2026年5月5日火曜日

アセスメントとは

  このシリーズは「アセスメント」をテーマとして取り上げてきました。アセスメントとは一体何でしょうか。いくつかの英和辞典を”assessment”で引いてみると、「意見、判断、評価、査定」などの訳語がつけられています。ついでに国語辞典で「アセスメント」を引くと、「評価、査定」などの語釈が載っています。まあ、要するに「評価」といっておけば良いのではないかと思います。この「学校園でできるアセスメント」シリーズの中でも「アセスメント」と書いてみたり「評価」と書いてみたり、表記がブレブレです。さて、私の個人的経験からは、教育畑や心理関係の人は「アセスメント」という片仮名言葉を使うことが多いような気がしています。そのことにどういう意味があるのか、実は私にはわかっていません。でも、「学校園でできる」ということを意識して、学校の先生方の真似をして片仮名の「アセスメント」をタイトルに入れてしまいました。でも、文字数節約のためにこれ以降は「評価」を使います

 さて、アセスメントでも評価でも良いのですが、これは何を意味しているのでしょうか。「観察する」ことと「評価」は違うのでしょうか。評価も観察の一種と言えそうですが、観察の方がより漠然とした印象があり、評価には何やらきちっとした印象があります。「しっかり観察する」や「よく見る」よりも「評価する」ことの方が何か具体的な意味が付加されているように思います。私なりに評価とは何ぞやということを考えてみました。

 まず思い浮かぶことは、評価項目、つまり何を評価するかということが具体的に定義されているということです。身長や体重、知能、視力など、評価するものが明確です。医師の診察も一種の評価であり、やはり具体的な評価項目が決まっています。例えば、呼吸音や心音、腹部や顎下頸部の触診、眼球結膜、口腔および咽頭粘膜、などなど。医師の専門性によってもその組み合わせは変わりますし、患者の主訴によっても評価項目の力点の置き方が変わります。多くの場合、改まって評価するという場合、評価項目は複数あります。

 次に必要なことは、個々の評価項目を定量する、あるいは分類するための尺度の存在です。視力や体重など、連続変数で表せるものもあります。顔色や発疹、奇形などは連続変数として測定することはできませんのでカテゴリーを定義して分類するということになります。もちろん、発疹は分類した上で大きさや数を測定することもありますので、同一評価項目に対して評価尺度は1種類とは限りません。子供の書いた文字なら「読める」「読めない」の2カテゴリーかもしれませんし、「読めるし上手」「かろうじて読めるが下手」「なんの字か推測できるが不正確」「全く読めない」の4カテゴリーに分けても良いかもしれません。

 評価項目を特定し、どのような尺度で評価するかが決まれば、次いで必須の要素は観察条件や評価方法です。血圧なら朝起床後1時間以内に安静状態にして上腕部で測定するとか、血圧計は何を用いるのかとか。知能の評価ならどのような部屋で、どの種類の知能検査を用いるかを考えなければいけません。授業中に見られがちな問題行動であれば、当然授業中に教師自身、あるいは参観者が観察するのが自然です。前回書きました様に、ターゲットとする問題行動を具体的に規定する必要があります。行動が生じる前の状況、生じた後の状況を合わせて記録する、といった具体的な観察方法を考えておく必要もあります。

 単なる観察ではなく評価と称するからには以上の観点が欠かせません。では、評価項目、尺度、観察条件と評価方法が決まれば評価は成立するのでしょうか。とんでもありません。これでは最も重要な要素が欠けています。何の問題もなく幸せに暮らしている通りすがりの人を評価しようと考える人はほとんどいません。評価をする前提として、まずは問題意識や目的意識が存在するはずです。学校で考えれば、生徒を成長させたい、生徒が困っている、周りの人々が困っている、などの背景があり、状況を改善するために何らかの手を打ちたい、というときに人は評価することが必要だと考えます。問題を解決するために、あるいは目的を達成するためにどのような手を打つかという具体的対処方法を計画することと評価は密接に結びついています。目的別に考えるとどのような評価があるでしょうか。

 まず思いつきやすいことは現状を把握するための広範囲の評価です。現状で、何がうまくいっているのか、そして何がうまくいっていないのかを明らかにするための評価です。問題を特定することや目標設定をすることのために行います。学校で行われている学力評価などはこのような性質のものではないかと思います。評価の性質上、評価項目が多くなります。したがって、非常に手間がかかることになりやすいです。また、特定の対象をピンポイントで評価するわけではありませんので、個々の評価項目に関しては手間の少ない大雑把な評価方法を使いがちで、結果の解釈が曖昧になりやすいです。また、何を目的として現状を評価するのか明確にし、評価対象者の属性、例えば年齢などを十分に考慮して評価項目を決定する必要があります。子供の学力が伸びているかどうか知りたいのに生活の質(QOL)の評価をしても検討はずれですし、小学校1年生に5年生用の学力試験を行なっても得るものはありません。

 問題の原因や発生機序を明らかにするために行う評価もあります。問題解決(何らかの指導目標達成も含めて)のためにはどのようなプロセスが必要でしょうか。問題を具体的に特定することが最初に行なうべきことです。ふわふわと「何だか困りました」と思っているだけでは前に進めません。いつ、どこで、何をしているときにどの様にうまくいかないのかということを、日常生活全体を見渡しながら具体的に状況を整理します。問題を感じる状況を具体的に整理できれば次になすべきことは、何が問題を生じさせているのかについて仮説を立てることです。そこに辿り着くことができれば評価の出番です。仮説に関連した変数を評価の対象とするのです。例えば、全般的に理解が悪いのではないかと考えれば知能検査を計画することになります。文字の読みが下手なのではないかと考えれば読字能力の評価をすることになります。問題を具体的に絞り込めるほど、そして可能性のある仮説を明確に用意できるほど、評価は効率の良いものになります。

 問題の原因や発生機序に関する仮説を立て、それを評価で裏打ちできたのであれば、その仮説に基づき対処方法を立案することになります。計画された対処方法が有効なものであったかどうかを検証するときにも評価が必要になります。そのときに重要なことは、対処によって何を目標にするのかを具体的に設定することです。読める文字を増やしたい、3、4位数の乗除の筆算を解けるようにしたい、授業中の立ち歩きを減らしたい、などと具体的な目標を決めることでそれに応じた評価項目が自ずと決まります。

 さて、以上が私の考えるところの評価です。このような考え方が妥当であるならば、評価というものは基本的に現実を具体的に把握することで問題そのものや問題が生じる状況を整理し、そこから問題が生じる原因や機序を想定した上で、具体的に設定された目標に向けてもの事を進められるように、具体的に計画された対処方法を実行するという一連の過程の補助となるものです。常に補助的役割しか担いません。評価よりも先に、現実の子供をしっかりと観察し、問題を整理し、目標を設定し、計画を立てるという営みの中で必要に応じてより緻密な評価がなされるべきものだと思うのです。バランスを考えることも重要です。精密な検査をすることにこだわって時間がかかりすぎたり子供の負担や経費が大きくなったりすれば、評価をする相対的な価値が下がります。また、問題を具体的に把握できていない状況や、問題にしか目がいかずなぜそのような状況に至ったのかを分析推理しようとする意思がない時や、評価結果をどのように利用するかという評価後の具体的計画がない状態では、評価は成り立たないし意味を持ち得ないのです。評価、すなわちアセスメントは漫然とするべきものでは無いということを強調したいと思います。

 最後に、知能検査について私が考えていることを書いておきます。WISC-5などのフォーマルな知能検査は多種類の評価項目から構成され、結果も複数の指標が算出されます。そのため、現状を広範囲に評価できる、あるいは問題の原因や発生機序を明らかにすることができると思われがちです。しかし、実際にはそれほど多くを期待できる検査ではありません。一言で言えば全般的な知能レベルを知ることができるだけと考えておくのが妥当です。現状を広範囲に評価できるわけではありません。社会性や行動特性の特徴を明らかにすることはできませんし、学業成績との大まかな相関はあってもどの教科のどの単元が強いとか弱いとか細かく具体的な評価はできません。問題の原因や発生機序に関しても、日常生活での詳細な観察を通して立てられた仮説と検査結果との間に矛盾がなければ仮説の正当性が強化できるという程度です。皆さんがよくご存知のワーキングメモリーを例にとれば、WISCでワーキングメモリー得点が低くても日常生活では結構人の話を確実に聞き取れていることはしばしばありますし、その逆もあります。言語理解得点が高い割に、日常生活では人の言葉を正しく理解できていないことが多いという場合もあります。WISCをすればこそ立案できるし、WISCなしでは成し得ない具体的な支援計画なんてものはほとんど存在しないのではないかと思います。

2026年5月3日日曜日

問題行動(行動問題、チャレンジング行動)

  今回は、いわゆる問題行動と言われている子供の振る舞いの評価について説明したいと思います。ここでいう問題行動は、集中の難しさ、立ち歩き、かんしゃく、暴言、暴力などを含みます。最初に指摘せねばならないことがあります。それは、一般的に問題行動は適応的行動と考えられているということです。つまり、その子供が置かれた生活環境の中で自分が必要なものを何とか手に入れることや、耐えられない状況から何とか逃げ出そうとするための止むに止まれぬ行動であり、本人が何とか編み出した適応的な行動なのです。そう考えると、その振る舞いがいかに不適切かと説教することで解決することが非常に難しいことがわかります。止むに止まれぬ行動であり、その子供にとっては辛い状況を脱する手立てが他にないのですから、そうそうやめるわけにもいきません。子供の不適切な行動、しかも、繰り返し生じる行動への対処の基本は、そのような行動を取らずにはいられない苦しみから解放することです。その子供にとって必要なものをいかに与えられるか、その子供にとって堪え難い苦痛からいかに解放するか、ということが対策の主眼となるのです。これらのことを念頭に、「問題行動」という用語の代わりに「行動問題」とか「チャレンジング行動」という用語を推奨する人もいます。ただ、現状では通りが良いので、この文章では「問題行動」という言葉を採用しています。

 以上のことを前提として、問題解決に向かうための問題行動のアセスメントはどのように進めたら良いでしょうか。一言で言えば、その行動を起こすことで子供が何から解放され、何を得ることができるのかを見つけるためのアセスメントが必要です。そのためには、問題行動そのものだけに注目していてもあまり得られるものはありません。では、何に注目すれば良いのでしょうか。

 問題行動に限らず人の行動は基本的に環境に左右されて決まります。いや、人は自分の意思に基づいて行動するはずだ、と疑問を持たれる方も多いかもしれません。中には「俺の取る行動は全て俺の自由意志に基づいている!」と強く主張される方もいらっしゃるかもしれません。そのような方を論破できる力は私にはありません。ただ、現実場面で人を指導する時、好ましい行動を取るように指導するにせよ、好ましくない行動を減らすように指導するにせよ、行動は環境によって規定されているという前提を持って指導計画を立てるとうまく行くことが多いのです。ということは、問題行動のみに目を向けるのではなく、その行動をとった子供がどのような環境に置かれていたのか、ということを知る必要があります。この文章では、その立場から問題行動をアセスメントする方法を説明します。

 まず、アセスメントの前提として、教師や保育者が問題と感じている行動を具体的に規定する必要があります。ルールを破る行動とか、わがままな行動とか、規律を乱す行動、などのように漠然とした捉え方ではいけません。友達の気持ちを考えないとか、努力しないとか、我慢が足りない、などのように目に見えない内面を取り上げることはもっといけません。極めて具体的に、かつ自分の目で確認できるように規定することが必要です。例えば、友達が使っているおもちゃを無理やり取り上げるとか、先生が説明しているときに大声を出すとか、授業中に席から立って歩き出す、のような形で規定する必要があります。その説明を他の先生に口頭で伝えたとき、相手が自分と同じ行動を思い浮かべられるように説明できたなら、具体性が高いと言えます。同じ子供に複数の問題行動が見られることがよくありますが、同時に全ての問題を解決しようとすると失敗します。まずは一つか二つの行動に絞ってアセスメントし、その対策を練ることをお勧めします。その際、どういう観点で絞れば良いでしょうか。自然な発想としては、本人ないし周囲の人々への影響が大きい、より深刻な問題から選ぶという方法があります。しかし、長期間にわたり先生が苦労して対処しているのに問題だらけ、という状況では、最も深刻な問題を変化させることは並大抵の努力では難しいです。「これならなんとか変えられそうだな」と思える、本人にとっても先生にとってもハードルの低い問題に絞ることが良い場合が結構あります。ささやかなことであっても、良い方向に進めることができたら子供本人も先生ご自身も自信がつきます。新たなことに挑戦しようという元気が出てきます。

 対象となる問題行動を具体的に決めたらアセスメントを開始しましょう。まず評価すべきことは発生回数あるいは発生頻度です。これは単なる私の偏見のような気もするのですが、保育者や教師の先生方はあるかないか、解決したか解決しないか、という1か0かの思考をする傾向が強い人が多いような気がします。しかし、生物が起こす現象に有るか無いかだけで変化するようなものは少ないです。紆余曲折しながらも次第に減少するとか増加するといった変化を示すものが多いです。生徒(いうまでもなく生物です)の行動も、ゆっくりと変化することは多いです。その動きを確実に把握するためにはできるだけ定量的に評価しておく必要があります。発生数が多くていちいち記録できない、というような場合でも半定量的な把握は可能です。例えば、1回の授業あたり数回か、数十回か、1日に数回か、週に数回か、くらいの把握をしておくだけでも変化を捉えられることが多いです。なお、週に数回程度の現象であれば、スキャタープロット(図6)に記録しておく方法があります。問題行動を観察した時間にチェックを記入するだけなので簡便ですし、次に記載するような行動の発生要因を深掘りする際にも役に立ちますので、お勧めです。

 問題行動の頻度を把握することと並行して行うことは、その行動が生じる環境のアセスメントです。頻度の把握と異なり、一つ一つのエピソードの評価が原則です。環境の特徴を把握するためのポイントは、問題となる行動が生じる前の状況と、行動が生じた後に見られる変化です。環境を分析する際に収集すべき情報は客観的に五感で確認できる事実のみです。その子供は〇〇君にライバル意識を持っていたとか、家庭では親があまりその子供に温かい接し方をしていないというような客観的な根拠がない情報を紛れ込ませないように充分気をつけるべきです。観察された事実を明確にし、自分の主観を紛れ込ませない態度が必要です。もう一点、把握できた事実は、必ず記録に残しましょう。図7に示したようなカードをあらかじめ用意しておくと良いかもしれません。頻度が高くて全ての詳細な記録が難しい場合は、前後の状況をしっかり把握できているエピソードのいくつかについて記録するだけでも役に立つと思います。

 問題となる行動の前に見られる状況についてはざっくりと2つのポイントを明確にしておく必要があります。第1は、ある程度時間の幅を持たせた事実です。いつ、どこで、何をしていたか、周囲には誰がいたか、といったことなどです。時間の幅には明確な縛りはありません。具体的に分かれば朝からその時までどのような経過があったかを記録しておいても何かの役に立つかもしれませんし、さらには過去半年間を視野に入れても構いません。例えば、2ヶ月前から明確に問題が増えたという事実があるのなら、2ヶ月前にどのような環境変化があったのかを探ることでヒントが得られるかもしれません。しかし、事細かに記録することには限度がありますので、そこは臨機応変にしてください。少なくとも、学校でのことなら問題が生じた時の授業または休み時間内のことはできるだけ詳しく記録に残しましょう。保育園や幼稚園なら問題が生じたときにしていた活動内容や場所、周囲にいた人(当然、担任の先生自身も含まれます)を具体的に記録します。行動の前に見られる状況の第2のポイントは、行動が生じる直前に起こった事象です。つまり、直接のきっかけに見える事象がなかったかということを把握できる限り明確にしておきましょう。例えば、先生が計算の間違いを指摘した、隣の子供がつっついた、全員が一斉に起立して椅子を引く音が鳴り響いた、という様なことです。
 事前の状況を具体的に把握することで、問題が生じやすくなる環境条件や問題を引き起こす直接的な要因に気付けることがあります。例えば、算数の時間が妙に多ければ、算数の授業という環境がその子供にとって適応しづらいものなのかもしれません。説明されていることの意味が理解できないとか、逆に簡単すぎて退屈すぎるとか。給食の時間になると揉めやすいのであれば、ひょっとすると感覚過敏があり臭いがその子供の不快感を高めているのかもしれません。また、先生の注意や叱責をきっかけに問題が生じるのであれば、否定的な言葉がけへの耐性がないのかもしれません。就学前か就学後かに関わらず、事前の要因としてしっかり吟味しておくべきことは活動や課題が本人にとって適切なレベルかという点です。活動や課題内容が本人にとっては難しすぎる、多すぎる、あるいは簡単すぎる(退屈)、ということが問題行動に結びついていることは驚くほど多いです。先に触れたスキャタープロット(図6)は事前の状況を分析する際に役立つ情報を提供してくれることが多いです。

 行動が生じた後の変化について具体的に把握すべきことは、事態が完全に鎮静するまでに本人及び他の人のとった行動です。他の人の行動はその場にいた全ての人の行動です。当然、その場にいたのなら教師や保育者自身の行動も含まれます。先に、問題行動は一般的に適応的行動と考えられると述べました。つまり、その問題を起こすことで子供自身が、最適な形とは言えないし一過性かもしれないけれども、苦しい状況から救われるのです。行動が生じた後の周囲や本人の変化を把握することは、その行動が持つ子供にとっての意味を推測することにつながります。その行動が具体的にどのような成果を子供にもたらすのでしょうか。多くの場合、要求が通る、嫌なことから逃げられる、人からの注目、のいずれかです。少し質の違うものとしては感覚刺激への欲求というものもあります。皮膚を掻きむしる、自分の頭を繰り返し叩く、などの自傷行為の一部(全てではありません)は特定の感覚刺激への欲求によって維持されます。これは他者を巻き込む騒動になることは少ないと思いますが、先生がやめさせようとして細かく叱り続けると騒ぎが大きくなるかもしれません。

 要求が通ることの例は子供同士の関係性ではしばしば見られます。かんしゃくや暴力によって相手が使っているおもちゃを取り上げる、自分がしたい遊びに無理やり参加させる、といったことなどです。2、3歳児なら普通に見られる現象ですが、年中、年長クラスの子供や小学生であれば適切な言動で他児とうまくコミュニケーションを取ったり良い関係を築いたりすることが難しいという本人の特性が背景にあることが多くなります。そう考えると支援の糸口が見えてきます。嫌なことから逃げられる例としては、授業中に大声で騒ぎ回り授業を中断させるとか教室から追い出されるというような展開があるとき、その授業が理解できず苦痛に満ちていた可能性が考えられます。授業中に素っ頓狂な発言をしがちな子供は、自分の言動で周囲の子供達が笑いながら自分に注目していることがポイントかもしれません。人の注目を集めるための言動でわかりにくいものは、叱責されることです。相手が親や大好きな先生の場合、叱責されていることが本人にとっては注目されているという意味を持つことがあります(多くの場合、本人には意識はされていません)。このような場合、叱ることで問題行動を定着していることになります。

 この話は以上です。生徒の問題行動に頭を悩ませている先生は、是非ともこれらの観点を意識したアセスメントをしてください。これだけの情報を揃えることで、この分野に詳しい人に助言を求める際に有益な回答を引き出しやすくなりますし、先生ご自身の子供の行動を見る目が広がっていくと思います。最後に、問題行動への対処には応用行動分析の知識が有用であることを付記しておきます。興味のある方は、応用行動分析について解説した書籍がたくさん刊行されていますので、それらのいくつかを手に取ることをお勧めします。

「学校園でできるアセスメント」:目次







2026年5月2日土曜日

算数の問題

  昔から、勉強の基本は読み書き計算と言われています。これは今でもそう変わっていないのではないでしょうか。読み書き計算がしっかりとできていれば、国語や算数以外の勉強を発展させることができます。逆に、読み書き計算で大きく躓けば、国語と算数にとどまらず、他の教科でも早晩うまくいかなくなることが予測できます。したがって、学習に関する問題では最初に読字の問題について取り上げました。当然、次に進むべきは算数の問題だろう、ということになります。しかし、困りました。算数能力の評価と言いましても、算数にはとても多くの要素が絡んでいます。とても私なんかに解説できる代物ではありません。よわった、よわった、と唸っていると良いアイデアが浮かびました。「そうだ、学校でもできるアセスメントを書いた良書を紹介してお茶を濁そう!」

 早速良い本を紹介するとしましょう。まずは、「読字の問題」でも紹介した稲垣真澄先生たちのチームによる「特異的発達障害診断・治療のための実践ガイドライン―わかりやすい診断手順と支援の実際―」[1]です。この本には、読字能力の評価法だけではなく、算数に関わる力の評価方法が記載されています。この本に記載された算数関連の評価は大きく分けて(1)計算障害の評価と(2)算数思考課題から構成されます。(1)にはI. 数字の読み(4桁までの数字呼称)、II. 数的事実の知識(一桁の数の加減乗除)、III. 筆算手続きの知識(筆算による加減乗除)が含まれ、それぞれ正誤の判定と回答までにかかる時間が評価されます。(2)には集合分類、集合包摂、可逆の評価が含まれます。

 次に紹介する書籍は熊谷恵子先生と山本ゆう先生による「算数障害スクリーニング検査: 適切な学習指導は正確なアセスメントから」[2]です。カバーする範囲は稲垣先生らの本と大きくは違いません。ただ、特に就学前から小学校算数の初期にかけて細かく評価できるように考えられています。同じ著者らによる「通常学級で役立つ 算数障害の理解と指導法」[3]も併せてお薦めしておきます。[2]に比べて支援の工夫についてページを多く割いています。

 アセスメントというテーマからは外れますが、算数教育に関連してぜひ紹介したい本がもう一冊あります。河村 暁先生による「数量処理とワーキングメモリから読み解く… 教室の中の算数障害 認知の視点でつくる教材と学習支援」[4]です。認知科学的な視点から、算数で躓く子供のベースにはどのような特徴があるのかを事細かに解説しています。また、現場でどのような工夫ができるのかということについても沢山提案されています。

