2014年8月2日土曜日

「自己責任です。」

https://www.facebook.com/amnesictatsu/posts/681313385220087 (2013/11/3) より転載

「自己責任です。」という台詞を大勢の人の前で口にしたことがある。20年位前、地方の医師会の研修会でてんかん治療に関する講演をしたときである。その時の講演では、思春期ともなれば患者本人に治療の意味や選択肢をよく説明し、どういう方針を選択するのか、治療しないということも含めて患者自身に選ばせる、というようなことを説明した。そのことに対して初老の医師が治療しないことを患者が選択した時に痙攣が再発する可能性もあるではないかと質問し、それに対して僕は自己責任という言葉を用いたのである。質問した医師はどこか悲しげな表情を浮かべたことを覚えている。医療に限らず権威がパターナリズム的に人を囲い込む構造に対する反感を思春期頃から抱いていたし、インフォームド・コンセントやEBMといった考え方が勢いを増してきていた背景や、個人的にLinuxコミュニティの活動に感化されていたことなどから当時は「自己責任」という言葉をしきりに口にしていた。
 そして今、「自己責任」という単語を耳にすると寒々とした思いがする。自己責任という考え方は個人を尊重する欧米で根付いたものと思っていたが、最近、実は日本は徹底的に自己責任の国だったことに気がついた。貧しくて困っている人達は本人の努力が足りない所為になる。子供の学力が低いことは本人が努力しないことと親の子育ての悪さが原因と看做される。老いていく人達が不自由になっていっても本人の蓄えと家族の献身だけで何とかせねばいけない。苦しんでいる人に手を差し伸べる仕組みが乏しいだけではなく、そういう人達に社会から与えられるものの大きな割合を占めているのは非難の言葉であったりする。
 20年前に半ば得意げに「自己責任」という言葉を口にしていたとき、こういうことを想像していた訳ではない。今から思えば個人に責任を課すことを考えていたのではなく、個人の自己決定を支援したかっただけだと思う。今でも患者を抱え込み、大した根拠もなくあれこれ指示するパターナリズムは嫌いだ。自分で判断することの助けとなるように、根拠のある選択肢を出来るだけ多く示したい。そして自己決定の結果失敗した人には役にも立たない慰めではなく、新しい一歩を踏み出す助けとなる合理的な選択肢を提案したい。そういう自己決定を支援するシステムが社会に広がって欲しいと思っていたのだと思う。と、後付けで言い訳がましく説明しても、20年前に質問した年配医師の悲しげな表情が脳裏をちらつく。

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