二十代終わり頃、僕は煙草を吸い始めた。バイクの免許を取り、煙草を吸い、世の平均より10年以上遅くグレ始めたのだ。さすがに誰も相手にしなかったけれど。盗んだバイクに飛び乗ってご町内の窓ガラスを割って回ったりすることもなく、毎日せっせと働き、まあ、おとなしいグレ方であった。この時の喫煙は割と長続きし、5年間くらいプカプカと吸っていた。1日一箱くらい吸っていただろうか。
40歳過ぎた頃にも1、2年間吸い、そして止めた。その後は全く吸っていない。つまり、今まで2回の禁煙をした訳だ。といっても、吸い始めが遅かったためか、そんなに頑張って止めた訳ではない。いずれも、ある日ふと思いたって止めた。止めてしばらくは口寂しい感覚もあったが、さほど辛くもなかった。今、そばで人が喫煙していたら耐えられない程ではないが、止めて欲しいなと思う。乗り物の指定席やレストランの席は迷うこと無く禁煙席をお願いする。おかげで最近は街中で暮らしやすい。この10年、20年程度で、喫煙派と非喫煙派の立場は逆転し、今の日本でヘビースモーカーだと、街の至る所で住み辛さを感じるだろうなと思う。
要するに僕は、「喫煙についてどう思いますか?」と尋ねられた時、「止めた方が良いと思います。」と答える程度には禁煙賛成派である。ただ、昨今病院や大学など多くの公共施設が次々と敷地内全面禁煙を謳い出している風潮には、素直に頷けない。これには二つの理由がある。一つには地域の評判を落とす可能性がある。どういうことかというと、大きな組織程、そう簡単に喫煙者をなくすことは出来ない。そういう人達はどういう行動をとるか。多くは敷地のすぐ外、例えば正門の前などで煙草を吸う。それだけでも結構みっともないが、吸い殻を道路に捨てる人もいて、近隣の苦情を引き起こしやすい。二つ目はもっと問題が大きい。安全性についてである。阻害された喫煙者達は建物の裏やトイレで吸う可能性がある。これは実質的な危険性がある。禁煙ではなく、分煙ではいけないのだろうか。少なくとも現状では、法律で認められた嗜好品である。そこまで徹底的に排除せねばならないのだろうか。喫煙者を減らした方が良いということに異論は無い。しかし、そうであればなおのこと「排除」の姿勢は正しいのだろうか。ニコチンに限らず薬物依存状態にある人に現状から脱するための援助をするのであれば、排除よりも包摂の姿勢が必要だと思う。
かつてグレ始めた前後に、僕は大きな大学病院の小児病棟で働いていた。こういう特殊な病院には特殊な病気の患者が多く入院する。数ヶ月間以上の長期に渉り入院する子どもも多かった。小学校低学年以下の子どもであれば、ほとんどの子どもに親、大概は母親が付き添っている。難病に苦しむ我が子の世話を付きっ切りで行ない、不自由な病棟で暮らすことのストレスは相当なものだろうと思う。当時、深夜に病棟で色々な処置を行なうことがよくあった。処置が済んで医局(医師の溜まり場)に戻る際、僕はエレベーターよりも階段をよく使っていたのだが、病棟の階段の踊り場には灰皿とベンチが設置されていた。深夜の階段踊り場にはいつも数人の患者の母親達が煙草を吸いながら雑談をしていた。僕が通りかかると、「あ、センセ、こんばんは」などと声をかけてくれたりした。喫煙が良いとも思わないが、ストレスに満ちた付き添い生活の中で、子どもが寝静まった後に一服吸いながら他愛無いおしゃべりをすることは随分彼女達の救いになっていたのではないかと思う。僕は約5年間勤めて大学病院を出た。10年くらい他の病院で働いてから再び大学病院に勤め始めたのだが、その時には施設内全面禁煙になっていた。勿論、階段の踊り場には灰皿は無く、ベンチさえも無くなっていた。付き添いの親達は、今はどうやってストレスを軽減しているのだろうか。大学病院に復帰してから、ふと気になることが時々あった。
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