 さて、4冊も素敵な書籍を紹介したので、この節はここで終わっても良いのではないかと思います。終わっても良いのかもしれませんが、駄文を重ねたいと思います。もう少し、お付き合いください。これらの書籍の中に記述されていることではあるのですが、小学校の先生に特に意識していただきたいことを指摘しておこうと思うのです。それは、最も基本的な段階で躓いていることを見逃され続ける子供の存在です。正確な頻度は把握できていませんが、決して稀ではないと考えています。少なくとも、私の外来ではしばしばお目にかかります。

 熊谷恵子先生と山本ゆう先生[2][3]によれば、算数障害は(1)数処理、(2)数概念、(3)計算、(4)数的推論(文章題)という4つの領域に整理されます。この4つの領域は、おおよそこの順番で子供が算数を習得する過程となります。(1)数処理は、数詞、数字、具体物の対応関係の理解です。(2)数概念とは数における性質を理解することで、順番を表す序数性の理解と量を表す基数性の理解という2つの側面があります。(3)計算は加減乗除とそれらの筆算の理解です。そして(4)数的推論には問題をイメージに置き換える統合過程と立式するプランニング過程が含まれ、これらの前後に読字読解能力と計算能力も必要となります。このうち、(2)の数概念が習得できているかどうかは分かりにくいのです。(1)から(4)はおおよそこの順番で習得されると申しましたが、(2)が不完全であっても(3)計算を手続として行えることがあります。そのため、数概念の理解が不十分なまま見逃され続け、学年が上がっていく子供たちがいます。習っている学年相当の課題に一見取り組めているので、多少躓いても努力で切り抜けられると判断されやすいのです。しかし、基本的な数概念が習得できていなければ、簡単な計算のうちは計算の意味が心底腑に落ちていなくても操作手順を覚えることでなんとか誤魔化せますが、しばらく同種の問題に取り組んでいないと解き方を忘れてしまい手に負えなくなります。

 1年生から2年生にかけて徹底的に確認しておくべきことは数概念(序数性と基数性)がしっかり身についているか、ということです。もちろん、それ以前に数処理が確実にできているかということは重要です。しかし、これは割とわかりやすいと思います。数を唱えさせる、物を数えさせる、数字を読ませる、数詞に応じた数字を書かせる、などの活動をする中で、身についていない部分はすぐに明らかになるでしょう(とはいえ、個別に確認する機会を設けたほうが良いでしょう)。数概念、特に基数が身についているかどうかは通常の算数指導の場ではわかりにくいため、あえて確認する必要がありますし、そのための方法を知る必要があります。

 数概念については、1年生の前半では10までの数を、後半に向かって120程度の数を把握できているかについて評価していくことになります。それぞれのレベルにおいて、序数性と基数性の両面の理解を確認していく必要があります。また、基数性に関連して分離量の理解だけでなく、連続量の理解に繋がっているかも確認していきます。序数性を理解するということは、数が系列であって順序を表しているということを理解することです。序数の理解の確認は数を正確に唱えられるかどうかを見ることが基本です(図4の問1)。10までは正しく唱えられても、二桁になると順番が怪しくなる子供がいます。数を唱えることができたら、数と数の順序関係を把握できているかどうかを確認する必要があります。二数の大小関係を確実に答えられるかを確認する方法もありますし、図4の問2のような数列の穴埋めをさせるという方法もあります。

 基数性を理解するとは、数を量として把握できることです。もっとも基本は、具体物を数え上げたときに最後の数がそこにある物の量を示しているということを理解しているということです。例えばおはじきを「1、2、3、4、5、6」と数えたら、そこにはおはじきが6個あると、まとまりあるいは量として把握できることです。これがしっかりと把握できていない子どもは、10個のおはじきを順次数えることができても「おはじきを10個ちょうだい」と言われると正しく渡せないことがあります。この感覚は、分離量にとどまらず、連続量にも拡張します。連続量として把握できているかどうかを確認する方法として数直線を用いる方法があります。図5の問1のように数直線上の任意の位置が幾つに相当するかを答えてもらったり、問2のように任意の数に該当する数直線上の位置を答えてもらったりします。また、図5の問3のように、ある長さの直線が特定の数に対応するとき、別の数に対応する直線を書かせるという方法もあります。序数性が身についている子では大小関係を間違えることはありませんが、比率としてはかなり出鱈目な直線を引いたりします。例えば問3の1)で、3に対応する直線として1に書いてある線よりかろうじて長めの線を描いたり、5倍近い長さの線を描いたりします。

 数概念が十分に身についていないまま九九や筆算に取り組まされ続ける子供達が思ったより多いということを小学校の先生方には意識していただきたいということを強調して、この項は終わろうと思います。


参考書:

[1] 稲垣真澄(編集代表)、特異的発達障害の臨床診断と治療指針作成に関する研究チーム(編集)「特異的発達障害診断・治療のための実践ガイドライン―わかりやすい診断手順と支援の実際―」診断と治療社、4,180円

[2] 熊谷恵子、山本ゆう「算数障害スクリーニング検査: 適切な学習指導は正確なアセスメントから」Gakken、2,860円

[3] 熊谷恵子、山本ゆう「通常学級で役立つ 算数障害の理解と指導法」Gakken、2,200円

[4] 河村 暁「数量処理とワーキングメモリから読み解く… 教室の中の算数障害 認知の視点でつくる教材と学習支援」明治図書出版、2,266円



2026年4月29日水曜日

Response to Intervention/Instruction (RTI)モデル

  特別支援教育は、障害のある幼児児童生徒を念頭に置いた制度です。必ずしも医療機関での診断を求めるものではありませんが、想定された障害種は医学的な診断概念に基づくものです。学校生活で何か問題があるときは然るべき医療機関を受診し、専門的な評価を受け、そこで出された結論に応じて配慮するという流れが一般的です。しかし、専門的な評価が可能な医療機関は限られており、仮に診断が出るにしても早くても何か月も先、地域によっては1年くらい先になります。その間、意味のある支援を受けることができないまま放置されるのであれば、あまりにも時間を無駄にしていると言えます。とりわけ、学習面で躓いていると、教えられる内容はどんどんレベルが上がっていきますので、仮に診断後に適切な支援を受けることができたとしても遅れを取り戻すことが大変困難になります。このことへの反省に基づいてアメリカで始まった考え方がResponse to Intervention/Instruction (RTI)モデルです(図3)。

 RTIモデルとは、科学的な根拠に基づいた妥当性のある指導を行い、指導に対する反応を踏まえて指導の頻度や内容を変えて行く予防と介入の支援モデルです[1]。通常RTIモデルはすべての児童を対象とする指導を第1層とし、捕捉的な指導を行う第2層、より高レベルの指導を行う第3層で構成されます。アメリカでは、このRTIモデルに基づいた段階的な指導が行われても十分な改善が得られないことを学習障害診断の条件としているそうです。つまり、病院などの特殊な専門機関で特別な検査をした上で診断し、それから支援を開始するのではないのです。必要な支援をさっさと始める義務が学校側にあるのです。そして、アメリカでの目安として、第2層支援の対象が全体の20-30%、第3層支援の対象が5-10%と言われています。

 さて、上に引用した関あゆみ先生の論文によりますと、日本で実践されているRTIモデルによる読字支援の代表的なものは、すでに前節で紹介した「T式ひらがな音読支援」[2]と「多層指導モデルMIM」[3]です。どちらも実績のある良い方法です。特に強調したいことは、いずれもRTIモデルとして作成されていますので、個々の指導やアセスメントの技術のみならず、すべての生徒を対象として読みが苦手そうな子供を抽出し素早く支援するための枠組みを提供しています。「T式ひらがな音読支援」は書籍が安価ですし、第1段階の解読指導に限れば104枚のカードを用意するだけですので準備が簡単です。今まで読字困難児への対応を経験したことがなかった先生にはとっつきやすいかもしれません。MIMは1セットが2万円近いので個人で手をつけるには勇気がいるかもしれません。学校全体で導入される方が良いでしょう。とはいえ、技術的な難易度が高いわけではありません。むしろ、日頃子供達の指導に携わる教師の皆さんであれば取り入れやすい内容だと思いますし、T式に比べて複数の子供を対象に指導しやすいのではないかと思います。T式がまず解読指導、続いて語彙指導、の流れになっているのに対して、MIMは最初から単語単位のまとまり読みも意識された構成になっています。どちらか単独でということではなく、T式とMIMを併用することも可能だと思います。

 RTIモデルでは、すべての子供を対象としていることが重要です。文字の学習に沿って言えば、第1層支援は通常の国語の授業ということになりますが、すでにこの段階で読みの苦手な子供の存在を念頭に置いたプログラムをすべての生徒を対象に施行する場合もあります。MIMではそのような指導方法が用意されています。そして、ある程度学習がなされた段階で全生徒にスクリーニング検査を行い、読字の困難さが疑われる子供を抽出し、補足的な指導を行います。これが第2層支援です。第2層支援がしっかり行われた状況で改善度を評価し、第2層支援のみでは改善が不十分な子供を対象に第3層の濃密な指導を行います。第2層支援を必要とする子供を抽出するためのスクリーニング検査はすべての生徒を対象に行うことが重要です。たまたま教師の目についた子供だけを支援するのではなく、すべての生徒の中から支援が必要な子供をもれなく見つけ出すことが重要なのです。そのために、T式ひらがな音読支援でもMIMでも、短時間にクラス全員の評価が行えるようなスクリーニング検査が用意されています。なお、前節で説明しました解読指導用のフラッシュカードを用いた評価方法は時間がかかりますので、クラス全員のスクリーニングには適していません。本格的にRTIモデルを実施するためには、それぞれの書籍に記載されているスクリーニング法を用いて書いてあるスケジュールに沿って評価を進めることをお薦めします。

 私達の診療場面では、基本的な読字能力、しかも平仮名を読む力が不十分なまま支援を受けることなく学年が上がっている子供がとても多いという印象を持っています。読みが拙いことに気づかれないままに何度も長文を読まされることによってすっかり自信を失ったり読書や勉強をひどく嫌ったりし出した子供達を大勢目にしてきました。RTIモデルの重要性は、すべての生徒を対象に支援が必要な子供を早く見つけ出し、速やかな支援を提供できるという点にあります。この文章を読まれた、特に小学校教師や教育行政に携わる先生方にはぜひ、学校全体あるいは地域全体でのRTIモデルの構築を目指していただけないかと願っています。なお、付け加えておきますが、RTIモデルは読字の指導だけに限られた考え方ではありません。例えば、主として行動の問題への対応としての取り組みとしては学校規模ポジティブ行動支援(SWPBS)[4]というものがあります。参考になさってください。


参考書:

[1]関あゆみ「Response to instruction (RTI) モデルによる読みの支援:米国における縦断研究の動向と日本における取り組み」発達心理学研究 33 (4): 314-324, 2022

[2] 小枝達也、関 あゆみ「T式ひらがな音読支援の理論と実践ーディスレクシアから読みの苦手な子まで」中山書店、3,850円

[3] 梅津亜希子「多層指導モデルMIM読みのアセスメント・指導パッケージ つまずきのある読みを流暢な読みへ」Gakken、19,800円

[4]若林上総、半田 健、田中善大、庭山和貴、大対香奈子「学校全体で取り組む ポジティブ行動支援スタートガイド」ジアース教育新社、2,420円


2026年4月25日土曜日

読字の問題

  この項では基本的な読字能力がどの程度習得できているかについてのアセスメント方法を説明します。最初に強調したいことがあります。それは、「本を読めない子供は文字が読める」ということです。文字を読むことが非常に難しい人のために医学が用意した診断名に発達性読字障害(ディスレクシア)というものがあります。限局性学習症(「学力の特異的発達障害」または「学習障害」ともいう)と呼ばれる概念の中に含まれます。厳密な評価を経て発達性読字障害と診断された人でも、その多くは文字が読めます。中には、ほとんど読めない人がいないではないのですが、それはむしろ珍しい状態です。特に、日本語の仮名文字はアルファベットに比べて文字と音との対応が単純なので、相当読字の下手な人でも仮名文字は一応読めるようになりやすいのです。診断されるレベルの人でさえ読めるのですから、診断されるほどではないけれども文字を読むことが難しい人達(とても多い)は文字が読めます。

 発達性読字障害を含めて文字を読むことが苦手な人達のほとんどは、文字が読めないのではなく読むことにひどく努力が必要なのです。そのような状態では、とりあえず文字を読めても文章の内容が理解しにくくなります。外から見ると、読解力が弱い状態に見えます。しかし、読字能力が低いために文章の内容の理解が難しくなっている子供では、読んで聞かせるとよく理解できます。算数の文章題が極端に苦手な子供の一部は読字能力が低い子達が占めています。このような場合、問題を読んであげれば正解を出すことができます。なんとか内容を理解できる人でも、文字を読むことに苦痛を感じ本嫌いになります。文字はほとんどの学習のベースになっています。したがって、文字を読むことの苦手な人は広く学習することが難しくなります。文字は一応読めているから大丈夫だろうと軽く考えていると、大きな落とし穴が待っていることになります。文字を読むことが下手な子供たちを早く見つけ適切な指導を講じることは、1人の子供の将来を大きく救うことになりますし、子供達全体の学力レベルを改善することにもつながるのではないかと思います。

 読字能力の習得の段階を簡単に説明すると、まず、多くは4歳頃までに文字に興味を持ち、何か言葉を表しているのだという文字の意味に気づくようになります。並行して、言葉が音の単位(音節、母音、子音など)の組み合わせでできていることを認識するようになります。ついで、文字と音との対応関係を習得します。これには二つの段階があります。多くの子供は5歳過ぎから就学頃までに文字と音の変換ルールが定着します。「か」を見れば/ka/と読むことがわかるということです。さらに、8歳頃にかけて文字-音変換の自動化が進むとともに複雑な読み(拗音や促音など)のルールが定着していきます。変換の自動化とは、文字を見たときに全く努力せずに反射的に音が浮かぶようになることです。一通りの変換ルールが定着した8、9歳以降は、1文字ずつ認識するのではなく、語彙単位で読む力(まとまり読み)が伸びていきます。一般的な年齢の目安を書いていますが、これには個人差がかなりあります。もちろん、平仮名が読めるようになることに並行して片仮名の学習や漢字の学習へと広がっていきます。以上のプロセスの中で特に見過ごされやすいのが平仮名読字の自動化が不十分な状態です。このようなレベルでは、一見読めているのですが読むことに努力を要します。そのため、書いてある内容を素早く理解できませんし、文字を読むこと、ひいては書くことが非常に苦痛になります。本節では、文字と音との対応が成立しているかどうかと、平仮名読字の自動化ができているかどうかの段階に絞ったアセスメントについて説明します。

 現在、日本の医療機関で発達性読字障害を念頭に置いた日本語読字能力の評価としてよく用いられている読字能力の評価方法には2種類あります。参考文献の[1]と[2]をご参照ください。いずれもそれほど特殊な技術を要する評価法ではありませんので、学校でも取り入れることはできるとおもおいます。興味のある方は目を通されることをお勧めします。ここでは教科書の音読と平仮名一音表記を印刷したフラッシュカードを用いた評価方法を説明します。

 読字能力評価としてまず確認することは、文章の音読です。教科書の音読なら、授業の中で観察できますので効率が良いと思います。ただ、何度も練習した文章は参考になりません。文章を暗記している可能性があります。初めて目にした文章の読み方を確認することが重要です。学年相当の漢字を読めるかどうかも注目点ですが、それ以前の問題として平仮名読字能力が十分かどうかに注目しましょう。もちろん、読めない平仮名表記があれば間違いなく読字の困難さがあります。そこまでのレベルではない場合に注目すべきことは読みの流暢性です。速く滑らかに読めるかどうかということです。非流暢な読み方で最も典型的なものは、一文字ずつ切って読む逐字読みです。逐字読みほどひどくなくても、単語や文節の途中で区切ってしまうことが多ければそれも非流暢な読み方といえます。非流暢な人は読みのスピードが遅いです。かなりスムーズに読んでいてもスピードが遅いです。流暢性と共に読み誤りの多さにも注目する必要があります。拗音の読み誤り(例:「きゃ」を「きや」と読む)は多いです。文末の読み誤り(例:「作りました」を「作った」と読む)や行飛ばしなどもしばしば見られます。読みの速さと読み誤りの数は反比例します。非流暢な子供が無理して速く読めば、読み誤りが増加します。教科書を1〜2ページ読んでもらうだけで、読字が困難かどうかは大体検討がつきます。


 教科書の音読で読字の困難さが見られたら、平仮名一音表記を印刷したフラッシュカードを用いてより詳細な評価をします。ここで用いるフラッシュカードは小枝達也先生と関あゆみ先生が開発した「T式ひらがな音読支援」[3]の第一段階(解読指導)で使われる物を流用しています。なぜこのフラッシュカードを用いるかというと、単にアセスメントするということだけではなく、アセスメントからそのまま支援に繋げることができるからです。さらに、非常に簡単に取り組めることも利点です。用意するものは、平仮名一音表記を印刷したカードです。平仮名の一音表記は図1に示したように、清音と撥音46文字、濁音と半濁音25文字、拗音・濁拗音・半濁拗音33種類の計104種類です。それぞれの表記を一つずつカードに印刷します。同僚の心理士のアイデアで、私の勤務先ではポケモンカードの大きさにしています。そうすれば、100円ショップで売っているポケモンカード用のスリーブに入れて使えるので、いちいちパウチするより簡単です(図2)。まず、T式ひらがな音読支援の第一段階、解読指導について説明します。できるだけ速く読むように指示してからカードをランダムに見せ、瞬時に読めるカード(A)、読むまでに間が開くまたは読み間違えてすぐに修正したカード(B)、読めないまたは読み間違えるカード(C)に分けていきます。読めないまたは読み間違えるときは考えさせたりせずにすぐに正解を聞かせます。一通り終わったら、BとCのカードだけをまとめてまた読ませます。これを2、3回繰り返すことを毎日実行すれば、多くの子どもは3週間程度で一音表記をかなりスムーズに読み始めます。このカードを読字のアセスメントに用いれば、評価にとどまることなく継ぎ目なく支援に移行できます。なお、読めているのにAとBに分けられることを気にして怒り出す子がしばしばいます。そのため、私の勤務しているクリニックではA、B、Cの3種類ではなく、読めるか読めないかの2種類に分類しています。もちろん、瞬時に読めるかどうかは重要です。ただ、私達は一通り読めるようになるとその後はタイムトライアルに変えて速さを目標にして練習を続けるようにしています。そのため、すべての文字がきっちり読めない段階では速さをそれほど気にしなくても良いと考えています。

 このフラッシュカードを読字能力のアセスメントとして用いる場合は、104枚のカードをランダムに見せて、子供が読めるかどうかを一枚ずつ確認します。教科書がかろうじて読める子供でも、フラッシュカードで一つずつ確認されると読み誤ることが多いです。特に拗音は、文章を読むときには一見読めていても一つずつ見せられると読み誤ったり読めなかったりすることが多いです。教科書の音読がなんとかできている子供では清音を読み誤ることは少ないと思いますが、「め」と「ぬ」や「わ」と「ね」など形の似た文字を読み誤ることがしばしばあります。1年生の1学期や2学期に評価するときは、104枚を一気に見せるのではなく、まずは清音と撥音のみで評価し、全て読める子供にのみ濁音半濁音や拗音のカードを見せるようにした方が嫌な気持ちにさせることがなくて良いかもしれません。一通り間違いなく読める子供では、あらためてできるだけすぐに読むように指示した上で、104枚のカードをリズムよく見せていき、全て読み終えるまでに何秒かかるかを計測します。私達は一応の合格ラインを1分30秒程度に設定しています。さらに10から20秒程度速ければ、平仮名一音表記読字の自動化は十分にできていると考えます。なお、大人なら余裕で1分を切ります。ただし、この方法は、カードを見せる側の熟達度に結果が左右されますので、あまり厳密な評価方法ではないことに注意してください。評価者側の熟達度に関係なく客観的で正確な評価をする必要があるなら、参考書[1]から[3]に記載されている評価方法を参考にしてください。このフラッシュカードを用いた方法は、T式ひらがな音読支援第1段階(解読指導)にスムーズに移行できることがメリットです。

 さて、以上の評価で読めないあるいは読み誤るカードがあるときは、時を無駄にせずにT式ひらがな音読支援の第一段階、解読指導に移行しましょう。すべてのカードを一通り読めていても、104枚全て読むのにかかる時間を測って1分30秒を切れない場合も解読指導を行うことをお薦めします。その際の注意点を記しておきます。清音でさえ読めない文字が多い子供では濁音や拗音は後日に回して、とりあえず清音カードだけで解読指導を始めた方が無難です。何しろ、文字を読むことが苦手な子供は、難しい文字を読まされると一気に意欲が失せたりします。この、T式ひらがな音読支援の解読指導はすることが単純なので実行するのに技術的な難しさはあまりありません。ポイントは、いかに子供に嫌がらせることなく根気よく取り組ませ続けられるか、というところにあります。そのため、読めないカードがとても多い状態では始めない方が良いのです。第2段階まで含めたT式ひらがな音読支援の詳細については参考書[3]を読んでください。一冊3,850円です。個人で購入しても大した額ではありませんし、小学校には必ず購入しておくべき書籍だと思います。この本には、もっと厳密な読字能力の測定法も記載されています。


参考書:

[1] 稲垣真澄(編集代表)、特異的発達障害の臨床診断と治療指針作成に関する研究チーム(編集)「特異的発達障害診断・治療のための実践ガイドライン―わかりやすい診断手順と支援の実際―」診断と治療社、4,180円

[2] 宇野 彰「標準読み書きスクリーニング検査: 正確性と流暢性の評価」インテルナ出版、2,860円

[3] 小枝達也、関 あゆみ「T式ひらがな音読支援の理論と実践ーディスレクシアから読みの苦手な子まで」中山書店、3,850円


2026年4月22日水曜日

学習の問題

  この節は「学習の問題」というタイトルにしていますが、子供の学力のアセスメントについて解説しようというわけではありません。発達障害診療をしている医者が小学校の教科学習に関して感じている問題をつらつらと述べようという趣旨です。愚痴をこぼすコーナーです。

