ることの成果はありません。授業に必要なものを無くしたり忘れたりしますから、様々な学習で不利になります。対策を立てずに放置すれば、学校生活に大きく躓いていくのが目に見えています。それを防ぐためにはこまめに指示を出してあげたり、必要な手順を表にして机に置いてあげたり、あるいは忘れたものは学校の備品を貸してあげるなりして、苦手なことで躓きっぱなしになることを避け、本来自分が持っている能力を十分に発揮できるようにしてあげる方が良いのではないかと思います。僕は、必要な援助をしてもらえるように学校の先生にお願いすることを保護者にお勧めしています。しかし、実際に保護者が先生に相談するとしばしば返ってくる返事が「このままでは将来困るから、手助けをしない方が良いです」というものです。

 「このままでは将来困るから」という台詞はとてもよく耳にする言葉です。片付けができず忘れ物が多い子供がいても「このままでは将来困るから」手伝うことなくお説教をして改善させようとします。何かといえば口を荒らす子供には、「このままでは将来困るから」悪い言葉遣いをするたびに逐一叱ろうとします。この種のエピソードにはほぼ例外なく共通する問題があります。「このままでは将来困るから」という意見に問題はありません。確かに困る可能性が高いです。それならば、少しでも将来が明るくなるように変化をもたらす方策を探る必要があります。ところが、このような台詞を口にする先生方は得てして対応を変えようとしません。今まで散々注意したりお説教したりしてきたのに改善が見られないのです。このような対応では解決しないということを自ら実証しているわけです。成果のない方法を継続することは明らかに不適切です。成果がないばかりか、忘れ物のために学習効率が低下して勉強に遅れ出したり、繰り返しダメ出しを受けることから負の感情が高まりより一層暴言が増えたりすることがあります。

 忘れ物や無くし物が多い子供では、取り敢えず物を忘れたり無くしたりしても困らないように支援し、能力に見合った学習が進むように取り計らえば良いと思います。そのようにすることで何もかも自信をなくしていくことを防ぐことができます。そして、忘れ物や無くし物を減らすために、その子供にもできる具体的な方法を一緒に考えてあげれば良いのです。忘れ物をするたびにお説教し授業に参加できない状態を長期に続けるよりもよほど素晴らしい「将来」を保証することができると思います。何かといえば口を荒らす子であれば、少々失敬な物言いや無作法な台詞を口にしても耳に入っていないふりをしながら、そこそこ普通に話している時に言葉遣いがよくなっていることを繰り返し褒める方が、より効果が上がります。私は「このままでは将来困るから」という言葉自体を批判しているのではありません。この台詞を言い訳にして子供への一向に成果が上がらない接し方にこだわり、新しい指導の工夫をしないことに情けない思いを抱くのです。

 「このままでは将来困るから」、明るい将来を実現するための作戦を練ろうと考えることがごく自然で合理的な発想ではないかと思います。しかし、現実には「このままでは将来困るから」、このままの状態を維持し続けようとされる先生の話を耳にすることが結構多いのです。世の中には、論理的に考えれば無益な方向に進んでいても、今までの自分のやり方を変えることにひどく抵抗を感じる方が多いのでしょうか。どうも不思議です。しかも、自分のやり方を変えられない先生が目指していることが子供の振る舞い方を変えることなのですから、なんだか悪い冗談を聞かされているような気がしてきます。

 ひょっとしたら、このタイプの先生方は行動や認知の特性が日常生活の困難に繋がっている発達障害というものを理解することがどうしてもできないのかもしれません。目の悪い子供に自分の力で遠くを見なさいと説教しても無駄であり、眼鏡をかけさせる必要があります。これと全く同じで、不注意の強い子供に自分の意思で忘れ物をしないことを求めたり、衝動性の強い子供に自らの努力のみで口を荒らさないことを求めたりすることはナンセンスです。自分の意思や努力ではどうにもならない困難さで生活に支障をきたしているのだから「障害」なのです。しかし、「このままでは将来困るから」手伝わないと主張する先生方にはこのような子供たちの苦しみが見えず、単なる心がけの問題としか思えないのかもしれません。そうだとすれば、悲しいことです。

