2014年8月7日木曜日

もし何かあれば

痙攣の既往がある子どもは、学校の水泳で何らかの制限を受けることが多い。自治体によっても差はあるが、ひどい例では幼児期に1、2回熱性痙攣があったと報告した結果、小学校を卒業するまで水泳時に親が監視する様に求められることがあった。「もし何かあれば責任が取れないから。」ということらしい。しかし、幼児期の熱性痙攣既往者がたまたま夏の日の水泳中に(学校の水泳では事前に体温まで確認されている)痙攣を起こす確率など、計算するのもあほらしい位の僅かなものである。プールの排水溝に不備がないか確認することの方が余程現実的である。
 感情の制御が難しい子供が、小学校で激しいかんしゃくを起こし、学校から逃げ出そうとすることがある。そういう時に、複数の教員で取り囲み押さえつけようとしたため、さらに子供が興奮して大騒動というエピソードを耳にすることがある。発達障害児の診療をしていると珍しいことではない。小学生ともなれば、余程知的障害が重い子供でなければ勝手に逃亡させておいても迷子になることもないだろうし、頭が冷えたら戻ってくるか自宅に帰るかするのではないかと思うが、学校の先生達は結構派手な立ち回りを演じることが多い。曰く、「学校外に出て、もし何かあれば責任が取れないから。」
 確かに危険性が0とは言えないだろう。しかし、興奮して暴れている子供を取り押さえることにもかなり危険性がある。勝手に逃亡させておく方が余程安全ではないか。しかも、こういった対処を繰り返すことで子供の自己評価や教師に対する信頼感は低下するだろう。長期的に考えると失うものは多そうである。先に上げた水泳の制限であれば、学校側の責任回避という一点に絞れば失うものはなさそうだが、子供の立場に立てば根拠薄弱な理由で失うものがあるのは可哀想である。多くのことに対して「もし何かあれば」とか、「危険性は0ではない」を根拠にして色々なことが行われる。「放射線の危険性は0ではない」からと非現実的なレベルの危険性しかない地域の住民も避難させ続け、却って震災関連死を増やしたことは記憶に新しい。
 予測できる危険性に対して対策を立てること自体は、言うまでもなく重要なことである。しかし、その危険が現実化する確率はどの程度か、そしてそれによって被る損害は何が予想されるかということを考慮することは大前提だろう。また、何らかの対処を実行する時に、その対処法によって生じる損害は無いのかということも十分に考慮すべきである。リスクに対処する手段はその特定のリスクを回避できる効果ではなく、総体としてどの程度危険性を低下させるかを最も重視すべきだと思う。しかし、現実には特定のリスクだけに注目し、しかも完璧なリスク回避を目指そうとするため、結局トータルでは損失の方が大きいのではないかという事例がやたらと目に付く。そういうお粗末な対応程、「良いこと」をしているのだから批判なんてとんでもない、という圧力をまき散らしている様に感じるのは僕だけだろうか。

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