 私の外来を発達障害のある小学生が受診するときに2番目か3番目に多い主訴が、「勉強がうまくいかない」というものです。最も多い主訴は集中できない、衝動的、かんしゃく、暴言暴力など行動の問題です。勉強の悩みと同程度に多いのが不登校傾向です。ただ、主訴が行動の問題や不登校傾向であっても、細かく聞き取ればその多くに学習の問題が潜んでいます。つまり、勉強で苦しい思いをしていることが行動の問題や不登校傾向につながっていることが多いのです。そう考えると、勉強の悩みというものは子供の健康な暮らしにとっての大きな脅威であり、なんとか対策を立てるべき問題といえます。

 言うまでもありませんが、医者はその養成課程や実臨床の場で小学生に勉強を教えるということを学んでいません。学習の問題を医者に訴えてもお門違いというものです。しかし、あまりにも訴えが多いので、見て見ぬふりもできません。クリニックのスタッフと一緒に頭を悩ませながら、多少なりとも手助けできることがないかを探るようになりました。その中でいろいろ気づくことがあります。子供が勉強で躓いているとき、教師個人の問題ももちろんあると思うのですが、構造的な問題が大きいのではないかと感じます。つまり、日本の教育行政や教育界の文化に起因する問題が多いのではないかと考えるようになったのです。私が考え付いた小学校の教科指導に関するいくつかの具体的問題点を以下に記していこうと思います。教える内容に関してではなく、主に指導方法やシステムに関する問題です。おそらく構造的問題なので、教師個人には如何ともし難いことが多いかもしれません。ただ、校長や教頭など、リーダーが工夫すればなにかしら現状を変えていけることも多いのではないかと思います。

 まず指摘したいことは、最も基本的なスキルが身に付いていないことが見逃されているということです。私自身の診療経験から考えると、学業不振を主訴とする子供のかなりの割合は文字を読むことが苦手です。教科書を音読してもらうと、たどたどしい。1文字ずつ区切って読む逐次読みの子もいますし、そこまでひどくなくても音節の途中など不自然な部位で途切れがちだったりします。読み誤りや読み飛ばしも頻回に見られます。そのような子の多くは、たとえ一通りの平仮名を一応読めていても、反射的に読めるようになっていません。文字を見て瞬時に読める(自動化すると言います)ようになっていない子供に長文読解や作文を課題として与えると、それは拷問に近い作業になります。仮名文字をスムーズに読むという、読み書きの入り口で躓いたまま学年が上がり、国語が嫌いになっている子供はかなり多いのではないでしょうか。読字に苦労し続けると、いずれは国語のみならず多くの教科で付いていけなくなります。

 低学年のうちに習得すべき最も基本的なことができていないという、平仮名読み問題と類似したこととして、数量概念の理解ができていないままに学年が上がっていく子供も結構いるように感じます。例えば、一桁の加減算で指を使いながら考えている知能は全く正常範囲内の5年生の子の診療をしたことがあります。その子に適当な一桁の数を線分や円で表し、それを参考に別の数に相当する線分や円を描かせると、とんでもない長さや大きさの図を描いてしまいます。かろうじて序数は把握できているようなのですが、基数(集合数)としての数量概念がきちんと身についていないようです。最も基本である数量概念(序数と基数)が十分に理解できていないままだと、早晩算数が理解できなくなるのは目に見えています。平仮名読字の自動化や、数量概念の把握など、「え、そこから?」と言いたくなりそうな入り口で躓いているのに、なんら対策を講じられないままに次々と上のレベルのことを教えられていけば、勉強が辛いもの以外の何者でもなくなることが目に見えています。

 上に述べた、最も基本的なスキルが身に付いていないことが見逃されていることと無関係ではありませんが、学校では学力についての評価がきちんとなされていないように見えます。学力テストをしているではないかと反論したくなる人もいるかもしれません。確かに学力テストも評価の一つと言えます。しかし、これでは不十分です。学力テストは現在教えていることが身についているかどうかをチェックしているにすぎません。子供ごとにどの程度の学力が身についているのかを知るためには、教科ごとの学習内容を就学前の準備段階から中学校卒業後のレベルまで連続的なものとみなし、その中で今現在その子供はどのレベルにあるかを評価できる方法が必要です。学習到達度の評価です。このような評価が当たり前になされていれば、平仮名がスムーズに読めない子供に長文の作文を書かせたり、一桁の数の概念を身につけていない子に二桁三桁の繰り上がり繰り下がりのある計算をさせたりはしないはずです。何年にもわたる「発達」という観点から、一人一人の子供が今どのレベルにあるのかということをきちんと評価する必要があるのではないでしょうか。

 さて、ここまで述べたことを踏まえると自然な結論になりますが、今の小学校の教科指導は個々の子供の理解力や習得できているものを前提としたカリキュラムになっていません。大多数の子供は一斉に同じレベルの内容が教えられています。これは原則として学習指導要領に沿った指導をしないといけないと決められているからであって、教師個人や学校の責任ではありません。とはいえ、このままで良いとも思えません。私は、学習指導要領では各科目の指導順序だけを定め、学年ごとに内容を固定することをやめれば良いのではないかと思います。そして、一人一人にオーダーメイドで教えるのはあまりにも非効率なので、教科ごとに進度の違う複数のクラスを用意し、子供自身の希望も取り入れてクラスを選択させれば良いのではないでしょうか。どうしても一学年の大半の子供に同じ内容を教えることに固執するのであれば、8、9割以上の子供が理解し身につけられる内容に留めるべきです。その場合は、知的能力が高い子供たちに意欲を持たせ続けるにはどうすれば良いかという問題が生じると思いますが。

 効率の良い学び方が子供によって異なることへの配慮が不足しているのではないかということも指摘したいと思います。同じことを学ばせる場合でも、成果の出やすい学び方が子供によって違うことがあります。個人的にとてもよく遭遇する例として、漢字の学習方法を取り上げましょう。おそらく多くの学校では同じ漢字を何度も書かせる方略を採用しているように見えます。しかし、同じ字を何回も書くことがひどく苦痛となる子は少なからず存在します。注意欠如多動症と診断されている子供の多くは単調な繰り返し練習をひどく嫌います。こういう子供はとにかく早く済ませたいがために非常に雑な書きっぷりになります。まず偏だけを上から下へと次々に書き、次いで旁を書いていく、という奇妙な作戦を取る子供も出現します(何を隠そう、私の小学生時代のことです)。とにかく苦痛から早く逃れたくて、じっくりと文字の構造を見ることがありません。何度も書くことで学べる子もいるでしょうが、一つの字をじっくり綺麗に書かせることや、粘土で文字を作らせることの方が文字の形の細部まで意識して身につけられる子もいるかもしれません。文字の構成要素を「タテ タテ ヨコ ヨコ」などと音にして唱えると覚えやすい子もいるかもしれません。今時であればゲームボーイの漢字学習ソフトなら張り切れる子供もいるかもしれません。学習方法の様々な選択肢を提示し、それぞれの子供が自分に合った方法を選択できるようになれば良いのになあと思います。

 さて、最後に粗雑な感想を述べておきます。教科指導に限定された話でもありませんが、今時の小学校はおしなべて子供に高い負荷をかけすぎているのではないかと感じます。「ほどほどにしとけよー」「疲れたら休めよー」という雰囲気があまりにも乏しいのです。一方的に「頑張る」ことに価値を置きすぎています。大人と同様に、子供にもそれぞれのペースがあります。教科学習に限定しても、知的な理解力のレベルだけで物事が決まるわけではありません。褒められながら思いっきり突っ走ることが嬉しい子供もいますし、なかなかエンジンのかからない子供もいます。疑問に感じたことを延々と考え続ける子供もいれば、考え続けることが至って苦手な子供もいます。それぞれの子供のペースが全く考慮されない指導を続けた時、遅かれ早かれ子供は限界に達するでしょう。難しすぎる内容を延々と聞かされ続けることや、分かりきった退屈な内容に取り組まされ続けることも、学習意欲を消失させることは考えるまでもありません。色々な意味でその子供のペースからかけ離れた指導が続くと、苦痛に満ちた時間を耐え忍ぶことになります。高すぎる負荷という表現を使うと、学習内容のレベルが子供にとって高すぎる場合だけを想像しやすいですが、色々な意味で子供にとって不快なあるいは苦痛な状況が続く状態は全て負荷が高すぎると言えます。教科教育の中で過負荷が続くことは学力的な問題を増加させるだけではなく、暴力やかんしゃくなどの行動の問題、不登校や登校渋りにもつながります。小学校生活の中では教科学習の時間が圧倒的に長いのですから、当然のことといえます。

 さて、次節からは最初に取り上げた平仮名読字と数量概念のアセスメントについて説明したいと思います。

2026年4月18日土曜日

自閉スペクトラム症の傾向 3

  本節ではDSM-5-TR[1]に記載された自閉スペクトラム症診断基準B項、すなわち「行動、興味、または活動の限定された反復的な様式」の説明をします。B項はA項よりも読んでわかりやすいのではないかと思います。ここに記載されている行動特徴はどれも、興味や活動の幅の狭さに由来し、繰り返し行動や変化に対する強い抵抗を示しています。

『(1) 常同的または反復的な身体の運動,物の使用,または会話 (例:おもちゃを一列に並べたり物を叩いたりするなどの単調な常同運動,反響言語,独特な言い回し).』

 これは、行動のバリエーションが狭く、反復行動が多いことを示しています。よく知られているのは反響言語です。これには即時型と遅延型があります。即時型反響言語(いわゆる「オウム返し」)は相手の台詞とまったく同じ言葉で返事をすることです(例:「何をしたい?」と質問すると「何をしたい?」と答える)。これを読んでいるあなたも相手の言葉に驚いた時などにオウム返しになることがあると思います。オウム返しを少しでもしたら当てはまるのではなく、繰り返し見られることが肝心です。遅延型反響言語は身の回りの誰かが言っていた台詞やテレビや動画で聞いた台詞などをその場の状況と関係なく突然言い出す現象です。幼児や小児ではアニメの登場人物のセリフや、最近では動画のセリフなどが多いです。反復的な発話もよく見られる特徴です。同じ単語やフレーズを、繰り返し口にします。同じ言葉を繰り返すことに特別具体的な意味はありません。

 自分と相手の立場が逆転した言い間違いをよくします。例えば、「~してあげた」と言うべきときに「~してくれた」と表現したり、「行く」というべき時に「来る」と言ったりします。幼児期には、「いってきます」と「いってらっしゃい」が逆になったり「おかえり」と「ただいま」が反対になっていたりします。英語圏では"I"と'you"が逆になることがよく記載されています。しかし、日本語では主語を明確に言わないことが多いので、一人称の逆転にお目にかかることはほとんどありません。年齢よりも大人っぽい言葉遣いをすることや過剰に丁寧な敬語を用いることが目立つ子供もいます。こういった特徴は知能の高い例に多く見られます。ただ、大人びた物言いや難しい言葉を好むものの、その意味を正確に理解できていないことも多いです。

 繰り返し行動(常同行動)の多さも(1)に該当します。幼児期にはおもちゃやミニカーなど、物をきれいに一列に並べることを繰り返すことが多く見られます。積み木などをひたすら積み上げることを繰り返す子供もいます。くるくる回り続ける、ぴょんぴょん跳び続ける、手をひらひらさせる、椅子の上で上体を前後にゆすり続ける、ともすればつま先歩きをするなどの常同的な身体運動は知的発達症(知的障害)を併存する例に多く見られます。ただ、知能に問題がない成人でも、自分の部屋など1人になると常同行動が生じることがあります。

『(2) 同一性への固執,習慣への頑ななこだわり,または言語的,非言語的な儀式的行動様式 (例:小さな変化に対する極度の苦痛,移行することの困難さ,柔軟性に欠ける思考様式,儀式のような挨拶の習慣,毎日同じ道順をたどったり,同じ食物を食べたりすることへの要求)』

 これは、自分を取り巻く環境や自分自身の行動の変化を嫌い避けようとする傾向です。慣れない場所、人、活動では不安になりやすいという漠然とした状況もよく見られますが、より明瞭で人目を引く行動として現れることが多いです。例えば、自分が着る服、食べるもの、自分のみならず他者の食器や座席などを決めてしまい、それらが変るとひどく嫌がる子供がいます。物事の手順や道順にこだわり、変えることを拒んだりします。

 予定の急な変更や普段と違う特別な行事で落ち着かなくなったり不安が強くなったりしやすいことが多いです。学校園での活動がいつもと違う教室になったり、普段はいない別のクラスの子供が同じ場にいたりすると動けなくなる子供もいます。多くの子供では活動の切り替えが苦手です。遊んでいるときに別のことをさせようとしてもなかなか切り替えられません。

 同じ質問をなん度も繰り返すことがあります。これは、しつこく要求を繰り返すこととは区別する必要があります。しつこく要求を繰り返すことは自閉スペクトラム症ではなくても、例えば注意欠如多動症の子供でもよく見られることです。繰り返す質問に対して、いつも同じ返答を要求することもあります。質問を繰り返す時、その内容はさまざまですが、予定に関連した質問が多いです(例:「今日、何時に〇〇へ行くの?」と何度も繰り返す)。

『(3) 強度または対象において異常なほど,きわめて限定され執着する興味 (例:一般的ではない対象への強い愛着または没頭,過剰に限局したまたは固執した興味)』

 (3)は特定の対象に極端に強い興味を注ぎ没頭する様子を示しています。また、興味の注ぎ方の程度の過剰さだけではなく、興味をそそぐ対象がその年齢や立場からは想像できない奇妙なものである場合も含みます。ミニカーやゲームなどは定型発達児でもしばしば好みますので、その程度の過剰さに注目する必要があります。質の異常さとはその年齢の子供が普通興味を持たないようなことに強い興味を抱くことです。例えば3、4歳の子供が天気予報やニュース解説を楽しみにしているような状況です。文字、数字、記号、道路標識などに強い興味を示すことも多いです。何かに強い興味を抱くことと裏表の関係にありますが、同年齢の子供の間で大いに流行っていることに全く興味を示さないことがよくあります。いわゆる、流行に疎い状態です。

 紐や棒をくるくる回し続けることや扇風機の羽を回し続けるといった単純な動きへの興味は知的発達症の強い例に多く見られます。単純な動きや音を出すことへの興味などは下で説明する感覚刺激への特殊な反応に入れるべきかどうか迷うことが多いです。

 知的発達症のない子供では、幼児期には単純なものに熱中していたとしても年齢が上がるにつれてある程度知的な活動であることが多くなります。例えば、昆虫に熱中する場合に昆虫の人形を集める一方で図鑑を繰り返し読み学名まで覚えるとか、電車に熱中する場合は時刻表を丹念に読み電車の形式名を全て覚え1つの駅から別の駅へ行く方法を熟知する、というようなことです。言うなれば、〇〇博士と呼びたくなるくらいにマニアックな知識を持っているのです。

『(4) 感覚刺激に対する過敏さまたは鈍感さ,または環境の感覚的側面に対する並外れた興味 (例:痛みや温度に無関心のように見える,特定の音または触感に逆の反応をする,対象を過度に嗅いだり触れたりする,光または動きを見ることに熱中する)』

 感覚刺激への特殊な反応は、強い痛みや暑さ寒さに鈍感である一方で些細な感覚刺激にも妙に敏感であるなど、感覚の過敏性と鈍感さが混在していることが典型的です。また、感覚刺激の限られた側面に熱中することもありますし(例:キラキラ光るものを見つめ続ける)、感覚過敏と表現されることが多いですが特定の感覚刺激をひどく不快に感じることもあります。一般的には不快刺激にはとられない音や、不快であっても程度が軽いと思われている音をひどく嫌うことがよくあります。運動会のピストルの音、大勢の子供達の歌声やざわめき、ドライヤーや掃除機の音、などが嫌な音としてよくあがるものです。

 感覚的な特徴の中でも、強い偏食を示すことは特に多いです。料理や食材へのイメージがよくなると食べられるようになるものもあります。しかし、強い嫌悪感を引き起こすこともありますので、食べることを強要してはいけません。臭いに過敏な子供も多いです。手に取ったものはなんでも匂いを嗅いでみる程度ならあまり困りません。しかし、日常的な臭いに強い嫌悪感を感じるようになると、そのことで生活が制限されることがあります。

 視覚に関連した症状としては横目使いが多い、特定のもの(例:水の流れ、ファンなど回転するもの)を見かけるといつもじっと見つめてしまう、不思議なくらいに眩しがりやすい、といった様子が観察されることがしばしばあります。

 触覚に関連しては、特定の手触りや肌触りにこだわり繰り返し触る、特定の手触りや肌触りを嫌い触れない、体の特定の部位あるいは体中どこでも人から触られることをひどく嫌がる、などの症状がしばしば見られます。手を繋ぐことを嫌う幼児では、感覚の過敏性によるものか自由を制限されることを嫌っていることによるのかを区別する必要があります。衣服の材質や裾や袖の長さにこだわることや、衣服が水に濡れることを嫌がることなどもしばしば見られます。

 以上のように、さまざまな感覚刺激に対して特殊な反応が見られることがあります。何気なく見ているだけでは気づかないことも多いので、「感覚の問題があるかもしれない」と意識して日常の様子を確認する必要があります。感覚の問題はかなり生活の支障になることがあります。音楽など特定の授業や活動をひどく嫌っている原因が聴覚過敏であったとか、臭いが耐えられず給食の時間を嫌う、などということもよくあります。不登校につながることもありますので、甘く見てはいけない特徴です。

 B項の背景には思考の柔軟性の乏しさがあります。一度抱いた考えを切り替えることが難しので、見当はずれの確信を長く抱き続けることにつながりやすいです。


参考書:

[1]APA、日本精神神経学会、他「DSM-5-TR 精神疾患の診断・統計マニュアル」医学書院、23,100円

2026年4月15日水曜日

自閉スペクトラム症の傾向 2

  本節ではDSM-5-TR[1]に記載された自閉スペクトラム症診断基準のA項、すなわち「社会的コミュニケーションおよび対人的相互反応における持続的な欠陥」について説明します。A項では広い意味での人とのやりとりに見られる問題を扱っています。子供の行動を実際に観察するときに、(1)から(3)のどれに当てはまるかを判断することは難しいことが多いです。そのような時は行動を杓子定規に下位項目のどれかに無理に分類するよりも、複数の項目に該当すると考えた方が良いのではないかと思います。診断することが目的ではなく、子供の行動の特徴を把握することが目的ですから、気楽に考えましょう。

『(1) 相互の対人的‐情緒的関係の欠落で,例えば,対人的に異常な近づき方や通常の会話のやり取りのできないことといったものから,興味,情動,または感情を共有することの少なさ,社会的相互反応を開始したり応じたりすることができないことに及ぶ.』

 相互の対人的-情緒的関係の欠落とは、他者とかかわり考えや感情を共有する能力の問題を意味します。見た目にはかなり異なった状態が当てはまります。他者への関心を欠き、ほとんど関わろうとしない子供がいます。人への関心はあるし人からの関わりを拒絶することもありませんが、自分からは積極的に人に関わろうとしない子供もいます。また、一見社交的にさえ見えるのですが、相手の心情にお構いなしに一方的に関わろうとし相手との距離が近くなりやすい子供もいます。これらの全く見かけの違う行動がすべて(1)に該当します。また、人の体を道具のように使おうとすることや(クレーン現象)、自分がしている活動に手助けが必要なときにだけ人に関わろうとすることも(1)に該当する振る舞いです。

 自閉スペクトラム症と診断される子供達では言葉の遅れによって問題に初めて気付かれる例は多いです。しかし、言葉の遅れ自体は自閉スペクトラム症の特徴ではありません。(1)に該当する言葉や会話の特徴があります。例えば、自分から話題を振ることが少なく自発的に話しかけるときは要求や質問などの事務的用件が中心の場合があります。他者からの声掛けへの反応が乏しいことや、他者との会話が続きにくいこともよくあります。逆に、とてもよく喋るのですが相手の反応にお構い無しに一方的に話すことが目立つ場合もあります。話にまとまりがなく話題がどんどん拡散することや急に変わることが多く、質問に対して関係ないことを返事するなど話が噛み合いにくいことも多いです。それなりに会話が成立していても、相手の言葉の裏の気持ちに気付いていないことがよくあります。相手や状況に応じて話し方や態度を変えることが難しいです。例えば、友達には許されるような無作法な物言いを目上の人にしてしまう人や、逆に友達に対しても敬語を使って過剰に丁寧に喋る人もいます。他者の会話に途中から参加することが難しいことも多いです。入るタイミングを掴めず、入って来れない場合もありますし、それまで話されていた会話内容と関係のない話題で強引に入ろうとしたりもします。

 他の人と興味や情動を共有できないことも(1)に該当します。例えば、友達とハイタッチしながら一緒に喜んだり、相手と頷き合いながら不平不満を口にしたりするような、他者と同調しながら感情表現をすることが少ないです。

『(2) 対人的相互反応で非言語的コミュニケーション行動を用いることの欠陥,例えば,統合の悪い言語的と非言語的コミュニケーションから,視線を合わせることとと身振りの異常,または身振りの理解やその使用の欠陥,顔の表情や非言語的コミュニケーションの完全な欠陥に及ぶ.』

 非言語的コミュニケーションの問題に該当する有名な特徴は、視線が合いにくいことです。昔から自閉症の子供は目が合わないということが強調されがちですが、目が合う自閉スペクトラム症児も珍しくありません。前節でも述べましたが、一つの特徴の有無だけで判断しないようにしましょう。表情の乏しさについては、怒りや喜びの表情を全く示さないことはほとんどありませんが、状況に応じたこまめな表情変化に乏しく微妙なニュアンスを示すことが難しいことは多いです。また、他者に何かを伝えるために表情やジェスチャーを用いることが少ないです。話している言葉の内容やその場の状況にそぐわない表情をしているため奇妙な印象を与えることもあります。他者の表情や身振りの理解でも、単純な怒りや喜びの表現さえわからない子供は少ないです。特に、親や教師が怒っている表情に気づかないことは稀です。その一方で、微妙な表現を読み取れていないことは多いです。また、相手に注意を払っているときはある程度他者の表情や身振りの意味に気がつけても、他者の様子に関心を示さないために人の感情に気づきにくいこともよくあります。