「先生、お言葉を返すようで恐縮ですが」:目次

2026年2月28日土曜日

おたくのお子さん1人だけに違うことはできません

  発達障害を有する子供の保護者が担任の先生に何らかの支援を求めたときに、先生から「おたくのお子さん1人だけに違うことはできません」と伝えられることが時にあります。この、「先生、お言葉を返すようで恐縮ですが」シリーズでは、教師や保育者が悪意なく発する、いや、むしろ善意や職務への熱意から口にしそうな言葉を主に取り上げてきたつもりです。しかし、「おたくのお子さん1人だけに違うことはできません」は完全にアウトです。私自身の経験からはこのようなことをおっしゃる先生はあまりいないと思いますし、少ないと信じたいです。なぜならば、もしこういうセリフを口にし、かつ言葉通りに振る舞っておられるなら、それは明らかに日本では認められないからです。

 2006年12月に改正された教育基本法には「国及び地方公共団体は、障害のある者が、その障害の状態に応じ、十分な教育を受けられるよう、教育上必要な支援を講じなければならない。(第4条第2項)」という条項が加えられました。そして、この規定の元となった2005年の中央教育審議会答申では特別支援教育について、幼児児童生徒一人一人の教育的ニーズを把握し、適切な指導及び必要な支援を行うものであると説明しています。同時に、この答申では通常学級に在籍する子供に対しても個々の教育的ニーズに沿った支援をすることを求めています。つまり、障害を持つ特定の子供に何らかの教育的ニーズがあれば、それに応じて「1人だけに違うこと」をせねばならないのです。
 さて、一人一人の子供に必要な支援や適切な指導をせねばならないとすれば、一体どういう考え方でどの程度のことをせねばならないのでしょうか。それを考える上でのキーワードが「合理的配慮」です。合理的配慮は2006年に国連で採択され、日本でも2014年に効力を発生した障害者の権利に関する条約では、合理的配慮は次のように説明されています。
「合理的配慮」とは、障害者が他の者との平等を基礎として全ての人権及び基本的自由を享有し、又は行使することを確保するための必要かつ適当な変更及び調整であって、特定の場合において必要とされるものであり、かつ、均衡を失した又は過度の負担を課さないものをいう。
 障害者の権利に関する条約では合理的配慮の否定は差別とみなされます。また、国内法でも2016年に施行された障害者差別解消法で全ての事業所において(2024年4月から)合理的配慮が義務化されています。合理的配慮は"reasonable accommodation"の訳です。「配慮」と訳されたので全ての人に「善意からの心配り」が求められていると誤解されやすいのですが、実際の意味合いはかなり異なります。障害児本人が学校園で他の子供と同等の機会を提供されるために必要な「調整」と考えた方が本来の意味を反映しています。しかも、上記の説明の通り、均衡を失した又は過度の負担を課さないものという条件がつけられており、際限なく濃厚な援助をする義務が学校園側にあるわけではありません。とはいえ、発達障害を伴う子供がその障害のために学校園で建設的に暮らせていない時には、特別な支援をしなければいけません。「おたくのお子さん1人だけに違うことはできません」と言って何の配慮もなく放置することは差別とみなされ許されるものではありません。
 さて、基本的なことは押さえた上で話の流れを変えようと思います。昨今の教師や保育者の忙しさは多くの人に認識されるようになっているのではないでしょうか。決して少なくはない受け持ちの子供たちを直接指導するという本来業務だけでも大変だと思うのですが、保護者からの相談に乗ったり、時には苦情処理をしたりせねばなりません。その上、監督官庁からの通達や地域住民からの無責任な要望などにより業務が増す一方ですし、責任を負わされる範囲も増える一方だと聞いています。そのような状況だと「おたくのお子さん1人だけに違うことはできません」と言いたくなっても不思議ではありません。しかし、先述の通り、これは言ってはいけない台詞です。ではどうすれば良いのでしょうか。
 個別の配慮について考える前に、ユニバーサルデザインを意識した環境作りに触れておきます。どの子供にとっても暮らしやすい環境です。発達障害の代表として取り上げられやすい注意欠如多動症や自閉スペクトラム症の子供に対する基本的配慮事項は、実は多くの子供達にとっても暮らしやすくなることにつながりやすいです。例えば、注意欠如多動症のある子供の指導でよく取り上げられる、できていることに注目し不適切な行動は無視をするという技法は全ての子どもにとって有意義です。自閉スペクトラム症への配慮としてよく言及される視覚的支援やわかりやすい形のスケジュール表をこまめに提示することなどは、自閉スペクトラム症以外の多くの子供達にとっても安心して暮らせる環境を作ることにつながります。これらの広く知られたごく一般的な配慮事項を日頃から徹底するということは、個別の配慮の必要性を減らし、先生方の負担を減らすと思います。
