2014年8月2日土曜日

勉強は何故必要か

https://www.facebook.com/amnesictatsu/posts/808707982480626 (2014/6/9) より転載

最近、NHK岡山の特番で、勉強を何故すべきかというテーマで中高校生くらいの子供達と色々な大人達による討論をしていた。食事の後片付けに忙しくしている最中に聞こえてきた話では、どうも子供の多くが「何故勉強をしないといけないのか」、「勉強が何の役に立つのか」と疑問を呈し、大人達が勉強の必要性を述べている様であった。まともに聞いていなかったので、その番組に対する批評というわけではないが、触発されて考えたことを記録しておく。
 少なくとも、現代用いている意味での勉強がア・プリオリに必要なものではないことは明らかである。学習の基本は読み書き計算だが、文字が作られたのはせいぜい5千年前頃であり、数万年に及ぶ人類の歴史に比べれば文字の歴史は遥かに短い。文字が無ければ数学だってほとんど進歩しなかっただろう。つまり、文字の発明以降でなければ勉強する対象さえない。そこまで大層なことを言わなくても江戸時代、ひょっとすると明治・大正時代でさえせいぜい文字の読み書きと四則計算が出来れば上出来と言われながら育った人の方が多かったのではないだろうか。ほとんどの家庭で勉強が大切だと子供に教える様になったのはかなり最近のことだと思う。
 勉強が大切であるという価値観は大人の都合と社会的必要性から出来たはずだ。個人的には学歴が高い程収入が多くなりやすく、社会全体でも教育によって国の生産性が向上するし健康管理も上手くいく。そういったことを人々が長い歴史の中で学習し、教育の重要性が認められてきたのだと思う。だから、個人としての大人も、社会や国も、無条件で勉強は全て大事だなんて思っていない。ある意味御都合主義である。娘が大学へ進学することに難色を示す父親もいるだろう。今政府が進めている国立大学改革なんて経済に貢献しない文系学部よりも理系学部に力を入れようとしているらしい。まあ、それはさておき、勉強が大切だなんて大人が勝手に考えているだけである。しかも、自分の都合に良い様に。そんなことを子供達に懇々と語ったからといって子供が勉強するだろうか。将来役に立つと言われても、来る日も来る日も役に立つ実感を持てないままに学校で暮らしているのに、勉強が大切だなんて思えるだろうか。100歩譲って、勉強が大切であることには同意してくれても、だから猛勉強し出すとも思えない。大人だって、世の中の大切だと認識していることを全てきっちりやっている人なんてとても少ない。
 子供に勉強して欲しければ、勉強が大切だと納得させるよりも勉強することが面白いと思わせることが基本だろう。元々子供達は勉強には魅力があると思っているらしいのである。取り組む価値があると思っている様なのである。何となれば、小学校入学を控えた子供達に「入学したら何するの?」、と問えば、異口同音に「べんきょうする」と答える。せっかくやる気満々で入学する子供達のモチベーションを維持するためには、勉強した後に何らかの満足感が残るようにすべきだろう。そのために何よりも重要なことは「分かる」ということではないか。誰にとっても何かが分かる、理解するという体験は魅力的だと思う。そして、分かった先にはさらに謎が広まることを知った時、その魅力は増していく。勉強をしない子は、「あ!そうか。」と分かる体験を味わえず、勉強をすることの面白さを経験させてもらえなかった、ある意味被害者と言えるのかもしれない。現在の「学年」という縛りに閉じ込めている教育制度では、勉強が苦手な子にも、分かりすぎる子にも、してやれることに限界がある。年齢・学年の縛りを解いて、個々の子供が分かることをもっと重視した教育方法に転換していく必要があると思う。