 同じ対象に他者と一緒に注目する行動を共同注意行動といいます。共同注意行動の乏しさも(2)に該当します。自分が興味を持ったものを人にも示そうすることの少なさや、幼児では指差しすることの乏しさが見られやすいです。人の指差しや視線を追うことが下手なことも多いです。幼児期後半から学童期でも自分が描いたものや作ったものを家族に見せようとすることは多くの子供に共通して見られますが、自閉スペクトラム症を伴う子供では自分一人で楽しみ人に示すことなく終わることがよくあります。

 自閉スペクトラム症の子供が話すとき、韻律(prosody;音程、抑揚、速さ、リズム、あるいはアクセント)が奇妙なことがしばしばあります。早口で抑揚が平板なことが典型的です。平叙文を話す時に疑問文のように語尾を挙げることもしばしばあります。逆に、成人では堂々として、大きく抑揚をつけた芝居がかった話し方をする人もときにいます。

 私の個人的印象ですが、保護者は長年生活を共にしているためか、非言語的コミュニケーション行動の特徴に気づきにくいようです。保育者や教師の皆さんは集団の中での本人の行動を客観的立場から見ているので、気付ける特徴は多いのではないでしょうか。

『(3) 人間関係を発展させ,維持し,それを理解することの欠陥で,例えば,さまざまな社会的状況に合った行動に調整することの困難さから,想像遊びを他者と一緒にしたり友人を作ることの困難さ,または仲間に対する興味の欠如に及ぶ.』

 人間関係を発展させ維持しそれを理解することの欠陥とは、学校園では主に他の子供への関心が欠けているか乏しい様、あるいは通常とはずれた交友の仕方を意味します。一般に、年齢が低いほど交友関係を築くことに無関心であることが多く、就学後は学年が上がるほど交友関係に関心を示しますがその試みがうまくいかないことが多いです。平均的な子供が同年代の子供に関心を示し始めるのは1、2歳くらいですが、自閉スペクトラム症を伴う子供では程度が軽くても3、4歳になって初めて他の子供に興味を示しだすことはよくあります。同年代の子供よりもずっと年上の子供や大人との方がうまく付き合えることや、専ら年下の子供と遊びたがることがよくあります。小学生になっても他の子供への興味が乏しい子供はよくいますが、その一方で、学年が上がるにつれて他の子供に強い興味を示し一方的に関わろうとすることもよく見られる振る舞いです。

 集団の場で常に孤立している例もありますが、そこまで際立った状態の子供はそれほど多くありません。ほとんどの子供は遅かれ早かれ幼児期のうちに他の子供と遊ぶようになります。ただ、友達と一緒に遊んでいるように見えてもただついて回りそばにいるだけの場合があります。また、ごく軽度の障害では短期的には一緒に遊べていても相手が誰でもかまわないように見え、次々別の子供と遊ぶため、親密な友達ができないことがあります。また、幼児期には一見普通の友達づきあいができているのですが、小学校に入学し学年が上がるにつれ交友関係の問題が明確になることもあります。

 一人遊びが多いということは非常によく見られる現象です。ただ、積極的に一人を好み人が関わってくることを嫌っている場合と、他の子供に興味はあるもののどう関われば良いのかわからず結果として一人で過ごしていることが多い場合があります。また、一対一など少人数なら結構遊べますが、集団での遊びが苦手な子供も多いです。

 一方的な思い込みの「友達」がいることがあります。単に話しかけてもらえることがあるというだけで、友人と思い込むことがありますし、相手に利用されているだけのこともありますし(例:お小遣いが手に入るとすぐに同級生におごってしまうので、そのときには一緒にいてくれる)、いじめられている場合さえあります。

 集団の中で場の雰囲気や空気が読めていないことがよくあります。そのためみんなが悲しそうにしているときにはしゃいでいたり、みんなが盛り上がっているときにそっぽを向いていたりします。遊びの中で周りの子供達が何を望んでいるのかピンとこず、自分が考えるルールややり方を強引に主張しすぎることも珍しくありません。

 これは小学校高学年以降に目立ちやすいのですが、言葉を字義通りに理解する傾向が強く冗談を真に受けることや比喩や皮肉がわからないことが多いです。ただし、定型発達児でも小学校低学年くらいまでは皮肉を理解することは難しいです。余談ですが、私は自閉スペクトラム症が疑われる子供の保護者から診断基準に沿った聞き取りをする際に、「冗談を真に受けやすいとか冗談が通じないという印象がありますか?」と尋ねると、「冗談を言ったことがないから」と戸惑う親御さんをよく目にします。若い頃はこの言葉が信じられませんでした。なにしろ、私の両親は関西人で、話題に詰まればとりあえず冗談を言うような人達でした。だから、冗談を言ったことがない人がこの世にいるとは信じられなかったのです。でも、あまりにも多くの親御さんが同様のことをおっしゃるので、あまり冗談を言わない人は多いのだなとだいぶ歳を食ってから認識するようになりました。相手や状況に応じて言葉遣いや態度を使い分けることが難しいことも多いです。目上の人に友達のような話し方をしたり、逆に同級生に敬語で話したりします。


 A項は社会性の問題を表しています。しかし、対人関係で失敗しがちであることを全て自閉スペクトラム症の特徴と解釈しないように注意してください。自閉スペクトラム症の社会性の問題は人の気持ちを直感的に読めていないことや、積極的に人に関わろうとせず人からの関わりに応じにくいことから生じます。積極的な悪意や衝動性によってもたらされる対人関係の問題は自閉スペクトラム症の本質ではありません。


参考書:

[1]APA、日本精神神経学会、他「DSM-5-TR 精神疾患の診断・統計マニュアル」医学書院、23,100円

「学校園でできるアセスメント」:目次


2026年4月11日土曜日

自閉スペクトラム症の傾向 1

  自閉スペクトラム症の傾向のアセスメントについても、基本的には注意欠如多動症の傾向と同様の考え方で進めることができます。自閉スペクトラム症でも、現在最も多用される診断基準はDSM-5-TR[1]に掲載されたものです。DSM-5-TRの診断基準では、自閉スペクトラム症は2つの基本的特徴で構成されます。それぞれA項とB項に整理されており、A項は「社会的コミュニケーションおよび対人的相互反応における持続的な欠陥」、B項は「行動、興味、または活動の限定された反復的な様式」です。前者には(1)から(3)までの3項目、後者には(1)から(4)までの4項目の具体的な症状が記載されており、注意欠如多動症の時と同様にそれぞれに当てはまるかどうかを検討すれば良いのです。ただ、注意欠如多動症の診断基準の症状項目の記載はかなり具体的で言葉通り読めばおおよそイメージできるものですが、それに比べて自閉スペクトラム症の診断基準の症状項目の表現はかなり曖昧です。見た目にはかなり異なる状況が、同じ症状項目に該当します。そのため、具体的にはどのような行動が各症状項目に当てはまるのかを予め知っていないとその項目に当てはまるかどうかの判断が難しいと思います。各症状項目が具体的にはどのような行動を想定しているのか、次節以降に順次解説したいと思います。次節以降の文中、『』内はDSM-5-TRの自閉スペクトラム症診断基準からの引用です。

 対象となる子供のアセスメントにおいては、日常生活全般を思い浮かべながら個々の項目に該当するかどうかを考えていきます。特にA項は対人関係の問題なのですが、平常のごく落ち着いた状況で観察できる特徴かどうかを意識する必要があります。強い不安に駆られているときや、怒っている状態などでは他者との関わりに失敗することがよくあります。このような状況での他者への関わりの失敗だけを取り上げてA項の症状項目に当てはめない方が良いと思います。注意欠如多動症のある子供でも、その不注意さや衝動性によって他者の気持ちに気づかないことがよくあります。個々の事例では判断が難しいことも多いのですが、できるだけ自閉スペクトラム症による行動特徴と区別する意識を持っておくのが良いでしょう。

 一つの症状項目に含まれる振る舞い方には様々なものがあります。一つの行動が見られるだけで、ある子供について特定の症状項目に該当すると判断しないようにしましょう。日常生活の複数の状況下で特定の症状項目に当てはまる振る舞い方が複数見られるときにその項目が該当すると考えてください。

 医師が厳密に評価し自閉スペクトラム症と診断するときには、現在だけではなく過去に症状項目に当てはまる特徴があったかどうかも考慮します。しかし、学校園の先生方のアセスメントの目的は診断することではありませんから、先生方が見ることのできる範囲内で評価すれば良いと思います。注意欠如多動症傾向のアセスメントと同様に「異常」か「正常」か、という観点にこだわらないようにしましょう。あくまで同年齢の子ども集団の中で目立つかどうか、気になるかどうかというご自分の主観に沿って評価していただければ良いと思います。

参考書:

[1]APA、日本精神神経学会、他「DSM-5-TR 精神疾患の診断・統計マニュアル」医学書院、23,100円

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2026年4月8日水曜日

注意欠如多動症の傾向 3:多動-衝動性

  本節では、DSM-5-TR[1]の注意欠如多動症診断基準の中の(2)多動-衝動性の症状項目を見ていきましょう。多動-衝動性症状9項目のうち、最初の6項目は主として多動を、残り3項目は衝動性を表す行動です。ただ、厳密には区別しにくいと思います。a)から(i)までの全9項目のうち、日常の様子を念頭に置いて当てはまる数が多いほど多動-衝動性の強い子と判断できます。『』内はDSM-5-TRの注意欠如多動症診断基準の(2)多動-衝動性からの引用です。

『(a) しばしば手足をそわそわと動かしたりトントン叩いたりする,またはいすの上でもじもじする.』

 多動は目につく特徴なので、迷うことはあまりないと思います。ただ、普段と違う緊張する場面では目立たなくなる子供もいるので、病院の診察室では目立たないことはよくあります。学校や保育所幼稚園などは日常の様子を見ることができる場なので、最も判断しやすいと思います。ただ、不安が極端に強い子供や場面緘黙の子供では、学校園で(特に厳しい担任の先生がいるときは)多動が目立たないこともあります。

『(b) 席についていることが求められる場面でしばしば席を離れる (例:教室,職場,他の作業場所で,またはそこにとどまることを要求される他の場面で,自分の場所を離れる).』

 幼稚園や保育所では、みんなで集まって先生の話を聞いているときや紙芝居の時間に席を立ったり歩いたりする姿がよくみられます。小学校では授業中に立ち歩くことになりますが、しばしば目にするのはせいぜい低学年までではないでしょうか。高学年になれば学級崩壊のような特殊な状況でなければ授業中に立ち歩く姿は滅多にみられないと思います。座っていないといけない状況で立ち歩く子がいるとき、単なる多動傾向の表れの場合もあるのですが、その場で与えられている課題が難しすぎることや苦痛を与える嫌悪刺激になっていることが多いです。立ち歩く子供にとって適切な活動が用意されているのかどうかを検討しなおした方が良いでしょう。

『(c) 不適切な状況でしばしば走り回ったり高い所へ登ったりする (注:青年または成人では,落着かない感じのみに限られるかも知れない).』

 保育所や幼稚園では保育室の中、学校の廊下、皆が整列している運動場などで走り回っている状況です。また、生垣の上や塀に登ったり飛び降りたりと、何かと高いところへ行こうとしがちです。このような派手な動きは授業や活動への強い不適応状態になっていなければ小学校の高学年に向けて減ってくることが普通です。ただ、(c)の記述にあるように思春期になれば見た目の動きではなく主観も取り上げていますので、本人に質問しないと気づかないことがあります。

『(d) 静かに遊んだり余暇活動につくことがしばしばできない.』

 (d)は、何をしていてもにぎやかでうるさい様を表しています。しきりに喋ったり歌ったり、物をひっくり返したり叩いたり、何かに黙々と取り組む様子がほとんど見られない状態です。1人でも賑やかですが、しばしば他の子供も巻き込んでしまいます。

『(e) しばしば"じっとしていない",またはまるで"エンジンで動かされているように"行動する (例:レストランや会議に長時間とどまることができないかまたは不快に感じる;他の人達には,落ち着かないとか,一緒にいることが困難と感じられるかもしれない).』

 これは、間を開けることなく次々と何かをしており、休む暇もない様子を指しています。取り立ててすることがない時でも、あたりをうろうろと歩き回っていたりします。いわゆる「忙しい」状態です。ただし、このような姿は自由なときに見られやすいです。小学校の授業中のように、ある程度強く統制されている状況では、単にぼんやりとしていることの方が目立つかもしれません。

『(f) しばしばしゃべりすぎる.』

 文字通り喋りすぎる状態です。思いついたことは喋らずにいられないという衝動性との区別は難しいのですが、次から次へと話したいことが頭の中に湧いてくるという感じです。自閉スペクトラム症の子供でも相手の都合にお構いなく喋り続けることの多い子供がいます。自閉スペクトラム症傾向のない注意欠如多動症の子供では、話す内容がどんどん変わっていくことは少ないですし、喋りながらも相手と噛み合ったやり取りができることが普通です。

『(g) しばしば質問が終わる前に出し抜いて答え始めてしまう (例:他の人たちの言葉の続きを言ってしまう;会話で自分の番を待つことができない).』

 (g)は人の話が終わるのが待ちきれず、頭に浮かんだことをつい喋り出してしまう状態です。相手が言い終わる前に答え出すことや、相手が一瞬言い淀むとすぐに「〇〇と言いたいの?」などと先取りしようとすることが多いです。会話の相手が話している番なのに、それを遮って喋り出すことがしばしばあります。指示を最後まで聞かずに動き出すことも多いです。思いついたことをすぐに行動に移してしまうことだと考えれば、気になったものはすぐに触ろうとすることや、興味を持った対象に向かって走り出すようなことも(g)に含まれると思います。

『(h) しばしば自分の順番を待つことが困難である (例:列に並んでいる時).』

 とにかく待つことが難しい状態です。並ばないといけない状況で順番を抜かすこともありますし、順番を抜かしてはいけないとしっかり認識してはいるものの待つことが嫌でその場から逃げ出したりすることもあります。

 なお、(g)と(h)は待つことが難しいという共通の特性を反映しており、特定の行動をどちらに当てはめれば良いのか判断に困ることが多いです。そのようなときはあまり真剣に悩まず、エイヤッ!と決めれば良いと思います。

『(i) しばしば他人を妨害し,邪魔する (例:会話,ゲーム,または活動に干渉する;相手に聞かずにまたは許可を得ずに他人の物を使い始めるかもしれない;青年または成人では,他人のしていることに口出ししたり,横取りすることがあるかもしれない).』

 衝動性のある子供は人の活動から影響を受けやすいです。ただ単に気が散ってしまうことも多いのですが、気になった他者の活動に干渉してしまうことも多いです。単純に友好的に参加しようとするのならまだ良いのですが、相手が使っていた物を自分が使おうとしたり、相手の活動を悪く言ったり、明らかに相手の邪魔をしようとしたりもします。当然、相手からすれば邪魔で鬱陶しい状況ですから、喧嘩に発展することも多いです。

 多動-衝動性は小学校高学年に近付くほど目立たなくなることが普通です。ただ、(c)で説明しましたように、年齢が上がっても主観の中でじっとできない気持ちが生じやすいことはあります。また、(f)の喋りすぎることや、(g)の人が話している最中に話し始めることは結構大人になるまで見られることが多い印象が私にはあります。

 衝動性に関して補足しておきます。衝動性が激しいかんしゃくにつながったり、些細なことで他者に手が出ることにつながったりもします。ただ、激しい感情爆発やしつこく他者を攻撃する行動は注意欠如多動症の傾向としての衝動性とは分けて考えた方がよさそうです。注意欠如多動症に見られる典型的な衝動性には、常時見られる、大きなエネルギーを必要としない些細な行動、原則として短時間の行動、という特徴があり、加えて他者に対する怒りや敵意を伴わないことが原則です。

 余談ですが、激しく長時間持続するかんしゃくや、他者に対する暴言暴力が注意欠如多動症や自閉スペクトラム症に伴う頻度が高いことは事実です。しかし、かんしゃくや他者への攻撃性は注意欠如多動症や自閉スペクトラム症の基本的特徴ではありません。就学年齢前後以降に見られる激しいかんしゃくや攻撃性は、不適切な環境で暮らす中で生じた二次的に生じた問題と考えた方が良いということを知っておいてください。

参考書:

[1]APA、日本精神神経学会、他「DSM-5-TR 精神疾患の診断・統計マニュアル」医学書院、23,100円

「学校園でできるアセスメント」:目次


2026年4月4日土曜日

注意欠如多動症の傾向 2:不注意

 本節では、DSM-5-TR[1]の注意欠如多動症診断基準に記載された(1)不注意の症状項目を見ていきましょう。不注意とは、必要なことに注意を向けられないことや、必要なことに注意を持続できないことを意味します。日常的な表現を用いればうっかり屋さんとかぼんやりやさんくらいに考えれば良いでしょうか。(1)不注意には、(a)から(i)までの9項目の症状が記述されています。日常の様子を念頭に置いて当てはまる数が多いほど不注意の強い子と判断すれば良いです。『』内はDSM-5-TRの注意欠如多動症診断基準からの引用です。

『(a) 学業,仕事,または他の活動中に,しばしば綿密に注意することができない,または不注意な間違いをする (例:細部を見過ごしたり,見逃してしまう,作業が不正確である).』

 これはいわゆるうっかりミスの多さです。コップをひっくり返したり、紙を破いてしまったり、物にぶつかったり、躓きやすかったりといったことです。転んだりぶつかったりしやすいので、小さな怪我(ときには大きな怪我も)がしょっちゅう見られることもあります。小学生の学習面では、引き算を足し算にしてしまったり、問題文を最後まで読まずに判断するので間違えたりします。

『(b) 課題または遊びの活動中に,しばしば注意を持続することが困難である (例:講義,会話,または長時間の読書に集中し続けることが難しい).』

 いわゆる集中力の問題です。遊びでさえ転々とする子がいます。遊びには集中するけれど、さほど興味のない活動をさせると続かない子もいます。授業の前半は先生の話を聞いたり問題を解いたりしているのに、後半には窓の外をボーと見ていたりします。不注意傾向が強くても、特定の活動、主に自分が好きなことにはむしろ過剰に集中している子も多いです。そのような子であっても、生活の中の多くの活動で集中できなければ該当すると考えましょう。

『(c) 直接話しかけられた時に,しばしば聞いていないように見える (例:明らかな注意を逸らすものがない状況でさえ,心がどこか他所にあるように見える).』

 不注意が強いと人の話を聞いていないことがよくあります。まるで耳に入っていないように見えることもありますし、話の一部しか頭に入っていないこともあります。何かに熱中したり気を取られたりしている時のこともありますし、特に何もしていない時でも人の話を聞いていないことが多い子供もいます。長々と説明していると、次第に生気のないぼんやりとした表情になり、見るからに上の空になっているように見えます。全く聞いていないのではなく、人の話の一部しか頭に残っていない子供もこの項目に該当します。

『(d) しばしば指示に従えず,学業,用事,または職場での義務をやり遂げることができない (例:課題を始めるがすぐに集中できなくなる,また容易に脱線する).』

 「指示に従えず」という表現がありますが、これは反抗的という意味ではないことに注意してください。指示された作業を一気に最後まですることができず、途中で横道に逸れて関係ないことをし始めることを意味しています。意図して指示した人に逆らっているわけではありません。着替えの最中に転がっていたおもちゃをいじり始めたり、食事の最中に手を止めて隣の子供とのおしゃべりに熱中し始めたり、プリントに取り組んでいる最中に消しゴムのカスを集めて丸め出したり、というようなことです。その結果、何かと時間がかかることになりやすいです。

『(e) 課題や活動を順序立てることがしばしば困難である (例:一連の課題を遂行することが難しい,資料や持ち物を整理しておくことが難しい,作業が乱雑でまとまりがない,時間の管理が苦手,締め切りを守れない).』

 (e)は要領の悪さ、段取りの悪さを意味します。あまり手順を考えずに目についた物に手が伸びたり、無駄な動きが多かったりします。要領の悪さが表面化しやすい活動として、片付けが非常に苦手な子供が多いです。(d)と同様に作業の途中で横道に逸れるため要領が悪そうに見えることもあります。そこを厳密に区別することは難しいと思います。

『(f) 精神的努力の持続を要する課題 (例:学業や宿題,青年期後期および成人では報告書の作成,書類に漏れなく記入すること,長い文書を見直すこと) に従事することをしばしば避ける,嫌う,またはいやいや行う.』

 小学生なら同じ漢字を何回も書いて練習するとか単調な計算問題をたくさんするということなどの時の様子を考えれば良いと思います。就学前の幼児では「精神的努力の持続を要する課題」があまりないかもしれませんが、部屋中に散らかっているおもちゃを片付けるように指示した際のことを考えれば良いかもしれません。不注意の強い子供では、平均的な子供よりも与えられた課題の量が著しく多いと感じがちです。そのため、なんとか取り組まずに済ませられないか、という方向に発想が向きやすいです。ただし、学校で公然と逃げ出す子供はかなり限られます。むしろ多いのは、家庭で親から宿題をしろと指示されたのに後回しにして逃げようとするため、親子喧嘩になることです。話は逸れますが、宿題で親子関係を崩すような事態になると、結局その子供にとっての利得と損失のバランスはどうなるか、ということは担任の先生にはよく考えていただきたい点でもあります。注意欠如多動症の傾向が明確に見られる子供では、反復学習をひどく嫌がることが多いです。典型的な例は漢字の練習です。何故だかわかりませんが、小学校の先生は漢字を習得させる際に、同じ字を何度も繰り返し書かせることが好きなように見えます。このような反復学習をひどく嫌う子どもには他の学習方法を工夫した方が良いと思います。

『(g) 課題や活動に必要なもの (例:学校教材,鉛筆,本,道具,財布,鍵,書類,眼鏡,携帯電話) をしばしばなくしてしまう.』

 (g)は、始終「あれがない」「これがない」と探し回っているような状況を示しています。中には本人は気にしていないのだけれどその子が触ったものはすぐになくなるので周りの人が困っているという場合もあります。小学生では、紛失した小物やプリントが机の中やランドセルの底からごっそり見つかるということも多いです。この失くしやすいという特徴は、物を使い終わったら片付けるよりも先に次の活動に注意が集中してしまうので、どこに置いたかわからなくなることで生じています。つまり、片付けられないことにも通じる特徴です。