 個別の配慮を考える前提として、完璧を目指す必要はないことをよく意識しましょう。特に、個人の特殊な事情に合わせた支援や工夫は理想を追い求めてできるものではありません。先に説明しました合理的配慮の説明で「均衡を失した又は過度の負担を課さないもの」と書いてありましたが、これは重要なポイントです。あくまでできることを着実に実行していくことが大切です。個別の配慮の具体は、子供のニーズによってそれぞれですから、ここで総論的に説明することはできません。ただ、ぜひ考慮していただきたいことを一つ二つ書いておきます。
 多くの先生方はなんとか子供のためになるように精一杯頑張っておられます。すでに一杯一杯になっている方も多いのではないでしょうか。その状況でまず考えるべきことは、無駄を減らすことです。私の偏見かもしれませんが、教師や保育者は一度始めたことから撤退することが苦手な人が多いように見えます。様々な工夫や努力をしていらっしゃるのですが、一定期間が経てばその成果を見直すことが必要です。計画段階から、どのくらいの期間実行すれば成果の有無を検証するということも考えておくことが理想です。少なくとも、長年続けてきたけれども成果が上がらないことは一旦中止した方が良いでしょう。私の外来を受診する子供達に関して真っ先に浮かぶのは、宿題です。宿題をすることが辛くて辛くて、毎日家で大暴れしているケースでは、宿題から得られるものなんてほとんどありません。直ちにやめればその子の宿題を確認する手間が減ります。逆に、余裕しゃくしゃくで授業を理解し課題を解いている子供も、宿題をするメリットはほとんどないでしょう。「決まっているから」とか「すべきことだから」という考え方を捨てて、これをすることが子供にとってどのような利益になるのだろうかという損得勘定の観点で考えれば、当たり前のように実行していることでも無駄なことは多いと思います。
 成果が上がらない手立ては上記のように無駄ではないかと考えることが大事ですが、その前にやり方に修正すべき点がないかを検討することも必要です。特に、専門家達が長年その成果を確認してきたような手法では、根本的に無意味というよりも実行方法に問題がある可能性を検討するべきです。例えば、これは私自身の経験ですが、視覚的支援が重要だからと子供の机に注意事項や守るべきルールを書いた紙を大量に貼り付けた先生がいました。このようなやり方だと情報量が多くて把握しきれないことに加えて、本人にとって面白くないことばかりを書いているので、貼り紙が嫌悪刺激になります。このような場合に成果が見られなくても、視覚的支援が無意味なのではなく、用い方に問題があります。すでに実行している方法を少しずつ修正することはそれほど手間を増やすわけではなく、実行しやすいのではないでしょうか。なお、このことに関連して追加しておきますと、一見手間が増えるように感じても、繰り返し実効性が証明されているスキルを取り入れることが結局は楽になる方法と言えます。最近は、少し大きな書店に行けば様々な配慮が必要な子供を念頭に置いた支援方法を記載した書籍がいろいろ出ています。また、近くに教員養成課程や保育士養成課程、あるいは心理学部のある大学があれば、いろいろ助言をしてくれる専門家がいることがあります。連絡を取り協力してもらえないかお尋ねになるのも良いのではないでしょうか。
 少し話がそれますが、ケース会などに参加している時に「やれることは全部やりました!」と担任の先生がおっしゃる場面を目撃することが何度かありました。努力が成果につながらず、疲労困憊されているのだろうということが伝わってきます。このような発言を口にされる、特に公的な場でおっしゃる先生に必要なことは休息です。ここまでに書いてきたように問題への対処は色々な選択肢があります。ユニバーサルデザインを意識して生徒全員への働きかけ、成果があまり上がらなかった工夫の細かい改良、成果の見られない手立てを止めること、問題が生じる状況を改めて観察し分析すること、これらの組み合わせ、などを考えていけばどのような状況にあっても何かしら新しい試みは可能です。やれることを全部やり尽くすなど現実にはあり得ません。しかし、この矛盾に気付けず「やれることは全部やりました!」と口にしてしまう先生は精神的に参っている状態だと言えます。休息が必要だと思います。