 話は少し変わるが、冒頭の討論会で子供達が投げかけた疑問の中に、「勉強が何の役に立つのか」というものがあった。これは随分昔からある論点だ。自分が思春期であった40年前でも同じ様な議論が子供と大人との間で交わされていた。繰り返しこの疑問が語られていることから、勉強は「役に立つ」あるいは「役に立つべき」という観念が我々の頭の中に巣くっているようだ。大多数の大人が勉強は役に立つから必要と思っているのだろう。その価値観を子供達も取り入れるため、勉強に疑問を持った時に「いったい何の役に立つのか?」と問うのではないだろうか。そして、ほとんどの大人達は説得力のある説明に失敗する。勉強は本当に役に立つのか、役に立つから大切なのか、と問うた時、答えることは意外に難しい。明確に役に立つと断言できるものは読み書き計算の初歩くらいだろう。それより進んだことを勉強することを「役に立つから」大切だと主張するには無理がある。別に勉強が役に立たないと言いたい訳ではない。そうではなく、どういう勉強が役に立つのか、あるいはどういう状況で役に立つのかを予測することは極めて困難なのである。
 役に立ちそうな勉強の最も分かりやすい例は専門職教育だと思う。例えば医学部で勉強することはこれに該当する。確かに医学部で学ぶことの多くは医師になった時に役に立つし、もっと言えば必要不可欠なものが多い。しかし、これほど単純な事例でもことは複雑である。小児科医として働いていたとしても、医学部の専門課程にないこと(例:文学、哲学、心理学、etc.)を勉強したことが役に立つと感じることは結構ある。本人が自覚していないことはもっと多いのではないか。逆に小児科学の勉強は全て役に立つかと言えば、必ずしもそうではない。典型的なものは、その後の医学の進歩によって否定されてしまうことを勉強した場合だ。この場合、役に立たないどころか足を引っ張ることになる。そこそこ有能な医師でいたければ、日々の臨床の場で目にする問題を整理し、その解決に向けて思考を巡らし、必要な情報を探してくるという営みを繰り返し続けることが重要になる。その時、最も役に立つことは細かい知識よりも、多様で柔軟な思考の方法論であり、必要な情報を探して読み解くためのスキルである。こういったものは医学部の専門課程に用意されたカリキュラムのみで形成される訳ではない。恐らく様々な形での「勉強」を経験する程、高められるのだと思う。
 単純そうに見える専門職教育でさえ、その役に立ち具合は簡単には説明できないのである。ましてや、小学校、中学校、高等学校の時点でどの勉強が役に立つのか、どう役に立つのかなど明確に説明できるはずはない。様々なことを勉強し、頭をフル回転させて考える中で、多様な思考法を身につけ、自ら勉強するためのスキルを磨いて行けるのではないか。そのことが「きっと役に立つだろう」とかなりの確信は持てるが、そんな漠然とした話をされて子供達が納得できることもないと思う。結局話は元に戻るが、子供に勉強をさせるためには「面白い」と思わせることが最も重要だし、少なくとも勉強することで何らかの満足感を感じさせる必要がある。勉強は大事である。子供達が勉強することを促して行かねばならない。しかし、勉強す「べき」だから勉強しろ、ではこちらの期待通りに子供が動いてくれることはなさそうである。
 食器の片付けが終わり、件の番組を見た時にはほとんど終わりかけであった。司会者が、議論の結果考えが変わったかどうか、どのようなことを考えたかという質問をしていた。子供達は素直に議論を通じて何を考えたかを語っていた。彼らは、大人の都合で企画された番組に引っ張り出されたのであっても、自分の考えを述べ、相手の主張に反論し、逆に相手の考えを理解し、新たな自分の考えを組み立て主張していた。恐らく、そうやって考え、答えを見つけようとし、見つけたと思ったらさらに分からないことが増えていたのだろう。もし彼らがその営みに面白さを感じたのであれば、それが勉強することの楽しさだと思う。そういう意味では、この討論会は教育的だったのだろう。
(以上で終わるつもりだったが、追記。僕は教育の専門家ではないものが教育を語ることには注意が必要だと考えている。言うまでもないが、この駄文も非専門家が客観的根拠なく述べたものである。正しいかどうかを検討する程の価値もない文章であると、言い訳がましく述べておく)

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