『(h) しばしば外的な刺激 (青年期後期および成人では無関係な考えも含まれる) によってすぐ気が散ってしまう.』

 読んで字の如く、気が散りやすいことを意味します。取り組んでいる課題や作業に関係ない音や視覚的な刺激に注意を取られるため、しばしば作業が中断します。場合によっては、自分が今何をしているのかがわからなくなり、作業が後退したりもします。人が何かを説明しているときにも気が散るので(c)の状態につながります。何をしている時でもキョロキョロと視線が移ろっている子もいます。このような場合、自閉スペクトラム症の特徴である「視線があいにくい」ということと区別しにくくなります。DSM-5-TRの原文には「青年期後期及び成人では」と表現されていますが、自分の頭に浮かんだ考えに気が散ることは子供でも多いように思います。

『(i) しばしば日々の活動 (例:用事を足すこと,お使いをすること,青年期後期および成人では,電話を折り返しかけること,お金の支払い,会合の約束を守ること) で忘れっぽい.』

 様々な忘れ物をします。授業や活動に必要なものを忘れます。親に伝えるようにと念を押したことを忘れます。朝、せっかく準備をした物をカバンやランドセルに入れて玄関まで持ってきているのに、靴を履いたら手ぶらでドアを開けて出て行く子もいます。多くの場合、自分が楽しみなことは覚えていることが多いのですが、それでさえ忘れてしまうこともあります。今まさに実行しようとしていたことや話そうとしていたことでさえ、何かのきっかけで忘れてしまいきょとんとしていることもあります。

 (a)から(i)の9つの項目はすべて、大なり小なりお互いに無関係ではありません。子供の具体的な行動をどの項目に当てはめれば良いのかを考えているうちにわからなくなってしまうこともあるかもしれません。しっかりと責任を取らねばならない正式な診断を下すわけではないのですから、あまり真剣に悩まず勢いで決めてしまえば良いと思います。次節では多動-衝動性の症状項目について説明します。

参考書:

[1]APA、日本精神神経学会、他「DSM-5-TR 精神疾患の診断・統計マニュアル」医学書院

「学校園でできるアセスメント」:目次




2026年3月31日火曜日

注意欠如多動症の傾向 1

  注意欠如多動症の基本的特徴は不注意、多動そして衝動性です。落ち着きのなさを主訴に外来を受診した子供の親が「この子が多動かどうかを知りたくて」とおっしゃることがよくあります。そういう時、この子を見ていてよく動くなあ、じっとできないなあと思ったことがありますか?と質問すると、「そうです、よく動くんです」といった返事が返ってきます。私は、そう感じるのなら多動と言えば良いですよ、と返事をします。一般の方は「多動」は専門家が何かの方法で判定するものだと考えておられることが多いようです。しかし、そのような特殊なものではありません。日常的な言葉の意味通りに、多動かどうか、衝動的かどうか、不注意かどうかを判断すれば良いだけなのです。当然、教師や保育者にとっては簡単な話です。子供の普段の振る舞いを、何かの課題に取り組む状況も含めて直接観察している立場ですし、同じ年齢の子供の標準的な状況を踏まえた上で判断できるのですから。

 そうは言っても、不注意、多動、衝動性のアセスメントをしっかりと行うのなら、何らかの物差しが欲しくなります。そういうとき、前節で紹介したDSM-5-TR[1]の注意欠如多動症診断基準が参考になります。実際に医師が注意欠如多動症を診断するときに用いるものです。DSM-5-TRの注意欠如多動症診断基準では具体的な症状項目が2項に分けられています。(1)不注意と(2)多動-衝動性です。(1)不注意には(a)から(i)までの9つの症状項目が、(2)多動-衝動性には(a)から(i)までの9つの症状項目が記載されています。多動と衝動性は関連が強いので一つにまとめられています。次節以降にそれぞれの症状項目を具体的に説明しましょう。次節以降の文中、『』内はDSM-5-TRの注意欠如多動症診断基準からの引用です。注意欠如多動症診断基準に記載された症状項目は結構わかりやすいのではないかと思います。恐る恐る最初に注意しておきますが、「しばしば」は頻度が高いという意味です。英語なら、"often/frequently"です。「そんなこと、知っとるわい!」と思った方、我慢してください。私は10年くらい前まで12年間ほど、保育士・教師の養成課程がある大学で講義をしていたのですが、「しばしば」は「ときに」「たまに」と同義だと思っていた学生がすごく多かったのです。

 対象となる子供のアセスメントにおいては、日常生活全般を思い浮かべながら個々の項目に該当するかどうかを考えていきます。ある特定の時、例えば昨日の図工の時間には妙にはしゃいでよく喋っていたなあなどというごく限定された状況のみに基づいて判断してはいけません。過去半年間くらい全体を思い浮かべながら判断します。

 該当するかどうかは直感的に当てはまると感じるかどうかなのです。もう少し具体的にいうなら、同学年の子供集団の中で明らかに目立つかどうか、多いかどうか、日々の問題になっているかどうかに基づいて考えてください。「明らかに」ということが重要です。その際、それぞれの症状項目は大なり小なりすべての人に見られるものであることを意識しておく必要があります。子供集団の中で明らかに目立つ程度に逸脱しているときに当てはまると考えるようにすると安全です。また、平均的な子供と比べて異常か正常かを客観的に判定しようと考えないでください。真面目に考えれば考えるほど泥沼にはまります。あくまで自分の主観の中で目立つかどうか、気になるかどうかということで判断してください。もともとこのような症状を客観的に判定する方法はありません。とどのつまりは主観で決まりますので、気楽に考えれば良いと思います。

参考書:

[1]APA、日本精神神経学会、他「DSM-5-TR 精神疾患の診断・統計マニュアル」医学書院、23,100円


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2026年3月27日金曜日

注意欠如多動症・自閉スペクトラム症:総論

  まず、発達障害(最近では医学的概念である神経発達症という名称を使う人も増えています)の代表的で頻度の高い診断概念である、注意欠如多動症や自閉スペクトラム症の傾向をどのように評価するかから解説します。この2つの診断概念には大きな共通点があります。それは、日常生活の中で見られる行動によって定義されているということです。具体的に言いますと、注意欠如多動症は不注意と多動-衝動性に該当する行動が多いときに診断します。自閉スペクトラム症は社会的コミュニケーションおよび対人的相互反応における欠陥と、限定的で反復的な行動・興味・活動に相当する行動が多いときに診断します。こう説明すると単純に見えますが、これらの行動特徴があるかどうかを判断することは結構悩ましいです。それは、いずれの特徴もどうなれば条件を満たせるかが曖昧だからです。教師や保育者にはWISCなどの知能検査推しの方が多くいらっしゃり、注意欠如多動症や自閉スペクトラム症を思わせる子供がいると、とにかく検査をしてもらえと保護者に勧めます。しかし、知能検査は診断には全く影響しません。その子供の日常の様子をよく知る人の観察が最も重要な情報源になります。それぞれの具体的な症状は次節以降で説明しますが、ここではわかりやすい不注意を例に説明をします。

 不注意とは、必要な対象に注意を向けられない、必要な対象に注意を持続できない、ということです。そのため、具体的には気が散ったり、忘れ物が多かったり、不注意な失敗をしたりします。さて、気が散ることや忘れ物をすることは正常とは異なる全く異常な特徴でしょうか。そんなことはありません。だれだって気が散りますし、忘れ物をします。誰にでもあることではありますが、様々な程度があります。非常に集中力が高くこまめな確認を怠らないので気が散ることも忘れ物をすることも滅多にない人がいます。逆に、常に気が散るし日々忘れ物のオンパレードと言える人もいます。そして、滅多に気が散らない人と常に気が散る人の間には様々な程度に気が散る人がいるのですから、気の散りやすさというものは連続的なものとして評価することができます。では、気の散りやすさが「ある」と見做すことと「ない」と判断することの境界はどのように決めれば良いのでしょう。

 実は客観的な基準なんてありません。頻度の観点でとても多いときや、程度の観点でとても激しいときにその特徴があると判断します。などと説明してもやはりスッキリしませんよね。結局のところ、本人や見ている人の主観によって決まります。対象となる子どもが属する社会の平均的感覚に基づいて、「多い」「目立つ」「困りそう」と感じられるレベルかどうかによって判断します。つまり、注意欠如多動症の症状としての不注意があるかどうかの境目は極めて曖昧なのです。さらに、本来は「あるかどうか」で表現できるものではなく、強いか弱いかという程度問題で考えるのが妥当です。不注意という一つの要素だけではなく、注意欠如多動症という診断概念についても本当は診断される人と診断されない人という異質な集団があるわけではありません。「注意欠如多動症的な傾向」が弱いあるいはほとんど見られない人から非常に強い人まで連続的に捉えることができるわけです。

 実際に医師が注意欠如多動症や自閉スペクトラム症を診断する際には公的な診断基準に依って診断します。現在よく使われている診断基準はアメリカ精神医学会が出版している「DSM-5-TR精神疾患の診断・統計マニュアル」[1]か、世界保健機構WHOが作成した「ICD-10疾病及び関連保健問題の国際統計分類第10版:精神および行動の障害」[2]という診断基準集です。いずれも、できるだけ診断する人によって結論がぶれないように、一つの行動特徴、例えば不注意を評価するにあたって複数の観点から判断するようにしてあります。それでも、最終的には主観に左右されるということには変わりはありませんし、連続的に評価できる性質の特徴であることも同じです。なお、現実の臨床場面ではDSM-5-TRが用いられることが多いようです。また、ICDがすでに第11版(ICD-11)が公開されていて、日本でも間も無く新しい版が用いられ出す予定ですので、現行のICD-10は早晩使われなくなります。そのため、この文章で診断基準に触れるときにはDSM-5-TRを用いることにします。

 教師や保育者が、注意欠如多動症や自閉スペクトラム症という概念の定義と曖昧さ知り、健康とされる人と診断される人との間の連続性や境界の不鮮明さを理解することには大きな意義があると私は考えています。先生方の目の前には何も問題がない「健常児」と、明らかに異常な「発達障害児(注意欠如多動症や自閉スペクトラム症を含む)」がいるのではありません。単なる子供集団がいるだけなのです。そして、個々の子供がそれぞれの行動パターンや認知パターンの個性を持っています。例えば、非常に細かい対象に注意を集中し過ぎてしまう子供もいればもっと広い範囲に注意を間配れる子供もいますし、あまりにも広範囲の対象に注意が拡散する子供さえいます。注意機能の配分の、様々の程度の個人差が見られます。注意が拡散すればするほど周囲からは「気が散りやすい」「集中できない」子供として目立つようになりますし、様々な活動での失敗に繋がり暮らしづらくなります。そうなると、支援が必要になるということになります。注意欠如多動症や自閉スペクトラム症に見られる特徴は特殊な病的サインではなく人としての行動や認知のバリエーションにしか過ぎず、平均からのずれが大きくなり過ぎたために暮らしにくさにつながった状態と考えれば良いのです。

 次節以降は、注意欠如多動症の傾向や自閉スペクトラム症の傾向をどのように評価するか、具体的に説明します。実際のDSM-5-TR診断基準を読んだことのある方もいらっしゃるかもしれません。そこには注意欠如多動症と診断するための該当症状項目数やその他の条件などが書かれています。しかし、教師や保育者の皆さんは、診断することを目的にしないでください。第一に、迂闊に診断名を口にすると子供自身や保護者との関係を大きく損なうことがあります。あくまで自分が指導する子供に対する理解を深める糸口として利用することを考えてください。第二に、診断できるかどうかで配慮するかどうかが決まるわけではありません。言い換えれば、どの程度以上これらの特徴が強ければ配慮が必要になるという境界線はないのです。程度の強い子供ほどしっかりと配慮しなければ子供が本来持っている能力を発揮できなくなる可能性が高くなるということであって、これらの特性が弱い子供でも不注意や多動-衝動性を念頭に置いた配慮が助けになることはあります。どの子に対しても、その時々の必要性に応じて配慮し支援するという意識は大切です。

 この文章は支援の具体を説明することが目的ではありませんが、支援に関連して意識していただきたい注意点を書いておきます。注意欠如多動症の傾向や自閉スペクトラム症の傾向が見られるとき、そのような特徴はその子が本来持っている人としての振る舞い方や物事の認識の仕方の特徴です。暮らしにくさにつながらなければ性格とか個性と称しても良いものです。さてみなさん、冷静に自分を振り返ってみましょう。あなたは自分の性格を根本的に変えることはできますか?おそらく、自分の意思で性格を大きく変えることのできる人はいないと思います。せいぜい、違う性格を演じることが少しできる程度ではないでしょうか。注意欠如多動症や自閉スペクトラム症の傾向は子供自身の意思で変えることはできません。したがって、こういう傾向を変えさせようと指導することは違う人間になれと強要することに他ならないのです。こういう行動特徴を変えるのではなく、これらの特性があってもうまく生活できるように必要なサポートを提供し、ゆくゆくは自らそういう工夫ができるようになることを目指すということをしっかりと意識していただきたいと思います。


参考書:

[1]APA、日本精神神経学会、他「DSM-5-TR 精神疾患の診断・統計マニュアル」医学書院、23,100円

これはとても高価な本です。なんと23,100円もします!精神疾患の診療をする医師なら1冊買っておけと強く言えるのですが、教師や保育者が買うべき図書とは言いにくいです。ただ、一度目を通しておくと診断基準に書かれていることの理解が深まります。興味を抱かれた先生は、まずは図書館で目を通すことをお勧めします。詳しい解説を省いて診断基準だけ掲載したものとして「DSM-5-TR 精神疾患の分類と診断の手引」という書籍もあるのですが、これでも5,500円します。

[2] WHO、融 道男、他「ICD-10 精神および行動の障害―臨床記述と診断ガイドライン」医学書院、5,280円

これは5,280円で、DSM-5-TRよりも随分安いです。しかし、お勧めしません。WHOはすでに新しいICD-11を発表しており、間もなく日本でも取り入れられる予定です。ICD-11での神経発達症の診断基準はDSM-5-TRに非常に近いものになっています。

学校園でできるアセスメント

 最近、ある小学校の先生と雑談する機会がありました。短い時間でしたが、熱心に教育に取り組んでいらっしゃるのだろうなと思わせる、素敵な人でした。発達性読字障害(ディスレクシア)に関する話題だったのですが、印象に残った言葉がありました。その先生は「私たちはアセスメントができないので」と嘆いておられたのです。アセスメントができないので発達性読字障害の子供達に適切な援助を考えることが難しい、というような訴えだったと思います。よく考える前に喋り出す傾向のある私は、即座に「え?そんなん、ややこしい検査をせんでも教科書を音読してもらうだけでかなり当たりをつけれますよ」と返事をしていました。その先生は意外そうな顔をしているので、発達性読字障害がある子供の音読時の特徴や、多くの場合は平仮名を反射的に読めないことが基本的な特徴であることや、時間がなければ拗音促音などの特殊音節をいくつか読ませるだけでもかなりの情報が得られることや、小枝達也先生、関あゆみ先生の本を参考にすればもっとしっかりした評価を学校でもできることなどを伝えたところ、自分たちで評価できるなんて考えもしなかったというような感想を漏らされました。

 このエピソードでなるほどと思いついたことがあります。実は、学校園で子供に何らかの問題がある時、例えば集中できない、かんしゃくを起こす、喧嘩が多い、勉強についていけないなどの問題を心配した時に、保護者に医療機関で検査をしてもらってくれと強く勧める保育者や教師が実に多いのです。このことを不思議に思っていたのですが、その理由の少なくとも一部がわかったように思えました。おそらく、全てではないにしても多くの先生方はアセスメントで何をするのかを具体的に考えるのではなく、子供に発達障害に関連する問題が見られる時には専門機関で専門家のみができる「アセスメント」をしないといけないと思い込んでいるのではないでしょうか。そして、専門機関で専門家のみができる「アセスメント」をすると何かご利益があると。

 受け持ちの子供に発達障害が疑われる問題が見られる時、専門施設の専門家のみにできる特殊な検査をしないと問題の本質を把握することや、その対策を講じることができないということは滅多にありません。学校園での子供の様子を注意深く観察すればかなりの情報を集めることができますし、対策に結びつけることが可能です。ここでは発達障害に関連する、特別な検査器具がなくても学校園でできるアセスメントについていろいろ考えていきたいと思います。念のために申し上げますが、専門家が行う高レベルで複雑なアセスメントに意味がないというつもりはありません。専門家が精密にアセスメントすることによって初めてわかる子供の特徴というものもあります。ただ、発達障害を伴う子供達への支援を行う時、そこまで頑張らなくても日常生活の中で簡単にアセスメントすることで適切な支援を開始できることが多いのです。それに、専門家による精密なアセスメントは限られた施設でしかできませんので、予約しても実現するのは数ヶ月から半年以上先になることが多いです。その間、困っている子供を放置するわけにはいきません。ぜひ、教師や保育者の皆さんは勤務されている現場で、積極的にご自分でアセスメントを試みていただきたいと思います。


目次

・注意欠如多動症・自閉スペクトラム症:総論

・注意欠如多動症の傾向 1

・注意欠如多動症の傾向 2:不注意

・注意欠如多動症の傾向 3:多動-衝動性

・自閉スペクトラム症の傾向 1

・自閉スペクトラム症の傾向 2

・自閉スペクトラム症の傾向 3

・学習の問題

・読字の問題

・Response to Intervention/Instruction (RTI)モデル

・算数の問題

・問題行動(行動問題、チャレンジング行動)

・アセスメントとは

(終わり)


2026年3月12日木曜日

指導する

  学校園の先生方は、本来仕事の要素として子供を指導することが大きな割合を占めていますので、「指導する」とおっしゃってもさして違和感はありません。何気なく当然のことという印象しか持たない人が多いでしょう。しかし、私はいつの頃からか先生方がおっしゃる「指導」とはいったい何を意味しているのだろうかと考えることが多くなりました。典型的には次の例のような状況で疑問が湧きます。

 私の外来を受診したある小学生は、学校で叫んだり他児に手を出したりするなど、問題となる行動を繰り返していました。そのことに悩んだ保護者が受診を希望されました。家では特に問題はなく、学校で問題が生じていますので学校での様子を担任の先生に手紙に書いてもらってほしいと伝えたところ、程なく担任の先生からの手紙が届きました。最近数週間に先生が観察した問題行動を非常に細かく書いてあります。暴言を吐いた、物を投げた、他児に手が出た、教室から脱走した、などなど。そして、それぞれのエピソードの後に「指導した」との簡潔な記載があります。問題が生じたのが何の時間だったかは一応記載されていますが、具体的な活動内容、場所、周囲にいる人々についての記載はありません。何が直接的なきっかけになったのかの記載もありません。そして、その問題行動が生じた後に本人や周囲の人がどのような状態になったのかの記載もありません。ただただ、問題行動の具体と「指導した」という文言が羅列されています。このような事例での「指導」はいったいどのようなものでしょうか。

 先生からの手紙を読むかぎり、問題行動そのものにしか注目していないように見えます。その行動はなぜ生じているのかを探るという発想がうかがえません。してみると、ここで指導と記載されている具体は何だろうかと考えるに、その行動はしてはいけないことだと「注意」あるいは「叱る」ことを意味しているのではないだろうかと思えてきます。さらに、なぜそのように振る舞ったのか理由を「問いただす」のではないかと想像します。冷静に考えれば、注意し、叱り、問いただすことにそれほど意味があるとは思えません。何度も「指導」されているのですから、本人だってその行動が世間では、少なくとも教室ではよくないとされているくらいのことはわかっているはずです。中等度から重度の知的発達症を有する子供のような特殊な事例では「よくない」ということが理解できない可能性はあります。それならそうで、単に注意することや叱ることを繰り返しても成果は期待できないでしょう。

 問いただすという対応もあまり成果を期待できません。まず、興奮して問題行動を起こした子供は自分でも説明できないことがよくあります。仮に説明できたとしても、先生が納得できるような説明にはならないことが多いでしょう。たとえば、友達を叩いた子供がその理由として相手が自分の悪口を言った、と説明した時、先生は「なるほど、それなら叩いても仕方ないね」で終わらせることはできるのでしょうか。注意し、叱り、問いただすという接し方は、本人が悪いと自覚していることをただひたすら責め続けていることであり、100%自分が悪かったと認め、謝罪し、許しを乞うことを求めているようにしか見えません。

 注意するな、叱るなと言う気はありませんが、何度も繰り返しているのなら立ち止まって考えてみた方が良いでしょう。子供が不適切な行動をやめ、建設的に暮らせるように促していくことこそが指導です。繰り返し注意したり叱ったりする必要があるということは、成果を挙げていないということです。同じ対応を繰り返していれば、成果を上げないだけではなく、先生と子供の関係が悪化するでしょうし、子供は自信を失っていさらに状況が悪くなる可能性が高いのです。

 問題行動は、一般的に適応的行動と考えられています。つまり、その子供が置かれた生活環境の中で自分が必要なものを何とか手に入れることや、耐えられない状況から何とか逃げ出すことを目指す、止むに止まれぬ行動であり、本人が何とか編み出した適応的な行動なのです。そう考えると、その振る舞いがいかに不適切かと説教することで解決することが非常に難しいことがわかります。止むに止まれぬ行動であり、その子供にとっては辛い状況を脱する手立てが他にないのですから、そうそうやめるわけにもいきません。子供の不適切な行動、しかも、繰り返し生じる行動への対処の基本は、そのような行動を取らずにはいられない苦しみから解放することです。その子供にとって必要なものをいかに与えられるか、その子供にとって堪え難い苦痛からいかに解放するか、ということが対策の主眼となるのです。問題行動への具体的な対応を説明することは本稿の目的ではありませんので、ここでは応用行動分析が助けになることを指摘するのみとしておきます。

 この例でも当てはまりますが、多くの学校の先生は「指導する」という言葉をあまりにもあっさりと口にされるのです。まるで、「指導する」の一言で詳細は言わなくても伝わるでしょ、とでも考えておられるように見えます。しかし、何について指導するにしても、具体的なアプローチは一つに定まることは少ないと思います。繰り返し暴言を吐く、という単純な事象に対する指導を考えても、その行動を維持する要因は複数考えられるでしょうし、その要因への手の入れ方も色々なやり方が考えられそうです。もしも、指導することに何らかの成果を期待しようというのであれば、「指導する」の一言で表現できるようなものにはならないと思うのです。