2026年2月21日土曜日

頑張れ!

  「頑張れ!」、「もう少し頑張ろう」、「皆んなやってるんだから頑張って」。別に教師や保育者でなくてもよく口にする台詞です。かくいう私もつい言ってしまうことがよくあります。しかし、「頑張れ!」という言葉を子供に向かって使う時は慎重に考える必要があります。子供本人が自ら進んで何かに取り組んでいる時、とりわけ楽しそうにあるいは面白そうに取り組んでいるときには問題ないことが多そうです。しかし、慎重になるべきなのはあまり成果を出せていない子供の場合です。授業や課題に集中できていない時、逆上がりの練習に取り組みたがらない時、集団での話し合いに参加しようとしない時、登校を嫌がり出した時、あまり軽々しく「頑張れ!」と言わない方が良いです。なぜならば、うまくいっていない子供たちはすでに頑張ってきたからです。それぞれの子供なりに頑張ったものの上手くいかないからやる気がなかったりイライラしたり拒絶したりしているのです。すでに頑張っているのにさらに「頑張れ」と言われてもげんなりするだけです。皆さんも徹夜続きでなんとか仕事をこなした直後に、上司から「よーし、もっと頑張ってみよう!」なんてことを言われたら逃げたくなるでしょう?

 そうです。子供達はすごく頑張っているのです。学校や保育所ですべきことをきちんとしない、不適切な行動が多い、学習の成果が上がらない、などの問題が見られる子供に対処するとき、指導者はまず大前提として「この子はすごく頑張っているのだ」という意識を持っておく必要があります。すでに頑張っているのであれば、さらに頑張らせることで問題解決を図るということは実に馬鹿げたアプローチであるということになります。では、どうすれば良いのか。向かうべき方向性は明瞭です。子供が指導者から課された目標を達成できず頑張り続けて疲れて限界に来ているのですから、必要なことは「頑張れ」という励ましではありません。頑張った挙句に消耗しているのですから、その子供を楽にしてあげなければいけません。しかも、ただ単に休ませれば良いというものではありません。挫折感を抱かせないように、日々自分は何かをやり遂げているのだとか成長できているのだとか感じられる状態を作りつつ、楽に暮らせる工夫が必要です。

 まず考えると良いことは、難易度と量の両方の面から見てその子供に適切な課題を設定することではないかと思います。当然、指導者は子供の能力や認知・行動の特性を正確に把握することが前提になります。難しく考える必要はありません。日頃の言動から、大体こんなところかなと当たりをつけて課題を準備します。子供がその課題をあまりにもあっさりと片付けられるならもう少しレベルを上げれば良いですし、かなり頑張らないとこなせない時や子どもが嫌がるようならレベルが高すぎます。ここで十分に意識しておかねばいけないポイントは、少し頑張れば達成できる課題にするということです。たとえ達成できたとしても、本人がすごく頑張ってやっとこなせる課題レベルや量は長期間維持できません。課題レベルの設定で迷った時には迷うことなく簡単な課題をまず選びましょう。簡単すぎることが判明すれば、それからレベルを上げれば良いことです。あくまで「楽に暮らせるようにする」というミッションを守らねばなりません。ごくたまにはずいぶん手応えのある課題を用意しても良いのですが、できたからといって調子に乗り、そのレベルの課題を出し続けることのないように気をつける必要があります。

