発達障害は程度問題であるということをここ最近、と言っても5年以上になるが、よく考える。ここで言う「発達障害」は発達障害者支援法で規定されている意味での発達障害である。発達障害には様々な状態が含まれるのだが、その最も中心となる病型は学習障害、広汎性発達障害および注意欠陥多動性障害の三つである。
学習障害とは知的障害が無いにもかかわらず、文字の読み書きあるいは計算能力が十分ではないために学業に支障を来たしている状態である。知的能力は高いし家庭や学校環境にも大きな問題がないにも関わらず、文字が読めないとか計算ができないといった状態にある。こう言うと全く文字が読めないとか、一桁の数さえ数えられないとかいったイメージがわくかもしれないが、実際はかなり異なっている。文字を読むことに困難さがある学習障害(ディスレクシアとも言う)の子供は学年が上がれば結構読めるようになる。ただ流暢に読めなかったり、一見スラスラ読めているようでも読み方が遅く本人はかなり努力していたりする。そのため文章の内容理解が悪くなる。計算障害にしてもいつまでたっても一桁の足し算もできないようなことはなく、簡単な加減乗除ならなんとかできるようになることが普通である。しかし、計算を間違い易いし、計算することにかなり苦痛を伴う。その困難さの程度は個人個人で異なっており、生活が著しく妨げられるくらいの人もいれば、その困難さを本人が自覚できるかどうか微妙な程度の人もいる。
広汎性発達障害は、現在は自閉症スペクトラム(Autism spectrum disorder; ASD)という名前に移行しつつある。ASDは二つの行動特徴から規定されている。第一はコミュニケーションや社会的相互作用の障害である。もう一つの特徴は限定的で反復的な行動、興味、活動である。コミュニケーションや社会的相互作用の障害が具体的にどうのように現れるかといえば、年齢相応の友達関係を築けない、人の身振りや表情の意味が理解しにくい、誰に相手をされなくても長時間一人で活動して苦にならない、人と会話が続かない、会話が噛み合わない、言葉の裏にある意味が読み取れず冗談を真に受けたり皮肉が理解できなかったりする、といった状況が観察される。二番目の特徴である限定的で反復的な行動、興味、活動では、特定の活動に熱中し繰り返し行ったり、変化を嫌ってスケジュールや物の配置など常に同じであることにこだわったりする。また、非常に細部に注目し、その正確さにこだわったりもする。音や肌触りなど特定の感覚刺激に対する過剰な敏感さや鈍感さを示すなど、感覚刺激に対する反応の奇妙さが見られやすいことも二番目の特徴の要素である。二つの行動特徴のいずれにおいても日常どのように表現されるかやその程度は人によって様々である。
先に述べたように、文字を読むことが苦手な学習障害の人であっても、その苦手さの程度は人それぞれである。一方、学習障害ではない人の文字を読む能力は一定かと言えばそんなことはなく、個人個人で速く読める人、ゆっくり読む人、読み間違いの少ない人、読み間違いが多い人など人それぞれである。比較的読字能力が高い学習障害のある人と、比較的読むことが苦手な「健常者」はどの位違いがあるのだろう。実は、両者の間に明瞭な線を引くことはできない。シェイウィッツという学者は膨大な数の子供達の読字能力を測定した研究を報告しているが、読字能力の分布は平均点付近で最も人数が多く、能力の高い方と低い方に向けてなだらかに人数が減るような分布であった。「学習障害」あるいは「読字障害」と呼べる特殊な集団がいるのではなく、なだらかに分布する読字能力の低い裾野の人達が「学習障害」の正体である。
ASDについても同じようなことが言える。ASDの特徴をどの程度持っているかを評価するための質問紙がいくつか作成されている。当然ASDの診断を受けている人達の評価得点は総じて高く、診断を受けたことの無い人達の得点はASDを伴う人達よりも全体としては低い。しかしそれぞれの分布は重なりが大きい。つまり、自閉症スペクトラムと名付けられる特殊な一群がいるというよりも、人間の行動特性の一要素として自閉症的な特徴がとても弱い人からとても強い人まで連続的に分布していると考えられる。そして、自閉症的な特徴の強い人達が何らかの理由で生活に困難を生じ出した時に「自閉症スペクトラム」と診断される様なのである。
このことは注意欠陥多動性障害でも同じである。注意欠陥多動性障害は日常的な言葉で説明すれば、落ち着きが無く、悪気無く考えなしの言動をつい取ってしまい、気が散りやすく、うっかり屋さんでぼんやり屋さんで無くしものや忘れ物の多い人達である。こういった特徴を並べた時に、ほとんどの人は多少なりとも自分の中に同じ要素を見つけることが出来るのではなかろうか。失言したことの無い人もうっかりミスをしたことの無い人もほとんどいないだろう。忘れ物や無くしものが日常茶飯事という人もいるだろう。大概の人は多少はもっている要素ばかりである。しかし、その程度がだんだんひどくなれば、いつかは生活に支障を来すことも想像に難くない。生活に支障を来すようになり、なおかつ本人のみの力ではそれをカバーすることが難しくなった状態が注意欠陥多動性障害である。
「〜障害」という診断が付けられるとまるで「健常」とははっきりと異なる特殊な人のように思えてしまう。しかし、実際には診断された人であってもその特性の程度は人それぞれだし、診断されていない人であったも様々な程度でそれぞれの特性を持っている。しかも診断するかどうかの境目は極めて曖昧である。それは典型的な「発達障害」を有する人からごく平均的な発達をした人に至るまで、その間には様々な程度の人が存在し、「障害」と「非障害」の間は極めて連続的なものだからである。
さらにややこしいことに、障害か否かを決める時には生活する上で「困る」か否かが根拠となる。同じ様な行動特性を持っていても、その人の環境との組み合わせによって困るかどうかが違ってくる。人との付き合いが下手な人でも、誰から非難されることも無く、本人も満足に暮らしていれば障害ではない。ところが人付き合いが多少不器用であったり、物事へのこだわりが多少あるだけでも、それをもって日々他人から非難され続けるとその環境に適応できなくなる。うっかり者でおっちょこちょいであっても、家庭的にも職業的にものんびりとした生活を送っている人であれば何ら困らないだろう。しかし、生き馬の目を抜く証券会社のトレーダーマンであればとても困るだろうし仕事が続けられないかもしれない。つまり、それぞれの行動特性を持っている人が「障害」になるかどうかは本人の特性だけで決まるものではなく、本人の特性と生活環境とのマッチングの善し悪しで決まるのである。発達障害的な行動・認知様式の程度が弱ければ障害になるリスクは減るかもしれないが、それでも環境のあり方によっては困難を伴うこともあるのだ。多少老眼が始まっても、毎日大まかな作業しかしていなければ大して困らないが、細かい字を大量に読んだり小さなものを加工せねばならなければ困るのと似た様なものだ。
最近、教師や保育士が「グレイゾーン」なる言葉を用いることがよくある。それは上に述べた様に発達障害と定型発達の間が連続的であることや、障害か否かの境目は環境とのマッチングで決まる相対的で流動的なものであるということが理解しにくいからではないかと思う。このことを理解しないままに病院で診断されたかどうかだけにこだわっていると、現実的な対応をし損ねる可能性がある。発達障害を有する子供達を支援する時にはそれぞれの病型の細かい知識を有すること以上に、発達障害は程度問題であることを認識しておくことは重要ではないかと考える。
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