 問題行動に限らず通常の教科教育についても「指導」や「教育」という言葉の意味を考える時に「成果をあげる」ということを強く意識してほしいなあと思います。私なんぞに言われるまでもなく、成果を目指して奮闘されている先生が大多数だとは思います。ただ、発達障害を主な対象とする診療をしている身としては、日常生活の中で困っていることがあって受診する子供達やその親から話を聞くことが多いのです。そのためか、学業についてもごくごく基礎的なことが理解できていないままに取り残されている子供たちにしばしば出会います。ひらがなをスムーズに読むことさえできていないまま繰り返し長文読解に取り組まされ、読解力がないと指摘され続ける子がいます。序数や基数など基本的な数量概念理解ができていない状態の子が、繰り上がり繰り下がりの計算が弱いという理由で大量の計算問題に取り組ませられ続けることもあります。このような子供達を見る時、「なぜなかなか成果が上がらないのだろうか」と一度立ち止まって考え、本人が躓いている原因は何かを分析してみたり、その子供には異なった教授法が向いているのではないかと思案してみたりしていただけないものかなあとよく思います。「指導する」ことが単に決められた学習内容を伝達することや、定まった手順での指導を機械的に繰り返すことにならないでほしいと切に願っています。

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 さて、だらだらと書いてきましたが、この「先生、お言葉を返すようで恐縮ですが」シリーズは今回で終わりです。一部でも読んでいただいた方には感謝いたします。

「先生、お言葉を返すようで恐縮ですが」:目次


2026年3月7日土曜日

このままでは将来困るから

  片付けがとても苦手で、忘れ物も多いし、面倒臭くてメモも取れない子供がよくいます(大人も多いですが)。何度もなんども先生が注意したり叱ったりするのですが、一向に改善の兆しがありません。僕の外来にはこういうタイプの子供がよく受診します。何度も叱られたり注意されたりしても失敗を繰り返すのですから、叱ることの成果はありません。授業に必要なものを無くしたり忘れたりしますから、様々な学習で不利になります。対策を立てずに放置すれば、学校生活に大きく躓いていくのが目に見えています。それを防ぐためにはこまめに指示を出してあげたり、必要な手順を表にして机に置いてあげたり、あるいは忘れたものは学校の備品を貸してあげるなりして、苦手なことで躓きっぱなしになることを避け、本来自分が持っている能力を十分に発揮できるようにしてあげる方が良いのではないかと思います。僕は、必要な援助をしてもらえるように学校の先生にお願いすることを保護者にお勧めしています。しかし、実際に保護者が先生に相談するとしばしば返ってくる返事が「このままでは将来困るから、手助けをしない方が良いです」というものです。

 「このままでは将来困るから」という台詞はとてもよく耳にする言葉です。片付けができず忘れ物が多い子供がいても「このままでは将来困るから」手伝うことなくお説教をして改善させようとします。何かといえば口を荒らす子供には、「このままでは将来困るから」悪い言葉遣いをするたびに逐一叱ろうとします。この種のエピソードにはほぼ例外なく共通する問題があります。「このままでは将来困るから」という意見に問題はありません。確かに困る可能性が高いです。それならば、少しでも将来が明るくなるように変化をもたらす方策を探る必要があります。ところが、このような台詞を口にする先生方は得てして対応を変えようとしません。今まで散々注意したりお説教したりしてきたのに改善が見られないのです。このような対応では解決しないということを自ら実証しているわけです。成果のない方法を継続することは明らかに不適切です。成果がないばかりか、忘れ物のために学習効率が低下して勉強に遅れ出したり、繰り返しダメ出しを受けることから負の感情が高まりより一層暴言が増えたりすることがあります。

 忘れ物や無くし物が多い子供では、取り敢えず物を忘れたり無くしたりしても困らないように支援し、能力に見合った学習が進むように取り計らえば良いと思います。そのようにすることで何もかも自信をなくしていくことを防ぐことができます。そして、忘れ物や無くし物を減らすために、その子供にもできる具体的な方法を一緒に考えてあげれば良いのです。忘れ物をするたびにお説教し授業に参加できない状態を長期に続けるよりもよほど素晴らしい「将来」を保証することができると思います。何かといえば口を荒らす子であれば、少々失敬な物言いや無作法な台詞を口にしても耳に入っていないふりをしながら、そこそこ普通に話している時に言葉遣いがよくなっていることを繰り返し褒める方が、より効果が上がります。私は「このままでは将来困るから」という言葉自体を批判しているのではありません。この台詞を言い訳にして子供への一向に成果が上がらない接し方にこだわり、新しい指導の工夫をしないことに情けない思いを抱くのです。

 「このままでは将来困るから」、明るい将来を実現するための作戦を練ろうと考えることがごく自然で合理的な発想ではないかと思います。しかし、現実には「このままでは将来困るから」、このままの状態を維持し続けようとされる先生の話を耳にすることが結構多いのです。世の中には、論理的に考えれば無益な方向に進んでいても、今までの自分のやり方を変えることにひどく抵抗を感じる方が多いのでしょうか。どうも不思議です。しかも、自分のやり方を変えられない先生が目指していることが子供の振る舞い方を変えることなのですから、なんだか悪い冗談を聞かされているような気がしてきます。

 ひょっとしたら、このタイプの先生方は行動や認知の特性が日常生活の困難に繋がっている発達障害というものを理解することがどうしてもできないのかもしれません。目の悪い子供に自分の力で遠くを見なさいと説教しても無駄であり、眼鏡をかけさせる必要があります。これと全く同じで、不注意の強い子供に自分の意思で忘れ物をしないことを求めたり、衝動性の強い子供に自らの努力のみで口を荒らさないことを求めたりすることはナンセンスです。自分の意思や努力ではどうにもならない困難さで生活に支障をきたしているのだから「障害」なのです。しかし、「このままでは将来困るから」手伝わないと主張する先生方にはこのような子供たちの苦しみが見えず、単なる心がけの問題としか思えないのかもしれません。そうだとすれば、悲しいことです。

「先生、お言葉を返すようで恐縮ですが」:目次

2026年2月28日土曜日

おたくのお子さん1人だけに違うことはできません

  発達障害を有する子供の保護者が担任の先生に何らかの支援を求めたときに、先生から「おたくのお子さん1人だけに違うことはできません」と伝えられることが時にあります。この、「先生、お言葉を返すようで恐縮ですが」シリーズでは、教師や保育者が悪意なく発する、いや、むしろ善意や職務への熱意から口にしそうな言葉を主に取り上げてきたつもりです。しかし、「おたくのお子さん1人だけに違うことはできません」は完全にアウトです。私自身の経験からはこのようなことをおっしゃる先生はあまりいないと思いますし、少ないと信じたいです。なぜならば、もしこういうセリフを口にし、かつ言葉通りに振る舞っておられるなら、それは明らかに日本では認められないからです。

 2006年12月に改正された教育基本法には「国及び地方公共団体は、障害のある者が、その障害の状態に応じ、十分な教育を受けられるよう、教育上必要な支援を講じなければならない。(第4条第2項)」という条項が加えられました。そして、この規定の元となった2005年の中央教育審議会答申では特別支援教育について、幼児児童生徒一人一人の教育的ニーズを把握し、適切な指導及び必要な支援を行うものであると説明しています。同時に、この答申では通常学級に在籍する子供に対しても個々の教育的ニーズに沿った支援をすることを求めています。つまり、障害を持つ特定の子供に何らかの教育的ニーズがあれば、それに応じて「1人だけに違うこと」をせねばならないのです。
 さて、一人一人の子供に必要な支援や適切な指導をせねばならないとすれば、一体どういう考え方でどの程度のことをせねばならないのでしょうか。それを考える上でのキーワードが「合理的配慮」です。合理的配慮は2006年に国連で採択され、日本でも2014年に効力を発生した障害者の権利に関する条約では、合理的配慮は次のように説明されています。
「合理的配慮」とは、障害者が他の者との平等を基礎として全ての人権及び基本的自由を享有し、又は行使することを確保するための必要かつ適当な変更及び調整であって、特定の場合において必要とされるものであり、かつ、均衡を失した又は過度の負担を課さないものをいう。
 障害者の権利に関する条約では合理的配慮の否定は差別とみなされます。また、国内法でも2016年に施行された障害者差別解消法で全ての事業所において(2024年4月から)合理的配慮が義務化されています。合理的配慮は"reasonable accommodation"の訳です。「配慮」と訳されたので全ての人に「善意からの心配り」が求められていると誤解されやすいのですが、実際の意味合いはかなり異なります。障害児本人が学校園で他の子供と同等の機会を提供されるために必要な「調整」と考えた方が本来の意味を反映しています。しかも、上記の説明の通り、均衡を失した又は過度の負担を課さないものという条件がつけられており、際限なく濃厚な援助をする義務が学校園側にあるわけではありません。とはいえ、発達障害を伴う子供がその障害のために学校園で建設的に暮らせていない時には、特別な支援をしなければいけません。「おたくのお子さん1人だけに違うことはできません」と言って何の配慮もなく放置することは差別とみなされ許されるものではありません。
 さて、基本的なことは押さえた上で話の流れを変えようと思います。昨今の教師や保育者の忙しさは多くの人に認識されるようになっているのではないでしょうか。決して少なくはない受け持ちの子供たちを直接指導するという本来業務だけでも大変だと思うのですが、保護者からの相談に乗ったり、時には苦情処理をしたりせねばなりません。その上、監督官庁からの通達や地域住民からの無責任な要望などにより業務が増す一方ですし、責任を負わされる範囲も増える一方だと聞いています。そのような状況だと「おたくのお子さん1人だけに違うことはできません」と言いたくなっても不思議ではありません。しかし、先述の通り、これは言ってはいけない台詞です。ではどうすれば良いのでしょうか。
 個別の配慮について考える前に、ユニバーサルデザインを意識した環境作りに触れておきます。どの子供にとっても暮らしやすい環境です。発達障害の代表として取り上げられやすい注意欠如多動症や自閉スペクトラム症の子供に対する基本的配慮事項は、実は多くの子供達にとっても暮らしやすくなることにつながりやすいです。例えば、注意欠如多動症のある子供の指導でよく取り上げられる、できていることに注目し不適切な行動は無視をするという技法は全ての子どもにとって有意義です。自閉スペクトラム症への配慮としてよく言及される視覚的支援やわかりやすい形のスケジュール表をこまめに提示することなどは、自閉スペクトラム症以外の多くの子供達にとっても安心して暮らせる環境を作ることにつながります。これらの広く知られたごく一般的な配慮事項を日頃から徹底するということは、個別の配慮の必要性を減らし、先生方の負担を減らすと思います。
 個別の配慮を考える前提として、完璧を目指す必要はないことをよく意識しましょう。特に、個人の特殊な事情に合わせた支援や工夫は理想を追い求めてできるものではありません。先に説明しました合理的配慮の説明で「均衡を失した又は過度の負担を課さないもの」と書いてありましたが、これは重要なポイントです。あくまでできることを着実に実行していくことが大切です。個別の配慮の具体は、子供のニーズによってそれぞれですから、ここで総論的に説明することはできません。ただ、ぜひ考慮していただきたいことを一つ二つ書いておきます。
 多くの先生方はなんとか子供のためになるように精一杯頑張っておられます。すでに一杯一杯になっている方も多いのではないでしょうか。その状況でまず考えるべきことは、無駄を減らすことです。私の偏見かもしれませんが、教師や保育者は一度始めたことから撤退することが苦手な人が多いように見えます。様々な工夫や努力をしていらっしゃるのですが、一定期間が経てばその成果を見直すことが必要です。計画段階から、どのくらいの期間実行すれば成果の有無を検証するということも考えておくことが理想です。少なくとも、長年続けてきたけれども成果が上がらないことは一旦中止した方が良いでしょう。私の外来を受診する子供達に関して真っ先に浮かぶのは、宿題です。宿題をすることが辛くて辛くて、毎日家で大暴れしているケースでは、宿題から得られるものなんてほとんどありません。直ちにやめればその子の宿題を確認する手間が減ります。逆に、余裕しゃくしゃくで授業を理解し課題を解いている子供も、宿題をするメリットはほとんどないでしょう。「決まっているから」とか「すべきことだから」という考え方を捨てて、これをすることが子供にとってどのような利益になるのだろうかという損得勘定の観点で考えれば、当たり前のように実行していることでも無駄なことは多いと思います。
 成果が上がらない手立ては上記のように無駄ではないかと考えることが大事ですが、その前にやり方に修正すべき点がないかを検討することも必要です。特に、専門家達が長年その成果を確認してきたような手法では、根本的に無意味というよりも実行方法に問題がある可能性を検討するべきです。例えば、これは私自身の経験ですが、視覚的支援が重要だからと子供の机に注意事項や守るべきルールを書いた紙を大量に貼り付けた先生がいました。このようなやり方だと情報量が多くて把握しきれないことに加えて、本人にとって面白くないことばかりを書いているので、貼り紙が嫌悪刺激になります。このような場合に成果が見られなくても、視覚的支援が無意味なのではなく、用い方に問題があります。すでに実行している方法を少しずつ修正することはそれほど手間を増やすわけではなく、実行しやすいのではないでしょうか。なお、このことに関連して追加しておきますと、一見手間が増えるように感じても、繰り返し実効性が証明されているスキルを取り入れることが結局は楽になる方法と言えます。最近は、少し大きな書店に行けば様々な配慮が必要な子供を念頭に置いた支援方法を記載した書籍がいろいろ出ています。また、近くに教員養成課程や保育士養成課程、あるいは心理学部のある大学があれば、いろいろ助言をしてくれる専門家がいることがあります。連絡を取り協力してもらえないかお尋ねになるのも良いのではないでしょうか。
 少し話がそれますが、ケース会などに参加している時に「やれることは全部やりました!」と担任の先生がおっしゃる場面を目撃することが何度かありました。努力が成果につながらず、疲労困憊されているのだろうということが伝わってきます。このような発言を口にされる、特に公的な場でおっしゃる先生に必要なことは休息です。ここまでに書いてきたように問題への対処は色々な選択肢があります。ユニバーサルデザインを意識して生徒全員への働きかけ、成果があまり上がらなかった工夫の細かい改良、成果の見られない手立てを止めること、問題が生じる状況を改めて観察し分析すること、これらの組み合わせ、などを考えていけばどのような状況にあっても何かしら新しい試みは可能です。やれることを全部やり尽くすなど現実にはあり得ません。しかし、この矛盾に気付けず「やれることは全部やりました!」と口にしてしまう先生は精神的に参っている状態だと言えます。休息が必要だと思います。


2026年2月21日土曜日

頑張れ!

  「頑張れ!」、「もう少し頑張ろう」、「皆んなやってるんだから頑張って」。別に教師や保育者でなくてもよく口にする台詞です。かくいう私もつい言ってしまうことがよくあります。しかし、「頑張れ!」という言葉を子供に向かって使う時は慎重に考える必要があります。子供本人が自ら進んで何かに取り組んでいる時、とりわけ楽しそうにあるいは面白そうに取り組んでいるときには問題ないことが多そうです。しかし、慎重になるべきなのはあまり成果を出せていない子供の場合です。授業や課題に集中できていない時、逆上がりの練習に取り組みたがらない時、集団での話し合いに参加しようとしない時、登校を嫌がり出した時、あまり軽々しく「頑張れ!」と言わない方が良いです。なぜならば、うまくいっていない子供たちはすでに頑張ってきたからです。それぞれの子供なりに頑張ったものの上手くいかないからやる気がなかったりイライラしたり拒絶したりしているのです。すでに頑張っているのにさらに「頑張れ」と言われてもげんなりするだけです。皆さんも徹夜続きでなんとか仕事をこなした直後に、上司から「よーし、もっと頑張ってみよう!」なんてことを言われたら逃げたくなるでしょう?

 そうです。子供達はすごく頑張っているのです。学校や保育所ですべきことをきちんとしない、不適切な行動が多い、学習の成果が上がらない、などの問題が見られる子供に対処するとき、指導者はまず大前提として「この子はすごく頑張っているのだ」という意識を持っておく必要があります。すでに頑張っているのであれば、さらに頑張らせることで問題解決を図るということは実に馬鹿げたアプローチであるということになります。では、どうすれば良いのか。向かうべき方向性は明瞭です。子供が指導者から課された目標を達成できず頑張り続けて疲れて限界に来ているのですから、必要なことは「頑張れ」という励ましではありません。頑張った挙句に消耗しているのですから、その子供を楽にしてあげなければいけません。しかも、ただ単に休ませれば良いというものではありません。挫折感を抱かせないように、日々自分は何かをやり遂げているのだとか成長できているのだとか感じられる状態を作りつつ、楽に暮らせる工夫が必要です。

 まず考えると良いことは、難易度と量の両方の面から見てその子供に適切な課題を設定することではないかと思います。当然、指導者は子供の能力や認知・行動の特性を正確に把握することが前提になります。難しく考える必要はありません。日頃の言動から、大体こんなところかなと当たりをつけて課題を準備します。子供がその課題をあまりにもあっさりと片付けられるならもう少しレベルを上げれば良いですし、かなり頑張らないとこなせない時や子どもが嫌がるようならレベルが高すぎます。ここで十分に意識しておかねばいけないポイントは、少し頑張れば達成できる課題にするということです。たとえ達成できたとしても、本人がすごく頑張ってやっとこなせる課題レベルや量は長期間維持できません。課題レベルの設定で迷った時には迷うことなく簡単な課題をまず選びましょう。簡単すぎることが判明すれば、それからレベルを上げれば良いことです。あくまで「楽に暮らせるようにする」というミッションを守らねばなりません。ごくたまにはずいぶん手応えのある課題を用意しても良いのですが、できたからといって調子に乗り、そのレベルの課題を出し続けることのないように気をつける必要があります。

 その子供にとって課題や活動に魅力があるのかということも大事な観点です。課題を達成できただけでもそれなりに満足感があるものですが、さらにその活動や課題に面白さを感じたり興味を持てたりすると大変宜しい。皆さんが「頑張れ」なんて言わなくても、子供が勝手に張り切って取り組みます。どのような要素を付け加えれば面白くなるのかが最初からわかっていることはありません。結局色々な工夫をして反応を確認するしかありませんが、普段その子供が何に興味を持ち、何を喜んでいるのかを観察しておけば工夫のヒントが得られるかもしれません。例えば、長文を読解する課題に取り組ませるとき、虫が好きな子であれば虫をテーマにした文章を教材に選べば張り切るかもしれません。

 「頑張れ」というセリフは、現場での子供の能力や認知・行動特性を正確に把握し、過剰な負荷をかけない程度の適切な課題設定とそのほかの環境調節を行い、ある程度余裕を持ちながらも日々成功体験を積ませ続けさせることのできる先生のみが口にすることを許されていると考えれば良いのかもしれません。

 少し話がそれますが、発達障害のある子供の保護者に最近の学校での様子を尋ねた時、「担任の先生が『よく頑張っていますよ』と言ってくれます」という返事が返ってくることがしばしばあります。このような時、私の頭の中には警報が鳴り始めます。先生から見て「頑張っている」状態では、子供本人は頑張りすぎている可能性が高いです。それまで学校生活の中で何も問題を指摘されていなかったのに、ある日突然登校できなくなる子供では、先生が「よく頑張っていますよ」と言いたくなりそうな状態が事前に続いていることが稀ではありません。どの子供であっても本人の主観の中では頑張って暮らしていると考えておいた方が良さそうなのですが、とりわけなんらかの発達障害の診断を受けたことがある子が学校で何も問題なく暮らしているように見えるときには、その子は無理な背伸びをして過剰に頑張り続けている可能性があると意識してみる必要があります。



2026年2月15日日曜日

愛情が不足している/しっかり愛情をかけてあげて

  暦の上ではすでに秋真っ只中のはずなのにうんざりするような暑さが続いていたと思ったら突然薄ら寒くなり出した10月末、本田英美は市内にある大きな保育所の職員室に座っていた。この保育園に通う5歳児の岡田将太は集団活動に参加したがらないし、しばしば激しいかんしゃくや他の子供への暴力が見られる。対応に困った先生達がケース会議を開いたのだが、将太の主治医である小児神経科医の英美も招かれて参加することになったのである。会議は実り多いものだった。何よりも担任の先生が真面目で誠実なだけではなく、子供の行動特徴を細かく客観的に把握しているし、見聞きした事実と自分が考えた推測とをきちんと分けて説明できる人であった。おかげで、英美は問題となっている将太の行動それぞれの生じやすい条件や生じた後の場の展開などを具体的に把握できた。このような情報から、英美は問題の頻度を増やしやすい環境やそのような行動が生じる直接のきっかけを指摘するとともに、なぜ翔太がそのように振る舞わざるをえないかという行動の持つ意味についての仮説を説明することもできた。担任と主任の先生は飲み込みが早く、英美の説明からいくつかの対処方法を思いついたらしい。さっそく、まず取り掛かれることは何かなどの作戦を練り始めていた。会議の終了時に還暦前後くらいかなと思われる園長が締めの挨拶をしたのだが、その中で「私は問題行動を起こしやすい子供って、親の愛情が不足しているのではないかと思っています。もっとしっかり愛情をかけてあげてほしいなと常々感じてます」という一説があった。これを聞いた瞬間、英美はそれまで感じていた充実感が吹っ飛び気持ちが暗くなった。こんなに優秀な職員達を束ねている園長でもこういうことを口走るのかとひどく残念な気分であったが、時間も遅かったので何も言わずにその場を辞した。

 英美は最近Chat GPTで遊ぶことがよくある。この日も帰宅後、Chat GPTに「愛情をかける、という言葉に胡散臭さを感じるのですが、どう思いますか」と質問してみた。すると彼(彼女なのか?)の第一声は「その感覚、かなり自然だと思います。『愛情をかける』という言葉には、たしかに胡散臭く聞こえる要素が含まれやすいです」というものであった。お、なかなか好意的な返答ではないか、と思いながら英美は続きを読んだ。チャット君の言い分は要約すれば次のようなものである。