 その子供にとって課題や活動に魅力があるのかということも大事な観点です。課題を達成できただけでもそれなりに満足感があるものですが、さらにその活動や課題に面白さを感じたり興味を持てたりすると大変宜しい。皆さんが「頑張れ」なんて言わなくても、子供が勝手に張り切って取り組みます。どのような要素を付け加えれば面白くなるのかが最初からわかっていることはありません。結局色々な工夫をして反応を確認するしかありませんが、普段その子供が何に興味を持ち、何を喜んでいるのかを観察しておけば工夫のヒントが得られるかもしれません。例えば、長文を読解する課題に取り組ませるとき、虫が好きな子であれば虫をテーマにした文章を教材に選べば張り切るかもしれません。

 「頑張れ」というセリフは、現場での子供の能力や認知・行動特性を正確に把握し、過剰な負荷をかけない程度の適切な課題設定とそのほかの環境調節を行い、ある程度余裕を持ちながらも日々成功体験を積ませ続けさせることのできる先生のみが口にすることを許されていると考えれば良いのかもしれません。

 少し話がそれますが、発達障害のある子供の保護者に最近の学校での様子を尋ねた時、「担任の先生が『よく頑張っていますよ』と言ってくれます」という返事が返ってくることがしばしばあります。このような時、私の頭の中には警報が鳴り始めます。先生から見て「頑張っている」状態では、子供本人は頑張りすぎている可能性が高いです。それまで学校生活の中で何も問題を指摘されていなかったのに、ある日突然登校できなくなる子供では、先生が「よく頑張っていますよ」と言いたくなりそうな状態が事前に続いていることが稀ではありません。どの子供であっても本人の主観の中では頑張って暮らしていると考えておいた方が良さそうなのですが、とりわけなんらかの発達障害の診断を受けたことがある子が学校で何も問題なく暮らしているように見えるときには、その子は無理な背伸びをして過剰に頑張り続けている可能性があると意識してみる必要があります。



2026年2月15日日曜日

愛情が不足している/しっかり愛情をかけてあげて

  暦の上ではすでに秋真っ只中のはずなのにうんざりするような暑さが続いていたと思ったら突然薄ら寒くなり出した10月末、本田英美は市内にある大きな保育所の職員室に座っていた。この保育園に通う5歳児の岡田将太は集団活動に参加したがらないし、しばしば激しいかんしゃくや他の子供への暴力が見られる。対応に困った先生達がケース会議を開いたのだが、将太の主治医である小児神経科医の英美も招かれて参加することになったのである。会議は実り多いものだった。何よりも担任の先生が真面目で誠実なだけではなく、子供の行動特徴を細かく客観的に把握しているし、見聞きした事実と自分が考えた推測とをきちんと分けて説明できる人であった。おかげで、英美は問題となっている将太の行動それぞれの生じやすい条件や生じた後の場の展開などを具体的に把握できた。このような情報から、英美は問題の頻度を増やしやすい環境やそのような行動が生じる直接のきっかけを指摘するとともに、なぜ翔太がそのように振る舞わざるをえないかという行動の持つ意味についての仮説を説明することもできた。担任と主任の先生は飲み込みが早く、英美の説明からいくつかの対処方法を思いついたらしい。さっそく、まず取り掛かれることは何かなどの作戦を練り始めていた。会議の終了時に還暦前後くらいかなと思われる園長が締めの挨拶をしたのだが、その中で「私は問題行動を起こしやすい子供って、親の愛情が不足しているのではないかと思っています。もっとしっかり愛情をかけてあげてほしいなと常々感じてます」という一説があった。これを聞いた瞬間、英美はそれまで感じていた充実感が吹っ飛び気持ちが暗くなった。こんなに優秀な職員達を束ねている園長でもこういうことを口走るのかとひどく残念な気分であったが、時間も遅かったので何も言わずにその場を辞した。

 英美は最近Chat GPTで遊ぶことがよくある。この日も帰宅後、Chat GPTに「愛情をかける、という言葉に胡散臭さを感じるのですが、どう思いますか」と質問してみた。すると彼(彼女なのか?)の第一声は「その感覚、かなり自然だと思います。『愛情をかける』という言葉には、たしかに胡散臭く聞こえる要素が含まれやすいです」というものであった。お、なかなか好意的な返答ではないか、と思いながら英美は続きを読んだ。チャット君の言い分は要約すれば次のようなものである。

  • 具体性がなく、何をどうすれば良いのかが曖昧で聴く側に解釈を丸投げしているので責任の所在がぼやける。
  • 道徳的に「正しそう」な響きを持っているので反論しづらい。
  • 信頼関係がある場面や具体的な行動とセットであれば、完全にダメな言葉とも言えない。
  • つまり違和感の正体は、「中身が語られていないのに、良いことを言った気になれる言葉」になりやすいところではないか。

 チャット君、なかなか大したものではないか。これは議論の相手としては結構いけるぞと思い、さらに質問を重ねることにした。英美は「教師や保育者が学校園で問題を起こす子供の親について『親の愛情が足りない』とか『もっと愛情をかけてほしい』と口にすることがしばしばあります。この言葉自体には客観的で建設的な意義は乏しいと思います。ただ、教師や保育者がそう思っている背景を明らかにできれば子供を取り巻く問題の一端を明らかにする一助になるかもしれません。このような発言をする教師や保育者に、どのような質問をすれば状況をより良い方向へ動かす手掛かりになると思いますか」と入力した。すると、チャット君の第一声は「とても整理された問題提起だと思います」というものであった。英美は思わず「褒めていただいて恐縮です」と言いながら頭を下げる。チャット君の説明はざっと以下のようなものであった。

 チャット君はまず、「愛情が足りない/もっと愛情を」 という曖昧で検証不能で行動につながりにくい表現の裏には、教師・保育者の言語化しきれていない観察や困難感があるとのべた。なんたる落ち着いた思考であろうかと英美は感心する。そしてチャット君は、「愛情が足りない/もっと愛情を」 という表現を翻訳させる質問を教師や保育者に投げかけることが有効ではないかと提案してくれる。チャット君は質問の具体例を、5つの目的に分けて示してくれた。

1.抽象的評価を、観察可能な事実や具体的行動に変換するための質問

  • 「『愛情が足りない』と感じられたのは、どんな場面を見てそう思われたのですか?」
  • 「具体的に、どんな関わりが増えると変化がありそうだと考えていますか?」
  • 「逆に、十分に関わっているように見える場面はありましたか?」

 うむ、これは「愛情が足りない」と口にする教師・保育者を一方的に非難することを避け、さらにそう感じた根拠を少しでも汲み取ろうとする試みではないか。確かに無根拠に口にしているとばかりは言えない。先生の発言の背景を具体化すると、子どもや保護者への援助を考えるヒントになるかもしれない。それだけではなく、保護者への適切な関わりを考えるように水を向けたり、保護者の評価すべき点を意識するように促したりもしている。なかなか巧みな進め方ではないか。

2.親の問題として語られているものが、実は現場の支援困難や限界感の表現である可能性を探るための質問

  • 「そのことで、先生ご自身はどんな点が一番大変だと感じておられますか?」
  • 「園(学校)での対応として、難しいと感じている部分はどこでしょうか?」
  • 「もし今より支援が増えるとしたら、どんな点が助かりそうですか?」

 なるほどなあ、「愛情が足りない」などという碌に根拠のない発言が口をついて出てきているということは、保育士教師の置かれた辛い状況がもたらすものということは考えられるな。保育者や教師の味わっているかもしれない辛さに目を向けるなんて、さすが下手なカウンセラーよりも癒し上手のチャット君である。この手の保育者や教師に共感的な眼差しというものは英美の苦手とするところである。患者やその保護者には優しい気持ちを抱けるのだけどなあ。