  • 具体性がなく、何をどうすれば良いのかが曖昧で聴く側に解釈を丸投げしているので責任の所在がぼやける。
  • 道徳的に「正しそう」な響きを持っているので反論しづらい。
  • 信頼関係がある場面や具体的な行動とセットであれば、完全にダメな言葉とも言えない。
  • つまり違和感の正体は、「中身が語られていないのに、良いことを言った気になれる言葉」になりやすいところではないか。

 チャット君、なかなか大したものではないか。これは議論の相手としては結構いけるぞと思い、さらに質問を重ねることにした。英美は「教師や保育者が学校園で問題を起こす子供の親について『親の愛情が足りない』とか『もっと愛情をかけてほしい』と口にすることがしばしばあります。この言葉自体には客観的で建設的な意義は乏しいと思います。ただ、教師や保育者がそう思っている背景を明らかにできれば子供を取り巻く問題の一端を明らかにする一助になるかもしれません。このような発言をする教師や保育者に、どのような質問をすれば状況をより良い方向へ動かす手掛かりになると思いますか」と入力した。すると、チャット君の第一声は「とても整理された問題提起だと思います」というものであった。英美は思わず「褒めていただいて恐縮です」と言いながら頭を下げる。チャット君の説明はざっと以下のようなものであった。

 チャット君はまず、「愛情が足りない/もっと愛情を」 という曖昧で検証不能で行動につながりにくい表現の裏には、教師・保育者の言語化しきれていない観察や困難感があるとのべた。なんたる落ち着いた思考であろうかと英美は感心する。そしてチャット君は、「愛情が足りない/もっと愛情を」 という表現を翻訳させる質問を教師や保育者に投げかけることが有効ではないかと提案してくれる。チャット君は質問の具体例を、5つの目的に分けて示してくれた。

1.抽象的評価を、観察可能な事実や具体的行動に変換するための質問

  • 「『愛情が足りない』と感じられたのは、どんな場面を見てそう思われたのですか?」
  • 「具体的に、どんな関わりが増えると変化がありそうだと考えていますか?」
  • 「逆に、十分に関わっているように見える場面はありましたか?」

 うむ、これは「愛情が足りない」と口にする教師・保育者を一方的に非難することを避け、さらにそう感じた根拠を少しでも汲み取ろうとする試みではないか。確かに無根拠に口にしているとばかりは言えない。先生の発言の背景を具体化すると、子どもや保護者への援助を考えるヒントになるかもしれない。それだけではなく、保護者への適切な関わりを考えるように水を向けたり、保護者の評価すべき点を意識するように促したりもしている。なかなか巧みな進め方ではないか。

2.親の問題として語られているものが、実は現場の支援困難や限界感の表現である可能性を探るための質問

  • 「そのことで、先生ご自身はどんな点が一番大変だと感じておられますか?」
  • 「園(学校)での対応として、難しいと感じている部分はどこでしょうか?」
  • 「もし今より支援が増えるとしたら、どんな点が助かりそうですか?」

 なるほどなあ、「愛情が足りない」などという碌に根拠のない発言が口をついて出てきているということは、保育士教師の置かれた辛い状況がもたらすものということは考えられるな。保育者や教師の味わっているかもしれない辛さに目を向けるなんて、さすが下手なカウンセラーよりも癒し上手のチャット君である。この手の保育者や教師に共感的な眼差しというものは英美の苦手とするところである。患者やその保護者には優しい気持ちを抱けるのだけどなあ。

3.親評価から離れ、子どものニーズや特性に話題を戻すための質問

  • 「その子は、どんな時に一番落ち着いていますか?」
  • 「安心しているように見える瞬間はありますか?」
  • 「逆に、特に不安定になりやすい状況はありますか?」

 ここは重要だな。結局は子供の様子に心配なところがあることから広がって出てきた発想なんだから、子供の状況を明確にしておくことはまず必要だと思う。でも、小児神経科医の英美の場合、子供の状況から話が始まることが多いので、改めてこのような質問に繋げる機会は少なそうだ。

4.無意識の規範(例:こうあるべき親像)が判断を歪めていないかを可視化するための質問

  • 「先生のご経験上、うまくいっていると感じるご家庭には、どんな共通点がありますか?」
  • 「それは、そのご家庭の事情が違っても実現可能なことだと思われますか?」
  • 「難しい事情がある場合、どこまでを期待できると考えていますか?」

 こ、これは、すごい!「愛情が足りない」という考えに至る自分の思考過程を内省させ、客観化するきっかけを作っているではないか。チャット君、出来る子。

5.評価で終わらせず、建設的な具体的支援や連携に話を進めるための質問

  • 「今の状況で、親・園(学校)・外部支援の中で、どこに働きかけるのが現実的だと思いますか?」
  • 「この子にとって、今一番小さくても効果がありそうな変化は何でしょう?」
  • 「もし親御さんに一つだけ伝えるとしたら、どんな形が一番伝わりやすいと思いますか?」

 英美は思わず「勉強になります」と頭を下げそうになった。実に説得力のある説明ではないか。一貫して、相手を責めることを避けながら現実的な思考をさせるように促しているように見える。大したものである。しかも、チャット君は最後に次のようなまとめを述べてくれた。

「愛情が足りない」という言葉は多くの場合、不安、無力感、説明困難な違和感、支援資源の不足が一語に圧縮されたラベルです。有効な質問とは、そのラベルを観察・困難・ニーズ・選択肢へと分解するものです。あなたの問題意識は、「親を責める言説」そのものではなく、それが思考停止として使われてしまう構造に向いています。上記のような問いかけは、相手を追い詰めずに、その構造をほぐす助けになるはずです。

 なんと、英美の問題意識を反射的な反感ではなく建設的な疑問として捉えてくれている。「えへへ、そうなのか。自分でも知らんかった」と英美は独りごちた。年を経るにつれてそれなりに社会的な振る舞いを身につけてきたとは感じているが、本来英美は単細胞人間である。相手の発言に問題を感じると、ついその問題を指摘し反論しようとしてしまう。現実社会ではそのような対決姿勢で建設的な展開が見られることはほとんどない。チャット君の大人っぽく思慮深い見解を読み、英美は頬が赤らむような気持ちである。とはいえ、英美は面白くない気持ちを抱いていた。チャット君の述べたことは英美の考えとかなり一致しているし、それがもっとスマートに整理されている。秀美が何年間も行きつ戻りつしながらまとめてきた考えを、チャット君は一瞬にして要領よく説明して見せるのである。なんだか間も無く自分は不要な存在になるのかなあという気持ちが胸の内にモヤモヤと湧いてくるのであった。しかし、秀実は一つだけチャット君の意見に明確に反論できる点がある。チャット君は「あなたの問題意識は、『親を責める言説』そのものではなく、それが思考停止として使われてしまう構造に向いています」と述べているが、英美は明確に「親を責める言説」が問題だと考えている。子供を成長させるための仲間として保護者を迎え入れるべき立場にある保育者や教師が、保護者を問題の根本原因のようにみなして得られるものなどなかろう。百歩譲って保護者が実際に相当不適切な子供への接し方をしていたとしても、保護者を非難することによって得られるものなんて無かろうと英美は腹が立つのである。ただ、この時点で保育者や教師についても同じことが言えるのではないかということに気がついていないところが、英美の間抜けさとも言える。



2026年2月11日水曜日

寄り添う

  ほとんどの保育者や教師と、支援が必要な子供について10分間くらい話していれば、何回か耳にしそうな言葉が「寄り添う」です。まあ、悪い言葉ではありません。「困っている子供にしっかりと寄り添いたいと思います」などと言われて、非難できる人がいるとは思えません。子供の幸せを願う善意に溢れた表現です。問題は、この言葉が何を意味しているのか不明確だということです。辞書的には、寄り添うは本来、体が触れそうになるほど近くに寄ることを意味しています。物理的に相手の体の近づくことを意味しています。3つ4つの辞書で確認しましたが、似たり寄ったりの語釈が書いてあります。

 まさか先生方は支援が必要な子供に常にピッタリと体を引っ付けようと考えているわけではないでしょう(特殊な場合はそれが必要なこともあるかもしれませんが)。してみると、「寄り添う」という言葉で具体的にはどういう行動を言い表そうとしているのでしょうか。「先生は『寄り添う』という言葉で具体的に何を言いたいのですか?」などという意地悪な質問をしたことはありません。注意深く見守りたいとか(そう言えば、「見守る」も曖昧な言葉ですが)、時々の子供の気持ちを汲み取り共感を示していきたいなどの意味で「寄り添う」と仰っているのかなと推測しています。いずれにしても、随分曖昧な表現です。率直に言えば、多くの場合は先生ご自身が「寄り添う」の具体的な意味をそれほど深く意識せずに口にされているのではないかという気がしています。

 一般的に、発達障害のある子供が生活の中で何かがうまくいかず困っている時、そこには理由があります。もともと本人が持っている特性と本人を取り巻く環境がうまく噛み合っていないことが日々の困難に結びついています。問題を解決し、物事がうまくいくように子供をサポートするためには、問題が生じる理由をできる限り推測し、具体的な対策を実行する必要があります。例えば、不注意さが強く文字の読みが苦手な子供が授業中に立ち歩いたりかんしゃくを起こしたりして困っているとします。当然、授業中は色々なことが上手くいかず不愉快な時間を強いられている可能性が考えられます。集中できないので先生が何を話しているのかわからない、課題の量がとんでもなく多く感じてしまう、文章を読むことに過剰な努力が必要で疲れ切ってしまう、といったことが起こっているのかもしれません。そうであれば、不注意さを補うような指導の工夫をする、流暢に文字が読めるような練習をする、疲れ果てながら教科書を読まなくても学習が進むように本や問題を読み上げることや音声教材を使うことを検討する、などの対応が必要になります。つまり、問題が生じる原因や仕組みを具体的に想定し、それに対する具体的な作戦を立て実行していく必要があるのです。

 何をするのか具体がわからないものの、悪意を含まず何かをしているように思わせる表現は確かに便利です。私達医師が使うその種の言葉に「様子を見ましょう」とか「経過を見ましょう」という言い回しがあります。一見意味ありげにも見えますが、この一言だけで済ますなら極めて無責任な発言だと思います。どのような可能性が考えられるのか、いつまで経過を見るのか、何に気をつけておく必要があるのか、次に受診するのはどういう時か、などのことを具体的に説明しておく必要があります。

 医師も教師や保育者も専門性を持った対人サービス職です。漫然と流すのではなく、技術的に何が必要で何が不要なのかを可能な限り具体的に考え、そして現時点でわかっていないことやできることの限界も具体的に言及する姿勢がいるのではないかと思います。「寄り添う」という言葉を使うこと自体が責められるわけではありません。しかし、「寄り添う」と口にするだけで何かを言った気になり、具体的な行動計画には全く触れない姿勢はできるだけ避けた方が良いのではないでしょうか。

2026年2月7日土曜日

親の理解が悪いから

  保育者や教師が、自分が受け持つ子供の行動に問題を感じているのにその心配を保護者に共有してもらえない時、「親の理解が悪いから」と口にされることがあります。さすがに、保護者に面と向かって「あなたの理解が悪い」などと口にする先生は見たことがありません。私自身の経験では、研修会などで医師と雑談している時などにこのような発言が出てきます。おそらく、同僚同士の雑談などでは頻繁に出てくる表現ではないかなと推測しています。私がこんなに心配しているのに保護者はどうして理解してくれないのだろうかと戸惑われた経験を持つ先生が多いのだろうと思います。しかし、ちょっと立ち止まって考えてください。本当に理解が悪いのでしょうか。私の経験からは、必ずしもそうではないような気がします。

 先生方から「理解が悪い保護者」と判断された親について考える時、私の頭にまず浮かんでくるのは非常に上手に子供に接している親です。意図しているのかセンスが良いからか分かりませんが、親が子供に非常に適切な接し方をするため家庭では大した問題が生じず、したがって親は何も困っていないという状況はよくあります。この様な場合、先生と親の話が噛み合わなくなってしまいます。そういう場合でも、親に順序立てて聞いていくと子供の行動特徴は結構しっかりと把握していることが多いです。じっとすることが苦手とか、集中が難しいとか、会話に噛み合いにくさがあるとか、冷静に把握していることが多いのです。つまり、親の理解が悪いのではなく困っていない状況なのです。この様な場合に、先生が「問題がある」とか「異常だ」というニュアンスを前面に出し、医療機関受診をせっついたりすると保護者もなかなか話に乗って来れないと思います。
 先生から「理解が悪い」とみなされそうな、別のタイプの保護者もいます。それは、自分の子供に問題があることを受け入れられない人達です。このような保護者でも、自分の子供の特徴に何も気づいていないということはそれほど多くないのではないかと私は感じています。なぜなら、子供に問題があるかどうかではなく、保護者自身が家庭で子供に接する時に苦しんだり辛く感じたりすることがないかに焦点を当てて話をすると色々語り出すことがよくあるからです。例えば、「つい感情的に強く叱ってしまうことはありませんか?」という質問をする様な時です。学校園での問題や先生が心配していることを伝えても乗ってこない保護者は、現実を理解していない人なのではなく、子供にまつわる心配な事実を色々感じながらも、自分を保つために何とか問題の存在を否定しようとしているのかもしれません。
 これらの場合には、どんな対応をすれば保護者との協力関係を築きやすいのでしょうか。簡単な解決策はありませんが、少なくともいくつか念頭に置いておくと良いかもしれないことがあります。第一に、日頃から先生が気になるエピソードをこまめに具体的に伝えておくと良いと思います。問題が非常に大きくなって先生が疲れ果ててから勢い込んで保護者に連絡することは避けた方が安全です。降って湧いたような学校園からの連絡を保護者が受け止めきれなくなるからです。日常的に小さなエピソードがこまめに伝えられている方が、保護者としても学校園での様子を想像しやすく、冷静に受け止めやすいと思います。
 第二に、先生が問題と感じるエピソードを伝えるときに、できる限り良い情報も合わせて伝えた方が良いです。本人ができる様になったこと、努力していること、楽しめたこと、ほっこりするエピソードなどを合わせて伝えるようにすると良いと思います。そうすることで子供の学校園での生活が悪いことだらけなのではなく、問題があったとしてもそれは生活の中の一部分だということが親に感じ取れます。問題だけを、それも繰り返し伝えてしまうとかなり気丈な親でも参ってしまいます。
 第三に、「問題」は誰にとっての問題か、ということを意識すると良いと思います。あくまで本人にとっての問題として伝えるのが原則です。先生や周りの子供達が困っていることもよくあるとは思いますが、まずは、本人を中心に据えた説明をすると良いと思います。楽しく有意義な集団生活を過ごしてもらいたいが、この様な状況が起こるため本人が十分に力を発揮できなかったり楽しい集団生活を送りにくくなったりしているので心配である、なんとかしたいと思っているという文脈で伝えるのです。併せて、先生なりに次にどの様な手立てを考えているかも伝えると良いと思います。打つ手がなくて困り果てているような伝え方よりも、たとえ確実ではなくても解決策のプランがあるように伝える方が、保護者は冷静に受け止められます。その際に、考えつく助言やアイデアが何かあれば教えて欲しいと保護者に伝えるともっと良いかもしれません。特に、子供の特徴を熟知し上手に接している親なら先生の仕事に役立つ良いヒントをくれるかもしれません。ただし、学校園で生じている問題を親に解決させようとすることは絶対に避けた方が良いです。例えば、「親御さんからもよく言って聞かせてくださいね」などと頼んだりすることはやめておくことをお勧めします。家で親が注意したら「はい、わかりました」と学校園での行動が変わるくらいなら、最初から何の苦労もありません。親に解決を依頼しても役に立たないばかりか、学校園でも家庭でも同じことについて説教されることになり、子供が安らぐ場がなくなります。親が学校園での問題を解決することはほぼ不可能だと考えておきましょう。親に何か依頼するのであれば、確実に実行でき、かつ、親子関係を悪化させないことに限っておく方が良いと思います。例えば、学校で何かの目標を達成できた時に、保護者から褒めてもらう様に依頼するというようなことなら簡単に実行できそうです。
 最後に、保護者が共感してくれるかどうかに関わらず、学校園で生じている問題には保育者や教師が自分で対応せざるを得ません。先にも述べましたように、家庭で学校園の問題を解決することはできません。そして、現場には保護者はいませんから頼ることはできません。結局、問題を解決できる人は先生をおいて他にはいないのです。学校園での子供の様子を保護者が把握できる様にしておくことは大切ですが、学校園で生じた問題への対応は基本的に自分達がしないといけないと考え、腹を括りましょう。

2026年2月1日日曜日

できなければ全部しなくて良いよ

  昔に比べて学校の先生たちは優しい人が増えたように思います。「泣こうが喚こうが、しないといけないことはしないといけないのだっ!」と、強引に子供に何かを強いる先生はかなり少ないのではないかと思います。子供達には限界というものがあるとよく承知され、極端な無理強いを避ける先生が増えました。例えば、宿題が辛くて辛くて家庭で親とバトルを繰り広げる子供がよくいます。そのような時に、「できなければ全部しなくても良いよ。できるところまですれば良い」と子供に伝えるのです。さて、このような対応に問題はないのでしょうか。

 「できなければ全部しなくても良いよ」と言われても、かんしゃくを起こしながら宿題を全部やろうとする子供は結構います。おそらく、全部しなくても良いよと言われてやめてしまった時、それは挫折になり悔しいからではないかと思います。しかも、最終的にやめるかどうかは自分の判断に任されています。子供達は誇り高いのです。自分はできないと自ら認めることに耐えられない子が少なくないだろうということは想像に難くありません。おそらく先生方は子供の状況に同情し、善意から「できなければ全部しなくても良いよ」と申し出られているのだろうと思います。しかし、宿題が苦しくてかんしゃくを起こしている子達から見れば、「どうせ君には難しいだろ、できないだろう」と言われた気持ちがするのかもしれません。

 私は子供達(発達障害かどうかに関係なくどの子供でも)に課題を出すときは、量的にも難易度的にもその子供が少し頑張れば達成できる課題を準備することを原則にした方が良いと考えています。時にはガツンと困難な課題に取り組ませても良いのですが、それは日々成功体験を積み自分の力を信じられるようになっていることが大前提です。最も注意深く避けるべきことは、無理やり頑張れば何とかこなせてしまう課題を与え続けることです。大人は子供が頑張って何かを成し遂げることが大好きです。特に、教師にはそのようなタイプが多いように思います。しかし、頑張ればできる課題がその子供にとって適切な課題というわけではありません。日々取り組ませる課題は、基本的には余裕を持ってこなせるレベルにする必要があります。大人だって残業続きだと心の健康を壊してしまいます。退屈な課題でも困りますが、毎日背伸びをし続けないといけない課題を出し続けることは避けるべきです。

 量的にも難易度的にもそれぞれの子供が少し頑張れば達成できる課題を設定する時、難易度を下げることや量を減らすことはすぐにでも実行できることであり、真っ先に考える必要があります。ただ、同時に検討すべきことがあります。それは、子供が苦しんでいる理由や易々とはできない理由を分析することです。難易度を下げ、量を減らし、課題をこなせた経験を積むだけでもそれなりの成果を出せると思います。しかし、多くの子どもがそれほど苦しまずにできていることが簡単にはできない時、その子供のなんらかの特性が学習にとって不利に働いているはずです。例えば、注意力が弱く集中できる時間が短いとか、平仮名読字の自動化が不完全であるとか、序数は身についても基数の理解が不十分だとか。逆に、うまく利用できれば学習にとって有利になるような特性を持っていることもあります。これらのその子供に固有の特徴を分析し、苦手さを補い利用できそうな特性を長所として活用できるような学習方法を具体的に考案することも、子どもが頑張りすぎないように、楽に暮らせるようにする上で重要なポイントです。

 個々の子供に見合った課題の設定はなかなか難しいとは思います。一つの目安は、その子供がその勉強や課題を嫌いにならないことではないでしょうか。欲を言えば、楽しめることが望ましい。そう言えば、私の外来には就学を控えた子供がたくさん来てくれます。「小学校に入ったら、何が楽しみ?」と質問すると、ほとんどの子供は屈託なく「勉強!」と答えます。小学校の先生にとって喜ばしい好条件が準備されています。しかし、小学校入学後も「勉強が楽しい」と言い続ける子は残念なことに少ないです。私は、すべての教科の指導目標を「楽しいと思わせる」にしてもバチは当たらないのではないかなあと考えたりしています。


2026年1月31日土曜日

ぶりょうをかこつ

 僕は非社交的な人間なのだが、時々食事に誘ってくれる友達が少数いる。先日も長年仲良くしてくれている年下の友人から「久しぶりに飲みに行きましょう」と誘いの連絡が入った。時々このように年寄りを誘ってくれるとは優しいなあ、といった意味の返事を書きながら「ぶりょうをかこっている年寄り」という表現が頭に浮かんだ。そのまま書きそうになったものの、「そもそも『ぶりょう』ってなんだ?漢字はどう書くのだ?」という疑問が湧いてきた。スマホに任せれば勝手に漢字を書いてはくれそうだが、ここまで意味も把握せず字もわからない使い慣れない言葉をさも知ったげに書くのはちょっと恥ずかしいなと感じて思いとどまった。

 せっかくなので(なにが?)辞書を引いてみた。そうか、「ぶりょう」は「無聊」と書くのか。「無」という字を使うことは知っていたが、「聊」は初めて知った。で、「無聊」はどういう意味かといえば、「することがなくて退屈なこと」とある。なるほど、そうなのか。明鏡国語辞典には「心配事があって気が晴れないこと」という語釈も載っているが、「無聊をかこっている」の日常的な使われ方から考えるに「することがなくて退屈なこと」の方がよく使われる意味だろう。案の定、明鏡国語辞典には「することがなくて退屈なこと」という語釈の用例として「無聊をかこつ」と書いてあるではないか。やはりこっちだ。ん?、え??、「かこつ」??
 僕は「無聊をかこっている」という表現の「かこっている」は「囲う」の活用形だと思い込んでいた。「かこつ」だったのか。知らなかった。しかし、「かこつ」ってなんだ?「かこつ」を辞書で引くと「託つ」と書くらしい。意味は、「ぐちをいう、嘆く」ということらしい。つまり、「無聊を託つ」はすることがなくて退屈だと愚痴っているのである。し、知らなかった。この勢いで、「聊」という漢字は何なのかを調べることにした。なんと、送り仮名「か」をつけると「いささか」と読むらしい。「些か」とも書く「いささか」であるが、「聊か」という表記もあったんだ。うーむ、知らんことばかりではないか。「聊」を漢和辞典で調べると、ここに書くには多すぎる多くの意味が記されている。なんということであろう。知らないことが多すぎるではないか。
 人生の折り返し地点なんてとっくの昔に通り過ぎて、間も無くゴールの白いテープさえ見えるかもしれない年齢に至ってこの体たらくは情けない。もともと身につけたものが少ない上に、脳みそからばらばらと音を立てて知識がこぼれ落ち出した老人がなんとか大恥をかかぬように暮らすためには無聊を託っている暇なんてないのである。