3.親評価から離れ、子どものニーズや特性に話題を戻すための質問

  • 「その子は、どんな時に一番落ち着いていますか?」
  • 「安心しているように見える瞬間はありますか?」
  • 「逆に、特に不安定になりやすい状況はありますか?」

 ここは重要だな。結局は子供の様子に心配なところがあることから広がって出てきた発想なんだから、子供の状況を明確にしておくことはまず必要だと思う。でも、小児神経科医の英美の場合、子供の状況から話が始まることが多いので、改めてこのような質問に繋げる機会は少なそうだ。

4.無意識の規範(例:こうあるべき親像)が判断を歪めていないかを可視化するための質問

  • 「先生のご経験上、うまくいっていると感じるご家庭には、どんな共通点がありますか?」
  • 「それは、そのご家庭の事情が違っても実現可能なことだと思われますか?」
  • 「難しい事情がある場合、どこまでを期待できると考えていますか?」

 こ、これは、すごい!「愛情が足りない」という考えに至る自分の思考過程を内省させ、客観化するきっかけを作っているではないか。チャット君、出来る子。

5.評価で終わらせず、建設的な具体的支援や連携に話を進めるための質問

  • 「今の状況で、親・園(学校)・外部支援の中で、どこに働きかけるのが現実的だと思いますか?」
  • 「この子にとって、今一番小さくても効果がありそうな変化は何でしょう?」
  • 「もし親御さんに一つだけ伝えるとしたら、どんな形が一番伝わりやすいと思いますか?」

 英美は思わず「勉強になります」と頭を下げそうになった。実に説得力のある説明ではないか。一貫して、相手を責めることを避けながら現実的な思考をさせるように促しているように見える。大したものである。しかも、チャット君は最後に次のようなまとめを述べてくれた。

「愛情が足りない」という言葉は多くの場合、不安、無力感、説明困難な違和感、支援資源の不足が一語に圧縮されたラベルです。有効な質問とは、そのラベルを観察・困難・ニーズ・選択肢へと分解するものです。あなたの問題意識は、「親を責める言説」そのものではなく、それが思考停止として使われてしまう構造に向いています。上記のような問いかけは、相手を追い詰めずに、その構造をほぐす助けになるはずです。

 なんと、英美の問題意識を反射的な反感ではなく建設的な疑問として捉えてくれている。「えへへ、そうなのか。自分でも知らんかった」と英美は独りごちた。年を経るにつれてそれなりに社会的な振る舞いを身につけてきたとは感じているが、本来英美は単細胞人間である。相手の発言に問題を感じると、ついその問題を指摘し反論しようとしてしまう。現実社会ではそのような対決姿勢で建設的な展開が見られることはほとんどない。チャット君の大人っぽく思慮深い見解を読み、英美は頬が赤らむような気持ちである。とはいえ、英美は面白くない気持ちを抱いていた。チャット君の述べたことは英美の考えとかなり一致しているし、それがもっとスマートに整理されている。秀美が何年間も行きつ戻りつしながらまとめてきた考えを、チャット君は一瞬にして要領よく説明して見せるのである。なんだか間も無く自分は不要な存在になるのかなあという気持ちが胸の内にモヤモヤと湧いてくるのであった。しかし、秀実は一つだけチャット君の意見に明確に反論できる点がある。チャット君は「あなたの問題意識は、『親を責める言説』そのものではなく、それが思考停止として使われてしまう構造に向いています」と述べているが、英美は明確に「親を責める言説」が問題だと考えている。子供を成長させるための仲間として保護者を迎え入れるべき立場にある保育者や教師が、保護者を問題の根本原因のようにみなして得られるものなどなかろう。百歩譲って保護者が実際に相当不適切な子供への接し方をしていたとしても、保護者を非難することによって得られるものなんて無かろうと英美は腹が立つのである。ただ、この時点で保育者や教師についても同じことが言えるのではないかということに気がついていないところが、英美の間抜けさとも言える。