2026年1月25日日曜日

障害なのか我が儘なのか分からないんです

  「障害なのか我が儘なのか分からないんです」は、発達障害診療の中で医師が保育者や教師から(時には保護者からも)直接受けることが多い質問です。言葉を素直に受け止めるなら、このような質問には障害と我が儘は明確に異なったものという前提がありそうです。そして、質問者は子供に見られる振る舞いが障害としての特徴なのか我が儘なのかを判断したいのにわからないと悩んでいるようです。障害としての表現なのか我が儘なのかがはっきりしたら、その先どうしようというのでしょうか。おそらく、障害の特徴なら許し助けてあげるけれど、我が儘なら厳しく指導する、くらいのことを考えておられるのではないかと想像します。

 この様な質問をされる方は、国際生活機能分類(ICF)が定義する意味での障害を理解できていない、発達障害特性の連続性を理解できていない、「我が儘」という言葉が何を意味するのか考えていない、のいずれかまたは全てだろうと想像しています。国際生活機能分類(ICF)が定義する障害については、まずは別項(「障害ではなく個性だと考えています」)をご参照ください。一言で言えば、個人の健康状態を基盤とするなんらかの特性と生活環境のミスマッチがもたらす暮らし難さや生活の困難さが障害です。目が見えないとか耳が聞こえないなどの身体的、機能的問題があるかどうかが障害かどうかの境目ではありません。活動や参加が妨げられた状態、すなわち生活することの困難さ、平たく言えば暮らしづらさがあるということが障害と判断できる目安です。

 次に、発達障害の連続性について説明します。多くの発達障害は、その行動や認知の特徴で定義されています。例えば、不注意さ、人の気持ちを読み取ることの難しさ、読字の非流暢さなどです。このような行動や認知の特性は「ある」か「ない」かや(+)か(-)で表せるものではありません。なぜならそれぞれの特徴の程度は連続的だからです。例えば、不注意かどうかを明確に線引きすることはできません。人は誰しも不注意さを見せることがあり得るのですが、世間の目から見れば不注意さがほとんど目につかないように感じられる人もいれば日々不注意だらけに見えるような人もいます。そして、その間には様々な程度に不注意な人が無数に存在するのです。ここからが異常、と線引きすることはできません。となると、不注意さが主たる症状である注意欠如多動症の診断なんてできないではないかと思った方もいらっしゃるかもしれません。一応の目安はあるのです。それは、その不注意さが明確に生活の困難さに結びついているかどうかが境目になります。もちろん、これだってそれほど明確な判断はできません。本人、家族、保育者や教師、そして医師の感じ方に左右される面は必ずあります。しかし「生活の支障になる程度に」不注意だということがその不注意さが障害であるかどうかの判断基準であるということは断言できます。困っていれば障害だし、特別な支援や合理的配慮が必要となるのです。

 さて、「我が儘」とは何でしょう。明鏡国語辞典の語釈は「他人のことは考えないで自分の思うままに振る舞うこと。」となっています。他の辞書を見ても、日常的な使用に関しては似たり寄ったりの説明です。これを子供の能力や行動特性の面から説明できないかを考えてみましょう。「他人のことは考えないで」は他人の気持ちに想像が及ばないことと取れます。つまり、人の気持ちに対する鈍感さを示しています。もちろん、人の気持ちを理解した上で考慮に入れないとも考えられますが、「我が儘」という言葉の持つ子供っぽさからはそういう作為的な印象はありません。もし、理解できていてあえて考慮しないのなら、その振る舞いが結果として自分に何をもたらすのか、自分の社会的立場がどうなるのか、ということが計算できていないと言えます。つまり、先を見通し予測する力が弱いと言えるでしょう。「自分の思うままに振る舞う」ということは、自分の主張を曲げられない頑固さとも取れますし、思いついたことを後先考えずに実行しようとする衝動性とも取れます。抑制能力の弱さで説明できるかもしれません。そして結果としては、これもまた長い目で総合的に考えられる自分の利益の計算ができていないと言えます。

 人の気持ちに対する鈍感さ、思考の柔軟性の乏しさ、衝動性、見通しの悪さ、いずれも自閉スペクトラム症や注意欠如多動症に認められる特徴です。そして、上にも述べたように、このような特徴の程度は連続的です。多少の「我が儘」は多くの人に見られるもので、特に困りません。他者からひどく「我が儘」と見做される場合は、本人の暮らしにくさにつながります。そうなると、本人の力だけでは健康的、建設的に暮らせなくなります。放置して潰せば良いのでしょうか?そんなはずはありません。どの子供も、可能な限り健康的に成長させてあげなければなりません。そう考えると、迷うことなく援助の対象になります。生活の支障になれば、困っていれば障害と考えれば良いということです。

 このように考えてくると、「我が儘」という概念を再定義したくなります。「我が儘」とは大人の側から見た大人の都合で成り立つ言葉だと言えます。大人が正しいと考えるように子供が行動しない、大人が我慢すべきと思うことを子供が我慢しない、ということを表した言葉に過ぎません。子供の立場に立って考えれば、何らかの行動特性や思考の特性から大人から非難され暮らしにくくなっている状況なのですから援助が必要な状態なのです。障害と我が儘を明確に区別できるという考えが、そもそも的外れであり、本質を見えなくしているのではないかと思います。

 さて、結論を言えば、障害でも我が儘でもいいじゃないですか。両者に共通して言えることは、自覚があるかどうかは別にして生活の中で困っている状態だということです。助けてあげましょうよ。世の中には、素敵な世界があるんだということを教えてあげれば良いじゃないですか。

「先生、お言葉を返すようで恐縮ですが」:目次

2026年1月17日土曜日

障害ではなく個性だと考えています

  教師や保育者と発達障害についての話をしているときに、明らかに善意から「障害ではなく個性だと考えています」と仰る方を時々目にします。このような主張をされる人達は障害を個性と言い換えることにどういう意義を見出しておられるのでしょうか。もし、障害という言葉にネガティブな意味付けをし、個性と言い換えることでスティグマから解放しているつもりなら、とんでもない話です。言葉の言い換え程度で救えるものではありません。教師や保育者などの障害を持つ人々を支える立場にある人なら、障害という言葉に差別的な意味をつけることを正面から批判すべきです。障害という言葉を言い換えて安心しているのであれば、その人自身が障害に負の意味づけをしているのではないかと思います。

 そこまで甚だしい勘違いではなく、少しでも前向きな気持ちになって欲しい程度の理由で個性と言い換えているにしても、そこには問題があります。個性という言葉は本来、暮らし辛さや生き辛さを表す言葉ではありません。個性と言い換えてしまうことで、障害がもたらす苦しさを見えにくくしてしまいます。なぜ障害という言葉が公に用いられているかというと、本人には変えることができない暮らしにくさを有する人には社会が援助する必要があるからです。


 現在の障害概念は国際生活機能分類(ICF、上図)で定義されています(厚生労働省、2002)。図4では真ん中に描かれている、心身機能・身体構造、活動、参加の3要素をまとめて ICFでは生活機能と呼びます。人が生活する状態を総合的に表したものです。ICFの定義によれば、生活機能の3つの要素全てが問題を呈している状態が障害です。障害は単に心身の調子が悪い状態のみを意味するものではありません。障害は、歩いたり、食べたり、喋ったりという日常生活の中での「活動」が制限されていることを含んでいます。また、学校や仕事、余暇活動など様々な生活場面や社会への「参加」に制約があることも含んでいます。障害は、日常生活の中で自分一人の力では様々な活動や参加が十分にできていない「状態」を意味しています。つまり、暮らし辛い、生き辛い「状態」であり、人として当然保障されるべき権利が侵害されているのです。そして、その「状態」は本人に固有の特性なのではなく、本人の健康状態と暮らしている環境との相互作用によって決まります。環境を変えることで活動や参加の状態を改善することができるのです。障害を伴う人たちには、生活することの困難さを軽減するための環境の調整が必要です。

 簡単に言えば「困っている」状況が障害なのですから、「それは個性ですよ」と能天気なことを言われても困ります。障害を個性と言い換えても効果がないばかりか、援助が必要な状態であることから目を逸らし、生活の困難さを軽減することを本人の努力に求めてしまうのではないかと危惧するわけです。念のために補足しておきますが、障害を持つ子供やその家族がこういうセリフを言っても全く問題を感じません。あくまで障害を持つ人たちを職業的に支えるべき立場の人たちが口にすることは問題だと考えるのです。

 話が少しそれますが、「どの子供も区別する気はありません」や「子供を区別することなく指導します」と口にする学校園の先生がしばしばいらっしゃいます。「障害は個性です」も、「どの子供も区別する気はありません」も、どちらも障害という括りで子供を分けたくないという気持ちが共通しているように思えます。ただ、私は両者から違う印象を受けます。「障害は個性です」には無知な無邪気さや能天気な善意を感じます。しかし、「どの子供も区別する気はありません」や「子供を区別することなく接します」というセリフには自分の考え通りに人を従わせようという支配欲のようなものを感じます。これは多分に私の個人的経験の影響でしょう。私が経験した、「どの子供も区別する気はありません」や「子供を区別することなく接します」と仰る先生は受け持ちの子供に一律の指導をし、一律の課題に取り組むことを求めます。どれだけ子供本人が困っていても、「自分のやり方」「自分が必要と考えたこと」を押し通そうとされる方ばかりでした。個人的経験を一般化して良いかどうかわかりませんが、現在、私は教師が「どの子供も区別する気はありません」や「子供を区別することなく接します」と口にするのを見ると、おそらく力量の低い先生なんだろうなと判断する癖がついています。

 話を元に戻しましょう。結論を申し上げれば、子供の健やかな成長を支えることを生業としている先生方には困っている子供を際限なく困らせることや、苦しんでいる子を弥が上にも苦しめるようなことに加担してほしくないのです。障害があるということは生活に支障をきたしているのだということをしっかり認識し、必要な支援が速やかに提供されるような環境を構築することに尽力していただきたいと願っているのです。その結果として、子供達が持てる力を十分に発揮しながら日々の生活を楽しめるような環境になったとき、今まで発達障害として捉えられていた特性を文字通り個性と称することが可能となると思います。


「先生、お言葉を返すようで恐縮ですが」:目次

2026年1月4日日曜日

接し方/指導の仕方を教えてください

  思いがけず時間ができたので、本田英美は机に頬杖をついてぼんやりしていた。視線を向けた診察室の窓の外では色付き始めたもみじが風に揺れている。英美が診療している発達障害専門外来は原則予約制で、一人当たりの診療時間が結構長くとってある。毎日隙間なく組み込まれた受診予約に沿って子どもたちの診療をしているのだが、たまに予約のキャンセルがあるとポッカリと時間が空いてしまう。こういうぼんやりしている時には得てしてあまり面白くない記憶が蘇ってくる。今日の英美は先週参加した学会での出来事を思い出していた。その学会で、英美は注意欠如多動症患者を対象としたワーキングメモリ検査得点と薬物治療との関連について検討した研究を発表した。時間内にプレゼンテーションを終え質問タイムになった時、演台に近い前方の席に座っている男性が手を挙げた。立ち上がりマイクへと歩む男性を見て、英美は見覚えがある顔だと気づいた。発達障害を専門とする臨床家や研究者なら知らぬものはいない大物である。自ら臨床に携わりながら子供の認知科学的研究でも多くの業績を上げているこの分野での権威である。男性はゆっくりとマイクを握り、穏やかな微笑みを浮かべながら口を開いた。「素人質問で恐縮なのですが...」。その言葉を聞いて英美はぞっとした。学会場で権威のある学者が口にする「素人質問で恐縮なのですが...」が本当に素人質問であることなど滅多にない。自分が最も力を入れて研究している分野とずれていますが、程度の意味であり、むしろ自分が興味を持つ領域だから食いついてきていることが多い。事実、この時に英美に投げかけられた質問は簡単に答えられるようなものではなく、彼女は脂汗を流すことになった。

 「本田先生」、苦い記憶に浸っている時に診療所スタッフの吉川鉄子に声をかけられ、英美はハッとして振り向いた。「健太くんのお母さんと小学校の担任の先生がいらっしゃいました」と鉄子が告げる。健太くんは注意欠如多動症の小学生である。可愛らしい子なのだが、何しろ集中力が続かないし、思いついたことをすぐに行動に移してしまう。おまけに多少読字の拙さがあるため文章を読むことが苦手で、特に国語の時間は今何の説明をされているのかわからなくなることがしばしばある。そのため、授業中に離席したり、隣や前の席の子供に話しかけたり、時にはイライラして突然叫んだりする。すでに数年前から時々相談に乗っていたのだが、この日は担任の教師が医師に直接話を聞きたいと強く希望したため、母親と一緒に来院することになったのである。

 2人を診察室に招き入れ、椅子を勧める。内心、ちょっと失礼かもしれないなあと思わせる程度に古くて薄汚れた椅子なので、少々気が咎める。しかし、綺麗な調度品を揃えるほど潤沢な予算はないので仕方がない。すでに馴染みの母親はリラックスしてすんなり座った。それに続いて担任の先生も椅子に座ったが、慣れぬ場で緊張しているのか硬い表情だ。英美は、2人が椅子に座ったことを確認してから担任の先生に顔を向け、「今日はどのようなご用件でしょうか」と質問した。間髪を入れず「今日は健太くんにどのように接すれば良いのか、どのように指導すれば良いのかを教えていただきたいと考えやってまいりました」と担任は口にした。一瞬、英美の脳裏には先週の学会で英美に質問した学者の顔が浮かび上がった。いったい何を言っているのだろう。教師が医師に、よりにもよって指導の仕方を尋ねるなんて。学会場で耳にする「素人質問で恐縮なのですが...」みたいなものではないか。だが、担任の先生の顔は至って真剣である。学会で質問した権威のような余裕に満ちた表情ではない。元々生真面目そうな先生に見えるが、英美に対しても真面目に真剣に質問しているようなのだ。

 実は英美が教師や保育者からこのようなセリフを聞くのは今回が初めてではない。というか、何回聞かされたか覚えていない程度には何度も経験している。このような質問をされるたびに英美は、教師や保育者が医者に子供の指導方法を教えてもらおうとして良いのか?それが許されるのなら医師が教師に病気の治療法を教えて欲しいと相談しても許されるのか?そうなのか?と叫びたくなる。もちろん本当に叫んだりはしない。何しろこの道20年のキャリアである。どんな質問を受けても涼しい顔をしていられるだけの自制心は身につけている。それどころか、発達障害を専門に診療していると必要に迫られて色々な付け焼き刃の知識だけは膨らんでいるので、一見それらしい返事をすることさえできるようになっている。しかし、教師としての職歴はないし、教育学を本気で勉強したこともない。自分の説明が本当にそれで良いのか自信がない。一見涼しい顔をしながらも、このような、立場が逆転しているだろうと言いたくなる質問を受けるたびに心の中に割り切れない思いが満ちてくるのである。

 今日も英美はまずまず無難なことを説明し、健太くんの担任と母親はそれなりに腑に落ちた雰囲気で帰っていった。2人の姿が診察室のドアから出て行き見えなくなると、英美は溜め息をついた。「どうしました、浮かない顔ですね」と後ろから声がする。スタッフの鉄子である。鉄子はその名前に似合わずふっくらとした顔をしているし、物言いも優しげである。なぜ鉄子という名前になったのだろう。父親が製鉄会社の社員か大の鉄道ファンだったのかもしれないと英美は想像したりもするが、本当のところはわからない。

「また言われたよ、どのように指導したら良いか教えてくださいって、教師にだよ」と英美は愚痴った。

「あらあら、ぷんぷんせずに教えてあげれば良いじゃないですか」と鉄子。英美が10年前にこのクリニックで働き出した時にはすでに鉄子はいた。長年の付き合いのせいか、英美のことはその時々の気分まで鉄子は鋭く見抜いてしまう。

「だって、子供を指導するなんて、あっちの方が専門家でしょ。なんで医師にそんな質問ができるのかなあ」

「確かにそうですね。なんでなんでしょうね」

「うーん、よくわからないなあ。発達障害は『障害』なのだから明確な異常がある病気と感じているのかなあ。そう感じているのなら、医者だけが正しく診断し、適切な『治療』や『処方』ができると考えているのかもしれないけど」

「あ、そうかもしれませんね。発達障害といえばどうしても診断という話になりやすいし、医者が診断するものなら医者が治療や対処も考えられると思っている可能性はありますね」

「それは誤解なんだけどなあ。医者は教師としてのトレーニングを受けたことなんてないんだから。それに、発達障害に見られる特徴は正常の人には見られない特殊な異常なんかではなくて多くの人に見られる行動や認識の仕方のバリエーションにすぎないよ」

「先生、いつもそう言ってますね。そのことを理解していれば、指導方法や接し方なんて経験を積んだ教師や保育者なら日常の業務でしていることから発展させれば対応できそうですけどね」と鉄子。鉄子自身、以前は発達障害の子供は普通の子供とは違う独特の異常を持っている子供たちだろうとなんとなく考えていた。しかし、英美と一緒に働き出し、実際の子供達に接しながら英実から発達障害の説明を詳しく聞くうちに、以前考えていたことは誤解だったということを実感として理解できるようになった。発達障害と言われる子供は「正常」な子供とは明確に区別される「異常」があるのではなく、人としての行動パターンや物事の認識の仕方のバリエーションの範囲内にいる子供たちにすぎない。実際、診察室で出会う子供たちは決して想像を絶するような存在ではない。

「そうなんですよねぇ。教育や保育の専門家がわざわざ医者に質問するようなものではないんだけどなあ」

「でも先生、そうは言いながらもいつも説得力のある助言をされているじゃないですか。少なくとも、先生の返事を聞いた教師や保育者の皆さんは納得したような表情で頷いていますよ」

「そりゃあね、素人なりに勉強しましたもん。相談を受けるたびに、困りましたねぇ、で終わってたら格好つきませんものね」

「確かに。私がいうのもなんですけど、お医者さんって割と見栄っ張りというか、わかっているような態度を取りたがりますものね」

「ん?腹立たしくも鋭いご指摘、ありがとうございます。まあ、発達障害の診療に関連する書籍を読み漁りましたよ。応用行動分析の本には本当に助けられたなあ。読字障害や算数障害の本も目に付くものがあれば買って読むし。おかげで、『わかっているような態度』でものが言えるようになりましたよ。でもね、私自身が子供を教育指導したわけではないから、本に書かれていることの良し悪しを経験的に判断することはできないんですよ。ものを言いながらも、本当にこれで良いのかなあという疑問が常に付き纏う」

「教師や保育者たちが、先生が読んできたような本を読めばお医者さんよりももっと実践的な知識を得られそうですね」

「本当にそう思う。教育や保育を実践している専門家が関連する書籍を読めば、そして、そうすることで得られるノウハウをお互いに伝え合えば、医者なんぞが口を挟む余地もない大きな成果を上げると思いますよ。実際、そのように実践されている先生方もいることはいますよ。個人的にも知っていますし」

「教師が医者に指導方法を尋ねるのは格好悪いという意識がもっと広まると良いですね」

「本当にそうですよ。でもね、教師や保育者の先生方の立場に立つと同情してしまう点も多いんだなあ」英美は眉をひそめながら言う。

「どうしてですか?」診察室の窓のブラインドを下ろしながら鉄子は尋ねた。

「おそらく彼らは、子供の年齢ごと、学年ごとに一律の目標を持って指導することを求められているみたいなんですよ。特に、小学校以降の教科教育は基本的には学習指導要領に沿って教えなければいけませんからね。だから、学年ごとに期待される『子供像』を前提にした指導には慣れているのだけど、平均的な子供からはずれた特徴を持っている子供への指導技術には通じていないように見えますね。先生なんだから個々の子供の特徴に合わせて理想的な指導をするべきだ、って主張されても戸惑ってしまう先生が多いのではないかなあ」

「おやまあ、それは気の毒ですね。といって、医者に指導方法を聞きにくるような状況が良いとも思えないし、大体診察室でサラッと総論的な説明をされても現場で実行するには色々難しさもあるかもしれませんね」

「その通りだと思いますよ。先生によっては、医者の話を聞きながら『現場のことをわかってないなあ』と内心イライラしているかもしれませんしね」

「どうすれば子供達が救われる状況ができるのかなあ」

「私は、そもそも発達障害支援の仕組みを医療ベースで考えることは間違っていると思うんですよ」英美は机の上の鉛筆を突っつきながら言った。

「というのはどういうことですか?」

「発達障害支援は基本的に生活支援ですからね。学校や保育所などの子どもたちの生活環境が暮らしやすくなることが根本的に目指すべきことですからね。これは医療の手に余る。やはり、教育や保育自身が発達障害児を受け入れるキャパシティを増やさないといけない。そのためには行政のシステムとして教師や保育者を援助する仕組みが必要だと思いますよ。先生達からの相談を受けたら専門的な知識を持ったスタッフが現場に赴き、教師や保育者に助言をしながらその取り組みが成果を上げるところまで確認するような制度ができるといいんですけどね。そのような組織的な取り組みの中で医学的な知見も必要ということであれば私たち医療者が協力すればよいし」

「それはもっともな意見ですねえ。でも、行政の上層部や政治家がこういうことに理解を持たなければなかなか実現しないかもしれませんねえ。あ、診療時間が終了しましたよ。お昼ご飯を食べに行きましょう」

「そうですね。鉄子さん、お供いたします」

「今日の私のお弁当には、先生が褒めてくれた卵焼きが多めに入っていますよ」

「ごちになります」


「先生、お言葉を返すようで恐縮ですが」:目次